島津元久宛行状
応永九年八月十二日 / 冊子 205頁
島津元久が隈本石見守へ、大隅国宮内の万得房跡功得丸を祈祷所として宛行い、先例どおり領知するよう命じた宛行状。
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応永九年八月十二日 / 冊子 205頁
島津元久が隈本石見守へ、大隅国宮内の万得房跡功得丸を祈祷所として宛行い、先例どおり領知するよう命じた宛行状。
六月廿三日 / 冊子 640頁
島津忠朝が寺町石見守に、二号船の津への着岸と警固の手配を伝え、無事の帰国に向けた配慮を求めた書状。
六月 / 冊子 640頁
島津忠朝が寺町石見守に、二号船をめぐる書状を披見した旨と、客衆の錯乱で大友義長が憤った件を述べ、無事帰国できるよう処置を求めた書状。
(慶長十一年)六月朔日 / 冊子 74頁
島津忠恒が入来院石見守に、近日命じた国事について長期にわたる取り計らいを依頼し、遠路からの使書を受けた礼を述べた書状。
(慶長十一年)九月九日 / 冊子 89~90頁
島津義弘(惟新)が入来院石見重頼に、川上掃部助が先に伝えた石見守の身上の件について返答がなく心配していると催促した書状。所領が少なく将来の成敗も難しいため、入来院後室が石見守を養子に望んだ縁組を少将殿と内談しており、古家である入来院家を一門・家中が協力して支えるべきだと説く。新田参詣に出立するため、九月十三日頃に届く返事を求める。
(慶長十二年)十月廿三日 / 冊子 132頁
慶長十二年十月二十三日、島津義久が伊集院石見重頼へ、陸奥守がその邸宅を訪れる際の饗応を気遣い、助けとして上酒二樽を贈った書状。
十月廿三日 / 冊子 20頁
陸奥守島津家久が入来院邸へ立ち寄った際の饗応を察し、その労をねぎらうため上酒二樽を送った書状。
十月廿三日 / 冊子 28頁
入来院氏文書に伝わる島津龍伯書状。本文はNo.52と同文のため省略され、島津家久の立寄りへの饗応をねぎらい上酒二樽を贈る内容である。
八月四日 / 冊子 183~184頁
賀の屏風が完成したため、左大臣を通じて色紙形の清書を依頼したところ、格別の祝儀として近衛家久が染筆した実物を拝見できたことへ深謝した。貴重な清書を賜った礼として目録記載の品を贈り、謝意の伝達を頼んだ書状。
年月日未詳 / 冊子 349頁
永享二年十一月朔日、島津久林が徳満城で自殺した際、本田石見が殉死し、小田原杢も同じく殉死したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 349頁
島津久林が永享二年十一月一日に日向国真幸院へ来て、徳満城で島津忠国の謀略により十八歳で死去し、家臣の本田石見・小田原杢工が殉死したことなどを記す系譜記事。
元亀二年九月廿七日・十一月廿日 / 冊子 256頁
元亀二年の島津方戦死者を日付別に記す。九月二十七日に島津五郎四郎忠俊、十一月二十日に萩原又左衛門・武石見守・和気与左衛門らが戦死したことを掲げる。
年月日未詳 / 冊子 411頁
『盛香集』は、加治木の竹之内半右衛門が志和地城に籠もった名のある武士で、後に惟新から中神石見らと同様に召し抱えられたと記す。城中の多人数のうち実際に役立つ武士は二十七、八人ほどで自分もその一人だったと語り、小川半平の兄とともに志和地で鎧を着けて戦った折のことも伝える。
(元和六年)閏十二月十日 / 冊子 739頁
島津家久が入来院石見守に、遠路からの見舞使者と折樽・染物に謝意を述べ、公方からの拝領が続き無事であること、来春早々に帰国する予定を知らせた書状。
