蒲池某・本田親正連署達書
慶長十六年正月十七日 / 冊子 310~311頁
慶長十六年正月十七日、蒲池休右衛門尉・本田伊賀守が島嶼検地の組頭へ出した連署達書。飯米・薪・酒・米・船頭食・油などの支給基準、現地調達の手順、百姓への寄付・人夫徴発を不当に行わないことを細かく定める。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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慶長十六年正月十七日 / 冊子 310~311頁
慶長十六年正月十七日、蒲池休右衛門尉・本田伊賀守が島嶼検地の組頭へ出した連署達書。飯米・薪・酒・米・船頭食・油などの支給基準、現地調達の手順、百姓への寄付・人夫徴発を不当に行わないことを細かく定める。
(慶応二年)三月廿七日 / 冊子 6~7頁/原整理番号 8-1
伊地知小十郎が伊作の曖中・組頭中へ、大汝八幡社に龍伯が進納した母衣一掛と赤地・青地の錦袋二重が現存するか、掛役を立てて早急に改めるよう求める。現存すれば郷役の出府時に記録所または自宅へ持参し、届出を早く返すよう指示する三月二十七日付書状である。
年月日未詳 / 冊子 221頁
寛永十九年十二月に城下士を初めて十組へ分けた際の組頭を記した注記。一番組から十番組まで各二人の組頭を列挙し、家老組、寺社家組、諸役座組などを合わせて二十六組としたことを示す。正保二年にこれらを七組へ統合したことも付記している。
明和元年 閏十二月(年は目録。日なし) / 冊子 46頁/原整理番号 149/整理ID 149
新番の組合について、当人が所属を願い出て認められたことを踏まえ、今回別冊の通り番組を編成したので、書き改めて伝えるよう組頭へ命じる申渡書。一番から四番組までは各人を従来の組へ入れ、できるだけ増減せずおおむね人数がそろうよう組み合わせる。組ごとに人数の多少がある場合は、この四組の内で調整する。五番・六番組は従来の組で増減があるため別冊どおり編成し、今後も前記と同様に人数をそろえる。ただしこの二組の新番が後年格別に増える場合は指図を求める。新番が四つ八つの間の番勤めに差し支えがあるときは、夕詰や夜番等へ寄せて勤めるよう伝える。処置を済ませて番帳への記載を申し出、記録奉行にも知らせるよう指示する。本文末尾は閏十二月、土鈴の署に島津久郷の人物注。目録は明和元年閏十二月の島津久郷申渡書。出典注は白木御文書五番箱中・写。
(慶応二年)四月朔日 / 冊子 7~8頁/原整理番号 8-3
伊作の寺社方掛・組頭が、龍伯進納の母衣一掛を赤地・青地の錦袋とその外側のなめし皮袋に入れ、郷役出府の便で伊地知小十郎の宅へ届けたと報告する。四月朔日付で、同月二日に伊地知が受け取り、請取書を置いた旨の付記がある。
年月日未詳 / 冊子 220~221頁
島津光久譜の記事。寛永十九年十二月、城下士を十の番号組に編成し、各組に組頭と小組頭を置いた。さらに家老組、寺社家組、諸役座組を設け、合計二十六組とし、各番号組の組頭を列挙する。動員と伝達を迅速にし、内外の備えを整えることを目的とし、正保二年には二十六組を七組へ再編した。
寛永十九年十二月十三日 / 冊子 221~222頁
島津光久が与頭・組頭へ示した条書。組中に野心・不忠の者がいれば直ちに言上し、隠せば組頭と談合衆も同罪とする。喧嘩・口論は早速寄合って処理し、仮病などで奉公を難渋する者を処罰すること、切支丹・一向宗を糺明すること、訴訟は与頭を通して公儀へ申し出ることなど、組内統制と報告手順を定めている。
寛永十九年十二月十三日 / 冊子 222~223頁
島津氏老臣が組中の者へ示した条書。与頭の下知に背かず、出陣・江戸勤番・狩りなどの役を忌避しないこと、喧嘩・口論や訴訟は与頭へ届けることを命じる。また与頭から組中へ命令を取り次ぐ者として小組頭を置くことを定め、組内の指揮系統と服務規律を明確にしている。
