朝鮮戦死者子孫の御祭拝礼に対する謝意
弘化4年9月12日(目録) / 冊子 26頁/原整理番号 9-1
朝鮮御陣中で戦死した者の子孫として、妙谷寺での御祭を命じられたことへの感謝と御礼を述べる。
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弘化4年9月12日(目録) / 冊子 26頁/原整理番号 9-1
朝鮮御陣中で戦死した者の子孫として、妙谷寺での御祭を命じられたことへの感謝と御礼を述べる。
二月十六日 / 冊子 325頁
二月十六日、浜田経重が家中に残した置文。公務の勤め、言動と礼法、争論回避、武士道、飲酒、奉公人への扱い、信仰、親族関係などの日常規範を箇条書きで戒める。
建徳二年十月十五日 / 冊子 58頁
渋谷重門が、重代の所領は兄弟間で分割せず、一人に継承させ、後代まで重門の子孫が知行するよう定めた置文。
応永十三年十一月十五日 / 冊子 223頁
渋谷重頼が、自身の後の所領は兄弟が複数いても器量を見定め、惣領一人へ一か所も残さず譲り、諸子へ分割した者は重頼の子孫と認めないと定めた置文。
永正十五年五月廿一日 / 冊子 617頁
阿多上宮熊野権現の御鏡について、寸法・銘文と、島津藤原朝臣の子孫繁昌・忠幸を祈る願文を刻んだ鏡銘。
天文三年十一月吉日 / 冊子 728~729頁
本田董親が正八幡宮へ三昧職に付属する水田一町を寄進し、社役を先例どおり勤め、子孫繁昌と武運長久を祈願した寄進状。
天文十八年十一月六日 / 冊子 884~885頁
新納忠職が先の約諾を確認し、子孫へ所領・権利を伝える旨を定めた寄進状。新納忠徳所蔵の正文による。
永禄十三年五月吉日 / 冊子 238頁
島津貴久が本田松閑の弓箭におけるたびたびの軍忠を比類ないものとして感賞した文書。子孫に至るまでこの旨を永く守り、いっそう戦功を尽くすよう命じ、末代の亀鑑とする。
天正16年2月13日 / 冊子 379頁
世上が大きく変転しても島津義弘とその子孫へ二心なく忠貞を尽くし、他方から謀略の誘いがあれば直ちに言上すると誓う。 讒者の讒言を聞いた場合も速やかに報告して釈明し、偽りがあれば神罰を受けるとした起請文前書の案。
慶長三年三月七日 / 冊子 197頁
島津以久が、龍伯・義弘・忠恒の三殿へ二心なく奉公し、その忠節を子孫にも守らせると誓った天罰起請文。親子兄弟であっても三殿へ逆心する者には同心せず、三殿から聞いた隠密を他言せず、世上の動きで注意すべきことは残らず報告するとする。また御家へ悪心を抱く者との誓紙交換をせず、進退について疑いを受けた場合は胸中を残さず糺明してもらうと約し、違反すれば諸神の罰を受けると誓う。
慶長十七年五月十日 / 冊子 360~361頁
慶長十七年五月十日、島津家久が立花宗茂へ、前年の方々での軍功を賞し、新年の慰状を喜び、子孫に至るまで忠貞を尽くすよう期待した書状。
(慶長十八年)九月八日 / 冊子 411~412頁
慶長十八年九月八日、島津惟新が家久へ、家督を守る者の責任、子孫と後継者の養成、諸国・家臣への配慮、節倹と慈善、家政の将来を長文で訓戒した書状。
八月十日 / 冊子 218頁
今川了俊が島津越後守に、当陣へ出向いて翌日の参会を期すことを伝え、島津家の権益は先祖一代の御免に基づき子孫へ相続されて相違ないとの見解を示した書状。御用をめでたく勤めるよう勧める。
七月十九日 / 冊子 306頁
島津忠昌が、今回の軍事で当初から示された忠節を賞し、寄郡から坂上まで奔走した功を忘れず、子孫にもその礼を与えるので、今後も忠節を尽くすよう山田河内守へ求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 331頁
