石田三成・島津竜伯連署書下
慶長三年五月廿二日 / 冊子 211~212頁
石田三成と島津義久が上方の算用所運営について定めた連署書下。用事のない者や自分の算用を持たない代官の出入りを禁じ、呼出しに病気・他行を理由として遅参した者には知行高に応じた過怠銭を科すこと、算用中の悪口・軽率な振舞いを処罰すること、算用場の食事を一汁一菜とすること、万物奉行の下知に従うことなどを命じる。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
63 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 2
慶長三年五月廿二日 / 冊子 211~212頁
石田三成と島津義久が上方の算用所運営について定めた連署書下。用事のない者や自分の算用を持たない代官の出入りを禁じ、呼出しに病気・他行を理由として遅参した者には知行高に応じた過怠銭を科すこと、算用中の悪口・軽率な振舞いを処罰すること、算用場の食事を一汁一菜とすること、万物奉行の下知に従うことなどを命じる。
慶長三年五月廿二日 / 冊子 212~213頁
石田三成と島津義久が上方での会計手続きを列記した連署覚書。薩摩から上る米の大坂での受取・売却、算用聞の切手、売却代金の義久への送付、呉服・作事方の買物、摂津・播磨知行の免目録、口米、台所の飯米・塩噌・炭薪油などを規定する。算用聞四人が三か月ごとに帳簿を監査し、帳目録を作らない場合は知行物成の五分一を没収すると定める。
慶長四年六月三日 / 冊子 389頁
伊勢貞昌が入田左馬入道に、孫右衛門尉を介して伝えられた件を披露したところ御感を得たと報じる。忠節を尽くす者があれば取り立てること、御前への披露以外は知る者のない件なので隠密に扱うことを求め、後日の証拠として関係する二人にも書付を送った旨を伝える。
(慶長四年)十二月十七日 / 冊子 476~477頁
伊勢貞昌が薩州少将の側近へ、孫右衛門から承った縄瀬の番手について、入来院殿へ老中の使者を立てたが、その後の決着が分からないため様子を問う。玉薬三百放を先に送り、鉄炮は鹿児島から追送すると知らせる。本来は陣所へ参上すべきところ、まず龍伯のもとへ赴くため、濱之市から改めて参上するとし、上方は平穏なので安心するよう伝える。
年月日未詳 / 冊子 655頁
住吉に残った供衆が田那辺屋道与への相談を検討し、もし公方へ密告すれば道与を討って義弘が切腹すると決めた。道与は義弘の生存を喜び、自宅へ迎えて薩摩まで送ると申し出た。船を持つ塩屋孫右衛門も協力し、逃走用の船を手配した。
年月日未詳 / 冊子 660-661頁
関ヶ原敗戦後、島津義弘(惟新)は約五十人で敵中を突破し、十五日夜に甲賀で老翁を道案内に立てた。伊賀・上野を経て村人の襲撃を退け、十七日に奈良、同夜に堺へ着いて入江孫右衛門宅に入り、船で脱出した。大坂から田辺道与が逃した夫人らとも沖で合流し、九月二十三日には日向沖の海上に現れた多数の火を稲荷大明神の加護と受け止め、二十五日に鹿児島へ帰着した。後に大坂・堺の協力者や案内人へ褒賞を与えた。
年月日未詳 / 冊子 662-663頁
関ヶ原敗戦後、伊勢平左衛門から島津義弘(惟新)の所在を聞いた今井道与は、住吉辺に潜む義弘を迎えて自宅で休ませ、厳しい落人改めを避けて夜に堺の塩屋孫右衛門宅へ移した。大坂川口の通行手形や船を手配し、義弘の船と夫人方の船を沖で合流させて帰国を助けた。この忠節により後に千石・無役を約されたと訴える願書である。
(寛永九年)七月六日 / 冊子 292~293頁
島津久元が、家久の指示を谷山孫右衛門尉・国分帯刀長に伝えさせ、帯刀長の馬の件を処置するよう命じた書状。併せて、肥後の有力者が剃髪して退去し熊本城が無事に渡される見込み、肥後への諸国衆の動員・人質や家臣配置、伊勢貞昌の病状と後任・奉公人選、惟新供衆の名簿などを詳報した。
十二月十五日 / 冊子 151頁
伊勢貞陸が島津豊後守に、渡唐船に関する忠節について池水新左衛門尉から注進があり、上聞に達したところ神妙で感賞すべき旨が示されたと伝えた書状。相手の面目を祝し、詳細は潮口孫右衛門尉が申し伝えるとする。
