斯波氏経軍勢催促状
康安元年十月十六日 / 冊子 23頁
斯波氏経が島津二郎右衛門尉に、菊池武光以下の凶徒を退治するため、一族とともに肥後国球磨郡から菊池陣へ発向し、忠節を尽くすよう命じた軍勢催促状。
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康安元年十月十六日 / 冊子 23頁
斯波氏経が島津二郎右衛門尉に、菊池武光以下の凶徒を退治するため、一族とともに肥後国球磨郡から菊池陣へ発向し、忠節を尽くすよう命じた軍勢催促状。
建徳三年八月廿八日 / 冊子 63~64頁
禅恵(友重)が二郎四郎へ、薩摩国鹿児島郡内竹村の『へくハのかと』の田地を譲り、他の妨げなく永代を限って知行するよう定めた仮名書きの譲状。
十月廿八日 / 冊子 254頁
島津久豊が田代宗二郎に、時節や今後の対応は大寺方と相談して改めて知らせると述べ、二度にわたり詳しい意向を伝えられたことへの謝意と、諸方の事情を今後も細かく知らせるよう求めた書状。
応永卅四年十月廿九日 / 冊子 341頁
比志島了幸が嫡子二郎四郎義清へ、志嶋・西俣・河田・城前田・上原薗など五か所の所領を譲り渡し、他者の異議を禁じた譲状。
文明八年四月七日 / 冊子 486頁
沙弥崇音が大隅国祢寝院佐多村内の田地・薗を二郎左衛門清康へ譲り、子孫へ相伝して他人の妨げを受けないよう定めた譲状。
明応四年十一月廿五日 / 冊子 569頁
島津家老臣の義阿・重貞・兼親が、伊集院清藤名内の田地坪付を萩野又二郎へ連署して示した文書。
天文三年三月日 / 冊子 723頁
南樵雪が藤氏鳴津三郎二郎に実名「久義」を与えた名字書出。
「天文十六年」九月九日 / 冊子 842頁
近衛稙家が本田又二郎に、折札と香炉・丁香の贈物への謝意を伝え、今後も連絡を求めた書状。
(慶長十八年)八月廿二日 / 冊子 409頁
慶長十八年八月二十二日、島津義弘が三原二郎左衛門へ、蒲刈からの便りと船路の進行、江戸へ近づいた一行の安否を喜び、自身の無事を伝えた仮名書状。
正月廿四日 / 冊子 38頁
進藤久治が、前夜の厚いもてなしに対して蒲地二郎四郎へ礼を述べた書状。ひどく酔って直接礼に参上できないことを詫び、無沙汰を避けるため祝儀として五明二本を贈り、後日あらためて礼を述べると伝える。
七月十二日 / 冊子 61頁
川上忠豊が河上二郎左衛門尉に、当年の諏方神事で川上名字に回ってきた社役について通知した書状。十九、二十日頃に父子二人で参上し、名字中で相談済みの序列・役の上下に従って勤めるよう求める。
七月十七日 / 冊子 61頁
川上忠豊が河上二郎左衛門尉に、川上名字の社役へ必ず出席するよう重ねて求めた書状。尉畋老や紀州老とも連絡しており、二十、二十一日頃に到着するよう勧め、贈られた木綿一反への礼も述べる。
明応四年十一月廿五日 / 冊子 569頁
入来院氏臣田中氏所蔵の、No.1743と同文のため本文を省略した島津家老臣連署坪付。独立番号の別伝本として収録される。
七月五日 / 冊子 307頁
島津忠昌が、村田肥前守が多年自分たちに緩怠であったことを述べ、肝付氏に境目のことを頼み入れ、美作守も同意向であるとして、委細は使者から聞くよう求めた書状。本文の宛所は肝付三郎左衛門尉、上包は肝付二郎左衛門尉と記す。
年月日未詳 / 冊子 107頁
『殉国名薮』として、永和三年三月朔日の合戦で北郷彌二郎基忠が今川了俊方に属して戦死したことと、その軍歴・名乗りに関する注記を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 282~283頁
応永二十年十二月七日の戦闘で佐多三郎九郎忠豊らが戦死したこと、北原彦次郎太郎・天辰式部二郎・遠矢某らの戦死や、小野村での戦闘に関する諸伝を記す殉死者記事。
永享二年八月廿四日 / 冊子 348頁
