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旧記雑録拾遺 著作史料集4の目録
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旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID w6:544 鹿屋理右衛門家系図
鹿屋理右衛門家の系図。祖の鹿屋純慶について、鹿屋領に居住したこと、乱世に戦死したこと、墓を大松寺の木のもとに置いたことなどの伝承を記す。以後、亀千代丸・弥九郎理右衛門らの相続、婚姻、出生、法名、奉公関係をたどり、寛文年間に生まれて島津久侶に奉公した兼矩らに至る。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID w6:545 鹿屋勝左衛門家系図
伴氏朝臣鹿屋氏のうち鹿屋勝左衛門家の系図。鹿屋甲斐が慶長年中の高麗陣に、鹿屋勝左衛門が琉球陣に勤仕したことを記し、兼矩・兼乗・兼益・兼如・兼家らの親子・養子・婚姻関係、出生年月日、没年・法名を列記する。高山衆としての軍役と近世の家族構成を伝える。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID w6:546 鹿屋仁右衛門家系図
鹿屋仁右衛門家の系図。鹿屋周防介兼詮を起点に、天文元年に二十九歳で没し肝付祓川に墓を置く兼貞、兼秀・兼長・兼慶を経て、仁右衛門尉兼信・兼記・兼次らに至る系統を記す。各人の没年、法名、婚姻・養子、帖佐・加治木での出生や居住を示す。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID w6:547 大追物手組
応永二年二月二十九日の大追物手組。伊東殿、島津又三郎、島津越前守、稲津弥次郎、伊東伊豆守、島津弥三郎、島津修理亮、野村源五、湯地五郎四郎、鹿屋周防介、島津殿、伊東遠江守を組み合わせ、検見を島津上野入道とする。旧記雑録前編所収文書と同一と注記される。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID w6:548 鹿屋兼詮覚書
鹿屋周防守兼詮が、日向国飫肥で各家の由緒を書き記し、弓馬の道を嗜んで三日間の犬追物に参仕したことを後代の子孫へ伝えるために記した覚書。弟が他家の養子となって豊浦左近将監幸綱と名乗ったこと、惣領家は肝付であるべきことを付記する。応永二年三月十七日付。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID w6:549 鹿屋兼長由緒書上
鹿屋壱岐守兼長が子孫へ残した家の由緒・軍功書上。兼秀が肝付祓川から帖佐を経て球磨へ移った経緯、父恒治の早世と墓所、薩摩・肥後・川内・筑前・高麗などでの合戦・使者役・城務、島津義久・義弘のもとでの奉公、知行や証文・道具の伝来を列挙する。末尾で後代の奥書継承を命じ、鹿屋二右衛門尉兼慶へ附属する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:1 勝部宗将書付並猿渡越中流系図
勝目宗将の書付と猿渡越中守流の系図。猿渡掃部兵衛が羽月地頭時代に高麗へ渡海し、十一月十八日に四十四歳で戦病死したこと、法名、弟による跡目相続、四百石の知行、加治木・帖佐への移動、子女・養子関係を記す。延宝五年九月二十五日、勝目助左衛門宗将から山元孝右衛門へ提出した系譜書付。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:2-1 猿渡信安由緒書付
猿渡信安が自家の系図・由緒について記した書付。猿渡少左衛門後室の覚えを勝目助左衛門宗将から受け、猿渡家の代々の相続、八百石の知行、養子関係などを検討する。後室の伝承と自家の系図に相違があるため、系図を書き立てて照合を求め、別紙口上覚を添えて山元孝右衛門へ送った。延宝五年十月十五日付。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:2-2 猿渡信安口上覚
猿渡喜右衛門信安が自家系図の相違点について述べた口上覚。猿渡少左衛門後室への照会に際し、勝目助左衛門から送られた書付と自家の代々の記録に相違があるため、系図と由緒書付を調べ直して判断してほしいと申し入れる。延宝六年三月十七日付、山元孝右衛門宛。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:3 勝目宗将覚書
勝目助左衛門宗将が、石庵妙庵大姉の出自と猿渡家の系譜照会への対応を記した覚書。石庵妙庵大姉は天正十四年生まれ、寛永六年十月十八日に帖佐で四十四歳で没し、猿渡越中守の子・掃部兵衛の娘であるとする。系図作成に必要な返答書の催促と照会経緯を記し、延宝六年三月十三日、猿渡喜右衛門信安宛に送る。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:4 勝部宗将書状
勝目助左衛門宗将が猿渡信安の先祖由緒について返答した書状。猿渡越中が日向根白坂で戦死したとの伝承、猿渡掃部兵衛の高麗での戦死と帖佐惣禅寺の石塔、石庵妙庵大姉との関係を述べる。さらに、朝鮮で掃部兵衛と同様の働きをした敷根仲兵衛家の証書を、跡目を願う義耕和尚へ渡した経緯を記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:5 猿渡信安証状
