伊集院幸侃宛行状
文禄五年二月八日 / 冊子 8頁
伊集院幸侃が春口土佐守へ、薩州市来湯田村内の五石を与えた宛行状。先年、川内へ出向いた際に御輿を担いだ働きへの恩賞として知行を認めた。
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文禄五年二月八日 / 冊子 8頁
伊集院幸侃が春口土佐守へ、薩州市来湯田村内の五石を与えた宛行状。先年、川内へ出向いた際に御輿を担いだ働きへの恩賞として知行を認めた。
永正十年十月吉日 / 冊子 603頁
阿久根院内の水田を、一壺町三段・六町卅・九段・一弐段などの区画に分け、所在地と面積を列記した坪付。
八月廿七日 / 冊子 32~33頁
三原重庸が、京都で流行する弓矢の形状や好みを伝え、当地の矢筈・矢柄の調達を依頼した書状。細身の材料や焼き方などの仕様を示し、仁礼左近にも申し通じて、必要な品を整えるよう求める。
八月廿一日 / 冊子 107頁
瀬九郎親子が滞在中なのに十分な馳走ができなかったことを残念がり、差矢・的矢・箆を当地で念入りに作って送るよう依頼した書状。
五月十七日 / 冊子 584~585頁
大坂落城後の移動に伴い、伊集院伴右衛門尉らの乗馬・出船や馬の手配が滞っている事情を知らせ、必要な対応を求めた有川貞政の書状。
(寛永五年)五月六日 / 冊子 61~62頁
比志島国隆に近侍して不正を助長したとされる折田四郎右衛門・家村四郎左衛門について、高岡の者も責任を訴えているとして、死罪ではなく流罪とする方針を伝える。国隆に殉死すると称した者や種子島へ従わなかった者の扱いも含め、山田土佐守らと協議するよう求める。
(寛永八年)四月廿九日 / 冊子 208~209頁
先に相談された一件について最上土佐守へ申し入れたが確答がなく、康心へ善鏡坊を介して内談し、和解・合点に向けて調整するよう勧める。追而書では家久・光久兄弟と忠直・忠紀の受領・任官を祝し、祝儀の様子にも触れる。
天正六年九月十五日~二十九日 / 冊子 547頁
豊後勢集結の日、島津方が石城を攻め、城方も昼夜防戦した。稲津孫八郎・福永宮内少輔はたびたび鑓を合わせ戦死し、山田土佐守・宮田太郎次郎・長倉勘解由左衛門は分捕りの高名を挙げた。しかし豊後の軍事行動が遅れて救援を得られず、九月二十九日に石城を捨てた。
寛永十年三月廿日 / 冊子 361~362頁
島津久元ら三名が琉球三司官へ示した条書。対唐交易に伴う銀賦課、冊封使渡来年の加算、出陣時の銀子合力、中国産生糸の価格・品質管理、密貿易と違反者の取締りなどを定めた。
明和二年四月十日 / 冊子 81頁/原整理番号 181の51/整理ID 181-51
大目付が四月十日、来る十七日の紅葉山御宮参詣に際して予参を勤めるかどうか知らせるよう、各家の留守居へ廻状を送る。その旨の書付を明後十二日までに稲垣出羽守方へ差し越すよう求める。廻状は順達し、最後の受取人から出羽守方へ返すよう指示する。宛先は「御名」の家に加え、松平出羽守、松平土佐守、有馬中務大輔、上杉大炊頭、松平安芸守で、まとめて右留守居と記す。予参の意向報告と書付の期限、廻状の順達・返却経路を示す。
二月十四日、朱注は二月十五日の写送(安永五年の文脈) / 冊子 485~486頁/原整理番号 1347/整理ID 1347
嫡子がいる方は、その付衆へも知らせるよう求める。大目付から廻状と書付の写一通を渡され、陸奥守・大膳大夫に各方への通達を申し付けられたため、数通の廻状を相認めて回すことを伝える。二月十四日、松平陸奥守内諏訪九郎左衛門・田坂源太左衛門を記し、次頁には菅野勝三郎・齊藤源次・吉田隼太の名と、御次第不同の宛書欄が続く。宛書は御名と、有馬中務大輔・伊達遠江守・松平土佐守の各留守居である。小字の受領注は、薩摩守・土佐守は国元へ伝えること、有馬側は中務大輔の国元へ伝え、越侯・上総介へも申し聞かせること、伊達側は承知したことを記す。朱注には本文が到来したので写して差し上げた旨、二月十五日有川勇馬・左中様への記載がある。
