島津重豪達書
閏八月 / 冊子 197頁
島津重豪が役人任用の適正化を命じた達書。家老中へ別紙の趣旨を伝え、不正な人物を役職に就けないよう表方とも相談し、役付きから小役人まで不正が判明した者は速やかに吟味して処罰するよう厳命する。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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閏八月 / 冊子 197頁
島津重豪が役人任用の適正化を命じた達書。家老中へ別紙の趣旨を伝え、不正な人物を役職に就けないよう表方とも相談し、役付きから小役人まで不正が判明した者は速やかに吟味して処罰するよう厳命する。
六月 / 冊子 197~198頁
島津重豪が領国の風俗・綱紀を立て直すため家老中に示した達書。近年の夜行・徒党・奢侈・博奕・派閥争い・役人の不正などを挙げ、法令と分限を守り、公私の区別なく公平に吟味して悪弊を改めること、家中から領内まで一統して倹約と秩序を徹底することを命じる。
十二月 / 冊子 200頁
島津斉宣が家老中に、身分の上下を問わず幼少時から我儘に育てれば成人後に国家の用に立たないとして、家族・親類が相互に教導するよう命じた達書。家法・礼儀・文武・家訓を守り、奢侈や不才を戒め、若者を有用な人材に育てることを求める。
九月 / 冊子 198~199頁
島津重豪が、江戸・京・大坂での借金増大、利払い、諸用金、産物収入不足など藩財政の窮迫を示し、産物・勤事の立て直しと倹約を命じた達書。派閥や私情に流されず、諸役人が一致して改革を進め、国中の飢渇を避けるため速やかに処置するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 627~629頁
島津家の家老臣が連署して定めた年中行事の式日次第。正月の祝儀・参賀から七夕まで、饗応、使者の派遣、社寺参詣、座敷での座次と役割を日付順に掲げ、田島・伊地知・本田・桑波田・石井ら家臣が担当する儀礼と家中運営の手順を示す。
天文三年九月十六日 / 冊子 727~728頁
島津家老臣らが、徳永隼人佐・今岡民部大輔らを通じて幕府側へ窮状を訴えた連署状。薩州方との対立で通航と軍事行動が妨げられている事情を述べ、安来殿らの取り成しによる上洛・将軍拝謁、幕府の援助と家中安定への沙汰を求める。
天文三年九月十六日 / 冊子 728頁
本文は前掲No.2227と同案文であるため省略され、別本もあることだけを注記する島津家老臣連署状。
天文十七年四月廿六日 / 冊子 851頁
島津家老臣が大隅国堅尻名内の春毛ノ門・はるけ田・なかやまなどの田畠を区分し、反別を列記した連署坪付。
本文年月日不記(順聖院家督中に家老へ渡した書取として記す) / 冊子 174頁/原整理番号 244/整理ID 244
雑抄に収める、順聖院の家督中に岡部与兵衛が身分立身を申し出た際、家老衆へ渡した御書取。名分が正しくないことを政務の大害とし、経書・通鑑に言及して、過去はやむを得ないとしても今後の士・商の差別を明確にするよう求める。町人二人の身分を吟味する申出について、町年寄格や金品の褒美によって功績を賞することは可能であっても、三町年寄上席等の新しい階級を設けることには慎重な意見を示す。公辺でも町年寄上席以上に町人の身分を引き直す例はないと述べ、乱世の金銀による立身と無事の治世を区別する。名分を正すことが今後の士気振興にもなるとして、同列の家老が厚く評議し、以後の扱いを定めるよう求める。本文には決定した身分昇格や施行日を記さない。
延享三年十一月廿一日 / 冊子 947頁/整理ID 2533
継豊の隠居に伴い家督を継いだ宗信が、家老・重臣らへ出した十一月二十一日付の達書。家老の内外の役目、国元と江戸の務めを先例に従って行い、家中の者もそれぞれの職分を守るよう命じる。疑問があれば家老間で相談し、奉公の手順を乱さないよう求める。
