島津武久書状
年月日未詳 / 冊子 493頁
島津武久が飯尾前大和守・布施下野守に、琉球国からの渡海船を先例どおり取り扱うこと、御奉書の趣旨に従うことを述べ、公私の事や讒言・凶書を互いに隠さず知らせるよう求めた書状。
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年月日未詳 / 冊子 493頁
島津武久が飯尾前大和守・布施下野守に、琉球国からの渡海船を先例どおり取り扱うこと、御奉書の趣旨に従うことを述べ、公私の事や讒言・凶書を互いに隠さず知らせるよう求めた書状。
永禄十三年八月六日 / 冊子 238頁
佐藤秀家が安楽下野介に、新当流五具足と灌頂の次第、太刀十三に関する伝授に疑いがないことを証した文書。鹿島明神・香取大明神・八幡大菩薩・摩利支天を掲げ、島津貴久の判もある。諸国のどこでも望む者へ指南することを第一とする。
(天正15年)2月17日 / 冊子 292頁
本文を省略し、島津義久の署名と「伊集院下野守殿」の宛所だけを掲げた短い掲載形態。前掲文書と同趣旨の感状である可能性があるが、切り抜き上は本文を確認できないため、戦功内容の断定を避ける。
天正17年7月2日 / 冊子 449頁
島津義久(龍伯)が、長年にわたり内外で格別の奉公を続け、今回も神文によって心底を示した伊集院下野入道を称賛した書下。 これまでの忠勤への謝意を述べ、今後も忠貞を励むよう求めている。
文禄4年2月22日 / 冊子 866頁
伊集院下野入道が神前で示した決意を、島津家と義弘父子への忠節として評価した感状。神々の照覧を掲げ、今後も心変わりなく奉公することを求める。 本田六右衛門尉宛の前文書と同系統で、義弘が有力家臣に忠恒への支援を誓わせた主従再編の一例となる。
文禄4年2月28日 / 冊子 867頁
伊集院下野入道が三か条にわたり神前で示した決意を、島津家と義久らへの忠節として評価した感状。春日・八幡・天満天神の照覧を掲げる。 同心の意志を決して忘れないと約束しており、鎌田出雲守宛の感状と同じ形式で、有力家臣との結束を個別に確認した文書である。
文禄五年正月十四日 / 冊子 1頁
島津忠恒が伊集院下野入道へ、国元の改易と諸侍の知行支配には自分が不案内であるため、在国する龍伯・武庫が判断すると伝えた。両者が同意しない場合にも忠恒が取り成して知行を宛行うと約し、引き続き忠節を尽くすよう求めた証状。
(文禄五年)八月十日 / 冊子 38頁
島津義弘が伊集院下野入道へ、長期在番の辛労をねぎらい、大明勅使が無事来朝したので秀吉との対面後には在番衆も帰陣できる見込みだったと伝える。しかし七月十二日の大地震で大坂・伏見の御殿が損壊し、勅使との対面が延期されたため、帰朝までの間は番を油断なく勤めるよう求めた書状。
(慶長二年)正月廿八日 / 冊子 75頁
島津義弘が伊集院下野入道へ、旧冬に石田治部少輔が渡海した際に革二枚を贈られた礼と新年の祝意を述べた書状。今回、新納将監・波多彦兵衛尉を使者として渡海させるので、両人の申し入れを聞き届け、諸事に力添えするよう求める。
(慶長四年)二月廿四日 / 冊子 353頁
島津忠恒が伊集院下野入道に、朝鮮での大勝利、知行拝領、少将任官を祝うとともに、竜伯から重物を渡された慶事を伝える。国元の処置は竜伯・兵庫と相談しており、出水地頭を相手に頼みたい旨を両殿へ申し入れたので、竜伯の指示に従って精勤し、出水方面を特に心配しての依頼であるため辞退しないよう求める。
(慶長四年)七月十三日 / 冊子 402頁
島津義弘が伊集院下野入道に、見廻のため現地に引き続き滞在している労をねぎらう。時節柄いっそう油断なく任務に当たれば喜ばしいとし、とりわけ普請なども状況に応じて申し付けることが肝要だと伝える。
(寛永十四年)十二月十六日 / 冊子 710~713頁
家久の年寄衆からの返書と二通の御状を受け、黄門へ進上した書状や幕府側の命令内容を照合し、長島・獅子島への兵配置と天草への即時渡海を協議する。肥後勢が十二月三日に三角瀬戸へ到着し、翌日天草へ押し寄せるとの注進を踏まえ、薩摩勢が遅れないよう準備を急がせた。薩摩から首取千人・鉄炮衆千人・馬乗三騎を天草へ遣わすとの取沙汰、山田民部少輔・新納賀州・仁礼左将を獅子島番手とすること、船の手当、本文を流布しないことを記す。島津久慶・伊勢貞昌・鎌田政統の連署で、三原左衛門佐・川上左近将監・島津下野守宛。寛永十四年十二月十六日付。
