小田原源右衛門上書
十一月廿八日 / 冊子 37~38頁
高岡の小田原源右衛門が、豊臣秀吉が川内泰平寺へ下向した際、龍伯(島津義久)の指図により祖父但馬と父源太兵衛が御輿を廻して奉公し、その忠節により高五石を賜った由緒を、名寄を紛失したため古書物に基づいて申し立てた上書。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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十一月廿八日 / 冊子 37~38頁
高岡の小田原源右衛門が、豊臣秀吉が川内泰平寺へ下向した際、龍伯(島津義久)の指図により祖父但馬と父源太兵衛が御輿を廻して奉公し、その忠節により高五石を賜った由緒を、名寄を紛失したため古書物に基づいて申し立てた上書。
寛文十一年正月十一日 / 冊子 285~287頁
高柳行文が寛文十一年正月十一日付で大川平久兵衛へ提出した申状。大川平源太左衛門隆重が幼少時に伊東方へ取られ、のち島津方へ戻った経歴を述べ、泗川戦では少数で明軍の陣を破ったとする。帰朝時の唐島の戦いでは、退潮と水手の損耗で危機に陥った義弘の船を救うため、隆重ら十三人が敵船へ切り込み、全員戦死して主船の退却を助けた。帰朝後、隆重の二子が召し出され、それぞれ名を与えられたことも記す。
年月日未詳 / 冊子 591-592頁
義弘一行が九月二十七日に芸州を出船し、二十九日に細島へ着いたことに関連して、薩摩船三艘が豊前・豊後沖で黒田如水方の船勢に追われ、捕獲されて男子は討たれ、女性・子供は生け捕られたとの風説を記す。続いて柚木崎丹後の子・次郎右衛門へ父の勇敢を賞して三十石を与え高岡に居住させたこと、関ヶ原敗戦後に蒲生新城を築き赤塚源太左衛門を城番としたことを記す。
慶長十一年五月二日 / 冊子 72~73頁
伊集院抱節・山田理安が連署した、財部内の知行地割目録。蒲興禅寺内などの田地を田位・面積・石高ごとに示し、仲兵衛・五郎右衛門・権右衛門・助六・伝右衛門・源太・弥六左衛門らへ割り付ける。総高二十三石九斗余と、ほかに高山へ遣す七石余を記し、二口を合計する。
年月日未詳 / 冊子 289頁
六月二十四日、将軍家光が上使斎藤左源太を通じて大和瓜二籠を島津家久へ与え、家久が拝戴後に登営して謝意を表したことを記す家久譜の記事。
(寛永十五年)八月八日 / 冊子 817~819頁
有馬の城攻めに参加した者に書付を提出させ、新納加賀守・市来八左衛門尉らの扱いを定める。天草と有馬の間を命令なく移動・帰還した者を調査し、帰国の有無に応じて報告させる。寛永十二~十四年分の出物未進や出銀未進、算用所・諸蔵の帳面を処理し、耕作・荒地の状況を確認する。御乗物廻しや御草履取候補の処遇、加治木から上方へ出た銭作人の召還と悪銭防止、米借用などについて指示・照会する覚書。宛所は御支配奉行中。川上五兵衛・鬼塚源太左衛門は八月十九日に書を持ち下った者で、宛所ではない。発給者未詳。寛永十五年八月八日付。
享和3年7月子孫永領、前年8月給禄(本文) / 冊子 216頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0703
赤崎源助は名貞幹・字彦禮・号海門で、笈を負って江府へ遊学し昌平黌へ入り、儒名が天下に著しく、幕府が講官佐へ挙げたとする。斉宣は幼時からその門で学び、懇篤な教導によって文字を知ったのは実に源助の力だったと述べる。前年8月、江府でその恩に報いるため田禄30斛を与えた。その後源助が没したので、今享和3年癸亥7月、家老が連署して子源太郎へ書を与え、子孫に永領させたと記す。出典は斉宣公御譜中。学問上の恩と前年の給禄、没後に子へ交付した書及び子孫永領を区別し、死亡日を推測補填しない。
