松平石見守・生駒壱岐守衆中切腹被仰付候衆書立
年月日未詳 / 冊子 135~136頁
松平石見守・生駒壱岐守の家中で切腹を命じられた者を列挙した書立。伊木野伊織以下の家臣を、相馬大膳・仙石越前守・丹羽左京・真田伊豆・京極丹後守・松平出羽守・森内記らの預け先ごとに掲げ、切腹者のほか追放・仕置に関わる者も記している。張紙・墨書で『此名書ハ御譜中ナシ』との注記があり、本文135頁から136頁上段まで続く。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 135~136頁
松平石見守・生駒壱岐守の家中で切腹を命じられた者を列挙した書立。伊木野伊織以下の家臣を、相馬大膳・仙石越前守・丹羽左京・真田伊豆・京極丹後守・松平出羽守・森内記らの預け先ごとに掲げ、切腹者のほか追放・仕置に関わる者も記している。張紙・墨書で『此名書ハ御譜中ナシ』との注記があり、本文135頁から136頁上段まで続く。
天文十九年八月廿八日 / 冊子 782頁
伊作三郎左衛門尉久氏が京都で将軍の御代官を務め、天王寺合戦で京方が敗れた後も退かず、皇居を遥拝して辞世の和歌を書き、切腹したとする後胤伝承。家臣三名の殉死、遺族の薩摩移住、伊作に居住して系統を継いだことまで記す。
年月日未詳 / 冊子 95頁
永禄四年七月十二日の廻陣で島津忠将が戦死した際、肝付兼明の兄孫六・仲右衛門が竹原山で戦死し、掃部助は忠将を討ち取ったのち同月十七日に坂で切腹したことを記す指出。
天正十年十月二十七日 / 冊子 721頁
一色昭秀が喜入季久へ、播磨上月城が即時落ち、尼子勝久と家僕らが切腹し、宇野民部少輔以下の諸士の過半が味方に属したと知らせた書状。義久が肥後へ出馬して大勝したとの風説を祝し、今後も公儀への馳走を太守へ勧めるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 309~311頁
島津義久の上洛・降伏後、秀吉が九州を治定し、一族を人質に定め、日向諸県郡を又一郎久保へ与えるなど諸大名の知行を再編した経過を列挙する。続いて肥後を拝領した佐々成政が検地を急いで国衆一揆を招き、鎮圧に失敗して摂津で切腹し、その後の肥後が小西摂津守・加藤主計頭へ分与されたことまで記す。九州仕置と検地抵抗を伝える重要記事である。
(文禄元年)7月18日 / 冊子 595頁
島津義久(竜伯)が歳久へ、邪答院での以前の振る舞いと今回の不慮の事件を理由に、切腹させるとの秀吉の朱印命令が届いたことを告げる。 上意に従って早々に切腹すれば妻子眷属は保全され、家と国のためにも名誉ある最期として後世に名を残せると説く。兄義久が弟歳久へ処断を直接伝えた、歳久事件の核心文書である。
年月日未詳 / 冊子 906~907頁
秀次事件について、秀吉が秀次に高野山行きを命じ、切腹後に妻子・近臣まで処刑した経緯を義弘譜が詳述する。 義弘も聚楽城内で外出を禁じられたが、木村常陸介の助言を受けて脱出し、その後の召喚や弁明に対応したという緊迫した体験を伝える。
慶長二年八月廿二日 / 冊子 133~135頁
五代友喜・有川貞豊・帖佐宗光が川上四郎兵衛尉・枇杷権左衛門尉へ、袈裟菊殿内の宇多与右衛門尉が安宅殿へ提出した申状に関する聞取り結果を報告した連署覚書。宇多の知行配当、使者の往来、奉公・武具・書状、相良五郎左衛門尉らの証言を照合し、宇多父子の切腹を命じる書状の有無をめぐる袈裟菊殿母側の主張など、当事者間で食い違う言分を詳細に列挙する。
年月日未詳 / 冊子 651-652頁
