島津竜伯書状
文禄4年3月20日 / 冊子 872頁
遠国のため音信が途絶えたことを詫び、寺沢志摩守が下国前に指示した「実用方」の件は、柏原殿をはじめ関係者が油断なく進めていると報告する。 義久自身も当地と国元の代官へ命じており、寺沢がいつ上洛するかを尋ねて待っている。国元行政と中央取次の連絡を示す書状。
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文禄4年3月20日 / 冊子 872頁
遠国のため音信が途絶えたことを詫び、寺沢志摩守が下国前に指示した「実用方」の件は、柏原殿をはじめ関係者が油断なく進めていると報告する。 義久自身も当地と国元の代官へ命じており、寺沢がいつ上洛するかを尋ねて待っている。国元行政と中央取次の連絡を示す書状。
(慶長四年)七月十六日 / 冊子 402~403頁
島津義久が寺沢志摩守・小西摂津守に、長期の在洛をねぎらい、庄内の件で度々使書を受けたことに謝意を示す。来月には行動を起こす覚悟である一方、近隣諸勢から申し出のあった人数の合力は当面見合わせるよう求め、島津方で対処できるので心配には及ばないと伝える。
(慶長四年)九月卅日 / 冊子 447頁
島津義久が寺沢志摩守に、思いがけない情報があるため、その真偽にかかわらず関係者のうち一人は在国するのがよいとの考えを伝える。十分に相談するよう促し、詳しい事情は少将から申し入れるので、自身は細筆を省くとする。
十月廿六日 / 冊子 464頁
島津義弘が寺沢志摩守に、今月二日に在所を出立して薩摩へ下向したとの書状をたびたび受け、寒中の旅労をねぎらう。又八郎が同日に庄内へ着陣したことを喜び、寺沢の下向を好機として、又八郎のために取り計らうよう頼み、現地の様子を聞くため飛脚を遣わしたので詳報を求める。
十月十六日 / 冊子 598頁
島津義久と島津忠恒の連署状で、十月十六日付、寺沢志摩守方宛であることを確認できる。本文は同文注記により省略されており、当該頁だけでは具体的な用件を確定できない。
(慶長五年)十月廿二日 / 冊子 600頁
島津義久(龍伯)と忠恒が寺沢志摩守方へ、遠国ゆえ音信が途絶えたことを詫び、今回の戦について惟新から詳細を聞いたと述べる。惟新は事前相談を受けず、秀頼への永年の忠節を誓った起請に基づいて家臣の意見に従ったが、徳川家康の厚恩を忘れたわけではないと釈明し、取り成しを求める。
(慶長五年)十一月四日 / 冊子 609-610頁
島津忠恒(家久)が寺沢志摩守・山口勘兵衛尉へ、九月二十八日付の両名の書状を十一月四日に受領したと伝える。上方の不慮の一乱や兵の動員について遠国ゆえ事前に相談を受けていないと説明し、両名の島津家への厚意に謝して今後も支援を求める。
(慶長十七年)七月廿五日 / 冊子 368頁
慶長十七年七月二十五日、島津義弘が寺沢志摩守へ、道甫を通じて有楽へ四方盆を進上したこと、茶村・茶道具の内々の取合いと秘蔵を依頼した書状。
(慶長十七年)七月廿五日 / 冊子 368頁
慶長十七年七月二十五日、島津義弘が寺沢志摩守へ、本多源右衛門尉の書状を読み、関東参上の事情と御越しの際の面会、船便などについて伝えた書状。
(慶長十七年)八月十三日 / 冊子 374頁
慶長十七年八月十三日、島津義弘が寺沢志摩守へ、先度の下着と追付の見廻り、使者の礼、内々の物語を承知したことを伝えた書状。
(慶長十七年)八月十五日 / 冊子 374頁
慶長十七年八月十五日、島津義弘が寺沢志摩守へ、鹿児島から山田民部少輔を使者として遣わし、上方での懇切な配慮と秘密の取次に謝した書状。
(慶長十七年)九月六日 / 冊子 377~378頁
慶長十七年九月六日、島津義弘が寺沢志摩守へ、先度の来訪と懇意に謝し、小袖・葛布などを贈り、今後も親しく取り合うよう頼んだ書状。
九月十一日 / 冊子 379頁
九月十一日、島津義弘が寺沢志摩守へ、派遣された焼物師が当地で見事な焼物を完成させたことを喜び、須戸七左衛門尉を介して謝意を伝えた書状。
(慶長十七年)九月十一日 / 冊子 379頁
慶長十七年九月十一日、島津義弘が寺沢志摩守へ、須戸七左衛門尉の来訪と夕刻の会談を喜び、今後も意思を通じるよう依頼した書状。