さはにしが、兵衛九郎の作地と堀二郎右衛門の作地に関わる山野を六貫文で本物返しに入れ、三年を年期として元金返済時の請戻しを定めた仮名書き証文。
嘉吉二年十月廿六日 / 冊子 406頁
やなせ好為が、谷山郡の『わたのひこ二郎』屋敷内にある伊佐智佐権現の土地について、違乱が生じた時はこの証状を証文として差し出すよう定めた証状。
長禄四年三月廿三日 / 冊子 437頁
沙弥浄仁が五郎二郎に、薩摩国宮里郷下二郎丸名内の田畠・屋敷などを永代譲渡し、所領の境界と公事負担を列挙した譲状。
年月日未詳 / 冊子 723頁
山田氏十代の久親について、初名久義、通称三郎二郎、官途式部少輔を掲げる系図。
永禄十一年十二月十三日~十九日 / 冊子 204~205頁
日新の死に際して十数人の家臣が追腹を望んだが、貴久が後嗣断絶を伴う厳禁の高札を立てたため、殉死は止められた。ただし二十年前から主君に誓約していた中条二郎右衛門と満留郷右衛門だけは禁制の対象外とされ、市来・加世田でそれぞれ自害し、日新とともに火葬された。
(天正17年) / 冊子 432~433頁
島津義久が、近年は帰国できない見込みのなか、義弘と交替して在京する意思を示す。国元はいまだ戦乱後の状態にあるため、義弘・又二郎らと交替し、一年に一人ずつ上洛する構想を述べている。 前年に自身の下国を認められた恩を忘れず、今後も長く奉公する覚悟から引き続き取り成しを願う内容で、領国統治と豊臣政権への出仕を両立させようとする島津家の苦慮が分かる書状案。
2月 / 冊子 501~502頁
島津義久が兵庫頭へ、当地は平穏だが又一郎の上洛準備が進まず、遅くとも八月初めには出立させたいと相談する。白浜二郎左衛門尉の書面、大房下向、図書頭の遅延を問い、長雨で海陸の往来が滞るなか忠長に詳意を託した。銀子百二十目を贈り、上洛・使者・交通難をまとめて報じた書状案。
(天正19年)2月16日 / 冊子 502頁
島津義弘が、伊達政宗の上洛遅延で討手派遣が論じられたものの、四日に突然上洛して京都が静謐になったと伝える。竜伯下向前に協議した屋形造営や又一郎上洛をめぐる手配、白浜二郎左衛門尉からの書面などを挙げ、遅滞なく処置するよう兵庫頭へ求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 864~865頁
文禄四年中に戦死・病死した島津方の家臣を、日付と所属を添えて列挙する。北郷忠虎の臣・鶴田市右衛門尉貞明、松下源二郎、島津義弘の臣・山本勘左衛門親臣や鬼塚三蔵らの最期を記録する。 個々の戦功記事では見えにくい人的損耗をまとめた名簿で、朝鮮出兵期の島津家臣団の犠牲を追える重要史料。
文禄4年7月25日 / 冊子 903頁
竜伯は、鹿児島で起きた過去の密会・使者の処置について家久へ指示し、白浜二郎九郎と市来七郎次郎を早々に処断するよう求める。 図書頭と相談し、事情にふさわしい者へ実行を命じるよう重ねて述べた、家中統制の厳しさが分かる書状。
(慶長元年)七月廿六日 / 冊子 34頁
龍伯(島津義久)が忠恒へ、町田縫殿助から承った件は帰帆時に詳述させること、希望する鉄が調わず渡海を延期したこと、宿銀・本銀の返済手配を伝える。六月二十日付書状の到着を喜び、下知に背いた野村五郎二郎の組編成を指示し、重病説が流れた秀吉は快復して京都が静謐となったので安心するよう知らせた書状。
(慶長二年)六月二日 / 冊子 104頁
島津義久が又八郎に、長い在陣の苦労を察し、帰朝が延びていることを案じた書状。注文した武具は存松が精を入れて完成させたため送ること、安国寺恵瓊の才覚で鹿毛・糟毛の馬を求めて送ることを伝え、詳細は岩切三郎二郎に含める。
(慶長三年)三月廿二日 / 冊子 200~201頁
