征西将軍宮令旨
正平十三年三月六日 / 冊子 8頁
征西将軍宮の意向として、渋谷九郎左衛門尉に味方へ馳せ参じて軍忠を尽くすよう命じた令旨。修理権大夫が奉じている。
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正平十三年三月六日 / 冊子 8頁
征西将軍宮の意向として、渋谷九郎左衛門尉に味方へ馳せ参じて軍忠を尽くすよう命じた令旨。修理権大夫が奉じている。
康安二年九月六日 / 冊子 28~29頁
足利義詮が渋谷九郎左衛門入道に、前年二月以来の薩摩国合戦での忠節を神妙と賞し、今後もいっそう戦功を挙げるよう求めた感状。
至徳元年十二月九日 / 冊子 126頁
足利将軍家が島津九郎左衛門入道に、相国寺領日向国三俣院について守護に属して忠節を尽くすよう命じ、左衛門佐斯波義将が執達した御教書。
明徳四年六月廿六日 / 冊子 148頁
慶本が刑部九郎を向嶋西方内藤野村の名頭職に補任し、仏神事・修理興行・年貢・公事などを先例どおり勤めるよう命じた奉書。
大永三年五月日 / 冊子 642頁
高城重興が山口九郎右衛門尉に、先の文書に関する用件と肥前守への伝達を頼み、返事を求めた書状。
十一月吉日 / 冊子 820頁
島津貴久が内山九郎左衛門尉からの請文を受け、こちらも疎略にしないことを約し、梵天・帝釈から当国の鎮守諸神までの神罰を掲げて誓った起請文。
永禄九年七月二日 / 冊子 147頁
日新が本田九郎右衛門の各地での度重なる忠節を忘れないとし、その褒賞として伊作入来名内の原薗および水田一町・畠地一町を永代にわたり違乱なく与えるとした鑑札。
(天正六年)十二月十七日 / 冊子 560頁
島津義久が星野九郎へ、今回の不慮の戦乱に際して島津家の幕下となる意向を喜び、祝意の使書・太刀・織物に謝した。今後も隔意なく連絡を続けたいと述べ、返礼として太刀一腰と織物一端を贈った。
(天正七年)五月廿七日 / 冊子 637頁
島津義弘が星野九郎へ、年頭の祝儀として太刀と杉原十帖を受け取ったことを喜び、前年冬にも星野方の使者が鹿児島に滞在して示した厚意を謝した書状。本文注記は天正七年の可能性を指摘する。
天正九年九月二十六日 / 冊子 701~702頁
新納忠元が星野九郎へ、音信が滞ったところ丁重な見舞いを受けた礼を述べる。肥後方面が残らず制圧されたことを祝い、太刀一腰と百疋への謝意を示し、筑後方面では談合中に豊後勢敗北の報が届いたので諸口も間もなく静謐になるだろうと伝え、賢慮と忠節を求める。
(天正13年)4月10日 / 冊子 2頁
島津義久が賀恵九郎へ、元服について丁重な使節が訪れたことを大いに喜び、申し出のとおり承認すると伝える。元服の祝儀として馬一疋を贈り、まずは祝意を示した書状案。「隈本三人へ」の御書案として収録され、使節による元服承認と馬の贈答を伴う武家儀礼が簡潔に記されている。
(慶長元年)三月十日 / 冊子 12頁
友枕斎如貴が伊勢弥九郎へ新年の祝意を述べ、帰朝命令が出て近日上洛する見込みを喜び、迎えに出て祝意を伝えたいとした。前年十二月二十三日付書状を受領し、在番中の無事を喜び、贈られた綸子一巻への礼を述べる。さらに聖門様への音信と依頼された手本を送ること、伏見にいる武庫が大閤から御殿を拝領したことを伝え、ゆかり二具・御筆五対を祝儀として進上した書状。
(慶長元年)六月二日 / 冊子 27頁
友松斎如貴が伊勢弥九郎へ、現地が無事に整い帰朝も近いと聞いて待ち望み、長期在陣の辛労とたびたびの手柄が太閤の耳に達したことを名誉と称えた。縮一端の進上と返礼品について伝え、途中の雨に備えて傘を怠らぬよう人々に申し含めること、銀子十両への礼を述べた。安元の様子は本田源右衛門が説明するとし、取り成しを頼んだ書状。