享和3年7月19日(本文・付札) / 冊子 217頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0704
白木御文書六番箱93号の知行目録。高30斛、帖佐西餅田村の高浮免内とし、名寄帳は別冊にある。亡父赤崎源助が斉宣公の幼年から学問の相手を深切に勤めたため、格別の思召で前年8月、江戸にて存生中の源助へ拝領を命じた土地なので、全く所務できるとする。享和3年7月19日、赤松市正則決・高橋縫殿種央・川田伊織佐賢・菱刈下総隆邑・頴娃信濃久喬の5名判、源太郎宛。上包は知行目録写。下段付札は赤崎源助への御高拝領知行目録写、白木六番箱93号・享和3年亥7月19日とし、94号の養子縁与時の規則への参照も併記する。前703の給禄・子孫永領記事と本目録の地所・所務・署宛を区別する。
年月日未詳 / 冊子 773頁
島津貴久が上之山へ出陣し、紫原で谷山勢と戦った経過を樺山玄佐が記す。平田備中守・阿多源太左衛門らが敵を敗走させ、夜中に城を攻撃した。神前への守備指示、伊集院大和守との交渉、使者派遣を通じて翌段階の攻城準備を進めた。
年月日未詳 / 冊子 75頁
天正十三年八月の肥後戦線における島津方の戦没者を、日付・戦場・戦死状況とともに列挙した「殉国名薮」。花山城を守って戦死した鎌田政虎、堅志田城攻めで倒れた木脇祐昌・西俣七郎・村山源太らを記し、矢部兵部左衛門尉が三人に囲まれて戦死したことなど、個別の譜では見えにくい損害の広がりを伝える。
年月日未詳 / 冊子 296頁
川上久辰の自作文。十一月十五日を期限とする帰陣命令後、小西行長が順天で明・朝鮮水軍に港口を封鎖されたため、島津義弘・立花宗茂らが救援へ向かったと記す。十七・十八日の戦闘で、久辰・久首は小舟から敵船へ攻めかかるが、大船へ乗り移れず矢石・火器を浴び、川上源太左衛門らが戦死、桑波田五郎兵衛らが負傷し、弾薬が尽きて退いたという自身の部隊の戦いと被害を具体的に述べる。
明暦元年八月吉日 / 冊子 265頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0580
御笠持源太が光久に対し、光久が万々年を過ごした後の自然の時には後生まで供をしたいので、その旨を聞き置いてほしいと誓う起請文前書。牛王神文略とあり、明暦元年乙未八月吉日付。
宝永六年三月二十一日 / 冊子 829頁/整理ID 2769
吉貴が三月二十一日、島津兵庫久季へ、奥の麻疹が治ったことを喜ぶ。旧冬の小源太出生に際する祝儀と別札の心遣いに礼を述べ、久季の無事を喜ぶ。
正徳六年二月廿二日 / 冊子 250頁/整理ID 623
吉貴が島津小源太の加冠に際し、仮名・名乗りを示した書出。正徳六年二月廿二日付で吉貴の判を伴う。
寛永十五年二月廿九日 / 冊子 244頁/原整理番号 333-31
二月二十七日、池永源太夫が、先手衆への撤退命令を本丸海手角の塀破口にいた侍衆へ伝えたが、交戦が続いたため後藤権右衛門と鉄砲を撃って敵を退かせ、そのまま乗り込んだ経過を寺内五兵衛へ申し出たもの。本丸東角からの一番乗りは都甲太兵衛・後藤権右衛門・自身の三人だけだったとし、城内で軽い槍傷を負って帰ったと述べる。
(慶長十一年)六月十八日 / 冊子 78頁
島津惟新が島津家久に、人質の上洛が遅れたため家久の帰国が延引していることを述べ、人質は翌日出立する予定なので祭礼前の下向を願うと伝えた書状。国元は平穏で竜伯も無事であると知らせる。
年月日不詳 / 冊子 80-81頁
八重尾氏が、天正十六年以降に行った祈念・神事を年代順に記した文書。心経千巻、木之山神への祈念、榊・柴・しめ、各山神への奉納、参詣、差刀の上申などを年月ごとに列挙する。
正月二日 / 冊子 819頁/整理ID 2746
島津吉貴が島津小源太へ、在日字として「未川」の二字を与えた花押付きの直書。編者注は、四月二十一日の島津帯刀から佐多豊前への書状を挙げ、この未川の称号について補足する。
