島津久豊証状
応永九年十二月十三日 / 冊子 207頁
島津久豊が伊地知縫殿允へ、島津庄大隅方下大隅郡について、欠所が生じしだい宛行う旨を証した証状。
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応永九年十二月十三日 / 冊子 207頁
島津久豊が伊地知縫殿允へ、島津庄大隅方下大隅郡について、欠所が生じしだい宛行う旨を証した証状。
天正四年三月 日 / 冊子 472頁
大隅国清水内の一か所を田中縫殿助に示した坪付。近衛前久の花押を据え、島津以久家老町田忠房家に伝来した文書である。
4月丹波;子4月3日向井新兵衛取次注 / 冊子 354~355頁/原整理番号 502の1/整理ID 502-1
高橋縫殿に対し、幕府が長州へ詰問し、万一承服しない場合は征伐する考えであるため、その際に討手人数を出せるよう内意を示す書付。御名代嶋津常陸へ付属させることを命じたので、関係の向々へ申し渡す。四月丹波、子四月三日向井新兵衛取次の申渡注がある。不服を条件とする準備と名代への配属指示であり、この条だけから実際の討手出兵や人数を確定できない。
年月日未詳 / 冊子 256頁
島津久豊が伊地知縫殿助を碇山へ派遣し、久世忠朝方との和睦を進めた経過を記す義天譜。市来備後守家親も提携を歓迎し、久豊・久世・市来方は伊集院頼久を共通の敵として軍勢を統合した。碇山・市来・吉田周辺で交戦して敵を退け、島津一族間の和解を反伊集院連合へ発展させた。
年月日未詳 / 冊子 269頁
島津家久が府内に留まり豊後半国を掌握したものの、諸将の抵抗と兵糧不足で進退に窮したため、樺山忠助を三重の松尾城へ退かせた記事。天正十五年正月十八日、忠助が府内から三重へ到着し、新納縫殿助・平田狩野介らと守備に当たった経過を記す。
(慶長元年)七月廿六日 / 冊子 34頁
龍伯(島津義久)が忠恒へ、町田縫殿助から承った件は帰帆時に詳述させること、希望する鉄が調わず渡海を延期したこと、宿銀・本銀の返済手配を伝える。六月二十日付書状の到着を喜び、下知に背いた野村五郎二郎の組編成を指示し、重病説が流れた秀吉は快復して京都が静謐となったので安心するよう知らせた書状。
年月日未詳 / 冊子 45~51頁
慶長十年の国府衆中を家ごとに列記した大規模な交名。町田縫殿助(後の駿河守)をはじめ、各家の当主・子・兄弟・養子・婿・被官らの姓名、入道名、役職、親子・養子関係、居所・移住先、出仕・死亡などの注記を収める。
二月三日 / 冊子 400頁
島津龍伯が、前日に町田縫殿を介して申し入れた斎藤源介の件について、氏名や名乗りの扱いを確認し、利安らの書付を添えて伝えた書状。
二月十三日 / 冊子 313~314頁
細川忠利が島津家久に、越前宰相松平忠直をめぐる江戸の情勢を報じる。忠直は病気と称して江戸下向を延期したが、国政を意のままにし、甚だしく酔狂であるとの風聞が幕府の不興を招いた。側近の若者らは、忠直が江戸へ下れば自分たちが処罰されると恐れ、種々申し立てて引き留めたという。将軍徳川秀忠は近藤縫殿助を見舞いに遣わしたが、近藤は帰途、大磯で落馬死した。忠利は、忠直の行動を天下への企てではなく「気の違い」とみなし、直ちに軍勢が派遣される様子はないが、いずれ江戸へ召し寄せられるだろうと推測する。また、有馬氏との境界争いでは島津側が紛争の火元とならず、絵図を添えて幕閣へ申し出るよう助言し、江戸城本丸普請の進捗も伝える。
宝暦九年十一月二日 / 冊子 738頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2244
重豪が、国許にいる亡き高祖父上総入道吉貴の妹を翌春に伊勢へ参宮させたいとして、差し支えがないか伺う。付紙は伺いのとおりでよいと回答し、十一月二日に伺いどおりに整えて縫殿殿へ差し出したとの注記がある。
