京都進上物覚書
年月日未詳 / 冊子 215~217頁
島津又八郎の上洛に伴い、京都で諸方へ進上した礼物と支出を列記した覚書。治部少輔・幽斎老ら武家、公家・寺社・家臣・職人など多数の相手ごとに、銀子、鉄砲、刀、鳥目、紙、扇、衣類、食品等の品目・数量・代銀を記し、饗応の振舞も含めて上洛時の贈答と費用を整理している。
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年月日未詳 / 冊子 215~217頁
島津又八郎の上洛に伴い、京都で諸方へ進上した礼物と支出を列記した覚書。治部少輔・幽斎老ら武家、公家・寺社・家臣・職人など多数の相手ごとに、銀子、鉄砲、刀、鳥目、紙、扇、衣類、食品等の品目・数量・代銀を記し、饗応の振舞も含めて上洛時の贈答と費用を整理している。
年月日未詳 / 冊子 4頁
慶長元年、京都・大坂で大地震が起こり、家屋が崩れて数万人が死亡したこと、同年七月六日に御衆が志布志から出船して帰洛したことを記す年代記記事。
文禄五年閏七月九日 / 冊子 30頁
樺山紹剣が、文禄五年閏七月九日に大地震があり、京都では十二日夜に諸大名の屋形や町屋、金銀で補強した御殿まで崩れ、数百人が圧死したと記す。高麗から人を日本へ渡す交渉にも影響し、秀吉が機嫌を損ねたことなど、伏見地震後の混乱を伝える自記。
(慶長元年)閏七月一日 / 冊子 35頁
龍伯(島津義久)が忠恒へ、在番支援の人員を渡海させる準備をしていたが、京都から忠恒を帰朝させ渡海衆を召し留めるよう命令が来たため従うと伝える。現地事情を聞くため使者二人を派遣し、帰帆決定時の事前注進を求めた。また和泉で大松三百本を船元まで運び、作業後に上洛する予定も知らせた書状。
(慶長二年)二月廿二日 / 冊子 89頁
石田三成が羽兵方へ、忠恒が着陣すれば長陣中の羽兵は帰朝するのがよいとし、上方から差し渡す諸勢は五月中旬から六月上旬に高麗へ着く予定だと伝えた書状。帰朝後は国元で支配を整え、京都へ上洛して秀吉に礼を述べること、小姓衆の扱いなどを指示する。
(慶長三年)十一月五日 / 冊子 276頁
本田親智(新介)が(慶長三年)十一月五日付で泊津蓮慶坊へ出した書状。京都からの朱印によって国役を免除され、居屋敷なども扶助された以上、これと異なる扱いがあってはならないと通知する。
(慶長三年)十一月五日 / 冊子 276頁
本田親智(新介)が(慶長三年)十一月五日付で泊津善四郎へ出した書状。京都からの朱印によって国役を免除され、居屋敷なども扶助された以上、これと異なる扱いがあってはならないと通知する。No.553と同内容で、宛先と正文の伝来先が異なる。
十二月 / 冊子 722頁
島津義久が、京都での不慮の出会い後の無音を詫び、相手方の院に関わる当国僧衆の開壇と門中の異議について、自身の意向を伝えて国元でも従前どおりの扱いになったことを報じる。あわせて沈香二斤を贈る旨を記す書状案。
慶長六年正月十七日 / 冊子 742頁
正興寺玄昌が、京都の知人には命じられた当地の様子以外を伝えず、伊集院衆から聞いた事柄はそのまま言上し、旧来の親疎によって偏らないことを神仏に誓った置文。
(慶長七年)六月廿二日 / 冊子 821頁
島津義久が又四郎へ、しばらく音信を欠いたことを詫びる。京都から上洛を急ぐよう催促されているため翌月には必ず出立する覚悟であり、相手の到着も近々待ち受けると伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 834頁
差出人不詳の起請文前書。龍伯が又四郎を少将に替えるとの風聞や京都からの朱印をめぐり、事実を隠さず申し上げ、虚偽・讒言・私曲を行わず主家に忠節を尽くすことを誓う。
慶長七年八月十日 / 冊子 835頁
島津義弘が、和議交渉の内容を隠さず報告したこと、今後いかなる讒言があっても腹蔵なく熟談し島津家長久を図ること、京都からの御暇を勧めたのは私曲ではないことを神仏に誓った起請文前書。
(慶長八年)二月十九日 / 冊子 883頁
島津義久が近衛信尹へ、忠恒の在京中の馳走と首尾よい帰国に礼を述べる。薩摩で用いる暦は金神の方角や月の大小に異同があり信頼できないため、京都の暦博士が作る暦を入手して送るよう依頼した。