一族・家臣の戦死者を後々まで悼み、毎朝焼香・奠水して頓証菩提を祈り、その子孫を養育して領地を加増した記事。人々は島津忠良の仁愛と恩賜を父母のように慕ったという。
天正16年2月15日 / 冊子 380頁
子や孫の代まで互いに違背せず、他国や第三者からの働きかけに応じないことを誓約する。 讒言や雑説は必ず相手に知らせて真偽を確認し、互いの礼節と信頼を末永く守ると、全国の主要神社・神々へ誓った起請文。
年月日未詳 / 冊子 179~180頁
田代清久譜の記事として、応永五年十二月二十五日に清久が久助へ田代の諸村・山野に関する四通の文書を授け、その所領が子孫へ伝えられたことを記す。
明治2年十二月(日不記)知政所 / 冊子 718~719頁/原整理番号 943/整理ID 943
歳久について、帖佐瀧ケ水の自盡と貫明公による心岳寺建立を述べ、寺を廃して跡に一社を建て神霊を崇め社司を置く。忠朗について、奉仕忠節と忠棟父子の叛逆による衰亡を原の評価・説明として述べ、笑岳寺を廃して自家で神霊を崇め、庶流伊集院四郎が祭祀を永続できるよう寄附高から七石を永く与える。忠長・政近・國貞・久治・貞昌の五人は、慈眼公が病悩重い際に位牌脇へ位牌を配列させたとの記述を掲げ、寺院廃絶後、國貞には別に菩提所源舜庵を建て、各霊は長谷神社の肖像脇に改め設けて従祀し、釼一振も置く旨を伝える。明治二巳十二月知政所。原顕彰・叛逆評価、霊の扱いと寺高・庵・釼を区分し、実移送祭祀完成や病名・実給付総額は補わない。
弘化4年9月9日以降 / 冊子 27頁/原整理番号 10
九月九日に番御用人から伝えられた指示に従い、妙谷寺の戦死者御祭へ子孫を列席させる案と、その取扱いを笑左衛門へ申し渡す。
目録年月日記載なし / 冊子 27~28頁/原整理番号 11
妙谷寺での戦死者御祭に用いる位牌・供物等の配置を図示し、戦死者の子孫名簿と寺社方への取次を記す。
応永十三年十一月十五日 / 冊子 223~224頁
渋谷重頼が子息菊五郎丸へ、薩摩国入来院内清色北方・市比野村半分地頭職などの所領に加え、筑前・筑後・甲斐・美作・相模の所領を譲り、器量ある惣領一人への一括相続と諸子への分割禁止を定めた譲状。
天明七年丁未六月四日 / 冊子 974頁/原整理番号 2637/整理ID 2637
中山王尚穆が少将に差し出した起請文前書。先国王の跡職を命じられ、筋目を変えずこの邦を相続できた厚恩を生涯忘れないと誓う。琉球の安泰は貴国の恩恵によるため、たとえ親子兄弟が高恩を忘れ逆意を抱いても、自らは貴国の下知を堅く守り、別心を持たないとする。この誓文を子や孫に譲り、末代まで相守るよう伝え、嫡々の子孫でも悪意を持って国法を妨げれば披露して刑罰を加え、寛疎にしないと誓う。今回の家督交替後も中将の代と同様に守ると結び、神文は刊本で省略される。六月四日付、尚穆の署判と「進上少将様」の宛所を持つ。
文永八年九月十五日 / 冊子 271~272頁
島津道仏が子孫へ遺した仮名書きの誠状。所領の分配と親族間の扶持、軍役・警固への参加、将来の訴訟や相論を避ける心得を述べ、子孫が互いに協力して家領を守るよう申し置く。忠宗公御譜中所収。
弘安四年四月十六日 / 冊子 308頁
島津久経が、将来の御くだし文・御代譲り等は譲状どおりとし、子孫や関係者が異議を唱えないよう申し置いた自筆置文。
弘安九年十二月十一日 / 冊子 328頁
平忠能が薩摩郡内の所領について、子孫・親類が後日に争わないよう仮名書きで相伝・処分の趣旨を申し置いた置文。
明和六年春の命令、同年六月成立 / 冊子 224頁/原整理番号 588/整理ID 588
この春、重豪が郡山次郎左衛門遜志、山田司明遠、兒玉主左衛門實識に命じ、古の聖賢による修己・治人の大略を選ばせたことを記す。夏の六月に成立し、三巻からなり、題を君道として智・仁・勇で分編した。座右に置いて観省の用に備え、侍臣へ、子孫に伝えて亀鑑とすべきことを述べた。また一部を文庫へ収め、永久に伝えるとする。編者の職掌・姓名を挙げる記事で、独立した届書ではない。
