伊作観音由緒記
年月日未詳 / 冊子 588頁
島津忠良が十五歳の時に観音の霊夢を得て供物を捧げ、伊作城が攻撃された際にも観音の加護を受けたとする伊作観音の由緒記。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 588頁
島津忠良が十五歳の時に観音の霊夢を得て供物を捧げ、伊作城が攻撃された際にも観音の加護を受けたとする伊作観音の由緒記。
年月日未詳 / 冊子 762~763頁
天文七年十二月晦日、日新公が軍勢を招集して加世田攻めを告げ、父子三人と選抜した兵が夜襲を敢行したことを記す。狐火を頼りに城壁へ密進し、激戦の末に新城を陥落させた。
年月日未詳 / 冊子 764~765頁
加世田の道仲軒住持・照岳有鑑が天文七年の出陣で日新公に陣僧として供奉し、誠訪大明神へ案内して難を避けさせた由緒を記す。その忠節により天文八年に寺が再興され、山号を誠訪山、寺号を大中庵とした。
年月日未詳 / 冊子 765~766頁
日新公の加世田出陣時、高良八幡へ参詣して落城を祈願し、阿多花瀬村立本原で軍勢を整えた由緒を記す。加世田落城後、社を現在の宮地へ移して社殿を造営した。
年月日未詳 / 冊子 766頁
永正九年に日新公が建立した阿多花瀬村の稲荷社について、天文七年十二月二十九日の加世田出陣時に狐火が進路を照らし、社の加護として所領・棟札・銘書が与えられた由緒を記す。
年月日未詳 / 冊子 766頁
天文七年十二月二十九日の加世田出陣に際し、日新公が高良八幡へ参詣して誓願し、阿多花瀬村立本原で軍勢を集めたこと、落城後に社を移して造営したことを記す。
天文八年正月十一日 / 冊子 769頁
日新公が吉松衆に、神社仏閣の修理・祭祀、神慮への畏敬、農業と年貢、武芸鍛錬、忠孝、家内の養育など、領内統治と日常倫理に関する心得を示した吉書。
三月廿二日 / 冊子 774頁
日新公が富松左京亮・野村兵部尉に、弓箭の初めから忠節を尽くしたことを賞し、今後も変わらぬ奉公を期待する旨を伝えた証状。
年月日未詳 / 冊子 774頁
日新公の短歌二首を収める詠草。松竹や水、神の恵み、月の都などを詠み、丸尾鹿左衛門が所蔵した。
年月日未詳 / 冊子 774頁
天文八年三月二十八日、日新公が川辺古殿へ赴き、高城主鎌田加賀守の降服を受け入れたこと、四月朔日に本城へ戻って新納伊勢守に凱歌を教えたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 777頁
多田紀伊介が兄とともに伊集院大和守の近侍となり、稲荷宮修理をめぐる密談から謀計を察知して日新公へ報告し、城方の計略を退ける助けとなった経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 799頁
天文十一年三月、日新公と貴久が薩摩兵を率いて大隅へ渡り、樺山の生別府から加治木城を攻めようとしたが、大雨と増水のため軍を退いた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 800-801頁
天文十一年三月、樺山安藝守の隅州小濱の城へ南方勢が攻め寄せたため、日新公・貴久方が援軍を発し、北原方と対陣した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 806頁
天文十一年十一月二十七日、日新公・貴久が樺山安藝守範久に、小濱城へ近邦の凶徒がたびたび来襲する状況を受けて守備と処置を命じ、所領給与と忠節を約した。
年月日未詳 / 冊子 806頁
凶徒がたびたび城下へ来襲したため、日新公・貴久が樺山安藝守に城の守備を命じ、所領を与えて勝久旧領の回復と忠節を求めた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 828頁
日新公が伊呂波四十七字を各首の頭に置き、宗養法師の備えを参考にして、世人の戒めとなる四十七首の教訓歌を作った由来を記す。
年月日未詳 / 冊子 852~855頁
