島津光久書状
三月廿五日 / 冊子 450頁
翌二十六日に皆を招く予定なので、体調が回復していれば朝六時ごろから来訪してほしいと案内した島津光久書状。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
57 件 (全巻)/ 1–50件を表示
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三月廿五日 / 冊子 450頁
翌二十六日に皆を招く予定なので、体調が回復していれば朝六時ごろから来訪してほしいと案内した島津光久書状。
明徳五年四月九日 / 冊子 153~154頁
伊予守が楠橋対馬守・設楽駿河守に、薩摩国山門院内の田地などを市来崎弾正忠へ付すよう命じた宛行状。
年月日未詳 / 冊子 739頁
石田三成が朝鮮から帰朝する際、安楽伊予守と郷田源左衛門尉に十艘の船団運用を任せたことを島津義弘の譜に記す。 朝鮮在陣からの帰還に際し、船舶と将兵の輸送を誰が統率したかを示す記事。
年月日未詳 / 冊子 355頁
島津義久は歳久への追悼を続け、慶長四年三月三日、福崎伊予守兵道行者を地割の担当、宮原左近法師秋扇を奉行として一寺を建立し、瀧水山稱心岳寺と号した。抱巖孫大和尚を開山としたことを記す。
元禄元年十一月廿五日 / 冊子 828頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2184
綱貴が藤堂伊予守方へ、去月十六日に伊予守邸へ家来を召し寄せ、捨子禁制を書付で伝えられた趣旨を承知したと述べる。その件で土屋相模守へ書状を送る旨を伝える。
元禄二年四月三日 / 冊子 835頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2200
島津綱貴が高木伊勢守・藤堂伊予守の家臣へ、江戸および関東筋の川舟に付す極印を改める旨の書付を受け、その内容を承知したと回答した書状。
明和元年 十二月十四日(年は朱注) / 冊子 41頁/原整理番号 136/整理ID 136
徳川刑部卿の逝去に際し、公方様の上意によって妻へ奉文を下されたことをありがたく受け、松平薩摩守が、表向きに自身の御礼をどのように勤めればよいか指図を求めた伺書。十二月十四日付、松平薩摩守の名を記す。年記は朱注明和元年。御付紙の朱注は、この件を月番老中阿部伊予守へ伺うよう示す。妻の実名、刑部卿の実名、御礼の具体的処置は本文では明記しない。出典注は重豪公御譜中・扣正文在江戸家老座。
天明六年十月四日 / 冊子 883頁/原整理番号 2449/整理ID 2449
重豪は、新葬法事への参詣を命じられたことを受け、松平伊予守が先例によって日取りを届け出たのと同日に参詣したい旨を届ける。付札には、そのとおりでよいとの回答が記される。
元和6年(1620)5月13日 / 冊子 381頁/原整理番号 188-24
元和六年五月十三日、川上伊予守が喜入大炊助・蒲地四郎左衛門へ示した名寄目録。上小河院内で与三右衛門に関わる川添一反六畝内・下田一反一畝七分を掲げ、籾合計七俵二斗二升六合二勺、高にして二石六斗三升五合と算定する。編者注は、この文書を含む十八通の写しが蒲地四郎左衛門家にあると記す。
年月日未詳 / 冊子 908~909頁
家久譜は秀次が聚楽で陰謀を企てたとの嫌疑から、高野山へ追われ自害し、妻子・侍女らも処刑された事件を記す。 岡田勝五郎が上使として事件の次第を詳しく語り、聞く者が涙したという叙述を含み、島津家に伝わった秀次事件像を示す。
(慶長三年)正月廿六日 / 冊子 190~192頁