猿渡信安が、安宅三郎兵衛の先祖敷根仲兵衛と自らの曽祖父猿渡掃部兵衛との高麗での関係について証した書付。文禄二年春、石田治部少輔・大谷刑部少輔・増田右衛門佐・加藤主計頭らが在陣するなか、掃部兵衛が書状・感状を携えて使者を務めた経緯と、失われた証拠書類を写しによって確認したことを記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:6 猿渡信安届書
猿渡信安が先祖の地頭歴を記録所へ届け出た書付。猿渡越中守が加世田・羽月地頭となり、天正年中に知行を羽月へ移して城内に居住したこと、猿渡掃部兵衛が羽月地頭となったことを記す。さらに猿渡興三の栗野地頭、猿渡喜右衛門尉の川内山田地頭就任を挙げ、不明な年代は追って調査するとする。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:7-1 猿渡信安口上覚
猿渡信安が嫡子猿渡監物の初御目見と太刀進上を願った口上覚。信安自身は十歳で父監助を失い、十一歳で初御目見したこと、先祖以来太刀を進上してきたことを述べる。監物の家筋と相続事情を示し、先例どおり御目見と太刀進上を許可するよう仁礼覚左衛門に取り次ぎを求める。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:7-2 猿渡信安家筋由緒覚
猿渡信安が嫡子監物の初御目見願いに添えた家筋由緒覚。曽祖父猿渡越中の加世田・羽月地頭就任と日向伊東氏・高城での大友氏との合戦、肥前知々輪での軍役、猿渡掃部兵衛の羽月地頭就任と高麗陣での奉公・戦死などを記す。歴代の相続・養子・知行・感状の伝来を述べ、監物へ至る家筋を説明する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:8-1 猿渡信安口上覚
猿渡信安が二男猿渡助左衛門の初御目見と太刀進上を願った口上覚。二男ではあるものの、先祖代々の奉公と分家筋の由緒を踏まえて御目見を仰せ付けてほしいとし、あわせて太刀を進上する許可を求める。元禄十二年六月十日付。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:8-2 猿渡信安家筋由緒覚
猿渡信安が二男助左衛門の初御目見願いに添えた家筋由緒覚。猿渡藤三郎の子藤四郎が武蔵守と称し、島津忠久に従って薩摩へ下向したとの伝承から説き起こす。歴代の地頭職、伊東氏・龍造寺氏との戦いや高麗陣での軍功、感状・知行・養子関係を詳述し、村山自伯らの系譜主張や焼失・散逸した証拠書類の照合経緯まで記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:9 村山自伯元徳由緒之覚
猿渡信安が村山自伯元徳の由緒と自家との関係を検討した覚書。自伯から見舞いとして雁一羽・信州蕎麦粉一箱が届き、受領または返却の扱いを伺った経緯を記す。続いて、肥前・長崎で医業に携わり松平彦太夫に招かれた村山家の来歴と、猿渡藤三郎信重・大和守信忠らをめぐる系譜主張を検討し、江戸で証書を取り交わしたことを…
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:10 猿渡信安内意伺書
猿渡信安が猿渡家の古系図写一通の扱いについて内意を伺った書付。猿渡藤三郎信元から二十代の喜右衛門に至る系図で、祖父吉岡宮内太輔久喜が自筆で写し、代々の文書と引き合わせた内容を朱書したものと説明する。系図の由来と保管状況を示し、処置を伺う。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:11 吉利忠名証文
吉利治部忠名が猿渡監物へ与えた古系図写に関する証文。猿渡藤三郎信元から二十代喜右衛門までの系図は吉岡宮内太輔久喜の自筆写で、原本焼失後に返却したため後代まで大切に保管するよう述べる。市来源右衛門家年の証文や、田中国明・隈元太市左衛門を介した系図・旧記照合の経緯を付載する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:12 猿渡信安内意口上覚
猿渡信安が家の本姓を平氏から藤原氏へ改め、近衛家から由緒書を受けることについて内意を伺った口上覚。祖先猿渡藤四郎が近衛基通から藤原姓を受け、六代後の猿渡越中も近衛龍山から由緒書を得たとする。古系図・証文の焼失を述べ、歴代の合戦・地頭職・高麗陣での軍功を列挙し、近衛家による証明の許可を願う。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:13-1 猿渡信安内意口上覚
猿渡信安が猿渡家の本姓を平氏から藤原氏へ改める願いを述べた内意口上覚。元祖猿渡藤三郎、嫡子太郎信景、二男藤四郎実信から薩摩下向後の系統を説明し、近衛龍山から藤原姓を許された由緒と、焼失した御書・系図の再証明を求める。近衛家へ由緒書を提出し、諸大夫を通じて改姓願いを申し上げたいとする。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:13-2 猿渡信安由緒覚
