島津家久書状案
六月十五日 / 冊子 212頁
当年を祝い、中川内膳正が長く関東へ勤務して好結果を得ていることを喜んだ。遠方のため下向を知らず音信を欠いたところ先に使札を受けて恐縮し、その後も返事が遅れたことを詫び、太刀一腰・馬一疋・緞子十端を贈った書状案。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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六月十五日 / 冊子 212頁
当年を祝い、中川内膳正が長く関東へ勤務して好結果を得ていることを喜んだ。遠方のため下向を知らず音信を欠いたところ先に使札を受けて恐縮し、その後も返事が遅れたことを詫び、太刀一腰・馬一疋・緞子十端を贈った書状案。
年月日未詳 / 冊子 960-962頁
得能氏記録は、慶長九年の一里塚築造、家康の上洛・熱海入湯・池田輝政邸訪問、黒田如水の死、秀忠の入洛・参内、家光誕生を記す。さらに松平忠輝家中の横田内膳事件、諸大名への加増、朝鮮使節来訪と被虜人返還を収録する。
九月廿日 / 冊子 75頁
川上久國が新納仲左衛門尉・市来備前守に、大脇主馬丞の子息舎人佑へ肥後内膳正の知行の一部を分け与え、当地へ移すよう御老中が命じたことを伝えた書状。山田民部少輔が使者を務め、詳細は主馬丞から伝えるとする。
二月二日 / 冊子 152頁
伊勢貞昌が種子島武蔵守に、進上された二つの茶入、とくに茄子形の茶入を見事と賞し、一つは所望者があれば取り計らうため預かると伝えた書状。屋敷の件は内膳から申し達すること、貞昌の孫と又三郎との縁組・祝言が整ったことも述べる。
十一月廿三日 / 冊子 160~161頁
伊勢貞昌が有川治部左衛門尉・八木民部左衛門尉に、吉加江内膳の居屋敷を早急に渡すよう求めた書状。自らの知行や屋敷が荒れていることを受け、田掃部・東長左らに管理を命じ、孫八・甚左衛門らの働きや掃除・馬場の整備、小姓らの派遣について具体的に指示する。
五月廿三日 / 冊子 168頁
伊勢貞昌が曾木五兵衛尉に、書状を受け取り、小林殿の書状を奥州様へ披露して相談する旨を述べた書状。道頓の書状を進上し忘れたため同封し、内膳の口上や五嶋殿の能、龍伯様から比紀伊までの内証、翌日の国府参府予定などを報告する。
二月二日 / 冊子 168頁
本文はNo.384と同文として省略される。No.384によれば、伊勢貞昌が種子島武蔵守に、進上された二つの茶入、とくに茄子形の茶入を見事と賞し、一つは所望者があれば取り計らうため預かると伝えた書状。屋敷の件は内膳から申し達すること、貞昌の孫と又三郎との縁組・祝言が整ったことも述べる。
七月廿七日 / 冊子 169頁
伊勢貞昌が、竹與殿の長旅からの無事な帰国を祝い、笛の上達を賞して今後も稽古を続けるよう勧めた書状。当世の芸について新九郎・長右衛門らは拍子を心得る程度で、樋口らの芸風は聞いたこともないと評し、指導者を欠く世情を嘆く。相手の笛で二番舞いたいと述べ、内膳からも事情が伝わること、時節の品を進上することを付記する。
三月廿一日 / 冊子 239頁
町田内膳に若年寄と同様の勤めを命じ、勤務終了後は蒸気船で急ぎ上京して島津伊勢と交代すること、在京中の用件は家老方へ取り次ぐことを定め、表方・奥掛・御勝手方へも知らせるよう命じた通達写。
寛永十四年十二月五日 / 冊子 704~706頁
「覚」として、幕府が十一月二十六日付の奉書により肥後・薩摩勢へ天草一揆の鎮圧を命じたことを受け、有馬方面で一揆が起きた際の即応、一万人のうち動員できる兵数、川尻に進出した肥後勢との歩調、薩摩勢用の船の準備を問い合わせる。天草平定後の早急な報告、一揆勢の首級を目付衆に見せるため捨てないことも指示する。さらに松平隠岐守の条書、松平伊豆守らへの兵粮・音信、渋谷知兵衛尉の派遣、天草一揆が長引き上洛延期となる場合の報告に言及する。吉利織部祐が署名し、使者を川越三右衛門尉とする。寛永十四年十二月五日付。