宇喜多秀家以下十三名が、蔚山での明・朝鮮勢の攻撃を踏まえ、朝鮮在陣諸城の配置と普請方針を再検討して奉行衆へ言上した連署状。蔚山は突出し川越えの難所もあるため、西生浦に加藤主計頭を置き、安芸宰相勢五千を残して普請させる案を示す。順天は大河と遠い干潟のため海陸から救援しにくいとして、小西勢を島津の泗川城へ、島津勢を固城へ移す案を提示するが、小西摂津守・対馬守は同意しなかった。順天・蔚山の普請は下知まで見合わせ、梁山を加徳へ替えて安芸宰相に普請、黒田甲斐守に在番させ、毛利壱岐守を固城在番とし、城主の半役を普請に充てるよう提案する。
(慶長三年)正月廿六日 / 冊子 192頁
本文はNo.367と同文であるため本冊では省略されている。No.367は、蔚山戦後の城配置を見直し、西生浦への加藤勢配置、小西勢の泗川移動と島津勢の固城移動、梁山から加徳への城所変更、黒田甲斐守・毛利壱岐守の在番、城主半役による普請などを提案した十三名連署言上状。旧写と文意に少し異同があるため、改めて写して参照に供したとの注記がある。
年月日未詳 / 冊子 776頁
島津久元が弓術を本郷義則・東郷重尚、犬追物を川上久慶、馬術を島津義弘と荒木元満に学び、免状・馬書・手綱秘奥・印可を受けたことを記す。さらに鷹術を義弘に、茶を景活火から老湯の法まで学び、武芸と茶道に通じた経歴を述べる系譜記事。
明徳5年4月9日 / 冊子 659頁/原整理番号 137
明徳五年四月九日、伊与守が楠橋対馬守・設楽駿河守に、薩摩国山門院針原内の高柳一町三反・桃木田五反と、市来崎内の薗一か所などを沙弥市来崎弾正忠に付するよう命じた書下。二名は文書の宛所で、市来崎弾正忠が土地を付与される対象者である。伊与守が花押を据える。既存概要の合戦出陣・軍忠の命令は本文にない。
天明六年十月十二日 / 冊子 898~899頁/原整理番号 2469の24/整理ID 2469-24
松平薩摩守(島津重豪)・松平越前守(重富)・松平伊予守(治好)に、翌十三日から月代を剃ってよい旨を伝えさせる。大目付が水野出羽守の書付写一通を松平薩摩守留守居へ送り、回答等は岩本内膳正へ伝えるよう付記する。
元禄元年十一月廿五日 / 冊子 828頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2183
島津綱貴が土屋政直の家臣へ、藤堂伊予守邸で示された捨子禁制の書付を承知し、自領内で厳重に申し付けると回答した書状。
明和元年 閏十二月廿七日(年は朱注) / 冊子 45頁/原整理番号 146/整理ID 146
家治公の黒印を伴う御内書。歳暮の祝儀として小袖一重が届いたことを喜び、詳しいことは阿部伊予守が述べると伝える。閏十二月廿七日付、薩摩中将宛。年記は朱注明和元年。出典注は全上・正文在文庫。
明和二年四月十一日 / 冊子 81頁/原整理番号 181の53/整理ID 181-53
佐久間新左衛門が四月十一日、日光山法会の中日における在府側の機嫌伺いについて、照会結果を左中へ報告する。先に年番から、在府の各家は機嫌伺いをしてよいという相談の廻状が来ていた。今朝、御用番阿部伊予守方で確認したところ、この法会については御三家からも機嫌伺いをしていないため、在府側も機嫌伺いをする必要はないとする。その趣旨を御用人牛丸久左衛門を通じて使者一統へ聞き取らせるよう命じられたことを申し上げる。先の年番による勧奨と、御用番側への照会後の不要という扱いを分けて記録する。
明和二年四月十三日 / 冊子 82~83頁/原整理番号 181の60/整理ID 181-60