宝暦九年十一月十一日 / 冊子 741頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2253
重豪が十一月十一日、亡き高祖父上総入道吉貴の妹は先松平隠岐守定英の妻で、当隠岐守の出生後に離縁して国許にいると説明する。先隠岐守の存命中に文通・対面を許されたが、遠国のため対面は実現していないと述べる。来春の伊勢参宮と当隠岐守の参勤を機に大坂で対面させたいと願い、高齢で今後の対面機会が見通せないことを理由に挙げる。付紙は伺いどおりと認め、十一月二十日に下され、書付は山澤小左衛門を通じて縫殿殿へ差し出されたと記す。
年月日未詳 / 冊子 209頁
島津久豊が穂佐高城へ移り、池尻・白糸・細江の諸城へ勇鋭の士を配して守備を固めた経過を記す島津恕翁譜。伊東大和守祐堯方との対立から城郭戦が起こり、本田小太郎・綾縫殿助らが戦死した。複数拠点による防衛網の形成と、伊東勢の侵攻に伴う人的損害を伝える。
4月3日長州征伐割当;甲子4月5日写置注 / 冊子 354頁/原整理番号 501の4/整理ID 501-4
諸郷御先手を六組として列記する書付。川邊の物主は児玉佐平次、樋脇は圖師崎良助、高城は長束十郎、高山は山城新右衛門、大崎は益滿與右衛門、清水は武宮十五衛門とし、惣物主は高橋縫殿とする。高城郡の添記と「イ一陣」の表示も収める。四月三日、長州征伐に付いてこのとおり重ねて命じたとし、甲子四月五日の写置注がある。組割当・指揮担当を示すもので、各組の実人数や出陣・戦闘実績は記されない。
年月日未詳 / 冊子 205頁
島津国史の記事として、応永九年八月、鎮西の海賊が明国を侵したことを受け、幕府が海賊鎮圧と所領処置を命じた経緯を記す。久哲への書状、伊地知氏への措置、大隅方の所領関係を載せる。
永正十一年九月十四日 / 冊子 604頁
永正十一年九月十四日、鹿児島殿中で蘭窓(島津忠治)の代に初めて行われた犬追物について、参加者別の疋数と検見・喚次を記した手組。
天正九年八月十六日~十八日 / 冊子 693~694頁
相良義陽が北原・菱刈との戦いや大友氏の日向侵攻時に島津方へ敵対したため、島津義久が三州の軍勢を催して水俣城を攻めた経緯を詳述する。八景尾・銭亀尾・熊牟礼・軽石尾・井川比良に陣を置き、矢文の連歌を交わしつつ包囲し、義陽が芦北七浦と息子二人の人質を差し出して降伏を請うと、義久は受諾して囲みを解いた。
天正九年九月十六日 / 冊子 694~695頁
島津義久が数万の兵で相良義陽を攻め、義弘が八景尾の陣を守り、諸将が水俣城を包囲した経緯を記す。守兵は九月二十日に降伏して退去し、義陽は津奈木・湯浦・佐敷などを献じ、二十六日に佐敷で義久へ謝罪して息子兄弟を人質とし、阿蘇氏への出兵を申し出た。
天正十年正月以後 / 冊子 710~711頁
相良家が弱体化したため、八代老衆が八代を島津領とするよう請願した経緯を記す。義久は義陽戦死後の領地取得を辞退したが、他勢力に奪われれば相良・薩摩双方に害があるとの強請を受け、自八代両城から関・谷山・高塚・豊福までを領し、球磨一郡を忠房に安堵して相良家を存続させ、残る旧領を忠平へ与えた。
天正十年正月以後 / 冊子 711頁
相良家の勢力が朝露のように危うくなったため、八代老衆が八代を島津領とするよう願った記事。義久は再三辞退したが、八代が他人の手に渡れば相良氏にも薩摩にも害となるとして承諾し、八代から豊福までを領して後に義弘へ与えた。
宝暦六年四月 / 冊子 614頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1820
高橋縫殿が四月、信證院の仏餉料を霊龍院と同じ米六石・文銀十五枚とし、瑞仙院・智光院の仏餉料や他の位牌の取扱いにも触れる。福昌寺・浄光明寺では霊膳などを一同に整え、寿國寺でも定めのとおりに渡すとする。信證院の生前、寿國寺の牌料や仏前の入料として寺社奉行支配で古銀十貫目を渡していたことを述べ、その中から支給するよう寺社奉行へ命じる。