(延享四年)八月廿五日 / 冊子 31頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0083
高野山蓮金院の住職維賢の病死後、後任を決めるため、寺社奉行の指示を受けて東室院側と相談した経緯を家老へ申し渡した。候補者の適否を見定め、後任の扱いを帳面に記すよう求めている。
宝暦十年十月 / 冊子 794頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2431
重豪が十月、家老中へ、家督相続時は幼少だったため領国と琉球の仕置を隅州に委ねるよう上意があり、長く在国する隅州を頼もしく思っていたが、思いがけず死去したと伝える。来年の暇を願い出ているので、領内の静謐を保ち、万事に心を配って正道に勤め、先代からの指示を守り、諸人の心服を得るよう命じる。万事は従来の指示に従い、江戸滞在中に差し支える件があれば、同役間で十分相談して処理するよう求める。家老中はこの趣旨をよく承知し、若年寄・大目付を通じて諸役人へ伝えるよう指示する。
天明六年十一月 / 冊子 905頁/原整理番号 2484/整理ID 2484
今回の隠居は政務の安定を専ら意図したものであり、隠居のうえでも政治を助けるとともに、自身の分限を考えて栄誉を後代に付与しようとする思召であると伝える。家老中はその深い配慮を受け止め、少しも油断せず後代の政事に心を尽くし、厚い思召による隠居が格別のものとして成り立ち、国家の政道が最もよく行き届くよう努めるべきだと求める。末尾は十一月、市田勘解由の名を記す。
天明七年正月(年は前後文書との対応による) / 冊子 931~932頁/原整理番号 2550/整理ID 2550
父中将の厚い配慮によって隠居・家督が命じられ、累代の領国を継いだことを述べる。自分が若いうちは公儀への勤めと政事に父の助言を受けることは代々の家法であり、長年家督を担った父が隠居後も補佐する恩に報いるため、家老以下が油断なく精勤し、作法と風儀を正すよう命じる。怠れば父の孝養にも関わり、仕置の基礎が立たないとして、年少者にも教え、政道を重んじて役立つ者に育てることを求める。父は重い格式を保ち、待遇等は従来と同様とし、御縁女との続柄によって今後の格式が高まる見通しにも触れるが、自身の栄誉を顧みず、国政を第一に考えて老齢を待たず家督を譲り補佐していると述べる。家臣一同にはこの趣旨を理解して行儀を正し、職務を尽くして信頼に応え、斉宣を安心させるよう求める。最後に、小事についての指示も趣旨が伝わるよう、家老から末々まで徹底するよう命じる。
文化10年酉3月廿五日 / 冊子 400~401頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0086
印刷の1、1258の添書として照合。今日、大御隠居の御前に自分と伊集院隼衛が呼ばれ、先年黄檗へ改宗して白金瑞聖寺への万年後の安置を約し、神田橋大納言も内々承知した意向を直接聞いたと述べる。太守その他へも直に言い置いたので万一の場合は意向どおり、先格もあり本人限りのことなので定めどおり承知せよとの指示を受け、別紙書付を渡され受領した。国元への問合せは不要で、自分が下着後に家老中へ伝え、書付は国元家老座で格護すること、高輪御用部屋にも写1通を伊集院添書で保管することを記す。文化10年酉3月廿五日、川上右近署。包紙は大御隠居御筆仰書写1通・家老衆添書1通とする。二通包内容と高輪用の写を分け、入力固定ID無番号86は変更せず印刷1258の1を注記する。
天明七年三月(日の記載なし) / 冊子 950頁/原整理番号 2587/整理ID 2587
天明七年三月、斉宣の袖判の書が国元に達し、家老が連名で国中へ命令を伝えたと記す。記事はこの伝達の事実を記すのみで、袖判の書の条文や家老の姓名は掲げていない。
