比志島立阿譲状
元中四年十二月日 / 冊子 138頁
比志島立阿が嫡子河内守へ、比志島名内の所領を少しずつ譲った仮名書き譲状。『をきのくほ』二反、『つゝみの丸』『ゆのきの丸』『みねさき』など計七反、北村から契約した薗一所、河田女しやうにあてた『いしり』三反、ひくに(比丘尼)にあてた『かきの木山』一反などを列挙する。御公事は分限や作人に応じて勤仕すること、ひくにを扶持して安穏に暮らさせることを定め、後日の証とした。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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元中四年十二月日 / 冊子 138頁
比志島立阿が嫡子河内守へ、比志島名内の所領を少しずつ譲った仮名書き譲状。『をきのくほ』二反、『つゝみの丸』『ゆのきの丸』『みねさき』など計七反、北村から契約した薗一所、河田女しやうにあてた『いしり』三反、ひくに(比丘尼)にあてた『かきの木山』一反などを列挙する。御公事は分限や作人に応じて勤仕すること、ひくにを扶持して安穏に暮らさせることを定め、後日の証とした。
応永十五年正月十一日 / 冊子 228~229頁
沙弥性慶が、父自秀雄から譲られた薩摩国山門院市来崎村・同院東方・宮里名内の田畠、薗、屋敷などを嫡子秀幸へ譲与した譲状。子孫による領知を認める一方、所領の分限に応じて御公事を勤仕するよう定め、財産継承と公的負担を一体で規定する。
天正十二年十一月十五日 / 冊子 957頁
新納忠元が伊集院忠棟・本田親貞・平田光宗へ、肥後方面の軍役について返答した書状。刑部太輔を出すよう命じられたうえ、嫡子も別口の御用で出すことになれば二重の公役となり、自身の出陣まで求められるのは困難であると訴える。前年冬に帰国を許された際の約束を踏まえ、事情を理解して取り計らうよう求めた。
九月八日 / 冊子 174頁
正賢が肝付郡弁済使に、左近将監兼元の申し出を受け、舎弟の身として嫡子の命に従うべきこと、嫡子側も舎弟を憐れんで取り計らうべきことは以前の下知にも載せたとして、その趣旨に違わず早々に処置するよう命じた奉書。
年月日未詳 / 冊子 334頁
領内の僧侶が理由なく還俗することを禁じ、違反者は父母の国にも置かず他国へ退去させるとした記事。ただし嫡子が戦死・早世し、家を継ぐ子がない場合は島津忠良へ届け出たうえで、家の血脈を絶やさないため還俗を許すとした。
天授2年7月25日(1376) / 冊子 456~457頁/原整理番号 14-15
指宿能登守忠勝が、多年の軍忠により安堵の令旨を受け、自ら知行していた薩摩国指宿郡惣地頭職を、嫡子正忠へ永代譲与した天授二年七月二十五日付譲状。正忠は以後、安堵状の趣旨を守って知行し、相違があってはならないと定める。併載系図には忠合(指宿郡司・近江守)・頼忠らを掲げるが、譲状本文の譲受人は正忠一人である。
暦応2年5月10日 / 冊子 655頁/原整理番号 126
暦応二年五月十日、妙義が嫡子二郎太郎に、薩摩国山門院内の城入道屋敷と西桃木田五段を、証文を添えて永代に譲った譲状。田屋敷は妙義が代々相伝した私領で、四至境は元の証文で確認し、地頭所役がある場合は先例に従って勤めるよう命じる。妙義の花押があり、『旧記雑録前編一』一〇四二号および『家わけ六』山門文書一一号との同文推定注記が付く。
元弘2年10月10日 / 冊子 663~664頁/原整理番号 150
元弘二年十月十日、沙弥恵仏が嫡子太郎高元に、薩摩国牛屎院の惣領郡司職、永松・木崎両名の田畠・在家・里々・荒野・山野・狩倉などを、代々の証文と坪付を添えて譲った譲状。恵仏はこれらを重代相伝の所領とし、郡内の下地知行者は庶子たちであること、他人への譲渡・売却があれば惣領が沙汰することを記す。高元の母と弟武元・元清・御房丸らへ別に譲る土地は侵さず、高元へ譲る土地も子孫に分割せず惣領一人へ伝えるよう定める。
明応六年七月廿四日 / 冊子 104頁/原整理番号 400