(慶長二年)二月六日 / 冊子 76頁
伊集院幸侃が伊勢弥九郎へ、忠恒の書状を拝見し、高麗奥への出張に備えて軍衆の渡海を進め、武庫の下向によって遅れていた人数も順次渡すと伝えた書状。返上米については京都での取決めどおり銀子を数量に合わせて上納することなど、軍役と財務の処理を指示する。
慶長二年二月廿九日 / 冊子 92頁
伊集院抱節と比志島国貞が、困難な渡海を果たして参陣した忠節を賞し、知行十石を充行う旨を伊集院九郎に証した連署状。
(慶長二年)三月十一日 / 冊子 93頁
了斎が伊勢弥九郎方へ、長期在陣の辛労を察し、無沙汰を詫びた書状。武庫が渡海する際に船元まで送り、無事に同道して帰朝することを願っていると伝え、軽微ながら裏袋一つを贈る。
(慶長二年)六月九日 / 冊子 107頁
伊勢如貴が伊勢弥九郎に、長く音信がなく、帰朝すると聞きながら実現していないため安否を案じた書状。武庫の無事の着船を尋ね、幸相が一昨日上洛したこと、自身も奉公を怠らないことを伝える。
(慶長二年)七月十三日 / 冊子 117頁
伊集院幸侃忠棟が伊勢弥九郎に、又八郎の書状を受け、赤国出勢の人数確保について答えた書状。在京衆や軍役免除者もいて二十万石分の人数を整えるのは困難で、小給人衆も千人ほど不足しているため、残る人数を差し渡すよう求める。
(慶長三年)九月十四日 / 冊子 236頁
友枕斎如貴(伊勢貞知)が伊勢弥九郎に、山田弥九郎の書状で現地の無事を知った一方、島津義弘(武庫)の病状を案じて照門に七日間の祈祷を依頼し、祈念の札と守を送ったと伝えた書状。銀子七枚の進上を使者との対面時に披露したこと、諸将の引陣が決まったことを祝い、帰朝時には迎えに出ると述べる。
(慶長三年)十一月三日 / 冊子 274頁
安弥左衛門尉が(慶長三年)十一月三日付で伊勢弥九郎へ出した書状。初めて和泉と同陣した際に受けた懇意と言葉への感謝を述べ、各方面から出た唐人を時を移さず討ち取った働きは日本中に隠れのない比類ない手柄だと称える。帰朝の折には図書頭殿のもとへ参上して直接祝意を述べたいとする。
(慶長三年)十一月十八日 / 冊子 283~284頁
島津豊久が(慶長三年)十一月十八日付で伊勢弥九郎へ出した書状。蔚山・西生浦の勢が十七日に撤収して無事到着し、この日に出船したこと、竹島・昌原も前日に引き払ったと伝える。順天方面の番船が追い払われたとの風聞を喜び、自身の在所には異変がない一方、見舞いの使者を出せない事情を説明する。
(慶長三年)十一月廿日 / 冊子 284頁
島津豊久が(慶長三年)十一月廿日付で伊勢弥九郎へ出した書状。順天方面の番船と交戦して味方の船も出たとの知らせを受け、家中の負傷者や現地の様子を案じる。加藤主計頭・黒田氏・鍋島氏が当地へ来たものの急迫した様子ではないと伝え、使者を送れないため、詳しい状況を返信で知らせるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 298頁
豊臣氏奉行衆が伊東民部大輔・相良宮内大輔・高橋九郎・秋月三郎・島津又七郎(島津豊久)の九州諸将へ、明軍・番船の出現を受けて藤堂高虎を派遣したことを通知した連署状。敵が在陣中なら船手衆と相談して応戦し、退散後は諸城を釜山浦へ集めて帰朝し、藤堂の指揮に従うよう命じる。
(慶長三年)十一月廿八日 / 冊子 299~300頁
