島津氏老臣連署坪付
永禄九年二月吉日 / 冊子 144~145頁
大隅国帖佐郷で田中越中守に付与する田地を列挙した島津氏老臣の連署坪付。餅田名・堀町・税所内上門・深見名内門などに所在する各筆について、地名、門名、面積や位置を具体的に記す。
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永禄九年二月吉日 / 冊子 144~145頁
大隅国帖佐郷で田中越中守に付与する田地を列挙した島津氏老臣の連署坪付。餅田名・堀町・税所内上門・深見名内門などに所在する各筆について、地名、門名、面積や位置を具体的に記す。
天正20年7月吉日 / 冊子 579頁
伊集院忠棟(幸侃)・本田三清・町田久倍の三名が、藤崎門のうち「こまい床」にある平佐一段を竹崎越中守へ示した連署坪付。 土地の所在と面積を簡潔に特定し、三名の連署で給地・所持の根拠を確認した文書である。
慶長六年十月廿四日 / 冊子 786頁
島津忠長ら四名が連署し、薩摩国川内山田村の鹿地門三十石五升を、満尾越中守へ加増として宛行った目録。
(慶長十八年)八月八日 / 冊子 407頁
慶長十八年八月八日、島津家久が長岡越中守へ、年頭の祝儀と今後の交誼を述べ、太刀一腰・馬一疋・生糸一丸を贈った書状案。
慶長十九年六月廿七日 / 冊子 530頁
宮里越中守へ五石余の知行を宛行い、その高に応じて公役を勤めるよう命じた三名連署知行目録。目録は島津久元譜にも収載される。
(慶長廿年)一月十六日 / 冊子 574頁
鹿児島御支配所の知行名寄帳。大口小木原村などの屋敷・田畠について、名請人、面積、石高、給付先を列記し、合計高と知行割付を示す。
年月日未詳 / 冊子 826頁
天文十四年、入来院石見守重朝の攻勢に対し、新納忠元が伊牟田左衛門・春山越中守・川上十郎左衛門らと蔵城へ入った合戦記事。少数の兵で守備を組織し、城兵を指揮して敵の攻撃を防ぎ、城を守り抜いた忠元の判断と戦功を記す。
(永禄十年十一月廿四日) / 冊子 191頁
菱刈馬越城攻めの際、友野元真が敵四人と斬り合い、そのうち一人を討ち取ったことを記す奉公覚書。証人として四本越中守を挙げる。
永禄十二年 / 冊子 209~210頁
永禄十二年の主要事件を編年で記す。琉球漂流民送還への謝状、相良・菱刈両氏との和睦と蒲池越中守殺害による破綻、羽月城救援、戸神尾・稲荷山の伏兵による大口勢撃破、祁答院長野城攻略、伊東軍の桶比良・田原撤退を載せる。八月以降は大口城を包囲し、相良・菱刈方の降伏を受けて質を交換、九月十八日に義久・義弘が入城し、新納忠元を大口地頭に任じた。あわせて功賞・社寺領寄進などを記す。
永禄十二年正月三日~十一月廿七日 / 冊子 210頁
永禄十二年に島津方で戦死・討死した者を月日別に列挙する。正月三日から十一月二十七日まで、三月十八日の蒲池越中守ら、五月二十三日・二十五日の伊地知重次、貴島源五郎ら、多数の家臣・従者の名と一部の戦場・討死事情を記す。
永禄十二年正月廿日~五月六日 / 冊子 211~212頁
前年から相良・菱刈方が求めていた和睦は、日新没後の永禄十二年正月二十日に成立した。しかし三月十八日、大口城を守る深水頼兼が平泉へ向かう蒲池越中守と従者十七人を殺し、往来は再び断絶した。島津方は羽月城に肝付兼寛・新納忠元を置き、五月六日、家久を囮として戸神尾・稲荷山の伏兵へ敵を誘導し、前田豊前守らが四方から攻めて敵首百三十六を得、一人を捕虜とした。