四月十三日付の大目付廻状。日光山御法会に伴う紅葉山御宮での法会日割を、十五日卯上刻、十六日午上刻、十七日寅上刻と示す。阿部伊予守から渡された書付の写し一通を送るので、順廻の最後の受取人から大井伊勢守方へ返すよう指示する。宛先は御名の家と有馬中務大輔、真田伊豆守、秋月山城守、毛利能登守、堀田梅之丞、松平陸奥守、伊達遠江守、鍋島摂津守、大田原出雲守、織田丹後守の留守居。朱書には、今朝大井伊勢守から借り受けたため、本書を有馬中務大輔方へ順達し、写しを差し上げたと記す。法会の時刻通知、写しの送付・返却指示と、朱書による受領・本書順達・写上の記録を分けて示す。
天明六年九月十三日~十五日 / 冊子 877頁/原整理番号 2429/整理ID 2429
重豪は、喪中に御三家や松平加賀守が登城して家斉の機嫌を伺う際、越前守の先例と在府中の伊予守の扱いを踏まえ、自身も同席相当の由緒をもって登城し機嫌を伺いたいと申請する。九月十三日に提出し、十五日に許可の付紙を受けた。
天明六年九月十六日 / 冊子 878–879頁/原整理番号 2431/整理ID 2431
二階堂行旦・関山金輝は、大納言家斉が登城者に謁し、老中から今後は家斉を『上様』と称して一層精勤するよう命じられた経過を報じる。欠席した同席大名へも通達するよう命があり、松平伊予守と連名で松平加賀守へ伝達したことを記し、国元でも同様に申し渡すよう求める。
天明七年十二月十四日(年は朱書) / 冊子 1004・1005頁/原整理番号 2704/整理ID 2704
先月十五日の月次御礼は前日に大目付へ書面で命じられ、当日太守が登城して御礼を済ませた後、目付から桜の間で松平伊予守とともに呼ばれ、老中が出席し、御用番に代わって水野出羽守から御縁女の件を伝えられたと報告する。近衛家の養女を命じられ、結納は来春、婚礼は来々年の酉年中とすること、御縁女を姫君様と称することが通知された。太守は喜んで退座し、後に老中・若年寄・留守居・側衆へ表方の使者で祝意を伝えた。京都所司代・大坂城代には御書を送り、中将からも御用番に留守居を遣わして祝儀を伝えた。また同じ内証・確認の上、両殿からの文言をもって姫君に祝意を伝えること、将軍の書状に種姫への祝意が書き入れられたこと、関係者が出仕して大奥ほかへも伝えたため当面改めて祝い知らせる必要はないことを報じる。これらを承知して女中へも伝え、通達等を適切に取り計らうよう求める。水野出羽守が通知した趣旨を留守居が書き取って提出したため、見合として別紙を送るという。
文化10年(出生正文・実出生注、文政・天保の経歴婚姻を併記) / 冊子 425頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1322
近秘野抄・斉興公御子。斉敏は初名久寧(ヤス)、小字治五郎、文之助と称し又伊予守に改む。出生正文は文化10年癸酉11月16日芝邸、実注は文化8年辛未4月8日、母同上とあり両日を並記する。次段に称治五郎の付記。文政9年丙戌4月文之助へ改名、10月2日松平上総介斉政(池田注)が自女を妻とする嗣子の養子願を出し公許(許可日の別記なし)、23日ともに大家へ謁し25日松平氏を称する命、12月4日大名小路邸へ入る。文政10年丁亥4月従四位侍従、12年己丑2月備前岡山31万5200石を襲封。女子順姫は本多隼人正康融夫人、康融は初千之助・文政6年隼人正へ改むとの注、膳所6万石の注。順姫は文化10年癸酉10月12日芝邸生、母同上・実関根氏女注。文化12年乙亥8月、本多千之助へ嫁すことの許を稟ける。康融は下総守康禎嫡子、母は溪山公女と記す。天保3年壬辰4月21日南八町堀邸へ入ることと、天保7年丙申2月25日の婚姻を別に採録する。母同上の上の参照先は留保し、斉敏の正文生辰と実注、順姫の婚約許可・入邸・婚姻を統合しない。1310の卒日法名は本件へ移さない。