沙弥善従が孫嫡子又十郎清年に、大隅国祢寝院南俣内の池縁薗一所、馬門田・樋渡田、畠田二段、河原小薗一所などの重代相伝地を、本証文を添えて永代譲与した譲状。明応六年七月廿四日付。
明応六年七月廿四日 / 冊子 104頁/原整理番号 401
沙弥善従が孫嫡子又十郎清年に、大隅国祢寝院佐多村内の松坂薗一所、濱田七段、山口薗一所を譲与した文書の抄。年号・月日・署名は前文と同じとして省略する。明応六年七月廿四日付。
現行年紀:正元元年後十月五日 / 冊子 33頁/原整理番号 29/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0029
祢寢院司建部清綱が嫡子清親へ当院司・地頭職を譲与し、代々の調度証文等を併せ渡す譲状。 当院は清綱の先祖以来相伝・領掌してきた所であり、世間が不定であることを挙げて譲与を行うと記す。 清親の一期の後は、嫡子房丸が他の妨げなく当該職を譲り受けるべきことを定める。 後日のため証文を譲り与える旨を述べ、正元元年後十月五日の年紀と清綱の花押を伴う。
年月日未詳 / 冊子 89頁
永禄四年七月十二日に廻城近くで戦死した島津忠将(心翁大安居士)を追善するため、嫡子が戦死地に七宝の塔を建立したことを記す碑銘。天正三年八月の日付を持ち、忠将の武功と供養の趣旨を漢文と偈で述べる。
天明三年十一月廿八日 / 冊子 711頁/原整理番号 2012/整理ID 2012
重豪が中城王子に宛て、嫡子の夭亡に際して尋問のため一種を贈ったことに対し、謝礼として別録の品々を贈られた旨を述べ、書面の厚意に礼を表す。天明三年十一月廿八日付、中将重豪御判。前掲と同じ出典の独立した書状として収録する。
8月(通知二条);文久3年亥8月29日通達・10月2日飛脚到着注 / 冊子 316~317頁/原整理番号 447/整理ID 447
井上河内守の二つの通知。第一は上方で重大な事変があり人心が動揺しているため、万一に備え領分相互で援助し、警衛が手薄な所は指図を待たず時宜に応じて出勢し、近い料所・寺社領・小給所等も守るよう命じる。第二は中山大納言の嫡子を称する者が浪人六十人ほどと兵器を携え、河州狭山の北條家等で勅命を偽って武具・馬具を借りたという話を受け、領主に厳重な手配、早い召捕と月番老中への連絡を求める。時宜によって殺傷を認める指示も含むが、歴史的取締通知として示す。八月。末注は文久三年亥八月廿九日に通達した由を十月二日到着の飛脚が伝えたと記す。六十人は概数で、召捕の実行済み人数としない。
明徳三年十二月十三日 / 冊子 7頁/原整理番号 175
本田兼久が嫡子金藤丸に、薩摩国山門院内の針原名田・実成河名田・横峯村・高原町・久木田・内野村などの所領と、筑前国怡土荘内の所領を譲った譲状。鎧・太刀・刀も含め、一期分として残らず譲与する。明徳三年十二月十三日付。
嘉暦四年正月廿五日 / 冊子 557~558頁
比丘尼連念が所領の相続を定めた仮名書きの議状。嫡子四郎を中心に、諸子へ譲った地、返還された所領、後日の扶持と女子の扱いを述べ、兄弟間で違乱せず子孫へ伝えるよう命じる。
建武四年六月十五日 / 冊子 692頁
沙弥恵仏が、薩摩国牛屎院惣領職と永松・木崎両名の田畠・在家・山野・狩倉以下を、重病のため嫡子高元へ譲与したとして安堵を求めた申状。高元が将軍家御教書に従い、凶徒追討など諸事の警役を勤めたことを安堵の根拠に掲げる。
暦応二年五月十日 / 冊子 719頁
薩摩国山門院内城入道屋敷と西桃木田五段を嫡子二郎太郎へ譲り、証文どおり永代相伝させ、他の者が違乱してはならないと定めた妙義譲状。
天正十二年四月十四日 / 冊子 872頁
四月十四日、島津義久は福昌寺住持天海に僧二千人を率いて有馬へ赴かせ、島原合戦の死者のため大施餓鬼を営ませた。同日、八代では島津家久の嫡子が元服を祝った。
〈宝暦五年〉六月十三日 / 冊子 537頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1612-2