二月廿六日 / 冊子 36頁
町田久倍が、出米と人別銭の処理について大野将右衛門尉へ指示した書状。石見九兵衛尉へ担当させ、石高に応じた出米量を定め、来月二日に京へ上る船へ積み込むこと、人別銭を早急に送って当地の京上衆へ渡すことを求める。
二月十一日 / 冊子 507頁
近衛東求院(近衛信尹)の詠歌一紙を准后に鑑定してもらい、真跡に紛れないとの回答を得て返却したことを伝え、あわせて五代の官位を書き付けて送った中川石見守書状。
五月廿七日 / 冊子 146頁
入来院重高が入来院尾張守・東郷吉兵衛に、江戸から赤子を殺す行為を禁じる命令が下されたことを伝えた書状。分国全体で同様に徹底し、家中の歴々から百姓以下、男女・子供を問わずよく申し付けるよう命じ、詳細は口上で伝えるとする。
九月十日 / 冊子 148頁
入来院重頼が大井十右衛門に、五郎兵衛へ課した役儀に対する詫言について回答した書状。家中に役を命じられる人材が乏しいため、一時でも勤めれば本人のためになると説き、過去の遠流は惜しいが公儀上やむを得なかったとして、再度役儀を命じて勤めさせるよう求める。
正月廿八日 / 冊子 185~195頁
入来院氏領内の給地を、給地人ごとに田畠・屋敷・門・浮免などの地目と町・反・升単位の面積で列記した反町付帳。家臣団に加え寺社領・神領なども記し、末尾で田畠五百六十一町余、籾大小二万二千八十七俵余と総計する。入来院氏の知行構成、家臣団編成、寺社領と村落景観を復元できる基礎史料。
寛政6年閏11月(本文。日なし) / 冊子 83~84頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0274
斉宣が拝借金二万両のうち一万両を請け取った旨を記す請取状と老中裏書。外の一万両は江戸御金蔵から請け取る積りとし、No.273とは請取場所と宛先を分ける。用費の重なりと先頃の上納金後の難儀を理由に拝借を命じられ、書面の通り受領し、来る巳年から十ヶ年賦で上納する旨を約する。寛政6年寅閏11月、松平豊後守御印、大坂町奉行松平石見守・大坂御金奉行坂部能登守宛。裏書は表書の金一万両を渡すよう認め、本文がある旨を注する。對馬・備中・采女・伊豆の四官途を記し、對馬には病気による無加印の注がある。
正月廿九日 / 冊子 34頁/原整理番号 48
正月二十九日、川上久国・三原重庸が天草の北郷佐渡守・入来院石見守・喜入摂津守・豊後守へ送った連署書状。児玉筑後守を介して、江戸にいる園田清左衛門尉を早々に出立させるよう命令が出たため、急ぎ帰らせるよう指示する。薩州様が大坂から下向し日中に到着する見込みを伝える一方、黄門様は先日以来食事が進まず衰弱しているが、やがて快気するだろうとして続報を約す。宛所側に何程の番手が命じられたかを問い、狼藉がないよう談合することを求める。豊後守宛ては「次飛脚」と注記する。
正月廿九日 / 冊子 36頁/原整理番号 53
正月二十九日、川上久国・三原重庸が北郷佐渡守・渋谷石見守・喜入摂津守・豊後守へ送った連署書状。薩州様が有馬へ直接下向するとの、駿河発・十七日付の書状が今晩届き、早々に着陣する見込みだと報じる。天草の人衆も渡海させるため、野州様へ知らせ、下知に従って順次渡すよう求める。右飛脚に持たせた旨を付記する。本文中の十七日は到来書状の日付であり、本書の年月日は目録どおり正月二十九日とする。
正月9日(寛永15年か・傍注) / 冊子 566~567頁/原整理番号 66