住吉の築地内で島津義弘(惟新)が退路がないとして切腹を決意し、供衆に暇を与えたが、供衆は来世でも供をするとして各所で切腹の相談を始めた。本田源右衛門の使いによりいったん中止し、大坂から御上様・宰相殿が無事との報が届いたため、供衆は大坂へ向かって屋敷の警護と人質解放の手続きを行った。
年月日未詳 / 冊子 654頁
島津義弘(惟新)が桂太郎兵衛を通じ、これ以上退く場所がないため内で切腹し、供衆には暇を与えると伝えた。供衆は関ヶ原以来の奉公を挙げ、外で切腹して来世でも供をすると答え、五人・三人ずつ介錯の相談を始めた。本田源右衛門の使いで、事情を見定めるまで切腹を止めるよう命じられた。
年月日未詳 / 冊子 654-655頁
大坂へ送った山廻りが戻り、御上様と宰相殿が無事との報が届いたため、島津義弘(惟新)は切腹を中止して退却を続けることにした。多人数では忍行できないとして、少数だけを住吉に残し、ほかの供衆には大坂へ赴いて両人に奉公するよう命じ、涙ながらに別れた。
年月日未詳 / 冊子 657頁
伊勢国境へ向かう道を知る者がなく、関所も多いため、一行では切腹の時機まで議論された。帖佐宗辰は在所の者を案内人に求めるよう進言し、捕らえた道行人に一部を案内させた。案内人が先を知らないと辞退したため、伊勢平左衛門が交替して案内人探しに向かった。
年月日未詳 / 冊子 687-689頁
井尻弥五助が徳川家康への書状を携えて江戸へ向かい、水口で厳しい改めを受けて拘禁された後、釈放されて伏見攻めや関ヶ原退却に供奉した経緯を記す。住吉で義弘が切腹を決意すると供衆も殉死を覚悟したが、大坂の夫人方が無事との報で中止し、仙秀坊が人質退去の手形を得て一同は帰国した。
(元和元年)五月九日 / 冊子 582~583頁
五月五日に両御所が出馬し、七日に先手が大坂へ攻め入り本丸天守が焼け、八日に秀頼が切腹したと報じ、人数を残して自身は速やかに上洛するよう求めた書状。
寛永十一年三月朔日 / 冊子 413~414頁
月例出仕、未進・出物、武具携帯、殺人事件の切腹・遠流処分、徒党・私的交際の禁止、役人の収賄・私用使役禁止など、家中規律と刑罰を条文形式で定めた覚書。
年月日未詳 / 冊子 783~784頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2048
島津光久が幕府へ、佐土原で逆意を企てた松木三郎五郎・村上三太夫を討った後、松木左門とその二男・三男も悪意の中心人物の親兄弟であるとして、島津久寿が三人に切腹を命じたいと申し出た件に同意し、処置の内意を伺った文書。
(貞享三年)十月廿六日 / 冊子 784頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2049
伊勢貞以が、大久保忠朝から松木左門と二男・三男の処置について直接相談を受け、三郎五郎・村上三太夫の佐土原での逆意を踏まえ切腹を命じる内意を承知し、当面は三人を従来どおり拘置して中将へ伝えるよう求められた経過を記した口上覚書。
明和七年寅正月(日無記載) / 冊子 241~242頁/原整理番号 644/整理ID 644
与頭宛の連署条書。与中の者が喧嘩して相手を打ち果たした際は、近辺の横目へ申し越し、親類を差し添えて意趣の次第を聴き届けた上で切腹させること、手続きを経ず切腹させれば親類の越度となるとの従前の命令を厳守させる。喧嘩をする者はいないはずだが、万一心得違いがあってもこの手順を守るよう伝達させる。学文・武芸、礼儀作法、行跡を正すことは書付を広めるだけでは心に留まらず無益になるので、与頭自身が心に掛け、書付に加えて直接丁寧に教えるよう求める。