天明九年(配列)、十二月(本文。2781は正月十八日) / 冊子 1027頁/原整理番号 2780/整理ID 2780
斉宣が自ら教令を書いて家老へ付し、名門・有力家から中士・下士に至るまで、学問と職務に励み、礼儀と廉恥を重んじる風を起こして国家に報いるよう勧めたと記す。本文は十二月とし、教令の文を次に掲げるとしている。
寛政元年四月(年次朱書) / 冊子 1034・1035頁/原整理番号 2796/整理ID 2796
太守の初入部に当たり、中将が万端を心配し、伊賀を召し出して直接細かく指示したうえ、家老・若年寄・大目付にも別紙の御筆をもって命じたことを伝える。役々はその趣旨を謹んで承知し、同役で申し合わせて勤めに励み、その風儀が下役にまで自然に伝わるよう心掛けることを求める。介助中に心配をかけたことを恐縮し、先年からの命令の趣意を守って尊慮を安んじるよう精勤すべきとする。四月付、石見・安房・登・主計・勘解由の五名連署。
文化6年6月(本文) / 冊子 324~325頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1016
斉宣公より家老中への見出し。自分が隠居して豊後守へ家督を付すことになったので、引き続き万事に励み精勤するよう命じ、その趣旨を国中の末々まで伝えるよう指示する。文化6年6月。見出しと次頁本文を連結する。1009の類文には独立月日がないが本件には6月を記すため、出典ごとの日付表示を保持し、正文にない17日を補わない。
文化14年6月(今茲・一件、日付なし) / 冊子 506頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1547
斉興公御譜中。大父公は告老して江府高輪邸に退隠したが、斉興が年若であったため、なお国政を聴くことにあずかったと記す。県官が帰国する際、一門・重役等を戒め、風俗を改め用を節するよう求めていたが、なお効果を見なかった。今茲夏六月、その事について在府家老新納内蔵久命へ親書を送り強く責めた。久命が斉興へ伝え、斉興は憂懼に堪えず、筆を執って家老へ以下のように命令したとする。本項は訓諭の経緯と後続命令への前置を述べるもので、命令本文の各条は後続項目で確認する。既往の戒め・未効という評価・親書の伝達・命令作成を分け、施策が実現した成果とは扱わない。
文化14年6月(今茲・一件、日付なし) / 冊子 507頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1550
重豪公御譜中。重豪は告老して江府高輪邸に居たが、なお国政を聴いたと記す。県官が国へ赴く際、一門以下の有司を戒め、風俗を改め用を節するよう求めていたが、なお効果を見なかった。今茲夏六月、その事について在府家老新納内蔵久命へ親書を送り強く責め、久命が太守斉興に伝えた。斉興も政務を深く憂慮し、筆を執って家老へ以下のように命令したとする。1547と並行する経緯記事であり、本項は後続命令への前置として整理する。目録の重豪帰国という題と、本文の重豪高輪居住・県官之国を区別し、本書だけから重豪自身の帰国完了を認定しない。
文化14年(目録・一件)/夏6月の戒諭を受けた記事(日付なし) / 冊子 517頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1570
重豪公御譜中。夏六月に家老へ国政を任せるに当たり戒めたことを受け、この時、重豪と斉興がさらに自ら筆をとり、丁寧に家老を告諭したと記す。「若干寄・大日附・如左」と続き、以下に書付を掲げる前置きである。この範囲には告諭の具体的な条項本文はなく、後続1571等の内容をここへ移さない。目録は文化十四年の記事として重豪の国政告諭とするが、本文は斉興も併記する。六月は先の戒めの時期として読み、本記事の独立した発給月日を補わない。
