本田親貞署判知行坪付
天正八年二月吉日 / 冊子 648頁
日向国飫肥の坂谷・萩合門・向之丸などの田地を井黒主殿助へ宛行った知行坪付。本田親貞が署判した文書。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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天正八年二月吉日 / 冊子 648頁
日向国飫肥の坂谷・萩合門・向之丸などの田地を井黒主殿助へ宛行った知行坪付。本田親貞が署判した文書。
文禄五年十一月四日 / 冊子 52頁
伊集院幸侃が薩州菱刈大口之内、大儀寺之村の余分地から高六石七斗余を割り付けた署判領知目録。
元和元年十二月吉日 / 冊子 617頁
主君に二心なく奉公し、私益を優先せず、旧主に関する事柄を正直に伝え、親類・遺恨ある者との徒党や私欲を避けて公平に報告することを神仏に誓った五か条の起請文。
文禄2年12月28日 / 冊子 757頁
小西主殿助が、前日に届いた書状と見事な鉄砲一挺への礼を述べる。歳暮の挨拶に出向くべきところ、軍務で取り込んでいるため、来春早々に訪問して改めて礼を尽くすと約束する。 在陣武将間で鉄砲が贈答品となり、年末年始の訪問儀礼が重視されたことを示す書状。
天明五年三月二十五日 / 冊子 802頁/原整理番号 2199/整理ID 2199
持病の下冷により出仕時の足袋使用を田沼主殿頭へ伺い、使用してよいとの指図を受けたため、使者を通じ同役中へ伝えておいてほしいと申し入れる三月二十五日の口上書。使者は四本長右衛門・山口佐左衛門。注記では御用の依頼先と使者を、目付山川下総守へ四本、末吉善左衛門へ山口と振り分け、二通を家老座で調えたことを記す。以後は留守居使番で吟味して同様に扱う旨を付記する。
8月26日但馬(末尾申渡) / 冊子 380頁/原整理番号 542の3/整理ID 542-3
長州征討に付いて、先陣惣督嶋津又六郎へ諸隊を指揮し機先を察して勝利と威武を保つよう命じ、先陣副惣督嶋津主殿へ惣督と相談して軍謀を誤らず指揮するよう命じる。続いて一陣惣物主島津隼人に伊集院一組の人数を召し付けて出軍させる指示を向々へ伝え、地頭・用達にも知らせる八月廿六日但馬の申渡。命令内容と組の召集を記録し、戦闘の結果や出軍人数はここから確定しない。
年月日未詳 / 冊子 760~761頁
島津勝久が鹿児島から没落した後、守護職を望む実久が豊州・北郷・肝付諸勢を動かし、志布志の新納忠茂・忠勝父子を攻めた経過を記す。忠茂方は島津貴久を支持して救援を求めたが、攻勢を支え切れず、柴主殿助らと伊東氏・豊州方へ退いた。新納氏の帰属と拠点喪失を示す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 762頁
守護職を望む実久が豊州・北郷・肝付と結んで志布志の新納氏を攻め、忠茂方が柴主殿助を南方へ派遣して救援を求めたが落城した経緯を記す。忠茂はのち薩州小野へ移り、さらに日当山を与えられた。
年月日未詳 / 冊子 30~31頁
蒲生城攻略に先立ち松坂要害を落とす作戦を詳述する。島津貴久父子と諸将約五千余騎が出陣し、忠平の提案で三千人をもって松坂を攻撃。梅北宮内左衛門の先登に続いて忠平らが攻め込み、忠平は敵将を斬り、鎧に矢五、六本を受けながら無傷で、二十二歳にして初の分捕を得た。中村父子以下を討って落城させ、市来内藤助を地頭に置いた。後の横尾口戦で勝部主殿助が戦死したことも記す。
天正六年十一月十二日 / 冊子 609頁
友野元真が高城合戦で島津義弘の横入の手に属し、竹内主殿介・伊地知刑部少輔らとともに戦った奉公覚書。河原陣を崩した日に二人を分捕りし、島津義久から辛労を賞する言葉と褒美を受けたことを記す。