天文十七年、大隅国府の本田氏旧臣が起こした乱を島津貴久方が鎮定した経過を記す。本田紀伊守・北原方と伊集院忠朗らが清水城・姫木城を争い、放火で寺社が焼失する中、日新公方の援軍と城攻めによって反乱勢力を退け、地域支配を再建した。
年月日未詳 / 冊子 856~857頁
『樺山玄佐譜』が、姫木城をめぐる北原・本田方との攻防を記す。樺山玄佐が守兵・援兵を率いて城の防備を整え、伊集院忠朗や日新公方と連絡しながら、清水方面の敵情、援軍の到着、城兵の出撃に応じて兵を配置した経過を伝える。
文化14年12月13日(法事記事)/12月12~13日(二日間の注記) / 冊子 521頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1584
重豪公御譜中、斉興公御譜中にもあると注記する。今年冬十二月十三日、日新公二百五十年忌の法事を加世田郷日新寺で修したと記し、二日間に「自十二日・至十三日」の注がある。重豪も家老島津安房久備を同寺へ遣わし、香奠金二百疋を進献して代拝させた。法事の記事日付十三日と、二日間の開始十二日・終了十三日を区別する。金の原単位は疋であり、両へ換算しない。重豪本人が同寺へ参列したとせず、久備を遣わして代拝させた記事として整理する。
寛文九年閏十月十四日 / 冊子 205~206頁
堀四郎左衛門が、島津忠国・元久・用久・忠良・久逸らの親族関係と、忠国の娘玉泉智芳大姉をめぐる玉泉寺の由来、長興寺からの改称、寺領・由緒を記した覚書。
年月日未詳 / 冊子 766頁
永正九年建立の阿多花瀬村稲荷社について、天文七年十二月二十九日夜の加世田出陣で狐火が大手口への道を照らし、その加護により勝利したとして社領・棟札を与えた由緒を記す。
年月日未詳 / 冊子 766~767頁
天文七年十二月二十八日、忠良・貴久・忠将の父子三人が雪中に加世田へ出陣し、道中で垂れた蜘蛛の糸を三人そろって見たことや、夜半の鐘声を記す。忠将を大手口の大将として攻め、敵の反撃を受けながら諸将が救援し、新城では未明までの激戦の末に城兵を討ち取って落城させた経過を伝える貴久公記。
年月日未詳 / 冊子 767~769頁
天文八年の加世田・新城をめぐる攻防を諸譜から集成した国史記事。本丸への進攻、城兵の反撃、救援と追撃、双方の戦死者を記し、新納康久・鎌田政真らの動向を追う。さらに伊集院忠朗方の蜂起と忠良・貴久方の反攻へ続き、城の奪回をめぐる連続戦を示す。
年月日未詳 / 冊子 771頁
天文八年三月十三日の谷山紫原合戦と、その後の神前城・本城・山城攻めに参加した味方の交名注文。島津忠良・貴久のもと、平田宗秀、伊集院山城守、大野駿河守、勝部兵庫允らを部隊・日付ごとに列記し、連続する攻略戦への動員状況を示す。
年月日未詳 / 冊子 772頁
天文八年三月十三日の紫原合戦で日新・貴久方が敗れた後の反撃を記す。平田宗秀の城をめぐって使者交渉と援軍派遣を行い、神前城・本城などを攻撃した。伊集院方との和談条件を調整し、敗戦直後から城郭支配を立て直した経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 775頁
伊集院民部少輔の切腹後、伊集院某が一族の処遇を願い出た申状。島津忠良・勝久への長年の奉公、伊作方での軍事的働き、家中が困難に陥った事情を具体的に述べ、民部少輔の事件だけで一族全体を処罰せず、過去の功績を考慮して知行・身上を処置するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 775~776頁
谷山神前城攻撃の相談に基づき、伊集院某ら二手の軍勢が火を合図に夜襲した経過を述べる申状。城内へ突入して守兵と戦い、負傷しながら味方と合流した働きを記す。忠良・貴久へ軍忠を報告し、戦功に応じた恩賞・知行を願う。
年月日未詳 / 冊子 782~783頁
島津忠俊・勝久の時代に伊集院与左衛門らが果たした奉公を聞き取った記録。各地への軍役動員、城攻めと弓矢の働き、伊集院伊賀ら一族との関係、知行地の保持と戦功に対する恩賞を挙げ、主家交替期の奉公実績と所領の由来を伝える。
