新納忠元知行目録
慶長十五年四月廿六日 / 冊子 274頁
慶長十五年四月二十六日、新納忠元が薩摩国伊佐郡大口内の諸村について、篠原村中嶋門などの屋敷・田畠と石高を列記し、合計八十余石を寺師筑後守に与えた知行目録。
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慶長十五年四月廿六日 / 冊子 274頁
慶長十五年四月二十六日、新納忠元が薩摩国伊佐郡大口内の諸村について、篠原村中嶋門などの屋敷・田畠と石高を列記し、合計八十余石を寺師筑後守に与えた知行目録。
十二月七日 / 冊子 2頁
市来惣兵衛尉が児玉筑後守へ、銀子四枚と「ひさや」二反について、寛永三年正月十九日に江戸から上る途中の伏見で御納戸から出され、取次を介して渡す品であるため受け取るよう求めた書状。以前は慌ただしく受け渡しが完了しなかった事情を記す。年紀は不明で、十二月七日付。
(寛永十年)十二月五日 / 冊子 397頁
伊地知重康が伊地知筑後守へ、松沢六右衛門尉便の書状を受け取ったこと、久志地頭の人事を野村大学助・山田民部少輔らと協議すること、鹿児島で関係者と面会すること、出銀を怠らないことを求めた書状。
(寛永十一年)三月十七日 / 冊子 414~415頁
山田有栄が児玉筑後守へ、拾良地頭役の拝領を祝し、出水の児玉吉兵衛を拾良へ移す件、国境の人員移動、野村大学介の帰国、久隅守の暇などについて伝えた書状。
(寛永十一年)四月晦日 / 冊子 419頁
八文字屋閑史が児玉筑後守へ、急な下向で京都・大坂で会えなかったことを惜しみ、江戸屋敷の安否と下国の労をねぎらい、黄門の京都滞留時に上洛して面会したいと伝えた書状。
寛永十一年十二月七日 / 冊子 463~465頁
税所某が、親次郎右衛門・休心ら一族の知行二百石・千百石・五百五十石の継承、勘気による召上げと復帰、扶持・銀の貸付、奉公先などの経緯を詳述し、自身への知行・扶持と奉公の取り扱いを児玉筑後守へ嘆願した書状。
九月四日 / 冊子 121頁
島津忠朝が進藤筑後守に書状の披見を伝え、修理大夫任官に際する厚意を謝した書状。糸や五明三本の贈物を受け取り、京都の不慮の錯乱下での馳走を求め、詳細は使節に託す。
天正十年九月 / 冊子 717頁
島津義久が近衛家へ、前年十一月二十六日付の書状と親王筆の色紙三十六枚、板物二端、引合十帖などを正月に受領した礼を述べた書状案。京都の錯乱への連絡が遠路のため遅れたことを詫び、洛中静謐と近衛家繁栄を願い、進物を添えて披露を頼む。
(慶長二十年)六月十二日 / 冊子 592頁
南部酒二樽を贈り、将軍への奉公に際しての配慮と助言に謝意を示し、今後も家久を見放さず導くよう求めた島津家久の書状。
(寛永四年)六月廿七日 / 冊子 38頁
伊勢貞昌が、今度誕生した男子が立派で成長も順調であり、父君によく似ていると報じる。乳人がいなかったため当地で探して二人を召し置いたことも伝える。
(寛永十一年)四月六日 / 冊子 418頁
伊地知重康が、喜入久右衛門尉の上洛で国元の様子を知ったこと、七島との替地として久志地頭を任じる件を伝え、久志役人を召して協議し処置するよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 499頁
慶長五年正月十九日の志和池城攻撃で、児玉筑後守が付城において槍を執り、城中の剛兵である渡辺茂右衛門と格闘して打ち勝ち、その首を得たため名声を挙げたとする伝記記事。