文政3年2月(記事) / 冊子 573頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1728
斉興公御譜中、文政三年庚辰春二月の記事。斉興の参府出発の時期が近づいたため家老へ命令し、大父が政治を助けることに心を労し、老年に江戸の親族の家に滞在して、将軍から懇篤な言葉を受けたことを挙げる。その公意を奉じて節倹を主とし、国中の諸士も風俗を正し文武を勧めるべき旨を述べ、左に続く諭達を示す。参府前の命令の前置記事であり、斉興の出発日や江戸到着を報告した記事としては扱わない。
文政7年甲申春正月(本文) / 冊子 694頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1978
島津斉興の御譜中にある参勤出立前の記事。文政七年甲申の春正月、斉興は江戸府へ向かうため、家老に対して家中を戒め、風俗を正して上下を厳しく取り締まる旨を宣達させると記す。印刷本文は「如左」と結ぶ導入文で、具体的な訓戒条文はこの印刷箇所には続かず、次の印刷1979は参府日程の記事となる。
文政11年2月 / 冊子 785~786頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2214
目録題は五家老連署申渡書だが、本文は大中寺安山から御家老中への請書。先住透明の咎による上り寺化と国僧法脈断絶の危機、安山住職任命、寺務厳重、国僧の系脈継続、後住の適任国僧選任・上聞・公儀申出、格別の配慮への服膺、私曲の禁止、後代住持への遺訓伝達という2212の申渡を引用したうえで、その趣旨を委曲承知し、後住にも相違なく伝えると請ける。文政十一年戊子二月、宛名は御家老中様、末尾に「富田」、大中寺印・安山印の表記がある。引用された申渡と安山の受諾を分け、五家老が再度発した独立命令とはしない。
年月日記載なし(家督・隠居一件。嘉永四年の同件) / 冊子 111頁/原整理番号 170の2/整理ID 170-2
自分は隠居し、修理大夫へ家督を付けたので、政事等は先規どおり万端励み、各職分を守って精勤し、その旨を国中へ伝えるよう斉興が家老中へ命じた仰出書。包紙は宰相の御筆仰出とする。本文自身には年月日を記さない。
10月廿八日(本文年不記);外包:安政6年12月朔日 / 冊子 219~220頁/原整理番号 301/整理ID 301
包紙に御筆仰出とある家老向けの訓示。茂久は自ら不肖ながら順聖院の遺言で跡目を継いだことをありがたく思い、先代の積徳を汚さぬよう日夜心を痛めると述べる。まだ不慣れなので気付いたことは放置せず申し出るよう求め、家老以下の役人は先代の規格どおりに緩みなく務め、政事に精入するよう命じる。士には礼義廉恥を保ち、文武の道を深く学び、耳目の欲や四肢の安逸を願わず、古来の国風を失わず万事出精するよう諭す。十月廿八日。外包は安政六年十二月朔日、伯耆から春山弥兵衛へ渡され、従来どおり格護して白木御文書十番箱に収納した記録。
安政7年申3月12日 / 冊子 229頁/原整理番号 313/整理ID 313
執事方帳留にある家老への訓示。昨年伝えたとおり怠りはないはずだが、さらに文武の道に励み、誠忠純孝の徳を基に礼譲を専らにして淳和の風俗へ立ち戻るよう求める。家老がまずこの趣旨を保ち、末々まで伝達することを命じ、とりわけ軍政は国家の急務なので各人で相談してほしいと述べる。安政七年申三月十二日。本文に発給者姓名を記さない。
10月4日(本文年不記、目録も日付補入のみ) / 冊子 237~238頁/原整理番号 331/整理ID 331