七月日 / 冊子 473頁/原整理番号 608-1
三舟浦の長崎商船から得た報告として、南蛮船2艘が番船に包囲され、江戸へ注進したものの上意は未到着であること、御政所衆2人が借用船で検分したことを伝える。各船は石火矢60丁を構え、1丁に3人を配し、積荷は玉薬のみという。出船時の召捕り、周辺国の大勢による有馬陣立同様の包囲、長崎町浜人が糧物を山へ運んだとの情報も報告する。目録年月日は『七月日』を維持する。
七月日 / 冊子 473~474頁/原整理番号 608-2
長崎の情勢を記した前文書を所次で送り、山田土佐守へ届けるよう中馬兵部左衛門・清田右京亮・木原兵左衛門に命じる添状。目録年月日は『七月日』を維持し、本文の七月三日とは区別する。
正月25日 / 冊子 787頁/原整理番号 871
鬼塚持参の条書への返答として、十九日に伊豆守から諸国使者の帰還が伝えられたことを確認する。薩摩は遠国で攻城道具もなく、他国に追加動員があるのに重ねて増援を望む必要はないとする。天草番手は二、三千ほどの熟練者を置けばよいという意向と、大人数による狼藉への懸念、陣には身軽な者を置く方針を伝える。
万治二年九月十一日 / 冊子 22~23頁/原整理番号 6-13
平田純正は、義弘以後の軍記や日帳がなく御記録草案を編めないため、年号不明のものも多い御文書を見合い次第記録してよいか伺った。併せて遊休中の筆者の活用と、清書後に正本が散逸する場合に備え草案を箱・長持に納め施錠保存する案を示す。各項には押札の回答が付される。
年月日未詳 / 冊子 154~155頁
島津久慶が江戸・長崎関係の処置を列記した覚書。江戸城で諸大名へ申し渡された吉利支丹改めの手順、端午の御服と御内書を持ち下った使者が大坂船を待って遅れた件、老中への確認、大野内記・鬼塚源太左衛門が持参した相良主計助の条書を記す。さらに長崎奉行へ折々に情報を伝えること、江戸上屋敷の留守居として家老一人を早く上らせることなどを、種子島左近忠時へ申し含めるよう示している。
年月日未詳 / 冊子 240頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0496
光久公御譜中に、同年十一月十八日、御鷹が撃った鶴一隻を拝領し、斎藤佐源太が上使を務めたと記す。
延宝三年十月朔日 / 冊子 656~657頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1649
島津光久が伊地知権左衛門へ、二之丸に置く女房衆と懐妊中の源太夫妹に関し、出産後の乳母・養育者・取次・女房の配置や子の養育方法を定め、関係者へ申し渡すよう命じた直書。
元文二年十一月 / 冊子 480~481頁/整理ID 1158
元服先例調査の書付一通を提出し、源太夫からの了承、書記備置、後日の添書・返却手順を記録する。
〈寛延二年〉八月六日 / 冊子 187~188頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0532
寛延二年八月六日、嶋津主鈴が樺山主計・伊勢兵部・鎌田典膳・平田靱負へ、定式忌服の届書を本多伯耆守へ提出した経緯を報告する。前日五日に書付を差し出すよう命じられたため、昨夜申し遣わしたとおり、六日に留守居の名書を整えて届書を用意した。佐久間源太夫が本多宅へ赴き、取次の千馬文太夫を通じて差し出したところ、届書のとおり承知したとの言葉を受け、その旨を源太夫が報告した。届書の写しを別紙として添え、この件を御聴に達するよう求める。
〈寛延二年〉八月六日 / 冊子 188頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0534