12月9日(本文。年次なし、一件包紙は寛政11年正月7日) / 冊子 163~164頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0032
圓徳院の逝去は6月16日と公表されたが、実際は11日で、中将様は毎月11日に主な祭祀、16日に表向きの祭祀を行い両日が内外の忌日となっていた。心掛かりのため実日に改める件を他家へ照会。尾州・紀州・松平大膳太夫は改日を公儀へ届けて親族へ通知、松平政千代・松平相摸守・丹羽左京太夫は届出なしで親族に通知したという。御三家の留守居にも、公表忌日を改めても差支えないと確認。祖先への祭祀の本意から実日採用が適切と決し、表向きの問合せにもそう答えるとする。浄信院は4月廿日へ改め、記録所に実日と変更趣意を記録させ、爰元で申渡して国元にも伝達、寺社奉行にも周知し、石塔・位牌の文字も取り繕って改める方針を示す。別の御霊にも実日相違があるとの末条は、昔からの内外二日制ではないが、圓徳院の件を機に吟味した趣旨を心得るよう述べる。12月9日市田勘解由署、五家老宛。
3月25日(本文。未年三月廿三日の取扱注を伴う) / 冊子 168頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0035
男子届振の取扱いは以前不同だったため、他所へ照会し相談して別紙の通り報告したところ、今後も吟味した通りに扱うよう仰せ出されたと伝える。問合書を添え内用で通知し、書留等を命じて残すよう求める。本文3月25日市田勘解由署、五家老宛。末注は御記録奉行に申し聞かせ、爰許でその通り取り扱うことを記す。日付は本文と取扱注を分ける。
3月25日(本文)、寛政11年4月22日受渡・帳留(朱注) / 冊子 168~169頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0037
家柄によって二男以下を男上りさせてきたが、今後は天倫のまま扱い、嫡子にする場合以外は男上りさせないとの別紙趣旨を承知し、爰許で申渡しを済ませて送ったので、そちらでの申渡しも適宜取り扱うよう求める。3月25日市田勘解由署、五家老宛。朱注は右五通を寛政11年未4月22日に播磨殿から渡され、帳留すべき旨を東郷浅之丞が承知して留め置いたと記す。本文の通知日と五通の受渡・記録日を分ける。
12月朔日(本文・年次なし)、正月14日夜到来(口裏注。一件表紙は寛政13年正月) / 冊子 187頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0040
御縁女様の親族続書を別紙の通り送るので、御使番と御記録奉行へ知らせておくよう求める。12月朔日市田勘解由署、五家老宛。署宛の人物注は市田盛常、川上久致、菱刈隆邑、川田佐賢、伊勢貞矩、高橋種央。口裏朱注は御使番・記録奉行へ知らせる件と、正月14日夜到来、禰寝周右衛門・西之原源左衛門便を記す。独立年次は本文に明記されないため、一冊表紙の寛政13年正月と区別する。
7月25日(本文年記なし、文化4年記事群) / 冊子 279~280頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0060
子様出生の実母へ暇を下す旨の内沙汰を承知したが、自分一存で可否を申し上げ難いので国許同役へ知らせ一統の評議を求める。召し仕える女中の暇は内外の道理では夫婦離縁に類し、不心得の方だけでなく差支えない場合も家の都合で縁を絶つ例があるが、女中の立場では両親の存意だけを押して扱えないという史料の判断を述べる。寛二郎実母おらんは親父中根若水から国元へ遣わしたい旨を願われ、嶋津嘯山養女として勤めていたため取計いは自由にならないと御前へ伝えた。病気で部屋に入った際、国元へ遣わす筋は先延びとなり、宿元で養生したいと願い、若水の家禄1000石と両親の取締りには不行届がないとする。それでも全快後も大奥へ戻さず、他女中を召し置く扱いとの関係が問題となるため、国元送致と永暇・後縁は一筋に定められないと評議を求める。家法、子の出生、父母の情と世間への影響を挙げ、当分は現状のまま詳しく検討したいとする。岩下佐次右衛門は大躰を承知しているので相談し、一筋二筋でも取計いを考えて残らず知らせるよう内用で申し越す。7月25日、市田勘解由署、五名宛、各注の実名と嘯山表記を保持する。相談の本書・行間朱答・再答は同じ冊子に記され、本書は実母の暇についての相談を述べる。