執事方帳留中の家老宛訓示。文武・質素節倹・礼義廉恥を守り、大身は特に風俗を正し、末々の役人まで職掌に励んで公平に沙汰し、賄賂を受けず無益の酒会遊興を企てぬよう命じる。内外の憂患が増す時勢に、前年の参府途中の不快による帰国と参府猶予が認められたことに触れ、国難を醸すほどの噂が来ても動揺せず命令に従って尽力し、諸事を至緩に扱わず、不心得な者には遠慮なく沙汰するよう求める。続く口達覚では先祖以来国家を思う心が薄くなっていることを懸念し、役職を持つ者が職掌の趣旨を立て一同奮起するよう求める。末役人以上の封書が少ないのは申し分ないためか、時勢に応じる変革が必要ではないかとして、諸役を呼び丁寧に趣旨を諭し、三日中に向々の可否を申し出させる。重大な任を考え下々まで趣旨を貫通させることを第一とする。十月四日仰出、年は本文不記。
文久3年癸亥(月日なし、末注) / 冊子 281~282頁/原整理番号 391/整理ID 391
執事方帳留の家老中への仰出。勅命による攘夷の要請を幕府が受け、大樹公の上洛・朝廷の決議を経て策略を示すという状況を述べる。三郎は天朝・幕府の召しを受け、内命によって上京するため、留守中に万一攘夷船が来た場合も従来の法令を堅く守り、人心を動揺させないことが肝要だとする。勅命を心得違いして軽率に行動すれば、名分のない事を起こし、皇国の治乱に関わって朝廷への奉対も立たないと戒める。朝議決定・勅命に全体で従い、攻守の命令が加わる場合も不勘弁な扱いがないよう求める。三郎が留主となることを心配しつつ、諸士の末々まで趣旨を伝えるよう命じる。末注は文久三年癸亥月日なし。
慶応元年乙丑9月16日申渡;昨日の不時勢揃への言及 / 冊子 399~400頁/原整理番号 567/整理ID 567
昨日、不時に命じた勢揃に速やかに集まり、調練の次第も混雑せず、軍役方・物主などの職掌はもちろん、一同の平日の備えにも満足したと述べる。三郎の留守中に自分も暫く心痛したが、当今の世態に鑑み各人が職掌を知り、文武を励むよう求める家老中への申渡。在執事方帳留に収め、慶応元年乙丑九月十六日に命じられたと記す。満足や心痛は発言者の評価として示し、動員人数や調練の具体的科目、発言者の実名は記されない。
辰正月朔日木場傳内署(去月廿三~廿五の江戸邸事件) / 冊子 451頁/原整理番号 618の2/整理ID 618-2
去月二十三日朝に酒井左衛門尉邸へ当家家来と称して訪れた件から、召捕りや引渡しを求める交渉を記す。当家邸が引渡しを承知せず、二十四日にも同様の引合いがあり、二十五日に三か所の邸が囲まれて戦闘になり、多くが討死、残った人々が品川の軍艦へ退いたという。幕府の軍艦と沖でも戦い、幕府側が当方の城へ注進したが勝敗は不明とする。昨夜の評議では四~五日頃に上格する大事件があるとの風説を聞き、引き続き幕府の様子を探索して知らせると述べる。江川庄左衛門からの別紙写を添え、辰正月朔日に大坂の木場傳内が家老へ届ける。戦闘と死者の報告、勝敗不明、風説と今後の探索を分ける。
正月15日連署、十二日の事件・十三日夜の取扱いを報告 / 冊子 469頁/原整理番号 637/整理ID 637
備前が朝廷から西宮警固を命じられて兵を出したのかと述べ、十二日に家老が兵隊を率いて兵庫神戸村を通った際、理由は不明だが英人二~三人を刃傷し、外国側が船から兵を出して戦い、備前兵が山手へ逃れたとの報告を収める。以後の兵庫街道取締や通行停止、蒸気船の碇泊を記し、外国側が日本を敵と考える事態になりかねないと懸念する。伊勢への連絡、岩下・吉井・五代・寺島らの評決、十三日夜の東久世と岩下の兵庫下向・鎮撫を述べるが、その後は分からないとする。砲撃の責任、公法、備前への責任追及や償金、外国側にも公平な処置があるとの内評や、双方の乱妨の風説にも触れ、判断できない点を残す。正月十五日に伊地知壮之丞・木場傳内が家老へ届ける。
本文日不記、外包追記:慶応4年辰正月10日内膳から植村七蔵へ受渡し / 冊子 491~492頁/原整理番号 659/整理ID 659
