島津家久譜
年月日未詳 / 冊子 1頁
寛永三年、島津家久が一昨年に駿府を発ち、前年四月十三日に武都(江戸)へ到着して以来、なお滞在していることを記す譜記事。
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年月日未詳 / 冊子 1頁
寛永三年、島津家久が一昨年に駿府を発ち、前年四月十三日に武都(江戸)へ到着して以来、なお滞在していることを記す譜記事。
(寛永三年)正月三日 / 冊子 1頁
松平直政が島津家久へ、前日に殿中で面会でき、家久の礼も首尾よく済んだことを喜ぶ書状。前年冬に万千代を伴って登城したため返書が遅れたことを詫び、来る十八日朝の出仕予定を承知したとして、詳しくは面会時に述べると伝える。
(寛永三年)正月三日 / 冊子 1~2頁
中山王尚豊が島津家久へ、長期の江戸滞在を見舞い、帰国の時期を尋ねた書状。琉球から明へ派遣した使節が北京に達し、明との往来を旧例どおりに整えて前年八月に帰帆したことを報告し、その喜びを述べ、土地の産物九件を別紙の目録とともに贈る。
年月日未詳 / 冊子 2頁
寛永三年正月朔日、島津家久が江戸から帰国し、児玉利昌も従って三月朔日に府城へ着いたことを記す。同年、徳川秀忠・家光の上京に伴い、家久も四月に京都へ赴き、利昌が再び随行して九月に帰ったとする児玉氏の譜記事。
十二月七日 / 冊子 2頁
市来惣兵衛尉が児玉筑後守へ、銀子四枚と「ひさや」二反について、寛永三年正月十九日に江戸から上る途中の伏見で御納戸から出され、取次を介して渡す品であるため受け取るよう求めた書状。以前は慌ただしく受け渡しが完了しなかった事情を記す。年紀は不明で、十二月七日付。
寛永三年正月四日 / 冊子 2頁
沢永澄が本田主助に対し、下付された鳥目三貫文を確かに受領したことを証する請取状。換算は百文につき九十七文ずつとする条件を付す。
年月日未詳 / 冊子 2~3頁
島津家久が江戸から帰国する途上、正月下旬に伏見へ着いて休息した際、家臣小幡長門の舞を天皇が叡覧したことを記す。四辻中納言・飛鳥井中将を通じて、長門を京都に残して舞わせるよう勅命が伝えられたため、家久が板倉重昌に対応の可否を尋ねた経緯を述べる譜記事。
(寛永三年)正月廿三日 / 冊子 3頁
島津家久が板倉重昌へ、小幡長門を京都に残して能を勤めさせるよう四辻中納言・飛鳥井中将から勅命が伝えられた件を相談した書状。京都には能役者が多いため長門へ命じにくいが、勅定である以上拒めないとして、重昌の内意を求める。
年月日未詳 / 冊子 3頁
寛永三年三月朔日、島津家久が鹿児島へ入ったことを記す。大坂を出帆した日と鹿児島への着船日は不明と注記する譜記事。
寛永三年三月廿三日 / 冊子 3~6頁
島津久元・喜入忠政・比志島国隆が連署し、御台所の運営と物資管理を定めた条書。日常の献立、魚類・味噌・塩・酢・醤油・米・薪・野菜などの調達、納殿衆による判と帳簿、振舞・祈祷・旅行時の支給、女房衆や小者への食米、使者への振舞など、多岐にわたる手続と数量・責任分担を規定する。
(寛永三年)三月廿五日 / 冊子 6頁
島津家久が中山王尚豊へ、三月朔日に帰国したこと、同年夏に徳川秀忠・家光が上京するため自らも再度急ぎ上洛する予定であることを知らせた書状。琉球が無事であるとの報に満足し、薫物一香合、宇治茶一壺、杉原百帖、中紙二千帖を祝儀として贈る。
年月日未詳 / 冊子 6頁
寛永三年四月二十日、島津家久が向島で狩りを行い、子の忠朗らが鹿を多数捕らえ、家久が国老へ分け与えたことを記す。翌日、島津久元・喜入忠政・比志島国隆が三原重長へ礼状を送ったとする三原氏の譜記事。
寛永三年四月廿一日 / 冊子 6頁
島津久元・喜入忠政・比志島国隆が三原重長へ、前日の向島で又八郎ら兄弟が多くの鹿を捕らえ、自分たちも鹿を拝領して賞味したことへの謝意を伝えた連署書状。寛永三年卯月二十一日付。
(寛永三年)四月廿四日 / 冊子 6~7頁
島津家久が伊勢兵部少輔へ、現地の諸事を少しも油断なく処理するよう重ねて命じた書状。文頭欠損のため前段の具体的案件は判然としないが、自身の扱いも同様でよいかとの問いと、後便を期す旨が残る。
(寛永三年)四月廿五日 / 冊子 7頁