年月日未詳 / 冊子 279頁
『島津義弘譜』の記事。慶長三年、日本から渡海した上使の徳永法印式部卿・宮木長次郎が、在陣諸将へ十一月十五日を期限として一斉に帰帆するよう命じた経緯を記す。ところが順天城の小西行長らは明・朝鮮の大軍に海陸から包囲されて退去できず、和議を結び、人質を行長に渡させたことで、諸将とともに順天を離れて釜山浦へ退いたとする。
年月日未詳 / 冊子 705-707頁
大重平六の覚書から、関ヶ原敗戦後の島津義弘(惟新)の敵中突破、駒野・伊賀・信楽を経た退却、住吉・堺での潜伏と出船を記す。横山休内は義弘の鎧を着て持ち帰り、本田源右衛門らは危機に際して身代わりを申し出た。海路では豊後沖で船団に被害が出たが、義弘は細島・佐土原・八代を経て十月三日に帖佐へ帰着した。
正徳二年十二月廿五日 / 冊子 66~67頁/整理ID 149
島津仲休が大嶋孫右衛門に、又三郎へ差し出す使者の取り次ぎを依頼し、口上書と書付を渡す手順や関係者への伝達を指示する副状。
寛政5年4月24日(年次はNo.200の一件・配列による) / 冊子 60~61頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0002
橋口與三次が谷村孫右衛門へ、中根半平の息女を島津伊賀の養女とする手続について、掛け合いの経緯と届出の済んだことを報告する首尾書。大奥奉公中の息女から早く支配頭へ届けるよう半平へ求めがあり、半平が橋口へ手紙で照会した。橋口は以前の示談を知らなかったため伊賀へ照会し、前年に御廣鋪御用人小嶋甚兵衛を介して承知を得ていたことを確認して、発駕前の取結びを半平に伝えた。半平は4月23日、支配頭への届書が済んだ旨を知らせた。橋口は半平から来た届出の書面と別紙三通の文通を添え、4月24日付で谷村へ申し出る。支配頭への届出という振合以外に別の手続を要しないとの説明も記す。これに続く養女の名目・贈答に関する「追而」は、原本では附書「の3」の標示の下に載り、次の届書案文の前に続いている。
文化7年4月(正文)。包紙同年4月廿七日受渡 / 冊子 351頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1089
白木御文書七番箱49番。寛二郎が今日、嶋津若狭(忠貫注)の養子に仰せ付けられたので、その旨を帳面に記しておくよう御記録奉行へ命じる。4月、安房(島津久備注)署。包紙は文化7午4月廿七日、興倉孫右衛門へ渡し、白木御文書七番箱に収納と記す。正文の4月・今日と包紙27日を別に保持し、寛二郎の出生家や実父・実母を外部から補わない。
年月日未詳 / 冊子 646-647頁
駒野で島津義弘(惟新)が花色の木綿衣を着け、同色の手拭で髪を包み、矢野主膳が用いた鞍に敷き替えて馬に乗ったことを記す。伊勢平左衛門が先導し、山間の道を夜通し進んで住吉へ至った。大坂屋敷にいた相良日向・吉田美作入道・新納孫右衛門・上原右衛門佐らも船で兵庫へ追い付き合流した。
正徳元年九月十三日 / 冊子 990–991頁/整理ID 3192
大嶋孫右衛門が市来次郎左衛門へ、薩摩守の大坂川筋通船時に旧例どおり他船を除けるよう町奉行所に申し立てた経緯を報告する。大津屋勘兵衛と唐金屋助九郎に照会し、差図・書状の写しを添えて、今後の船年寄・町奉行への申渡しを求める。
正徳元年十一月三日 / 冊子 991–993頁/整理ID 3193
十一月三日、大島孫右衛門が御用人衆へ、七月の大坂川筋船除について調査経過を報告する。町奉行の申付けは川方役所の帳面に残る公の扱いで、船奉行からの船除は内証で船手・家来が行うとの違いを、若林新五兵衛・羽津元右衛門らの説明から整理する。城代土岐伊予守への照会、町奉行二人への挨拶と紗綾・縮緬十巻宛または年頭等の金馬代、川奉行四人への銀一・二枚、若林への謝礼案を述べる。礼物の案について協議し、御用人衆を通じた披露を求める。
天明7年未2月家督礼の事例、同年4月の例書 / 冊子 364頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0084