宝暦十二年正月 / 冊子 895~896頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2633
上下士踊は天候に応じ、四ツ時に上踊を城門橋の辺から厩へ、下踊を加治木家跡屋敷角から島津内膳屋敷の方へ集合させ、首尾と人数を御用人へ届ける。御側廻は桟敷の御座末段に詰め、先供十五人と道具・長刀、家老・若年寄・大御目付・寺社奉行・勘定奉行らの席と見物場所を定める。折一合・三種二荷を進上し、目付が踊場を差配し、踊後は桟敷前の垣を除いて長御座を敷き、組頭三、四人を召し出して人数を尋ね、上踊は銚子二十、下踊は三十で酒を配る。盃を下す間は組頭・小与頭が目付へ寄って差配し、刀・草鞋を着けたまま退出して鉢巻を取る扱い、踊・供の行列、進上の折に伴う菓子の差上げと桟敷次の者への菓子下賜、帰館までを定める。
安永六年夏六月、遣使献香奠は六月十四日 / 冊子 526頁/原整理番号 1454/整理ID 1454
同年夏六月、大家が増上寺で惇信院殿の十七年忌法事を営んだと記す。これに当たり十四日、重豪が組頭兼用人比志島要人範章を遣わし、香奠銀十枚を献納して拝礼した。惇信院殿には徳川家重の注がある。十七年忌という法事の回数、六月の法事と十四日の遣使、使者の兼務役と名、銀十枚という数量・単位をそれぞれ保持する。銀を両や貫へ換算せず、十四日を本文にない命日へ読み替えない。
天保4年2月3日(年次朱書、月日本文) / 冊子 946頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2666
猪飼央が四家老へ送った、病状関係の書類を添付する書状。先月二十九日に上使が来た際、容体書など別紙四通の通り、御坊主組頭を通じて差し出したと述べる。心得のため、それらを添えてこの趣旨を申し送るとする。二月三日付、朱書天保四年、猪飼央署。出典は重豪公御譜中で、控えの正文は家老座にあるとの注を伴う。本文は容体書等の提出日・提出経路・四通という数量・今回の送付を記す添状であり、病状の詳細や医師の名列そのものは後続資料に分かれている。前月二十九日の上使と書類提出を、二月三日の添状の日付と区別して保持する。
8月9日大藏申渡/亥8月9日向井新兵衛伝達注 / 冊子 310~311頁/原整理番号 441/整理ID 441
勅書拝見が済んだ日に、一門の嶋津圖書・大身および月次礼に出た家老が席上で祝儀を述べるよう求める。諸士・与力は帳面で、諸所の移地頭・地頭代は差し支えない時に罷り越し席上で祝儀を申し上げる。諸郷は在合の者が当日申し上げ、郷士年寄・組頭は明後十一日から精進日間に帳面で祝儀を述べるとし、両役の内一人が出ても差し支えないとの但書がある。太守・三郎へ祝儀を申し上げるよう向々へ伝える八月九日大藏の通知と、同亥八月九日向井新兵衛の伝達注を伴う。四対象区分と通達を分け、人員総数を推定しない。
正月(家老三名申渡);子正月27日向井新兵衛伝達 / 冊子 332~333頁/原整理番号 468の3/整理ID 468-3
二内容。櫻島郷地頭所の中山次左衛門・土山十郎に係る見廻り・神瀬と燃崎臺場普請掛の働きを認め、重組頭として定式方や外組頭同様の取扱いを命じる。以後の交代でも人数を新たに召し入れず定数内で取り計らい、地頭・郡奉行へ伝える北條織部取次の条。次は長崎製鉄所から借受けた汽船が長州臺場から砲撃され、小倉領で焼失した件の照会と返答を述べる。誤解や後悔を記し、小倉へ役人を出し詳報を京都の三郎へ伝え、公武に相談して道理を明らかにする指示と説明を載せ、一統は承知して動揺しないよう求める。正月大藏・摂津・但馬の三署、子正月廿七日向井新兵衛の伝達注。船事件は通知側の説明、各役務と報告は指示として区別する。
年月日未詳 / 冊子 38~39頁/原整理番号 42