年月日未詳 / 冊子 799~800頁
天文十一年春、北原氏が本田氏討伐を図る一方、島津忠良・貴久方が生別府へ進軍した経過を記す。樺山玄佐・善久らが北原方と戦い、城を攻めたが、大雨で軍勢・兵糧の維持が困難となり、攻撃を中止して撤収した戦況を追う。
年月日未詳 / 冊子 801頁
天文十一年三月、島津忠良と貴久が伊勢守・樺山氏らの軍勢を率いて大隅方面へ進み、北原方との合戦に臨んだ経過を記す。敵味方に死傷者が生じる中、豪雨で進軍と攻城の継続が困難となり、部隊をまとめて帰陣した判断と損害を伝える。
年月日未詳 / 冊子 806~807頁
負傷した樺山安藝守の今後を、島津忠良・貴久、喜入式部太輔らが評議した経過を記す。生別府の番役を誰が担うか、安藝守の所領をどのように配分するか、家臣を誰に付属させるかを定め、神社への奉納も行って、戦傷者の家と軍役を再編した。
年月日未詳 / 冊子 829~832頁
島津日新が『いにしへの道を聞ても唱ても』から始め、伊呂波四十七字を各首の頭に配した四十七首の教訓歌。学問は実践を伴うべきこと、主君・父母への忠孝、礼義、自省、節制、他者への思いやりを平易な表現で説き、家臣・子孫の行動規範を示す。
年月日未詳 / 冊子 833頁
島津日新がいろは四十七字を各首の頭に置いて教訓歌を作った由来を記す。本文はNo.2509-1と同文のため省略される。
年月日未詳 / 冊子 833頁
学問・忠孝・礼義などを説く四十七首のいろは歌。本文はNo.2509-2と同文のため省略される。
明和四年十二月十三日(忌日、法会十二~十四日) / 冊子 180~181頁/原整理番号 445/整理ID 445
この年十二月十三日が日新公の二百年忌に当たるため、日新寺で十二日から十四日まで三日間の法会を修したと記す。香奠として白銀十枚を進納し、家老高橋此面種寿が代参した。日新公には島津忠良、日新寺には加世田の小字注がある。「御譜中」の記事であり、忌日と法会期間及び香奠・代参を記録する。
寛政6年正月(本文。碑銘作成)、天和2年・永正11年の回顧を含む / 冊子 75頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0248-1
薩州田布施の邑金峰山麓の亀城と、城内の荒神祠を修めた由緒を記す碑銘。小石室は天和2年壬戌に邑人篠原佐左衛門政盈が建て、島津貴久の誕生地と記していたという。寛政6年正月に有司へ修祠・石欄設置を命じ、銀六百四十五銭を長生銭として邑吏に付け、祠事の資としたため、臣山本正公室に石へ事を記して傍らに建てさせたと述べる。貴久は日新公の子、母は薩摩守重久の娘で、永正11年5月5日に生まれたと記す。誕生舎の跡に後人が荒神祠を建て、祠から東南十五、六歩の亀石二つと、亀石から西二歩の日新公が植えたと伝わる古松を挙げる。貴久の生誕・国難平定とこの地の縁を讃え、祠を鎮護して遺跡を存し、石や松のように保つ旨の銘を結ぶ。
安政4年10月7日仰出(末尾記載) / 冊子 175~178頁/原整理番号 247/整理ID 247
雑抄に収める斉彬公御筆と造士館・演武館への申渡。大信公の配慮で設けた両館の衰微を改め、造士の趣旨にかなう運営と武術修練・平常の心掛の検察を求める。学問は修身斉家治国平天下の道理を研究し、今の政務に役立てることが肝要とし、文章詩作だけに偏る学風を戒める。三綱五常・名分・祖宗への敬意、皇国の古典や律令等を踏まえた学風を説き、聖賢の言行を現実に照らして修行・読書・日用実行を一致させるよう求める。儒官には政事・経済・時務に通じる修行、政務関係者には公務の余暇の学問を勧め、日新公いろは御諭歌の実践や当座の利得に偏らない学問を説く。文徳と武備、兵法武術、外国情勢を知ることを重視し、余力には西洋の和解書・外国の風俗器械も学ぶよう述べる。身分の大小にかかわらない造士館出席、他藩の文武修行例、志願者の他国修行二三年の願出にも触れ、父祖の名と後年への責任を説く。末尾の五名による申渡は御筆の趣旨を奉じて学問武道に励み役立つ人物となるよう求める。安政四年十月七日の仰出と記す。