猿渡信安が藤原姓拝受の根拠としてまとめた家の由緒覚。元祖猿渡藤三郎を比企能員の甥とし、源頼朝への奉仕、建仁三年の比企氏滅亡、子孫の薩摩移住を記す。猿渡越中信光が近衛龍山から藤原姓を許されたこと、歴代が合戦で軍功を挙げたことを述べ、近衛家の証明を願う。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:14 蓮光院頼英書状
蓮光院頼英が猿渡信安へ送った書状。先月の結納使者の首尾を尋ねたのち、猿渡家の由緒書と系譜について、内容を簡潔に整えたうえで近衛家へ提出するよう助言する。近衛家の書付を受けるための取り次ぎと、由緒書二通の扱いを説明し、今後も相談に応じる旨を伝える。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:15 猿渡信安書状
猿渡信安が蓮光院頼英へ送った書状。長文の由緒書を短く整えるよう求められたことを受け、家中に伝わる由緒を欠かさず示す必要があると説明する。近衛家から藤原姓の証明書を得られるよう引き続き取り次ぎを願い、龍山以来の系譜と六代にわたる家筋の確認を依頼する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:16 猿渡信安書状
猿渡信安が蓮光院頼英へ送った書状。前夜の面会への礼を述べ、御所へ参上して関白近衛基熙に上京の旨を伝えたことを報告する。藤原姓・家筋を証する書付について進藤刑部太輔長之から許可の見込みを聞き、十四・十五日頃までに整うよう、蓮光院からも取り次いでほしいと頼む。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:17 猿渡信安書状
猿渡信安が蓮光院頼英へ送った書状。大坂の旅宿まで見舞いを受けた礼を述べ、近衛家からの証書を早く拝受したいと催促する。猿渡藤三郎以来の由緒と、猿渡越中信光が近衛家から藤原姓を許された筋を証する文書の取得について、引き続き取り持ちを求める。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:18 猿渡信安書状
猿渡信安が進藤刑部太輔長之へ送った書状。近衛家での取り扱いとこれまでの厚意に礼を述べ、帰国の船便が迫るため、藤原姓・家筋を証する書付を早く下付してほしいと願う。長松にも挨拶する意向を伝え、証書取得への取り次ぎを重ねて依頼する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:19 進藤長之書状
進藤刑部太輔長之が猿渡信安へ送った返書。島津綱貴が陽明御所で関白近衛基熙に対面したため御用が立て込み、猿渡家の藤原姓・由緒を証する書付がまだ出来ていないと知らせる。完成次第大坂へ送るので心配しないよう伝え、引き続き交付を催促すると約す。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:20 蓮光院頼英書状
蓮光院頼英が猿渡信安へ送った書状。島津綱貴が陽明御所で関白近衛基熙に対面した折、猿渡信安も庭先で拝見を許されたことを報じる。猿渡家が藤原姓を許された由緒について近衛家の先祖以来の記録を確認し、御書・証書を取り次いだ経緯を述べる。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:21 猿渡信安口上覚
猿渡信安が二男助左衛門の初御目見と太刀進上を願った口上覚。先に提出した家筋由緒書二通について、その後判明した内容と食い違うため返却を願う。あわせて家老衆から返された感状・書状の経緯と、猿渡越中信光から宇都宮次郎左衛門への羽月移封由緒を鮫島仲兵衛へ書き送ったことを付記する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:22 猿渡信安由緒覚
猿渡信安が、宇都宮次郎左衛門が羽月へ移された由緒について鮫島仲兵衛の照会に答えた覚書。六代前の猿渡越中が加世田地頭から羽月地頭へ移った経緯と、天正十五年の肥後国合志城主一行に対する島津方の処置、猿渡越中・白坂式部らの役割を述べ、家伝の範囲で回答する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:23-1 猿渡信安口上覚
猿渡信安が二男助左衛門の初御目見を改めて願った口上覚。前年六月以来の願いと太刀進上の希望、提出済みの家筋由緒を述べ、猿渡藤三郎・藤四郎実信以来の系統や代々の戦死・奉公を示す。家筋の由緒書を添え、助左衛門の御目見実現を願う。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:23-2 猿渡信安由緒覚
猿渡信安が、祖父代の火災で古系図・文書の多くを失ったため、残存する家伝・旧記と関係家の資料を照合してまとめた家筋由緒覚。比企能員・猿渡藤三郎以来の系譜、薩摩下向、地頭職、合戦・高麗陣での軍功、戦死、相続、近衛家から藤原姓を得た由緒を詳述し、記録所へ提出した『通考家譜』とその大意の作成経緯を記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24 猿渡家通考家譜
猿渡信安が編んだ『通考家譜』の冒頭。猿渡藤三郎信元を高望王七代とする家伝を桓武平氏系図と照合し、比企能員の甥として猿渡庄から薩摩へ下ったとする説を考証する。猿渡庄を尾張国とし、丹後局との親族関係を介して島津忠久と従弟に当たるという家の由緒を整理する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-1 『吾妻鏡』建久六年三月十日条抄并猿渡氏考証