(慶長十八年)三月六日 / 冊子 390~391頁
慶長十八年三月六日、島津義弘が寺沢志摩守へ、病後の体調を気遣い、上野介を介した用向きや薬酒の調合、贈物について取り次ぎを求めた書状。
三月六日 / 冊子 157頁
本田親商が寺沢志摩守に、先日の来訪時に十分な対面ができなかったことを詫び、茶・酒や今焼の皿を贈られたことへの満足を伝えた書状。さらに見事な脇差など種々の贈物を拝領した厚意に深く謝し、詳細は使者に託す。
三月廿六日 / 冊子 408頁
島津龍伯が寺沢志摩守へ、秀頼の病気見舞いのため不意に上洛したと聞き、その労をねぎらう。当地で駒追を見物したいとの希望を聞いて天草まで飛脚を出したが実現せず残念であると述べた書状。
文禄3年 / 冊子 784頁
義久が寺沢正成の誓約を受け、自身も今後別心を持たず、公儀における寺沢家の用向きへ協力すると約束する。世情がいかに変転しても両家が申し合わせて忠節を尽くすと誓う。 No.1309と対をなす返誓で、島津・寺沢両家の相互扶助を明文化した起請文前書案。
(慶長六年)十二月廿九日 / 冊子 796頁
島津義弘が、高畠新蔵を通じた申し入れへの返書に礼を述べる。内府は江戸で越年し、正月早々に上洛する予定だと伝え、近日使者を遣わしてさらに連絡するとした書状案。
(元和四年)二月十三日 / 冊子 664頁
島津義弘が、遠国ゆえ長く無音となったことを詫び、近辺で捕らえた大鷹を贈り、先方に世話になっている娘への変わらぬ指導と配慮を頼んだ書状。
正月六日 / 冊子 210頁
新年を祝い、長期滞在の辛労をねぎらい、将軍前での仕合もよいだろうと推察した。現地の新しい動向と、次郎殿が当面江戸にいるのかを尋ね、唐津へも近日使者を送る予定を伝え、太刀と馬代銀三枚を贈った書状案。
(慶長三年)十一月二日 / 冊子 270~271頁
浅野長政・石田三成が(慶長三年)十一月二日付で朝鮮在陣の諸将へ出した連署状。徳永寿昌・宮木豊盛が名島へ着岸して現地の意向を伝えたことを受け、明軍が大敗した以上は諸城の城主がそろって帰朝するよう命じる。再攻撃で撤収できない場合は全城を翌三月まで保持して報告すれば援軍を送るとし、確実な講和や人質提出がないまま釜山だけを残す処置は日本の妨げになるとして退ける。
文禄3年正月25日 / 冊子 762頁
豊臣秀吉が、島津方で建造した五百石船五艘を青木紀伊守へ、三百石船五艘を寺沢志摩守へ引き渡すよう命じる。水夫は両人から割り当てるため、諸道具を揃えて確実に受け渡せと指示する。 朝鮮出兵の海上輸送に用いる大型船十艘の配属を具体的に定めた朱印状。
年月日未詳 / 冊子 782頁
寺沢志摩守と龍伯との関係について、人質に関する事柄と、龍伯が直接差し出した誓紙が存在したことを記す短い覚書。 本文が一条のみで詳細な経緯は分からないが、豊臣政権下の身分保障・忠誠確認に人質と誓紙が用いられたことを示す。
年月日未詳 / 冊子 783~784頁
義久が在洛していた際、寺沢志摩守正成が島津家に異意を抱かないことを約し、後年の証拠となるよう誓紙と印裏を渡したと記す。寺沢は封書を添えてこれを返した。 豊臣政権下で島津家と寺沢氏が相互の立場を文書で保証した経緯を伝える義久譜の記事。
文禄4(慶長3)年正月15日 / 冊子 862頁
厳寒下の在陣をねぎらって綾小袖と染道服を贈り、寺沢志摩守から詳細を伝えるとした豊臣秀吉の朱印状。明軍の蔚山攻撃と日本側の救援で敵が退いた情勢にも触れる。 朝鮮の諸城・船舶・兵糧を整え、帰朝者には敵情を十分に確認させるよう指示する。増田長盛・徳善院・長束正家を取次に据えた、蔚山戦後の軍令として重要。
文禄4年3月18日 / 冊子 870~871頁
城の兵糧として米二千石を博多で渡し、山中山城守・石川紀伊守が受け取って蔵へ納めるよう命じる。船頭の飯米は百石につき四石と定める。 釜山浦の貯蔵兵糧も各城へ配分し、寺沢志摩守の指示で蔵へ保管すること、非常時以外の流用を禁じる。朝鮮在陣軍の兵站管理を数量と担当者まで示す重要命令。
年月日未詳 / 冊子 929~936頁