年月日未詳 / 冊子 111~112頁/原整理番号 70の8(推定)
絵の譬えを通じ、人の善悪・長短を見極め、老・壮・少をそれぞれ用い、公私・上下の理を守る心得を説く。日新公の伊呂波歌三首と小幡勘兵衛の返答を記す。末尾に、宝永7年7月に平田可竹が田町灯下で語ったとの説明と、元禄9年の御城御回禄後の御詠歌再掲に関する記述を置き、次の70-9へつなぐ。
文化3年6月12日 / 冊子 112~113頁/原整理番号 70の9
記録奉行の平田貞太郎ら五名が、日新公いろは歌五首を板書して家老座正面の床に掲げた由来と、その後の撤去・再掲の経緯を調査して報告する。古老や旧記録を尋ねても開始年代を確定できなかった旨を文化3年6月12日付で述べる。
寛永12年10月19日 / 冊子 113~115頁/原整理番号 70の11
文王と太公の問答を引き、賢者登用、賞罰、公正な政治と民を安んずる心得を説く。続く箇条では、国老の好悪に合わない意見も退けないこと、奉行の専断や善悪の誤認、国老・与力の関係などを戒める。末尾に日新公の伊呂波歌七首を掲げ、自己修養と善悪の見極めを促す。
慶長5年9月15日、寛永15年1月13日・2月28日、貞享5年6月12日ほか / 冊子 277~278頁/原整理番号 108
上世不詳とする上原丹後守を祖とし、丹後守が日新公に仕えたのち中書家久に臣従し、日州佐土原で二百五十石を与えられたことから始まる上原氏系図。長野下総守の長男で上原家に入った佐太右衛門は慶長五年九月十五日の関ヶ原合戦で二十五歳で戦死し、法名を節義玄忠禅定門とする。尚辰は島津豊久に従って戦い、豊久戦死後に本城へ移り、寛永十五年正月十三日にわずか三人で米津へ至り、二月二十八日の島原で軍功を立てたと記す。後裔には傳左衛門尚堯、薬丸如水門下で示現流に関わり貞享五年六月十二日に能学寺で自殺した佐太右衛門尉、仁禮仁左衛門景治の二男である尚照らを掲げ、奉公・知行・戦死・養子の由緒を伝える。
延久2年1月10日、永保元年8月7日、天文23年9月27日、慶長18年、元和6年、寛永9年、万治2年12月6日、元禄6年ほか / 冊子 290~293頁/原整理番号 113
三原氏の系譜を、藤原鎌足・不比等・房前以下の藤原北家から、道隆・隆家・経輔・政則を経て菊池則隆へつなぎ、菊池氏から分かれた経隆・経俊・経重以下の諸流として示す。経俊は筑後国三原城に居して三原を氏とし、経重は源頼朝から鞍馬と長光の御剣を賜ったのち筑後国三原城へ移住したと記す。後代には伊作・高城・曾於郡・大口・川辺・伊集院・加世田などの地頭歴、日新公・貴久公・義久公への歴仕、加判役・家久公家老への就任、国分移住後の三百石から元和六年四百五十石・寛永九年五百七十六石への石高推移を載せる。重次(一名重尚、平田左房介宗茂の二男)は天文二十三年九月二十七日に岩剣城で戦死し、重宗は朝鮮で病没、重種は朝鮮出陣・大坂役を経て神祖に謁し家久公の家老となったとする。婚姻・養子・法名・没年のほか、慶長十八年の知行高、万治二年の御勘定奉行記事、元禄六年生まれの重次までを収める。
天文7年、天正7年、慶長5年、承応3年、万治2年12月、天和3年7月18日、宝永2年、正徳5年、享保13年7月1日、元文元年10月2日、文化2年ほか / 冊子 293~296頁/原整理番号 114
上祖不詳で直重の裔族とする三原藤次流の系図。三原藤次は日新公に仕え、天文七年、日新公と島津実久の抗争時に加世田城で戦死し、その後の伊豆守は貴久公の納殿役を務めた。重長は貴久公の御荷内役・御納戸奉行を経て本府へ移り、牛根地頭職と三百石を与えられ、天正七年に家久が佐土原へ移封されると家久の家臣・家老となった。重長の二子は一人が山田城で、藤七が慶長五年に豊久へ従って関ヶ原で戦死したため、垂水の川崎内膳良光の嫡子・重正を後嗣に迎えた。重吉は山奉行となり万治二年に二百九石を知行し、般若院行者堂造営では普請奉行を務め、重時は御納戸奉行・物奉行、重矩(後の経明)は高奉行・御普請奉行寄役・小番を歴任した。後代は重共・経儔・経福・経豊・経載へ続き、児玉家への養子、長崎・入江・児玉各家との婚姻、出生・初見・分家時の四十八石などを記す。