二正文とも朱辰八月、藩内伝達は内膳署 / 冊子 591~592頁/原整理番号 771/整理ID 771
通達留。先の海内一家・東西同視の趣旨で東京のことを告げたが、当春の兵馬以来、東国の民が戦乱によって苦しみ流離して主を失っているとして、主上が親臨して慰撫したいので、非常に手軽な行装で近く出発する旨を告げる。末は朱辰八月。続く内膳の達は同趣旨を再掲し、別紙の通り仰せ出されたと伝え、一同が謹んで承知するよう向々へ周知を命じる。こちらも朱辰八月。民の境遇や相手方評価は発令側の叙述、親臨と出発は予定として記し、実際の出発日や到着は補わない。
宝暦九年四月七日 / 冊子 722頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2175
四月七日付の願書控は、松平薩摩守の又従弟女を島津淡路守に嫁がせたいとして、縁組を願い出る。薩摩守側の取次を久世忠右衛門、淡路守側の取次を堀田内膳と記す。
卯10月15日内田報告/外包:慶応3年卯12月19日収納注 / 冊子 417~418頁/原整理番号 592の7/整理ID 592-3
太守と中将への勅書写二通、召書一通を列挙する。召書は中将に快気がなければ太守が上京するとの扱いで、傳奏日野大納言の雑掌近藤外記を通じて渡されたとする。夕刻に出席する切紙を受けて出た際、国元へ早く知らせるよう申し置いたことを内田仲之助が帯刀へ報告する。卯十月十五日、留守居付役永山左内が同勤している旨と、用事による追加の出席指示も記す。外包には四通一包の注、慶応三年卯十二月十九日に内膳から上村休之進へ渡され、白木御文書十一番箱に納めたとの注がある。明細の二通・一通、報告と梱包数、十月の受渡と十二月の収納を分け、上京の完了や快気を確定しない。
辰2月17日關山署(七日の取締任命と請書受領を報告) / 冊子 487頁/原整理番号 656の1/整理ID 656-1
七日に太政官代への御用出席を内国掛から命じられ、留守居付役赤井直之進が出たところ、日向の元郡代窪田治部右衛門支配地が御領となったため取締を命じられたと報告する。別紙の請書を太政官代へ持参し、非藏人松室信濃が受領したと聞いたことを伝える。年貢の残穀と高辻帳等を調査し、そちらで吟味した上で知らせるよう求め、さらに詳しいことは本田圭兵衛へ伝えるとする。辰二月十七日に關山が圖書・右衛門・龍衛・内膳へ送る。任命・受領の取伝と帳簿の照合依頼を分け、実収税額や最終の領地高を補わない。
辰二月17日関山紘、去る3日の行幸とその後の連絡を報告 / 冊子 508~509頁/原整理番号 669の1/整理ID 669-1
去る三日辰刻に主上が二条城の太政官代へ行幸し、宮・三公・堂上・諸侯が供奉したと報じる。太守は衣冠で卯刻に供を揃えて先に上り、主上の還御後に下って直ちに参内し、天気を伺って帰殿したという。中将が承知した上で参与衆へ飛札で天気を伺う意向が伝えられ、留守居が申出て中将も同意したこと、右筆頭に回った書付を日積で差し出すよう取扱いを求める。臨幸では室町通ほか四か所の辻の固めを命じられ、期限前に兵隊を配置し手当てを申渡したとして、別紙を添え心得を求める。辰二月十七日、関山紘が島津圖書・桂右衛門・川上龍衛・町田内膳の四名へ報じる。
御書取の五署添達は慶応4辰八月、昨日13日召、外包は8月19日保管 / 冊子 591頁/原整理番号 770/整理ID 770