天正六年十一月十二日 / 冊子 625頁
大友勢が高城へ布陣し河原陣が崩れた際、友野元真が島津義弘の横入の手に属し、竹内主殿介・伊地知刑部少輔とともに戦った。二人を分捕り、島津義久から辛労を賞する言葉と褒美を受けたと記す。
天正六年十一月十二日 / 冊子 628頁
天正六年の高城・耳川合戦で島津方として戦死した者を列挙する名簿。本田親治、北郷久盛、村田経重、山中宗左衛門、鎌田大膳亮、海江田主殿、曲田伯耆守、市来軍介ら、根白坂・河原・追撃戦などで討死した諸士を記す。
記事 / 冊子 460頁
池田貞安が、島津久保の小田原出陣時に木村主殿佑・親六左衛門とともに御馬の別当を命じられ、供奉したことを記す覚書。 久保軍中での馬匹担当者と役割分担を具体的に確認できる。
寛永五年四月廿四日 / 冊子 34~35頁
新納忠清が、平野六郎左衛門主従四人と美代主殿助主従三人の国元帰還に際し、当月分の賦銀、海道十五日分の賦銀、二十三日までの飯米を当地で渡したことを報告し、以後の海道飯米代銀の処理を依頼する。
(寛永五年)四月廿四日 / 冊子 68頁
新納忠清が、平野六郎左衛門尉主従四人と美代主殿主従三人の国元下向に際し、当月分の賦銀、海道十五日分の賦銀、前日までの飯米を当地で渡したと報告する。今後の海道飯米代銀は受取側で手配するよう求め、同日出立した旨を知らせる。
(慶長五年)九月朔日 / 冊子 572~573頁
長井利貢が伊地知勝左衛門尉らへ、大坂では諸大名屋敷の門番が厳しく、人の出入りや帰国用の船・帆道具にも支障があると報じる。七月晦日夜から八月朔日にかけて松之丸や石田屋敷へ内応者が入り、本丸が落ちたこと、伏見城を守った鳥居・内藤・松平の三名、石田方の動き、伊勢方面の城と大坂城内の騒ぎなどを伝える書状。
(寛永九年)六月十三日 / 冊子 285頁
水野勝成ら五名が島津家久に、加藤忠広の領国召上げに伴い加藤家中の者が退去するため、彼らが薩摩領内へ来た場合には宿を貸して休ませても差し支えない旨を伝えた連署書状。追而書では家久父子の無事を承知したことも述べる。
辰六月5日、新納嘉藤二の主殿宛報告 / 冊子 569~570頁/原整理番号 741の3/整理ID 741-3
天杯、錦御旗一流、御剣一振、扇子一本、反物一疋、勅筆御写一通、御直衣一領、御襯袖(ママ)一領、書付を添えた金三万両、達書一通の一覧を掲げる。当初は六月五日の辰刻に参内し、そのまま東征へ出馬して南門で軍列を叡覧する予定と承知していたとする。細袖細袴の軍装で議定職の席へ通り、天杯を頂き、中山前大納言を通じ賜品を受けたと報じる。勅筆は拝見後返上して御写を受け、酒肴を頂いた後、江戸大総督府の急報により太守の進発は追って沙汰し兵隊だけを直ちに出す旨が伝えられたとする。南門で軍列叡覧が済み七ツ時に帰殿し、賜品の礼を岩倉側が取り次ぎ奏聞したこと、中将側の礼も重臣と雑掌を通じたことを記す。私も供を務めたとして、辰六月五日に新納嘉藤二が主殿へ報告する。
辰五月20日、新納嘉藤二、主殿様宛 / 冊子 573~574頁/原整理番号 746の5/整理ID 746-4
今日午半刻に召され衣冠で参内し議定の詰席へ通り、八景間で岩倉右兵衛督から別紙の書付と議定職免の書付を渡され承知したと記す。外様一同と御学問所の御前へ召され、馬術を叡覧に供し菓子・包物を頂き、七半時過ぎに帰殿したと報じる。礼の扱いを尋ねたところ申し上げるに及ばない旨を松室土佐から承知したこと、私も供を務めたことを、書付写を添え辰五月二十日に新納嘉藤二が主殿へ知らせる。
明和二年三月二十七日・四月九日(品目ごとの日付) / 冊子 89~90頁/原整理番号 181の78/整理ID 181-78