寛政8年3月28日(本書)。朱返答5月13日 / 冊子 120頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0366
前365の三項の通り呼ぶよう命じられ、こちらでは各方面へ通達したので、国元への申渡しも取り計らうよう伝える書状。本書は3月28日、寛政8年朱注、上と記す市田勘解由の署名、五名宛を伴い、伊勢播磨に下の朱注がある。朱書には本文を承知して向々へ申し渡したとの返答、5月13日を記す。目録365の市田盛常3月28日書状と、366の川上久致外四名家老連署5月13日返書に対応する。本書署名・宛名一覧と朱返答を区別し、五名の宛名を本書の独立連署と読み替えない。
寛政9年4月16日(本文。年次は朱注)。御触同月3日 / 冊子 143~144頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0448
重豪の明細書写を先頭に掲げ、本国・生国薩摩、故重年嫡子、従四位上中将松平上総介重豪、53歳、天明7年正月29日隠居と記す。その後、西丸へ明細書短冊を各一通出すよう水野出羽守から命じられ、同月3日に池田筑後守宅で両殿の明細書を各一枚、留守居付役が持参したが、追って報告するよう指示されたと説明する。別紙明細書写二枚を添えて送るので御記録奉行へ渡すよう求める。4月16日市田勘解由署、寛政9年朱注、四名宛。明細書本体と提出経緯の通知を区別し、宛先家老を明細書の本人としない。
寛政9年4月16日書状、包紙4月3日・5月13日納置(本文) / 冊子 146頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0453
西丸へ明細書短冊を各一通提出するよう水野出羽守から命じられ、大目付池田筑後守が触れたので、去る3日に両殿の明細書各一枚を留守居付役が筑後守宅へ持参したが、追って報告せよと指示されたという経緯を伝える。別紙明細書写二枚を添え、御記録奉行へ渡すよう求める。4月16日市田勘解由署、四名宛。外包には寛政9年4月3日、西丸へ出した扣と、国元家老衆へ問い合わせた写を江戸詰家老衆に付して納置させる旨を記し、5月13日に大炊から相良太郎太が承知して白木六番箱へ納置したとの追記がある。前448と同内容の通知だが、包紙・納置経緯を伴う別文書として保持する。
7月25日(本文、年記なし。目録文化2年記事群) / 冊子 245~247頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0792
子女出生の実母へ暇を与えてよいかとの内沙汰を承知したが、一存で可否を申し上げ難く、国元同役へ知らせ一統の評議で答えたいと述べる。内外の道理では召し仕えた女中へ暇を与える件を夫婦離縁になぞらえ、不都合のない方や多少不足でも事情のある方があるとし、御前の心得のうえで扱う問題とする。寛二郎実母おらんの例では、親父中根若水が国元へ遣わすよう求め、嶋津崘山候補の養女で本人が勤めていたため、子女が家へ入る取計は自由にならないと留守居へ伝えた。病気となり部屋に入り先例に照らして宿元で療養を求め、若水は家禄1,000石を持つ両親なので取締りに不行届もなく、当分の在宿養生はよいが、全快後も大奥へ戻さず他の女中を一統召し置くのはどうかと問う。国元へ遣わす方針と永久暇を分け、家法に関わり世間にも影響するため当分従来のままとして評議・詳しい返答を求め、大奥での太妹候補に関する話は岩下佐次右衛門に承らせ判断次第とする。内用として申し越し、7月25日・市田勘解由署、五家老宛、七番箱12号。末尾の赤松宛は次頁へ続く。