天和三年四月四日 / 冊子 333頁/原整理番号 62
北郷忠昭の覚書。御奉書の披見をめぐり、伊勢十兵衛宅に集まった諸家の留守居に取扱いを問い、各家の回答や城坊主への照会結果を報告する。天和三年四月四日付。
〔寛永四年〕九月十六日 / 冊子 352~355頁/原整理番号 4
北条土佐守が、天正十五年以降の島津家の女性の上洛と質人の手配を回顧し、誰を差し出し誰を代わりに残すか、在京者の扶持や住居をどう扱ったかを詳述する。寛永四年九月十六日付の書状。
正月二十二日 / 冊子 643頁/整理ID 2202
松平土佐守豊房が正月二十二日、薩摩守吉貴へ、国号の文字を改めたいと御用番へ伺ったところ早速許され、本望を遂げたと伝える。この件への祝詞を示された丁寧な心遣いに謝意を述べる。
寛保元年正月二十二日 / 冊子 637頁/整理ID 1620
正月二十二日、竹千代家治の着袴祝いで、上使朽木土佐守玄綱を通じ、継豊は一種一荷を拝領し、吉貴も同じ品を拝領した。吉貴は老中へ謝礼を申し述べ、奉書を受けた。
寛保元年 / 冊子 638頁/整理ID 1623
豊岡・八嶋・浦尾は吉貴の二月二十二日付書状への返事で、正月二十二日に竹千代の着袴祝いとして上使朽木土佐守から継豊と吉貴が各一種一荷を拝領したことを喜ぶ。吉貴から将軍・大納言への謝礼の意を取り次ぐ。
寛保元年 / 冊子 638頁/整理ID 1624
豊岡・八嶋・浦尾は吉貴の二月二十二日付書状を受け、正月二十二日の竹千代の着袴祝いで、上使朽木土佐守を通じ継豊と吉貴がそれぞれ一種一荷を拝領したと聞いた。吉貴が竹千代・大納言へさらに礼を述べたいとの意向を伝える。
宝暦十年九月二十一日~二十三日 / 冊子 790頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2421
重豪公御譜に、九月二十一日、将軍宣下の祝儀の能に重豪が早朝から登城し、大広間で家治に拝謁したと記す。舞曲三番が昼に及び、帝鑑の間で食事を受けた後、さらに能を見て再び拝謁し、退出した。翌二十二日は御台所の従三位叙任を祝う登城の日だったが、重豪は病欠し、留守居を老中武元・輝高、側用人板倉土佐守勝清の邸へ遣わして祝意を述べた。さらに翌日、番頭を登城させ、御台所の叙任祝いに家治と御台所へ各二種千匹、家重へ一種千匹を献じた。
天明元年十月一日 / 冊子 644頁/原整理番号 1826/整理ID 1826
十月朔日、定刻に登城した重豪へ、久世大和守が御縁女への御目見を直接伝え、白書院の縁に老女衆が列座していたと記す。献上品は縮緬十巻・二種一荷とし、留守居澁谷五郎右衛門が高井土佐守を通じて差し出した。御目見後は大広間の奏者番や老中方・月番留守居へ礼を述べ、公方・若君・種姫および御縁女・御部屋へは内証から女使を遣わして礼を申し上げた。前の御譜記事1825の紗十巻(先頭字判読留保)との品名の異同は解消せず、各原文に従って併記する。
天保3年春(米寿祝賀作品群。作品に月日なし) / 冊子 905頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2557
友が島津重豪へ贈った寿歌。老いの楽しみを迎えて重ねる春は幾千に及び、君の繁栄は限りなく、豊かな三葉・四葉の軒の松に咲く花も老楽の友となる、と長寿と豊かな老後を祝う。作者名は友で、朱注が松平土佐守豊資夫人と示す。正文所在は前掲作品と同じことを「全上」で表示する。天保三年の米寿祝賀作品群に属し、具体的な月日はない。
「寛永十九年」七月廿九日 / 冊子 203~204頁
板倉周防守ら八名が島津光久へ、金山拝領に伴い金子二千両を和泉守のもとへ持参して受け取らせることを伝えた連署書状。あわせて先に相談のあった南蛮人をこちらへ差し越す件を了承し、念を入れて移送するよう求めている。