明和六年丑八月(日無記載) / 冊子 224~225頁/原整理番号 589/整理ID 589
君道の智・仁・勇の巻、三冊についての申渡書。重豪の意向で、この春、郡山次郎左衛門へ聖賢の行事・政道の類を山田司・兒玉主左衛門と相談して編集し提出するよう命じ、成立して差し上げたところ、常に御側へ置いて閲覧することになったと記す。さらに一部を御記録所へ渡し、子孫にも長く伝えて鑑戒としたいとの意向により、この節三冊を差し越すので、その趣旨を後年まで違いなく記録し、念入りに保護するよう求める。明和六年丑八月の朱注、二階堂蔀の署と御記録奉行宛を備え、正文は文庫にあるという。
安永八年十一月(本文今茲冬十一月・目録年記) / 冊子 586~587頁/原整理番号 1650/整理ID 1650
重豪公御譜中の記事。揖宿郡指宿郷拾貳町村の浦人兵右衛門に、佐左衛門・善藏・兵左衛門の三人の男子と四人の女子があり、皆が力を尽くして父母に仕え、佐左衛門の妻もよく従って奉仕したと記す。父は老いて病み、手足が不仁であったため、出入りや起居では互いに助け、代わる代わる抱き支えた。指宿郷には温泉があり、背負ったり肩輿に乗せたりして入浴させたという。兵右衛門の子孫は男女十六人に及び、皆がその気風を習って和睦し、郷党も孝順を称えた。今冬十一月、官に命じて佐左衛門夫妻へ廩米十五苞を与え、善藏・兵左衛門と女子四人には各々青銅二千を与えて賞したとする。青銅の数量単位は原文に「貳千匹」と記す。米十五苞は夫妻に対する記載であり、一人ずつ十五苞へ増やさない。結尾の「賞之焉」は次頁冒頭に続く。
寛政12年4月15日(本文) / 冊子 177頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0568
白木御文書七番箱7、敬白天罰霊社起請文。中山王尚温が三箇条を誓う。先国王の跡職を命じられ筋目を変えず国を相続できた厚恩を生涯忘れないこと、琉球の安泰は貴国の恵みによるので親子兄弟でも逆意を企てれば自分は下知を守り別心を持たないこと、誓文を子孫へ譲り末代まで守らせ、嫡子孫でも国法に背く悪意があれば披露して刑罰を加え疎略にしないことを述べる。神文は略され、寛政12年庚申4月15日尚温署判、太守様へ進上。冊封使来琉記事567と起請文568を別文書として整理する。
文化2年乙丑5月9日(本文) / 冊子 249頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0802
敬白・天罰霊社起請文之事と題する三箇条。先国王の跡職を仰せ付けられ、筋目を違えずこの邦を相続できることをありがたいとし、その厚恩を生涯忘れないと誓う。琉球の安泰は貴国の恵みによるので報謝し難く、親子兄弟であっても高恩を忘れて逆意を企てる者があれば堅く相守るとする。霊社神文の表により子孫へ譲り与え、後世末代まで貴国の御下知に毛頭別心なく従う旨を伝え、子孫でも悪意ある者や国法に関わる者があれば逐一披露し刑罰を加え、疎略にしないと誓う。これを偽って申し上げた場合の神文は略されている。文化2年乙丑5月9日、中山王尚灝判、進上中将様、白木御文書七番箱中13号。神文の省略部分を補わず、中将様の実名は本文にないため補填しない。
文化3年4月(朱注)、4月7日市正からの交付(包紙) / 冊子 264~265頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0851
