島津玄久宛行状
康暦三年五月廿日 / 冊子 122頁
島津玄久が弟子丸若徳に、大隅国当於郡内智尾名を由緒ある地として以前宛行った文書が紛失したため、改めて宛行い、先例どおり沙汰するよう定めた宛行状。
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康暦三年五月廿日 / 冊子 122頁
島津玄久が弟子丸若徳に、大隅国当於郡内智尾名を由緒ある地として以前宛行った文書が紛失したため、改めて宛行い、先例どおり沙汰するよう定めた宛行状。
年月日未詳 / 冊子 927頁
東郷重位の弟子児玉筑後守の兵法を述べた太刀合書。燕飛などの型に頼らず、木刀を取れば正面から打つ実戦的な剣風で、形より誠の心を重んじたと記し、重位の歌も引く。
保元元年八月廿二日 / 冊子 17~18頁
竹内十郎行実が朝廷への忠節によって鹿児島・谷山などの所領、合計百二十五町を与えられ、三年に一度進上物を納めることになった由緒を記す。あわせて竹内兄弟四人と谷山・伊作などへ続く系統を掲げる。
宝暦九年四月七日 / 冊子 722頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2175
四月七日付の願書控は、松平薩摩守の又従弟女を島津淡路守に嫁がせたいとして、縁組を願い出る。薩摩守側の取次を久世忠右衛門、淡路守側の取次を堀田内膳と記す。
宝暦九年四月七日 / 冊子 722頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2176
四月七日付の久世忠右衛門宛届書控は、島津淡路守との縁組を願う松平薩摩守の又従弟女について、先に届け出て薩摩守のもとへ引き取り、世話していると説明する。このため、別紙のとおり縁組を願うと伝える。
明和六年七月(日無記載) / 冊子 219頁/原整理番号 574/整理ID 574
同年初秋七月、日州佐土原城主島津淡路守久柄の胞弟大和が新しく家を立てようとして、島津の称号・諱名・家紋を願い、重豪が許したことを記す。あわせて庶子の称号・諱名なども定め、その詳細を以下に載せるとする。大和は本文では久柄の胞弟と記され、許可内容の具体的な家格・座席・諱字・紋所は後続文書で示される。
安永二年閏三月四日(年は朱) / 冊子 364頁/原整理番号 1022/整理ID 1022
帰国の暇を許され国元へ移るに当たり、男子がまだいないので、在国中に不慮のことがあった場合には、国元にいる従弟嶋津兵庫を養子として命じ、跡職に相違のないよう願う。兵庫は当年二十二歳と記す。末尾は閏三月四日、松平薩摩守御書判、朱に安永二年とあり、五名の老中に宛てる。男子のない状態と、不慮に備える養子・跡職の願いを述べた書で、正文は右筆所にある。
安永二年閏三月四日(年は朱) / 冊子 364頁/原整理番号 1023/整理ID 1023
去年、帰国の暇を許された際に大叔父嶋津杢の仮相続を願ったところ、杢が去年病死したため、国元にいる従弟嶋津兵庫を、このたび初めて仮養子に願うと申し出る。この旨を承知して置かれるよう求める。末尾は閏三月四日、松平薩摩守、朱に安永二年とある。正文は右筆所にある。亡大叔父の仮相続に関する事情と、兵庫の仮養子の届を記す。
安永八年亥二月 / 冊子 563~564頁/原整理番号 1592の2/整理ID 1592-2