『泰平年表』大猷様御代。寛永十年正月の軍役制定、二月二十日の千石以下の御小姓組・御書院番・大御番への各二百石の加増と本高廩米の知行への引替えを記す。続く条文は、不相応な身代や奉公ぶりの者を精査し、番頭・組頭による勤務の監督、組中の不覚悟・不行跡の報告を命じる。無用の者は厳しく申し上げ、奉公に精を出し、身持ちを倹約して金銀を蓄えるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 183~184頁/原整理番号 307-3
水野日向守が二十六日の総攻めの触れを聞き、子の美作守と孫の伊織助に、鬨だけを上げて控えるのではなく先手として働く覚悟を問う。美作守は、伊織助の初陣でもあり、軍法に背くことになっても先手が乗り込むのを見物することはできないと誓う。日向守は家老・組頭・足軽大将・武者奉行・旗奉行・馬印奉行らを呼び、鍋島勢が塀へ攻め掛かって損害を受け人数が減る時を見計らい、後方から二の丸へ押し入り本丸を第一に乗り取る作戦を命じた。本丸を落とせなければ自分を駕籠ごと塀内へ投げ入れよと述べ、父子討死の覚悟と若者の奮戦を促し、旗・馬印奉行の心得を特に重視した。しかし二十四日夕方から車軸を流す大雨となり、触れを出すまでもなく攻城はいったん中止された。
年月日未詳 / 冊子 657–666頁/整理ID 2253
吉貴公御中の組頭覚悟条目。公儀の仕置・組帳肩書・学文武芸、武具馬具整備、服務・勤怠・病気・相続届出、喧嘩・切支丹取締、席次・名乗を定める。弓馬修練と、馬の外形より脚力を重んじる飼立、借馬等による騎乗準備を求め、馬道具の美麗を戒める。身分別衣服制では鹿子入衣服などを禁じ、婚葬・贈答・供人数・馬挑灯の節倹、主従礼と召抱・養子・縁組・離別手続、道中の下馬礼・荷馬口付、規則違反の督察を命じる。鹿子は衣服の文様名称で鹿皮ではない。末尾年月ナシ。
二月廿四日 / 冊子 184頁/原整理番号 307-5
二月二十四日、細川忠利が惣組頭中へ、二十六日に天候を見て火矢を射る予定に備え、五か条を命じた。卯の刻に鐘と太鼓を一斉に鳴らすこと、敵が出た際の相印として刀または脇差に白紙を三巻きすること、合言葉は「国か」と問い「国」と答えること、卯の刻以前に先手は静かに備えを出して合図を待つこと、味方の後方から射撃しないことを定める。これらは火矢使用時の規定であり、天候が悪ければ延期すると付記する。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):同十九年壬午 補記(正文と別層):同脇「寛永」/月日不傳 / 冊子 154頁/整理ID KW1-G000135
光久公の命により八番組頭役となったと記す。
明和六年(十二月二十四日・二十六日)、追記は明和九年春 / 冊子 234~235頁/原整理番号 628/整理ID 628
この年、恕翁公元久・大中公貴久・一唯公久保・心應慶安大姉・曹源院殿の廟室を重修し、石塔を移したことを記す。十二月二十四日、組頭島津直衛久中を福昌寺と恵燈院へ遣わし、それぞれ代拝させた。続く記事は、享保乙卯の年に福昌寺が「池魚の災」に遭い、その後も寺宇が整わず殿屋を仮設していたため、この年、旧制に従って再建したとする。家老島津久金が総監、大目付島津久起が副監を務め、寺社奉行町田久連・島津久前、側用人二階堂行端、用人川上久福・川田国起、普請奉行伊集院兼明・村田経芳・面高俊常らが関与した。経芳が東武へ役務に出たため俊常が代わったとの注がある。春正月に着工し冬十二月に完成、同月二十六日に入仏供養を行った。先規により使番頭川上久馬久致を通じて福昌寺へ青蚨五百匹を贈って慶賀した。完成後、扁額を作り、重豪が「玉龍山」の三字を親書して山門に掲げた。門外の石橋一か所は龍門橋と呼ばれたが廃され、明和九年壬辰春には泉を引いて池とし、石橋を架けた。長さ二丈六尺余、幅一丈六尺余で、壮麗さは旧制を超えたとする。池中に蓮数百根を植えて蓮池と名づけ、小堂二宇に観音と弁財天女を安置し、さらに橋を架けて通じさせた。観音は俗に水観音といい、もとは龍門橋の傍らにあったとの注を伴う。