川上久国が喜入摂津守・北郷佐渡守・渋谷石見守・山田民部少輔・三原左衛門佐・新納加賀守の六人へ、今回の陣中大将役を豊後守・下野守に命じ、談合衆を定めた旨を伝える。諸事をいちいちこちらへ伺えば遅れるため、相談して調えるよう児玉筑後守を通じて命じられたとし、甲斐掃部助・有馬左近将監にも詳しく伝えたので承知するよう求める。正月9日付の川上久国書状で、年次の寛永15年は本文外の『か』付き傍注。欄外は『旧記雑録後編五』1171号文書との同文を推定する。
寛文6年9月10日(目録) / 冊子 509~510頁/原整理番号 49
神社仏閣と寺社修理の取扱い、役人・帳面・御条書の確認を記す。寛文六年九月十日付で入来院石見が喜入五郎兵衛に宛てる。
寛文8年(目録) / 冊子 511~512頁/原整理番号 54
前年四月十四日の入来院石見からの手紙に触れ、瑞應院祈願所・観音寺の取扱いと寺社方の帳面・書付を照会する。
年月日未詳 / 冊子 819頁
入来院石見守重聡らが郡山庄へ進出したことから始まる争乱を、箕輪伊賀が回想した覚書。伊集院・蒲生・加治木・本田諸氏がそれぞれ軍勢を動かす中、貴久方の忠臣らが城・要所を防ぎ、敵勢の侵入を退けて地域を鎮定した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 826頁
天文十四年、入来院石見守重朝の攻勢に対し、新納忠元が伊牟田左衛門・春山越中守・川上十郎左衛門らと蔵城へ入った合戦記事。少数の兵で守備を組織し、城兵を指揮して敵の攻撃を防ぎ、城を守り抜いた忠元の判断と戦功を記す。
年月日未詳 / 冊子 827頁
『入来院重朝譜』が、入来院石見守重朝が近年に攻略した諸城と軍功を列挙し、島津貴久との抗争から講和へ至る経過を記す。さらに島津勝久方との従前の関係、領内支配と家の立場の変化を示し、重朝が渋谷一族の勢力を維持した事情を伝える。
年月日未詳 / 冊子 155頁/原整理番号 277-2
松井興長が立花ら諸将へ、火用心を何より肝要として各組・配下へ厳命し、火事が起きる前に火元を粗略に扱う者を処罰する方針を周知するよう命じた二月二十日付の達。
年月日未詳 / 冊子 135~136頁
松平石見守・生駒壱岐守の家中で切腹を命じられた者を列挙した書立。伊木野伊織以下の家臣を、相馬大膳・仙石越前守・丹羽左京・真田伊豆・京極丹後守・松平出羽守・森内記らの預け先ごとに掲げ、切腹者のほか追放・仕置に関わる者も記している。張紙・墨書で『此名書ハ御譜中ナシ』との注記があり、本文135頁から136頁上段まで続く。
年月日未詳 / 冊子 827頁
天文十四年八月、入来院重朝の攻撃に対して新納忠元らが城を守り、難儀しながらも奮戦した勲功を記す。
天正元年正月六日~十一月 / 冊子 296~297頁
天正元年の島津方戦死者を日付別に列記する。正月六日の住吉原合戦で河野主税良次・田原大蔵信秀ら、三月十八日の西俣合戦で禰寝重長臣野間武藤守以下約三百人、早崎関係では肥後平次郎・桑波田孫太郎・河野玄蕃允らを掲げるほか、七月・十一月などの戦死・殉死者を多数収録する。
年月日未詳 / 冊子 508頁
慶長五年二月、志和池城降伏後に北郷方が山之口で戦い、家臣三名を失いながら勝利した。梶山・勝岡・山之口・高城・安永など諸城が相次いで降伏し、忠真が都城を退去したのち、竜伯・忠恒が都城へ入り、諸城を長千代丸に与え、十一歳で元服させ忠能と名乗らせた経過を記す。
五月五日 / 冊子 149~150頁