外包四十三番、御筆御書取一通。内膳から前田彦四郎へ慶応四辰八月十九日に渡され、当座の格護を命じられ白木御文書十三番箱へ納めたと記す。所収の御筆写は、民をそれぞれの道で生業に励ませること、朝廷の定めた綱目を民にも示して実行することを説く。軍局は国の興廃と人の生死に関わるので、信をもって規律と賞罰を立てて人を安んじ、王政一新の時勢を察して政治の基礎と国力を養い、心を合わせて事業を進め、主の不足を補い、主だけに頼らないよう求める。添えた五署の書取略は、昨日十三日に磯御茶屋へ召され別紙の御筆を受けたので、一同謹んで承知して旨を厚く奉じ忠勤するよう告げる。末は朱慶応四辰八月、右衛門・龍衛・内膳・良馬・隼人。政策論と忠勤要求は御筆・添達の主張として記す。
「寛永廿一年」九月二日 / 冊子 348~349頁
北郷久加が三司官らへ、諸所の地頭帳を衆中の石高・人数まで詳しくして早急に提出するよう求める書状。併せて七島へ異国船が着岸し、上陸者一人を捕らえて長崎へ送った事件と、その報告が江戸の阿部忠秋へ伝えられた経緯を知らせ、今後も異国船着岸時には速やかに薩摩へ上申するよう命じる。
辰正月2日新納刑部署 / 冊子 451~452頁/原整理番号 619/整理ID 619
翔鳳丸が江戸から廻着して江戸の挙動を別紙で報告したこと、同夕に大坂川口から国元へ出帆予定の平運丸が当湊に碇泊し、翌日は臨機に処置する予定を伝える。無事に帰帆するか不安があるため、連名の御用封丈を開いて内容を撰分け、新納喜之助に足軽壱人を付けて陸路から急送する。今日幕兵二小隊位も大坂へ到着したとの聞取り、大坂の形勢不明、尾越両侯の尽力などに触れるが、平穏に処置できる見通しは乏しく翌日の一挙を心配していると述べる。辰正月二日に新納刑部が五名へ連絡し、夜明けが不幸の儀になり得るため急いで大略を知らせたと追記する。予定・聞取り・懸念と封書処置の報告を区別する。
辰正月10日新納刑部署(去5日の堀直太郎急便を受けた相談) / 冊子 466~467頁/原整理番号 633の1/整理ID 632-1
昨年脱走した竹内健藏・木場十藏が今回京都へ来て、重大な形勢のため滞京して奉公したいと願い出、事情を聞き置いたと、五日の堀直太郎の急便で伝えられた件を述べる。情勢上その志を捨て難いが、認めれば今後の取締にもかかわるため容易ではないと相談する。高野方面に浮浪の者が集まり、鷲尾侍従も勤王の意を示していると聞くが、この時節に御用へ立てるかは分からないという。国家のため忠志を立てておけば自然に採用される場合もあり得るとの考えを内々に伝え、中将にも知らせた上で吟味・取計らうよう、辰正月十日に新納刑部が五名へ送る。奉公願と採用の可否を相談する文書で、赦免・採用済みとはしない。
辰二月17日関山署、去る4日の召出し・翌5日の請書取次を報告 / 冊子 509頁/原整理番号 669の2/整理ID 669-2
去る四日に太政官代へ出るよう求められ、留守居付役隈元敬一郎が出頭して親征と今後の軍議・参集に関する別紙の通知を受けたと報じる。請書を別紙写しのとおり差し出し、翌五日に軍務掛非蔵人松室豊後へ渡して取次を頼み、沙汰を待つと申渡したという。中将にも伝えて承知を得たので、その許しの伝達を取り計らうよう求める。但書では、子年以来の諸国警衛なども申出るよう命じられ、御官名内留守居の名前で別紙写しのとおり提出したと記す。辰二月十七日、関山が家老四名へ報じる。
宝暦九年七月朔日 / 冊子 728頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2203
宝暦九年七月朔日付の加冠仮名書出は、加冠に際し、内膳と称するよう定める。対象者の旧名は記されず、「本ママ、ナシ」の注記がある。本文に「御判」と記す。