三月四日 / 冊子 651–652頁/整理ID 2237
山内豊房が松平薩摩守島津吉貴へ、前年秋に漂着した琉球船が長い停泊中も問題なく処置を終えたことを喜んだ書状。遠路からの使者・目録記載品と家来末々への配慮に謝し、参府が近い吉貴の健勝を尋ねた。
十二月十三日 / 冊子 762頁/整理ID 2574
山内豊隆が島津吉貴へ、大納言の機嫌と吉貴の在国中の無事を喜ぶ。自領が地震と高潮で大きな被害を受けたため、来年の参勤を免じる奉書が先月二十七日に届いたと知らせ、吉貴の厚意に礼を述べる。
明和二年四月十七日(本文) / 冊子 86~87頁/原整理番号 181の72/整理ID 181-72
四月十七日、本坊で御太刀目録・金馬代を献納する者の名順を、侍従以上として書き付ける。松平加賀守・松平讃岐守・御名から、諸大名と隠居、喜連川金王丸・喜連川秀翁までを列記する。松平越前守には「服」、井伊掃部頭と松平右近将監には「於御宮献納」の注記がある。隠居については、松平空山を内蔵頭隠居、松平監物を左京大夫隠居、松平丹後守を信濃守隠居、松平杢頭を阿波守隠居、松平但馬守を安藝守隠居、宗式部大輔を対馬守隠居、酒井靈岳を修理大夫隠居と注記する。個別の服・御宮献納・隠居の注を名順とともに保持し、全員が同じ場所・条件で献納したと一括しない。
天明五年三月四日 / 冊子 796~798頁/原整理番号 2195の9/整理ID 2195-9
将軍転任祝儀の招請人名を63件列記する。三月四日・御次第不同とし、大書院・表書院御取持・勝手之間・居間書院・居間・勝手の区分と各人の断注を記す。掲載数は出席人数を表さない。
二月朔日 / 冊子 46頁/原整理番号 67-2
二月朔日に鹿児島へ参る衆28人の覚。四位与四郎以下、北原吉左衛門尉までを列挙する。文書67-1が出発を記す蒲生衆28人に対応する。
七月朔日 / 冊子 469頁/原整理番号 599
長崎への外国船来航で多数の加子が必要なため、賦付の書物を持参する加子追立衆に従って早急に加子を立て、一刻も早く久見崎御船手へ送るよう命じる。遅延には後日厳しい処分があるとし、各所で判を据えて鹿児島へ返送させる。
六月一日 / 冊子 145~146頁/原整理番号 29
六月一日、島津義久(龍伯)が兵庫頭へ送った覚書状。萩原寺が兵庫頭のもとへ赴くと聞き、現地での談合を求める一方、石田殿から直接、諸事を幸侃(町田久倍)が分別するよう命じられているため、別人との談合は不都合だと注意する。幸侃が存松・税所越入を通じ、談議所寺中で捕縛された科人の件を申し出たこと、萩原寺が京都・高麗にも言上したとの風聞を記す。科人勘介については、超雲の女房との密懐を成敗しようとしたところ逃亡し、霧嶋を頼って談議所へ来たとの披露を伝える。萩原寺側から正式に聞いてはいないため処置を差し延べているとして、翌日の来訪後に相談のうえ返答するよう求め、詳細は川東善左衛門尉が述べるとする。末尾に龍伯の花押を据える。
享保九年 / 冊子 660頁/整理ID 1673
松平大隅守領内の銅山検分について、来訪した役人への応対、銅気の状況や山をめぐる事情を記した覚。
七月日 / 冊子 473頁/原整理番号 608-1
三舟浦の長崎商船から得た報告として、南蛮船2艘が番船に包囲され、江戸へ注進したものの上意は未到着であること、御政所衆2人が借用船で検分したことを伝える。各船は石火矢60丁を構え、1丁に3人を配し、積荷は玉薬のみという。出船時の召捕り、周辺国の大勢による有馬陣立同様の包囲、長崎町浜人が糧物を山へ運んだとの情報も報告する。目録年月日は『七月日』を維持する。
享保六年十月六日 / 冊子 493頁/整理ID 1323