北郷忠能が、朝鮮での戦況が有利に運び、天下に名誉が伝わったことと、無事の帰陣を祝う。寒中に引き続き上洛する苦労を気遣い、本来は参上して祝意を述べるべきところ事情により果たせないため、上京を待っているとして、伊勢弥九郎に披露を依頼する。
(慶長四年)十一月廿六日 / 冊子 469~470頁
島津忠豊が伊勢弥九郎に、当地での働きと辛労をねぎらう。本来は参上して申し上げるべきところ、まず飛札を送り、勝利は確実と見込む。今しばらく滞留するなら必ず参謁するとし、現地の状況を報じるよう求める。詳細は鍋倉作右衛門尉に申し含めたと付記する。
慶長六年四月二十五日 / 冊子 760頁
島津忠長・比志島国貞・鎌田政近・平田増宗が、土持次郎九郎に南郷村内の五百石を加増し、所務を命じた目録。
文禄4年4月9日 / 冊子 875頁
新納弐右衛門尉が、上洛以来の奉公に感謝し、御前で聞いたことを他言せず、主君に害となる情報は必ず報告すると誓った起請文。世情が変転し親子兄弟が分かれても、他人・他国を頼まず忠節を守るとする。 さらに流行する一向宗へ心を寄せないことも明記する。秘密保持・情報提供・宗教的立場まで具体化した、家臣統制の重要史料。
文禄4年5月24日 / 冊子 884頁
忠清は、帰国して上洛した一行の労苦をねぎらい、島津忠恒がなお在番しているため気遣われると伝える。 漢国と日本の和睦をめぐる使節が目前に来ているとの風聞に触れ、自身の病状は竜伯の薬と養生で快方に向かったと報告する。
文禄五年十一月十九日 / 冊子 53頁
新納忠貞が、現在の指示に背かず忠節を尽くすことを誓い、違背した場合には諸神の罰と地獄の苦患を受けると記した起請文。
(慶長四年)三月十一日 / 冊子 357頁
比志島国貞が、上意により出水へ赴き、異議なく城請けを済ませたことを報告する。出水は予想以上に見事で城もよく造られていると述べ、武庫様が移ることになれば地域も治まるだろうとし、処置を遅延なく決めるよう求める。
五月廿四日 / 冊子 145頁
帰国許可を得て五月十日に国元へ着き安堵したこと、忠恒は合戦場で在番中だが、中国・日本の講和使節が朝鮮へ出されたとの風聞から勝利と早い帰国を期待すると報告した。前年以来の病も龍伯から薬を与えられて半ば回復し、在国療養で全快する見込みだと伝えた書状。
七月廿日 / 冊子 193頁
伊集院忠棟からの相談を受け、翌晩の儀礼で飛鳥井殿へ銀子三枚、取次衆二人へ各百疋を贈ればよいと伝えた。相公が格別に尽力したため何らかの進物が必要ではないかとして、翌日の方針を尋ねた書状。
三月廿三日 / 冊子 367頁
御詠を再三吟味し、初句から結句まで申し上げるべき難点はなく、特に『明け残したる』との表現を称賛した沙弥某書状。
年月日未詳 / 冊子 691-698頁
関ヶ原前日の布陣から本戦、島津義弘(惟新)の敵中突破と伊勢路への退却を、黒木左近兵衛・平山九郎左衛門らの証言で整理する。島津豊久(中務大輔)・山田有栄・木脇休作らの戦闘、伊吹山方面での義弘との合流、殿軍の交替、住吉・堺での潜伏と出船、大坂の夫人方の救出、豊後沖での船団被害、十月三日の帰着までを詳述する。
年月日未詳 / 冊子 645頁
関ヶ原の大軍乱戦中、川上四郎兵衛が味方の手勢から離れ、井川の飛び石を渡って退いた際、若い家臣が付き従ったものの再び離散したため、合戦の詳しい様子を知らなかったと述べる。
年月日未詳 / 冊子 645頁
敵味方が合戦に入る前から鬨の声がたびたび上がり、島津方の鬨の声は高橋喜兵衛を先頭に発したと記す。
年月日未詳 / 冊子 645頁
二匹の白狐が島津陣前の池を渡って敵勢の方へ向かい、ほどなく草原を通って戻ったため、将兵が合戦の吉凶を案じたという記事。
年月日未詳 / 冊子 646頁