入来院重高が宮里治部左衛門尉に、志岐小左衛門尉の身上について、兵部少輔の取り成しにより薩州様・式部様から扶持を与える話がまとまったと知らせた書状。正式な仰せがあるまで重高の知行所に滞在させ、扶持が出るまでは現地で世話をするよう依頼し、追って使者を下すと伝える。
十一月十五日 / 冊子 151頁
入来院重時が東郷兵部少輔に、宮里のうち西の薗門一町二反が空き所領となったため、これを確保して知行するよう宛行った文書。所領の所在と面積を簡潔に示す。
年月日未詳 / 冊子 196頁
入来院重時が東郷兵部少輔に、宮里のうち西の薗門一町二反が空き所領となったため、これを確保して知行するよう宛行った文書案。本文はNo.382と同文のため省略され、目録の日付欄は空欄である。
八月廿四日 / 冊子 311頁
島津忠治が澁谷彈正少弼入道に、久しく音信がなかったため書状を送り、正八幡宮参詣の途次に相手の領内へ赴く予定を告げ、鷹を贈って賞翫を求めるとともに、世間の雑説について面談したいと述べた書状。
二月十四日 / 冊子 507~508頁
尾州の寺院関係者から得た近衛信尹詠歌三首の写しについて、原本ではなく草案の留めとみられるものの、准后が真跡に紛れないと鑑定した経緯を記し、島津家で役立つなら保管するよう勧めた書状。
〔天保十一年〕十一月五日(本文子年)。到来朱注は十二月十九日 / 冊子 42頁/原整理番号 59の2/整理ID 59-2
島津主計が、島津但馬・石見、菱刈安房、猪飼央へ、中将斉宣の位階昇進に関する達しを伝えた書状。白書院の縁頬に老中が列座し、太田備後守から太守斉興へ別紙書取写しのとおり伝えられたため、江戸側の役人へ申し渡したとし、国元の役人への申渡も取り計らうよう求める。御記録奉行には別に伝えてあると付す。正文は子年十一月五日付だが、同件の昇進記事は十二月四日で日付にずれがある。朱注は十二月十九日に急飛脚で到来したとし、外包は十二月四日の昇進関係書付を平田助之進へ渡して帳面へ写し、本書を町田二郎四郎へ差し出した経過を記す。
弘化元年十二月廿九日(書状)、弘化二年正月十四日(受渡)、正月十九日(到来) / 冊子 65頁/原整理番号 104/整理ID 104
太守が国許で御暇を命じられ、その御礼を御座之間で申し上げたいとする内願について、赤松主水が五名へ結果を知らせた書状。前年の御暇御礼は御黒書院へ上がったが、その後西丸での月並登城が御座之間の御目見となったため、今回の御暇御礼も御座之間とされ、御黒書院の格に心得るよう御書取を渡されたと記す。弘化元年十二月二十九日付。包紙は弘化二年正月十四日に石見殿から得能彦左衛門へ渡して納めたことを記し、正月十九日の到来と式日中急便の注がある。
嘉永六年十二月十四日・十七日ほか。正月三日夜到来の朱注(翌年とみられる) / 冊子 146~147頁/原整理番号 212の6/整理ID 211-2
道中で鉄砲十挺を携行する伺い一件の後半。「の6」は半田嘉藤次が用番松平伊賀守の取次飯塚勝之助へ書附を持参し、演説して差し出したところ落手したと伝える十二月十四日の報告で、箱根その他の関所へ許可の趣旨を通達するよう求める。「の7」の書附は、近海の外国船警衛に伴い一万石以上の者が領内に鉄砲を備える触達を受け、道中上下でも十挺を持ちたいと願ってきた経過を述べる。九月十五日付伺いと阿部伊勢守への内見、用番松平和泉守の吟味、留守居への御付札、国許で正式に申し上げるよう求めたこと、十四日に伊賀守へ関所通達依頼を提出し落手したことを記す。朱注には正月三日夜到来・極々急飛脚便とある。末尾の嘉永六年十二月十七日付家老問合書は、島津右門久福・末川近江久平から豊後・筑後・石見・伊織へ宛て、留守居首尾書等六通を添え、願済みであれば表方の使者で御請して往返日程を調整するよう求める。右一冊終レリで一件を閉じる。