〔明徳3年〕 / 冊子 253~254頁/原整理番号 92
島津上総介・同又三郎の対治について沙汰してはならないこと、大隅・薩摩両国の地頭御家人らを召し出して忠節を促し、向背する者の名字と知行を書き上げて注進すること、当該一族の今度の馳参後の忠否を注進に基づいて用捨することを定めた三箇条の条書。伊地知季安は入来院氏文書の案文を引き、島津上総介・又三郎が凶徒とされ、探題方の御教書に従って守護人への同心を止めたのち、前年の八代退治以後に両島津が味方へ参じたとの記述と、同案文の明徳三年の年記から、本条書も明徳三年に探題今川伊予守貞世入道了俊が発給したものと考証する。
元禄十三年十一月二十九日 / 冊子 250頁/整理ID 846
島津綱貴が高木伊勢守・藤堂伊予守へ、薩摩・大隅・日向の私領で猪・鹿・狼が増え田畑を荒らし、落し鉄砲でも被害が止まらないため、大久保加賀守へ申し出たうえで鉄砲による駆除を願った口上書。使用する鉄砲の挺数を書き付け、証文をもって報告するとする。
元禄十七年二月四日 / 冊子 461頁/整理ID 1589
島津綱貴が松平伊予守へ、前年冬の江戸火災で桜田屋敷が類焼し、さらに激しい地震にも遭った際、伊予守が桜田屋敷へ二度使者を送ったことに謝意を述べた書状。
(万治三年)七月廿日 / 冊子 424頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0883
内藤忠興が松平大隅守へ、六月十八日夜、江戸城青屋口塩硝蔵に落雷し、矢倉・多門・加番衆小屋が大破し、土岐山城守・岩城伊予守にも被害があって、家来に死者・負傷者が多く出たと報告する。松平若狭守・青山大膳亮・永井日向守の三人が修復を命じられ、早速普請に着手したとし、破損箇所の見分は松平伊豆守に仰せ付けられた旨の奉書が下ったと伝える。江戸発足日はまだ不明で、自邸も破損したが無事に勤番していると知らせる。
宝暦十四年 五月二日(年は朱注) / 冊子 20頁/原整理番号 72/整理ID 72
阿部伊予守正右が松平薩摩守に宛て、端午の御祝儀として使者を通じて献上された帷子・単物を披露し、たいへんよい仕合わせであったと伝える。五月二日付で、宝暦十四年の年記は朱注による。
明和元年 六月廿五日(年は朱注) / 冊子 24頁/原整理番号 86/整理ID 86
阿部伊予守正右が松平薩摩守に宛て、今朝献上された琉球布一箱、砂糖漬天門冬一器、赤貝塩辛一器、琉球泡盛酒二壺を披露し、たいへんよい仕合わせであったと伝える。六月廿五日付で、明和元年の年記は朱注による。献上先の実名は本文にない。
明和元年 七月六日(年は朱注) / 冊子 25頁/原整理番号 91/整理ID 91
阿部伊予守正右が松平薩摩守に宛て、生見玉の御祝儀として献上された黄金十両を披露し、たいへんよい仕合わせであったと伝える。七月六日付で、明和元年の年記は朱注による。献上先の実名は本文にない。
明和元年 七月十一日(年は朱注) / 冊子 25~26頁/原整理番号 93/整理ID 93
阿部伊予守正右が松平薩摩守に宛て、献上された御馬一匹を披露し、たいへんよい仕合わせであったと伝える。七月十一日付で、明和元年の年記は朱注による。献上先の実名は本文にない。日付・署名・宛名は次頁に続く。
明和元年 八月四日(年は朱注) / 冊子 26頁/原整理番号 97/整理ID 97
阿部伊予守正右が松平薩摩守に宛て、八朔の御祝儀として使者を通じて献上された御太刀一腰と御馬代黄金十両を披露し、たいへんよい仕合わせであったと伝える。八月四日付で、明和元年の年記は朱注による。献上先の実名は本文にない。