境瀬戸で御仕置を行う際、組中の若年者が大人数で出向き、執行場所を憚らず押し込んで騒がしくしていると聞き、甚だ不適当であると戒める。検使その他の役々も派遣されるので、首を刎ねる際に支障を来さぬよう、皆慎んで遠く引き退いていることを命じる。刎方が済んだ後、出役の横目に引き合わせ、取捨のむくろを受け取って刀を試すことは、各々申し募って随分そのとおりにしてよいとする。一方、夜中にかかって試方が決まらないことがあるのは不都合として、暮時分には試方を終えて全て引き取るよう熟談を命じ、親兄弟や身近な親類にも厳しく言い聞かせるよう伝える。各々へ見聞を申し付けてあり、この旨に背く者には厳しく沙汰すると記す。安永八年亥二月、帯刀。目録は小松清香申渡書とする。刀試しを許す条件と群集・夜間に及ぶ行為への規律を記し、違反者への具体的な処罰は示さない。
文化5年6月(朱年注) / 冊子 300頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0945
領国の風俗について先年から度々命じたが、今なお効果がなく、城下では向きと奥が対立し、もとは同じ仲間なのに他所の者のように隔たり、若い者の夜行・辻立も止まっていないと指摘する。このため一体の和が失われ党を結び、仕置きの妨げとなるのは不届きとする。大身小身とも定めた作法を守り、身分・分限に応じて慎み、国中の静謐と一統の和熟を図るよう命じる。若輩の喧嘩・口論、むやみな夜行・辻立はもちろん、言語・容貌のことも以前の申渡しを忘れず守り、風俗が改まるよう取り計らい、受持役も緩みなく取締るよう求める。違背者には厳しく咎め、特に党を組んで仕置きの妨げとなる者は本人へ厳罰を命じ、親兄弟も軽重に応じた咎目を受けるとする。薩摩守にもこの旨を伝え領国へ申し渡したので、家老中で細部を協議し、是非とも風俗を立て直すよう命ずる。家老中宛、文化5年6月の朱注、正文在文庫。禁止行為、本人処分、親兄弟の責任、取締役・家老の役割を具体的に分ける。
文化8年未4月廿三日 / 冊子 366頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1138
白木御文書七番箱60番。今度御暇を得て国元へ越すに当たり、未だ男子がないという願書の自述を付し、在国中に不慮のことがあれば、国元に置く私弟島津寛二郎・当年13歳を養子として命じ、跡職を相違なく与えるよう願う。文化8未4月廿三日、松平豊後守花押No4表示、四宛。後継備えの願出として記録し、これ自体を養子許可済としない。後出1217御譜は邦丸出生を幕府へ未届だったため弟寛二郎を仮養子に備えたと説明する。未男子の自述と邦丸出生の関係はこの説明を付記し、斉敏についての届出範囲等は別に留保する。寛二郎の若狭養子記事1089・1123も本件の跡職願へ混ぜない。
文化9年壬申4月。願書返却は4月5日、前年就国時の事情を付記 / 冊子 387頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1217
斉興公御譜中。文化9年壬申4月の条で、前年に斉興が就国した際、邦丸の出生をまだ幕府へ届けていなかったため、不慮に備えて弟寛二郎を仮養子とし、その旨を書面で幕府へ告げたと説明する。今月4月5日、老中土井大炊頭利厚がその書面を返却したため併記するとする。1138の文化8年4月廿三日仮養子願と1139の4月5日願書返進を照合する後出根拠として採録。仮養子に備えた願・邦丸出生未届・願書返却を分け、実男子がいなかったことや養子許可が下りたこととは要約しない。邦丸についての説明を他の子女の届出状況へ拡張しない。
嘉永五年五月(諭達・連署)、五月八日・十日(伝達拝見) / 冊子 129~130頁/原整理番号 187/整理ID 187