慶長十一年十二月廿四日 / 冊子 102頁
慶長十一年十二月二十四日、入津した南蛮船の生糸について、京都・大坂の商人を呼び寄せ、割付後に残った糸も商人へ売るよう島津家久が命じた判物。価格の相談と売却に油断のないよう両名に指示する。
十月十日 / 冊子 416~419頁
十月十日、島津義弘が、先便や大坂からの書状を読み返して喜び、船旅が順調であったこと、家族・家中の近況、京都での滞在や道中の苦労、今後の連絡と再会への願いを長文で述べた書状。
十一月二日 / 冊子 426頁
十一月二日、南郷忠重が三河国吉田から、京都出立後、大津・草津・水口・関地蔵・桑名・岡崎などを経た一行の宿泊日程、雨天による逗留、女房衆の進行、今後の道筋を報じた書状。
(元和八年)二月廿一日 / 冊子 778頁
良恕入道親王が島津家久へ、上洛を聞いて参会したいが家久の暇が分からないためまず書状を送り、杉原紙三十帖と諸白二樽を贈り、京都滞在中に対面したいと伝えた書状。
二月九日 / 冊子 41頁
比志島国幸が、鹿児島へ提出する日記と京都での給銀精算について本田助丞へ指示した書状。処理を今明日中に済ませて遅延しないこと、公儀へ披露する準備を整えることを求め、京都の馬一疋衆への銀子三百目支給の風聞は源右衛門と相談したいと伝える。
十月十九日 / 冊子 56頁
瀧聞宗運が、浜市での面会とその後の手配について土持大膳亮へ返答した書状。受け取った糧を配分し、役人へ引き渡したことを報告し、上洛後は京都での諸事に助力してほしいと依頼する。
四月十五日 / 冊子 56~57頁
市来家親が、京都御門柱に関する処置と日程について土持大膳亮へ相談した書状。関係者の到着・引き渡し時期を調整し、刑部左衛門尉とも内談したうえで日限を知らせるよう求める。
九月十八日 / 冊子 60頁
仁礼頼景が、江戸到着後の拝謁・饗応と今後の行程を報告した書状。八月二十四日に江戸へ着き、翌日御前に出て振舞を受け、九月十一日に京都へ向かったことを述べ、勝利して帰国する願いと、若衆に舞・兵法を励ませるよう求める。
(応永二十六年)八月五日 / 冊子 86頁
渋川道鎮が町田飛騨守に、唐津・博多へ着岸予定の南蛮船が海上を恐れて相手方の地に逗留しているとの注進を受けて送った書状。京都へ報告済みであり、助力して早急に船を送ること、迎船を出し、津々浦々の警固を固めることを求める。
八月七日 / 冊子 98-99頁
北郷知久が枇山殿に宛てた書状。京都から僧の使者が鹿児島へ到着し、屋形が財部へ出向いて同地で対面する予定であることを、淡路方からの連絡として知らせる。不明点があれば知らせるよう求めている。
正月六日 / 冊子 179頁
今川了俊が澁谷一族に新年の祝意を述べ、両国の事と島津の進退、京都の御使や名和在陣をめぐる情勢を伝えた書状。公方への申入れや安国寺への相談などを通じて事態を調整する意向を示し、相手方にも協力と連絡を求める。
四月十三日 / 冊子 181頁
今川了俊が澁谷清敷に、依頼された件を書き整えて送ると返答し、自身の渡海は京都から再度下向する使者を待っていると伝えた書状。その間に八代を平定する方針を示し、相手方の軍勢にも協力を求め、水軍を急ぎ派遣するよう催促する。
十月十九日 / 冊子 183頁
今川了俊が澁谷庶五郎に、味方として忠節を尽くす意向を聞いて喜び、京都の御教書も到来するだろうと伝えた書状。今後の注進を受けて重ねて申し入れること、この地域では支障がないので安心するよう述べる。
九月十四日 / 冊子 206頁
島山政長が、たびたび参洛を求められている相手に、京都周辺の時勢と敵方の動向を踏まえ、諸将と相談のうえ時日を移さず上洛して戦功を挙げるよう促した書状。詳細は管領から伝えるとして、速やかな参洛を要請する。
十二月廿五日 / 冊子 244頁
少弐貞頼が、京都からの御教書・御内書により島津方へ申し付けることになった旨を伝え、急いで請文を出し、御教書の趣旨に従って発向する際はまず当地の境へ出るよう求めた書状。
十二月廿五日 / 冊子 244頁
一色氏雄が、島津上総介の自訴について京都で吹挙した件を述べ、本人が代官であるため難しいとされたものの、子息の件は本人同様で支障がないとの仰せを得たので、その旨を披露するよう求めた挙状。