御役人・小番・大番にかかわらず、その郷の若者を教訓し、人柄を見合わせて学文・武芸の指南役を選び置くよう命じる。若者が郷内外の者と交わる際、誹謗雑言や衆道などを掛け、互いに腕が立つと思い違えて法外な喧嘩に及び、無躰に若輩を殺すことがあると指摘し、親兄弟にも常々気を付けさせ、そのようなことがあれば名前を報告するよう求める。年長者が自らの非儀をよい手本のように見せ、生立ちの悪い者へ不宜な行為を促すことも害になるので別けて戒め、従わない者は報告する。諸稽古に励み、礼儀正しく律儀な者も報告するよう命じる。必要な条項を与中へ書付と直接の申渡しで伝え、風俗を改めることに励むよう結ぶ。明和七年寅正月付、左京・帯刀の二名の署を備え、出典は朱注で雑抄中とする。
寛政2年5月7日(本文) / 冊子 9~10頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0025
島津久邦ら六名が、根拠のない浮説を言い触らすことを禁じ、その取扱いを各方面へ漏れなく申し渡すよう命じた連署申渡書。安永4年以来たびたび禁止が伝えられ、初めての入国を機に静謐を心掛けるべきところ、浮説がなお聞こえ、根拠のない議論が上の政事を妨げ、他所からの問い合わせも生じるとして不届きを指摘する。露顕すれば容赦なく切腹・死罪等に処し、親類にも迷惑が及ぶ旨を改めて示す。人々が申し合わせ、家来の末々まで浮説を広めないよう厳守し、厳しく徹底することを命じる。署名は石見・伊賀・求馬・登・主計・右膳で、人物注に六名の実名がある。
本文:4月十二三日・16~18日・27~28日頃等の動静(年不記);文久3年癸亥正月20日写注 / 冊子 256~258頁/原整理番号 355/整理ID 355
平田延太郎の京師世態間合の書付写。久光上京は朝廷・幕府のため薩摩の力で周旋する趣旨とし、堀次郎が大原卿に聞いた叡慮や、伏見から上京した久光を近衛邸で中山・正親町三條・岩倉らが迎えて政治の存意を尋ねた経緯を記す。幕府の違勅を寛大に許し公武合体を求めること、一橋後見・諸侯寛罪・幕政賞罰・将軍謝罪等を叡慮として伝えるが、書付が聞いた内容として区分する。久光への問答では勅命決定後に従い、諸藩が争わず国力を尽くすよう求める姿勢を記し、長州山田又助や長井雅樂の説、久光の病気と蒸気船二艘による帰国案も伝える。後半は諸藩同盟の志士が京都・伏見に集まり、薩摩側に企てがあるとして久光が無是非に討取を命じたという記述と、六人討取・森山新五左衛門切腹、指導者名列を載せる。これに動揺した崎宅一郎らへ書状を送り、朝廷を守護するため京師での企てを急ごうとする内々の相談や、二十七八日頃に大坂へ暫時退いたとの情報を記す。末尾は文久三年癸亥正月廿日写之との注。本文の動静・伝聞と後年の写日を分ける。
今14日六ツ半時比(正文月・年不記) / 冊子 412頁/原整理番号 590の1/整理ID 590-1
今十四日六ツ半時頃、三人が原市之進宅へ来て対面を願い、その場で打ち留めたという風聞を記す。その後、三人が老中板倉の門前へ願書を持参し、追い付いた原市之進の家来が二人を打ち取り、残る一人は先に中之口へ来て便所で切腹し、役人に見付けられ取押されたとの風聞だとする。名書は鈴木常太郎と同豊次郎が門前で死亡し、依田勇太郎は手負で養生中と注記する。末尾に三人の名前と陸軍奉行との関係を問う字の注がある。月年、風聞の発信者は本文に記されず、死傷の経過は風聞とその付注の報告として保持する。
五月8日薩摩藩の届写、昨7日夕の戦闘を暫報 / 冊子 562頁/原整理番号 727/整理ID 727