延文五年十一月一日 / 冊子 19頁
細川清氏が大友刑部大輔に、島津道鑑の監代頼兼が訴えた豊後国井田郷の地頭職について、阿蘇筑後守の違乱を停止し、御下文どおり道鑑代へ引き渡して請取を提出させるよう命じた施行状。
康安二年六月日 / 冊子 27~28頁
島津道鑑が、島山礼部・大宰筑後守頼尚らの処置を退け、薩摩・大隅の分国にある関所・寺社本所領と本領讃岐国榊無保の知行を安堵する御教書を求めた申状。先例文書を列挙し、長年の軍忠を根拠として沙汰を願う。
年月日未詳 / 冊子 234~236頁
応永十七年、島津元久が波見筑後守・樺山教宗らを京都へ派遣した上洛・進献記事。将軍と赤松殿へ太刀、馬、金銀、衣類など多数の品を献じ、伊集院頼久・平田重宗ほか随行者の役割、道中と帰国までを記す。進献品の構成と奉仕者の序列から、島津家の幕府外交を具体的に確認できる。
(元禄十年)四月晦日 / 冊子 273~274頁
元禄十年、記録奉行の求めに応じて加久藤の噯役四人が提出した木崎原合戦由緒書。伊東方が槍掛口から加久藤城へ攻め込み、樺山常陸坊父子と城番衆が戦死したのち、不動寺の僧が鉄砲で米良筑後守を撃って敵陣を崩したとする。島津義弘の木崎原での奮戦、五代勝左衛門による伊東加賀守討取、粥餅田での柚木崎丹後守討取までを伝える。
元亀三年五月四日 / 冊子 279頁
元亀三年五月四日、伊東方が加久藤の大明寺口を破ったため、島津義弘が飯野勢を率いて木崎原へ進み、敵を繰り返し追い詰めた戦いを記す。上野隼人佐が伊東方の大将米良筑後守を討ち取った戦功を特記し、敵を小林郷まで追撃して多数の首級を飯野へ持ち帰ったとする。
(天正元年)十一月廿六日 / 冊子 321頁
近衛信輔が島津以久に初めて書状を送り、京都の不慮の錯乱で諸事に頼る先がないため、使者を通じて依頼した匠作への支援を求める。詳しい事情は進藤筑後守が説明するとする。本文の日付は十一月二十六日と読め、確定版年月日と一月の差がある。
(天正元年)十一月廿六日 / 冊子 321頁
近衛信輔が肝付兼盛に初めて書状を送り、京都の不慮の錯乱により諸事に頼る先がないため、匠作への支援を求める。五明五本を贈り、詳細は進藤筑後守が説明するとする。
天正九年十一月二十六日 / 冊子 703頁
近衛信尹が樺山善久へ、京都で不慮の錯乱が起こり他に手段がないため、匠作へ使札を送ったと伝え、この機会に助力が得られれば喜ばしいと述べた書状。扇三本を贈り、詳細は進藤筑後守に託す。
天正九年(天正十年カ)十一月二十六日 / 冊子 703頁
近衛信尹が喜入季久へ、京都の不慮の錯乱で他に手段がないため、この機会の助力を頼み、詳細は進藤筑後守が伝えるとした書状。本文朱書は天正九年とするが、編者注は天正十年の誤りと指摘する。
天正九年十一月二十六日 / 冊子 703頁
近衛信尹が喜入久道へ、京都の不慮の錯乱で他に手段がないため、この機会に助力を得たいと求め、詳細は進藤筑後守が伝えるとした書状。
天正十年十一月二十六日 / 冊子 728頁
近衛信尹が島津家久へ、京都で不慮の錯乱が起こり他に手段がないため、匠作へ使札を送ったと知らせ、この機会の助力を頼んだ書状。扇子五本を贈り、詳細は進藤筑後守に託す。
天正十年六月二日以後 / 冊子 728頁