『吾妻鏡』建久六年三月十日条から、源頼朝の東大寺供養参詣に伴う行列と随兵名簿を抄出した考証。石清水から南都東南院へ下向した際の前陣・後陣の構成を列挙し、その中に藤三郎の名が見えることを猿渡家の由緒を裏づける記事として示す。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-2 『吾妻鏡』建仁三年九月三日条抄并猿渡氏考証
『吾妻鏡』建仁三年九月三日条の比企能員余党捜索・処罰記事を抄出し、猿渡藤三郎の薩摩下向を考証する。藤三郎が比企能員方の中心人物であったため本国猿渡庄を離れ、嫡子信景も戦死したこと、比企・猿渡両家が能員滅亡後に『吾妻鏡』へ現れなくなることを家伝と結びつける。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-3 『吾妻鏡』建仁三年九月二日条等抄并猿渡氏考証
『吾妻鏡』建仁三年九月二日条などから比企能員一族の討滅記事を抄出し、猿渡藤三郎・藤四郎の動向を考証する。能員の子息・親類が誅された記事と猿渡家伝を比べ、藤四郎が頼朝から旗を受け、近衛基通から藤原姓と二引の旗紋を許されたという由緒の年代・整合性を検討する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-4 『吾妻鏡』建久元年十二月一日条等抄并猿渡氏考証
『吾妻鏡』建久元年十二月一日条から源頼朝の右大将拝賀行列を抄出し、御剣役を務めた糟屋藤太有季の記事を検討する。建久七年正月・元久二年三月の記事も参照し、猿渡家が御剣役を担ったという家伝、忠久・忠公らの奉公、京都での取次関係を他の旧記と照合する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-5 『吾妻鏡』文治五年九月二十日条等抄并猿渡氏考証
『吾妻鏡』文治五年九月二十日条の波賀次郎太夫らへの旗下賜記事を起点に、猿渡家の旗・姓・奉公・相続を諸記録と家伝から考証する。宮中供仕、鎌倉での猿渡・本田両家の関係、系図と譲状、重忠らの系譜、文和四年櫛木野合戦での戦死を検討し、諏訪舎人家来加治木伴右衛門所持文書の写しを掲げる。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-6 大蔵頼平軍忠状
大蔵頼平が薩州郡山城へ寄せた大隅助三郎入道以下との十八日から二十日までの合戦で、親類・若党・中間が負傷・戦死した軍忠を申告し、証判を求めた軍忠状。末尾の考証は、猿渡家に伝わる複数の一見状が同文書の重複伝来である可能性を検討する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-7 『古跡集』文和四年櫛木野合戦記事等抄并猿渡氏考証
『古跡集』から文和四年九月二日の櫛木野合戦を抄出し、宮方勢に対する猿渡彦次郎入道らの戦功・戦死を考証する。氏久・元久の文書四通や応永四年清色城合戦の記事を年代・系図と照合し、猿渡信忠らの軍功を整理する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-8 『応永記』『山田聖栄日記』清色城合戦記事等抄并猿渡氏考証
『応永記』と山田聖栄日記から応永四年四月下旬の清色城攻撃・陣立てを抄出し、猿渡氏の参陣を考証する。島津伊久・元久を両軍の大将とする記事、猿渡・田代・長野らの名、忠国から西手内を与えられた系譜記事を照合する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-9 文明六年九州行脚僧旧記抄并猿渡氏考証
文明六年八月頃に京都から九州三か国を行脚した僧の旧記を抄出し、十二歳の守護島津武久と鹿児島の譜代衆を記す。猿渡筑前守の名、忠国から西手内を与えられた文書、隈城・隈之城の領有を照合し、猿渡氏の知行と系譜を考証する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-10 『文明記』文明十七年六月二十日条抄并猿渡氏考証
『文明記』文明十七年六月二十日条から、島津国久勢に敗れて猿渡筑前守・同刑部少輔・本田又次郎らが戦死した記事を抄出する。家系図に見えない人物も同時代記録の記載を優先して戦死を認め、備後守実明らの系統と羽月移住を考証する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-11 羽月山之門山之神棟札写
羽月山之門の山之神棟札写。大檀那として藤原氏猿渡備後入道実明と同兵部少輔実昌を記し、両人の子孫繁昌と諸人快楽を祈る。天文十七年十一月二十一日の年紀と、番匠為安・鍛冶家正の名を伝える。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-12 栗野正八幡棟札写并猿渡氏考証
栗野宗廟正八幡の天正十八年二月吉日棟札写。大檀那島津義弘、地頭川上三河入道、奉行猿渡備後入道を記す。猿渡備後と越中の親族関係、信資が幼少で家督を継ぎ隈之城に住して諸所で軍労し文書を与えられた経歴を考証する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-13 『貴久公御軍記』加世田城合戦記事等抄并猿渡氏考証