永禄十二年正月廿日~五月六日 / 冊子 212頁
永禄十二年正月二十日に大口方との和睦が成立したが、三月十八日に深水頼兼が蒲池越中守主従十七人を殺害し、再び敵対した。義虎が維持できなくなった羽月城へ肝付兼寛・新納忠元を派遣し、五月六日、家久が大口城下で敵を挑発して戸神尾西まで誘い出した。戸神尾・稲荷山の伏兵が前後を遮断して敵を破り、百三十六の首級と捕虜一人を得て大口方の勢力を削いだ。
永禄十二年正月廿日~三月十八日 / 冊子 213頁
本文はNo.480記事の前半と同文のため省略される。永禄十二年正月の大口方との和睦成立から、三月十八日に深水頼兼が蒲池越中守主従を殺害して再び敵対するまでの内容に当たる。
永禄十二年三月十八日 / 冊子 215~216頁
永禄十二年三月十八日、深水頼兼が平泉へ向かう蒲池越中守主従十七人を討ち、和議が破綻した。平泉は後方を山野、前方を大口に挟まれ通路も断たれたため撤収も検討されたが、肝付兼寛・新納忠元は、平泉を捨てれば羽月一城では大河を隔てて維持できないとして百日間の守備を申し出た。義久が諸軍へ呼びかけると多数の兵が進み出て、番替えの日程を定めた。
(永禄十二年五月六日頃) / 冊子 220頁
戸神尾合戦のころ、伊集院善左衛門を取次として佐敷方面へ兵船六、七十艘を送るよう命じられた友野元真の奉公覚書。船の調達に苦労し、四本越中守と協力して佐敷方面で働き、船一艘を取得し、福浦でも分捕りをしたことを記す。
天正四年八月十九日・十月朔日 / 冊子 489~490頁
高原城合戦で天正四年八月十九日に戦死した三原重房・入佐郷久震・野村良綱・四本半忠次・宮原越中守らを列記する。続いて十月朔日の南郷合戦で戦死した新納忠氏・忠盈、安楽兼治・兼清らも収める。
天正四年八月 / 冊子 502頁
高原城を詰めた際、友野元真が市来玄蕃左衛門・谷山佐渡介・四本越中守とともに垂之口から城を越え、敵方の肥田木河内守と対した奉公を記す。
天正四年十一月七日 / 冊子 506頁
後の島津家久(初名忠恒、幼名米菊丸)が天正四年十一月七日に日向真幸院加久藤で誕生したことを記す。母は広瀬氏の娘で、産弓の役を曽木越中守が務めた。のち陸奥守・中将・薩摩守などを歴任した官歴も掲げる。
(慶長六年)正月八日 / 冊子 741頁
島津義弘(惟新)が忠恒に、羽柴越中守への使者を数日中に出発させるよう相談し、京都交渉が不調に終わる場合に備えて越中守へ早急に通じ、後日の領国安堵に助力を求めるため川東善左衛門尉を使者に立てるよう勧めた書状。
(慶長十五年)十月廿三日 / 冊子 300~301頁
慶長十五年十月二十三日、島津義弘が島津家久に、駿府・江戸での礼参が無事済み、家康・秀忠から格別の厚遇を受けたことを喜んだ書状。暇を得た後は京都に長く滞在せず早く帰国すること、越中守へ必ず礼を述べることを勧め、国元の平穏も知らせる。
(寛永十一年)正月十日 / 冊子 406頁
島津家久が川上左近将監へ、細川越中守が薩摩領内の巣鷹を所望しているため、該当する場所へ申し付け、十分に手配・馳走するよう命じた書状。
正月八日 / 冊子 115頁
京都へ申し上げた案件がほぼ不首尾に終わったため、五日以内に羽柴越中守へ使者を立てて将来の無事な調停を頼むよう勧め、富隈からではなく川東善左衛門尉を派遣するよう求めた書状。
五月廿二日 / 冊子 187頁