2月3日(本文、年記なし。目録文化2年記事群) / 冊子 247~248頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0794
本書への朱返答を承知して貴聞へ達したところ、各々の評議どおり先ず当分は従来のまま差し置く旨を承知し、自分もありがたく安心したので、納得のためこの旨を再答すると述べる。2月3日・市田勘解由署、五家老宛。右張紙の表示。包紙は七番箱12号、子女出生の実母へ暇を与える一件につき江戸詰家老から国元家老へ相談し、評議して勘解由まで往復した内用御書付写1通とする。年記はなく、792問合せ・793朱返答と順序は区別し、永久暇や縁組が実行されたとはしない。
正月七日 / 冊子 56頁/原整理番号 22-2
従来は御船手の水主屋敷であった一段二畦四歩の地を、頭殿の別火所屋敷にするため、関係者に支配させる引付。明暦三年四月二十七日付。
正月七日 / 冊子 56~57頁/原整理番号 22-3
御蔵入の塩屋村にある複数の屋敷地を、御船蔵地と水主屋敷に充て、船奉行方へ引き渡すよう命じる引付。各地片の面積と居住者を列挙する。明暦三年七月四日付。
宝暦十二年十二月九日 / 冊子 939~941頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2745-1
高橋縫殿と島津主鈴が十二月九日、島津圖書・山城・鎌田藏人へ、保姫の婚礼について事前に御用番へ名書を届け、四日卯上刻に供揃え、辰上刻に一橋邸を発し、九時前に東御門から入輿したと報告する。左中・主鈴が田沼能登守と末吉善左衛門から輿・貝桶を受け取り、三之間で下輿して化粧之間・蘭之間へ進み、お薫殿が侍上臈を務め、重豪・淨岸院も入って祝儀を済ませ、婚礼当日に松平右京大夫へ留守居を通じて届けたと述べる。お榮・妙心院・嶺松院への祝物、役人・諸士の祝儀と隣国への通知、太守・御前への進上物、御守殿・溜池・三田への挨拶、随行女中の名書を伝え、御前への祝儀状は土岐五郎左衛門と納殿役人の連名宛にするよう指示する。婚礼が好天のもと滞りなく整った喜びを述べ、女中方への伝達を求め、京都・大坂へも知らせ、次第書四通・客付・行列書・供女中名書・進上物書付を添える。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):同九年壬申卯月二十四日 小字・補記(別層):(永正) 補記(正文と別層):(永正) / 冊子 135頁/整理ID KW1-G000104
忠昌公の御家老伊地知縫殿助重周が神文を尊重へ寄せたと記す。 その旨趣を下に掲げる。
「寛永十七年」正月晦日 / 冊子 97頁
島津光久が島津久慶へ、各方面に横目を二人ずつ置き、頴娃主膳・新納二右衛門にも同様の心得を伝えたとする書状。岩切縫殿助について久慶方の老若がどのように述べているか報告を求め、供衆に適任者が乏しいため黒葛原勝左衛門・田中内膳を派遣するので、両人が小身であることに配慮するよう頼んでいる。
寛永廿年八月廿七日 / 冊子 244頁
川上久国ら三名の連署引付。新納加賀守に大口地頭分として三百石、新納勘解由に甑島地頭分として二百石を与えることなど、地頭職に伴う知行配分を記す。伊地知縫殿助の鹿児島高への組入れなど、関係者の持留知行の調整も定めている。
十一月廿六日 / 冊子 911頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2482
島津綱貴が佐多豊前へ、殉死禁止の別紙を申し渡す際、佐多豊前・島津縫殿・伊集院遠江が列座し、契諾者を一人ずつ召し出して右筆に達書を読ませるよう命じた達書。