五月八日付の薩摩藩の届写。斥候の有吉庄之丞・湯地治右衛門・有馬早八郎が昨七日夕に根岸辺で彰義隊の者八九人と出会い、屯集へ同行するよう囲まれ、断ると斬り掛かられて戦ったという由を報じる。三人のうち一人がその場で斬り伏せられ、敵二人を討ち六人に傷を負わせたとの報を述べる。残る二人は脱出し駒込千駄木観音堂前まで退いたが、深手を負い追撃を受け、一人が切腹し、他の一人も割腹しようとしたところ早く鉄砲で撃ち伏せられたとする。探索の者が届け出たため、追って確証を得て詳細を報じるが、まず知らせておくと結ぶ。死傷の認定は届書の暫報として示し、三名のうち誰が各記載に当たるかは割り当てない。
正月十二日 / 冊子 45~46頁
有馬純房が、天山三次の成敗を命じられた経緯を報告した書状。大井七左衛門とともに正月四日に伏見から大坂へ下り、翌五日に三次へ切腹を申し渡して無事執行し、七日に伏見へ戻った後、九日に殿様に供奉して再び大坂へ下ったと述べる。
正月十二日 / 冊子 112(本文はNo.125・冊子頁45~46参照)頁
有馬純房が、天山三次の成敗を命じられた経緯を報告した書状。大井七左衛門とともに正月四日に伏見から大坂へ下り、翌五日に三次へ切腹を申し渡して無事執行し、七日に伏見へ戻った後、九日に殿様に供奉して再び大坂へ下ったと述べる。No.125と同文。
十一月十三日 / 冊子 75~79頁
幼少の袈裟菊丸島津常久の知行処置をめぐり、祖母方による上方への直訴を禁じ、三千六百石の蔵入・家臣知行配分を阿多大炊助に任せた経緯を説明し、宇多奥右衛門親子への切腹命令を義弘が出したとの疑惑を否定して、関係者へ周知を命じた長文書状。
年月日未詳 / 冊子 745~746頁
島津季久を祖とする豊州家一流系図。忠廉・忠康以下、加治木家への養子相続、寺院住持となった者、串良戦死・飫肥での父子切腹、島津朝久へ続く嫡流の官途・婚姻・生没年を記す。
享保9年2月13日 / 冊子 185~186頁/原整理番号 106
村田清右衛門が御関狩で鉄砲を廻し、異様な扱いから人を負傷させた件を詮議した達。切腹相当としつつ、総州様の意向により切腹を免じ、処分を申し渡した経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 385~392頁/原整理番号 491
寛永十四年冬の島原籠城を受け、三原左衛門を大将として人数を差し遣わし、のち島津豊後守久賀・下野守久元が人数を率いた経過、正月元日の大合戦や島原城攻撃・帰陣を記す。続いて寛永十五年正月十四日に召し立て、三月末に帰宅した130人を名と知行高別に列挙する。末尾には一向宗改めで仏踏みを命じられた者や、屋敷・高の召上げ、追放、切腹・討死等に至った関係者の事例を付記する。
年月日未詳 / 冊子 398頁/原整理番号 505
『寛明日記』は十二月五日、松倉長門守重次が四十二歳で切腹を命じられたと記す。領内の悪政で百姓が困窮し、やむなく一揆を起こした事情が目付衆から上聞に達し、詮議の末の処分であった。養子となっていた舎弟右近も同罪となるべきところ、島原城での忠戦を理由に死罪を免じられた。
年月日未詳 / 冊子 398頁/原整理番号 506
『元寛日記』は十二月五日、仕置の悪さから百姓一揆を招いた松倉長門守重次が四十二歳で切腹を命じられたと記す。養子である舎弟右近は同罪となるべきところ、たびたび身命を捨てて軍功を励んだことが聞き届けられ、死罪を免じられた。末尾の六日甲午は次の日次見出しである。
年月日未詳 / 冊子 425~427頁/原整理番号 533