(寛永十四年)十二月十七日 / 冊子 713~714頁
上使衆の早打に託された先月二十三日付の御状が今月十一日夜に酒井讃岐守から兵部少へ届いたことを述べる。上使は十二日夜半に到着し、翌朝御奥で対面して雑煮の寄合と七五三の振舞を受け、黄門様の胸や手の様子を見た。北郷式部大輔と孫庵が相伴し、上使は引き留められたが十三日夜に出立した。先行して注進した者は海道で上使に追い越され、船で進んだ黒葛原周右衛門・松田七左衛門は五日前に到着したとし、一連の順調な到着を神仏の加護として祝う。島津久慶・伊勢貞昌・鎌田政統の連署で、三原左衛門佐・川上左近将監・島津下野守宛。寛永十四年十二月十七日付。
(寛永十五年)二月三日 / 冊子 749~751頁
阿久根宿泊に際し、地頭衆の滞在で不自由が予想されるため、四郎左衛門を帰すか地頭衆を戻すか相談するよう指示し、出水までの宿泊・昼休みの割付を別紙で送る。黄門様の容体がこの三日軽快していること、薩州様の船が大雨で遅れていること、迎えの者を順次派遣したことを伝える。天草在番衆に油断なく警戒させ、富岡の状況を詳しく注進するよう求める。軍衆の祈念として六十六本の御神舞を行ったこと、兵粮を積めないため二千余人を召し戻す相談、天草番手を五、六千人とし江戸から三千人を遣わす案、百石につき三人の軍役を記す。さらに琉球船が米二百六十石・上布・焼酎などを積んで山川へ来たため、出水へ回航するよう岩切六右衛門へ指示した。川上久国・三原重庸の連署で、山田民部少輔・島津下野守宛。寛永十五年二月三日付。
三月廿九日 / 冊子 216~217頁
北条貞時が島津下野三郎左衛門尉から砂金五十両と太刀一腰を受領し、厚く謝意を伝えた書状。贈答品の数量を明記する。
四月十二日 / 冊子 428頁
松浦鎮信が本田下野守へ、例年の祝儀を重ねて受けたことに謝し、諸邦から厚遇されて静謐に過ごしていると伝える。返礼として太刀一腰(金覆輪)と縮五端を進上し、今後も変わらぬ交誼を求めた書状。
(文禄元年)4月1日 / 冊子 540~541頁
島津義弘が、渡唐に必要な米・船・人員などの処置を示し、国元の重臣四名に相談のうえ速やかに実行するよう求めた書状。軍船・兵粮・人員の調達遅延が出陣と家中の体面に関わるとして、各所への催促と役割分担を厳しく督促する。
(天正20年)4月2日 / 冊子 541頁
落合重次が、長く書状を送らなかったことを詫び、鷹之巣の件で朱印を受けたものの、椎葉山に以前からの主張があるため下向を延引していると伝える。先に使者を遣わして根拠を調べ、前年に置いた鳩もこの便で渡してほしいと頼み、朱印を持参したので受け取るよう四名へ求めた。
(元和二年)四月十六日 / 冊子 624頁
遠路の見舞使者を喜び、駿府で家康・秀忠両御所へ無事拝謁して早々に帰国の暇を得たことを報告し、音信として銀子三十両を受け取った礼を述べた島津家久の書状。
(元和二年)六月八日 / 冊子 629頁
唐船の着岸・琉球への渡航など海上交通の動向を伝え、琉球佐敷王子や金武王子の渡海に関する相談と今後の対応を求めた島津家久の書状。
二月九日 / 冊子 189頁
金武王子を急遽薩摩へ派遣し、琉球国について従来から願ってきた事柄を、老中らの分別によってよく守れるよう哀憐を加えてほしいと頼み、詳細を金武王子の口上に託した中山王尚豊書状。
(元和八年)七月十二日 / 冊子 784~785頁
島津家久が下野守へ、虎寿丸を国分の子として家を相続させることに亀寿が格別満足していると伝え、翌月の吉日に虎寿丸を国分へ移して祝儀を行うと決まったことを知らせた。家久自身も以前から望んでいたことであり、喜入摂津守・伊勢兵部少輔から詳しく伝えるとした書状。
(寛永六年)閏二月四日 / 冊子 88頁
永井白元が、将軍徳川家光は機嫌がよく疱瘡の経過も良好で、食事や粥を取れるまで回復し、大御所徳川秀忠も大いに喜んでいると島津下野へ速報した書状。