天正十年六月二日に織田信長が明智光秀に弑されて京都が錯乱したため、近衛信尹が進藤筑後守を使者として島津家久へ書状を送ったことを記す家久譜中記事。
天正十年十一月二十六日 / 冊子 728頁
近衛信尹が新納忠元へ、京都で不慮の錯乱が起こり他に手段がないため、この機会の助力を頼み、詳細は進藤筑後守が伝えるとした書状。
天正十一年九月 / 冊子 759頁
島津義久が大友義統へ、上使の進藤筑後守が春以来島津領に滞在していたが帰洛するため、海陸の通行について懇切な取り計らいを求め、詳しくは使者の口上に委ねた書状案。
年月日未詳 / 冊子 267頁
近衛信尹が肝付弾正忠へ、禁裏近辺へ堂上衆が戻ったことなどを述べ、家門に関する用向きへの馳走・助成を依頼し、詳しくは進藤筑後守が伝えるとした書状。本文・宛所に島津義久の実名・法号はない。
元禄十四年八月廿三日 / 冊子 499頁
児玉利言が、慶長四年の島津忠恒による庄内出陣の際、先祖の児玉筑後守が供を務め、伊集院源次郎の家臣渡辺茂右衛門を槍で討ち取ったこと、そのほかにも軍功を重ねたと伝承される旨を申し立てた申状。
年月日未詳 / 冊子 927頁
東郷重位の弟子児玉筑後守の兵法を述べた太刀合書。燕飛などの型に頼らず、木刀を取れば正面から打つ実戦的な剣風で、形より誠の心を重んじたと記し、重位の歌も引く。
(寛永二年)九月八日 / 冊子 830頁
秋山正童が島津家久へ、九日夜に訪問すると約束したが、井上筑後守との番替えで翌日が自身の当番となったため、訪問を免じてほしいと詫びた書状。先に城で会えたことを喜び、約束を偽る意図はなく、後日伺って礼を述べると伝えた。
(寛永五年)十一月十七日 / 冊子 73頁
竹之内覚右衛門尉が、児玉筑後守から求められた品に関する代銀として、銀三十三匁を確かに受け取ったとする請取状。
(寛永五年)十一月十九日 / 冊子 73頁
山田有栄が支配奉行へ、児玉筑後守の本高二百五十二石を三百石にする希望と買地を踏まえ、知行高を調整するよう求める。あわせて新納刑部太輔に大口方面の替地二百五十石余を支配するよう指示する。
寛永十年正月三日 / 冊子 405頁
児玉利実が、寛永十年十二月初七日付の江戸書状を翌十一年正月二日に受け取り、筑後守が始良(姶良)の地頭職と毎年八木(米)三十石を拝領した旨を確認した記録。同夜の兵法初めは式部大輔邸での実施が延期され、仁礼蔵人の宿所で若衆によって行われた。寛永十一年正月三日付で藤原氏利実が署名し、追記では同月二十三日・二十五日の市来八右衛門らによる地頭拝領関係の連絡・進物を記す。本文日付は寛永十一年正月三日で、索引の寛永十年正月三日とは相違する。
年月日未詳 / 冊子 407~408頁
弾正への知行三千石について、祢答院と東郷の替地、三千石の加増、当初の約束と今回の処置、町田駿河守・児玉筑後守を使者とした経緯を記す覚書。
寛永十一年九月廿五日 / 冊子 450頁
伊勢兵部少輔の分として千石を上置きしたうち、今度返給となった千石について、淡谷四郎左衛門・児玉筑後守からの下知に従って支配するよう命じた達書。この高の分は上地しないものとする。
十二月十三日 / 冊子 4~5頁
近衛信尹が、前年秋に禁裏近辺へ堂上衆が派遣されて以後、家門の諸事が不如意であると伝えた書状。助成を求めて古川主膳入道を遣わしたので馳走してほしいと頼み、扇子五本を送り、詳細は進藤筑後守から伝えるとする。
十一月廿六日 / 冊子 11頁