酒井忠世・正勝が島津家久へ、将軍が当地へ無事到着したことを知らせた連署書状。家久が使者を立て、将軍の機嫌を尋ねて菓子二箱を献上したことが披露され、将軍が大いに満足したと伝え、道中は天候もよく健康であったので安心するよう述べる。
(寛永三年)四月廿八日 / 冊子 7~8頁
島津家久が中山王尚豊へ、見舞いの書状と目録記載の贈品に礼を述べた書状。三月に帰国したが、徳川秀忠・家光の上洛に伴い再び上洛する予定を知らせ、琉球使節が明へ渡って従来どおりの関係を確認したことを喜ぶ。
年月日未詳 / 冊子 7~8頁
寛永三年閏四月上旬、島津家久が鹿児島城を発って京都へ向かったことを記す。徳川秀忠・家光の近日中の上洛を見越した参向であり、大坂への着船日は不明と注記する譜記事。
(寛永三年)閏四月四日 / 冊子 8頁
寺沢広高が島津家久へ、端午の祝儀を贈り、家久の京都屋敷が無事で、又三郎・又十郎も健勝であると報告した書状。徳川秀忠は五月下旬、家光は六月十日頃の出発予定で、諸大名の帰国・移動状況も知らせる。
年月日未詳 / 冊子 8頁
島津家久が帰国の挨拶として吉利下総守忠張を使者に立て、沈香五斤と薩摩で焼いた茶碗・灰入・底取を徳川秀忠・家光へ献上したことを記す。土井利勝・酒井忠世が披露し、忠張は御前で拝謁を許され、内書を賜った。
閏四月十四日 / 冊子 8頁
徳川秀忠が島津家久へ、帰国の使者から贈られた沈香五斤と薩摩焼各種を受け取り、家久の懇意を喜んだ御内書。詳しくは土井利勝が述べるとする。
(寛永三年)閏四月廿二日 / 冊子 8~9頁
土井利勝が島津家久へ、無事の帰国を祝し、使者と沈香・薩摩焼の献上が将軍に披露され、使者が御前へ召されて内書を賜ったことを報告した書状。大御所の江戸出発は五月末の予定で、上洛の心得を整えるよう伝える。
(寛永三年)五月朔日 / 冊子 9頁
島津家久が中山王尚豊へ、新年の祝意を述べ、琉球からの祝儀の書状と太平布百端・練芭蕉五十端・焼酒六壺を受け取って喜んだことを伝える書状。使者に口上を託す。
(寛永三年)五月三日 / 冊子 9頁
徳川秀忠が島津家久へ、端午の祝儀として帷子・単物数十点を贈られたことを喜び、詳しくは酒井忠世が述べるとした御内書。
(寛永三年)五月四日 / 冊子 9頁
徳川家光が島津家久へ、家久の帰国後に使者から沈香五斤と薩摩焼の茶碗などを贈られ、遠路の厚意を喜んだ御内書。詳しくは酒井忠世が述べるとする。
(寛永三年)五月七日 / 冊子 9~10頁
酒井忠世が島津家久へ、無事の帰国と将軍への献上品を祝し、使者が御前へ召され内書と巻物・薩摩焼の茶器類を賜ったことを報告した書状。長期滞在中に多忙で疎遠だったことを詫び、再上洛時の面会を期す。
(寛永三年)五月廿六日 / 冊子 10頁
島津家久が喜入忠政へ、遠路から見舞いの使者を差し上せたことを喜び、当地は変わりなく静穏なので安心するよう伝えた書状。音信として銀子三枚を贈り、詳しくは使者の口上に託す。
年月日未詳 / 冊子 10頁
寛永三年六月三日、島津家久が大坂から川上式部大輔久国・蒲池備中入道・東郷肥前重位を派遣し、在国の家老に国政上の指示を伝えさせ、花押付きの書状を下したことを記す譜記事。
六月三日 / 冊子 10~11頁
島津家久が喜入忠政へ、川上久国・蒲池備中入道・東郷重位と相談して国政を整えるよう命じた書状。百姓・町人・浦々の住民が疲弊し国が荒れるとの報告を踏まえ、商業・船舶・異国人との交渉を含む諸問題を慎重に協議し、以前のように曖昧に終わらせず将来まで通用する方針を定めるよう求める。
六月五日 / 冊子 11頁
島津家久が喜入忠政へ、大坂から国元の務めを念入りに行うよう命じた仮名書きの書状。油断なく各所へ申し付け、自身も秋頃まで在京し、翌年二・三月頃には急ぎ上る見込みなどを伝える。冒頭の口語的語句と細部には判読上の疑義がある。
年月日未詳 / 冊子 11頁
寛永三年六月上旬、島津家久が京都へ入り、徳川秀忠の上洛を迎えるため参向し、途中から伏見へ赴いて拝謁したことを記す。江戸・京都間の往来が頻繁で旅疲れが重なったため、妹へ贈った書状中に旅情を詠んだ和歌があるとする譜記事。
(寛永三年)六月二日 / 冊子 12頁
島津家久が妹へ、徳川秀忠を迎えて伏見で拝謁し、特段の変事はないと近況を伝えた仮名書きの書状。暑さと頻繁な旅の苦労、九月か十月頃の暇、翌年二・三月頃の再上洛見込みを述べ、馬上の旅と月夜を題材にした戯れの和歌を添える。
(寛永三年)六月十四日 / 冊子 12頁