文禄四年十二月一日から三十日まで、高麗再渡海を控えた島津義弘周辺の日々を記す。天候、寺社参詣、連歌・茶・舞、贈答、使者・書状の往来に加え、船・馬・人員・武具・衣類・兵糧の手配、家臣への給付や知行処置、出仕・帰館を日次で列挙する。 比志島紀伊守・寺沢志摩守・伊集院幸侃・上井仲五らの動向も現れ、軍役準備と島津家中の日常が交差する様子を連続的に追える重要な日記。
(慶長元年)五月十日 / 冊子 24頁
小西行長が島津又八郎(忠恒)へ、寺沢志摩守が上着して目見えし、現地の方針は以前と変わらない旨が申し出られたこと、奉行衆から各人宛の書状が再び届いたため、寺沢の使者を添えて届けることを伝えた。また、御城番を厳重に命じ、勅使渡海の際のことは使者から詳しく申し入れるとした。追而書では石田治部少輔三成への書状も託し、石田および奉行衆への返書を使者に渡すよう求めた書状。
(慶長二年)三月廿八日 / 冊子 95~96頁
石田三成が羽兵に年頭の使札と銀子三枚への礼を述べ、番船が敵船に遭遇しながら十分に働かず早々に引き退いた件について、寺沢志摩守を通じて厳しく申し付けると伝えた書状。油断を禁じ、羽兵の着陣後に上洛するよう求める。
(慶長二年)四月八日 / 冊子 96頁
小西行長が島津又八郎方に、番船について諸将が注進した結果、朱印状が下され、寺沢志摩守の使者が持参したことを報じた書状。当年の軍役書立も各城へ届いたとし、石田治部少輔から兵庫頭への通知を踏まえて又八郎の判断を尋ねる。
(慶長二年)四月十日 / 冊子 96頁
島津忠恒が小西行長に、先日の番船出動を諸将が注進したことで朱印状が下された件を受け、寺沢志摩守へ懇切な礼状を送る意向を伝えた書状。行長からも寺沢へ書状を遣わすよう依頼する。
(慶長二年)五月五日 / 冊子 100~101頁
島津義弘が宰相殿へ、又八郎の心中と働きについて理解し安心した旨を伝え、伏見の様子を詳しく知らせるよう求めた。また、自身の航海が風待ちで遅れ、船酔いしたことを述べるとともに、朝鮮での働きを妨げないよう又八郎の帰朝時期を見計らい、寺沢志摩守から現地の事情を聞いたうえで、数日でも帰朝させたいとの意向を伝えた書状。
(慶長二年)十月廿八日 / 冊子 148頁
豊臣秀吉が島津義弘へ、先の五城に残した兵粮を当米に替えて各城へ備蓄し、来春の渡海・出兵や不意の作戦に備えるよう命じた朱印状。油断なく処置し、詳細は寺沢志摩守から聞くよう指示する。
(慶長四年)三月十四日 / 冊子 360~362頁
桂忠詮・上井里兼が、大坂出船後に出水へ到着し、鹿児島への通報と出水城の城祝を行ったことを報告する。肥後境目や各城・港、御牧と放馬、在々の侍・中間・百姓・職人の人数を調査し、城絵図・知行帳・目録を提出するとした。さらに寺沢志摩守の代官高嶋新三と百姓・入江・橋本との紛争、高嶋の逃亡、水俣の小西方への引渡しなど、出水郡の仕置と引継ぎの状況を詳述する。
(慶長四年)六月一日 / 冊子 389頁
島津義弘が又八郎に、宗世が庄内で堪忍しており、もし退出を望むなら配慮するよう伝える。寺沢志摩守の依頼により、堺の油屋道総の代官二郎左衛門尉について、庄内で無事に滞在できるよう、旅人として龍伯の意向を得たうえで援助することを求める。
年月日未詳 / 冊子 401~402頁
諸書状の要点を抜き書きし、伊集院源次郎の楯籠をめぐって立花親成の援軍を当面見合わせたこと、小西作右衛門尉の鉄砲衆三百人派遣、寺沢志摩守・小西摂津守ら近隣勢への援軍辞退を記す。さらに、惟新から少将への書状に見える船の賊党捕縛、毛利角右衛門と上田小左衛門尉の少将への奉公希望などを日付順に記録する。
(慶長四年)七月廿一日 / 冊子 405頁
島津義弘が少将に、呂宋への商買船と真壺の取扱いを詳しく指示する。長崎へ着岸した船の真壺を没収し、内府も商買船を曲事としたこと、甑島・阿久根方面の船も高島新蔵や寺沢志摩守と連携して厳重に改めることを伝え、「ばはん」船についても油断なく詮議するよう求める。
(慶長四年)七月廿五日 / 冊子 407頁
島津義弘が少将に、「ばへん」船の荷物を厳重に改めて保管したとの報告を評価し、国習に紛れて不正が生じないよう一層注意することを求める。毛利輝元から再び使者を下す予定にも触れ、甑島へ来た呂宋商買船と真壺を寺沢志摩守・高島新蔵らと連携して糺明し、真壺を速やかに差し上げるよう詳しく指示する。
