島津義弘書状
(慶長十八年)八月廿二日 / 冊子 410頁
慶長十八年八月二十二日、島津義弘が使者へ、娘・孫らの無事な到着を喜び、現地から届いた書状と父母の安否、今後の便りについて取り次ぐよう求めた仮名書状。
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(慶長十八年)八月廿二日 / 冊子 410頁
慶長十八年八月二十二日、島津義弘が使者へ、娘・孫らの無事な到着を喜び、現地から届いた書状と父母の安否、今後の便りについて取り次ぐよう求めた仮名書状。
延文四年八月十七日 / 冊子 15~16頁
正八幡宮領家が、栗野南里の当年年貢以下を催促するため預所使者を派遣し、未進を残さず納め、使者の在庄中の厨雑事や衣裳・草手なども先例どおり支給するよう命じた御教書。沙弥道順が奉じる。
「永享十二年」六月廿日 / 冊子 387頁
大覚寺義昭の在所を注進し、その書状を取り進めたことを賞したうえで、直ちに計略をめぐらして義昭を上進し、それが不可能なら討ち取るよう命じた足利義教の御教書。いずれの処置も忠節になるとし、詳細は使者に含めた。
年月日未詳 / 冊子 608~609頁
『島津国史』が、永正年間に薩摩へ来航した琉球船と使者の動きを年次順に記す。島津忠隆による接遇、謝那大屋子ら使節の往還、幕府への報告や贈答、海上警固を挙げ、琉球との通交が領国外交・交易・軍事警戒に関わった経過をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 610頁
永正十三年四月十五日、琉球国の文船が着岸し、使者の謝那大屋子が来訪したことを記す年代記の記事。
年月日未詳 / 冊子 610頁
同年、別の琉球国使船一艘が着岸し、使者が西殿へ赴いたことを記す年代記の記事。
文月十四日 / 冊子 784頁
島津勝久が肝付越前守に、宿所の手配や使者の往来への配慮を謝し、妻子への書状送付など今後の取次を依頼した書状。
(永禄十一年)九月十二日 / 冊子 202頁
島津貴久が蒲生清貞の前年以来変わらぬ境目警固を比類ないものと賞し、近頃の変事については屋形と相談して判断すると伝えた書状。当面の行動は延期するよう分別を求め、詳細は馬越からの使者が申し伝えるとしている。
(天正四年)十一月五日 / 冊子 506頁
大友宗麟が島津義久に、遠隔のため久しく無音で薩摩方面の様子を知りたいと述べ、自領の戦況は思いどおりなので安心するよう伝える。琉球へ派遣する使者の通行を支援するよう求め、織物五端を贈った書状。
(天正九年)六月七日 / 冊子 689~690頁
龍造寺隆信が伊集院忠棟へ、便宜を得たので島津義久へ申し入れる件を適切に取り次いでほしいと頼み、詳しい事情は使者の口上に含めたので返答を得たいと述べた書状。
(天正17年)8月16日 / 冊子 451頁
島津義弘が、関白の命令に基づいて琉球へ申し渡すべき条項を使者に託し、現地で回答を取り付けるよう指示した書状。 使僧の派遣と交渉手順、状況に応じた判断を命じており、豊臣政権による琉球服属要求を島津氏が仲介した過程を示す。
(文禄元年)3月14日 / 冊子 537頁
琉球国への返書について、出馬時の混乱で作成した先の文面が秀吉の意向に沿わないため、改めて書き直して遣わすよう命じた朱印状。旧朱印状を返上させ、琉球使者には路銀として銀子百枚を与えることも指示する。
文禄4年12月11日 / 冊子 926頁
小西行長は又八郎の書状に返答し、朝鮮使者を送り返したことと、春に予定される使者・軍勢の動きについて知らせる。 詳しい事情は使者から直接聞くよう求め、講和交渉後の朝鮮側との往来を調整した書状。