明和元年 十一月四日(年は朱注) / 冊子 29頁/原整理番号 108/整理ID 108
阿部伊予守正右が松平薩摩守に宛て、若君様の髪置の御祝儀として使者を通じて目録の通り献上された品を披露し、たいへんよい仕合わせであったと伝える。十一月四日付で、明和元年の年記は朱注。具体的な献上品名は本文に記さない。冒頭は全上で前通の出典を受ける。
明和元年 十一月廿日(年は朱注) / 冊子 33頁/原整理番号 119/整理ID 119
阿部伊予守・松平周防守・松平右京大夫・松平右近将監が連署し、松平薩摩守に宛て、翌廿一日四時に中山王の使者を召し連れて登城するよう命じる。追って直垂を着用し、本丸の用事が済んだら西丸にも使者を召し連れて参上するよう指示する。十一月廿日付、年記は朱注明和元年。正文の署名は官称のみ。目録は松平武元外三名の幕府老中連署状とする。出典注は重豪公御譜中・正文在文庫。
明和元年 十一月廿四日(年は朱注) / 冊子 33~34頁/原整理番号 122/整理ID 122
阿部伊予守・松平周防守・松平右京大夫・松平右近将監が連署し、松平薩摩守に宛て、翌廿五日に琉球人の音楽が仰せ付けられ、御暇も下されるので、四時に召し連れて登城するよう命じる。なお、直垂を着用し、本丸での用事が済んだら西丸にも召し連れて参上するよう指示する。十一月廿四日付、年記は朱注明和元年。出典注は全上・正文在文庫。本文は冊子三十三~三十四頁に続く。
明和元年 十一月廿七日(年は朱注) / 冊子 34~35頁/原整理番号 124/整理ID 124
阿部伊予守・松平周防守・松平右京大夫・松平右近将監が連署し、松平薩摩守に宛て、官位昇進の御礼を申し上げるため、翌廿八日五半時に登城するよう命じる。十一月廿七日付、年記は朱注明和元年。出典注は全上・正文在文庫。本文から日付・署名・宛名は次頁に続く。
明和元年 閏十二月六日(年は朱注) / 冊子 42頁/原整理番号 141/整理ID 141
阿部伊予守正右が松平薩摩守に宛て、今朝献上された蜜柑二箱・灸鮎一箱を披露し、よい御仕合であったことを知らせる。閏十二月六日付、正右判。年記は朱注明和元年。出典注は全上。披露先の名はこの書状自体には記さない。
明和元年 閏十二月廿七日(年は朱注) / 冊子 46頁/原整理番号 147/整理ID 147
阿部伊予守正右が松平薩摩守に宛て、歳暮祝儀として使者を通じて献上された小袖一重を披露し、よい御仕合であったことを知らせる。閏十二月廿七日付、正右判。年記は朱注明和元年。出典注は全上。
明和元年 閏十二月廿八日(年は朱注) / 冊子 46頁/原整理番号 148/整理ID 148
阿部伊予守正右が松平薩摩守に宛て、使者を通じて若君様へ献上された御破魔弓一飾を、首尾よく披露したことを知らせる。閏十二月廿八日付、正右判。年記は朱注明和元年。出典注は全上。若君の実名はこの書状では記さない。
明和二年 正月七日(年は朱注) / 冊子 48頁/原整理番号 153/整理ID 153
阿部伊予守正右が松平薩摩守に宛て、若菜の祝儀として献上された鯛一折を披露し、よい御仕合であったことを知らせる。正月七日付、正右判。年記は朱注明和二年。宛所の在口裏朱注がある。出典注は全上。
年月日未詳 / 冊子 53頁/原整理番号 167/整理ID 167
先に若君が江府で誕生したので重豪が祝い、老中を芝邸へ招いた記事。三月四日、松平右京大夫輝高・阿部伊予守正右、若年寄鳥居伊賀守、奏者番土井大炊頭利里・牧野遠江守康満および数名の諸役人が芝邸へ来て、先例どおり饗応した。晩に各人が退去すると、重豪は輝高・正右の宅を訪ねて礼を述べた。鳥居の本文名は忠孝、人物注は忠喜。目録は記事で年月日欄なし。出典注は全御譜中。