嘉永七年三月十九日(書状)、四月十二日(外包受渡)。先月十九日・翌廿日・廿二日の経過 / 冊子 152~153頁/原整理番号 215の9/整理ID 215-7
豊後が虎寿丸と近衛家信君の縁組を整える使者として上京した経過を、筑後・石見・駿河・伊織へ内用で報告する書状。先月十九日に中川讃岐守と面会し、信君を貰い受け、虎寿丸との縁組の許容を願う口上と手扣書を届け、翌二十日には右府・大納言・小書院で御目見えして返答を受けたと記す。太守も返答書を中川から受け、伏見へ戻り、二十二日には使者を介して御礼の鮮鯛一折を進め、諸事が整ったとする。正式な表向の願立や手続はあるが、まだ内々の段階なので大目付以上、側用人・側役・使番・記録奉行へ伝えるのが適当と述べる。まず縁組が済んだ喜びを伝え、別冊の手続書付を参考に送る。寅三月十九日付で豊後が署す。外包は嘉永七年四月十二日、筑後殿から上村休兵衛へ渡し、帳留を承知して写しを済ませ白木御文書十番箱へ納めたことを記す。
正月25日 / 冊子 784頁/原整理番号 863の2
有馬奉行から上津浦番手を薩摩勢が引き受ける旨を下野守経由で承知し、前日からねを出て巣本へ着いたと清田石見守に伝える。当日は柳まで進み、順風ならさらに向かうので、番手引継ぎの期日を詳しく返答するよう求める。詳細は使者の口上で伝えるとする。
正月25日 / 冊子 788~789頁/原整理番号 873
久玉からから祢への陣替報告に返答し、人数は順次送ってよいが、定められた配分外で勝手に出兵する者には飯米と船を与えず、処罰する方針を伝える。諸将の相談不一致と大人数による混乱を懸念し、有馬の三老との協議を求める。黄門重病、新納の直行、清田石見守の天草番手に薩摩が代わる件に触れ、人数配分と軍紀を鬼塚を介して調整するよう指示する。
正月18日(寛永15年か・傍注) / 冊子 567頁/原整理番号 67
川上久国が豊後守・喜入摂津守・北郷佐渡守・渋谷石見守・山田民部少輔・新納加賀守へ、今回の軍勢賦課を約二万人とする一方、軍勢と水手を合わせれば約三万人にもなり得るとの見積もりを伝える。手元の米はわずか五千石で、一か月分の兵糧に関わり、すでに二十日分を渡したと記す。兵数を抑えるか、肥前・肥後などから借用するか急いで判断すべきだとの物奉行の言葉を伝え、日向・庄内・肝付表・根占などの衆を召し留める案を含め、招集する衆を選ぶよう相談する。正月18日付で、寛永15年は本文外の『か』付き傍注。欠字が複数あり、人数と米の数量は本文の見積もり・報告として扱う。
〔天保十二年〕二月三日(本文丑年)。口裏朱注は二月廿七日到来 / 冊子 43~44頁/原整理番号 62/整理ID 62
斉宣の位階昇進に伴う位記・口宣の受領経過を、島津主計が家老らへ伝えた書状。使者の物頭川上拾郎左衛門を京都へ遣わし、先月五日に徳大寺の邸へ官物を納めて口宣等を受け、献上物も済ませたと記す。通常は江戸で願い出た日に宣下されるが、今回は触穢中のため同じ扱いにできず、先月四日の叙位となったと説明する。近衛への目見、所司代牧野備前守や両御丸老中への伝達、川上からの礼と女房奉書の受領、御三殿への祝儀、国元からの使者の派遣についての取計らいも記す。取込中でありながら滞りなく受領できたことへの喜びを述べ、叙位日などを御記録奉行へ伝えるよう求める。丑年二月三日付、朱注は二月二十七日に到来した旨を示す。