明和八年四月十日~十九日(記事所載日) / 冊子 277~278頁/原整理番号 742/整理ID 742
明和八年辛卯四月十日、修道佛公(島津忠時)の五百年忌法事を淨光明寺で一日行い、下二組頭島津直衛久中を使いに香奠銀五枚を納め代拝させた。同年四月十六日、上使松平周防守康福が芝邸へ来て帰国の暇を賜り、恩賜は先規どおりだった。同日、大納言家基公からも阿部豊後守正允をもって恩旨を伝え、先例の饗待を行った。翌日、老中へそれぞれ謝礼した。十九日、黒書院で家治公に拝謁して暇の礼を述べ、懇厚な命を蒙り、駿馬一匹を賜った。西営でも賜物を謝し、老中へ礼を述べた。在府家老島津仲久健が太刀・馬代・巻物を献じたことを記す。さらに重豪は事情があって帰期を緩めるよう大家へ申し上げたという。出典は重豪公御譜中。
安永二年六月二日 / 冊子 376頁/原整理番号 1051/整理ID 1051
「乗輿・馬上其外途中式対定」。備前・兵庫・因幡・若狭・玄蕃の五名は、大目付格以上の役人と独礼の者には下馬・下乗し、それ以外には下馬・下乗を要しないとする。組頭・番頭・一所持・一所持格・寄合・寄合並の中には、相手に応じて馬を留めて式対する扱いを定め、その他の士に会う時には乗輿の戸を開け、馬上でも自身で式対する。大目付格以上の役側は、鑓を持たせる役格の者には下馬・下乗するが、鑓を持たせる格でない者には、その相手が下馬しても下馬・下乗を要しない。大身分・独礼格の者同士が馬上・乗輿で行き合う場合は互いに下馬・下乗し、相手が歩行ならもちろん下馬・下乗する。また、大身分・独礼の者は、鑓持の役格や、鑓を持たなくても近附の中で確かに役を勤める者には下馬・下乗するが、その他の小役人・歩行の格には不要とする。大目付格以上の役人同士が馬上・乗輿で行き合う場合は互いの下馬・下乗を要せず、式対をせずに通ることも差し支えないと記す。末尾には、以前に定めた式対のうち、寺社奉行から御近習役以上の役人及び近附の士に関する扱いを、このたび改めたので遵守するよう求める。表方に直接通達し、側方・勝手方へは写しで伝える。末尾は安永二年巳六月二日。各条で対象、役格、乗輿・馬上・歩行、下馬下乗・式対の有無を分けている。
是歳夏六月、二十一日の献納(安永四年の文脈) / 冊子 466頁/原整理番号 1276/整理ID 1276
この年夏六月、大家が東叡山で有徳院の二十五年忌の法事を営んだと記す。有徳院には徳川吉宗の注がある。その際、二十一日に重豪は組頭兼用人比志嶋要人範章を遣わし、香奠銀十枚を献納して拝礼したとする。出典は重豪公御譜中。
天明七年二月十五日(年は朱書) / 冊子 944~945頁/原整理番号 2575/整理ID 2575
二月十五日の隠居の礼について、前日到来した老中連名の奉書により名代を五つ時に登城させるよう命じられ、本多豊後守を名代として出した次第を記す。豊後守自身も家督の礼を命じられていたため、当朝六つ半時に早く出宅した。石川榮阿彌を介して直の御請と居残りの礼の扱いを御用番水野出羽守へ照会すると、両人とも同様に扱うとの返答があった。将軍が白書院に出て月次の礼が済んだ後、献上品が御前に並べられ、太刀は奏者番稲葉丹後守が御敷居内に供え、豊後守は障子際で礼をして退いた。続いて献上太刀の御覧の際に再び出て礼をし、上意により敷居内に着座し、労いの言葉を受けて請けを述べ退いた。さらに白書院の縁頬で年寄衆列座の場で居残りの礼を申し上げ、大目付・目付も陪席した。豊後守は松平右京亮の披露により礼を滞りなく済ませ、大老への初礼も済ませて退城し、帰宅後は双方が縁亭で対面して熨斗と茶を出した。豊後守から側役の使いを通じて隠居礼と家督礼が無事済んだ旨の祝意が届き、返答するとともに、こちらからも側役を通じて祝意を伝えた。末尾は隠居・家督に伴う贈答品を列記する。大老・初年寄衆へは太刀一腰・縮緬五巻・馬代黄金十両(一疋)、さらに干鯛一箱・昆布一箱・樽代五百疋をそれぞれ贈る。若年寄衆へは太刀一腰・紗綾三巻・馬代黄金十両(一疋)、さらに干鯛一箱・樽代三百疋をそれぞれ贈る。用頼の御先手・目付と用頼の大目付へは干鯛一箱・樽代三百疋を各々贈る。内々には大老・初年寄衆へ羽二重二十疋と肴一折、御側衆へ羽二重十疋と肴一折、奥右筆組頭へ羽二重五疋と肴一折をそれぞれ贈った。