(慶長四年)八月六日 / 冊子 419~420頁
島津義弘が又八郎島津忠恒に、京都と国元の無事を述べ、庄内の対処を失策なく進めるよう促す。内府が格別に配慮して寺沢志摩守を使者として再派遣すること、帖佐の置目を厳守させること、病中の幸侃への見舞いと祈念を伝える。さらに帖佐蔵入の代官衆を庄内陣から外し、年貢収納に専念させるよう求める。
(慶長四年)八月六日 / 冊子 420~421頁
島津義弘が伊集院源次郎に、内府使者寺沢志摩守の下向が予定されているので熟慮するよう求める。幸侃が悪心ゆえ成敗されたことはやむを得ないが、源次郎の進退は保障すると龍伯・少将が繰り返し伝えているのに、なお籠城していると指摘する。家中や加治木・吉田の者に神文血判どおり城を出て奉公させ、主人への加勢、親子夫婦間の悪事、食物・通用などを禁じて家中を統制し、山口勘兵衛尉を通じた和談に応じるよう諭す。
(慶長四年)八月廿一日 / 冊子 429~430頁
島津義弘が又八郎島津忠恒に、庄内情勢の注進が途絶えて心配していると述べる。内府の使者寺沢志摩守が同日出立し、立花左近太夫・小西摂津守も軍勢を伴わず同行する予定なので、現地で十分に協議するよう求め、注進は寺沢との連判で上申すると決めたと伝える。また帖佐の諸制度を鹿児島同様に整えるよう頼み、詳細を小野郷右衛門尉に託す。
(慶長四年)九月二日 / 冊子 433頁
徳川家康が薩摩少将島津忠恒に、先に派遣した使者が到着したとの報告を受け、丁寧な知らせを喜ぶ。伊集院の件については先日寺沢志摩守に申し遣わしたので、書中では詳述しないと伝える。
(慶長四年)九月廿二日 / 冊子 440頁
高橋重種が羽柴少将島津忠恒に、風説を受けて不意に上洛し、使者の口上を承知したと返答する。内府が寺沢志摩守・小西摂津守に現地を見舞わせ、その状況を近国衆へ知らせて出陣させるよう命じたため、寺沢の報告を待ちながら近方の衆と出陣準備を整えると述べる。
(慶長四年)九月廿四日 / 冊子 440~441頁
小西行長が羽柴少将島津忠恒に、七日付書状と両使の口上を二十四日に受け取ったと返答する。寺沢志摩守が近日当地へ来る予定なので、その到着後の状況に従って対応する覚悟であり、使僧を津まで送ったので帰着の折に改めて連絡すると述べる。
(慶長四年)九月廿七日 / 冊子 443頁
小西行長が羽柴少将島津忠恒に、重ねて届いた書状を拝見したが、自身が伺うかどうかは寺沢志摩守の対応次第であると答える。寺沢が二日に唐津を出船して来訪する予定なので、その意向を確かめ、必要なら参会し、結果を改めて報告すると述べる。
(慶長四年)九月廿八日 / 冊子 443頁
島津義弘(惟新)が羽柴少将島津忠恒に、幸相が六月十日以来の重病から回復に向かい、鹿児島の病人も快方にあると知らせる。さらに蔚山へ船を渡す件は、寺沢志摩守が内府へ伺って使者船以外の渡航を禁じる法度となったため応じられず、別方面から手配するよう求める。
(慶長四年)十月四日 / 冊子 453頁
熊谷直盛が羽少将に、伊集院源二郎を成敗するための出馬を至極もっともとし、小西摂津守・寺沢志摩守・羽左近らが庄内へ動き、自身も加わる意向を伝える。京都への注進を命じられれば垣見和泉とともに早船で伏見へ送ること、薩州からの進者の送迎について内府が中川修理・大田飛騨へ書状を遣わしたことを知らせ、兵庫殿の不安を解くため早急な返書を求める。
(慶長四年)十月晦日 / 冊子 465頁
小西行長が羽少将に対し、寺沢志摩守が赴いて以後は音信がないため飛札を送る。庄内表へ出兵したと聞き、所存どおりの成果を得るものと推察し、寺沢と親密に相談していずれの方法でも事態を収めるよう求める。
(慶長四年)十一月十三日 / 冊子 466頁
高橋元種が羽少将に対し、しはら城を攻め詰めている様子を承り、同城のみならず庄内一円の落去は確実とみる。内府の意向により寺沢志摩守が下向したので早く決着すると述べ、自身も出向く覚悟はあるが、たびたび左右を待つよう指示されたため従っており、折をみて不意に見舞うと伝える。