越中守の見舞使から書状と緞子二端を拝領した礼を述べ、越中守が江戸へ下るため十四日に上洛したことを知らせ、帰国時に詳しく説明するとして使者に口上を託した書状。
天文廿一年八月六日 / 冊子 901頁
島津貴久が大友方の重臣らに、日州千戈の儀をめぐる当家の妨げが深刻であるとして、宗綱への取り次ぎと堅固な申し談じを求めた書状。
(慶長十五年)十二月十一日 / 冊子 304頁
慶長十五年十二月十一日、正源院の某が、滞在中の能・蹴鞠・茶の湯などの催しと、十一月末の到着・十二月五日の出船を報じた書状。武具の試用、鉄砲や刀装の出来、松井子息長岡式部へ贈る腰物などについても詳しく述べる。
(寛永十五年)五月廿二日 / 冊子 808頁
薩摩守の家督相続に伴う御礼が首尾よく申し上げられたことを祝い、祝儀の使者を送った旨を伝え、詳しくは与平左衛門の口上に含めた松平定綱の書状。
宝暦十一年六月十四日 / 冊子 853頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2531-7
大目付が六月十四日、細川越中守へ、酒井左衛門尉から渡された書付の写一通を返し、同列の四品以上の者へ漏れなく遅滞なく伝えるよう求める。返答については各自からの挨拶を要せず、それぞれ稲垣出羽守へ知らせるよう指示する。本文宛名は細川越中守殿で、留守居との記載はない。
明和二年五月十日 / 冊子 93頁/原整理番号 181の83/整理ID 181-83
松平右近将監から渡された書付の写し一通を送り、同席中の在府者へ早く通達するよう求める。返答は各人から個別に挨拶する必要はなく、各家から大目付大井伊勢守方へ申し聞かせるよう定める。五月十日、大目付から細川越中守・松平大膳大夫の留守居に宛てる。添付書付の受領、在府者への通達、返答の取次先を区別し、各人が直接返答を済ませたという記載にはしない。
明和二年五月十二日 / 冊子 94頁/原整理番号 181の85/整理ID 181-85
昨日十一日に能見物を仰せ付けられたことへの御礼として、明十三日の登城は刻限五半時に揃って出仕するよう求める。同列中の四品以上の者へ漏れなく、遅滞せず早く通達するよう命じる。返答は各人から個別に挨拶する必要はなく、各家から池田筑後守方へ申し聞かせるよう定める。五月十二日、大目付から細川越中守・松平阿波守の留守居へ宛てる。昨日の見物、明日の御礼登城、同列四品以上への通達範囲と返答窓口を分け、五半時は当時の時刻表記として保持する。
天明五年二月十二日(伺書)・二月十四日(提出・返答注記) / 冊子 783頁/原整理番号 2190/整理ID 2190
孝恭院の法事中のご機嫌伺いとして菓子一箱を献上したいこと、黒書院で御礼するよう命じられていることを述べて伺う二月十二日付伺書。朱書に同之通可有献上候との返答がある。注記には、伺書提出後の十四日に法事掛老中牧野越中守方から留守居が呼び出され、渋谷五郎右衛門が出向き、用人橋本六右衛門を介して付紙による許可を渡されたと記す。
天明五年六月二十三日 / 冊子 814頁/原整理番号 2230/整理ID 2230
重豪は国元への帰国の暇を得ながら脚痛と持病の疝積で出発できず、下屋敷で歩行を試して養生しても回復しないと述べる。療治中の河野仙寿院は暑中の長旅を避けるよう進言しており、秋までの養生を願い、先に快復すれば出発すると申し出る。六月二十三日に御用番牧野越中守へ提出され、二十五日に付札による回答が伝えられた。