御隠居の寿像を思召しによって千眼寺へ納め、この安置に当たり先例を考えて表立つ取計いをする余地があっても、そのような儀は行わないよう命ずる。万歳の後に検討する場合は子孫の思召し次第とするが、御在世中は従前どおりとする。像に添える逆牌は、万歳の後の年月等を書き入れるためのもので、間違いなく取り計らうよう指示する。像前の拝礼は貴賤の差別なく許し、制札等の沙汰は不要とする。右のとおり帳面へ記置くよう命じ、文化3年4月の朱注、市正署。包紙は文化3年寅4月7日市正殿から渡された書付とし、朱注に白木七番箱22号の所在を記す。出典は全上、正文在文庫、本文は冊子265頁へ続く。生前・万歳後、逆牌の用途、拝礼許容・制札不要、帳面登録を分ける。
文化7年庚午4月29日 / 冊子 351頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1090
白木御文書七番箱57。敬白・天罰霊社起請文之事。第一条は先国王の跡職を仰せ付けられ、筋目を変えずこの国を相続できることへの厚恩を生涯忘れないと誓う。第二条は琉球安泰が貴国の恩によると述べ、たとえ親子兄弟がその恩を忘れ逆意を企てても、自分たちは貴国の下知を堅く守り、毛頭別心を持たないと誓う。第三条は霊社神文の表を子孫に譲り、末代まで守る旨を伝えること、嫡子孫であっても悪意を持ち国法の妨げとなる者は披露して刑罰を加え、疎かな扱いをしないことを誓う。今回家督に就くにあたり諸事を先規どおり守り、背けばとの結びに神文略の表示。文化7年庚午4月29日、中山王尚灝判。省略された神文を外部文例で復元せず、前書の三条と判表示を全項保持する。
文化10年9月(朱年注。日なし) / 冊子 416~417頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1303
全上・扣正文在家老座。先年以来世帯方が極難で、厳しい倹約・出銀米等を命じても成果が見えぬ訳を、銘々身構えて子孫後栄を思い、自分だけ富饒なら落度で退役しても頓着しないためだと述べる。当面の取締が宜しくなく務める筋を弁えず金銭計のみで自分勝手にし、上の倹約筋を等閑にすることも批判する。不正の富饒は一時の栄花でも長久を保たず子孫繁昌につながらないと戒める。困窮下やむを得ず出銀米を命じたのを気毒に思い、朝暮心痛するので、早くこれを差免し安堵・再建と国中末々の長久の基、極難者を相応に救う手段を立てるよう求める。近年の再建取扱の心許なさを挙げ、小事にも無駄な費用を出さず益方へ精しく心懸けよとする。さらに重い出銀米を命じることのできない時節であると成立策案の中で悟り、趣意を忘れず実意で勤め、急度成果を立てよと命ずる。文化10年朱注9月、三宛、重豪名義は目録。自己利得・子孫後栄・不正栄花の評価は達書の戒めとして示し、救済策を実施済としない。
文政11年戊子5月12日 / 冊子 788頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2223
中山王尚育の「天罰霊社起請文前書」。尚灝隠居に伴い家督を命じられた恩を生涯忘れず、筋目を変えず国を相続すると誓う。琉球の安泰が貴国の恵によることを謝し、たとえ親・子・兄弟が恩に背く逆意を抱いても、自分は堅く貴国の指示を守り二心を持たないとする。さらに霊社神文の表を子孫に譲り、末代まで継承させる。婿の子孫であっても悪意を持ち国法に背く者がいれば披露して刑罰に付し、疎略にしないと誓う。文政十一年戊子五月十二日、尚育判、「進上 中将様」。出典は白木御文書九番箱中二十一番。神文は「神文略」として省略され、前書の三箇条と署宛を保持する。
弘化四年九月廿一日(戦死者法会)。慶長三年の戦を回顧 / 冊子 82~83頁/原整理番号 128/整理ID 128