十月六日、石河土佐守政郷が嶋津内記・嶋津主殿・伊集院蔵人・北郷作左衛門へ、連名の書状を受領し、大隅守蔵屋敷裏の潰地を望みどおり申し渡した旨を江府の大隅守も承知したと返答する。その念入りな心遣いと、各々が変わりなく勤めていることを喜ぶ。
〈寛延二年〉二月二十一日~三月十六日 / 冊子 144頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0399
二月二十一日、宗信が妹菊姫と、福岡城主松平筑前守継高の嗣子修理大夫重政との婚姻を願った。三月十六日、執政の奉書に従って宗信が登城し、黒田河内守長邦も継高に代わって登城した。白書院の縁頬で執政らが列座する中、堀田相模守正亮が婚姻を許す台命を伝え、宗信が拝謝した。同日、宗信は西城にも登り、奏者衆柿木土佐守玄綱を通じて婚姻許可の謝礼を述べた。各執政の邸へ出向いて礼を述べ、家老の使者を若年寄の邸へ遣わして謝礼した。
〈寛延三年〉九月十一日 / 冊子 285~286頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0820
重年公御譜は、前年の襲統を祝って九月十一日に芝邸で慶宴を設け、元老の松平右近将監武元・秋元但馬守凉朝、若年寄の松平宮内少輔忠恒・戸田淡路守氏房、奏者松平紀伊守信岑・永井伊賀守直陳らを招いたと記す。留守居・大目付・奉行・諸侯など多数の参列者を列挙し、楽人は観世・寶生らが舞曲を奏した。十三日・十六日にも列侯・親戚・諸賓を迎え、奏楽と饗応を行う。十八日は前年冬の元服と従四位下少将任官を祝う宴で、松平土佐守豊敷・佐竹左兵衛督義眞らを招く。日ごとの祝賀目的、出席者、接待と奏楽を記す。
〈寛延四年〉九月十九日 / 冊子 329~330頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0974
九月十九日、家重が重年の襲封後初の帰国を祝い、安否を問うため佳肴一種、鮭十尺を賜った記事。老中本多伯耆守正珍が江戸留守居山澤小左衛門盛福を自邸に呼び、老中宿次奉書と驛路證印を渡した。比志島孫左衛門國泰・谷山孫右衛門通音、歩士三人・軽卒六人が警衛して同日芝邸を発ち、東海・山陽・西海路を昼夜休まず進み、十月十五日に薩府城へ着いて重年が拝戴した。同日、山本利兵衛秀命・調所八左衛門恒堅が重年の謝書と驛路證印を携えて執政へ赴き、軽卒六人も従った。重年は一門島津周防忠紀を謝恩使とし、継豊も物頭中江九衛門員張を同行させた。秀命・恒堅らは西海・山陽・東海道を経て十一月十一日に江戸へ着き、山澤盛福の案内で武元へ重年の報翰を呈し、正珍の證印を返納した。忠紀は九州の駅路から豊前小倉、大坂、東海道を経て十八日に芝邸へ着き、二十一日に酒井忠寄へ家重宛の連署、秋元凉朝へ家治宛の連署を届け、西尾忠尚へ両公宛の格書と書状を渡した。十二月朔日、忠紀は白書院で重年の献物二種・雙樽を家重へ献じ、家治にも謝恩を伝え、松平周防守康福が奏達した。忠紀自身も太刀一腰・馬代白銀一枚・紗綾二巻を献じた。続いて西城で朽木土佐守玄綱を奏者とし、重年の献物一種・雙樽と、忠紀自身の太刀一腰・馬代白銀一枚を献じた。十二日に召されて登城し、檜之間で武元から回翰を手渡され、紗綾三巻を拝領した。青山因幡守忠知が奏達し、十三日には西城で武元から、十八日には西尾忠尚の邸で回翰を受けた。二十九日に芝邸を発ち、東海道を経て翌三月二十五日に薩府へ帰り復命した。
宝暦五年八月十五日 / 冊子 556~557頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1678