正文年月日不記 / 冊子 372頁/原整理番号 535の2/整理ID 535-2
京都所司代松平越中守への御渡書の写し。長州人が勤王を名目に人心を惑わせていたため信用した者もいたかもしれないが、禁闕への砲撃で逆罪が明らかになり追討を命じたとする。その支持者でも以前の非を悔い改心すれば宥免できるので申し出るよう求める。潜伏した落人を発見して速やかに届けた者には褒美を与え、隠匿が後で判明すれば朝敵と同罪にするという。正文の日付はなく、長州側への罪責評価・宥免と取締の条件は書付の語りとして示す。
二月十日 / 冊子 113頁/原整理番号 176-2
喜入忠政が基太村越中守忠智へ、薩州様が近日当地へ着陣することを祝い、自身も追って赴くと伝える。滞留の有無にかかわらず御陣屋近くの場所を望むので、小屋掛けの場所を一人遣わして見分し、申し渡してほしいと頼む。
永禄十一年正月廿日 / 冊子 185頁
永禄十一年正月二十日の大口・羽作瀬合戦で戦死・負傷した将兵を列挙する交名抄。川上久朗、西郷新八、長野仲左衛門尉、下島甚左衛門尉、蒲地越中守、有馬又次郎らの名を掲げ、一部には所属・死去日・馬越での戦死などの注記を付す。
永禄十一年三月廿三日 / 冊子 195~196頁
永禄十一年三月二十三日、球磨・大口・入来院・祁答院・東郷勢が曽木城を攻めたが、城将宮原景種・越中守と佐多勢が防いだ経過を記す。敵は曽木を退いて市山城へ向かい、負傷療養中の新納忠元が出陣して白坂口を守った。さらに永福寺口で本田掃部兵衛尉・河野玄蕃允・長谷場菊四郎らが防戦し、敵将を鉄砲で倒して退却させた。
永禄十一年三月廿三日 / 冊子 196~197頁
永禄十一年三月二十三日、相良・菱刈・入来院・東郷・祁答院勢が曽木城を攻めた際、宮原景種・越中守と佐多山城守らが防戦したことを記す。敵は攻めあぐねて市山城へ転じたが、手傷を負っていた新納忠元が白坂口へ出て迎撃し、永福寺口でも本田掃部兵衛・河野玄蕃允らが戦ったため退いた。
元亀三年三月中旬 / 冊子 262頁
元亀三年三月中旬の岩瀬戸口合戦に参加した島津方の将兵を列記する。川上上野守・肝付弾正忠兼盛・野村兵部少輔・樺山兵部太輔・上原長門守・鎌田少外記のほか、猿渡越中守・喜入摂津守、島津右馬頭歳久・島津図書頭忠長らを掲げる。
元亀三年三月中旬 / 冊子 263~264頁
伊東・肝付・伊地知方が小禰寝へ出兵して浜城を落とし、本城麓へ放火した。園見城から喜入図書助・弟小四郎が加世田勢を率いて奮戦したが、多勢に敗れて兄弟とも戦死した。続く岩瀬戸口の追撃戦では猿渡越中守・井尻伊賀守・喜入摂津守・平田新左衛門らが働き、敵も損害を出したものの、この戦いは伊東・肝付方が小利を得て退陣したとする。
享保二年十一月十八日 / 冊子 336頁/整理ID 878
島津継豊が琉球中山王へ、松平越中守の奥方の死去に際して寄せられた書状を受け、心遣いへの謝意を伝える書状。十一月十八日付。
享保三年九月三日 / 冊子 358頁/整理ID 952
島津継豊が中山王へ、松平越中守の死去を悼み、弔意を伝える書状。九月三日付。
享保四年四月二十三日 / 冊子 411頁/整理ID 1064
中山王尚敬が侍従へ、松平越中守が前年十月に死去したと聞いた驚きと弔意を伝える書状。
天明七年丁未十二月 / 冊子 1005頁/原整理番号 2706/整理ID 2706
近年に琉球使節が来る事情を大家が考慮し、斉宣の鎮火番を特に免除して、細川越中守を代役としたと記す。天明七年丁未十二月の記事である。