1136に続く印刷の1、例書。天明7年未2月、同氏修理大夫(島津斉宣注)の家督御礼を申し上げた際、御目見が決まっていた家来の鎌田愛太夫が病気であったため、谷村孫右衛門を代りに出す旨を届出て召し連れたところ御目見を仰せ付けられたと記す。4月の表示。今回の右近病気代人願の参考に付けた過去例として採録し、今回の伊勢雅楽が御目見を許された結果へ置換しない。
年月日未詳 / 冊子 168頁
慶長十三年、新納忠元が年頭祝儀のため加治木へ参上し、八月には家久へ月毛の馬を献上した。家久は帷子三領・酒二樽を与え、忠元の長年の武功と忠勤を称賛して、八十三歳の老齢をいたわったことを記す勲功記。
正徳元年七月十二日 / 冊子 988頁/整理ID 3187
七月十二日、大島孫右衛門が船奉行石川四郎左衛門の家老・猪瀬喜内と鈴木弥市右衛門へ、吉貴が帰国暇を得て近日到着するので、大坂川筋通船時に以前のように船除を行ってほしいと願う。一昨年の帰国は陸路で、前年参府時は願い出なかったが、船が入り込んで危急を感じたという。
正徳元年十二月廿九日ほか / 冊子 993–995頁/整理ID 3195
十二月二十九日、大島孫右衛門が御用人衆へ、大坂川口船除の謝礼を調整し、使者を立てて贈った品と返答を記す。町奉行北条安房守・桑山甲斐守へ各紗綾十巻・干鯛一箱、船奉行石川四郎左衛門へ紗綾十巻・干鯛一箱、川奉行四人へ銀二枚宛、同心八人へ一部分金一切宛、若林新五兵衛へ銀三枚を挙げる。家老・用人等の人数も示す。正徳二年三月に島津帯刀が、今後の通船の格式として記録方から帳の写しを江戸家老座へ渡し後代に残すと追記する。白木は品を載せる受台・容器の注記である。
寛政4年12月5日(年次は朱注) / 冊子 42~43頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0142
本多忠籌が重豪の書状を披見し、将軍・若君の安否と、帰国御暇・御羽織拝領への御礼を承知したと伝える書状。公方様・若君様はますます機嫌よく、重豪が御暇と御羽織の拝領を重ねて有難く思っている旨を受け止める。国許到着後の御礼として谷村孫右衛門を通じて目録どおりの品を献じ、披露したことについて、書状の趣旨を承知したと述べる。12月5日付、本多弾正大弼忠籌の署名、松平上総介殿宛で、年次は朱注による。本文は献上品の具体的な数量を記さない。
寛政4年12月5日(年次は朱注。登城指定は翌6日四時) / 冊子 43頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0143
谷村孫右衛門を翌6日の四時に御城へ差し出すよう、松平豊後守殿の留守居に通知する短い書状。12月5日付で、署名表示は戸采女。目録は戸田氏教書状とし、年次は朱注による。谷村の登城時刻を指定したもので、本文には登城後の拝謁や献上の結果は記されない。
寛政4年12月6日(年次は朱注) / 冊子 43頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0144
重豪の帰国御暇・御羽織拝領への御礼献上に返答する老中四名の連署状。重豪の書状を披見し、公方様・若君様はますます機嫌よく、重豪が御暇と御羽織拝領を重ねて有難く思っている旨を承知したと述べる。国許到着後の御礼として谷村孫右衛門を通じて縮緬五巻と樽肴を献じ、披露したところ、谷村は御前に召し出され、その念入りな勤めを喜ばれたと伝える。12月6日付で、戸田氏教・松平乗完・鳥居忠意・松平定信が連署し、松平上総介殿に宛てる。年次は朱注による。
文化8年4月廿日(正文月日・附包年)。前年例:天明7年 / 冊子 363~364頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1136