文化10年9月13日(朱年注。本文の今日という到着告礼) / 冊子 413頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1292
重豪公御譜中・扣正文在文庫。公方・大納言の機嫌を喜び、湯治御暇を願いどおり許され、御羽織を拝領し大納言からも拝領した恩に謝意を述べる。今日、同氏豊後守の国元に到着したので、御礼として嶋津内膳をもって目録のとおり献上し、然るべく披露するよう求める。文化10年朱注、9月13日、松平榮翁署、五宛。豊後守国元は榮翁の到着先で、豊後守本人の帰着記事とはしない。羽織の数量と献上目録の内訳は本文にない。13日付の今日という報告と1266実帰着14日・告官13日注を区別して保持する。
年月日未詳 / 冊子 576~581頁
島津義弘(惟新)の関ヶ原合戦譜。九月十三日に大垣城外で石田三成・島津豊久らと軍議し、赤崎丹後の勇名を語ったことから、十四日の赤坂方面の戦闘、夜雨中の関ヶ原移陣、十五日の布陣と鉄砲戦を時系列で記す。西軍敗走後は義弘勢が敵中を突破し、豊久らの戦死を経て伊勢・近江方面へ退き、農家への潜伏、追撃回避、渡海、堺・大坂への帰着を重ねる。道中の戦闘・飢渇・船便の確保、従軍者名を交え、帰国に至る苦難を詳述する。
(寛永九年)七月廿六日 / 冊子 298~299頁
島津久元と伊勢貞昌が、加藤忠広改易後の熊本城受渡しと上使到着、相良・加藤右馬頭・大口・山野・出水・綾・高岡等からの注進を確認し、早打への礼を命じた。また肥後へ向かう諸勢への兵糧米貸与、山川・頴娃方面に着岸した唐船への対応、喜入久正没後の国分地頭職と喜入久右衛門尉の鹿児島移転などを指示した連署書状。
(寛永十一年)七月十二日 / 冊子 434頁
島津家久が仮名書きで、伊勢丸の長患いと種々の療治にも回復がはっきりしないことを案じ、相手の無事、京都の変わりない状況、近く下向する予定を伝えた書状。
(寛永十一年)七月十一日 / 冊子 435頁
入来院重高が、支配未決着のため使者を下し、公儀への多額の出銀に伴う領内配当、借銀増加と諸士知行の上地を遅滞なく調えるよう家臣へ命じた書状。
延享四年九月二十一日 / 冊子 15頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0053
在国家老が九月二十一日、頴娃内膳・伊勢兵部の八月三日付書状に朱書で返答し、源姓復姓について記録奉行に調べさせたが、先年の申出と変わらないと伝える。隼人と相談したところ、総州が以前に願い通り仰せ出ているので改めて願いを申し上げるには及ばず、首尾を整えるようにとのことで、隼人にも伝えたと述べる。総州への報告は首尾を申し上げる際に行う旨を隼人から聞き、太守へ伺うと、留守中の但馬守の願い通り仰せ付けられたと知らせる。差し越された諸書付を返す。
11月24日 / 冊子 412頁/原整理番号 375の5
十一月二十四日、赤米十八石三斗八升と真米二石三升三合を掲げる。天草一乱に伴い加世田内の小湊・小浦・片浦から仕立てた船の船頭・水手・上乗衆の飯米として、永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ渡すよう篠原三左衛門・丸田内膳正へ命ずる。数量の横には前かき・右同と記す。
三月廿六日 / 冊子 415頁/原整理番号 209
鉄炮五人の割当てを記した書付。池田内膳殿に五人、山田主水殿に同数を配し、夫賦や寺・家臣の名を列挙する。寛永十四年十一月十七日付。
享保六年六月六日 / 冊子 501頁/整理ID 1345
島津久兵が、佐久間九右衛門から太刀・小サ刀の古代作の拵えを求められた件について、手元や神社にある刀とその付属品の状態を吟味し、拵えを調えて差し出すよう関係者へ達する。