天明七年六月二十九日(年は朱書) / 冊子 981頁/原整理番号 2657/整理ID 2657
四月晦日の増上寺参詣について、掃部頭の返礼状に「去月晦日」と記したのは、まったく右筆の書き誤りであったと詫びる。当番の同役佐野郷蔵も大いに恐れ入っているとして、適切な取り計らいを頼む。六月二十九日付、表御右筆組頭の前田左兵衛による詫状である。
2月11日(三署);先月17日参内・翌18日/明後13日祝儀 / 冊子 344~346頁/原整理番号 493の1/整理ID 493-1
少将が先月十七日に参内し、太刀一腰・黄金五枚を献じ、天盃を受け、前年の英艦対応への尽力を称える勅書と鞍置御馬一疋を賜ったと報告する。近衛の衣冠への召替、公卿との対面、伝奏野々宮宰相中将を通じた伝達も記す。在国の太守にも裸背御馬一疋、家中の尽力に判金十枚を賜い、少将が勅書を拝受したという。関白・伝奏・近衛の関与と翌十八日の礼、御馬二匹の拝見・引渡を述べる。続いて明後十三日、勅書拝見のうえ一門・圖書・大身・家老らが月次礼の席で少将へ祝儀を述べるよう命じる。精進日の祝儀、京都・江戸への飛脚、随眞院、女性、諸士、地頭、郷士年寄・組頭、寺院門首、琉球人等の扱いを列記する。二月十一日大藏・摂津・但馬の三署。参内・賞賜の報告と祝儀の指示を分け、二匹の馬と判金・献上品の数量を個別に保持する。
正月六日 / 冊子 54~55頁/原整理番号 21-2
伊地知季安は相良甚太夫の前掲書付に補い、中古まで御記録所などの専用の役所だけで政務が行われたわけではなく、寺院や家老・役人の居宅も評定・用談の場であったと考える。酒匂安国寺申状や『上井覚兼日記』を引き、外城の役所から麓の地頭仮屋・屋敷への移行を推測する。古帳を組頭宅で保管した例も追記し、役所の変遷を時代ごとに考える必要を説く。
天明五年十二月五日 / 冊子 841頁/原整理番号 2315/整理ID 2315
柴村盛方は、重豪が塔之沢から差し出した機嫌伺いへの返札について、上聞に付す文言を先例に照らして調整すべきところ調整せず、御右筆も同様に不調法だったと詫びる。処置を仰ぎ、事が無事に収まるよう願う。
嘉永七年九月廿三日~廿五日(各書付・報告) / 冊子 158~159頁/原整理番号 218の5/整理ID 218-4
印刷「の5~の9」の登城手続と留守居報告を収める。九月二十四日の御名による断届は、疝積気のため翌二十五日の登城を断る旨を記す。「の6」は老中連名の奉書が到来したのち太守の病気で登城を断り、本丸の蘇鉄之間で申し述べ、病名札を差し出し目付遠山金四郎らが承知したと報告する。「の7」は内藤紀伊守の取次松橋廉平へ、太守が病気で翌二十五日に登城できない書附を持参し、演説して差し出して落手された経過と、留守居附の役名を書付で堀伊豆守へ申したことを報告する。「の8」は法令の御書附写し一通と大御目付衆の添書一通が安藝守・越中守家来から到来したので、原本を返却し写しを添えて送ると半田嘉藤次が報告する。「の9」は二十三日の御名請書で、明後二十五日五半時の登城と熨斗目半袴着用の命を承知した旨を老中六名へ伝える。これらの書付は日付順に収録されていない。
明治3年正月(巻178表紙・目録による年)/朔日~七日の年頭規式、署日なし / 冊子 722~725頁/原整理番号 947の1/整理ID 947-1