(天正19年)8月5日 / 冊子 512~513頁
島津義弘が、前年に石田三成・細川幽斎・竜伯らの談合で定められた薩摩・大隅の指出提出が遅れていることを問題視する。村数・屋敷・田畠、家臣の知行、米・大豆などの収納を国枡で明確にし、京へ帳面を提出して軍役人数の基礎とするよう重臣四名へ命じた。遅延や隠田・隠人を厳しく戒め、領国把握と軍役編成を連動させる統治文書。
(寛永四年)四月廿四日 / 冊子 34頁
喜入忠続・伊勢貞昌が、薩摩殿父子の御目見は又三郎の腹痛で延期されたが四月二十三日に実現し、両御所が一同の参上を大いに喜び、兄弟も御前で褒美を受けたと早打で報じる。
(寛永十一年)七月四日 / 冊子 432~433頁
相良頼兄が、家久・忠元らの無事の上京を祝し、将軍の江戸出馬情報や当地で胡麻焼酎を仕置く件を伝え、贈られた球酒(琉球酒)大壺一つに礼を述べた書状。
四月一日 / 冊子 110~111頁
石田三成の不興を解いて安宅秀安を下向させたので、替米・進上米、太守の早期上着、新たな人物の上洛という三件を必ず整えるよう老中衆へ迫り、どれか一つ欠けても家の安泰が損なわれると警告した書状。
年月日未詳 / 冊子 45頁
『殉国名藪』が、貞治五年四月十六日に種子島対馬守頼時が菊池武光と肥後白岡で戦死し、家臣の九郎左衛門家信・下野小藤太秀遠も従ったことを記す。年紀には羽島久成申状との相違を注記する。
建徳元年十一月廿一日 / 冊子 54頁
征西将軍宮が、智覧忠泰の申請に基づき、亡父忠元の譲状どおり薩摩国智覧院・河辺郡を忠泰に領掌させるため、敏嶋下野守と共同で現地沙汰するよう命じた令旨。
応安八年四月廿日 / 冊子 79頁
今川了俊が細川頼之に、島津下野入道道壹の訴訟を薩摩国守護島津伊久が取り成して挙状を提出したとして、その内容を披露し沙汰するよう求めた書状。
永禄九年十月十九日 / 冊子 156~157頁
永禄九年十月十九日、島津貴久の使者伊集院下野守が、高原所領を霧島六所大権現へ寄進する旨と祈念を伝えたことを記す私覚。高原は神代以来の神地であるとし、証跡として太刀を座主に渡した後、頼継が日数を置いて返進したこと、使者の子が冠嶽和光院の僧となったことも書き留める。
天正十一年十一月十八日~二十日 / 冊子 800頁
島津義久の病気を重病と恐れた相良忠房が、一万句連歌の興行を立願し、天正十一年十一月十八日に成就した記事。深水宗方が八代の上井覚兼に頼み、懐紙の発句を作らせた。同二十日には北郷忠虎から、内空閑下野守を島津旗下へ誘ったとの報告があり、島津方は途中で再度真偽を確認するよう答えた。
年月日未詳 / 冊子 305頁
豊臣秀吉の大軍下向によって九州諸勢が豊臣方へ属し、島津義久が日向から都於郡へ退いた後、重臣らが今後の方針を協議した記事。北郷一雲斎・伊集院下野入道・鎌田出雲守・本田下野入道・喜入氏父子らが談合し、北郷一雲斎は義久を庄内へ迎えて最後の一戦を行い、島津家の運を開くべきだと強く主張した。降伏か抗戦継続かをめぐる家中の緊張が分かる。
年月日未詳 / 冊子 570頁
名護屋に徳川家康ら東国・北国・畿内の軍勢が集まり、秀吉の朝鮮出兵を支える一方、島津義久の家臣である比志島紀伊・伊集院下野・本田刑部・東郷安房らが召し出された経緯を記す。 梅北一揆への関与を疑われた島津側について、浅野弾正の取り成しや秀吉の吟味を経て処置が定まるまでを述べ、朝鮮役と島津家中事件が交差する記事である。
(文禄2年)6月20日 / 冊子 653頁
大島忠泰が「御請国」の際に薩州様から知行を与えると約束されながら、出立時に必要な書状が付されず、給付が実現していない事情を伝える。 伊勢貞昌は弾正大弼・下野守へ書状を送り、大島側からも事情を申し入れるよう勧めており、未処理の知行給付を実現するための取次状。
(慶長三年)十月廿日 / 冊子 266~267頁
宗義智(羽柴対馬守吉智)が(慶長三年)十月廿日付で島津又八郎忠恒らへ出した書状。頻繁な使者による懇意に謝し、十七日夜に順天から「扱之唐人」が出たとの報を受け、西堂・下野も順天を退出したが別条はないと伝える。番船が出ないため遠見役を置いて警戒し、疑わしい動きがあれば直ちに注進すると述べ、詳報は使者に託す。