享保二十年八月朔日 / 冊子 315頁/整理ID 755
大納言の機嫌を祝い、川上縫殿を使者とする目録どおりの献上品を披露した。
元文元年十月六日 / 冊子 408頁/整理ID 949
徳川吉宗が小姓組番頭青木縫殿助を芝邸へ遣わして継豊の病気を尋ねたことを吉貴が大磯館で聞き、執政へ奉書を呈して謝意を示した。
元文元年 / 冊子 409頁/整理ID 953
十月二十八日付書状を受け、大納言の機嫌、同氏大隅守の病気に対する今月六日の上使青木縫殿頭の慰問と御礼について浦尾らが返答する。
元文元年 / 冊子 409頁/整理ID 954
十月二十八日付書状を受け、大納言の機嫌、同氏大隅守の病気に対する今月六日の上使青木縫殿頭の慰問と御礼について浦尾らが返答する。
元文元年 / 冊子 410頁/整理ID 955
同氏大隅守の病気を上使青木縫殿頭が見舞い、病人の心安と御礼が伝えられたことについて植松らが返答する。
延享二年二月廿五日 / 冊子 797頁/整理ID 2092
継豊は同氏薩摩守宗信について、今年は初めて国元へ帰らせたいので暇を与えてほしいと願い出た。小笠原縫殿助がこの願書を酒井雅楽頭方へ差し出し、取次が受け取った。No.2093は許可後の出立と旅程を記す。
〈寛延二年〉八月五日 / 冊子 185~186頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0525
寛延二年八月五日、嶋津主鈴・矢柄・主殿が樺山主計・伊勢兵部・鎌田典膳・平田靱負へ、嶋津兵庫の忌服・江戸への呼寄せと急使派遣を報じる。本田伯耆守の用命で留守居一人を小笠原縫殿助宅へ遣わすことになり、赤松甚右衛門が赴いたところ、太守様の死去の日から忌五十日・服十三月を受けるよう兵庫へ伝え、忌服の書付を追って差し出すこと、兵庫が江戸へ到着した際はその旨を知らせることを指図され、別紙書付を受けた。加賀守も伯耆守宅へ赴いて取次を通じ別紙のとおり御請を申し、小笠原へ伝えた。忌服の書付は翌日提出する予定とし、御守殿へ内々に申し上げるため用人衆を通じて櫻田へ知らせた。主殿は翌六日に道中を急いで出立するので、国元への到着時期は計り難いが発駕を延ばさぬよう手当を求める。今夜、海陸二手の急飛脚を差し立てることとし、御歩行の野村勘助と谷山衆中の田原辰之助を即夜派遣した旨を記す。関係する御方・尾張様・京大坂・隣国への通知も相談している。兵庫の出府に野村大右衛門などの留守居を付ける案を検討したが、人数が少ないため使番を供に付ける案を相談し、用人の供への影響も考慮している。国元から派遣する役の往返と出立について承知するよう求め、小倉筋を急いで道中の通り方を聞き合わせること、宿札は「薩州」と記して掛札は不要との留守居の見解を伝え、別紙二通を添える。
〈寛延二年〉八月五日 / 冊子 187頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0530
寛延二年八月五日、嶋津主鈴・矢柄・主殿が樺山主計・伊勢兵部・鎌田典膳・平田靱負へ、兵庫の定式忌服と出府について幕府側から書付による指図を受け、急使を差し立てたことを報告する。本多伯耆守宅へ召された小笠原縫殿助を通じ、別紙のとおり忌服を受けて江戸へ出府するよう書付を渡されたため、その内容を急飛脚で国元へ伝え、御歩行の野村勘助・田原辰之助を急いで派遣したと記す。この件を御聴に達し、早く出立するよう申し上げることを求める。両名をこちらへ差し返す必要はなく、国元に留め置くよう申し越し、別紙第一通を送る。
〈寛延二年〉十月三日 / 冊子 208~209頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0580