白木御文書七番箱55番。川上右近が病気で、御暇礼に際して代りの伊勢雅楽を御目見させたい件。昨日19日の御暇礼に関連し、留守居が別紙を御用番土井大炊頭の御勝手へ持参し内見したが、正式の願書提出は示されず、用人木次傳四郎へ出すよう言われた。先例書を求められ、病気で御目見しない場合は献上品も流れ、例書は返却し名札のみ出す扱いだと留守居が聞いた。家老の病気代人例を出したが、今日は城内で検討中で、明日の御目見・御礼について上聞したものの、先格が往々の差障りとなること、内々に調べても余り気の毒で正式に太守へは伝えず、極内で留守居に相談する趣旨を記す。西丸老中松平能登守にも右近の病気を届け、了承を得、上田右の取次からも承知と知らせた。参府礼の家老二人中一人が病気だった先例として、天明7年の御隠居様家督礼で鎌田愛太夫(政誼)が病気となり谷村孫右衛門(純璋)を代人とした例を挙げるが、今回の急な病気・往来の差障りとは取扱いが違うため、留守居らにも調べさせたと述べる。極内の相談は先方にも申し合わせてあり、事情を見て内意を尋ね、手抜かりなく計らう旨で結ぶ。4月廿日、鎌田典膳政與署、将監久泰・安房久備・信濃久喬宛、添書2通あり。御目見許可が実現したとの結果は本文になく、正式手続と内々の照会・未決状況を分ける。
文政5年3月2日昇任/3月9日献上(年は配列) / 冊子 614頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1841
重豪公御譜。三月二日、御臺様が従三位から従二位へ昇任し、御簾中が従三位に叙されたと記す。九日、重豪は物頭町田平實盈を本丸へ遣わし、大家へ二種・五百疋を献じた。物頭中村黑人義祇を西丸へ遣わして儲后へ同じ二種・五百疋、留守居助本田孫右衛門親惠を本丸へ遣わして御臺様へ二種・五百疋、留守居助町田孫太夫俊智を西丸へ遣わして御簾中へ二種・五百疋を献じた。實盈・義祇は使番、親惠・俊智は馬廻として江戸在勤中で、当日は仮の物頭・留守居助を務めたとの注を持つ。各位階を祝い、斉興・斉宣も献物に差があって各譜に載せると結ぶ。御臺様の位階はNo.1837の「従二位→従一位」と異なり、両方を残して留保する。入力の「従二位昇任」は本文の前後の位階を併記し、二種の品目や五百疋の単位を両へ換算して補わない。
元禄15年4月14日(目録) / 冊子 361~362頁/原整理番号 30-1
代参の先例を記す短い書付から始まる。続く記事は、弘法大師作と伝える五指量愛染王像の損傷を大乗院畳雲が訴え、綱貴が仏師田中孫右衛門に修補を命じた経緯を記す。
正徳元年七月十八日 / 冊子 989頁/整理ID 3189
七月十八日、大津屋勘兵衛が大島孫右衛門へ、吉貴の当地到着と川口入津・出船に際し、仲間で船除をして乗船に支障のないようにする旨を町奉行所から命じられたと伝える。今後は出船日時を早めに知らせてもらい、その都度内意を伺いたいと頼む。
正徳元年七月十八日 / 冊子 990頁/整理ID 3191
七月十八日、羽津元右衛門が大島孫右衛門へ、吉貴の当津到着を喜び、川口で船除を行う旨を廻船年寄にも申し渡したと報じる。出船日時は年寄から問い合わせるので承知してほしいと述べる。今年初めての申付けであり家老から奉行所への立寄り挨拶を内々に勧める。朝鮮正使・従事の船は五日に対馬佐須奈浦へ着き、副使船は遅れて未着で、大方来月十日頃に当津着岸の見込みと伝える。
正徳元年十二月六日 / 冊子 993頁/整理ID 3194
島津将監久當が大嶋孫右衛門へ、大坂川筋の船除を進めた町奉行側の者への御礼や進物をどう扱うか、十一月三日付の書付を受けて尋ねる。若林新五兵衛らへの銀子三枚・二枚や、町奉行・川奉行の人数に関する申出を挙げ、相応の取扱いを検討するよう伝える。
〈寛延元年〉九月九日(記事起点) / 冊子 105~106頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0305
家重の将軍職継承に対する琉球慶賀使の参府を記す。継豊は病気のため江戸に留まり、延享三年に家督を継いだ宗信が代行する旨を執政酒井雅樂頭忠知へ申し出て、許可された。中山王尚敬は慶賀正使具志川王子と副使與那原親方を薩府へ遣わし、寛延元年九月九日、宗信は正副使と従者九十八人を率いて薩城を出発した。島津兵庫久門、番頭格入來院石見定勝、家老鎌田典膳政昌、側用人本田孫右衛門親房、近習役澁谷喜三左衛門貫通・二階堂林左衛門行通・福山平太夫安都らが同行し、家老平田掃部正輔、用人有川幸右衛門貞利、近習役堀堀右衛門貞起らが使節を監督した。十一日に向田の仮館へ着き、十四日に琉球使・琉人監官・諸有司が久見崎港で乗船した。