年月日未詳 / 冊子 108頁
片桐貞隆が慶長十二年三月十六日付の書状で、清須下野守忠吉が同月六日に江戸で死去したことを島津家久へ知らせた、と記す譜記事。
(慶長十二年)三月十六日 / 冊子 108頁
慶長十二年三月十六日、片桐貞隆が清須下野守忠吉の江戸での死去を知らせ、弔問使者を送るべきか島津家久に相談した書状。徳川家康の小田原・駿河方面への移動や畿内の平穏にも触れる。
(慶長十二年)三月十七日 / 冊子 108頁
慶長十二年三月十七日、片桐貞隆が前日に続き、清須下野守忠吉の死去に際して江戸へ弔使を下すことや近隣諸国への通知について島津家久に助言した書状。
(寛永六年)三月十八日 / 冊子 91頁
島津家久が、又三郎忠元の縁組を祝う使札が遠路から届いたことを喜び、懇切な配慮に謝意を表す。詳しくは下野守から伝えると喜入摂津守へ知らせた書状。
廿一日 / 冊子 97頁
島津家久が、先ほどの消息への返事をしなかったため気掛かりだったと詫び、事情をよく理解してほしいと伝える。下野守に関する件が長く安定するよう願い、詳しくは面談時に話すとする仮名書きの書状。
(寛永七年)十二月廿九日 / 冊子 186頁
側近に遠慮なく意見する者がいるか、従来の談合が維持されているかを問い、鹿児島で安芸守・下野守・弾正の屋敷へ落書が投げ込まれた件を報告する。さらに各奉行の職務遂行、家老への態度、役人中の怠慢や身びいきを調べるよう求めた覚書条書。
(寛永九年)十一月二日 / 冊子 322~323頁
軍勢編成の覚書。大将を兵庫頭殿とし、その六百六十七人をはじめ、安芸守・下野守・中務少輔・喜入摂津守・川上因幡守・三原左衛門佐らの人数を列記し、合計千八百十三人とする。
(寛永十一年)五月廿八日 / 冊子 428頁
島津家久が、下野守の上洛を機に現地の配当を両人で十分に談合し、永続する支配であるため親疎なく憲法に従って処理するよう命じた書状。
寛永十三年四月廿六日 / 冊子 537~541頁
島津久慶(弾正大弼)・島津久元(下野守)・川上久国・伊勢貞昌・山田有栄・三原重庸・鎌田政統が連署し、家中の政務処理を定めた「物定三十五条」。旧例・訴え・奉公上の申立ての扱い、家老衆・物奉行衆・賦衆・普請奉行等の職掌、知行・扶持・切米・納銀・欠米売買、江戸勤番・役人交替、訴訟・借銀・家中統制、年貢・諸役・蔵入などの処理を定める。末条では諸料物・調所の代物を別納し、神社・仏閣・橋の建立や給付の費用に充てることを定め、談合で決定した条々に違背しないよう命じる。本文は冊子537~541頁、日付は寛永十三年卯月二十六日。
年月日未詳 / 冊子 285頁
島津忠宗の譜中記事。久長について、伊作と号し、初名を忠長、通称・官途を彦三郎・左衛門尉・下野守・大隅守としたことを記し、子孫は別紙に記すとする。女子の記載もある。
年月日未詳 / 冊子 306~308頁
太平寺で島津義久に近侍した「御供七人」について、姓名と人物関係を考証した伊地知季安の注記。伝承によって人数・顔触れ・通称が異なることを示し、古記・家譜・口伝を照合しながら家臣名を確定しようとする史料批判の跡が分かる。
寛永二年十月朔日 / 冊子 830~831頁
琉球三司官らへ、銀子百貫目の下付、銀子二十貫目の借入れ、山鹿越右衛門尉に関わる唐物隠匿、八重山へ来た南蛮人の琉球送還、今年の出銀半減、後日の銭の引渡し、他国人の琉球居住禁止など、複数の処置を箇条書きで指示・確認した連署覚書。
寛永八年八月四日 / 冊子 224~225頁
押米などの未進によって知行を召し上げる場合の換算基準を定める。土地を上・中・下に分け、一石当たりの収量区分と代銀を示し、没収地は永代返還せず、郷村役人が各坪へ等級札を付けて提出し、怠慢があれば処罰すると命じた連署達書。
(寛永八年)九月朔日 / 冊子 229頁
諸役人から押物を上納する際、四十匁以上は現銀で受け取ること、押物のために身上が尽きた者からは品物による上納も認めること、御物方から現銀を受け取った者は返上も銀で行うことを定めた三名連署の掟書。