明和二年 四月十四日(年は朱注) / 冊子 55頁/原整理番号 176/整理ID 176
阿部伊予守正右・松平周防守康福・松平右京大夫輝高の三名連署で松平薩摩守に宛て、明日五半時に登城し、暇への礼を申し上げるよう指示する。四月十四日付、年は朱注明和二年。差出三名の実名注がある。出典注は正文在文庫。
明和二年三月(日未詳) / 冊子 76頁/原整理番号 181の39/整理ID 181-39
日光山の法事が済んだ祝儀として、来月十八日に熨斗目を着て本丸・西丸へ惣出仕することを、大目付へ伝える三月付の触書。隠居、病気、幼少の者は、老中伊予守・板倉佐渡守・若年寄へ使者を出して祝意を申し上げる。在国・在邑の者は法事が済んだことを承知した後、使札で祝儀を申し上げ、隠居で在邑の者も同様とする。出仕できる者と欠席者・在国在邑者の祝儀の伝え方を区別して命じる。
天明六年十月二十九日 / 冊子 882~883頁/原整理番号 2447/整理ID 2447
二階堂行旦は、牧野越中守から新葬法事中の参詣を命じられたため、松平伊予守の先例に合わせ、重豪も同日に参詣したい旨を留守居から届け出たと国元家老へ報告する。六日に留守居が呼び出され、付札によって許可が伝えられたので、翌七日の御三家参詣の際に直垂で参詣した。先例のない事柄であるため、別紙二通を添えて経過を知らせる。
二月廿三日~廿五日の回覧書込(年は目録一件から天保九年とみられる) / 冊子 14~15頁/原整理番号 22の3/整理ID 22-3
大広間諸大名の交名と、武家諸法度の写しが届いた家・次に順達した家を記す一覧。「次第不同」とし、松平越前守・大膳大夫・三河守・因幡守などを掲げ、松平大隅守(島津斉興)に続いて松平陸奥守・阿波守・大和守・右近将監・上総介らの順達先を列記する。書込によれば、有馬玄蕃頭から二月二十五日に松平越前守へ、松平大膳大夫から二十四日に松平大和守へ、上杉伊予守から二十三日昼に上杉弾正大弼へなど、複数の経路で送られた。回覧の個々の到着日と送り先を追える史料であり、単独の差出人・宛先を持つ書状ではない。
年月日未詳 / 冊子 29~30頁/原整理番号 111/整理ID 111
同月十三日、重豪が登城して白書院に赴くと、松平輝高・松平武元・松平康福・阿部正右が縁に連座し、輝高が台命を伝えた。琉球使節の来朝が将軍の意にかない、先例に従って従四位上・左近衛中将に叙任するとの旨で、重豪はこれを拝受した。続いて西城で奏者仙石越前守政辰に取り次ぎを受けて拝礼し、老中宅へ謝意を述べに赴いた。同日、琉使参府のため上使池田筑後守政倫を通じて二千苞の賜物があり、再び老中宅へ礼を述べた。賜物の品名字形は留保する。出典は御譜中。目録は記事で年月日欄を空欄とする。
年月日未詳 / 冊子 33頁/原整理番号 121/整理ID 121
同月廿一日、重豪が琉使を率いて登営し、先に殿上間へ赴き、将軍家治が御座する大広間へ使者を伴って入見した。加納遠江守久堅が中山王尚穆の太刀目録を取り、別幅腰帯・馬具、龍髄香・香餅、太平布、龍織芭蕉布、鳥織芭蕉布、羅紗、青貝、堆錦硯屏、青貝箱飯・香盒、泡盛酒等を含む進物を述べ、使者が中壇で奏して三拝した。再度中山王の別幅・巻物の目録を披露し、川田伊織国福も太刀・馬代・巻物を献じた。重豪も私の献物を披露し、使者とともに御台所への拝礼を経て西営へ赴いた。老中阿部正右・松平輝高の出席、奏者仙石正倫の取次ぎにより、西営にも尚穆の太刀目録、腰帯・馬具、香類・織物・漆器・泡盛酒等を献じ、国福も太刀・馬代を献じた。最後に老中宅へ礼を述べた。本文には将軍側・西営側それぞれの贈品の品名・数量の細注がある。目録は記事で年月日欄を空欄とする。出典は全御譜中。