宝暦五年六月十三日、松平薩摩守が堀田相模守・酒井左衛門尉・本多伯耆守へ出した願書。病気が重く大切な状態であり、もし急変した場合には嫡子松平又三郎へ跡式を相違なく継がせてほしいと願う。又三郎は当年十一歳と記す。署名脇に「手振印判相用申候」との注が付く。
宝暦五年七月 / 冊子 546頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1636
重年はそれ以前、自分の病気が回復しないと悟り、嫡子又三郎忠洪に襲封させることを上書して願っていた。幕府の命令がまだ届かなかったため、継豊が三州へ命令を下した記事。その指図の内容を左に掲げるとする。出典は継豊公御譜。
明和二年十月 / 冊子 108~109頁/原整理番号 220/整理ID 220
来月四日、万寿姫君の深曽幾祝儀に際する献上物と取扱いを指図する。献上先に公方・御台・若君・万寿姫君を掲げ、十万石以上は一種一荷ずつ、五万石以上は一種五百疋ずつ、一万石以上は一種ずつ、十万石以上の嫡子・隠居は一種五百疋ずつと定める。祝儀の当日に使者を通じて献上し、若君への品は西丸御玄関から差し上げる。そのほかは先の髪置祝儀の献上どおりに行うよう求める。疱瘡・麻疹・水痘による支障がある者は追って差し上げてよく、その際は申し聞かせることとする。本文は十月、朱注は明和二年なので、祝儀予定日は翌十一月四日に当たる。
安永三年六月廿八日(朱) / 冊子 437頁/原整理番号 1203の3/整理ID 1203-3
佐竹右京大夫娘を薩摩守嫡子松平虎寿丸へ縁組することを願う旨を記す。朱の年月は安永三年六月廿八日。双方の取次は、佐竹右京大夫の取次戸田五介、松平薩摩守の取次方織田圖書と記され、戸田には勝便、織田には信方の注がある。両家名と虎寿丸の名は願う縁組の当事者・関係を示すもので、取次二人の宛先ではない。付注は御用番松平周防守へ差し出したところ、御用人高濱直右衛門が請け取った旨を佐久間九十九が申し出たとする。願書の提出・請取までを記し、許可や婚姻実施の記載はない。目録は織田信方・戸田勝便の連署願書とする。
安永五年三月(年は朱)、廻状三月十二日・朱写送三月二十二日、献上指示四月二十五日 / 冊子 491~492頁/原整理番号 1359/整理ID 1359
日光御社参が済み還御した後の祝儀について、石高別に献上の種・荷を指図する。三十万石以上は公方へ三種三荷・大納言へ三種二荷、十万石以上は公方へ三種二荷・大納言へ二種一荷、五万石以上は公方へ二種一荷・大納言へ一種一荷、一万石以上は公方へ一種一荷・大納言へ一種一荷とする。後段には十万石以上について大納言へ一種とする欄があり、本ママの朱注を付す。これに続いて十万石以上の御部屋へ一種、一万石以上の御部屋へ一種一荷を記す。この原欄の大納言という呼称を御部屋へ取り替えず、種だけの欄に荷数を足さない。四月二十五日朝六時より五時までの間、使者をもって本丸・西丸の御玄関から献上し、御部屋への進上物は平川口御門番所まで差し上げるよう命じる。在国・在邑の者、嫡子・隠居は献上物を不要とする。三月の本文に続く大目付廻状は、右近将監からの書付写一通を承知して滞りなく順達し、最後から大屋遠江守方へ返すよう指示する。廻状は三月十二日、朱の到来・順達・写送注は三月二十二日で、矢野清右衛門と矢柄の記載がある。指図・廻状・写送・献上予定を分け、種・荷を具体の食品・箱数・実際の献上合計へ換算せず、原時刻も現代の時計へ補正しない。
安永八年四月(本文四月、包紙は安永八年己亥四月十七日) / 冊子 568頁/原整理番号 1605/整理ID 1605