諸士の風俗を立て直す趣意、家老申渡、矢五太夫から渡された口達書写を収める。些細なことから争論し竹木で打ち合い、郷中集会の不行儀もあるとして、礼儀と律儀を守り学問武道を励むことが武士の本意であり国家の固めになると諭す。本人だけでなく支配頭・親兄弟も教えが行き届かない責任を負い、風俗を改めるよう求める。豊後を召しての御諭達を受けた家老申渡は、国恩と忠勤・報恩、父兄や支配頭の教戒、文武と交友の礼儀を強調し、五月付で豊後・多門・石見・近江・伊織が連署する。五月八日に奥表諸役人と六組諸士へ拝見を命じ、六番與は十日に末川久馬宅で書役が伝えた旨を記す。口達書写は、若者の争論や法外の行いを戒め、無礼を手柄と誤解したり他方限の者との交わりで口論を起こしたりしないよう諭す。違反は吟味し、十五歳から二十五歳までの組下を方限ごとに支配頭宅へ召して、趣旨を手厚く納得させることを求める。
安政5年4月15日(御書取);添付申渡:同年4月 / 冊子 183~184頁/原整理番号 255/整理ID 255
公義御用の蒸気船伝習で役人・蘭人が山川から城下へ来て上陸した際、見物が激しく、諸士も制止に従わず無礼不法の行動があったとして戒める口達御書取。山川番所で冠り物を取り礼節を守った人々と対比し、大小を帯びながら凡下と混雑し、荷付馬を追い放ち、年少者が悪ふざけし、通船時に石を打つなどの行動を非難する。諸士は仁義礼智信を守り、士道と礼義を重んじるよう求める。伝習は海防のためであり、公義役人が帰府後の報告や海防要地の見聞をする可能性、外国人の疑念にも配慮して、公義役人・蘭人の乗船上陸の際には正しく振る舞うよう命じる。見物や乗船、日付の者の乗組も希望があれば書面で申し出ることを許す一方、礼義と信義を重んじ、敵国の使節に対しても勝手な行動をしないよう述べる。支配組下や子兄弟へ伝達し、違反者は本人だけでなく親兄弟も処置する旨で結ぶ。安政五年四月十五日の御書取に、同年四月の四名による漏れない早期通達の申渡を付す。
慶応4年三月24日、桂右衛門、取次御側御用人細瀧権八 / 冊子 545~546頁/原整理番号 705/整理ID 705
京都の事情と太守の心中を聞いた時姫が力を添えたいと願うが、書付は「御女子様之御事」として直接の助力はでき兼ねると説明し、身廻りその他を至極質素にし、召し遣う者を減らす沙汰を伝える。諸士が御両殿への奉公で身命を忘れて伏見で戦い、太守に喜ばれたことを述べる一方、戦死者への深い憐れみを表し、せめて水・茶でも手向けたいので名前を認めて差し出すよう求める。戦死人数・姓名書を提出し、時姫の沙汰と謝意を父子兄弟、地頭・領主にも知らせるよう命じる。慶応四年三月二十四日に桂右衛門が伝え、取次は御側御用人細瀧権八と表示する。
七月日 / 冊子 473頁/原整理番号 607
弟子丸宗方は、瀬之浦に到着し、長崎への南蛮船来航のため急行していると伝える。翌晩に会って相談する意向を述べ、奉行所から届いた条書を閲覧後に返送するよう山田主計助・伊藤壱岐入道へ求める。目録年月日は『七月日』を維持し、本文の七月三日とは区別する。
応永28年5月3日 / 冊子 360頁/原整理番号 149
応永二十八年五月三日、沙弥通松(羽島豊後守友平)が舎弟新三郎へ、国分寺領内の薩摩郡羽島を譲与した仮名書の譲状。坪付などの細目は代々の文書に記載されているため重ねて詳述せず、早く知行するよう命じ、後日の証文として作成する。『旧記雑録前編二』九九八号文書と同一文書と注記される。
年月日未詳 / 冊子 516頁/原整理番号 27
建部姓弟子丸氏について、大隅国の弟子丸名・智尾村などを領した将軍家御家人で、大隅国宮内正宮の田所検校職を務めたため同社旧記に多く見え、祢寝氏も同類であると述べる系譜序文。家伝は宗房を元祖とするが確証が乏しいため、建久9年の『大隅国御家人交名注文』に建部宗房が載り、弟子丸名を領したことが明白で家伝と文書が一致する点から、宗房を鼻祖に定めたと考証する。確証できない世系を無理に論じず、古家の文書から証明できる事実を編集して後世の亀鑑とし、子孫が代々履歴の実を追記して系譜を永続させることを建部宗茂が願う。末尾でも、宗房の出所は不明だが文書と伝説により初祖とし、大隅国御家人であった証拠を後掲すると記す。