日光法会に伴う餞別品と用人への贈答を日付・相手ごとに記す。三月二十七日、松平右近将監へ押掛十懸・織熊障泥十掛・干鯛一箱を進める。法会のため日光へ越し、宿坊に滞在して御用を取り扱うことになったための餞別である。四月九日には、御側衆で御内用を頼む田沼主殿頭へ押掛十掛・織熊障泥五掛・干鯛一箱を同じ理由で進める。用人への品物は、三月二十七日に右近将監の用人宮川吉仲太へ琉嶋紬二反・銀五枚、四月九日に田沼主殿頭の用人井上寛司へ琉紬二反・銀五枚とする。両主君の供に召し列せられ、兼ねて御内用を承り付けてくれる者への贈答で、留守居が使者を通じて進める旨を記す。末尾に御使番の首尾との注がある。
安永十年二月朔日 / 冊子 610頁/原整理番号 1732/整理ID 1732
田沼主殿頭の用人から留守居へ渡された、拝領御鷹を帰路の道中に据える際の覚書写。道中で差し支えのない場所では捉飼してよいこと、通過する領主方へ拝領御鷹を据えて適所で捉飼したい旨を通達すること、松平図書頭の先例どおりに行うことを示す。一方、次回の参府では御鷹を据える必要はないとする。安永十年二月朔日。
天明元年八月七日 / 冊子 636~637頁/原整理番号 1801/整理ID 1801
御縁女が引き取られたことを受け、可能であれば御目見を願いたいと申し上げる。八月七日付。付記は、この願書を当日田沼主殿頭へ提出し、九月五日に同人から付札で御目見を仰せ付ける旨の指示を受けたと記す。願いの本文と、後日付記された指示を区別する。
天明元年九月二十九日 / 冊子 642頁/原整理番号 1821/整理ID 1821
御縁女への御目見が済んだ際、将軍と若君へ礼を申し上げる品をどう扱うべきか、また御縁女と御部屋への礼についても差図を求める。九月二十九日付。付記は御用番田沼主殿頭へ有川勇馬から提出し、付紙の指示を受けたと記す。朱書には本丸へ登城して礼を申し上げることや、御縁女・御部屋への礼のため月番の留守居宅へ行く旨がある。礼の品の具体的数量は本文に記載しない。
天明二年二月十四日 / 冊子 652~653頁/原整理番号 1858/整理ID 1858
年始に御縁女への御目見を命じられた際、献上物をどのように扱うべきか差図を求める重豪の書付。天明二年二月十四日付、松平薩摩守名。御付札には巻物を差し上げる旨が示されるが、数量と読める箇所は判読を留保する。後記によれば留守居有川勇馬が田沼主殿頭に内見し、異存なしとの回答を受け、付札どおりに扱った。書付本文・御付札・後記を区別して読む。
天明二年二月十五日 / 冊子 653~654頁/原整理番号 1860/整理ID 1860
若君への献上品として、毛植ゑのころ一箱、櫻一鉢、桃白紅二鉢、若大鷹一居、鴛鴦一番を挙げ、献上と取扱いを内々に伺う。大鷹は松前に由来し、鴛鴦は唐国産を琉人が持ち渡ったとの出所注記がある。天明二年二月十五日付、松平薩摩守名。後記では同日田沼主殿頭へ差し出し、翌十六日に口達を受け、十九日朝の目録差出と吹上役所への出所書差出の手順を記す。品目・数量・出所と後日の事務記録を分けて読む。
天明二年四月九日(後記は十二日・十五日) / 冊子 659頁/原整理番号 1872/整理ID 1872
大納言の元服に伴う祝儀の礼席について伺う。重豪は、大広間の中段に出る際、伊達陸奥守と同席で少将の儀に準じた例や、年始の礼席での太刀・席次の先例を挙げる。一方、今度の祝儀では三畳目に太刀の礼を申し上げるよう言われたため、かつての二畳目での礼や官位・席順との関係を含め、どの席次を取るべきか差図を求める。天明二年四月九日付、松平薩摩守名。後記には、伺書を田沼主殿頭方へ差し出し、十二日に切紙が届き、十五日の礼席に関して御用人から伝達された経緯を記す。記録中に最終席次を断定できる指示は読み取れないため、伺いと後記の範囲で保持する。