宝暦五年八月十五日、忠洪が幼少のため島津淡路守久柄が名代で登城し、襲封の御礼を行った記事。家重へ太刀一腰・刀一腰・縮緬二十巻・白銀百枚・馬二疋、家治へ太刀一腰・刀一腰・白銀百枚・馬一疋、御簾中へ白銀十枚・縮緬十巻を献上した。元注は刀の作者・長さや馬の特徴を記し、御簾中を閑院直仁親王の姫宮とする。白書院で将軍父子に拝謁し、元注では通常の襲封御礼の定めと、忠洪の幼少による久柄の代拝を説明する。鳥居伊賀守忠孝が襲封への謝礼を伝え、久柄は続いて西城の大廣間に登り、奏者衆朽木土佐守玄綱に拝謁して謝意を述べた。退去後はその足で老中各位の邸へ赴いて謝礼を述べ、それぞれ本管の老女へ白銀三枚、表使女へ白銀二枚を贈った。その他、老中・諸役・親戚知己へ贈る太刀・馬代・絹帛・酒肴などには違いがあるが、いずれも先例どおりとする。出典は重豪公御譜。
明和二年(日付記載なし) / 冊子 79~80頁/原整理番号 181の49/整理ID 181-49
日光の副使衆の旅宿と宿坊を列記した書立。「御名」の項は遊成院とあり、編録にママの注記が付く。他家十五件は、藤堂和泉守が教城院、松平陸奥守が観音院、松平土佐守が禅知院、有馬中務大輔が華蔵院、上杉大炊頭が實教院、松平大膳大夫が観音院、伊達遠江守が観音院、松平阿波守が實教院、松平相模守が安居院、松平信濃守が照尊院、宗対馬守が藤本院、佐竹右京大夫が實教院、松平光丸が浄土院、松平筑前守が教城院、細川越中守が浄土院と記す。松平筑前守の名にも本ママの注記がある。旅宿・連絡先として、藤堂の項に本町・武井岡右衛門・教城院、土佐守の項に御幸町・小野伊兵衛、有馬の項に日光御目代山口惣兵衛の家来・出町壱町目・神山又助、上杉の項に稲荷町一町目・嶋田内蔵、大膳大夫の項に下鉢石御幸町・南間大助、伊達の項に善教坊、相模守の項に鉢石町・永井舎人、信濃守の項に鉢石稲荷町・勧徳房、宗の項に多門寺、筑前守の項に鉢石・申橋主計、細川の項に入町・高野七左衛門を掲げる。宿坊のみの項もあり、すべてに別の旅宿や町名を補うことはできない。日付と差出人の署名はない。
安永四年首夏(日の記載なし)、以前の慣行を回顧 / 冊子 454~455頁/原整理番号 1261/整理ID 1261
以前から江戸に留守居を置くのは諸国とも同じで、京都・大坂の藩邸にも同様の者がいて旧称蔵奉行とする小字注を伴う。公用の会合では主人である諸侯の爵位に従わず、留守居自身の年功で席次を決めていたが、その由来は明らかでなく、次第にそうなったのだろうと述べる。自家と大廣間で同列となる諸侯として、仙臺の松平陸奥守重村、熊本の細川越中守重賢、福岡の松平筑前守継高、萩の松平大膳大夫重就、佐賀の松平肥前守治茂、津の藤堂和泉守高敦、鳥取の松平相模守重寛、徳島の松平阿波守治昭、高智の松平土佐守豊雍、久留米の有馬中務大輔頼僮、秋田の佐竹右京大夫義敦、米澤の上杉弾正大弼治憲、柳河の立花左近将監鑑通、津山の松平越後守康致、宇和島の伊達遠江守村候、対州府中の宗対馬守義暢を列挙し、共十七家の注を付す。安永四年の首夏、留守居参会について二箇条を作り、その弊を救うため同列へ報じ、可否を問うたと記す。受け入れた者として松平重村・細川重賢・松平重就・松平重寛・松平康致・有馬頼僮・上杉治憲を挙げ、示問の書は左方に収めるとする。諸侯の格式と家来個人の年功、照会先の列挙と賛同者を分け、全国一律の席次改正命令や、全家が同意して改正を実施したとはしない。重寛の名には推読を示すカ注もある。
文化12年9月14日(祝姫実生、生日は11月9日注)・12月28日(定姫生)/文化13年8月10日・明治13年11月16日(没) / 冊子 478頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1452
御系図の斉興公御子・男女五人のうち女子二人を掲げる。祝姫・候姫は智鏡院・常候とも記し、松平土佐守豊熙夫人。文化12年乙亥九月十四日生、十一月九日を生日としたとの注がある。母は「同斉彬」との参照表記。明治13年十一月十六日卒で、神道祭のため別に諡号を用いたとの注を付す。定姫・知姫は文化12年乙亥十二月二十八日生、母は岡田小藤次利武の妹。十三年丙子八月十日に天亡、法名智桂院殿妙雲幻香大禅童女。両人の母・没日・法名を取り違えず、実生と祝いの生日を区別する。祝姫の母の参照先は別途管理し、本文にない母実名は補わない。