康暦3年5月20日 / 冊子 517頁/原整理番号 27-3
康暦3年5月20日、島津氏久(玄久)が弟子丸若徳丸へ、大隅国曽於郡内の智尾名は由緒ある所領であり、先に宛行った文書を紛失したという事情を改めて勘案し、先例どおり沙汰するよう安堵した文書。本文は『旧記雑録前編二』四一四号文書と同文である。後世の編者は康暦3年から明応7年まで118年隔たることから、若徳丸を宗弘の曽祖父かと推定し、宗弘以後は世系が明白なのでここへ接続したと注記し、宗弘を治部左衛門と記す。
建保5年3月5日 / 冊子 655頁/原整理番号 125
建保五年三月五日、平秀忠が弟の平五に、薩摩国山門院内針石小村の田畠・荒野・屋敷等に関わる針原村の所領を永代に譲り、御公事を勤めるよう定めた譲状。秀忠は父の譲状によって山門院郡司職を受けたと述べ、秀忠の子孫がその職を知行して平五側に煩いを及ぼすときは、平五の子孫が郡司職の下賜を申し求められると付記する。秀忠が花押を据え、『家わけ六』山門文書四号との同文推定注記がある。
年月日未詳 / 冊子 121~122頁
『島津国史』が永徳元年前後の改元と領国・軍事情勢をまとめる。島津伊久が大隅国当於郡智尾名を弟子丸若徳へ宛行った記事に続き、今川了俊・禰寝久清・税所介祐義・土持氏らによる諸城攻略と都城方面の戦闘を記す。所領給与と九州探題下の城郭戦を同じ年次で位置付ける。
嘉慶三年正月十七日 / 冊子 140頁
権少僧都明印が、日向国救仁郷法丸名内の水田四町と薗四か所を弟子に譲り、公方の御祈祷・祭礼を先例どおり勤行するよう定めた譲状。
年月日未詳 / 冊子 310頁
追放後に反逆した奈良氏兄弟が守る指宿城を島津久豊方が包囲した経過を記す。退城交渉がまとまらず攻撃となり、奈良方は隈城へ退却して降伏した。戦闘で酒勾主計が戦死し、清敷彈正忠らが軍功を挙げたことを示し、指宿支配の回復を伝える。
文安元年十月十四日 / 冊子 408~409頁
伊東祐堯が一味の衆と、政情が変化しても互いの大事を自分の大事として助け、武力対立や島津氏兄弟の和睦時にも協議し、密かな交渉や相互の城への忍び入りを禁じ、讒言があれば包み隠さず確認し、子孫まで水魚の交わりを守ると神々に誓った契状。
文安元年十月十四日 / 冊子 409頁
野辺盛吉が一味の衆と、世上が変転しても相互に助け合い、武力対立や島津氏兄弟の和睦時にも協議し、密かな交渉・城への忍び入りを禁じ、讒言を残さず確認して子孫まで水魚の結束を守ると神々に誓った契状。
年月日未詳 / 冊子 3頁
弘治元年正月、屋形様父子が吉田まで出陣したが、北村勢の偽計により味方が敗軍した。弟子丸播磨守が退かずに討死し、指宿丹後守・敷根源八兵衛らも戦死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 3~4頁
島津貴久勢が北村で北原氏の偽装退却と伏兵に遭い包囲される。指宿右馬允と竹若丸が殿を務めて戦死し、弟子丸らも討死する一方、北原忠辰が追撃勢を攻め、貴久は退却した。翌日、北原勢が加治木・溝辺へ進出すると大隅衆が迎撃し、敵およそ二十人を討ち取る・生け捕るなどしたが、味方の足軽にも戦死者が出た。
(慶長元年)三月二日 / 冊子 10頁
石田三成が島津又八郎へ、又八郎の弟の知行について二百石を与え、今回の割当ても十分に取り計らったと伝えた。なお不足を感じる場合には相手を煩わせてでもよく配慮し、又八郎も心得るよう求めた書状。
慶長四年五月朔日 / 冊子 379頁