相良清兵衛の口事に伴う大童伴兵衛方籠城の経過と損害を記す日記。伴兵衛親子三人をはじめ、親族、山伏四人、出家一人、内の者二十人余、女五十二人ほどが清兵衛宿所を構えて籠城し、寄手がこれを攻めた。寄手側の損害は合計百二十一人で、内訳を死者百十人・負傷十一人とする。七月十二日の事件記事に続き、松平石見守家中など別件の切腹者・預け先や妻子に及ぶ処置、隠岐国仕置衆等に関する七月十七日付の伝聞も併載する。目録年月日は空欄のため、これらの日付をB列へ補入しない。
年月日未詳 / 冊子 166~167頁/原整理番号 46
種子島氏と同じく藤原氏の跡を継ぐとする肥後氏系図。信基・信家・正信・信盛・正盛以下の系線を掲げ、信家には文永二年の切腹記事を付す。盛武は建久六年に大隅国守護代となり、先に日州穂北へ下着して一時居住した後、島津忠久に従って薩摩へ下り、東福寺城取懸を命じられ、下大隅九十五町を与えられたとする。信盛の代に下大隅山之城を取って居住し、後世は古江の知行を得て鹿児島府立野へ移り、古江氏を肥後氏一族とする由緒を記す。高盛―幸盛―盛垂の系線では盛垂が菱刈平城に住み、軍功により高城を与えられた。文明八年四月二十八日付の『肥後平盛高』頭注も載せる。末尾の盛家は周防介を称し伊集院谷口を領し、島津貴久に仕えて花棚村を与えられ、命を受けて日本国中を巡歴し、一国一部の大乗妙典を奉納した。盛吉は嫡家後嗣とされる。
天文六年八月七日~慶長十七年四月二十六日(系譜中主要記事) / 冊子 483~487頁/原整理番号 20
桓武天皇―葛原親王―高望王から貞盛・維衡・正度・忠盛・清盛を経て、小松内大臣重盛の後裔を平田氏諸流へつなぐ庶流系図。平田安房助悦山を加世田龍徳院に葬ったこと、谷山吉幸城主・平田民部少輔宗秀が隅州平松の岩剣合戦で戦死したことを記し、宗貞・宗祐・宗位・宗如らの官途・没年・法名へ続く。宗清は天文六年八月七日に阿多宮崎本地河原で戦死し、宗張は天正十五年三月十五日に豊後坂梨で戦死、平田新七光宗は実父を宗秀とし、慶長十年十二月二十六日に七十七歳で没した。さらに妙谷寺・福昌寺住持となった宗徳、増宗まで続く家老役、宗次の野尻での被討、行宗の筑前航海中の船破損に際する切腹、宗親・宗朋・宗房らの没年と葬地を載せる。村田雅楽頭経宣の三男・宗敏は子のない宗房の猶子となり、九歳で義久の近習、十三歳で家久の幕下に奉仕し、十四歳の慶長四年には伊集院源次郎の庄内一揆に従軍したところまで記す。
年月日未詳 / 冊子 145~146頁/原整理番号 489
宮之城の肝付七右衛門家の系図。肝付兼賢(初め兼延)以下、兼種・兼明・兼孝らの分岐を示し、兼明が永禄四年七月十二日に戦死して法名を寛心浄円居士としたこと、兼孝が同日忠節のため切腹したことを記す。後段は島津紹益への付人、加藤左衛門家への婿入り・跡目相続、婚姻・養子関係を経て兼郷・孫三郎へ至る。
寛永十七年七月十四日 / 冊子 87頁/原整理番号 40
大和守久章が、父相模守久倍は罪がないのに幾度も切腹を命じられ、のち毒害されても沙汰がなかったと述べる。子として遺恨を抱き、国元へ戻らずこの身上となった理由を表明する七月十四日付申状。
年月日未詳 / 冊子 285~286頁/原整理番号 92
『応永記』が、応永四年四月下旬、伊久・元久らが山北・鹿児島・日隅各地の軍勢を集め、清色城を攻囲したと記す。黒瀬・木場原・満手野・野頸・寿昌寺の峰などに陣を置き通路を遮断したが、河と険山のため道貞の旧攻囲と同じ難儀を受け、味方や子息を派遣して守護方にも事情を伝えた。高江では渋谷の計略とされる侍三十八人の切腹があり、清色城も食糧・矢弦不足の中で内通者を得られず没落した。その後、新山寺で渋川探題らが対面し、座席・礼・酒宴の次第を記し、探題は膝の不調で滞在したのち十月下旬に帰ったという。
年月日未詳 / 冊子 302~303頁/原整理番号 139