至徳2年12月15日、暦応4年7月27日・8月14日、文安3年、宝徳3年9月8日、嘉吉元年12月12日、寛正3年、天文17年、永禄10年、天正8年、寛永元年、寛延3年1月12日、貞享5年 / 冊子 320~324頁/原整理番号 122
市来小四郎家と次左衛門・千左衛門・左中・勘左衛門などの諸流を、慶頼王の後裔とする祖系から近世まで示す長大な系図。広言が晩年に島津忠久へ従い、その子友成が大蔵家房の娘を妻として市来郡司家へ入り、政家が父家と祖母から市来院郡司職を受けて惟宗・大蔵の二姓を兼ねた経緯を記す。氏家は歌道と蹴鞠に優れ、忠家は至徳二年の犬追物で射手を務めた。久家は幼少時に島津久豊の葬送へ従い、嘉吉元年には薩摩守持久らと島津忠国に供奉したが、後に守護島津立久へ背き、寛正三年に市来城を攻められて没落した。後代では、家保が加世田で戦死し、家永が永禄十年に市山で戦死したこと、家政が天文十七年の日新公による加世田城攻撃で御剣を持ったこと、別家の家政が竹内兵部少輔を称して竹内隠岐守の養子となったのち市来氏を再興したことなど、各流の軍功・戦死・養子・役職・法名を列記する。忠家の一支については次左衛門家系図に見えず、本宗にも忠家がいないとの異説を付記する。
年月日未詳 / 冊子 479~480頁/原整理番号 17
日新公以来の平田家一族の奉公を人物別に列挙した家伝。谷山倉良城主・平田備中守宗秀が蒲生岩剣の陣で形見の刀を宿元へ送り、主従とともに戦死したこと、弟の田布施城主・豊前守宗貞が高城籠城中に城内へ忍び入り、敵中三里を切り抜けて情報を伝えたことを中心に記す。さらに安房介・新左衛門・次郎四郎重辰・宮内少宗鑑・尾岐守・左衛門宗鉢・兵衛宗吉らの召出し、家老役、肥後・豊後・京都伏見での奉公、戦死・病中の逸話、女子二人の伊地知家・帖佐家への婚姻を掲げ、末尾に肥後新左衛門所持本からの写しであることを記す。
目録年月日記載なし / 冊子 103頁/原整理番号 1
近衛稙家公の手跡が記された色紙三十六枚について、島津家の御庄に伝わる由緒と、日新公が近衛家から入手した経緯を考証する。島津御庄・島津御庄号の根拠、古文書と色紙に記された文字を比較し、稙家公の手跡かどうかを検討する冒頭部分。
慶長2年 / 冊子 203~204頁/原整理番号 120
廃れた仏寺・堂社を興し、慈悲信心を起こし、父母と子孫のため善功を積むべきことを説く日新菩薩記。日新公が63歳の慶長2年に日新寺八世泰円守見へ語った内容と、後世の伝来注記を収める。
慶長2年2月22日 / 冊子 208~209頁/原整理番号 125
一向宗は先祖以来の禁制であり、同宗に属する者を処罰するとする島津義弘の掟書抄。日新公の教えや歌を集めた巻に収められた旨を付記する。
9月8日(目録、年次記載なし) / 冊子 107~108頁/原整理番号 1-5
近衛家久は薩摩少将に、祝儀と屏風などの贈物を受けた謝意を九月八日付で伝える。季安は家久の書状と継豊の礼状を引き、近衛稙家公の手跡とされる三十六枚の色紙について、日新公との関係、伝来した時期、料紙の色や枚数、筆跡の真偽を考証する。
明治2年十二月(日不記)知政所 / 冊子 718~719頁/原整理番号 943/整理ID 943
歳久について、帖佐瀧ケ水の自盡と貫明公による心岳寺建立を述べ、寺を廃して跡に一社を建て神霊を崇め社司を置く。忠朗について、奉仕忠節と忠棟父子の叛逆による衰亡を原の評価・説明として述べ、笑岳寺を廃して自家で神霊を崇め、庶流伊集院四郎が祭祀を永続できるよう寄附高から七石を永く与える。忠長・政近・國貞・久治・貞昌の五人は、慈眼公が病悩重い際に位牌脇へ位牌を配列させたとの記述を掲げ、寺院廃絶後、國貞には別に菩提所源舜庵を建て、各霊は長谷神社の肖像脇に改め設けて従祀し、釼一振も置く旨を伝える。明治二巳十二月知政所。原顕彰・叛逆評価、霊の扱いと寺高・庵・釼を区分し、実移送祭祀完成や病名・実給付総額は補わない。