島津兵庫方の佐久間源太夫が、松平薩摩守宗信が養生かなわず七月十日に死去したため、兵庫が忌服を受けている旨を届ける。忌は七月十日から八月十九日まで、服は十三月で七月十日から翌午年七月までと期間を掲げる。八月六日付で、控えの正文が家老座にある。忌と服を別々に示した、宗信死去に伴う兵庫の服制届である。
〈寛延二年〉八月八日 / 冊子 189~190頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0538
寛延二年八月八日、嶋津主鈴・矢柄が樺山主計・伊勢兵部・鎌田典膳・平田靱負へ、慈徳院殿宗信の死去に伴う兵庫の忌服と出府について報告する。逝去の日から定式の五十日・十三月の忌服を受け、届出も済んだことは六日の便で伝えていたが、七日に本多伯耆守から留守居一人を呼ぶ切紙が届き、佐久間源太夫が赴いたところ、国元で承知した日から忌服を受けるよう指示された。御用人小坂仁左衛門から別紙の書付を渡され、六日に留守居名書を本多へ差し出していた旨も記す。七日の指図をもとに飛脚片道二十三、四日目の到着を見込み、国元で承知した日から何月何日まで忌服を受けるか届けるよう求める。その届書を留守居名書と相談し、御用番へ差し出して本多へ首尾を伝えること、御守殿へ内証で知らせ、御付の御用人を通じて尾張・お喜代・嶋津加賀守や関係者へも伝えることを依頼する。領国中や屋敷中には忌服の日数に応じて知らせ、京大坂と隣国への通知を手配し、八月の月代日数や京大坂の慎の日数についても申し談じるよう求める。細川方は出立・道中とも常式の参勤より急ぐと承知したので、兵庫も出立を急ぎ、船中は遊び間が多く中国・美濃路を通ると見込む。五日の指図以来の日数も考え、飛脚が中途で滞る場合に備えて海陸二手を急いで差し立て、国元・京大坂の手当を求める。右筆から渡された書付の写し一通を添える。目録の連署人名と署名の実名対応には疑義がある。
〈寛延二年〉十月三日 / 冊子 208~209頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0580
寛延二年十月三日、嶋津主鈴・矢柄が嶋津主殿・樺山主計・伊勢兵部・義岡左平太・鎌田典膳・平田靱負へ、兵庫の忌服と出府に関する届書・幕府への取次手続を報告する。八月七日に本多伯耆守から受けた指図は八日に知らせ、片道二十三、四日目の承知を見込んだ。その後、八月五日の小笠原縫殿助の指図も吟味して九日に申し越したところ、九月三日・四日の便で国元に届き、三日から十月二十二日までの忌と十三月の服を受ける旨が伝えられたため、その内容の届書を整えることを求める。八月五日の指図をもとにすると九月三日まで片道二十七日目となるが、勤事と余事では所要日数が異なるという朱書の返答を承知したとも記す。忌服・出府の指図への請は他方の扱いも照会し、御一類方の内から申し上げること、九月十三日の国元出立の届などを整えることを求める。兵庫の名書を整え、以前の指図に用いた小笠原縫殿助へ取次方式を岩下佐次右衛門を通じて相談したところ、縫殿助へ書付と忌服届書を内見に出すよう返答があった。前月二十九日、御用番の堀田相模守へ請書を持参し、無事に受け取られたことを佐久間源太夫が伝える。また、源太夫が兵庫の定式忌服・出府の指図書付を携えて参上し、九月三日に薩州で承知した旨の受けの書付と忌服届書を御用番へ差し出し、本多への報告のため書付写を御用人へ渡した経緯を記す。御守殿櫻田にも承知日と十三日の出立予定を知らせ、使番を通じて関係先へ伝えるよう依頼する。届下書、受けの書付写、留守居首尾書の三通を添え、隅州様と兵庫へ報告するよう求める。目録の連署人名と署名の実名には異同がある。
〈寛延二年〉十月三日 / 冊子 210頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0584