三月六日 / 冊子 244~245頁
島津守久が、京都の御教書・御内書に従って早急に請文を出し発向すること、まず当地の境へ出ること、南蛮船を時を移さず上洛させるよう催促することを求め、大和の件などは石塚の使者を通じて協議するよう伝えた書状。
四月十五日 / 冊子 249頁
芥河愛阿が、南蛮船に関する三月二十七日付書状を四月十三日に受け、船の着岸後の京都への注進、安案文や吹挙雑掌の処置、京着後の対応を指示し、京都の情勢を踏まえて早く大太郎殿を向かわせるよう求めた書状。
十二月十三日 / 冊子 250頁
大友親世が来状への返答として、出津や京都への礼、代官安治方への下知、肥後・山鹿方面での合戦と菊池武朝らの動向、阿弥陀仏の参着などを報告し、京都での処置にも尽力すると伝えた書状。
十二月九日 / 冊子 250~251頁
今川了俊が、朝山殿を使者として派遣した結果、事態が無事に落着したことを喜び、吉弘土佐入道の進退や京都での申請、国策・郡春らへの指示について上意に従い処置するよう島津上総介へ伝えた書状。
八月廿九日 / 冊子 251~252頁
今川了俊が音信を喜び、求戸足北の凶徒退治は今秋に実行して早急に発向すること、京都から命じられた参洛も秋中に行うこと、在国・出陣や子息の処遇について上意に従うよう求めた書状。
八月廿九日 / 冊子 286頁
今川了俊が音信を喜び、求戸足北の凶徒退治は今秋に実行して早急に発向すること、京都から命じられた参洛も秋中に行うこと、在国・出陣や子息の処遇について上意に従うよう求めた書状の写。本文はNo.572と同文のため省略されている。
七月七日 / 冊子 287頁
島津氏久が、相手の参会と承諾を喜び、島津又三郎との談合、年貢・補任状、京都での沙汰や預所に関する処置について平山左京亮へ指示した書状。
(永和二年)八月十九日 / 冊子 302頁
今川了俊が薩州の合戦や京都への働きかけに触れ、先の出陣以来の合力を評価し、今後も相談しながら忠節を尽くすよう島津上総介へ求めた書状。
七月 / 冊子 432頁
秋月宗閑が大乗寺殿へ、先日の思いがけない来訪と閑談を喜び、芸能の見物にも感銘を受けたと述べる。京都から重ねて命が下ったため取り紛れて返事が遅れたことを詫び、詳細は追って伝えるとした返書案。
(応永二十六年)十月廿三日 / 冊子 534頁
南蛮船がなお逗留しているため、京都から二度にわたり兵庫津へ送るよう命じられたことを伝え、重ねて使者を派遣して早急な回航を督促した書状。先の返答は京都へ進達したとも記す。
(慶長三年)三月七日 / 冊子 197~198頁
島津龍伯(義久)が又八郎(忠恒)へ、前年預けた大鷹は見事だが扱いにくいと聞いたため、当年の若鷹または前年の若い大鷹の手配を法賀へ命じるよう依頼した書状。龍伯は不食が続き、二月二十四日夜から急に重く患ったが、養生と祈念・立願を尽くして次第に回復したと報告する。さらに醍醐の花見に際し、女房衆へ一人につき小袖三つ・帯三筋など華美な装束が命じられ、「御用意千三百」とあるため京中の細工人が多忙であること、見物は女房衆が行い、京中の男は三~四里四方から退けられると伝える。
十月4日京都本営送状、名簿は八月20日~九月17日等、降伏報知は9月22日 / 冊子 600~606頁/原整理番号 780/整理ID 780
雑録中の会津進撃に関する隊別死亡・負傷名簿と、京都本営の送状。九番・十一番・十二番隊等の戦死者を掲げ、十二番隊では三春の村人や庄屋支配下の者も含め、即死・戦死を記す。諸隊の死者には手負の後に三春病院で死亡した者があり、続く手負人数では深手・浅手・薄手と、負傷した日・場所を区別する。田村小太郎、伊佐敷金之進、加藤郷兵衛、上原正八郎らのほか、道案内、隊付夫卒、地元村人などを列記する。原文内の異日付や前の名簿との異同は残し、同名を別人として合算しない。末尾の十月四日京都本営送状は、戦死手負書一冊・降伏状一帖・問合二通を掲げ、去る九月二十二日に会津へ進撃して終に降伏したとの報知を述べる。通行允許を携えて到京した日須峯敬二郎ほか一人に封書を託して国許へ送り、披露等を取り計らうよう御国許陸軍所へ依頼する。死亡・負傷の区分と送付の叙述は各名簿・送状に帰属させる。