年頭御規式次第。朔日寅一刻に御書院庭上で東向して天朝遥拝、神祇拝席で勅祭社遥拝を行い、社司等の代参献幣、五社・甑ケ迫諏訪への参詣、龍出に先立たせ鶴嶺・照国・花尾を巡り、二丸で従三位へ慶賀する。二日は辰一刻から家令・珍彦一列と鹿児嶋士族を含む官等別の礼席・杯・返盃、三日は巳刻から外城士族・附士等や琉球役の礼と進上物を扱い、軍神祭・祝砲を行う。四日は政始と九十歳以上等への禄、五日は庭神社参詣と五ツ半時の講釈に五等官以上を出し、六日は学館文学始、七日は軍務局武事始惣調練とする。祭日、用夫田方、人数戸口米価、軍備員数、忠臣孝子、断刑等の各総裁報告、病気時の代行も定める。対象・時刻・座次・一回人数・物品を台帳へ分け、実出席・祭祀報告完了や現代時刻を補わない。
年月日未詳 / 冊子 203~204頁/原整理番号 129
御関狩の人数と行儀に関する覚。狩場では年長者や若者を問わず参加させるが、組内の人数を整え、私的な駆け回りや不作法を抑える。狩りの隊列・組分け、獲物の扱い、役所への申告を定め、鉄砲・火事への注意や違反の取り締まりも命じる。
明和二年三月八日 / 冊子 65~66頁/原整理番号 181の23/整理ID 181-23
江坂松庵が三月八日、同席の留守居に、松平右近将監から大目付筒井大和守へ渡された書付の写を送り、同席の諸家へ通達するよう求める。書付は、右近将監の日光出発に際し、諸方からの見舞と附使者の派遣を差し控えること、旅中及び滞在先へ飛札や音物を送らないことを厳禁する。単なる断りとして申し達する趣旨ではなく、実際に差し控えるよう求めている。朱書には、筒井大和守から江坂松庵へ渡されたこの書付が同席各家へ廻状で通達され、その旨に別紙二通を添えて申し上げたことを、三月十日に佐久間新左衛門から左中へ申し越したと記す。
年月日未詳 / 冊子 807頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2125
島津光久が久記に三千石余の地と家財等を与えて立野に宅を構えさせ、のち組頭職に補し、薩摩国田布施の地頭職を与えたことを記す系譜抄。
年月日未詳 / 冊子 879頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2372
雑抄に、元禄五年正月九日晴天の春山御関狩を記す。名代島津下野と家老・惣奉行・組頭らを列記し、二番の火付けと発砲・星合の不調、四番の合流、野火の中での猥な発砲、詮議と三番の持場に関する申渡しを述べる。
〈宝暦三年〉五月十五日 / 冊子 407~408頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1249
山澤小左衛門盛福が宝暦三年五月十五日、島津主殿へ報告する。勘定組頭依田茂八郎・佐久間郷右衛門に出向き、堀田相模守から命じられた当秋からの籾囲置・三年以来の江戸廻米高報告について、旅中の重年へ伝えて国許で調べ、回答が届き次第申し上げるので猶予してほしいと書付を提出した。相手は承知し、籾一俵の斗数と万石余の知行に対する囲置割合を尋ねたが、それも奉行へ届けて後に知らせるという回答を得たと伝える。No.1248とは提出先・日付が異なり、本書は提出時の問答を報告する。
天明四年正月八日 / 冊子 717~718頁/原整理番号 2032/整理ID 2032
御休息所で重豪が家老らに語った領国内の風俗・勤務の心得を記録する。浄国院以来の取締りと当代の申渡しが再び緩み、喧嘩・夜行・辻立が生じたことを挙げ、頭役が書付を伝えるだけで済ませず、日夜心に留めて末々まで実行させるよう求める。古い悪習を捨て、服装・容貌・言語を心得るべきだが、華美な新調や奇異な若者の様子をまねて目立つことをよしとしない。言葉は江戸・京のようでなくてもよく、九州に通じ、他国の者にも理解されるようにする。外聞に関わることは役の高下・尊卑を問わず共有し、参会では頭役が下役へ懸意を添える。