寛延二年十月三日、嶋津主鈴・矢柄が嶋津主殿・樺山主計・義岡左平太・鎌田典膳・平田靱負へ、宗信の死去後の兵庫の相続・忌服・出府と、隅州様から幕府への御礼の手続を報告する。慈徳院殿宗信の死去に伴う相続を兵庫に命じ、忌五十日・服十三か月を受けて出府するよう指図されたため、隅州様から堀田相模守へ御礼を申し上げるよう御用番から留守居に口達があった。八月十五日の申し越しは往復が間に合わず、兵庫が御受を申し上げた当日に、留守居の口達で隅州様の御礼が済むよう手配して首尾を報告することとなり、その連絡への朱書の返答を承知したと記す。前月二十九日、兵庫の忌服の届などが申し出られた日に、佐久間源太夫が御用番の堀田相模守へ赴き、隅州様の御礼口上を伝えたところ、御礼は後日に申し上げるとの旨を取次から聞いたと報じる。首尾書を添え、御聴に達するよう求める。目録の連署人名と署名の実名対応には疑義がある。
〈寛延四年〉十月四日〔目録:九月二十八日〕 / 冊子 332~337頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0983
平田靭負正輔・市来左中政方が六家老へ、太守・隅州の有徳院遺物拝領後の御礼について、江戸での相談と書状・使札の提出経過を報告する。加賀守から名代御礼についての照会がないため、留守居を通じて御用番酒井左衛門尉へ申し上げ、山澤小左衛門を取次に遣わした。国元在住の拝領者には名代御礼の例がなく、上使の差図もないまま、有徳院の隠居祝いの拝領例だけで処理するのは不足があるとして、堀田相模守へ内談した。留守居が御用人浅井八兵衛から、御用番の出勤を待って礼使札を差し出す扱いを聞き、赤松甚右衛門にも申し合わせた。甚右衛門は病気で参上できず、小左衛門が佐久間源太夫へ事情を伝え、先月十五日に相模守へ内談する手はずを整えたが、浅井八兵衛の内用のため進まなかった。そこで倉次甚太夫にも相談し、十七日付の手紙と十九日の来訪を経て、御用番の差図どおり名代で勤めることになったと報告する。 名代が登城して御礼するのか、廻勤で済むのかについても堀田側と相談した。隅州が病中のため、在府の加賀守が両丸へ登城し、老中へ廻勤する扱いとし、似寄りの例書を添えるよう八兵衛から伝えられた。当分出勤しない酒井左衛門尉・秋元但馬守への御礼は差し控え、出勤後に改めて勤める。大納言への御礼も御用番へ申し上げて済ませるという。有徳院遺物の両殿への拝領について本多伯耆守へ提出した書付一通と例書一通、隅州から大納言への御礼についての書付一通と付紙の扱いを挙げる。加賀守父子の名代については先に願い、御用人を通じて登城を要しない廻勤の差図を受けた。先月二十五日の書状提出、翌二十六日の加賀守の老中・上使側への廻勤、若年寄への菱刈孫兵衛の使者、側衆への表方・隠居方それぞれの使者を記す。 太守・菊姫の遺物拝領に隅州から謝礼する連署書状一通について、本多への提出と受け取り、秋元宛書状が西丸用務のため登城しなかったこと、西尾隠岐守宛書状の提出、元で整えた連署書状と御右筆の案文を挙げる。太守・菊姫の拝領に対する奉書一通、隅州から大納言への謝礼に関する同一通、本丸の老女五人から隅州への返事六通も報告する。隅州の公方・大納言への御内証の御礼は名代使札で決めにくく、国元で文面を整えるよう伝えられた。八月二十一日付の御文と御案文、御礼文の八月九日・九日付、使札の八月二十一日付に相違があるため、御文を案文として扱い、双方を相談して調え直した。先月二十六日に御守殿から提出した御文はその日に返事が下り、女使の口上と春井の取次を経た。二十七日には春井から添文付きの御文六通を提出したという。 太守の御頂戴がまだ済んでいないため、七月十日の拝領として差し出す御礼文の扱いを佐々木に尋ね、差し支えないとの返答を得た。隅州の御礼文は御右筆が提出し、国元の御案文も添える。日付の異なる案文と調え直した文面を送って、国元の心得とする。京都諸司代・大坂城代への通知は、隠居祝いの拝領時の例に従って調えるよう使番へ申し渡したが、先例が見当たらないため、近衛その他への通知とあわせて相談する。日光宮・御三家・御一門への通知は、太守の御礼が済んだ時に使番へ申し渡すよう求める。隅州の御礼が済んだことも伝え、別紙九通を送るとして結ぶ。末尾に十月四日の朱記と、平田靭負・市来左中の名義、六家老宛名を掲げる。