『応永記』が、応永二十二年乙未、河辺と鹿児島が合躰し、匠作は河辺へ、久世は匠作を伴って帰院したと記す。久世は年内に河辺城を受け取ることを求め、支える者の子孫を見離さないでほしいとも述べた。翌二十三年正月十三日には侍中太郎、本田伊賀守、天辰助次郎らが切腹し、平等寺から退いた時に匠作が泣いて発した言葉を取り上げ、多くが恐れを抱いたという。
巻四/冊子 47~52頁
肥後一国を与えられた佐々成政が国人・百姓への苛政によって一揆を招き、豊臣政権と九州諸大名がこれを鎮圧した経過を記す。義弘は肥後へ進軍し、相良方に道を阻まれるが、安国寺恵瓊らの調停を経て一揆討伐に参加する。浅野長政・加藤清正らの軍によって反乱が平定され、肥後国人は処刑・所領没収となり、成政も尼崎で切腹を命じられた。記事には秀吉の朱印状が長文で収められ、成政の過去の違背と度重なる赦免、肥後統治の失敗が罪状として列挙される。続いて義弘が上洛して侍従・従四位下に叙され豊臣姓を賜ったこと、義久に摂津・播磨の在京料一万石、義弘に日向諸県郡の所領が与えられたことを村名・石高とともに示す。さらに義久と近衛前久・細川幽斎・紹巴らの和歌・連歌、義久の再上洛と聚楽第付近の屋敷、小田原征伐に従った久保、秀吉からの山中城・小田原落城や奥州平定の戦況通知、義久の祝儀進献までを収録する。肥後国人一揆の処理から島津氏の官位・知行・文化交流・豊臣軍役への編入までを一続きに示す記事である。
年月日未詳 / 冊子 18~19頁
『御譜中 義朝伝』。平治元年十二月一日、藤原信頼の挙兵に源義朝が加わり、内裏を固め、三条殿を焼いて信西入道の一類を退治したと記す。恩賞として義朝は播磨守、鎌田正清は兵衛尉となり政家と改名。平清盛が密かに上皇・天皇を六波羅へ移したため形勢が逆転し、十七日の六波羅攻撃で義朝軍は敗走する。龍華越で負傷し歩けなくなった朝長は父に死を請い、義朝が殺したとする。東国へ向かう途中、青墓宿で数百人に襲われるが佐渡式部大夫重成が敵を射殺して退け、自ら腹を十文字に掻き切って死ぬ。義朝は案内人鷲栖光に導かれ尾張国野間内海の長田忠宗邸へ入り、忠宗の勧めで滞在したと記す。
年月日未詳 / 冊子 394~395頁
大覚寺義昭事件に関係する人物らの詠草。義昭らの死、京都への望郷、野辺の煙、花の無常などを詠み、自ら腹に刀を立てた際の歌を含む複数首を収める。
年月日未詳 / 冊子 475~476頁
小田原城の降伏過程を、徳川家康・小早川隆景らの交渉、北条氏政・氏直の処分、城兵の武装解除まで詳述する。 島津久保が豊臣秀吉の本陣で勝利を見届け、諸将への褒賞や軍議にも立ち会ったことを示す、小田原征伐終結の重要記事。
(天正20年)7月18日 / 冊子 595~596頁
島津歳久(晴蓑)が近習衆へ、自分は病で手足も不自由であり、秀吉に反逆する意図はなかったと弁明する遺書。島津家累代を守るため自分一人が自害すると家臣へ繰り返し伝えたが、家臣が承諾しなかった事情も記す。 病身の当主と従臣との葛藤、処断直前の心情を本人の言葉で伝える重要な史料である。
年月日未詳 / 冊子 775頁
伊集院民部少輔の切腹後、伊集院某が一族の処遇を願い出た申状。島津忠良・勝久への長年の奉公、伊作方での軍事的働き、家中が困難に陥った事情を具体的に述べ、民部少輔の事件だけで一族全体を処罰せず、過去の功績を考慮して知行・身上を処置するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 346頁