役職の区別はあっても、威光で無理な取り計らいをしてはならないと戒める。下国の道中で公儀が声をかけた厚意を敬い、領国内でも恭敬し、礼儀の不周知による狼狽や過度に形式ばかり守る応対を改める。個別の世話で済ませず、命令する側の浮き立った心得も改め、古流だけに固執せず当時の振合で徐々に風俗を立て直す。近頃の田舎の鷹掛が概ね意にかなった例を挙げ、応言・言葉も含め皆が心得るようにする。日夜の教導を五年十年続け、役職者が存慮を尽くし意見を述べるよう求める。毛利覚右衛門に委ねて組頭から番頭へ徹底し、家老・若年寄・大御目附にも岩下佐次右衛門を介して相談させ、行き届かせる。年中の用筋で骨折りして勤める者は吟味し、褒美沙汰を申し上げるよう命じる。天明四甲辰正月八日に左中・杢・拙者が承知したとの追記があり、大進に島津久起の原注を付す。正文が家老座にある写しの内意書。
天明六年七月 / 冊子 867~868頁/原整理番号 2397/整理ID 2397
宮之原通直は、寄合以上の総称を大身分としつつ、家格は従来どおり各家名で称することを示し、組頭・御小姓組番頭・御番頭・当番頭・御広敷頭・御広敷御用人・御供御目付・御広敷番・代官所・代官・大奥御小姓・大番・六興小興頭・与方取次・進達掛・郷士などについて、新旧の呼称を整理して通達する。
天明六年九月十八日 / 冊子 894頁/原整理番号 2469の10/整理ID 2469-10
御目見以下の者は来る二十三日から月代を剃ってよいとし、坊主とその組頭、同心以下その他の軽い身分の者は翌十九日から認める。大目付が松平周防守の書付写一通を松平薩摩守留守居へ送り、回答等は松平対馬守へ伝えるよう付記する。
天保4年2月3日(年次朱書、月日本文) / 冊子 948~949頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2672
猪飼央が四家老へ送った、重豪の重病届と見舞い・礼の取扱いについての書状。一昨朔日夕、留守居が差重・大切の容体を記す案文写を御用番松平周防守へ提出し、受領されたと記す。昨二日には公方の上使内藤大和守が来て肴を拝領し、名代秋月筑前守種任が受け、高輪で出迎え・案内した。内府の上意も伝えられ、家老・側役・名代を介して肴の受領を済ませた。上使へ容体書等四通を御坊主組頭を通じて提出し、取持は先例通りとする。登城は七時後になったため行わず、両御丸老中へは太守の兼廻勤、田沼玄蕃頭・若年寄へは留守居、御側衆へは表方の使者、上使へは番頭で礼を伝えた。御三殿様の大奥御勤は先例通り書状で伝える。月次礼の出面・席謁、三殿・若殿への祝儀や御機嫌伺、諸士の記帳、大奥へ兼ねて申し上げる取扱いを記し、極大切の届を上使へ出したことに伴う扱いも述べる。内輪への吹聴・心得は使番が取り扱い済みとし、御内證様への報告と取計らいを依頼する。二月三日付、朱書天保四年、猪飼央署、控え正文は家老座。三頁の各条は精読記録に保持し、病状は表向きの届として整理する。
年月日未詳 / 冊子 309頁/原整理番号 274
『寛明日記』。十一月三日、唐津の寺沢忠高留守居衆が裁判役となり、江戸で加勢人数を分けた記事。岡島・澤木・原田・並河・林・柳本・渡部・柴田らの組頭、石高、足軽人数を列記し、四日己巳の見出しへ続く。
年月日未詳 / 冊子 310~311頁/原整理番号 277
『藤掛集書』。霜月初め、唐津へ注進が届き、富岡城加勢の組頭・武者奉行・足軽人数を編成した記事。十一月五日に唐津を出船し、四十八里の海路を経て九日に富岡籠城へ着岸したと記す。
年月日未詳 / 冊子 327~328頁/原整理番号 298
十二日、寺沢勢が本渡へ至ると三宅藤兵衛が味方の狼藉を鎮め、組頭を定めて人数を分散休息させた。さらに十四日早朝の上津浦攻めに向けた配当・指図と、一揆勢への警戒を記す。
寛永十四年11月29日 / 冊子 435頁/原整理番号 406の2