外包に「太守様御筆仰出二通」とあり、一通は597の2号と同文につき本文を省略すると記す。収録された家老中宛の諭達では、朝廷が天下の大政を取り扱うにあたり、中将の病気が快復しなければ早く上京せよと召命を受けたため、太守自身が速やかに出立し御受を申し上げる決心を伝える。順聖院・中将の志を継ぐ復古、君臣名義と国是の確立、諸侯が集まる公議を述べ、国事多難の時に家中の不備・不至を説いて動揺させることを戒める。民の苦を救い皇国の干城となるため心を一つにして力を合わせ、自分を補助するよう求め、諸事は実用を基本に非常時の簡便を旨とするよう付記する。外包追記は正月十日の受渡しと白木文書十一番箱への収納を記す。
送付書状:辰四月21日、添書正文:三月(日不記) / 冊子 557~558頁/原整理番号 720/整理ID 720
行在参上の門外混雑防止、紀伊中納言ほか五人の京都取締、山陰道鎮撫使警衛免除、触頭二十四藩の月番、海江田・岸良の内国局雇用、行幸中の節朔参賀不要、八幡近辺警衛、石清水警衛免除の八題目を掲げる。太政官代から渡された書付を伝達するよう求められたので、別紙を添え中将にも伝えてほしいと、辰四月二十一日に嶋津主殿が圖書殿・家老中へ送る。続く御家老中宛の三月の指示は、行在参上の門外混雑を避け、柵門外一町ほど手前で兵隊・惣供を集め置き、近臣のみを召し連れて参入するよう求める。ただし御廓内住居者はこの限りでないとする。
辰四月21日、嶋津主殿 / 冊子 558頁/原整理番号 721/整理ID 721
朝政一新に当たり諸藩も趣旨を受けて政令を大きく改めるべきことなどが、別紙どおり太政官代辨事局から伝えられたので知らせるとする。中将にも伝えるよう求める。自分たちの側では既にこのような改革を命じていると述べつつ、向々への申渡なども改めて評議してほしいと依頼する。辰四月二十一日、嶋津主殿から圖書殿・家老中への書状。
文化10年9月(朱年注。日なし) / 冊子 416頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1302
全上・扣正文在家老座。①蔵方勤の者が近年附属料を過分に申し談じ百姓を迷惑させ、目先の利徳に迷い不正取計もあると聞く。当分の仕向は他国への外聞も問題で、第一に士風が宜しくないとして今後の仕向を吟味させる。②諸郷が一統に疲弊し、公人入込のため雑費が多いので取締を命じ、その所の馳走・贈物等を一切停止。受ける者と差出す者の双方を咎める旨を申し付け、以後緩めぬよう厳重に申渡す。③仕置者の評議が次第に延び、過半は片付かぬまま内牢死となると述べる。命じた仕置の詮が薄く担当者は手間取るが、掛の者が精しく心掛ければ早く落着するはずとして吟味を求める。文化10年朱注9月、家老中・若年寄・大目付宛、重豪名義は目録。聞きに基づく不正指摘・贈答停止の対象双方・未決の内牢死・早期処理要求を区別し、過半を実数へ補わない。
文化10年9月(朱年注。日なし) / 冊子 417~421頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1305
扣正文在家老座。①旧条目・追加制法の一時遵守・下々への周知不足を指摘し、軽微違反も禁じ、役所壁書・家毎書留・朝夕確認・親族相互戒めを要求。頭人は中間小者・名代へ細達、長病人等も個別伝達。軽微な違反も罰し、誠実遵守者に厚賞。家老頭人と下役双方の不行届を吟味し、公辺へ願い国元へ来た今回、一門・家老から末々に実意の政務精勤を求める。②文武の第一は文学の意を誠にして身を修め家を斉えること。文芸だけを文学と心得ず、正直・無虚言・約諾と借金返済遵守を説き、返弁困難なら借用を控え、武備も守る。③西南の国で他国交流が疎く方言・風俗が染みた事情を述べ、江戸登城御目見時の言語不通等を国の恥と評す。乱世武勇を誇る者を善悪問わず気量ありと見なす弊を戒め、家柄重役から末々の容貌言語を吟味、春秋両度の支配頭報告で是正し和合静謐を保つ。