年月日未詳 / 冊子 34頁/原整理番号 123/整理ID 123
同月廿五日、重豪が琉使と楽師を率いて再び登営した。琉使は殿上間を経て大広間に入り、楽師は御向板縁で待機し、松平肥後守・忠恭・頼真らや板倉勝清・鳥居忠孝が列座した。将軍家治が上壇で御簾を上げ、琉使以下が平伏すると、楽師が演奏した。演奏後、琉人は殿上間へ退き、将軍入御後に大広間で池田政倫・稲垣正武の引導を受けて三之間へ座し、老中が西面して饗応した。輝高が遠来の労をねぎらう台命を伝え、中山王尚穆へ白金五百枚・錦子五百把を返贈し、使者も恩旨を拝受した。帝鑑間で吸羹・酒菓を賜った後、同行の治澤が速やかに退いたことも記す。西城でも同様の接待を受け、正右・輝高、若年寄忠孝・忠休らが列座し、尚穆へ白金三百枚・時服二十、従者・楽師にも賜物を分けた。両御所での琉使への賜物には太樹賜銀二百枚・時服十、若君賜錦子百把の注がある。最後に老中宅へ礼を述べた。目録は記事、出典は全御譜中。
年月日未詳 / 冊子 47~48頁/原整理番号 151/整理ID 151
明和二年乙酉・三年丙戌の公辺行動記録。二年正月二日に大家へ朝賀し、廿一日に鶴を賜る。二月四日に琉使が薩府へ着き、十九日に島津大蔵久通の改称、廿五日に山城久定の家老辞職を記す。三月四日、輝高・正右・若年寄らを芝邸に招き、貴樹君誕生を祝う。六日に宗衍ら十八名、九日に重定ら二十二名、四月五日に忠恭らを再び招き、十三日には大家が康福を遣わして物を贈り、芝邸で散楽を行う。十五日に朝謁・拝恩、廿一日に帰国を賜り、護摩所不動へ首途の参詣、廿五日に浄岸君・真含君を招いて散楽・宴を催す。五月四日芝邸発、十九日伏見着、廿日京・宇治を微行、廿一日大坂着、廿四日大坂発、六月廿二日府城着。七月朔日に山下・西田・築地三館を訪ね垂水邸に還り、三日に大雄・玉龍・松峯へ参詣、五日に築地で三公子を伴い宴、十五日に松峯・玉龍へ先廟を謁し、十九日花火見物。廿一日仲久健を家老、久卜を大御目附、金陣・行旦を側御用人に任ずる。八月十九日の国老免職・廩米百苞終身給付、九月六日の政府職免職・以後の朝班国老待遇、廿九日の河野通古の若年寄任命、十月九日の久起の大御目附就任・外記への改称を記す。十一月廿六日市来で放鷹、廿七日湊で羽島の唐船を見物して市来へ還り、廿八日伊集院に宿す。廿九日鹿児島横井に館を造り、尾畔に入り還府。十二月三日に諏訪・祇園へ首途参詣、四日散楽、四日は卯刻から翌卯刻まで能二十番・狂言十番、廿五日に荒平で狩りを行う。三年正月廿三日府城発、大口路を経て翌日金山見物、廿六日佐敷着、二月廿二日兵庫から微行して布引滝・摩耶山を訪ね、廿三日大坂着、廿四日市人らと会う。廿五日竹田近江に書院でからくりを行わせ、従士にも見物を許し、廿六日芝居、廿八日伏見着、廿九日京都微行、三月朔日桃園・万福寺を見物、二日発、十九日芝邸着。目録は記事。
天正15年(1587)ほか / 冊子 420~421頁/原整理番号 8
秩父氏二十四代又太郎重豊の四男・淡路守入道心岳を祖とし、出羽守・淡路守重宗以下へ分かれる伊地知氏庶流の系図。重政は門川地頭として島津義久に仕え、天正十五年に豊後で戦死し、重張は朝鮮で戦死したと記すほか、種子島氏からの養子が義久・義弘・家久の三代に仕えたこと、各支流の官途・婚姻・養子・戦死を載せる。後半は手串良・牛根・栗野・曽木・飯野・倉岡・国分などへの移住、根城攻めでの戦功と前田給付、前田家との由緒から前田または伊地知を称した重悦・重通の系統、重氏・重行・元重・重慶・季定らの系線を示す。