(慶長元年)五月朔日 / 冊子 20頁
長宗我部元親が羽柴薩摩侍従方へ、前日に使札を受け取り、龍門の途中で相手方の使者に会ったことを伝える。陣の交替衆が近辺まで渡って来たとの風聞は真偽不明とし、薩摩侍従が帰朝するなら必ず対面して意向を承りたいと述べた書状。
(慶長元年)五月晦日 / 冊子 26頁
島津義弘が又八郎(忠恒)へ、聖門から祈念の御札と巻数が届いたため、その使者に持たせて送るので、めでたく受け取るよう伝えた。祈念は怠りなく続けるとのことで、又八郎も満足するであろうと述べ、機会を見て聖門へ礼を伝えるよう求めた書状。
(慶長元年)閏七月一日 / 冊子 35頁
龍伯(島津義久)が忠恒へ、在番支援の人員を渡海させる準備をしていたが、京都から忠恒を帰朝させ渡海衆を召し留めるよう命令が来たため従うと伝える。現地事情を聞くため使者二人を派遣し、帰帆決定時の事前注進を求めた。また和泉で大松三百本を船元まで運び、作業後に上洛する予定も知らせた書状。
(慶長元年)十一月廿四日 / 冊子 54頁
島津忠恒が本田六右衛門尉・相良新右衛門尉へ、鎌田出雲守(鎌雲)の談合所への出席を控えさせつつ、支配・配当の件は内談を尽くすよう命じた。支配は奉公の実績に基づき衆人のためとなるよう行い、配当衆・使者・筆者を分別して任命し、公儀を軽んじる者が出ないよう両人から各人へ申し聞かせることを求めた書状。
(慶長元年)十二月十八日 / 冊子 60頁
小西行長が忠恒へ、書状を拝見し、走者の件は承知して使者へ引き渡したと伝えた書状。見舞いに参上できないことを詫び、勅使船が前夜に着いたため使者を出せず心苦しいが、勅使を送り返す際には必ず参上して相談すると述べる。
慶長二年七月廿八日~十一月十九日 / 冊子 153~167頁
慶長二年七月二十八日から十一月十九日までの唐島追渡・朝鮮在陣日記。固川・南原・全州・海南・羅州・淳昌・泗川新城などを往来する島津勢と諸将の動きを、日々の天候、出発・到着時刻、行程、陣替え、使者・書状・贈答、兵粮や会食とともに記す。住民の拘束、城や在郷の状況、戦闘・討死の報、明軍来襲への対応までを連日の実務記録として残す。
慶長二年十二月一日~十二月廿九日 / 冊子 167~173頁
慶長二年十二月一日から二十九日までの泗川古城を中心とする在陣日記。毎日の天候、諸将・使者の出仕と宿直、書状・礼物・兵粮の受け渡し、古城・新城間の移動、軍勢の召集や警固を記録する。月末には漢南方面から蔚山へ明の大軍が来襲したとの報を受け、諸将への援軍要請、泗川城の備え、明側との接触に関する使者派遣までを記す。
(慶長三年)二月廿三日 / 冊子 193~194頁
熊谷直盛が島津忠恒から狼煙について尋ねられ、見えた狼煙は事前に約束した山のものではなく、着船衆が見違えたのではないかと回答した書状。当初定めた山は熊谷の城からやや遠かったため、近い山に変更するよう使者と相談したと説明し、念を入れて確認してくれたことに謝意を示す。
(慶長三年)二月十六日 / 冊子 194~195頁
福島正則が島津義弘からの使札と樽一荷・一折の贈物に謝意を示した書状。見舞いに参上すべきところ東方に逗留していたため無音になったと詫び、折を見て訪問して礼を述べる意向を伝え、詳しいことは使者に申し含めたとする。
(慶長三年)三月廿二日 / 冊子 195~196頁
島津龍伯(義久)が又八郎(忠恒)へ、「典」からの使者が急に返書を得て差し返されたのには事情がありそうだとして、武庫とも相談し、諸方の動きを見聞きして用心するよう促した内密書状。忠恒自筆の書を喜び、京筆一対・大坂筆二対と墨三挺を贈る。安三との関係や未確定の知行替え、種子島左近の申分を踏まえた種子島家の在所替えについて慎重な分別を求め、末尾で、この書状を見たことが漏れないよう、散逸を避け直ちに火中へ入れるよう命じる。