享保六年七月~享保七年八月 / 冊子 505~521頁/整理ID 1346
古代作の太刀と小サ刀を差し出すため、久貫・久兵らが拵えや神社所蔵品の適否を検討した一連の書状・覚書。職人による鍔・柄・鞘などの仕様書、古記録の引用、御納戸への受渡しも含む。
享保七年七月八日 / 冊子 553~554頁/整理ID 1423
高一万石につき上米百石の基準を踏まえ、米直成と張紙の扱い、上米を金子で代納する場合の相場・換算方法を検討する。
享保七年七月八日 / 冊子 555頁/整理ID 1425
当年在府の大名の春の御暇と、以後の上米を御書付の割合に従わせること、家中の御用捨や使者による申越しの可否を申し述べる。
辰二月17日関山署、去る11日の返献願提出を報告 / 冊子 514頁/原整理番号 671の2/整理ID 671-1
王政一新の時節に、代々預かる御領地の内十万石を少しながら御用途へ返献したいとの願を、別紙のとおり御官名で差し出したと報じる。去る十一日に二条城内国掛へ留守居内田仲之助が出頭し、非蔵人鴨脚加賀へ面会して提出したが、上下参与方が出動していなかったため預置きとされた旨を伝える。書付等を添えて中将へ知らせてほしいとして、辰二月十七日に関山が家老四名へ報告する。
辰三月8日、嶋津伊勢(広兼原注) / 冊子 532~533頁/原整理番号 692/整理ID 692
去る三日の参内と衣冠、先月晦日の公使参内、願・伺・届の提出方法、行幸日の変更、公使警衛などから、計三十八通の書付の題目を列挙する。題目には奥羽鎮撫使・参謀、分捕金二万両上納、英国公使参朝途中の乱妨と取締、暗殺取締、外国交際と参朝、三職からの達・軍令、古金銀通用、入京免除、旅中応接、三職交名、東山道先鋒参謀、印鑑による通路往来、丹波の村名書、親征の安堵・生業、大坂先供と乾御門警衛も含まれる。三十八通は太政官代辨事局等から次々に渡されたもので、向々へ伝達し留守居の首尾書等を添えたとして、中将にも知らせ取次を取り計らうよう求める。三月八日に嶋津伊勢が家老ら五名へ報じる。末の編纂注は、添える書付を個々の日付で順に写し取り、前へ補入したとする。
辰三月26日嶋津伊勢、21日出輦・23日着坂の報と27日の天機伺い予定 / 冊子 535頁/原整理番号 695の1/整理ID 695-1
主上の親征・下坂は五日に出輦する予定を延ばし、二十一日五半刻に出輦、宿割に従って八幡・森口に泊まり、二十三日未ノ刻に大坂へ機嫌よく着御したと聞いた旨を報じる。天機伺いは別紙の指示によるとして、太守は二十一日に参内して天気を伺い、明二十七日にも禁中・大宮御所へ参内して伺うという。在国の者は重臣を名代として伺う指示、中将の名代は嶋津主殿が務めること、五節句等の祝儀の書付も伝え、中将への報告と取次を求める。重臣名代を許す書付は差し越さないという但書がある。三月二十六日、嶋津伊勢が家老ら五名へ報じる。
辰三月26日嶋津主殿・嶋津伊勢、去る17日午刻参内等を報告 / 冊子 539~540頁/原整理番号 698/整理ID 698
十七日午刻に太守が重役を召し連れて参内し、衣冠で伊勢を伴い、加賀・阿波も同様に学問所で別紙の趣旨を承知したと報じる。菓子を頂戴し岩倉前中将の取次を受け、近藤との面会や留守居中への依頼を経て帰殿したという。さらに伊勢と加州・阿州の重役が岩倉ほか二卿から、御留守中の京都警衛と三藩の協議を命じられたと記す。加州上ノ京、太守側中ノ京、阿州下ノ京の区分で浮説・不穏を鎮めることを伝え、中将が承知した上で東園中将・坊城侍従へ飛札で礼を申上げる意向と、留守居から出す書付を右筆頭が吟味し飛札・日積で差し出す取扱いを求める。大奥其外にも申上げ、許しの伝達等を取り計らってほしいとして勅語・留守居首尾書を添え、二十六日に主殿・伊勢が家老ら五名へ報じる。