『貴久公御軍記』から天文七年霜月二十八日の加世田城攻撃を抄出し、猿渡筑前守らの戦功を記す。軍記・旧記・寺社記録と村山自伯家の伝承を照合し、猿渡宗阿弥の所領・奉公と、自伯家が宗阿弥流に当たるという系譜を考証する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-14 『上井覚兼日記』天正二年十月十七日条等抄并猿渡氏考証
『上井覚兼日記』天正二年十月十七日条から、高江・川辺間の地頭移動案と有田氏の所領事情を抄出する。猿渡越中の出生・父猿渡藤三郎の戦死、加世田の村給付と地頭就任を関連記録で照合し、越中が加世田に居住した由緒を考証する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-15 『上井覚兼日記』天正三年十一月二十八日条抄并猿渡氏考証
『上井覚兼日記』天正三年十一月二十八日条から、上井覚兼が永吉へ赴き、野間座主猿渡掃部兵衛の用件を扱った記事を抄出する。永吉の盗難捜査、鹿島藤七の召置き、宇都宮次郎左衛門の子孫伝承を記し、当時の猿渡越中が掃部兵衛を名乗ったことを考証する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-16 『大友御退治御日帳』三日条等抄并猿渡氏考証
『大友御退治御日帳』三日条から、羽月の猿渡掃部兵衛尉が使僧を通じて祝儀を申し上げ、新納武蔵守も同様に申し入れた記事を抄出する。あわせて天正八年八月の肥後国水俣陣の軍記勢揃に羽月地頭猿渡掃部兵衛が見え、この時期まで越中が掃部兵衛を名乗ったことを考証する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-17 『上井覚兼日記』天正十年十二月十七日条抄并猿渡氏考証
『上井覚兼日記』天正十年十二月十七日条から、野久美口で猿渡越中守が一番に攻め上がり、山田新助らと戦った記事を抄出する。敵数百人を討ち留め、家来も多数石打ちに遭いながら一番乗りを果たしたことを、日記に記された参加者と照合して考証する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-18 『九州記』天正十二年三月島原合戦記事抄并猿渡氏考証
『九州記』巻十二から天正十二年三月の島原合戦を抄出し、山手の将鍋島加賀守直茂と薩軍猿渡越中守の交戦、龍造寺隆信戦死後の動向を記す。家伝・系図と照合して越中の子猿渡与次郎の戦死を検討し、与次郎を討った鍋島平五郎の子孫が鍋島主水を称したとの伝承を考証する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-19 『上井覚兼日記』天正十二年四月十四日条抄并猿渡氏考証
『上井覚兼日記』天正十二年四月十四日条から、平田新四郎と猿渡越中守が船中を訪れて閑談した記事を抄出する。これにより越中が四月まで島原に在陣したことを確認し、島津家久以下の島原渡海人数を日記の記載と照合して、越中の参陣を考証する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-20 『上井覚兼日記』天正十二年八月二十六日条等抄并猿渡氏考証
『上井覚兼日記』天正十二年八月二十六日条以下から、鹿児島より帰来した飛脚が親貞・忠棟の書状をもたらし、出陣や秋月方との交渉を相談した記事を抄出する。軍談や諸所番賦に猿渡越中守がたびたび加わり、主要用人衆に次ぐ四人の一人として扱われたことを考証する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-21 『上井覚兼日記』天正十二年十月八日条抄并猿渡氏考証
『上井覚兼日記』天正十二年十月八日条から、方角見償のため新納武蔵・伊野・山田新助・猿渡越中守が三池へ派遣された記事を抄出する。ほかの見償役の記事と比較し、見償が一方の主取を任された者の勤めで、通常の地頭持には命じられない役であったことを考証する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-22 『上井覚兼日記』天正十三年九月六日条抄并猿渡氏考証
『上井覚兼日記』天正十三年九月六日条から、三池境へ軍衆を差し上せ、伊集院肥前守・山田越前守・猿渡越中守をはじめ諸所の衆を派遣した記事を抄出する。三人が筑後攻めの主取として並記される関連記事を比較し、越中の家格が通常の地頭持と異なったことを考証する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-23 『上井覚兼日記』天正十三年九月十三日条抄并猿渡氏考証
『上井覚兼日記』天正十三年九月十三日条から、筑後表の伊集院肥前守・山田越前守・猿渡越中守が、前日に堀切城を切り崩して敵三百余人を討ち取ったと注進した記事を抄出する。日記に見える落城記事を比較し、三人が主取として挙げた戦功を考証する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-24 『上井覚兼日記』天正十三年九月十八日・十九日条抄并猿渡氏考証
『上井覚兼日記』天正十三年九月十八日・十九日条から、筑後表より堀切柵攻略の報告があり、江之浦方が身上を助ければ城を明け渡すと申し出たこと、両城の守備や人質を協議したことを抄出する。肥前守・越前守・越中が筑後攻めの総主取で、鍋島飛騨守への伝達にも関わったことを考証する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-25 『上井覚兼日記』天正十三年九月二十六日・二十七日条抄并猿渡氏考証