慶長三年六月廿七日 / 冊子 217頁
本田正親が銀子四枚を受け取った請取状。石田治部少輔が肥前国へ下向したことに伴い、早打の使者を差し上せた際の祝物であると記す。
(慶長三年)八月七日 / 冊子 227頁
寺沢正成(広高)が島津忠恒に、豊臣秀吉は重い病にかかったが快気し、諸将の不安を解くため朱印を発したと伝えた書状。朱印を携えた使者が申刻に釜山浦へ到着したので直ちに送ること、上方からの使者を城に留めているため、請取状を整えてこの使者に渡すことを求める。
(慶長三年)八月廿八日 / 冊子 233頁
島津義久(竜伯)が島津忠恒に、判形の善悪を見分ける者へ忠恒の印判を見せたところ、良い判であると褒められたと伝えた書状。無沙汰を詫びて国元の様子を尋ね、島津義弘が初秋頃に病気になったとの知らせを心配し、すでに快気しているだろうとしつつ、使者から詳しい事情を聞いて十分に納得するよう求める。
(慶長三年)十一月三日 / 冊子 273~274頁
宮木豊盛・徳永寿昌が(慶長三年)十一月三日付で島津義弘・忠恒へ出した連署状。二日に名島へ着岸し、浅野長政・石田三成へ島津方の意向と両人が見聞した戦況を直接伝え、両奉行から書付を得たと報告する。島津父子の働きには褒賞があるとの見込みを示し、帰朝は間近と伝え、詳細は使者に言い含めたとする。
年月日未詳 / 冊子 626頁
戦闘前に大谷吉継の陣が筑前中納言小早川秀秋に攻め破られた。同じ頃、島津陣の近くを二騎の馬武者が通過し、敵かとして討とうとしたところ、先へ行けば敵味方が分かると答えて通り過ぎた。後に大谷陣攻略を東軍へ知らせる使者だったのだろうと推測する。
(慶長六年)四月十三日 / 冊子 759頁
島津忠恒(家久)が龍伯に、上方使者との重要な談合のため鹿児島へ来るよう求める。使者には龍伯到着まで待つよう伝えており、今回の協議は一大事の決着に関わるため、早急な来訪を重ねて要請した。
(慶長十一年)九月廿九日 / 冊子 90~91頁
島津家久が、江戸城で饗応を受け、名物の太刀「たい長光」と東国無双の早馬などを拝領したことを報じた書状。暇を得て美濃国落合へ進み、伊勢参宮後に帰国する旅程と、安南国使者船の来着に関する用向も述べる。
年月日未詳 / 冊子 129頁
慶長十二年八月二十六日、朝鮮使者が伏見の営中へ参上し、島津家久も同日の朝に営中へ出仕したことを記す系譜記事。
(慶長十六年)六月六日 / 冊子 337頁
慶長十六年六月六日、山口直友が島津家久に、四月十八日付書状が琉球船で六月四日に山川へ着岸したことを受け、使者・披露・帰国に関する指示を伝えた書状。
(慶長十六年)六月九日 / 冊子 338~339頁
慶長十六年六月、島津家久が琉球国司らに、江州へ渡海する使者を遣わすこと、王の帰国後の琉球統治、日本との関係、使者・僧侶への便宜と忠勤を求めた書状。
(慶長十六年)十月廿五日 / 冊子 353頁
慶長十六年十月二十五日、島津家久が本多正純へ、来訪使者の取次と礼遇を求め、銀子三百枚・虎皮五枚・緋綾子十端を進上する旨を伝えた書状。
(慶長十八年)四月十四日 / 冊子 395頁
慶長十八年四月十四日、島津義弘が宗善らへ、先の見廻りと礼に謝し、江戸から使者が到来して重要な用件があるため、引き続き配慮を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 562~564頁
島津家久の留守中に記録された日々の日記。上洛船・使者の出入り、港や街道の警固、各地からの書状、物資・銀子の受け渡し、悪天候による船の遅延など、大坂出陣期の国元実務を日付順に記す。