大井七右衛門ら五名が、鞍馬へ移った幸侃の妻子の居所へ連絡しないこと、小傅次兄弟のもとへ国元の者が出入りすれば親類でも報告すること、番勤中の見物・社寺参詣を慎むことなどを誓う。さらに小傅次兄弟の家中との交通、公用以外で他方の者と会うことを禁じ、違反すれば神罰を受ける旨を記す。
(慶長五年)七月二日 / 冊子 549頁
島津惟新が少将殿に、内府の使者山口直友の命で小伝次兄弟三人と伏見で面会したことを報じる。源二郎母と子供三人が帰国を望み、源二郎も同意していると聞いたが、母が大坂城へたびたび推参して内府へ直訴したため早急な帰国を命じられたと説明する。帰国後に国人を惑わせ源二郎の心変わりを招く懸念はあるものの、上方に置けばさらに問題が深まるとし、兄弟の一人を当地に留めたい意向を伝える。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 98頁
慶長十一年十一月二十七日の犬追物で奉行を務めた者の交名注文。殿を筆頭に、島津上野入道・弟子丸右京進・本田与兵衛尉・伊集院源左衛門尉を列記する。
(寛永五年)四月十七日 / 冊子 61頁
亀山家の兄弟に五十石・三十石、藤野に五十石を与え、町田勘解由次官は加増して計三百石とする。弟子丸越後入道を真幸吉田へ移して五十石、村田刑部少輔を穆佐へ移して旧知行から三百石を返付するなど、知行配分と移住を定める条書。
(寛永八年)正月八日 / 冊子 187~188頁
祈念の品として贈られた小袖一重を喜び、寒さの続く江戸で着用すると述べる。互いの無事や兄弟が懐かしがっていること、松千代からも文が届いたことを伝え、住まいの移転・整備らしき事柄にも触れた島津家久の仮名書状案。
四月十六日 / 冊子 170頁
島津久慶と頴娃久政が諸所の噯衆に、江戸奉行衆の奉書が早飛脚で下されたため写しを地頭衆へ回したことを伝え、前年の指示と相違なく油断せず申し付けるよう命じた廻文。御兄弟衆が巡見するので、不行届きの場所は直ちに報告されることを心得、少しも疎略にしないよう戒める。
九月八日 / 冊子 174頁
正賢が肝付郡弁済使に、左近将監兼元の申し出を受け、舎弟の身として嫡子の命に従うべきこと、嫡子側も舎弟を憐れんで取り計らうべきことは以前の下知にも載せたとして、その趣旨に違わず早々に処置するよう命じた奉書。
十月廿四日 / 冊子 175~176頁
行恵が岸良村弁済使に、上洛時に申し上げた件について処置を求め、御舎弟側の奉行や使者の催促に関する事情を述べた書状。年内に京へ届くよう沙汰すべきことを重ねて求めるが、対象物を示す語には判読上の留保がある。
年月日未詳 / 冊子 320~321頁
『日新記』の記事。家臣の子弟が遊惰に流れないよう、学問・書道・武勇・軍学・兵術・歌舞・音楽など各自の才能に応じた修業を命じ、仏経禅衣にも通じて一芸を身につけ、主君に奉仕するよう奨励したことを記す。
十六日 / 冊子 337~338頁
見舞ったところ母の体調はかなり良くなっていたが、今後は食事を少量ずつ取り、日数が経っても再発に注意して養生を怠らないよう細かく諭し、兄弟にもよく伝えるよう求めた島津家久書状。
二月九日 / 冊子 108頁/原整理番号 171
川上久国・三原重庸が米之津の市来宗友へ、薩州様が豊後鶴崎で乗船したとの風説を確認するよう求める。諸所衆の有馬渡海を無断で許さず、先発四百人や道具持衆の到来に応じて割付・継送を整え、紛失者等も勝手に渡海させず賦所の指図で扱うよう命じる。
文安元年十月廿二日 / 冊子 409~410頁
高木殖家が一味の衆と、政情が変化しても互いに助力し、争い・和睦の際は協議して独断や密かな交渉をせず、相互の城への忍び入りを禁じ、讒言を包み隠さず確認し、子孫まで水魚の交わりを守ると神々に誓った契状。