年月日未詳 / 冊子 197頁
『東鑑』所収。宝治元年末、京都大番勤仕の結番を定め、各番の期限と担当を示した記事。
弘安二年七月日 / 冊子 302頁
京都大番役の勤仕を催促し、御家人に執達するよう命じた短い関東御教書。
文政3年5月(表紙の年月) / 冊子 575頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1734
白木御文書八番箱中三十六番、文政三年辰五月の表紙・記録概要。近衛前左府基前の薨去に伴う各人の忌掛り、法号、中陰の日割について、京都御留守居からの申越書付を留めると記す。また御簾中の維君が薙髪して維學心院と称した旨につき、同家の御用人の手紙を添え、京都御留守居へ申し送った書付を留めるとする。この記録内容は一冊の表紙にあるとの注を伴う。表紙の五月は一件の整理・記載年月として保持し、基前の薨去日や維君の薙髪日へそのまま当てはめない。個々の忌掛りや中陰日割は後続の書付で別に確認する。
正文年月日不記 / 冊子 372頁/原整理番号 535の2/整理ID 535-2
京都所司代松平越中守への御渡書の写し。長州人が勤王を名目に人心を惑わせていたため信用した者もいたかもしれないが、禁闕への砲撃で逆罪が明らかになり追討を命じたとする。その支持者でも以前の非を悔い改心すれば宥免できるので申し出るよう求める。潜伏した落人を発見して速やかに届けた者には褒美を与え、隠匿が後で判明すれば朝敵と同罪にするという。正文の日付はなく、長州側への罪責評価・宥免と取締の条件は書付の語りとして示す。
年月日未詳 / 冊子 462~472頁/原整理番号 268
酒匂家文書に収める長文の申状。酒匂家の先祖の奉公と島津家との関係、家名・家督や養子の経緯、京都・国元での取扱いを述べ、家筋にふさわしい処遇を求める。
年月日未詳 / 冊子 777頁
島津家久が徳川和子の入内祝賀と将軍家への年賀のため正月上旬に鹿児島を発って上洛し、二十八日に喜入忠政・比志島国隆を先に江戸へ遣わして賀礼の幣物を献じたことを記す。京都滞在中、今年は在国してよいとの老中奉書を受け、二月二十九日に京都を辞して帰国した。
元和六年十月十一日 / 冊子 342頁/原整理番号 89
島津貞親らの知行目録。日置郡吉利村と伊集院西俣の土地、計三千二百七十三石余を返地として与え、五斗出米の納入を命じる。文禄四年九月三日付。
天明七年六月二十一日(年は朱書) / 冊子 977~978頁/原整理番号 2649/整理ID 2649
御縁女を近衛家の養女とする件で、双方が相対して縁組を取り結ぶよう松平周防守から太守へ内密の指示があった。多少延びても差し支えなければ、まず中将への往復連絡後に近衛家と熟談したいと再度伺っているが、指図が急には定まらず、先に飛脚で報じられたという。もし中将との往復を待てなければ、家老を上京させて縁組の内談をまとめ、帰府後にその結果を報告し、祝儀には改めて番頭を使者として上京させること、両度の祝物は宛先側の御使番が準備する旨の連絡を受けた。しかし最初の家老使者は内談だけなので祝物は相当でなく、時候の御尋ねに応じた品を贈り、後の番頭使者の際に初めて祝物を贈るのがよいと検討し、当地の御使番にも再調査させた結果、そのとおり命じられたと伝える。家老の上京までに贈物が整わなければ京都で手配し、その旨を江戸へ早く知らせること、使者の勤めが済めばやむを得ずそのままにする旨を、十八日の急飛脚で京都留守居へ通知した。今日の便でも御使番から宛先側の同役へ詳しく伝えさせるので、申し出があるはずだと結ぶ。六月二十一日、市田勘解由から島津伊賀・島津登への書状である。
七月十三日(朱書。年は主書状の天明七年による) / 冊子 977~978頁/原整理番号 2650/整理ID 2650
書状の内容を承知し、御使番からも申し出があったと返答する。京都へ伝達される予定であるが、当地の御使番から京都留守居へ今日の便でなお重ねて申し送ったとの報告があったと伝える。七月十三日の朱書日付を伴う返答で、主書状の署宛列には朱の「上」「下」が付されている。