宝暦九年(日付不記) / 冊子 720頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2168
宝暦九年の御譜記事は、四月十六日頃の増上寺鎮火と、六月二十一日に菱刈藤馬實を家老、島津小平太を若年寄、名越左源太を大目附とする人事を記す。七月十八日に義岡相馬久中が彈正の名を賜り、二十八日に十五歳の重豪が額髪を剃り、九月十一日に閣老の邸で招宴を受けたとする。十一月十四日に西尾忠尚が重豪を召して徳川宗尹の女保姫との縁組許可を伝え、傍族久柄が重豪に代わって登城して命を拝したと記す。十二月二十三日に一橋宮へ結納したと記す。
明和二年四月十二日 / 冊子 83頁/原整理番号 181の61/整理ID 181-61
有川勇馬が四月十二日、来る十七日の紅葉山御宮参詣に際して予参を勤めるかどうか申し上げるよう求める書付の趣旨を承知し、薩摩守は予参を勤める心得であると届ける。御名内として有川勇馬が署す。続く首尾報告では、この書付を持参して差し出したところ、出羽守は登城中で、留守居に預け、帰宅の際に書付を差し上げる旨を用人から承ったとする。用人は渡邊源太夫と記す。同日、有川は自分が勤めた首尾を左中様へ報告している。予参の意向を届ける正文と、書付の持参・留守居への預け・用人の応答を記録した首尾報告を分けて示す。
明和七年三月二十七日 / 冊子 249~250頁/原整理番号 668/整理ID 668
於綾を御前様に立てる件で、浄岸院様の使者澁谷半左衛門の勤めが済み、甘露寺家の返答一通が届いたことは先便のとおりとする。使いの際に直接返答があり、別紙写のとおりの請書を半左衛門へ渡したと記す。縁組願書提出や旅中の通路等は、細かなこともすべてこちらで取り計らう意向で、別紙の条書を渡して知らせる。於綾の京都からの出立に関し、表向きは甘露寺家の取計らいとなり、道中は甘露寺家の娘として通行したい旨があるため、伏見の横山権右衛門に言い含め内談したところ、意向どおり表向きは相手方の取計らいとするとの返答書が届いた。甘露寺家の娘として江戸へ下ることは決まったので、本日の便で二階堂源太夫へ知らせたと報告する。詳細は国元から源太夫へ知らせること、御守殿へは半左衛門が着いた際に申し上げる予定であることを記し、別紙四通を添えて御女中様方へ伝えるよう求める。三月二十七日付、年は明和七年の朱注、樺山左京・嶋津左中の二署と喜入主馬殿・小松帯刀殿・川田伊織殿宛を備える。控の正文は家老座にあるという。
四月二十八日(年無記載・明和七年編年) / 冊子 249~250頁/原整理番号 669/整理ID 669
於綾を御前様に立てる件について、書状の趣旨を承知し、御女中様方へ申し上げたと返答する。送られた別紙写は二階堂源太夫へ差し越し、於綾へ申し上げる件については伝えるよう申し越したという。送られた別紙はこちらに控え置き、この旨を返答すると結ぶ。朱書の日付は四月二十八日。668号書状の行間に記された返答で、独立の署名・宛所は備えない。
明和八年四月(日無記載、包紙に四月十五日受渡) / 冊子 278頁/原整理番号 746/整理ID 746
先の家格寄合について、庶流の二階堂源太夫は先代の事情で連名の頭に置かれていたが、庶流の格式の先例にも触れ、同じ上座では嫡庶の別が立たず専実を失うため、そのままにできないとする。連名の順を仁礼仲右衛門、その次に源太夫と命じる。背道理の意味合いは捨て置き難いので、心得違いなく承知して申し渡すべき旨を示す。明和八年の朱注、四月付、主馬の署と記録奉行二階堂蔀宛を備え、大目付の注がある。包紙は五十三番、白木御文書五番箱にあり、明和八年卯四月十五日、主馬殿から写を渡されたと記す。正文は文庫にある。