慶長三年十月の泗川の役と同年十一月の戦から二百五十年に当たり、斉興がその年の戦死者の霊を弔った記事。九月二十一日、福昌寺住持独山を導師として薩府妙谷寺で施餓鬼会を行い、敵兵数万の亡魂にも施したと記す。貫明公・松齢公・一唯公の霊牌を置き、家老調所広郷が代わって礼拝し、戦死者の子孫も法筵に礼拝して食を賜り、僧俗に粥を施した。松齢公は征韓の役で伊集院妙円寺を菩提所としたが、場所が不便なため妙谷寺で法会を行ったと説明する。貫明公の肥前名護屋出陣と征韓事の指揮にも言及し、戦死者子孫の名録を作ったと記す。斉興譜に戦死者四十八名の列記があるという編者注があるが、本記事に各名は掲載されない。
〔弘化五年〕正月(本文年記載なし、収載順による) / 冊子 93~94頁/原整理番号 136/整理ID 136
諸芸を練熟して召し出された家と、その子孫の奉公の取り扱いを定める通達。芸を請け継ぐ子孫がその道で役立つよう求め、芸道家筋の者は三代目までは芸を御用に役立て、四代目には請け継ぐことを求めず、御小姓興等の役に並んで奉公するよう命じる。三代目までは芸道を務め、家業などで役立たない場合にも「本之俗生通」の取り扱いを認めるとする。三代目でも依願外で奉公している者の子孫や、現在家業を続けて役立っている者、その後の代の者の扱いも挙げ、自身一代は家業の取り止めに及ばないと記す。家業を役立てる者には特別な思し召しがあり、精勤して御用に立つよう命じ、末尾でその旨を伝達するよう求める。正月付で笑左衛門を記す。
3月(日不記)知政所(年は目録明治3年) / 冊子 746頁/原整理番号 968/整理ID 968
庶流の諸家に認めていた本家からの直別家号、町田・伊集院の家号使用を留める。嫡家内の庶や勲功ある者の子孫等には、嫡流の嫡子まで直別家号を許していたが、これを改め、該当する家筋と外城士族から嶋津の称号を除き、今後は直別家号を名乗るよう命じる。嫡家が家筋を詳しく調べ、一緒に名字変更を願い出るよう求める。三月知政所、年は目録の明治三年による。
年月日未詳 / 冊子 302頁/原整理番号 338
『浦の浪』によれば、島原陣の後百年に当たる時、松平伊豆守家が島原で戦死した家来の子孫を召し出し、書院で料理を給し、自ら引出物を渡して盃を交わした。この行為は公儀にもよく聞こえ、世上でも賞美されたとする記事。目録標題は『浦の波』、本文見出しは『浦の浪』で、表記差を保持する。
応永8年3月7日 / 冊子 360頁/原整理番号 148
応永八年三月七日、禅祐(羽島豊後守久成)が国分豊後守へ、薩摩国薩摩郡成枝名内羽島浦の三町分を譲与した仮名書の譲状。四至境内の本田・開発・山野・河海を先例に従い譲り渡し、他の妨げなく知行させる。ただし所領内には女子どもへ既に譲った部分があるため異論・煩いを禁じ、その外は惣領に知行させ、公方役・公事等は分限に従って勤仕させる。禅祐の定めに背き、国分豊後守の命に従わない者は禅祐の子孫とは認めないとする。『旧記雑録前編二』六六九号文書と同一文書と注記される。
応永5年(1398)6月20日 / 冊子 379頁/原整理番号 188-20
応永五年(戊寅)六月二十日、久家が道通へ、筑後国三潴庄内一木村にある重阿弥陀仏名田一町を、久家の重代相伝の私領として打ち渡した事実を証した譲状。久家の子孫が同所について異議を申し立てることを禁じる。本文は五行と注記され、久家の花押を据える。
年月日未詳 / 冊子 269頁/原整理番号 47
本田重親の家譜から、氏久が咲隈で税所氏と湯之領を争った後、姫木城石原口を攻める敵に応戦した記事を収める。氏久は四十騎ほどで危急にあったが、重親は子孫十三人と一族を率いて奮戦し、敵の強兵を討ったという。氏久が子の又三郎を安全に逃がそうとすると、重親は氏久への忠節を命じ、父子別離を悲しむ主従がともに泣いたと伝える。