新納為舟忠元が上井神五郎へ、上洛したと聞いて書き送った書状。吉田の内にある冨森九介・嶋田弥五右衛門尉の各三百石余の役口について、そのうち一口の取成しと知行方の配当を頼み、国境へ移るには少数でも役立つ人衆を伴わなければ困難だと訴える。また返地として上申した蔵野の内約五百五十石について、岡松が未検地なので検地後に帳面を提出するとし、岡松から京都・高麗へ夫丸を立てる件の差止めと、孫の二郎兵衛尉を上洛させる際の支援も依頼する。
年月日未詳 / 冊子 206~208頁
慶長三年四月五日、泗川新城の普請中に敵騎兵の動きを知った島津勢が出撃した経過を記す。伊集院源二郎・北郷作左衛門らが鉄砲隊と伏兵を分け、雨で火縄が働きにくいなか敵を誘い込んで射撃し、騎馬・徒歩の諸隊が追撃した。敵の反撃で混戦となった後も、原野や伏草へ陣を移しながら交戦し、多数を討ち取って日暮れに帰城したとする。
(慶長三年)十一月廿五日 / 冊子 297頁
島津義久(龍伯)が島津忠恒(又八郎)の無事な帰朝を祝い、朝鮮での手柄は当家の面目であると賞する。迎えとして北郷久二郎を派遣したことを知らせ、早く上洛して対面するのを待つと伝える。
年月日未詳 / 冊子 305頁
樺山忠征譜が、慶長三年冬の帰朝と伏見での競馬を記す。日本諸将は釜山城から同日に出帆すると約束したが先に去り、義弘父子と島津豊久だけが残って翌日出帆し、無事博多へ着いた。忠征は義弘父子と上洛する途中に豊前小倉で越年して伏見へ到着した。伏見滞在中の賀茂祭では、乗り手のいなかった島津家の馬に忠征と矢野休二郎が乗り、滞りなく競走して見物人の称賛を得た。
二月四日 / 冊子 351頁
島津義久が北郷長千代に、名代の久二郎は当分伏見にいて給分地二千石を確保しているものの、今後は若年でも自身で上洛するよう命じる。久二郎には高麗または当地で二千石相当の役儀を勤めさせる旨を安宅殿と相談したので、安三州からの指示も踏まえて分別するよう求める。
(慶長四年)三月廿五日 / 冊子 362頁
幸侃成敗を知らせる飛脚を早く上せるつもりであったが、庄内へ遣わした使僧の返報を待ったため遅れたと述べる。源二郎忠真には下城を命じたものの未解決で、決着後に改めて一人を上せること、石田治部少輔へ送る二通の書状を届けてほしいことを兵庫入道に伝える。
(慶長四年)閏三月朔日 / 冊子 363~364頁
竜伯が石田治部少輔の三月廿五日付書状に答え、幸侃成敗は急ぎ実行すべき意向によるものと思っていたが、実際は又八郎の短慮で、竜伯への相談もなく言語道断であると述べる。兵庫入道も関知しなかったといい、源二郎には下城を命じたものの、在所を動かず耕作に当たらせるよう石田から指示が来たため遠慮し、詳細は使節で伝えるとする。
慶長四年閏三月三日 / 冊子 365~366頁
幸侃成敗に関する諸相談の内容を一切漏らさず、伊集院源二郎をはじめ縁者・親類がいても庄内とは決して通用しないことを、上井里兼以下十四名が連署して誓う。違反すれば梵天・帝釈から霧島・新田八幡・鹿児島一宮・諏訪・愛宕など諸神の罰を受けるとする起請文。
慶長四年五月廿日 / 冊子 385頁
島津義久が又八郎に、その内儀の知行が安堵されたことを大いに喜び、礼使を受けた返答として書状を送る。祝儀として絹子・帷二を贈り、詳しい事情は河上七郎二郎に申し含めたと伝える。
(慶長四年)六月一日 / 冊子 389頁
島津義弘が又八郎に、宗世が庄内で堪忍しており、もし退出を望むなら配慮するよう伝える。寺沢志摩守の依頼により、堺の油屋道総の代官二郎左衛門尉について、庄内で無事に滞在できるよう、旅人として龍伯の意向を得たうえで援助することを求める。
(慶長四年)六月十五日 / 冊子 389~390頁
寺沢正成広高が島津忠恒の側近衆に、伊集院源二郎の居城下にいる堺の油屋三郎左衛門助九郎は油屋道総の代官として下向した者であると説明する。旧知の道総から兵庫頭殿にも申し入れがあり、本人には早々に退出するよう伝えたので、異議なく取り計らうよう求める。
(慶長四年)八月五日 / 冊子 419頁