天明四年十二月(文中二十二日・二十四日) / 冊子 776頁/原整理番号 2171/整理ID 2171
二月二日・五日・七日・十一日・十六日を障日として挙げる。朱書は、本城源七郎が書付二通を土方宇源太の用人中村半助へ渡し、御用番の登城前に提出するよう頼んだこと、十二月二十二日に宇源太から御用番代牧野越中守へ提出して受領されたこと、二十四日に牧野が留守居を呼び出して次の書付を渡した経緯を記す。
天明七年二月十八日(年は朱書。朱注の処理日は同月二十七日) / 冊子 946頁/原整理番号 2576/整理ID 2576
同氏上総介が願いによって隠居を許された後も持病がすぐれず登城が難しいため、国元に病状に合う温泉があるので入湯させ、領国の仕置等の助けにもなるよう、およそ一年の暇を与えてほしいと願う。許可されれば三月中に体調次第で当地を発ち、ゆっくり道中を進ませたいとし、快方に向かえば暇の期間内でも参府させたいと申し出る。二月十八日付、松平豊後守の名を記し、島津斉宣の傍注がある。朱注によれば、この書付は同日、御用御頼御先手の土方宇源太を通じて御用番水野出羽守へ提出され、同月二十七日に次の書付が出羽守から直接渡された。
天明七年二月二十三日(年は朱書) / 冊子 948~949頁/原整理番号 2582/整理ID 2582
中将が隠居後も持病がすぐれず、国許には病状に合う温泉があるので入湯し、領国の仕置の助けにもなるよう、およそ一年の暇を願い、許可されれば三月中に体調次第で出立したいという太守の願書について、その提出経過を知らせる。二月十七日、留守居が願書案文を御用番水野出羽守と松平周防守へ持参して内見を求めたところ、両人とも差し支えないとして、都合に従って正式に提出するよう、それぞれ用人を通じて答えた。翌十八日、別紙願書を御先手土方宇源太を通じて出羽守へ差し出し、受領された。宇源太が出羽守の門前で留守居にその旨を伝え、受領の挨拶の使者を取次へ申し出たが、後刻申し上げるとの返答であった。取次からこの応答を受け、願書提出の件を詰中の面々も承知するよう同日申し渡したという。続いて明姫方女中衆を通じた周知や国元での申渡しについて相談するよう述べ、近く願いどおり命じられる見込みなので、その際さらに詳しい事情を知らせると結ぶ。二月二十三日、嶋津伊賀から喜入安房・川上頼母・嶋津仲・二階堂主計・宮之原主膳への書状である。
文化7年2月15日(今茲春) / 冊子 350頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1084
今茲春2月15日、大家が使者横田源太郎を芝邸へ遣わし、重豪へ御鷹の鶴を賜った。源太郎の実名は闕との注。斉興が恩旨を代奉し、ただちに両営へ登って拝恩、老中各邸にも謝礼したと記す。拝領者重豪と代奉・謝礼をする斉興を分け、次1085の斉興自身の拝領記事と混同しない。鶴の数量は記されない。
4月(申渡群、年不記);取次戌4月25・27日/26日摂津/大坂廿日報告/末注戌4月17日 / 冊子 254~256頁/原整理番号 354の2/整理ID 354-2
雑集中の四内容。久光は十九日に伏見を立つ予定だったが京都へ留まるとする式部の申渡で、戌四月廿五日川上正十郎取次注。次に京都で浪士鎮静の勅命を受けたため今日勅書を拝見し、圖書・大身・家老らが月次御礼の場で太守と久光へ祝儀を述べ、諸士は帳面に記して飛脚でも伝えるとする四月廿六日摂津の申渡。第三は太守の御筆添書で一統が承知し、久光が近衛邸へ滞京して浪人鎮静を命じられた趣旨に従い、国法を守り動揺せず公方に誠実に奉公するよう命じる。四月家老五名、戌廿七日伊集院静馬取次。第四は私面会・無命奔走・無断駈付・酒色の四条を再掲し、大坂で廿日に拝聞して伝えたので漏れなく知らせるとする。次頁に四月家老五名の署名と本文戌四月十七日二階堂源太夫取次注が続く。これらの日付を整合のため書き換えない。