嫡子が死亡し、又は養子へ遣わす際、二男を嫡子に願い出、それに準じて三男以下の男上りも願うこと、二男以下を同じように扱う場合の男上りを免じることがあったとして、今後の格式を定める。嫡子にする願いは従来どおりとするが、三男以下の男上りは認めない。ただし御支族又は差立家筋で、二男・三男の男上りがあり家格進上物等の格式が相応である家柄は、これまでどおり男上りを願い出るものとする。家格進上物等に関わらない家筋は、嫡子にする場合以外の男上りを願い出ず、生のまま置く。家格進上物等に関わらない嫡子・養子が違変で立ち帰ったときは本家の長子として置き、その後別立を願えば諸事はその家の二男の格式とし、男上りは前条どおりとする。二男以下の養子が立ち帰った場合は本生の次第に入来する。嫡子以下の進上物等の格式が相応で、養子先で男上りした者が違変で帰った場合は、元の姿には戻さず本家内で末子の格式に置き、別立の願いも諸事その家の末子と同様とする。ただし二男・三男に男上りした者がない場合は、違変の後、二男又は三男の場に置くことを認める。以上を帳面に記録し、今後の願いは前条に照らして申し出るようにし、記録奉行へも伝え、承知すべき面々へ申し渡すよう命じる。四月、帯刀。小注は小松清香とし、包紙には安永八年己亥四月十七日と八十五の記載がある。
天明四年六月(本文に日なし) / 冊子 742~743頁/原整理番号 2098/整理ID 2098
端午の節句に用いる縮緬・紗綾・紙の幟、吹貫、菖蒲の甲や、御長柄・御弓台・御鉄炮・玉薬御箪笥などの道具を列挙し、御嫡子様と御末子様の五月五日の飾りを定める。七本御道具は作り物とし、それ以外の正規の道具は御兵具所から出すなど、以後の支度方法を関係役方へ申し渡す。六月、島津久健の名がある。
天明五年二月(日付なし) / 冊子 801~802頁/原整理番号 2196/整理ID 2196
幕府に対して嫡子または隠居の居宅と届けている屋地を山下御屋敷と称するよう命じ、内々に二丸と呼んできた妙心院存生中の居住地について山下の名目を除き、地面を二丸一囲とする旨を伝える。当分の山下御應部屋の建置を含め呼称を改め、二丸御門、同裏御門、臺所御門、下屋敷御門、南口御門・矢来御門、役所御門・勘定所門、花園御門・随神門脇御中門を列記する。幕府への書出等では前に命じられた絵図面どおりに扱い、承知すべき各人へ申し渡すよう指示する。二月付近江の申渡書。
天明六年(日付記載なし) / 冊子 897頁/原整理番号 2469の19/整理ID 2469-19
香奠として献上する白銀の枚数を石高に応じて定め、六十万石以上は三十枚、二十五万~五十九万石は二十枚、十五万~二十四万九千石は十枚、十万~十四万九千石は五枚、五万~九万九千石は三枚、一万~四万九千石は二枚とする。三十万石以上の嫡子・隠居は三枚、十万石以上の嫡子・隠居は二枚、一万石以下は銀一枚と記す。
3月(月署のみ。朱貼紙に未年3月23日) / 冊子 168頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0036
嫡子が亡くなるか養子に遣わす際、二男を嫡子に願うことや、家柄により三男以下を男上りさせる願いはあったが、今後は生まれの通りに扱い、二男を末子に至るまで男上りさせないと命じる。二男が御目見前に亡くなれば三男は三男の形で御目見を命じ、進上物も三男通りとする。一方、何男でも嫡子に願うことは従来通りとし、格式変更を漏れなく申し渡すよう求める。3月勘解由署。朱貼紙は本文を奥表役人へ通達し、高輪側用人その他関係先へ伝える取扱いと、未3月23日・取次島津七十郎を記す。男上りの停止と嫡子願の存続を区別する。
年月日明記なし(一件表紙は寛政13年正月) / 冊子 187~188頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0041
於弥様(斉興室注)の親族を父方・母方に分ける一冊。父方は兄相摸守、弟永之進、妹於三津(伊賀守嫡子である幸之助の縁女)、於唐、於寿(肥前守嫡子である左衛門佐の縁女)、弟雄五郎、妹於住(縫殿頭娘・悦次郎縁女)、弟寛之丞、叔母於絹(上総介奥方)と輪笙院(左兵衛督母)、従弟欄に豊前守、新之丞(実叔父上総介嫡子)、於豊(同人娘)、左兵衛督、直之丞(同人弟)、寛之丞、於八重(同人妹)を列記する。母方は養祖母観心院(政千代母)、伯母守真院(井伊掃部頭母)・伊達遠江守奥・土屋但馬守奥、従弟政千代、その弟徳三郎、遠江守嫡子兵五郎、但馬守嫡子保三郎、その娘於直、その子雄之助、実祖母圓覚院(政千代母)、伯母於菟(伊達式部縁女)を掲げる。諱・母子・嫡子・婚姻予定の細字注を伴い、養祖母と実祖母、縁女と奥方、父方母方の同名を分ける。紙面に独立日付・署宛はなく、末尾は以上・右一冊トナレリ。