文化12年9月14日・12月28日(生)/文政5・7年、天保2・4年(祝姫婚姻改名)/文化13年(知姫改名・没) / 冊子 478~479頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1454
近秘野卿、斉興公御子の女子二人。祝姫・候姫は松平対馬守豊熙(初政太郎、土佐高二十四万二千石の注)の夫人。文化12年乙亥九月十四日生、十一月四日を慶誕とし、後に四日を九日に改めたとの注がある。母は松平相摸守治道の女。文政5年壬午十二月十五日、政太郎(土佐守豊資嫡子)との許嫁、七年甲申六月二十八日に土佐邸(銀治橋之内の注)へ移り、天保2年辛卯二月朔日に婚姻、四年癸巳三月に候姫と改名。定姫はサタ、智姫はトキと訓を付す。文化12年乙亥十二月二十八日、府城に生まれ、母は岡田小藤次利武の妹、名を由良とする注がある。十三年丙子五月に智姫へ改名、避ける事情があったと記す。同八月十日、府城で天、年僅か二歳、法名知桂院殿妙雲幻香大禅童女。出生と慶誕、許嫁・転居・婚姻・改名の各日を区別し、1452の定姫法名表記「智桂」と本抄「知桂」を併記して保存する。
嘉永七年九月廿三日(登城通知)、十月朔日(引札順達) / 冊子 157~158頁/原整理番号 218の3/整理ID 218-3
次第不同とする引札回覧先の書立二組と、薩摩守への登城通知を収める。「の3」の引札本文は各欄を引札略スとして省略し、越前守・阿波守・薩摩守・陸奥守・安藝守・越中守・肥前守・大膳太夫・美濃守・内蔵頭・相模守等の名と藩主注記を残す。有馬中務大輔から十月朔日に差し越し、陸奥守が順達する旨も記す。「の4」も上総介・上杉・有馬・細川右京大夫・南部・土佐守・下野守・長門守・八郎麿・十郎麿等と老中の名を列記し、十郎麿から十月朔日に薩摩守へ差し越して順達する表示、以上一包トスの注を付す。続く九月二十三日付通知は、御用につき明後二十五日の五半時に登城し、熨斗目半袴を着用するよう求める。内藤紀伊守・久世大和守・松平伊賀守・牧野備前守・阿部伊勢守の五名を記し、薩摩守へ宛てる。省略された引札の文言はここに掲出されない。
寛永廿年九月十五日 / 冊子 153頁/原整理番号 105
寛永二十年九月十五日の「初日三番四角之外」犬追物手組。島津上野助二疋、相良土佐守五疋、本田弥五郎五疋などを掲げ、検見を島津因幡守、喚次を島津外記とする。
年月日未詳 / 冊子 390頁/原整理番号 113
伊地知才右衛門系図に載る前田土佐守重通の記事。居所は一定せず、移串良・踊・飯野・倉岡・國分・都於郡などへ移り、隅州小濱で没したとする。大将新納拙斎に従って牛根と下大隅の城攻めで功績を挙げ、その褒賞として田畠を与えられたという。前田肥前守重悦の子と注記する。
二月廿三日~廿五日の回覧書込(年は目録一件から天保九年とみられる) / 冊子 14~15頁/原整理番号 22の3/整理ID 22-3
大広間諸大名の交名と、武家諸法度の写しが届いた家・次に順達した家を記す一覧。「次第不同」とし、松平越前守・大膳大夫・三河守・因幡守などを掲げ、松平大隅守(島津斉興)に続いて松平陸奥守・阿波守・大和守・右近将監・上総介らの順達先を列記する。書込によれば、有馬玄蕃頭から二月二十五日に松平越前守へ、松平大膳大夫から二十四日に松平大和守へ、上杉伊予守から二十三日昼に上杉弾正大弼へなど、複数の経路で送られた。回覧の個々の到着日と送り先を追える史料であり、単独の差出人・宛先を持つ書状ではない。
6月29日宸翰写;8月摂津伝達(各原記載) / 冊子 373頁/原整理番号 535の3~5/整理ID 535-3