『上井覚兼日記』天正十三年九月二十六日・二十七日条から、筑後表の勝利を内空閑殿・城殿・伯耆殿へ伝えて加勢を求め、続いて筑後表へ指示を送った記事を抄出する。肥前守・越前守・越中が堀切城を攻略した後も大敵に備えて三家へ援軍を求め、最終的に三人の軍功で筑後一国を攻め落としたとの考証を記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-26 『上井覚兼日記』天正十三年九月二十九日・十月朔日条抄并猿渡氏考証
『上井覚兼日記』天正十三年九月二十九日条から、堀切より新納右衛門佐の書状が到来し、宝満・橘・筑紫方を切り取り、筑後表の戦況を報告した記事を抄出する。十月朔日条も引き、戦功に対する御礼が筑紫殿へ使僧を通じて伝えられたことを考証する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-27 『上井覚兼日記』天正十三年十月十七日条等抄并猿渡氏考証
『上井覚兼日記』天正十三年十月十七日条から、白浜次郎左衛門を介した静謐の祝言と談合、筑後表での辛労に対する言上を抄出する。あわせて猿渡氏の由緒と、天正十五年十二月十五日に高野木食興山上人が来訪した伝承、羽月大聖寺への信仰と肥後からの参詣を考証する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-28 『征韓録』文禄二年正月条抄并猿渡掃部兵衛軍功考証
『征韓録』巻十一から、文禄二年正月に加藤清正が甲山から帰陣して北青城の相良頼房を救援した記事を抄出する。島津義弘が敵地を通る使者に猿渡掃部兵衛らを選び、鉄砲火の中を突破して軍情を伝えた軍功を考証し、義弘・久保の感状と石田三成書状へ続くことを示す。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-29 島津義弘・久保連署宛行状
島津義弘・久保が猿渡掃部兵衛尉に与えた二月十九日付の連署状。公儀の使者として奥陣へ赴き、薩摩衆への命令を伝える役を異議なく引き受けたことを比類ない軍忠と評価し、帰国後に知行を宛行う旨を約する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID sar:24-30 石田三成感状并猿渡氏家譜・由緒考証
二月二十九日付の石田三成書状は、猿渡掃部兵衛の遠国での辛労と無事帰陣を賞し、今後の用向きへの配慮を伝える。後半は伊地知季安が猿渡氏の系譜、島津氏への奉公、知行・家格、武具・家財、相続と分家間の争論を諸記録から考証し、元禄十五年十一月六日付猿渡信安書状までを収める。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:1 新撰重久氏系図并序
伊地知季安が新たに編纂した重久氏系図の序。重久氏の出自と重久領有、永正十六年の伊集院尾州の反乱後に所領を失った経緯を検討し、都城などに分かれた諸流、現存する子孫、墓所・寺院を調査して系図をまとめた趣旨を述べる。天保十年正月の季安序。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:2 重久千右衛門家系図
重久千右衛門を祖とする家系図。歴代の出生・没年、婚姻、養子、法名・墓所を系線で示し、篤極・篤行らの藩主への奉公、役職、知行・褒賞、江戸・京都・大坂への往来、寺社との関係を付記する。末尾には季安による人名上の朱書記号・罫線の注記がある。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3 藤原姓重久氏系図
宇多天皇・敦実親王を起点に藤原姓重久氏の祖系を系線で示す。各世代の官位、婚姻、出家、没年、寺院との関係を注記し、篤政・篤明らを経て重久氏の称号成立に至る由緒を記す。末尾では安元二年八月、父祖の台明寺内禁猟の誓約を篤道・篤持が再修したことを載せる。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-1 台明寺四至内禁猟起請文
清水台明寺蔵の起請文。台明寺の四至内では先祖・父の誓約に従って狩猟を禁じ、違反者には処罰を行うことを神仏に誓う。続いて重久氏の系譜記事を掲げ、重久村の所領、日橋木城、寺院創建、文暦二年の講田売却などを記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-2 仮名重久水田売券
文暦二年正月十九日付の売券。仮名重久が囎唹郡須加尾条内の石風田四段を四至とともに示し、代価を受け取って吉祥丸へ永代売却する。後半には重久氏の系譜と寺社由緒を付し、重久村の念仏寺を法然上人が大隅一国の本寺としたとの伝承を記す。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-3 重久篤兼譜
元弘三年、後醍醐天皇の倒幕計画から笠置挙兵、楠木正成の参戦、鎌倉幕府滅亡、天皇還京までの経過を記す。七月、重久篤兼が徴命に応じて出陣し、主将へ着到を報告したことを載せる。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-4 重久篤兼着到状