島津義弘が新納武蔵入道に、弥太右衛門が人手不足のなか昼夜辛労して奉公していることを伝え、当地の状況を尋ねる。京都は平穏だが、源二郎がなお籠城しているため軍事行動が続き、先には山田城を攻め落としたと述べる。少将忠恒が在国中なので、特に忠恒へ奉公することが肝要だと諭す。
(慶長四年)八月六日 / 冊子 422頁
島津義弘が伊東豊後守に、庄内へ伊東家中から塩などを通用しているとの風聞を、当初は虚説と思ったが国元から重ねて確報されたと問いただす。源二郎と同心して庄内へ物資を通わせるのが事実なら反乱への加担に当たり、伊東のためにも不利益だと警告する。内府が山口勘兵衛尉を派遣して源二郎の出城を求めているので、龍伯・少将と相談し、庄内への支援を止めて解決に尽力するよう求める。
(慶長四年)八月六日 / 冊子 423頁
旧記雑抄は、本文がNo.841と同文のため省略したと注記する。内容は、伊東家中が庄内へ塩などを通わせ源二郎に加担しているとの確報を示し、事実なら反乱への同意に当たるとして支援を止め、山口勘兵衛尉による出城交渉と龍伯・少将の対応に協力するよう求める書状である。
(慶長四年)八月九日 / 冊子 424頁
島津義久が高橋殿に、使書と十端の贈物への謝意を述べる。内府の使者が下着して源二郎へ申し諭したが、なお新たな動きはないと報告する。また上方で兵庫入道・少将と相談した事柄を尋ね、詳しくは使者が申し述べるので書中では省くと伝える。
(慶長四年)八月九日 / 冊子 424頁
本文は「全上」とのみ記され、No.846と全く同じ内容であることを示す。すなわち島津義久が高橋殿に、十端の贈物へ謝意を示し、内府使者が源二郎を説諭した後も新事がないこと、上方で兵庫入道・少将と相談した件を尋ね、詳細を使者に託した書状案である。
九月十四日 / 冊子 436~437頁
島津義久(龍伯)が伊那図書頭に、庄内がなお無事でないため山口勘兵衛尉の上洛を引き留めていると知らせる。伊集院方への使者派遣と隣国衆の加勢に謝しつつ、公儀衆との不測の事態を避けて援兵要請を見合わせた経緯、源二郎の下城をめぐる和平が一度は了承されながら破談した事情を述べ、山口勘兵衛尉との取次を頼む。
(慶長四年)九月廿八日 / 冊子 444~445頁
島津義弘(惟新)が少将島津忠恒に、庄内との調停が不調となり弓箭に及ぶ状況でも、知行の多少にこだわらずまず所領を与えて和睦を図るべきだと助言する。山口勘兵衛尉の報告に内府が立腹し、源二郎に早期下城を迫って拒めば討つよう命じたことを伝え、交渉をまとめるよう求める。
〔慶長四年〕九月晦日 / 冊子 447頁
徳川家康が薩摩少将(島津忠恒)に、書状を拝見し、源二郎の振舞いが表裏あるものだと述べる。詳しいことは兵庫頭から伝えるので、書面では省略するとする。兵庫頭の人物同定は保留する。
(慶長四年)十月二日 / 冊子 450~451頁
大谷吉継が島津又八郎に、秀頼の成長と息災、内府が大坂で政務を執り上方が静謐であることを伝え、持筒十挺を贈る。伊集院源二郎の処置は島津方の意向に任せるとの内府の考えを知らせ、使者と相談して望みどおり処置するよう勧める。
(慶長四年)十月四日 / 冊子 453頁
熊谷直盛が羽少将に、伊集院源二郎を成敗するための出馬を至極もっともとし、小西摂津守・寺沢志摩守・羽左近らが庄内へ動き、自身も加わる意向を伝える。京都への注進を命じられれば垣見和泉とともに早船で伏見へ送ること、薩州からの進者の送迎について内府が中川修理・大田飛騨へ書状を遣わしたことを知らせ、兵庫殿の不安を解くため早急な返書を求める。
(慶長四年)十月四日 / 冊子 454頁
島津義久が安芸中納言に、内府が大坂へ着いて定めた置目を知らせた懇意と、先日の使節に謝する。兵庫入道からはまだ報告がなく、庄内表では内府の使者が下国して説諭したものの源二郎が違変して和議が破れ、使者も上洛したため、今後の行動を覚悟しており、上方で会う折の取成しを求める。