文化3年3月3日(本文・包紙) / 冊子 261頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0842
この節出生した男子を、長門殿の嫡子嶋津玄蕃殿の養子と仰せ出されたので、帳面へ記置くよう命ずる。長門に貴品、玄蕃に貴明の注、3月3日・信濃署、御記録奉行宛、白木御文書七番箱中21番。包紙は同じ養子仰出の御書付1通を文化3年寅3月3日に信濃殿から渡されたと記す。目録は頴娃久喬申渡書。同節出生の具体日や母の名は本文にないため、後続系譜の情報と本文記載を分ける。
文化5年戊辰7月26日生・同年12月肝付氏へ入、文化12年乙亥11月15日早世(系譜) / 冊子 304頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0960
御系図中、斉興・男女14人の表示に続いて女子於寶を掲げる。文化5年戊辰7月26日生、母は青木盛晏の女。同年、肝付帯刀兼般の嫡子肝付米鶴との婚姻を命じて約婚し、12月に肝付氏へ入ったと記す。文化12年乙亥11月15日に早世し、法名は寶雲幻真。出生・母の出自・同年の約婚と肝付氏入り・後年早世を順に分ける。斉興女子の系譜表示を採録するが、この抄だけから養子事情や婚礼実行を補わない。母の父の名は当該系譜の盛晏を保持し、別の女子系譜の名候補と機械的に統一しない。
文化5年辰11月廿八日(朱年注・本文月日) / 冊子 308頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0971
白木御文書七番箱中三十九番の文書で、於寶殿の表示を付す。今日、帯刀の嫡子肝付米鶴との縁組を命じられた旨を申し渡されたので、帳面に記して置くよう求める。11月廿八日、典膳署、文化5年辰の朱注。於寶の系譜960にある同年約婚・12月肝付氏入りと、この申渡し作成日を分ける。本文に宛名肝付帯刀家の記載はなく、婚礼済みとも書かないため旧宛先・婚姻段階の補足を改める。
文化6年3月廿八日(正文・外包) / 冊子 311頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0985
白木御文書七番箱中42番。於幹について安藝の嫡子嶋津三次郎への入輿、範之進について嶋津圖書の養子とすることを命じたので、その旨を帳面へ記しておくよう申し渡す。3月廿八日、典膳。外包には文化6年己3月廿八日、典膳から橋口善兵衛へ渡され、御文書七番箱へ納め置いた旨を記す。本文は縁組・養子の命令と記帳指示で、婚礼の実施記事へ置き換えない。橋口善兵衛は外包の受渡人として採録し、正文の宛名としない。
文化12年12月6日(本文冬十二月六日、年は目録・一件) / 冊子 480頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1460
重豪公御譜中。これより先、斉興が嫡子邦丸に徳川民部卿斉敦の女を聘することを請い、許可されたため納幣したと記す。女には英姫の注がある。冬十二月六日に女が芝邸へ入り、礼が済むと即日高輪邸に入って滞留した。細注は「未成婚期」によって旨があり余の高輪邸に入って逗留したとする。婚約請願・許可・納幣と、十二月六日の入邸・礼・滞在を分け、この日を無注で婚儀完了日としない。婚約を請うた日や許可・納幣の日付は本文にない。年は文化12年の目録・一件による。
文政4年3月4日(辛巳) / 冊子 596頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1791