天保十三年寅十一月十九日(本文年支と蓋紙との対応) / 冊子 59頁/原整理番号 88の5/整理ID 88-5
琉球人を伴う登城で織物狩衣・立烏帽子を用いたいという太守の内意について、御記録奉行へ伝えてよいかを調所笑左衛門が五名へ問い合わせた書状。太守の内意を受け、当六月に御用番水野越前守へ願書を出したところ、八月十九日付の御書取で書面の趣旨は無用とする応答を得た。その後、参府の上で立烏帽子着用を改めて願い、今月十四日に別紙二印の伺書を出し、十七日に差し支えない旨の御書取を受けたと記す。琉球人を伴う十九日・二十二日の登城では立烏帽子と直垂を用いることとなり、留守居首尾書を含む計六通を添えて、十一月十九日付で記録への伝達を求める。
弘化元年十二月廿三日(本文辰年)。弘化二年正月十八日(蓋紙の到来日) / 冊子 65~66頁/原整理番号 105の1/整理ID 105
廣大院の法号を国元の菩提所へ安置し法事を行いたいとの願いについて、赤松主水と調所笑左衛門が五名へ経緯を知らせた書状。御用番阿部伊勢守からの伺に関する指示を踏まえ、法号等は久世出雲守に承合うよう求められた。十二日に礼をもって渡し、十四日に留守居付役淵邊仁右衛門から法号の別紙を受け取ったことを報告する。二殿・貴間・大奥その他へ申し上げ、御記録奉行にも伝えるよう求める。宝鏡院にも報告し、寺社奉行・福昌寺への伝達を取り計らうよう求め、伺書写等を添え、法号を一箱に入れて送ると記す。辰十二月二十三日付。前の蓋紙には、弘化二年正月、廣大院法号の国許菩提寺安置一件として、伺書一通・留守居首尾書三通・江戸詰家老衆の問合書一通写をまとめ、正月十八日に急飛脚便で到来したと記す。
弘化四年二月九日(本文未年)。蓋紙は弘化四年二月 / 冊子 75~76頁/原整理番号 122の1/整理ID 122
斉彬の嫡男寛之助と近衛内府の娘愛君との縁組内約を取り扱うよう命じられ、調所笑左衛門が進捗を三名へ報告した書状。近衛家の諸大夫と親しく交わり、先月十九日に二条の屋敷で佐竹主税頭・中川宮内少輔・北小路刑部権少輔・今大路民部権少輔に会ったこと、従来の特別な由緒に加え、郁君の入輿後に関係が深まり、愛君との縁組を通じて親戚となりたいとする口上を述べたことを記す。今月二日に参殿した際は中川宮内少輔から返答を伝えられ、願いが近衛家に受け入れられ、内約に向けた領掌を得たとして喜びを述べる。三日に近衛家と郁君へ内々の御礼を送り、鮒鱠一折を添えたとする。寛之助の御弘のような公表は行わず、世間へ漏れないよう大目付・側御用人・側役・使番・記録奉行へ極内に伝えることを求め、未二月九日付で三名へ宛てる。前の蓋紙には寛之助縁組一巻と家老の問合書等を留める二冊の表示がある。
弘化四年四月廿四日(本文未年)。蓋紙は弘化四年五月 / 冊子 77頁/原整理番号 123の1/整理ID 123
寛之助と愛君との縁組内約について、調所笑左衛門が四名へ相談経過を報告した書状。少将の着坂・上京に際して近衛家の諸大夫等と相談し、今月十七日に参殿した際、寛之助が成長したことと愛君の似合う年齢を踏まえ、従来の由緒と郁君入輿後の関係により、縁組を取り結びたいとする意向を伝えたと記す。内使者が先に取り扱っていたため、近衛方も内約の領掌を承知しており、別紙書取のとおり返答したことを知らせる。未四月二十四日付。添える四月付の口上写は、寛之助の成長、愛君の年齢、特別な由緒、郁君入輿後の続柄と、愛君がまだ入輿していないことを挙げ、縁組を取り結ぶ願いを述べる。前の蓋紙は弘化四年五月の寛之助縁組一巻と家老問合書等を留める二冊の表示を付す。