寛延二年十月三日、嶋津主鈴・矢柄が嶋津主殿・樺山主計・伊勢兵部・義岡左平太・鎌田典膳・平田靱負へ、兵庫の忌服と出府に関する届書・幕府への取次手続を報告する。八月七日に本多伯耆守から受けた指図は八日に知らせ、片道二十三、四日目の承知を見込んだ。その後、八月五日の小笠原縫殿助の指図も吟味して九日に申し越したところ、九月三日・四日の便で国元に届き、三日から十月二十二日までの忌と十三月の服を受ける旨が伝えられたため、その内容の届書を整えることを求める。八月五日の指図をもとにすると九月三日まで片道二十七日目となるが、勤事と余事では所要日数が異なるという朱書の返答を承知したとも記す。忌服・出府の指図への請は他方の扱いも照会し、御一類方の内から申し上げること、九月十三日の国元出立の届などを整えることを求める。兵庫の名書を整え、以前の指図に用いた小笠原縫殿助へ取次方式を岩下佐次右衛門を通じて相談したところ、縫殿助へ書付と忌服届書を内見に出すよう返答があった。前月二十九日、御用番の堀田相模守へ請書を持参し、無事に受け取られたことを佐久間源太夫が伝える。また、源太夫が兵庫の定式忌服・出府の指図書付を携えて参上し、九月三日に薩州で承知した旨の受けの書付と忌服届書を御用番へ差し出し、本多への報告のため書付写を御用人へ渡した経緯を記す。御守殿櫻田にも承知日と十三日の出立予定を知らせ、使番を通じて関係先へ伝えるよう依頼する。届下書、受けの書付写、留守居首尾書の三通を添え、隅州様と兵庫へ報告するよう求める。目録の連署人名と署名の実名には異同がある。
宝暦六年十一月三日 / 冊子 637~638頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1890
高橋縫殿が十一月三日、島津圖書・義岡相馬へ、国目付二使が先月十六日に暇乞いで登城し、書院で料理を受け、太守の礼と隅州の挨拶口上、帰府書状について留守居が取り次いだと報告する。肴一折ずつを進め、退城後は備中・周防・主鈴・織部・縫殿・筑後宅の門まで、翌十七日は主殿・典膳・出雲・大学宅へ挨拶・見舞に赴いたと記す。若年寄・大目付は使者を旅宿へ遣わして礼参し、因幡も同様に挨拶し、太守の道中挨拶は往復書状で滞りなく行うよう留守居へ申し渡したと伝える。隅州は病身で滞在中に二使と会えず残念に思っており、出立前に縫殿が使者を務めたと知らせ、継豊への伝達を求める。
宝暦九年(日付不記・記事) / 冊子 743頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2260
十二月五日、家重が番使の谷縫殿助を芝邸へ遣わし、鷹が捕らえた鶴一双を重豪に下賜した。重豪はただちに老中各邸を訪れ、拝領の礼を述べた。
宝暦十二年二月十六日 / 冊子 901頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2646
高橋縫殿と菱刈藤馬が二月十六日、嶋津左中・主鈴へ、八ツ過ぎに松平摂津守の屋敷近くから出火し、悪風のため南の物見に火が掛かって防ぎきれず、藤馬が淨岸院に付き添って高輪邸へ避難したと報告する。御守殿と家回り、本宅・中奥は焼失したが淨岸院は無事で、茶屋でいったん防ぎ止めたものの北長屋に火が掛かり防火に努め、御厩より西の長屋は風上なので心配ないと伝える。至急の飛脚二人を海陸の二手に分けて出したので重豪へ早く知らせるよう求め、御届などの手続は追って申し越すとする。国元への報告は宛先側から行うよう求め、詳しい事情はこちらから国元へ追々知らせると付記する。
宝暦十二年二月(日付不記) / 冊子 909~910頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2669
高橋縫殿が幕府の御金奉行四名へ、御守殿と居宅の類焼に伴って松平薩摩守に貸し与えられた金二万両(後藤包)を受け取ったと証する。返納は来々年の申年から子年まで五年賦で上納する約束とする。薩摩守が国元にいるため、今回は高橋自身の印形の手形で受領し、重豪の参府後に本人の直判手形へ交換すると述べる。