九月廿三日(本文)。嘉永七年は一件年月から補う / 冊子 160頁/原整理番号 218の12/整理ID 218-7
大御目付から廻状と御書付写し一通が届いたので、安藝守・越中守が各家への通達を命じ、廻状数通を認めて持ち回らせる旨を伝える九月二十三日付書状。三通のうち一通にある追記として、嫡子がいる家はその方や附衆まで通達するよう求める。本文は清田新兵衛・田中八郎兵衛・福田源兵衛、安藝守内の福永小太夫、梶川銀次郎・中野冨三郎・福永助左衛門を列記し、薩摩守・陸奥守・南部美濃守の留守居へ宛てる。御次第不同の表示を伴う。
年月日未詳 / 冊子 519頁
同日、東郷右馬允が祁答院へ軍勢を発し、一木での合戦で双方に討死・負傷者を出したのち、祁答院方の援軍を受けて引き退いた経過を記す譜記事。
(永禄十二年頃) / 冊子 224~225頁
島津忠良(日新)に加世田で仕えた人々を列挙した交名。大田・稲富・玉利・奈良原・鹿島・河崎・指宿・中条・富松・阿多・有馬・宮原・鮫島など多数の家臣名を掲げる。後世の奥書は村田市助の写本で、日新没後に子孫が鹿児島その他へ移住した者も多いと説明する。
(天正四年)八月十二日 / 冊子 482頁
島津義久が義弘に、庄内方面へ三百人を送る計画は通路・橋の備えや案内人の報告が想定と異なるため今回は見送ると通知する。高原口の判断を優先し、川上左京亮・雅楽助を十六、七日ごろ派遣して詳しく相談させるとした。
天正八年~十五年 / 冊子 671~672頁
天正八年から同十五年まで、島津家がたびたび軍事評議のため召し寄せた外城の武辺・功者五十四人を、日向・高山・蒲生・小林・志布志・大口・川内など所属地別に列挙する旧記。蒲生衆湯田鶴右衛門の旧記から写したとする。
年月日未詳 / 冊子 153~155頁
天正十四年三月二十七日の伊地知蔵人重増をはじめ、天正年間に豊後・筑前・筑紫・日向などで討死した島津方武士を、氏名・戦場・年齢・所属・同時戦死者とともに列挙する『殉国名藪』。岩屋城攻め、豊後陣、高城・赤城など各地の戦死者を収め、父子・兄弟・主従がともに戦死した例や遺族関係まで付記する。九州統一戦で島津軍が負った人的損失と家臣団構成を具体的に追える名簿史料である。
(寛永十五年)二月三日 / 冊子 749~751頁
阿久根宿泊に際し、地頭衆の滞在で不自由が予想されるため、四郎左衛門を帰すか地頭衆を戻すか相談するよう指示し、出水までの宿泊・昼休みの割付を別紙で送る。黄門様の容体がこの三日軽快していること、薩州様の船が大雨で遅れていること、迎えの者を順次派遣したことを伝える。天草在番衆に油断なく警戒させ、富岡の状況を詳しく注進するよう求める。軍衆の祈念として六十六本の御神舞を行ったこと、兵粮を積めないため二千余人を召し戻す相談、天草番手を五、六千人とし江戸から三千人を遣わす案、百石につき三人の軍役を記す。さらに琉球船が米二百六十石・上布・焼酎などを積んで山川へ来たため、出水へ回航するよう岩切六右衛門へ指示した。川上久国・三原重庸の連署で、山田民部少輔・島津下野守宛。寛永十五年二月三日付。
林鐘二十日 / 冊子 101頁
琉球国三司官が市来因幡守ら五名に宛てた書状。文船派遣の依頼に対し、古来の交流は重んじるものの、近年は日本の賊船往来で海路が不穏となり、島々や港の警固に追われているため、現時点では要請に応じ難いと説明する。贈物への返礼として鹿錦三十把を進呈している。