辰三月26日、嶋津伊勢の五家老宛報告 / 冊子 540頁/原整理番号 699の1/整理ID 699-1
七通の書付題目を列挙する。大坂行幸後の海軍天覧に伴う軍艦・蒸気船の出帆留め、十八日の蒸気船兵庫港揚碇・関東差廻し、銃隊百人と駿州三嶋に関する件、留守中の高松家来の巡邏、朝敵を除く大赦、小枝橋近辺の百姓家が用に供され武家は下鳥羽・上鳥羽へ下陣する件、十四日の先帝山陵参詣願を題目に掲げる。太政官代辨事局から受け、向々へ伝えて留守居首尾書を添えたとし、中将にも知らせ取次を取り計らうよう求める。三月二十六日に嶋津伊勢が家老ら五名へ報じる。
辰三月26日嶋津伊勢、十通題目と交付伝達の報告 / 冊子 542頁/原整理番号 702/整理ID 702
十通の書付題目を列挙する。中原猶介の海軍参謀任命、禁制高札、酒井雅楽頭の入京官位停止、慶喜が朝廷を軽蔑してその事情を採用し難いとする通知、九日の行幸に伴う列奉行脇路通行、在京人数報告、十万石返献は差当り不要とする件、十一日の出輦に関する列奉行伺書、王政復古・神武創業に基づく一新、大坂市中取締免と巡邏を題目に掲げる。太政官代辨事局から渡されたものを向々へ伝え、留守居の首尾書等を添え中将にも知らせるよう求める。三月二十六日に嶋津伊勢が家老ら五名へ報じる。慶喜への評価や返献等は題目の記載として扱う。
辰三月26日関山紘・嶋津伊勢、去る20日の諸役諸士拝見を述べる / 冊子 542~543頁/原整理番号 703の1/整理ID 703-1
宸翰で重大な趣意が示され、主上が神霊に誓い、太守も御前で誓約したとして、一層職掌を尽くし大任を受けた意味を立て家名を失わないよう、伊勢を召して御筆で仰せ出されたと報じる。特に出輦後の京都留守守護を受命したため、取締りが行き届かなければ朝廷にも済まないとして、心付いたことは我々から一統まで差し置かず言上するよう直に命じられ、その趣旨を承知したという。二十日に諸役・諸士へ拝見を命じ、御筆と別紙添書を付けて伝えるので中将にも知らせ取次を求める。三月二十六日、関山紘と嶋津伊勢が家老ら五名へ報じる。
三四の1享保九年七月 / 冊子 138~140頁/原整理番号 34-1
享保九年七月、島津久春が年頭の御礼着座を改めるよう申し渡した書付。従来の客居・主居の区別をやめ、対面所では客居側に一列に着座させる。各家の席順を挙げ、同格の家は本人や子の役職、役がなければ年齢などを勘案すると定める。病気などで欠席しても席を空けずに詰め、御書院の着座や城代・家老の列座にも新しい配列を適用する。
目録年月日記載なし / 冊子 99頁/原整理番号 145
前文書の役替御礼書状について、帯刀宛と御用達宛の同案であることを示す短い宛先控。
10月内膳(正文の年・日不記) / 冊子 421頁/原整理番号 597の1/整理ID 597-1
今般の出兵について紛々とした取沙汰があると聞いたため、考えがある者は十分に建白するよう求める。先にもその旨を命じていたが、今の時節に下情を聞きたいとの沙汰があるので、存慮を持つ者は早く言上するよう向々へ通知する十月内膳の書付。内膳には町田久憲とする人物注がある。噂の内容や真偽、建白の実績は記されず、意見の申出を求める指示として示す。
11月内膳/朱注:慶応3年卯 / 冊子 423頁/原整理番号 599/整理ID 599
中将から書棚と純子を近衛の取伝えで内々に朝廷へ献上し、満足した旨が別紙のとおり伝えられたので、その書付を文書方へ下して護るよう命じる十一月内膳の通知。慶応三年卯の朱注と内膳を町田久憲とする注を付す。献上品の報告そのものと、その報告書付を保管する命令を分け、原第598号と別の献上を新たに行ったとは数えない。