〈寛延二年〉十一月十五日〔原本文〕 / 冊子 217~218頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0613
寛延二年十一月十五日、久門(重年)が執政の奉書に従って登城し、白書院で家重へ、襲封の御礼として太刀一腰・御刀一腰・縮緬二十巻・白銀百枚・馬二匹を献じた。永井伊賀守直陳が奏達し、久門は大納言家治にも御礼を申し上げ、尊詞を受けて退席した。その後、再び召されて敷居内へ進んだ。 宗族の島津木工久篤、家老の島津矢柄久富・伊勢兵部貞起・島津主鈴久郷は、それぞれ太刀一腰・馬代白銀一枚・縮緬五巻を献じた。番頭高橋七郎右衛門種辰、用人の宮之原甚五兵衛通興・本田孫右衛門親芳・財部孫之丞盛興、伊集院十左衛門久東は、それぞれ太刀一腰・馬代白銀一枚・縮緬三巻を献じて拝謁した。これらは当家の先例によると記す。 久門はさらに西城へ登り、大岡越前守忠宣の取次ぎで前大樹吉宗と家治に襲封の御礼を申し上げた。両公にはそれぞれ太刀一腰・御刀一腰・白銀百枚・馬一匹を献じた。家臣九人も随行し、執政・副執政各位の邸で御礼を申し上げた。また本営の老女へ白銀三枚ずつ、表使へ二枚ずつを贈り、このほか執政・諸有司・親戚・知己へ太刀・絹帛・酒肴等を贈って謝礼した。 冒頭に「全御譜中」。献上刀剣には銘・寸法や代金、馬には裸背の注を付す。
〈寛延四年〉九月十九日 / 冊子 329~330頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0974
九月十九日、家重が重年の襲封後初の帰国を祝い、安否を問うため佳肴一種、鮭十尺を賜った記事。老中本多伯耆守正珍が江戸留守居山澤小左衛門盛福を自邸に呼び、老中宿次奉書と驛路證印を渡した。比志島孫左衛門國泰・谷山孫右衛門通音、歩士三人・軽卒六人が警衛して同日芝邸を発ち、東海・山陽・西海路を昼夜休まず進み、十月十五日に薩府城へ着いて重年が拝戴した。同日、山本利兵衛秀命・調所八左衛門恒堅が重年の謝書と驛路證印を携えて執政へ赴き、軽卒六人も従った。重年は一門島津周防忠紀を謝恩使とし、継豊も物頭中江九衛門員張を同行させた。秀命・恒堅らは西海・山陽・東海道を経て十一月十一日に江戸へ着き、山澤盛福の案内で武元へ重年の報翰を呈し、正珍の證印を返納した。忠紀は九州の駅路から豊前小倉、大坂、東海道を経て十八日に芝邸へ着き、二十一日に酒井忠寄へ家重宛の連署、秋元凉朝へ家治宛の連署を届け、西尾忠尚へ両公宛の格書と書状を渡した。十二月朔日、忠紀は白書院で重年の献物二種・雙樽を家重へ献じ、家治にも謝恩を伝え、松平周防守康福が奏達した。忠紀自身も太刀一腰・馬代白銀一枚・紗綾二巻を献じた。続いて西城で朽木土佐守玄綱を奏者とし、重年の献物一種・雙樽と、忠紀自身の太刀一腰・馬代白銀一枚を献じた。十二日に召されて登城し、檜之間で武元から回翰を手渡され、紗綾三巻を拝領した。青山因幡守忠知が奏達し、十三日には西城で武元から、十八日には西尾忠尚の邸で回翰を受けた。二十九日に芝邸を発ち、東海道を経て翌三月二十五日に薩府へ帰り復命した。
宝暦十年六月二日 / 冊子 782頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2397
家重が六月二日、継豊の隠居祝いに若年寄酒井石見守忠休を芝邸へ遣わし、宝刀一振と箱肴一種を賜った。重豪が接待し、桂長左衛門勝行と大島孫右衛門有情が、歩士二人・軽卒四人を伴って品物を薩摩へ護送した。一行は六月八日に江戸を発ち、東海道・山陽道・九州を経て七月七日に到着した。継豊は即日、使者の書状で礼を申し述べ、老中が奉書で返答した。
安永二年癸巳四月十五日 / 冊子 368~369頁/原整理番号 1035/整理ID 1035