島原の件について上使板倉内膳・石谷十蔵から示された公儀法度書二通を各人へ渡し、厳守するよう命ずる。軍法は以前に殿から示された法度にも従い、上使の着陣・閲覧に際して万端を整える。違反者本人だけでなく組頭も処罰対象とし、各組へ徹底したうえで名下に判形して返すよう求める。
寛永14年12月22日 / 冊子 501~502頁/原整理番号 507の2
細川光利が肥後家中へ示した陣中軍法の条書。公儀の法度遵守、組頭の統制、旗本を離れないこと、物見・夜間警戒、出陣時の隊列、喧嘩・敵前逃亡の禁止、火事・夜討への備え、馬の徴発禁止などを列挙し、違背者は厳罰に処すと命じる。
年月日未詳 / 冊子 250~251頁/原整理番号 333-38
細川立允の相備の組頭・三淵内匠が、鍋島勢による出丸攻略を知って本陣から出撃し、重傷を負いながら本丸下まで進んだ経過を記す記事。竹束と混雑で城戸が開かないため竹束を越え、家来に左右へ押し開かせ、当初十二人ほどで飛び出した。佐渡守備・式部手に加わる過程で家来に討死・負傷が相次ぎ、内匠自身も右手を鉄砲で撃ち抜かれ、さらに左肩を撃たれて深手となった。それでも、黒田甲斐守家中の武者が証人になるとして退却を勧めたのに対し、城を後ろにして退く覚悟はなく証人も望まないと答えた。のち旗本からの下知を受け、組中が内匠を本陣へ担ぎ戻したという。
年月日未詳 / 冊子 434頁/原整理番号 545-1
寛永十九年十二月、城下士を初めて十組に分け、各組に組頭二名を置いた由来と、一番から十番までの組頭二十名を列記する。別に家老組一組を設け、島津弾正久慶・島津図書久通を与頭とした。寺社家組・諸役座組なども分け、合計二十六組を置いたと記す。目録年月日は空欄のため、本文の年月をB列へ補入しない。
寛永十九年十二月十三日 / 冊子 435頁/原整理番号 545-3
与之衆に対し、与頭の下知に背かず、指示に対して気任せに振る舞わないこと、出陣・在江戸・狩などを命じられた際に異議を申し立てないことを定める。喧嘩・口論は遅滞なく与頭へ報告し、訴訟等も与頭を経て公儀へ申し出るよう命じる。末尾は、与頭が条々を伝達する取次として小組頭を置いたと記す。
(寛永九年)八月十九日 / 冊子 303~312頁
東国への出陣を想定した島津氏軍役賦。第一備から第五備まで、各隊の大将・組頭・騎馬武者と付属人数、鉄砲・弓・槍・旗などを詳細に配当し、総人数二千八百九十九人、鉄砲三百六十七挺、弓百六十二張、槍二百三十三本等の合計を掲げる。
元禄十五年正月十二日 / 冊子 342–343頁/整理ID 1137
家老五名が御関狩を多人数の集まる武芸鍛錬の場とし、歩行可能な者は老若を問わず参加し、火災後に分割した組の与頭も原則各組員を率いるよう命じる。御用があれば家老へ申し出る。外城の騎馬者は乗馬御桟舗辺に置き、人数を率いる際は歩行し、馬上で駆け回り指図せず乗馬御桟敷前を避け後ろへ控える。兼役小頭と諸役人の役所勤務を調整し、組頭・組員へ事前周知する。原署は川上式部久重・喜入安房久亮・新納市正久珍・嶋津助之丞忠守・嶋津大蔵久明の五名。末注に今月十四日吉野御関狩、当年八三番などを記す。
宝永七年寅八月 / 冊子 912–913頁/整理ID 2974
谷山角太夫・平岡八郎太夫が寅八月、取次鎌田六郎太夫へ、吉貴の代に仰せ出された士の子弟の行跡是正を詳しく伝える。奉公では老若とも身命を惜しまぬ一方、平生の不行跡・喧嘩・悪口・屏垣を崩す等の悪行を戒め、親子一類の迷惑や処置を説く。学文武芸を磨き、行跡のよい者は組頭から申し出るよう求め、平日徒居する無芸無能や山坂の達者を業とする行いを戒める。
元文四年 / 冊子 567~568頁/整理ID 1419
宗信の元服・任官に伴い、宗信と継豊から将軍吉宗・大納言家重へ献じた太刀、白銀、馬、馬代金などと、江戸城内の女中衆への贈物を列挙する。御坊主組頭、御納戸組頭、御馬方などへの引渡し先、受取役、進物を届ける手順も記した目録。