斉興公御譜中の記事。文政四年辛巳、春3月4日、嫡子邦丸が家伝の元服式を江府本邸の座之間で行ったとする。邦丸には斉彬の注があり、年齢は十二歳と記して実十三歳との注を付す。大書院の営造がまだ完成していないため、その格式で座之間において式を行った旨の注がある。斉興が親しく冠を加え、家老川上美濃久芳が理髪した。又三郎へ改称し、忠方と名付けたと記す。式の内容は忠方譜に載せる旨の末注がある。本文の年齢と注の実歳をともに保持し、元服の場所、冠を加える役と理髪役、改称と実名の命名を分けて整理する。
〔天保九年〕二月十九日(年は目録による) / 冊子 15頁/原整理番号 22の5/整理ID 22-5
幕府大目付が松平大隅守の留守居へ、太田備後守から渡された書付の写し一通を送った添状。内容を承知し、嫡子にも通達するよう求め、返答は土屋紀伊守方へ伝えるよう指示する。二月十九日付。
九月廿三日(本文)。嘉永七年は一件年月から補う / 冊子 160頁/原整理番号 218の12/整理ID 218-7
大御目付から廻状と御書付写し一通が届いたので、安藝守・越中守が各家への通達を命じ、廻状数通を認めて持ち回らせる旨を伝える九月二十三日付書状。三通のうち一通にある追記として、嫡子がいる家はその方や附衆まで通達するよう求める。本文は清田新兵衛・田中八郎兵衛・福田源兵衛、安藝守内の福永小太夫、梶川銀次郎・中野冨三郎・福永助左衛門を列記し、薩摩守・陸奥守・南部美濃守の留守居へ宛てる。御次第不同の表示を伴う。
九月廿三日(本文)。嘉永七年は一件年月から補う / 冊子 161頁/原整理番号 218の13/整理ID 218-8
牧野備前守から渡された御書付の写し一通を伝達したので、その趣旨を承知し、同列の者や各家の嫡子方へ残らず速やかに通達するよう求める大目付の書付。返答について各自から個別の挨拶をするには及ばず、それぞれ伊豆守方へ申し聞かせるよう指示する。九月二十三日付で安藝守・越中守の留守居へ宛て、右一通也の表示を伴う。
8月四覚/10月6日家老座・子10月7日勝手方伝達 / 冊子 388~389頁/原整理番号 553/整理ID 553
八月の四覚を伝える通知。第一は、諸大名の参勤を前々どおりとする命令に従い、当年参勤に当たる在国・在邑の者は早く参府するよう求める。第二は、万石以上と交替寄合の嫡子や妻子を国邑へ引き取ることを勝手次第とした去る戌年の命令で引き取った者も、御進発を受けて前々どおり当方へ呼び寄せるよう求める。第三は、去戌年に認めた参勤の猶予に関し、今後は前々の定めの割合に従って交代するよう命じる。第四は、在府者だけでなく在国・在邑の同席の者へ漏れなく通達し、出仕者に伝える指示。別紙四通を十月六日家老座印・勝手方、子十月七日勝手方印・伊地知壮之丞取次で組中・支配中・諸郷へ伝達する。原文に具体的な交代年数はなく、命令と実際の移動を区別する。
朱明治2己正月24日、家統規定に以来二月以下の時期記載 / 冊子 624頁/原整理番号 806/整理ID 806
通達留の三つの用件。寛永の従来規定では番頭と嫡子が百官や関東百官の内を名に用いることも許されていたが、今後は番頭株重職以下も関東百官を名に用いず、現に名付けている者は名替を願い出るよう命じる。家統は血筋の連続と孝道が大本だとし、天明の規定に続き「以来二月以下」と時期を掲げ、他家へ養子を置いた後に嫡子病死等で相続男子がなくなっても実家へ戻ることを許さないとする。養家・養子に申し渡し、直系男子がいない場合は実家の兄弟等から血筋内の相続を組み立てるよう求め、部屋栖の家養子や家督を立てた者の復帰も禁じる。大奥年寄では勤労により養子で跡を継ぐ例があるが、婦人の名で新家号を設けることを廃し、女子の跡継を立てる際の家名の付け方を定める。朱明治二己正月廿四日、備後。命令と当時の家統観を記し、実際の名替・相続手続完了は補わない。
弘安6年8月日(推定注記) / 冊子 355頁/原整理番号 136-1