天明三年四月十二日 / 冊子 690頁/原整理番号 1950/整理ID 1950
重豪は国元への暇を与えられたが、脚痛により長途の旅行が難しいため、しばらく保養し、快復したら早速出発すると届けた。天明三年四月十二日付。注記によれば、同日、留守居本城源七郎を通じて御用番田沼主殿頭へ提出した。
天明四年閏正月十六日 / 冊子 731頁/原整理番号 2062/整理ID 2062
公方と大納言が機嫌よく過ごしていることを喜ぶ。宿次奉書により御鷹の鶴を拝領したため、御礼を申し上げる使者として平田平太左衛門位就を江戸へ差し上せ、これに伴って目録どおりの品を献上するので、しかるべく取り成すよう求める。天明四年閏正月十六日、島津重豪から松平周防守・田沼主殿頭・久世大和守へ宛てた書状。
天明四年閏正月十六日 / 冊子 732頁/原整理番号 2064/整理ID 2064
今月七日付の宿次奉書が十六日に近江国高宮駅へ到来したので拝見し、公方と大納言が機嫌よく過ごしていることを喜ぶ。御鷹の鶴を拝領したことをありがたく思い、その請けを申し上げるため書状を送り、この趣旨をしかるべく取り成すよう求める。天明四年閏正月十六日、島津重豪から松平周防守・田沼主殿頭・久世大和守へ宛てた書状。
天明四年三月二十一日 / 冊子 738~739頁/原整理番号 2083/整理ID 2083
松平薩摩守は病気で冷えがあるため、夏秋でも足袋を用いる旨を伺う。三月二十一日付の伺書に「足袋用可被申候」との許可が付く。附書には、留守居渋谷五郎右衛門が田沼主殿頭の用人山崎藤五郎へ書付を差し出し、主殿頭からの仰せで本城源七郎と武田織右衛門を介して許可が伝えられた経緯を記す。
天明五年三月二十三日 / 冊子 802頁/原整理番号 2198/整理ID 2198
持病の下冷を理由に、出仕の際には当夏も足袋を使用したいと伺う三月二十三日付伺書で、足袋用可被申候との付紙による許可を記す。注記によれば当日留守居矢野清右衛門が田沼主殿頭方へ提出して受理され、翌日呼出しを受けて渋谷五郎右衛門が出向き、用人武田織右衛門から付紙を渡された。さらに西丸老中へも書付で届け、先例がある旨を確認し、以後は届ける必要がないとされた経過を記す。
天明五年十一月七日 / 冊子 833~834頁/原整理番号 2288/整理ID 2288
重豪は体調不良により冬も滞府して療養してきたが回復が十分でなく、遠国への旅行と翌年早期の参府は難しいとして、引き続き滞府療養を願い出る。十一月七日付の願書と、六日に御用番田沼主殿頭へ差し出し九日に主殿頭が留守居を呼び出して返したこと、御用人らへの通達を記す付札を含む。
天明五年十一月十五日 / 冊子 836頁/原整理番号 2297/整理ID 2297
重豪は相州塔之沢での湯治中、現地へ着いた際や帰府後に御機嫌伺いの使者を出すこと、湯治中の御機嫌伺いと公方様・大納言様への献上の扱いについて伺う。留守居矢野清右衛門が御用番田沼主殿頭へ差し出し、翌十六日に呼び出されて書付を返されたことを付記する。
正文四月1日、前月30日伝達予定、交付注:辰四月2日 / 冊子 554頁/原整理番号 716/整理ID 716
親征の行幸中は節朔の参賀に及ばないと伝える。本来は去月三十日に伝えるはずの沙汰だったが、行き違いによって漏れたため、四月一日に改めて申渡すとする。辰四月二日、太政官代辨事局の呼出に永山左内が出頭し、松室甲斐から触下へ布告するよう書付を渡されたこと、触下へ廻達した趣を内田仲之助が主殿殿に報じたとの注を伴う。
正文独立日付不記、交付注:辰四月5日 / 冊子 554頁/原整理番号 717の1/整理ID 717-1