近衛信尹が、京都で不慮の錯乱が起こり諸事に方策がないため、匠作へ使者の書状を送ったと伝える文書。この機会に匠作を馳走してほしいと頼み、詳細は進藤筑後守から伝えるとする。
十一月廿六日 / 冊子 94頁
近衛尚通が島津右馬頭に宛てた書状。京都で思いがけない騒乱が起こり諸士が頼る先を失っているため、匠作へ使札を送り、この機会に尽力してもらえればありがたいと依頼し、詳細は進藤筑後守に託している。
正月元日 / 冊子 106(本文はNo.237・冊子頁94参照)頁
樺山久高が権執印に宛てた書状。本文はNo.237と同文として省略されている。参照先によれば、京都の不慮の錯乱で諸士が頼る先を失うなか、匠作への使札と援助を依頼し、詳細を進藤筑後守に託す内容である。
十一月廿六日 / 冊子 109頁
近衛信尹が京都の不慮の錯乱で諸士が頼る先を失っている状況を伝え、匠作へ使札を送り、この機会に援助してほしいと依頼した書状。詳細は進藤筑後守に託している。
十一月廿六日 / 冊子 109-110頁
近衛信尹の書状。本文は既収文書と同文で、京都の不慮の錯乱により諸士が頼る先を失うなか、匠作への使札と援助を依頼し、詳細を進藤筑後守に託す内容である。本文配置上、宛先の対応に留保がある。
十一月廿六日 / 冊子 110頁
近衛信尹が喜入式部大輔に宛て、京都の不慮の錯乱で諸士が頼る先を失っているため、匠作への使札に応じて援助するよう依頼した書状。詳細は進藤筑後守に託している。
正月九日 / 冊子 115頁
川上久国が豊後守に、陣中の大将役二人と談合衆六人が任命され、今後の調整はこの体制で行うとの命令を伝えた書状。児玉筑後守からの仰せを受け、甲斐掃部介・有馬左近将監にも申し含めたとしている。
十一月廿六日 / 冊子 121~122頁
近衛信尹が喜入摂津守に、京都で不慮の錯乱が起こり諸事に窮しているため、この機会の助力を求めた書状。詳しい事情は進藤筑後守から伝えるとしている。
十一月廿六日 / 冊子 122頁
近衛尚通が京都の不慮の錯乱に際して助力を求めた書状。在謙方舎人家来の小林が中宿野田和泉家にいるとの伝来注記があり、五明三本を遣わし、詳細は進藤筑後守から伝えるとしている。
十一月廿六日 / 冊子 122頁
近衛信尹が新納武蔵守に、京都で不慮の錯乱が生じ諸事に頼る先がないため、奔走と助力を求めた書状。詳細は進藤筑後守から伝えるとしている。
十一月廿六日 / 冊子 137頁
近衛尚通が上井伊勢守に、初めて書状を送り、今度の京都での不慮の錯乱により諸事に対処し難いため、匠作への使札について然るべく取り成すよう依頼した書状。品三本を送ったことを付記し、詳細は進藤筑後守から伝えるとする。
二月十九日 / 冊子 325頁
近衛稙家が島津貴久に、長く音信が途絶えたことを遺憾とし、遠路のため書状を送らず過ごしたことを詫びる。以前から申し入れている件について格別の奔走を頼み、詳細は進藤筑後守に託すとした書状。
八月廿八日 / 冊子 342頁
本文はNo.835の近衛尚通書状と同文のため省略され、同文注のみを掲げる。由緒の件について匠作を通じた協力を求め、扇三本を贈り、詳細は筑後守から伝える内容。
大永年間八月廿八日 / 冊子 343~344頁
近衛尚通が島津三郎左衛門尉へ、まだ直接の交渉はないが、由緒の件を匠作へ申し入れているので、相談して協力してほしいと求めた書状。扇三本を贈り、詳細は筑後守から伝えるとして省略する。