正月6日、圖書・右衛門・帯刀・龍衛・内膳の連署 / 冊子 463~464頁/原整理番号 629/整理ID 629
旧臘二十三日の江戸城西丸出火、二十五日未明の芝邸襲来と戦闘、品川での翔鳳丸と幕船の砲戦、二日の平運丸への和田岬付近の砲撃、四日の春日丸への阿波沖付近の砲撃と応戦を伝える。乗頭の報告だが戦闘の細部はまだ不明とし、守衛諸郷・私領人数には明七日に早く上京するよう求める。中将の沙汰を追って伝えること、軍制を厳重に守り動揺せず急変に備えること、別紙の指定場所へ着くことを命じる。町奉行兼帯には火用心を徹底し、市中の混雑を避けるよう指示する。正月六日に圖書・右衛門・帯刀・龍衛・内膳が連署して通達する。報告と命令を分ける。
二月8日右衛門・龍衛・内膳署、明9日四時の祝儀登城 / 冊子 486頁/原整理番号 655の1/整理ID 655-1
太守が先月九日に天朝から剣を拝領し勅書を頂戴したこと、殉国戦死者へ金五百両を賜い、厚く葬礼をし一社を設けて祭祀するよう勅命があったとの知らせが到来したと伝える。御一門・諸大身分・月次御礼の面々・諸士・兵具方士・諸與與力へ、明九日四時に登城し各席で家老へ祝儀を申し上げるよう命じる。太守・中将への祝儀も関係先へ伝達するよう、二月八日に右衛門・龍衛・内膳が署す。恩賞の伝聞到来、祭祀の勅命と祝儀の予定を分ける。
七月4日内膳、明後6日の式・直詣を指定、編注は同6日実施を記す / 冊子 587~588頁/原整理番号 763/整理ID 763
戦亡の霊を祀る靖献霊社を設けたので、明後六日に太守が直詣し、続いて軍局士官と戦亡者の親族が拝礼できるよう命じる。一般の拝礼は随意とし、同日調練場で弔調練を行う。親族には霊社近くの宿を用意するので事前に来て出役の指図を受けるとする。先供は大砲五座・陸軍一大隊、跡供は陸軍二大隊と騎兵隊、海軍一小隊ほどの欄を掲げ、砲・陸軍・騎兵・海軍の調練、太守の調練場観閲を指定する。霊社神祭、悦之助様方の拝覧、英式行軍の兵隊拝礼、招魂祭等は別紙三通に従い向々と大隊長へ周知する。七月四日、内膳の署。編注は慶応四年辰正月の伏見・鳥羽戦死者のための霊社が完成し、同七月六日に太守が直詣したと記す。
第一・第二条は朱明治元辰十二月、第三条末は12月23日内膳 / 冊子 620頁/原整理番号 801/整理ID 801
通達留の三条。第一条は時勢に応じ、数寄屋附士と仕坊主を兵具方へ合併し、数寄屋附を兵具方支配として兵具奉行・数寄屋頭に知らせ、向々へ周知するよう命じる。第二条は数寄屋附屋敷を今後は兵具所附屋敷とし、会計奉行らへ伝える。両条末は朱明治元辰十二月、内膳。第三条は附士を兵具方附士、仕坊主を足軽、家来身分の者を一代兵具方足軽とする一方、勤めのある者は当分従来通り勤めるとし、担当向へ知らせる。数寄屋一代附士は兵具方一代附士にするとの但書を付ける。末は朱明治元辰十二月廿三日、内膳。合併・役屋敷・身分取扱いの命令を示し、全員の異動完了や身分の世襲制度を原にない形で説明しない。
「寛永十七年」正月晦日 / 冊子 97頁
島津光久が島津久慶へ、各方面に横目を二人ずつ置き、頴娃主膳・新納二右衛門にも同様の心得を伝えたとする書状。岩切縫殿助について久慶方の老若がどのように述べているか報告を求め、供衆に適任者が乏しいため黒葛原勝左衛門・田中内膳を派遣するので、両人が小身であることに配慮するよう頼んでいる。
(寛文十三年)六月廿日 / 冊子 619頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1519
久世広之が島津光久へ、板倉内膳正の死去は言葉に尽くせないことであり、光久が様子を伺う使者を派遣したことを了承し、その深い哀惜と丁重さを関係者と相談して上聞に達したと伝えた書状。