薩州の海江田彦之丞・岸良七之允を名書し、内国事務局に当分の用務があるため雇いを命じる。辰四月五日、太政官代内局の呼出に留守居附役田中清之進が出頭し、岩倉少将から書付を渡され、請書を差し上げるよう伝えられた旨を記す。その事情を承知した段を内田仲之助が主殿殿に報じたとの首尾書注を伴う。
辰六月8日、新納嘉藤二 / 冊子 569頁/原整理番号 741の2/整理ID 741-2
太守の国許への暇を命じられた件につき、非蔵人口からの呼出に出頭し、大原左馬頭から書付一通を渡されたので報告しておく旨を述べる。この用務を留守居附役勤小野半左衛門が勤めたことを、辰六月八日に新納嘉藤二が主殿へ知らせる。
書付七月、首尾辰七月6日、外包慶応4辰八月11日保管記 / 冊子 586~587頁/原整理番号 762/整理ID 762
白木御文書十一番箱中四十四番の薩州重役宛書付。積年の王事勤労と当春以来の出兵を褒め、藩主の精忠と重役の朝命奉戴・士気振作が行き届いたと評価し、賜品を与え今後も藩主を輔翼し忠節を尽くすよう求める。七月の書付一通と晒一疋の品目を掲げる。辰七月六日の新納の報告は、重役用務の呼出に代理出頭し、他の九藩も同様に小御所下之間へ召され、四卿列座のもとで書付を読み上げ渡されたと記す。礼は岩倉右衛門督・勘解由小路左中辨を通じ二卿へ述べると承知し、後に太守の承知を得て飛札で礼をする意向を主殿へ伝える。外包は慶応四辰八月十一日に内膳が町田孫大夫へ当座の格護を命じた旨を承知し、白木十一番箱へ納め置くと記す。評価と受渡は各書付・首尾の叙述として示す。
二月十二日 / 冊子 124~125頁/原整理番号 199-1
肝付兼屋の従臣・緒方主殿介の覚書に写された矢文。城中から寄手の鍋島・肥後・豊後横目衆などを嘲る文句を列ね、二月十二日酉刻に城から付けた矢文とする。末尾に浮武士頭有馬亀之丞時貞・口之津左兵衛正利の名を記す。
年月日未詳 / 冊子 151頁/原整理番号 267-1
肝付兼屋の従臣・緒方主殿の覚書に、原城から矢文を封じて射出したとあることを記す。次の文書267-2がその矢文。
(慶長元年)七月九日 / 冊子 33~34頁
小西主殿助行長・小西作右衛門尉末吉が島津又八郎方へ、朝鮮の使節が日本へ渡海するため、一両日中に西方から使節を乗せた船三艘が通る予定であると知らせ、心得るよう求めた連署状。
天明五年十一月十二日 / 冊子 834頁/原整理番号 2291/整理ID 2291
重豪は脚痛と持病の痛みが重なり、引き続き滞府して養生しても回復しないため、河野仙寿の勧める相州塔之沢で三週間湯治する許可を願う。十一月十二日付の願書であり、付札には十日の提出、十一日の矢野清右衛門による御用番への取次、十三日の留守居呼出しと杉本平馬への書付返却を記す。
二月(日不記、松平主殿頭の署・判表示) / 冊子 489~490頁/原整理番号 657の4/整理ID 657-4
朝命を受けて各藩に伝えられた布告を謹んで拝見し、畏まって受けたと答える。大坂での意外な挙動に自分も恐れ入るとし、不肖ながらこの時期に私親への顧念は毛頭なく、大義に従って国難に忠義を尽くす赤心があると表明する。その趣旨をしかるべく執奏してほしいと願う。末に二月、島原藩主の原注を伴う松平主殿頭の署と判の表示がある。署名の忠知には和カの注があり、目録は忠和とする。
辰三月26日嶋津主殿・嶋津伊勢、去る17日午刻参内等を報告 / 冊子 539~540頁/原整理番号 698/整理ID 698