(寛永十五年)八月八日 / 冊子 817~819頁
有馬の城攻めに参加した者に書付を提出させ、新納加賀守・市来八左衛門尉らの扱いを定める。天草と有馬の間を命令なく移動・帰還した者を調査し、帰国の有無に応じて報告させる。寛永十二~十四年分の出物未進や出銀未進、算用所・諸蔵の帳面を処理し、耕作・荒地の状況を確認する。御乗物廻しや御草履取候補の処遇、加治木から上方へ出た銭作人の召還と悪銭防止、米借用などについて指示・照会する覚書。宛所は御支配奉行中。川上五兵衛・鬼塚源太左衛門は八月十九日に書を持ち下った者で、宛所ではない。発給者未詳。寛永十五年八月八日付。
安政5年12月(記録);本文「午十二月」 / 冊子 192頁/原整理番号 271/整理ID 271
橋口助之丞安利・勘之丞行安について、禁裏御所御太刀を行安が打つ叡慮により、宰相に調進が頼まれ、近衛左大臣忠熙からの伝達で打方を命じたことを記す。受領を願い出て行安に大和介が許され、無類の事柄として特別に身分を引き上げ一代御小姓與に召し出す。安利も御用の後見を勤めたため、褒美として一代御小姓與とし、兄弟の者へ申し聞かせるよう求める。刀袋の錦地には行安の紋柄を織り出す注文があり、御織を調進する旨も記す。玉里御殿で兄弟へ伝達して書付を渡したため、御記録所の帳へ記し、宰相の沙汰に従って取り扱うよう命じる。午十二月、永江休之丞の記載と安政五年十二月の記録表示を伴う。
年月日未詳 / 冊子 75~77頁
島津氏久譜中から、新納実久の元服、修理亮任官、所領賜与を記し、その後の志布志周辺での合戦を詳述する。畠山治部大輔方に対し北郷彦七郎・本田重親・石井肥後兄弟ら一族・被官が奮戦し、多数の戦死者を出した長期戦の経過を伝える。
年月日未詳 / 冊子 202頁
島津恕翁公譜の記事として、本田信濃守忠親が島津元久・伊久の対立を憂えて出奔し、のち軍勢と合流して戦ったこと、熊田原兄弟らの戦死と宝満寺門前での供養・像の安置を記す。
永享十年三月十四日 / 冊子 379~380頁
河内守重政が松五郎へ、薩摩国高城郡・東郷および相模国小津合郷などにある代々相伝の所領、屋敷、田地を永代譲渡した譲状。松五郎に子がない場合は重政の兄弟の中へ譲ることも定め、遠隔地を含む所領の継承順位と一族内相続の条件を明記する。
年月日未詳 / 冊子 760頁
天文七年、新納氏の没落後に四郎兄弟が日新方へ加わり、十二月二十九日の加世田城攻めで大寺越前守・鎌田加賀守・右馬頭忠将が軍功を立てたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 1~2頁
島津貴久が嫡男義久、弟忠将、子の歳久・家久を率いて北村を攻めた際、敵の伏兵に遭って歳久が負傷。翌日、北原氏の軍勢が溝辺に出たため大隅衆が迎撃し、鉄砲で敵六人を射殺、太刀で一人を討ち取った。
年月日未詳 / 冊子 2頁
蒲生北村の敵が帰順を装って島津軍を誘い出し、弘治元年正月二十二日に貴久・義久が吉田から出陣したところ伏兵に遭った。弟子丸播磨守・指宿丹後守以下十八人が戦死し、十九歳の歳久も負傷したと記す。
天正八年八月十九日 / 冊子 663頁
天正八年八月十九日、薩摩・大隅・日向三州の軍勢が肥後国葦北郡水俣城を包囲した。球磨・八代勢七百余が籠城したため相垣を結んで攻め、相良義陽が子息兄弟を人質として差し出して島津旗下へ入り、葦北七浦と七城を明け渡したので島津軍が帰陣したと記す。
年月日未詳 / 冊子 183頁
新納忠元譜の記事。天正十四年六月、宗和が使者を遣わし、十六日に忠元の弟と記される家久が書状で返答した。十二月二十日には忠元が宗和へ書を与えたことを記し、両者の使者・書状往来を簡潔に伝える。