伊東氏内部の変動と合戦を編年的に記し、伊東祐充の死去、福永伊豆守父子の切腹、北郷・北原・肝付・飫肥・新納勢との三俣・高城合戦、伊東武州の生害とその子の謀叛、義祐の日知屋退去、荒武氏らの離反、綾城・守永城の動向を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 655頁
住吉に残った供衆が田那辺屋道与への相談を検討し、もし公方へ密告すれば道与を討って義弘が切腹すると決めた。道与は義弘の生存を喜び、自宅へ迎えて薩摩まで送ると申し出た。船を持つ塩屋孫右衛門も協力し、逃走用の船を手配した。
明和七年正月(日無記載) / 冊子 240~241頁/原整理番号 643/整理ID 643
在国中に行跡を正すよう繰り返し申渡していたが、このごろ度々喧嘩をする者があると聞き、許されないとする諭達。喧嘩・口論の禁止は公義の法令でも明らかであり、短慮で理不尽な行為をする者には成敗と所帯没収を命じる旨を毎朔の条目に載せていたので、親兄弟からも厳しく戒めるべきだと述べる。若気で無益な死傷者が多いことを憂い、人を殺して切腹すれば済むと軽く心得ることを批判する。国恩による生育には忠勤で、父母の大恩には孝養で報いるべきで、自分の身を私有と考えるのは不届きであるとする。無礼・法外の喧嘩の張本を吟味し、不忠不孝の罪人として凡下扱いとし、死亡した場合の死躰の取捨を命じ、親兄弟も吟味して事情の軽重に応じた咎を科す旨を告げる。身分の上下を分けず、理不尽に人を殺せば吟味の上で処分するとする。無礼・法外なことを掛けられてもできる限り堪忍し、放置しがたい場合は事情を言上することを求め、相手には相当の咎、神妙に対処した者には褒美を与えるとする。領国中へ堅く申渡し、その他取り締まりの細目も家老中で相談して処理するよう命じる。明和七年正月の朱注を伴う写で、正文は文庫にあるという。
寛永9年5月27日 / 冊子 1~2頁/原整理番号 2
伊勢貞昌が御近習中へ、加藤肥後守の処置について詳しく問い入れることを遠慮し、切腹の場合も定められた者が処理するので、御馬廻衆を出して世間を騒がせないよう述べる。相手の衆が来ても屋敷から一人も出ず下知を得ること、雅楽頭・伊井掃部の返書は人数出動を命じる趣旨ではないことを伝える。城受取などの命令がないまま出動せず、一人の切腹に大勢で城を囲むことは後世の嘲りを招くと戒める。
年月日未詳 / 冊子 370~371頁/原整理番号 188-2
蒲地仲右衛門が、祖先蒲地伊賀(甫心)の奉公と家の移動をまとめた由緒書。伊賀は十三歳から日新・島津義久に仕え、高崎大炊助の妹を妻とし、八十三歳で義久の出家に伴って入道を命じられ甫心の名を賜ったという。太閤下向時には泰平寺へ向かう龍伯を追参し、京勢に道を塞がれると切腹を申し出て通手形を得たこと、伊作で大野正右衛門と城役を勤め居所が『甫心が城』と呼ばれたこと、庄内陣後に脇元へ下り、国分移住後は廻の地名を福山へ改めるよう進言して許されたことを記す。嫡子帯刀が龍伯から五十石加増と腰物を拝領し、子孫が鹿児島・国分で番役等を勤め、仲右衛門の代まで国分高に居住した経緯も伝える。
年月日未詳 / 冊子 303~304頁/原整理番号 141
山田聖栄自記が、伊作勝久を介した川野辺との交渉と、年末に鹿児島へ来た久世が御屋形と対面したことを記す。勝久が命を助けるなら川野辺城を与えるよう求めたのに対し、久世は城を明けて切腹すると返答し、福昌寺の太田長老は城を明けることを恥としないよう教訓した。二、三歳の大太郎の扶持、小田原弾正・柳田大膳・長門守らによる説得もあったが、久世は決意を変えなかった。正月十三日、久世が切腹し、侍中太郎・本田伊賀守ら十一人も討死したと記す。剃髪後の存忠という法名、契約を悔いた事情、久豊が南方の通路を断ったことにも触れる。