5月(改称通知);5月廿五日(祝儀指示・取次);改称は去る12日、登城は明廿二日と記す / 冊子 260頁/原整理番号 359/整理ID 359
雑集中の二つの申渡。第一は京都の近衛からの申進により、久光が去る十二日に三郎へ改名したとの報が届いたので承知し、表方・奥掛・御勝手方・諸郷私領へ周知する。五月但馬、本文五月廿五日二階堂源太夫取次注。第二は同じ改名について、一門方と月次御礼の者へ「明廿二日四時」の登城を指示し、その席で太守・三郎へ祝儀を述べ、当日は大奥にも祝儀を伝え、精進日間の祝儀を申し上げるよう命じる。五月廿五日但馬。廿五日の指示と明廿二日の前後疑義は原字を保持する。
年月日未詳 / 冊子 770~771頁/原整理番号 829
松平伊豆守信綱が薩摩勢に肥後勢と交替して上津浦の番手を務めるよう命じた経緯を記す。二十二日、久元が鬼塚源太左衛門を久玉へ遣わし、久賀・忠政らに伝えた。久賀・忠政は甲根へ陣を移し、久加・重国を交え四人で協議した後、使者を鹿児府へ戻して川上久国に報告した。末尾に久賀・忠政らの二十三日・二十六日案文を参照する注がある。
年月日未詳 / 冊子 19頁/原整理番号 26
伊地知季安の記事。この日午刻、鬼塚源太左衛門が鹿児島から上津浦へ到着し、川上久国の返書によって伺いへの回答を伝えた。大将の下知に従わず勝手に有馬へ抜ける者には、飯米と往来の船を自弁させ、後日あらためて処置するとの意向が示されたため、島津久賀らは上津浦の兵へ申し渡した。鬼塚は直ちに有馬へ渡って島津久元らへ報告し、抜け駆けを企てる者が鎮まったとする。
正月廿九日 / 冊子 26頁/原整理番号 40-2
喜入忠政・島津久賀が三原重庸・川上久国へ、上津浦の番手を受け取ったことを報告する使者を出し、鬼塚源太左衛門尉から条書への返答を受領したと伝える。条書は、命令なく有馬へ渡る者には自船・自飯米を負担させ、後日処分もあり得るという内容で、当地の諸軍勢へ周知するとする。一方、「かうね」から当地へ人衆を繰り渡す船で平田民部少輔が相談なく有馬へ渡り、船の配分や四、五千人の輸送を乱したことを強く批判する。物頭・奉行を安易に任じれば国のためにならないとして、厳格に命じるよう求め、三原重庸の帰着後に詳しく協議し、加世田小内記にも条書で伝える書状。
年月日未詳 / 冊子 27頁/原整理番号 42-1
伊地知季安が、島津久賀・喜入忠政は前日、鬼塚源太左衛門尉を島原へ派遣し、島津久元・山田有栄へ相談したい事柄を伝えたが返報がなかったため、この日さらに今井市兵衛を派遣したと記す記事。
正月廿九日 / 冊子 28頁/原整理番号 42-2
喜入忠政・島津久賀が山田有栄・島津久元へ、前日に鬼塚源太左衛門尉が渡海した際に書状を出しており、さらに事情を伝えるため今井市兵衛を派遣したので、返答と口頭説明を聞くよう求める。「かう袮」の衆は、小舟による繰り越しを手配しにくいため、まだ当地へ来ていないと報告する書状。
二月二日 / 冊子 55~56頁/原整理番号 83
川上久国・三原重庸が島津久元・山田有栄へ、鬼塚源太左衛門を介した去る二十九日付書状の内容を了承し、黄門様の病状が軽くなったことを報じる。薩州様の到着遅延と大雨による日州洪水を案じ、出陣の供衆・道具、天草渡海、兵糧、馬、石火矢事故、黒田勢の出陣、永井監物の披露状について連絡する。
二月四日 / 冊子 64~65頁/原整理番号 99
川上久国・三原重庸が島津久賀・喜入忠政へ、鬼塚源太左衛門の上津浦到着と条書への返答を受けたこと、黄門様の病状、薩州様の細島未着を報じる。有馬渡海衆の扱い、天草番手の必要人数確定後の余員帰陣、米之津へ向かう兵糧米七百石の船が未着であるため出水からも順次送ることを回答する。