平忠永が嫡子千世石丸へ先祖相伝所領を譲った仮名書の譲状。薩摩郡内の羽島浦の田畠・山野・海辺、山野狩倉・開発田、花牟礼、本若松、後家分、中嶋、富田等の所領・権利を列挙し、忠永が父忠重から譲られた本証文・父の譲状に従って千世石丸に知行させる旨を記す。本文は仮名を主体に地名・権利語を漢字で傍記する特色があり、末尾注記は弘安六年八月付で忠永在判の文書と推定し、後の下知状と併読するよう指示する。
正平18年2月17日(1363) / 冊子 456頁/原整理番号 14-12
沙弥成栄が恩賞として拝領し、征夷将軍の令旨で権利が明白な大隅国種子島を、三人の子へ分割相続させた正平十八年二月十七日付譲状。嫡子忠勝に二分の一、残る二分の一を左京亮忠元・掃部助忠平に共同で与えて各四分の一とし、代々由緒ある土地として三人が相談して分割し、子々孫々まで相違なく知行するよう定める。
弘長元年7月(日欠) / 冊子 555~556頁/原整理番号 57
島津庄預所が鹿屋院の弁済使職について、兼賢の死後に次男兼世の願いを受けて一度は宛てたが、兼世は御年貢などの沙汰を怠り、収納使から訴えられたと記す。そこで嫡子実兼からの願いを認め、兼世の職を停止して実兼を補任し、実兼には恒例・臨時の御公事を怠らず沙汰するよう、土民らには補任を承知して違失しないよう命じた。弘長元年7月の日付欠落の下文で、預所法眼和尚位の花押があり、『旧記雑録前編一』636号文書と『家わけ二』肝付文書191号文書との同文注記を付す。
応永15年1月11日 / 冊子 659~660頁/原整理番号 138
応永十五年正月十一日、沙弥性慶が嫡子秀幸に、薩摩国山門院市来崎村・同院東方・宮里名内の田地と薗を譲った譲状。市来崎村の西桃木田五反、垣本六反、高一町、針原の門三町と浮面一町三反、北夜中田一町、東方の小山田八反・太郎丸作三反・小長田五反・坂本八反・新改三反と河原田三反、宮里名の御堂薗、白石一町・柳田五反・沼口五反・とうゆ田一町などを列挙する。秀幸と子孫の領知を妨げないこと、御公事は分限に従って勤めることを定め、性慶が花押を据える。
建武4年6月15日 / 冊子 664頁/原整理番号 151
建武四年六月十五日、沙弥恵仏が御奉行所に、薩摩国牛屎院惣領職と永松・木崎両名の田畠・在家・山野・狩倉などを、長年の重病のため嫡子高元へ譲ったことを申告した申状。将軍家御教書を受けた凶徒討伐と諸役勤仕を挙げ、安堵の下文を賜れるよう取り次ぎを求める。前項の譲状w9:150の後に、譲与を公認させようとする別文書である。
正安二年六月十五日 / 冊子 4頁/原整理番号 169
藤原家泰が、相伝所領である薩摩国山門院針原村の田畠・荒野等の一部を子息熊王丸へ一期分として譲った譲状。本証文類は嫡子しかうしゅ丸へ渡しているため、この譲状により関東の安堵を申請するよう指示し、正安二年六月十五日付で作成された。後に相模守の確認が加わる。
現行年紀:貞和六年二月九日 / 冊子 59頁/原整理番号 84/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0084
祢寢院南俣地頭兼郡司建部清成が嫡子三位房清有へ諸職と所領を譲る。 祢寢院司・地頭職等を列挙し、「小河院國領筑前國早良郡比伊郷田地屋敷、同國長渕庄富地地頭職等事」と記す(地名列挙の係り方は留保)。 御下文以下の調度証文等を副え、先祖重代相伝の領掌地を永代譲与すると記す。 清有一期後について犬房丸に関する譲与条項を付す。
現行年紀:文和二年六月廿四日 / 冊子 61頁/原整理番号 89/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0089
清成が嫡子三位房清有へ佐多西方・同四段田・同邊田村を永代に譲与する。 後証として譲状を作成し、建部清成の花押を付す。
現行年紀:建徳二年八月十日 / 冊子 118頁/原整理番号 198/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0198
嫡子鬼房丸に祢寝院南俣の院司・地頭職、小河院国領、筑前国早良郡比伊郷の田地屋敷、同国長渕庄畠地地頭職を譲る。 先祖重代相伝の地として、御下文以下の証文等を添え、永代の譲与とする。