元弘三年七月、重久篤兼が大隅国御家人として軍忠のため馳参したことを届け、披露を求めた着到状。『旧記雑録前編一』一六四七号文書と同一と注記される。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-5 重久篤兼譜
建武三年、足利尊氏と新田義貞の対立に呼応して肝付兼重・伊東祐広らが挙兵した経過を記す。重久篤兼は正月二十八日に胡麻崎城、二十九日に志布志城を攻め、族人重久祐任が戦死し、家人も負傷したことを載せる。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-6 重久篤兼軍忠状
重久篤兼が自らの軍忠を列挙した建武三年二月付軍忠状。正月二十八日に日向国救仁郷胡麻崎城で千種忠顕の雑掌らを追討し、翌二十九日に肝付兼重方の志布志城を攻撃して親類・家人に死傷者が出たことを報告し、証判と注進を求める。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-7 重久篤兼譜
建武三年三月二日の多々良浜合戦で足利方が菊池勢を破った後、島津貞久が大宰府から帰還して薩摩・大隅の肝付兼重党を討ち、畠山直顕を日向へ派遣した経過を記す。二十六日、足利尊氏が重久篤兼に軍功を立てるよう催促状を与えたことを載せる。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-8 足利尊氏軍勢催促状
足利尊氏が重久篤兼に与えた建武三年三月二十六日付軍勢催促状。院宣に基づく新田義貞与党の誅伐として、城郭に籠る肝付兼重以下の凶徒を討つため島津貞久を派遣したので、軍忠を尽くすよう命じる。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-9 重久篤兼譜
建武三年三月二十九日、足利尊氏が島津貞久に教書を与えて大隅・薩摩の警固を命じたことを記す。四月、肝付兼隆らが加世田城に拠って新田義貞方に属したため、十四日に島津貞久が重久篤兼へ速やかな出兵と討伐を命じた。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-10 島津貞久書下
島津貞久が重久篤兼に与えた建武三年四月十四日付書下。三月二十九日の将軍家御教書を受け、大隅・薩摩両国の警固と、肝付郡加瀬田城以下で蜂起した悪党の速やかな対治を命じる。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-11 重久篤兼譜
建武三年五月、島津貞久が背後からの肝付兼重勢の攻撃を警戒し、忠能を大将として守護代森行重らを王子城へ派遣したことを記す。重久篤兼もこれに従い、六月には島津資忠・本田久兼らと加瀬田城を攻め、肝付兼隆の退城後、その軍功が貞久へ報告された。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-12 重久篤兼軍忠状
重久篤兼が肝付郡加瀬田城と日向国三俣院王子城後巻合戦での軍忠を申告した建武三年六月付軍忠状。五月五・六両日の王子城、同月九日から六月に及ぶ加瀬田城合戦への従軍と働きを列挙し、島津資忠・本田久兼らの見知を証拠として提出する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-13 重久篤兼譜
建武三年九月十一日、念仏寺開山智通和尚が遷化したことを記す。十一月、畠山直顕が日向国大田城に兵を置き、諸郡の軍勢を徴して伊東祐広らを討とうとし、二十一日に重久篤兼へ参陣を求める書状を与えた。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-14 畠山直顕軍勢催促状
畠山直顕が重久篤兼に与えた建武三年十一月二十一日付軍勢催促状。伊東祐広・肝付兼重以下の凶徒を誅伐するため、命令どおり馳参して忠節を尽くすよう求める。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-15 重久篤兼譜
建武三年十二月、重久篤兼が畠山直顕軍に属して肝付兼重の城を攻め、戦功を挙げたことを記す。建武四年十一月以降の橘木城攻防、暦応元年三月の日当山城・鼻連山・橋木城周辺の戦闘では、篤兼が守護代森行重らと肝付・野辺勢を退け、自身も負傷し、三月二十三日に軍功を主将へ報告した。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-16 重久篤兼軍忠状
重久篤兼が建武四年十一月以降の軍忠を列挙した建武五年三月二十三日付軍忠状。肝付兼重・野辺盛忠らとの橘木城、日当山城、橋木城などでの戦闘と、自身の負傷を報告し、証判と恩賞を求める。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-17 重久篤兼譜
暦応二年八月、重久篤兼が畠山直顕軍に属して三俣院へ入り、十三日から肝付兼重の高城を包囲・攻撃した経過を記す。江田家定の諫めを受けた兼重は笠野へ逃れ、直顕が高城を攻略し、九月五日に篤兼の軍功へ花押を加えて返付した。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-18 重久篤兼軍忠状
重久篤兼が畠山直顕の軍勢に属して以来の軍忠を申告した暦応二年九月五日付軍忠状。建武三年十二月から肝付兼重の城を攻め、同城が破却された八月二十七日まで連日合戦したとして、証判と恩賞を求める。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-19 重久篤兼譜