十七日午刻に太守が重役を召し連れて参内し、衣冠で伊勢を伴い、加賀・阿波も同様に学問所で別紙の趣旨を承知したと報じる。菓子を頂戴し岩倉前中将の取次を受け、近藤との面会や留守居中への依頼を経て帰殿したという。さらに伊勢と加州・阿州の重役が岩倉ほか二卿から、御留守中の京都警衛と三藩の協議を命じられたと記す。加州上ノ京、太守側中ノ京、阿州下ノ京の区分で浮説・不穏を鎮めることを伝え、中将が承知した上で東園中将・坊城侍従へ飛札で礼を申上げる意向と、留守居から出す書付を右筆頭が吟味し飛札・日積で差し出す取扱いを求める。大奥其外にも申上げ、許しの伝達等を取り計らってほしいとして勅語・留守居首尾書を添え、二十六日に主殿・伊勢が家老ら五名へ報じる。
辰四月21日、嶋津主殿、去る15日の守衛免除を報告 / 冊子 557頁/原整理番号 719の4/整理ID 719-4
御臺所御門の守衛を免じる旨が去る十五日に軍防局から伝えられ、人数を引き取ることになったので、書付を添えて知らせるとする。中将にも聞き届けられるよう伝達を求める。辰四月二十一日、嶋津主殿から嶋津圖書殿・御家老中への書状。人数の引取はこの報告の記載として示す。
辰四月21日、嶋津主殿 / 冊子 558頁/原整理番号 721/整理ID 721
朝政一新に当たり諸藩も趣旨を受けて政令を大きく改めるべきことなどが、別紙どおり太政官代辨事局から伝えられたので知らせるとする。中将にも伝えるよう求める。自分たちの側では既にこのような改革を命じていると述べつつ、向々への申渡なども改めて評議してほしいと依頼する。辰四月二十一日、嶋津主殿から圖書殿・家老中への書状。
安永三年六月廿四日(年は朱)、明日五半時の家来差出指示 / 冊子 436頁/原整理番号 1202/整理ID 1202
端午の御内書を渡すので、明日五半時に御城へ家来を差し出すよう伝える。末尾は六月廿四日、田沼主殿頭、松平薩摩守宛、朱に安永三年。正文は文庫、出典は重豪公御譜中。この書は御内書そのものではなく、御内書の引渡しと受取りのための家来差出を指示する書状。
9月6日但馬;当日向井新兵衛取次注 / 冊子 386頁/原整理番号 548の2/整理ID 548-1
桂右衛門を大目附へ役替えし、役料二百石を与え、席順は島津主殿の次とする九月六日但馬の通知。表方・奥掛御勝手方へ知らせるよう求め、当日向井新兵衛取次の記載を持つ。原注は桂右衛門を久武、島津主殿を久光の男とする。任命、役料の規定と席順の指示を別に示し、実支給済額や実際の在任期間は記されない。
送付書状:辰四月21日、添書正文:三月(日不記) / 冊子 557~558頁/原整理番号 720/整理ID 720
行在参上の門外混雑防止、紀伊中納言ほか五人の京都取締、山陰道鎮撫使警衛免除、触頭二十四藩の月番、海江田・岸良の内国局雇用、行幸中の節朔参賀不要、八幡近辺警衛、石清水警衛免除の八題目を掲げる。太政官代から渡された書付を伝達するよう求められたので、別紙を添え中将にも伝えてほしいと、辰四月二十一日に嶋津主殿が圖書殿・家老中へ送る。続く御家老中宛の三月の指示は、行在参上の門外混雑を避け、柵門外一町ほど手前で兵隊・惣供を集め置き、近臣のみを召し連れて参入するよう求める。ただし御廓内住居者はこの限りでないとする。
年月日未詳 / 冊子 83頁/原整理番号 63の25
緒方主殿の島原従軍覚書から、四枚帆一隻に馬を乗せ、船頭室田利左エ門が天草久玉へ着いた記事を引く。後続考証では寛永九年の高割による騎馬五百騎と乗船・馬草の用意について、確かな証跡がないことや田中綱紀翁の言伝を述べる。忠恒の書状と新納忠増の船不足の記事を参照し、遠征先への馬輸送の困難を論じる。
11月21日 / 冊子 195~196頁/原整理番号 115
御旗・御馬印を吉例どおり用いるか、江戸での御旗や甲州流の作法をどう扱うかを伺い、御家兵道の格式を積帳で示すよう求めた肝付主殿の伺書抜書。11月21日付。