年月日未詳 / 冊子 379~380頁/原整理番号 93
大口攻めの際に諏方の鎌が忠元の手へ飛来したので社を建立し、鎌飛諏訪大明神と崇めたことを記す。麓の諏方社の側に鎮座し、新納氏子孫の内蔵が毎年七月二十五日に祭るという。注記は、内蔵を久品または久儔とみた場合の書付成立期間を、それぞれ寛延二年九月から宝暦四年九月、明和八年二月から天明五年十二月と考察している。
正平十八年二月十七日 / 冊子 31~32頁
沙弥成栄が、恩賞として拝領した大隅国多禰島について、嫡子忠勝へ半分、残る半分を左京亮忠元・掃部助忠平へ分け、代々の由緒を踏まえて子孫まで違乱なく知行するよう定めた譲状。
寛永18年2月吉日 / 冊子 602~603頁/原整理番号 657
島原出陣時、隈城方面での人数捕縛、薩摩勢との協力、軍勢の差配と帰陣を回想し、子孫の見合書として残した山内淡路守の自記。
年月日未詳 / 冊子 516頁/原整理番号 27
建部姓弟子丸氏について、大隅国の弟子丸名・智尾村などを領した将軍家御家人で、大隅国宮内正宮の田所検校職を務めたため同社旧記に多く見え、祢寝氏も同類であると述べる系譜序文。家伝は宗房を元祖とするが確証が乏しいため、建久9年の『大隅国御家人交名注文』に建部宗房が載り、弟子丸名を領したことが明白で家伝と文書が一致する点から、宗房を鼻祖に定めたと考証する。確証できない世系を無理に論じず、古家の文書から証明できる事実を編集して後世の亀鑑とし、子孫が代々履歴の実を追記して系譜を永続させることを建部宗茂が願う。末尾でも、宗房の出所は不明だが文書と伝説により初祖とし、大隅国御家人であった証拠を後掲すると記す。
延文四年四月五日 / 冊子 263頁/原整理番号 32
島津道鑑が祖父道仏・父道儀以来の置文に従い、惣領師久による一族・子孫の所領統制を定める置文。不忠・不調や不実の者は所領を知行できず、庶子が惣領に背けば師久が処分するとする。子孫を扶持し、乙寿丸が子なく早世した場合の所領は師久が知行すること、本田兼阿への恩給地は一期の間変更しないことも定め、十通の譲状を認め置いたと記す。
享保七年九月十八日 / 冊子 585頁/整理ID 1463
苗代川に住む朝鮮人の子孫について、名字と名乗りの用い方、書付の提出、旧姓の扱いを定めた達を記す。
延享二年二月朔日 / 冊子 795頁/整理ID 2084
継豊は三次郎に薩摩国頴娃郡・揖宿郡のうち、今度「今和泉」と号する一所の地を宛がい、子孫まで領知することを認めた。前年十二月の所領付与(No.2061・2062)を正式な花押付き知行状として確定した文書である。
天明七年正月廿九日 / 冊子 926~927頁/原整理番号 2546/整理ID 2546
家督相続が首尾よく命じられて安堵したとして、相伝の家宝を別の目録に記して豊後守に譲り与える。子孫万代に至るまで譲り渡すよう命じる。天明七年正月廿九日付、薩摩守重豪の御判を据え、松平豊後守に宛てる。上包にも「松平豊後守殿」とある。
文化6年6月17日(正文)。外包文化7年午7月廿三日 / 冊子 322頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1011
今回、家督を首尾よく命じられたので、相伝の家宝を別録のとおり譲与し、子孫万代へ譲り渡すべきことを記す譲与状。文化6年6月17日、薩摩守斉宣御判、松平豊後守殿宛。全一包の内に左の一通があると掲げ、包紙に覚の表示。右包紙は松平豊後守殿とあり、二通の上包は朱99番、文化7年午7月廿三日、安房から本田休七へ渡され六番箱へ納置した旨を付す。家督許可と家宝譲与、子孫への継承義務を採録し、別録は1010重物目録と照合する。正文の文化6年と後日の文化7年収納を分け、包紙受渡人を正文宛名へ移さない。