暦応五年(康永元年)八月一日、島津貞久が同月五日に谷山の賊を討つため重久篤兼へ書状を与え、四日以前に必ず参会するよう命じたことを記す。五日には貞久自ら兵を率いて谷山へ出陣した。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-20 島津貞久軍勢催促状
島津貞久が重久篤兼に与えた暦応五年八月一日付軍勢催促状。薩摩国の凶徒退治について度重なる催促に参陣しなかったことを咎め、同月四日以前に出発するよう命じ、違期すれば後悔することになると警告する。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-21 重久篤兼譜
貞和二年十一月二十一日、幕府が島津貞久に教書を与え、軍勢を募って伊集院道忍・鮫島連道次らを討つよう命じたことを記す。貞和三年二月十三日、度重なる徴兵にも参陣者がなかったため、貞久は重久篤兼へ速やかに兵を募って参会し、月を越さないよう命じた。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-22 島津貞久軍勢催促状
島津貞久が重久篤兼に与えた貞和三年二月十三日付軍勢催促状。前年十一月二十一日の御教書に基づく薩摩国凶徒誅伐について、先の催促後も遅参していることを咎め、一族を率いて当月中に陣へ馳せ参じるよう命じる。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-23 重久篤兼譜
貞和三年五月頃、野辺盛忠が四国・中国の海賊三十余艘が飫肥の目井浦から内之浦へ入ったと聞き、凶徒との合流を恐れて島津貞久へ報告したことを記す。二十七日、貞久は重久篤兼に書状を与え、速やかに参会して海賊を追討するよう命じた。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-24 島津貞久軍勢催促状
島津貞久が重久篤兼に与えた貞和三年五月頃二十七日付軍勢催促状。四国・中国の海賊三十三艘が飫肥南郷目井浦から肝付郡内之浦王崎付近へ進入し、凶徒へ加勢するおそれがあるため、野辺盛忠を使者として急ぎ参陣するよう命じる。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-25 島津貞久軍勢催促状
島津貞久が重久篤兼へ軍勢の即時出動を求めた軍勢催促状。凶徒が耕作期を利用して毎日耕作人を追い立て合戦し、当日辰刻には武具を備えた数千人が城内へ入ったため、直ちに城へ向かい、夜間の出発が難しければ先に野伏を軍勢へ加えるよう命じる。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-26 重久篤兼譜
貞和四年六月、楡井頼仲が日向国救仁院の志布志城に籠ったため、畠山直顕が兵を率いてこれに向かったことを記す。島津貞久も十八日に大隅国へ出陣しようとし、重久篤兼へ書状を与えて守護所へ速やかに参会するよう命じた。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-27 島津貞久軍勢催促状
島津貞久が重久篤兼に与えた貞和四年六月付軍勢催促状。楡井頼仲が日向国救仁院内の志布志城に籠り、畠山直顕が討伐に向かったため、遅くとも十八日以前に大隅守護所へ馳せ参じるよう命じる。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-28 重久篤兼譜
貞和四年八月二十九日、幕府が島津貞久へ教書を与え、楡井頼仲討伐の軍勢を募らせたことを記す。十一月、貞久は大隅国への出陣に先立ち、十一日に重久篤兼・野田又太郎らへ参会を命じ、十六日には篤兼へ一族を率いて二十八日以前に大隅守護所へ来るよう重ねて催促した。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-29 島津貞久軍勢催促状
島津貞久が重久篤兼に与えた貞和四年十一月十六日付軍勢催促状。八月二十九日の御教書に基づく楡井頼仲退治のため出陣するので、一族を催して十一月二十八日以前に大隅守護所へ馳せ参じるよう命じる。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-30 重久篤兼譜
貞和六年(観応元年)四月、島津貞久が楡井頼仲・肝付兼重らによる大隅国侵攻の報を受けたことを記す。十一日、貞久は重久篤兼に書状を与え、速やかに軍勢を徴して参会し、両者を討つよう命じた。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-31 島津貞久書下
島津貞久が重久篤兼に与えた貞和六年四月十一日付書下。楡井頼仲・肝付兼重らが大隅国へ来攻するとの報を受け、備えを固め、来攻時には直ちに現地へ馳せ参じて合戦するよう命じる。後段には篤兼の子孫と重久氏の移住に関する系譜考証を付す。
旧記雑録拾遺 著作史料集4-文書ID shige:3-32 本田玄賀入道自記
本田玄賀入道自記の引用と重久氏系譜の考証。兼親の代以来の帖佐方との争いと和睦、清水・曽於郡をめぐる所領関係を記し、文亀四年三月十四日などの系譜記事を挙げる。後段では島津家の宮参に供奉した重久某の従者・武具を示し、重久孫七に比定する。