開戦前、長野勘左衛門が敵勢へ切り込み一人を討ち、その首を携えて川上四郎兵衛のもとへ戻り、本日の討初めであると報告した。その後、長野勘左衛門はほどなく討死したと記す。
年月日未詳 / 冊子 646頁
戦場が乱れる中、川上四郎兵衛が毛利覚右衛門に、殿様の行方について申し合わせたいと伝えたところ、覚右衛門は直ちに参ると答えて敵勢へ切り込んだ。申述者は覚右衛門が小岡を越えて駆け込むところまで見届け、ほどなく討死したであろうと推定している。
年月日未詳 / 冊子 646頁
井伊直政(原文は「伊井掃部殿」)を、川上四郎兵衛の配下で源藤という者が鉄砲で撃ったと伝えるが、申述者自身は確実には知らないとする短い証言。源藤の姓は記されていない。
年月日未詳 / 冊子 646頁
伊勢平左衛門が采配を振って指図する間、島津の供衆が鉄砲を撃ち、ほかの者が弾薬を込めて追撃する敵を防いだことを記す。その間に島津義弘(惟新)が退却の支度を整え、身を隠すための装いを用意したとする。
(文禄2年)正月3日 / 冊子 662頁
豊臣秀吉が島津豊久ら各地の留守居衆へ、高麗から私用のため帰航させた船に、船主の兵糧・荷物を期限までに積み、速やかに再渡海させるよう命じた朱印状。美濃部四郎三郎と松井藤介を奉行として派遣し、浦ごとの船数と兵糧量を案内者とともに調査・記録させ、空船には名護屋で米を支給すると定める。朝鮮出兵を支えた船舶・兵糧輸送の実務統制を具体的に示す史料。
(慶長三年)十一月廿五日 / 冊子 297~298頁
豊臣政権の五大老が九州諸将へ、朝鮮に明軍と番船が現れたため藤堂高虎を派遣したと通知する。敵が在陣していれば現地の船手衆が相談して応戦し、報告に応じ九州に待機させた船手・兵員を急派するとする。敵が退散した場合は徳永寿昌・宮木長次への先命どおり諸城を引き払い、釜山浦へ集結して帰朝し、全般を藤堂の指図に従うよう命じる。
〔慶長三年〕十一月廿五日 / 冊子 299頁
豊臣氏奉行衆が九州諸将の陣所へ、明軍・番船の出現を受けて藤堂高虎を派遣したと通知する。敵が在陣中なら船手衆と相談して応戦し、報告に応じ九州から船手・兵員を送るとし、退散後は諸城を釜山浦へ引き取って帰朝するよう命じる。No.595と同じ撤収方針を、島津忠豊ら九州諸将へ伝えた文書である。
(寛永八年)正月廿八日 / 冊子 249頁
山奉行の内田仲左衛門・大窪半兵衛が、島津又八郎の武芸鍛錬のため竹子鹿倉山を猟場とする願いについて、又八郎の家系と実父島津家久の朝鮮・琉球での軍功などを挙げ、国政への参与を願い上げた上申状写。
年月日未詳 / 冊子 1~3頁
当山国長・楡井頼仲・肝付兼重が薩摩・日向で争った経緯を背景に、島津氏久方の山田弥九郎らの戦闘、横山城・志布志松尾城の攻防、兼重と頼仲の最期を記す。末尾に、頼仲が自害前に書き残した位牌表・辞世の偈頌と和歌を掲げる。
永享二年八月廿四日 / 冊子 348頁
さはにしが、兵衛九郎の作地と堀二郎右衛門の作地に関わる山野を六貫文で本物返しに入れ、三年を年期として元金返済時の請戻しを定めた仮名書き証文。
年月日未詳 / 冊子 619頁
調所九郎兵衛尉・平山越後入道らに贈る太刀・弓・紙・扇などの引物を、人別に書き上げた文書。
年月日未詳 / 冊子 719頁
宮里孫九郎正勝が天文二年七月三日の薩摩百次合戦で太刀初めをし、その時は彦六左衛門尉と称したことを記す系図記事。
(永禄三年)五月十六日 / 冊子 76~77頁
島津貴久が歳久に、蒲生から九郎をその方へ移すことを知らせ、加世田での談合後に末吉へ上る予定や、鹿児島で迎え、月末には境へ出陣する覚悟を伝え、用心を促した書状。