島津家久が渋谷右京守へ、留守中は火の用心を第一とし、広い屋敷に人が少ないため万事念入りに申し付けるよう命じた書状。詳しくは伊勢兵部少輔から伝えるとする。
(寛永三年)六月廿二日 / 冊子 12頁
良恕親王が島津家久へ、一昨日に珍しい一折の贈物を受け取った礼を述べ、菊が到来した折に面会したことなどを伝えた書状。折を見て参会し、積もる話をしたいとする。
(寛永三年)六月廿四日 / 冊子 13頁
細川忠利が島津家久へ、翌日の参内について変わった知らせはなく、禁裏への馬代は金子がよいと考えていること、女院への進物は未確認であることを伝えた書状。家久は近衛邸で装束を着け、忠利は烏丸邸へ参る予定として、参内準備の情報交換を行う。
年月日未詳 / 冊子 13頁
寛永三年六月二十五日、前将軍徳川秀忠が参内し、島津家久が供奉したことを記す譜記事。
(寛永三年)七月四日 / 冊子 13頁
島津家久が京都から、国元または近親者へ近況と行程を伝えた仮名書きの書状。相手方の上京予定や夜間の用心などに触れ、支障があれば知らせるよう求める。宛所と一部の口語表現は判然としない。
寛永三年七月八日 / 冊子 13~14頁
国政上の協議事項を列挙した覚書。唐船の来航・積荷・銀子・商取引、異国人や船員への対応、国内の諸役、城・寺社・屋敷・港湾の管理、役人の配置や掃除・警備などについて、関係者が相談して処理し、独断や先例に反する措置を避けるよう定める。
年月日未詳 / 冊子 15頁
島津光久の子女十四人について、生母・生年月日・没年月日・法名などを列記した譜記事。嫡子光久の出生と母系を起点に、忠良ほか男子・女子の系譜情報を記録する。
寛永三年七月廿九日 / 冊子 15~16頁
島津家久が袖判を据え、先に大坂で協議した国政方針を徹底させるため下した条書。唐船の来航・積荷・商売、異国人との交渉、諸役の執行について関係者が相談し、従来の決定を曖昧に変更せず、国の衰微や混乱を防ぐよう命じる。
年月日未詳 / 冊子 16頁
寛永三年七月二十九日、徳川秀忠の執奏によって島津家久が権中納言に任ぜられ、従三位に叙されたことを記す譜記事。続く口宣案二通を掲げる。
寛永三年八月十九日 / 冊子 16頁
蔵人左少弁藤原時長が奉じた口宣案。参議藤原家久朝臣を権中納言に任ずる旨を、寛永三年八月十九日付で宣下する。
寛永三年八月十九日 / 冊子 16~17頁
蔵人藤原時長が奉じた口宣案。正四位下藤原家久朝臣を従三位に叙する旨を、寛永三年八月十九日付で宣下する。
(寛永三年)八月廿二日 / 冊子 17頁
島津家久が浅野但馬へ、前日に御城へ召し出され中納言に任ぜられたこと、早速祝賀の使札を受け取ったことへの礼を述べた書状案。詳しい礼は面会のうえ申し上げるとする。
(寛永三年)八月廿三日 / 冊子 17頁
島津家久が、思いがけず中納言に任ぜられたことを仮名書きで知らせ、まもなく国元へ下る予定などを伝えた書状。宛名の「長もじ」が誰を指すかは確定できない。
年月日未詳 / 冊子 17頁
島津家久の権中納言任官に際し、今上天皇と国母から、権中納言局など女房を通じて祝賀の奉書が贈られたことを記す譜記事。
(寛永三年) / 冊子 17頁
後水尾天皇の女房が、進上物への祝意と、天皇・国母の機嫌がよくめでたい旨を仮名書きで伝え、国母にも同様に披露するよう求めた奉書。直接の宛先は本文中に明記されず、前後関係から島津家久宛と推定した。
(寛永三年)八月廿八日 / 冊子 18頁
牧野清兵衛が島津家久の中納言任官を祝い、上様と又三郎様が息災であること、当地に異状がないことを知らせる。詳しい当地の様子は仁礼蔵人と鎌田左京から申し上げるとする。
年月日未詳 / 冊子 18頁
寛永三年八月十九日、徳川秀忠の執奏によって島津家久が権中納言に任じられ、従三位に叙されたことを記す伝記記事。
(寛永三年)九月二日 / 冊子 18頁
四辻季継が、先日の殿中での面会を喜び、行幸に際する和歌の内々の題が「竹契遐年」であることを秘密裏に知らせる。詠進者は少人数と聞いており、入魂の間柄として伝えたと述べる。
年月日未詳 / 冊子 18頁
寛永三年九月六日、後水尾天皇が徳川秀忠の二条城へ行幸し、秀忠が参内して出迎え、島津家久も騎馬で供奉した。天皇は四日間滞在し、和歌会・音楽・饗応が催され、十日の還幸まで家久は毎日二条城に伺候した。