聖堂の棟札。「従四位上中将源朝臣重豪造立」と記し、「上棟 宣成殿」、安永二年癸巳四月十五日と示す。総営の家老は嶋津左中源久金・樺山左京藤原久智。助造として、入徳門及び座之間は琉球国中山王尚穆、仰高門及び供屋外繋は島津因幡源忠温、講堂及び打座は島津筑後藤原久倫、文庫及び張番所は種子島左内平久芳を対応させる。監事の組頭用人兼務に小松相馬平清行、用人に藤野休左衛門藤原良記、近習役に村橋左膳源久昌、使番記録方に山田司平明遠、普請奉行に児玉早之丞藤原實門を記す。記録奉行は伊集院六左衛門藤原兼尚・川上正右衛門藤原親芳、細工奉行は本田新右衛門藤原親方、記録方添役は向井新兵衛惟宗友相・川田来栖源國風。さらに郡山主右衛門藤原員良・山本傳藏建部常行、谷元六兵衛藤原延貞・郡山権藏藤原長矩・上野善兵衛藤原篤祐を、間船方受込格・問學方の見出しとともに列記する。総大工は山崎傳次郎菅原安詮・松山孫右衛門藤原為央。造立者、上棟の建物・年月日、総営、建物別助造者、造営を担当した諸役を配置によって示した棟札の写し。正文は聖堂方にある。
安永四年十一月十三日 / 冊子 475頁/原整理番号 1309/整理ID 1309
安永四年十一月十三日の代初犬追物稽古手組と記し、上手組の名簿を示す。名簿の列記順は嶋津又六郎(二の付記)、入来院隼人、嶋津権十郎(一の付記)、蒲生正左衛門、肥後太郎右衛門、瀬川作平次、上村休之進、海江田半蔵、本田孫右衛門(一の付記)、伊勢亘、嶋津内膳である。検見・喚次欄には川上十郎左衛門、岡元千右衛門を記す。名簿の掲載人名は11枠で、検見・喚次欄の二名は別に保つ。一・二の付記は一疋・二疋を示す。付記のない者もいる。
安永四年十一月十三日 / 冊子 476~477頁/原整理番号 1312/整理ID 1312
論之犬稽古手組之事と安永四年十一月十三日を記し、論之犬稽古手組の名簿を示す。名簿の列記順は嶋津又六郎(一の付記)、嶋津十太右衛門(一の付記)、本田孫右衛門、喜入休兵衛、鎌田源八、後醍院八郎、嶋津彌市郎、倉山藤覺(一の付記)、蒲生正左衛門(一の付記)、川上四郎(一の付記)、嶋津又七郎(一の付記)、西左太郎(二の付記)である。検見・喚次欄には川上十郎左衛門、相良仁右衛門を記す。名簿の掲載人名は12枠で、検見・喚次欄の二名は別に保つ。末尾の包紙には安永四年未十一月十三日、代初稽古大追物の手組四通を帯刀殿から渡され、写し置いたことを記す。また白木御文書五番箱と百十中ニアリとの所在記載があり、箱の後の八/ハに見える字は原記載として留保する。
寛政5年4月晦日(年次はNo.200の一件・配列による) / 冊子 60頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0001
菱刈大炊が家老四名へ、中根半平の息女を島津伊賀の養女とする取結びの成立と、その後の処置を報告した書状。半平は武田河内守支配の小普請で、娘は大奥に召し仕えている。前年に御廣鋪御用人から半平へ示談して承知を得ており、当年の発駕前に取結びを済ませるよう橋口與三次が掛け合った。4月18日に伊賀側が願書を出し、半平も支配頭へ届け、21日に伊賀の願が認められ、23日に娘を差し遣わす旨の届書が済んだという。大奥での取計いによる養女の名目なので、両家間の音信・贈答は行わないと当初伝えていたが、表向きの祝儀として伊賀から半平へ一種三百疋を贈るよう御使番が吟味して申し上げ、その通り命じられた。谷村孫右衛門から御内用を通じて承知し、御記録奉行へ書留を命じ、届書案文・橋口の申出・書付など四通を添えて送ると記す。4月晦日付、菱刈大炊署名、四家老宛。
寛政5年丑5月14日(本文。年次は一件による) / 冊子 113~114頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0025
清七夫妻と佐野父子への処置を、主計(二階堂行智注)から谷村孫右衛門取次で伝え、橋口與三次宅へ呼び出して桑山が申し渡した書付写。清七夫妻・善次郎父子はいずれも難有いと請礼したと記す。清七と妻には当分の容として高輪御下屋敷御借店裏明地に家を造り、住まわせる命令を示す。家作は自分調いとし、清七に年々金27両、但し15人扶持・米27石の賦とする注、妻に年々金30両を下す。申聞きを含む取扱いは御留守居、家作造立等の吟味は承向へ指示する。丑5月14日という記事日付と、命令末尾五月・主計署を伴う。前附書の処置案から、具体的命令と受命後の請礼へ進んだ段階である。