④財政非常手当が手薄で公務も難しいため厳格な倹約。公物の私物視を禁じ少額費も省く。衣は寒暑をしのぐ麁服、男女綿布、絹布禁止・旧絹服免除、新規服調達注意、紬も物好着用なら処罰。食は素菜、酒は礼式品で停止し難いが損無徳として慎む。住は雨露をしのぐ身分相応とし嗜好普請を禁じる。事品により客商を用いる中で自分利得・不正音物受用を戒め、子年旅行時の大坂表の旧来取扱も批判、違反者を咎め精勤させる。全役人・内外役場で少事にも無駄費を出さず国一体で倹約。⑤国益は永久の事として当座利益がなくても後年利益を吟味し、荒広地に農作・草木植付、適品選択と山海産物の時節を逃さぬ増産を求める。困窮農民町人に出精を命じ余力を産業へ、頭人が津浦山野へ教示。婦人に織縫・家事細密、邊士等には家職精勤を指示し、倹約と増産を区別。⑥身命を顧みぬ唐物抜荷・制禁品売買の禁止と支配者取締、管下不行届の咎を命ずる。⑦国中取締に隠目付を置いたこと、老年の自分の存生中・没後も規制を緩めず永続させよと締める。末尾永代最通りの語義留保。9月三宛。
目録年月日記載なし / 冊子 538~539頁/原整理番号 77
正保四年から寛文十二年まで、光久公の御上洛・御参府、出船、家老衆の往来を月日順に列記する。
天正三年三月十六日 / 冊子 431頁
三月十六日の犬追物で、義久が屋形内の桟敷から馬場を見物し、義弘以下の一族・家老が馬場の桟敷に座したこと、定数の犬を射終えたのち射手らを屋形内へ召したことを記す。
七月廿一日 / 冊子 901頁
相良長泰が伊勢兵部少輔へ、本田助允の知行に関する嘆願はこれまで家老中へ申し入れたが取扱いが進まなかったと説明し、助允の依頼に応じて改めて取成しを求めた。
年月日未詳 / 冊子 831頁
島津家久の嫡子又三郎忠元が病気となり、徳川秀忠・家光の両御所から懇切な見舞いの言葉を受けたため、家老が登城して謝意を申し上げた島津家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 10頁
寛永三年六月三日、島津家久が大坂から川上式部大輔久国・蒲池備中入道・東郷肥前重位を派遣し、在国の家老に国政上の指示を伝えさせ、花押付きの書状を下したことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 71頁
島津家久が同年十月二日に山城国伏見へ到着したことを家老へ知らせ、同月下旬に薩摩へ入ったことを記す譜記事。
(寛永七年)十二月廿九日 / 冊子 186頁
側近に遠慮なく意見する者がいるか、従来の談合が維持されているかを問い、鹿児島で安芸守・下野守・弾正の屋敷へ落書が投げ込まれた件を報告する。さらに各奉行の職務遂行、家老への態度、役人中の怠慢や身びいきを調べるよう求めた覚書条書。
(寛永十年)十二月六日 / 冊子 398頁
島津家久が、家老役を担う者が不足しているため、若年者を含めて相談し、適任者二名を選定して役を申し付けるよう指示した書状。
(寛永十一年)四月三日 / 冊子 416頁
島津家久が弾正大弼へ、家老役就任の祝儀使者に礼を述べ、諸事を入念に相談して処理するよう求め、暇の見通しと近日の上洛について伝えた書状。
(寛永十一年)四月四日 / 冊子 417頁
入来院右衛門尉・伊勢右京亮の退任に伴い、両者の支配地・衆中・給付・役務・役人交替などを調査・整理し、家老衆の談合で処置するよう条項ごとに命じた島津家久袖判条書。
年月日未詳 / 冊子 435頁
入来院重高が桜田邸へ上り、東郷三右衛門を入来へ帰して家老重倍ら三名へ手書を与えたことを記す某譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 475頁
寛永十二年三月十七日、島津家久が大明・唐船を薩摩領内へ入港・停泊させないよう命じ、家老衆が条書を領内各地と浦・島の地頭や役人へ通達したことを記す系譜記事。