原の3~5を一行にまとめた文書群。原の3は御名の島津茂久と松平三河守・細川越中守ら二十三の官称を列記する名書。原の4は六月廿九日、一橋中納言へ賜った宸翰写で、世上の騒動を憂え、昨年八月十八日の出来事と関白らの意図を結び付ける噂に惑わされないよう述べる。大和への行幸は望まないと申し出たのに延期となったこと、守護職を肥後守に命じたのはその忠誠によることで私情ではないことを説明する。原の5は、長州人の入京を許さない旨の書付と稲葉美濃守の御渡書写で、本文は第533号の2と同文として略すとの注がある。さらに別紙五通を稲葉美濃守と所司代から受けたことを、漏れなく諸郷・私領へ周知する八月摂津の通知を収める。政治判断・噂の否定は宸翰や書付の叙述として読む。
原6:卯10月20日/原7:乙卯10月21日(干支原表記保持) / 冊子 414頁/原整理番号 590の6~7/整理ID 590-6
原第590号の6は、実美以下の脱走公卿が近く上坂する件と外国の件について、諸侯上京後に衆議で決めるまでの当面の取扱いを問う朝廷の書付。今日の照会に翌廿一日中に両役の内へ必ず回答し、明後廿二日巳刻にも出席するよう命じる卯十月廿日付。続く原7は、幕府の政権返上を数百年来の英断と評し、三藩の滞京掛役が共同で、徳川家の取扱いを諸侯会議で確定し、帰京する公卿と長防の処置も同時に裁断することを求める建白。外国の取扱いを「暫時越方」とすることへの意見を述べ、皇国一体として朝廷の条約を結び、兵庫開港は大変革・国体変換についての談判によって延期する裁断を願う。末尾は乙卯十月廿一日で關山・辻將曹・後藤象二郎・福岡藤次の名を載せる。朝廷の照会・出席指示と三藩の評価・政策提案を区分し、実施結果とはしない。
寛永15年正月15日 / 冊子 704~708頁/原整理番号 734
加世田士人相徳新介蔵本による人数賦。仁禮右京亮以下の主従人数を次第不同で列記し、追加申出や乗船勤務、夫丸の割付、小松原・出水米之津での飯米支給を注記する。途中に軍士156人・外117人夫と記す。末尾では正月十二日以来二十日分の飯米として真米15石・赤米10石7斗を出水六月田御蔵から受け取り、人躰一人に真米一斗、夫丸一人に赤米一斗ずつ渡したと記す。寛永十五年正月十五日付。
年月日未詳 / 冊子 733~736頁/原整理番号 772
正月十七日を中心に米津へ到着した各郷の軍勢を、人躰・卒者・小者・夫丸・玉薬持夫に分けて記す。都之城八十人と小者夫丸七十一人、吉松三十人と夫丸四十二人、栗野七十人と夫丸三十一人、国分八十五人と卒者夫丸百三十四人などを載せ、人物別の負担人数も列記する。後半には十八日条へ分載する旨を注し、十七日到着の大姶良・頴娃・飯野・高原・小林・清水・蒲生・高山などの士と従者を続ける。
二月五日 / 冊子 78~79頁/原整理番号 125
差出人不詳の人物が島津久元・山田有栄へ、去る二日付書状への返答を多条で伝える。薩州様の大坂出船後の日向・鹿児島・紫尾越・出水・獅子島への行程と仮屋・宿所、松平信綱への内意、有馬渡海の要否を述べる。在陣衆七百八十人、天草衆千六百二十四人の帰還と加子約二千人を別々に挙げて兵糧不足を懸念し、船・陣屋材・大工等の手配を相談する。
七月四日 / 冊子 458~459頁/原整理番号 576
島津久慶から、瀬之浦へ赴く山田民部少輔の乗船として二艘ほどを送るよう命じられたため、人数を確認して船賦する意向を伝える。しかし近辺の水手は長崎へ出て不在なので、出水諸浦の水主を残らず久見崎御船手へ急ぎ集め、乗船を米之津へ回すか別所へ回すか山田民部少輔に確認して返答するよう求める。
十一月十一日 / 冊子 493頁/原整理番号 626-5
相良頼元ら四名が、伴天連・キリシタン宗旨の禁制を受け、浦々で船上・陸上を問わず不審者が来た時は計略で捕らえ、鹿児島へ直ちに報告するよう命じる。船で来た者には鉄炮を撃たず、策略で上陸させて捕縛することを浦役人へ厳命し、状を確認した旨の返報を求める。