寛政5年丑7月13日(本文。目録は23日) / 冊子 114~115頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0027
先の命令で清七夫妻へ年中御給金30両と御扶持米代金27両を下し、高輪御下屋敷御借店裏明地へ召し置くことが決まっていたところ、家ができたため勝手次第に転居するよう伝え、本日家内全てが移転を済ませたと桑山甚助が報告する。今後の居所については借店同様に扱い、御留守居付役から差引きをするよう命じたことも清七へ伝えたと記す。丑7月13日付、桑山署名、橋口宛。次頁に橋口が右の通り桑山からの申出を上申する同日書付を付し、朱注で谷村孫右衛門取次による差出しとする。目録345の19は7月23日だが、記事首・本書・橋口上申は13日なので本文日付を採り、差を留保する。
天明七年正月二十九日・二月十五日・十九日・三月十八日・四月朔日 / 冊子 943~944頁/原整理番号 2572/整理ID 2572
「近秘野帥 斉宣公」の出典表示を伴い、天明七年の公辺関係の出来事を記す。正月二十九日に世子が封を受けたとし、二月十五日には斉宣が登城して太刀一腰・御刀一腰(濃州兼定)・縮緬二十巻・白銀百枚・御馬二疋を献上し、襲封の恩を謝したという。あわせて家臣九名が進物を献上する。島津兵庫久徴・島津伊賀久金・市田勘解由盛常・島津登は巻物各五と御馬代銀を、大島休左衛門久皐・松崎次左衛門貞儔・岸喜右衛門章彬・郡山権蔵長矩・谷村孫右衛門は巻物各三と御馬代銀を献じ、大家に陪謁し、例のとおり恩賞を受けたと記す。二月十九日に斉宣が初めて短袖となり、三月十八日に左近衛少将へ任じられたが位階は従前のままで、四月朔日に登城して謝恩したと続く。
寛政4年8月5日~12月1日(本文の願い・帰国・謝恩の経緯。年次は目録) / 冊子 37頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0119
重豪の帰国許可、療養を含む道中、帰府後の謝恩を記す記事。8月5日、斉宣は父・上総介が藩内温泉で入浴して脚の宿病は軽快したものの再発の苦しみがあるため、9月初旬から江戸を発ち帰国療養する期限の猶予を願う。17日に斉宣が奉書で召され、白書院廂下で老中松平伊豆守信明から重豪の帰国許可と道服三領の下賜を伝えられた。23日には庶子雄五郎を伴う帰国も認められ、25日に重豪の年寄女子が召され、老女を介して将軍が着用した道服一領を重ねて賜る。9月1日に重豪は雄五郎と芝邸を発ち、矢野清香・本城輝承・愛甲兼盛らが従う。9月8日に浜松へ宿し、翌日の風雨で1日滞留した後、10日に今切を渡り三州赤坂へ宿した。15日に伏見へ入り2日留まり、18日に川を下って大坂へ着き3日滞在、22日に大坂を発って山陽道を進み、10月6日に長州吉田、翌日に豊前小倉へ至る。筑肥の数駅を経て14日に日奈久から船で薩摩の米之津へ入り、16日に出水を発ち、阿久根、向田、苗代川を通り22日に府城二丸へ到着したとする。阿久根と向田には各2日、苗代川には1日滞留した。謝恩のため谷村孫右衛門純章を遣わし、11月24日に江都芝邸へ着き、12月1日に登営して白書院で将軍に拝謁したと記す。縮緬五巻、干鯛・昆布各一籠、樽一荷を献じ、水野壱岐守忠韶が口上を伝えた。谷村自身も太刀一腰・紗綾二巻・馬代銀一枚を献じ、その他の贈賜は天明丁未の例に同じとする。
文化9年壬申5月6日。外包6月廿四日収納 / 冊子 388頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1220