年月日未詳 / 冊子 801頁
島津家久が例年どおり使者を立て、徳川秀忠・家光の両公へ時服を献じて歳暮を祝ったため、両公から御内書を賜ったことを記す。秀忠の御内書だけが現存し、家光の御内書と使者の姓名は伝わらないとする雑抄。
(寛永二年)四月廿七日 / 冊子 827頁
島津家久が種子島武蔵守久時へ、遠国の江戸まで見舞いの使者を遣わされたことを喜び、江戸は平穏なので安心するよう伝えた。音信として銀子五枚を贈られた礼を述べ、詳しくは使者の口上に含めたとする書状。
(寛永二年)八月廿日 / 冊子 829頁
島津家久が中山王へ、琉球の情勢を尋ねるため使者を派遣し、日本人の出入りに関する当面の取扱いを心得るよう申し聞かせた書状。唐で調達する品物は目録で示したので、使者の口上を聞いてよく相談し、手配するよう求めた。
(寛永四年)九月十九日 / 冊子 43~44頁
島津家久が中山王からの年賀状と、練蕉布五十疋・太平布百端・春醴五壺などの贈物に礼を述べる。返礼の品々を別紙に記して使者へ託したことを伝える。
年月日未詳 / 冊子 76頁
島津家久が歳暮を祝うため、姓名不詳の使者を通じて時服十襲を徳川家光へ献上し、これに対する御内書を賜ったことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 79頁
島津家久が寛永六年正月、姓名不詳の使者を通じて太刀一腰と馬代黄金十両を徳川家光へ献上し、年始を祝ったこと、これに対する御内書を賜ったことを記す譜記事。
五月廿二日 / 冊子 214頁
母が無事であることを喜び、使者も健康で気遣いの行き届いた者だったと述べる。国元では疱瘡が流行しているため薬を怠らないよう勧め、まもなく帰国して詳しく話すと伝えた家久の返書。
(寛永八年)九月 / 冊子 235頁
七月初めに江戸から帰国して休息していたため無音が続いたことを詫び、使者を派遣する。琉球が平穏で、薩摩・上方・江戸にも異変がないと知らせ、宇治茶一壺、茶入一箱、茶碗一箱、重箱三組を贈った島津家久の中山王宛書状。
(寛永八年)九月 / 冊子 236頁
前年正月十四日付の中山王の書状二通を国元で披見し、当年の祝儀使者と三種の贈物、前年の家久の江戸勤仕が無事に終わったことへの祝意と贈品に謝意を述べる。返礼の品物を別紙に記し、詳しくは使者の口上に託した島津家久の書状。
年月日未詳 / 冊子 239頁
徳川秀忠の不例を見舞うため、島津家久が使者と品物を献上し、徳川家光にも使者と複数の品を贈った。これに対して秀忠・家光の両人から御内書が下されたことを記す家久譜の記事。
(寛永九年)二月五日 / 冊子 258頁
土井利勝が島津家久の書状を拝見し、大御所徳川秀忠から鷹の鶴を贈られた礼として再度使者を立て、諸白二荷・鰹節を進上した趣旨を披露したこと、使者が御前に召され御内書を受けたことを報告した書状。
年月日未詳 / 冊子 379頁
島津家久譜の記事。中山王への返書として、国頭使者が年例の進物と冠船の知らせを携えて薩摩へ来たことを喜び、大船の用立てを求めたこと、家久は江戸で暇を得ていないため国頭を先に帰帆させたことを記す。
(寛永十年)八月廿六日 / 冊子 379頁
島津家久が中山王へ、国頭使者の来訪と祝詞・進物に謝意を示し、自身は江戸で帰国の暇を得ていないため使者を先に帰すこと、唐から到着した大船を用務に使うことなどを伝えた書状。
九月十三日 / 冊子 33頁
近衛信尹が、七月十七日に着岸した後の様子はいずれ詳しく伝えるが、使者が多忙であるため、ひとまず簡略な一書を送ると知らせた書状。