白木御文書7番箱中61番。敬白・天罰霊社起請文前書として、若輩の自分が去歳三司官役を仰せ付けられた恩をありがたく思い、御国許御奉公にいっそう心を尽くすと述べる。五条は、斉興・重豪・斉宣に少しも疎意を抱かないこと、御国許から仰せ付けられた御条書を堅守し悪意・邪儀を企てる者があれば披露すること、国王に別心なく忠勤すること、国中の掟その他を親疎のひいきなく処理することを誓う。役就任への謝意の条も含め五つの一条見出しを採る。右条に偽りがあればと続き、神文は略すとの表示。文化9年壬申5月6日、小禄親方良和判。次段の外包注は同年申6月廿四日典膳から興倉孫右衛門へ渡し、白木7番箱収納と記す。正文誓約日と収納日を分け、省略神文を復元しない。
2月(申渡、年不記);末注:亥2月15日九州路差立 / 冊子 282~283頁/原整理番号 394/整理ID 394
雑集中。侍長として村田源右衛門・平田五兵衛・大迫新藏・右松十郎太を挙げ、続いて和田孫右衛門・種子島六郎・長崎早太・伊地知宗助を列記する。これらの者を三郎の上京に伴う供奉役に命じ、当分の勤方を申し渡すとする。二月、筑後、注は川上久封。末注は亥二月十五日に九州路へ差し立て、ほかに三重中小姓六十人も一緒に差し越し、伏見で三郎の上京を待ち受けるよう命じたと記す。列記八名と六十人は別に扱い、この日を三郎本人の出発日や伏見到着日として認定しない。
天明八年三月十三日 / 冊子 177~178頁/原整理番号 140
天明八年三月十三日の犬追物稽古手組。一番に島津圖書・伊地知新太夫ら、二番に島津藤次郎・本田孫右衛門らを配し、それぞれ検見と喚次を示す。
年月日未詳 / 冊子 135~136頁
松平石見守・生駒壱岐守の家中で切腹を命じられた者を列挙した書立。伊木野伊織以下の家臣を、相馬大膳・仙石越前守・丹羽左京・真田伊豆・京極丹後守・松平出羽守・森内記らの預け先ごとに掲げ、切腹者のほか追放・仕置に関わる者も記している。張紙・墨書で『此名書ハ御譜中ナシ』との注記があり、本文135頁から136頁上段まで続く。
寛政2年3月6日(朱注) / 冊子 3~4頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0013
元服後の長袴・素袍着用をめぐる照会と朱書返答。主書は島津石見(久邦)から菱刈大炊へ宛て、加治木・垂水両家も同様に扱う指示、辰年9月に示された総州様の意向、太守家に伝わる元服式を取り上げる。記録奉行が家伝の礼法を調べ、書抜を添えて報告したことを述べ、相手の意見を求める。朱書では、中将様への上聞と張紙の朱書による取扱い、以後の元服で長袴を着用させる申渡しを伝える。目録は「菱刈実祐返書」とするが、本文の主書署名は島津石見、宛名の人物注は隆邑であり、署宛と目録の人名を区別する。
寛政2年4月(目録) / 冊子 3頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0012
元服後の礼装、とくに素袍と長袴の先例を扱う内意書。越前家・今和泉家では髪をそいだ後の御礼に長袴を着用する定めがあったとし、明和7年の若狭殿の元服支度に関する中将様の指示、元文5年の総州様の意向を記録奉行の申出書付から取り上げる。これらを踏まえ、今後家来の元服の際には長袴を着用する意向を伝える。朱書は善次郎の元服に素袍を用いること、若狭・備前・今和泉家等も従来同様に扱うことを述べる。目録の差出人は島津斉宣で、本文には独立した署名・宛名がない。
11月21日 / 冊子 393~394頁/原整理番号 358
『平田宗直船賦帳』所収の出船申付記事。五枚帆四艘(各水手八人)と四枚帆一艘(水手七人)について主取と上乗を列記し、小湊から出水への出船を命ずる。さらに市来湊船の七端帆一艘(船頭神兵衛尉、水手六人、上乗鮫嶋源兵衛尉)と串船の壱端帆一艘(船頭徳右衛門、船頭・水手十人、上乗永井与兵衛尉)を掲げ、小松原で御上米の積込を終えた運賃船を出水へ出すよう記す。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 780
蒲生有馬氏に正文が所在する覚書。谷口助右衛門らの氏名を三段組で列記し、随所に下人の名前や本人名の訂正・異記を添える。末尾の合計は人躰八十人、小者四十九人。文書独自の日付・宛先・作成者は記されず、名簿の対象集団や出陣先は、この覚書単独からは断定しない。旧切り抜きで774~782へ分散していた名簿を、本文の連続する三つの全高切片に復元した。