本田親貞書状
五月十八日 / 冊子 36頁
本田親貞が、公儀の用務に関する人員招集と家名帳の作成を蒲地伊賀入道へ命じた書状。公儀の許可なく上洛することを禁じ、蒲地本人または所衆二人を今月二十四日までに出頭させること、二十石以下の者は敬称を除いて家名を帳面に記すことを求める。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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五月十八日 / 冊子 36頁
本田親貞が、公儀の用務に関する人員招集と家名帳の作成を蒲地伊賀入道へ命じた書状。公儀の許可なく上洛することを禁じ、蒲地本人または所衆二人を今月二十四日までに出頭させること、二十石以下の者は敬称を除いて家名を帳面に記すことを求める。
辛未4月2日知政所 / 冊子 806頁/原整理番号 1028の1/整理ID 1028-1
三月まで支給した養料について、世禄五十石以下は四月以後の取扱いを改める。廃官等で別段の申渡しがある者を除き、定めた期限中は従前の等級により養料を支給するよう命じる。辛未四月二日知政所。
明治6年8月7日鹿児島県庁 / 冊子 924頁/原整理番号 1154の1/整理ID 1154-1
廃官となった者のうち高五十石以下の者へ、養禄四石ずつを今後十五年間支給すると定める。本文欄外番号は「1154の2」と読め、Excel番号との異同を留保する。
宝永六年己丑十一月十四日 / 冊子 879頁/整理ID 2880
島津吉貴が神明別当抱真院へ、神明宮建立に伴い社領として高三十石を寄進する旨を記す。前年までの神明宮造営を述べるNo.2879に続き、社領の額と管理先を明示する寄進状。
宝永六年己丑十一月十四日 / 冊子 879–880頁/整理ID 2881
島津久輝ら六名が神明別当抱真院へ、神明宮建立に伴う社領三十石を、川辺郡小野村・日置郡田布施池邊村・姶良郡帖佐松津村から寄進する旨を記す。No.2880の吉貴花押付き寄進状と異なり、具体的な村名と石高を列記する。
正徳四年十二月十六日 / 冊子 176~177頁/整理ID 437
十二月十六日、種子島弾正久基・嶋津内記久貫・嶋津大蔵久明が、薩州鶴田内の高二十石を、南泉院の末寺である祁答院へ再興に際して寺領として寄付し、所務を認める。名寄帳は別冊にあると記す。
安永四年三月九日、延享四年卯十月以来の仏前諸料を回顧 / 冊子 451頁/原整理番号 1247/整理ID 1247
高百五十石について、浄國院殿の菩提のため、延享四年卯十月から仏前諸料を相渡していたことを述べる。後に宗信の御判物でこの高を寄付しようと考えていたが、まだ整わないうちに宗信が卒したので、この度その高を寄付すると記す。御霊前の諸用を怠りなく行うよう求め、安永四年三月九日、浄光明寺宛とする。出典は重豪公御譜中、正文は浄光明寺。袖に島津重豪の名と花押No2の表示があり、浄國院殿には島津吉貴の注を付す。以前からの諸料支給と、判物による寄付を整えようとした経緯、その度の寄付を分ける。高の所在は記されていない。原には台慢のママ注がある。
安永四年三月九日 / 冊子 451~452頁/原整理番号 1248/整理ID 1248
高百五十石を宥邦院殿の菩提のため寄付するとし、御霊前の諸用を怠りなく行うよう命ずる。末尾は安永四年三月九日、福昌寺宛。宥邦院殿には島津継豊の注がある。冒頭は仝上、正文在福昌寺とし、袖の花押No2の表示を付す。差出人は目録の重豪袖判寄進状に対応する。本文は寄付した高と菩提の対象・寺を明示するが、高の具体的な土地所在や仏前諸用の内訳は記さない。花押の番号表示を実物の花押画像と同一視しない。前後にも百五十石の寄進状があるため、宥邦院殿菩提・福昌寺宛の一通として区別し、他の菩提対象と一件にまとめない。
安永四年三月九日、寛延二年巳七月以来の仏前諸料を回顧 / 冊子 452頁/原整理番号 1249/整理ID 1249
高百五十石について、慈德院殿の菩提のため寛延二年巳七月から仏前諸料を相渡していたと述べる。後に重年の御判物でこの高を寄付しようと考えていたが、まだ整わないうちに重年が卒したので、この度その高を寄付すると記す。御霊前の諸用を怠りなく行うよう求め、末尾は安永四年三月九日、福昌寺宛、袖に御判とある。慈德院殿には島津宗信の注、正文は福昌寺とする。差出人は目録の重豪袖判寄進状に対応する。
安永四年三月九日 / 冊子 452頁/原整理番号 1250/整理ID 1250
高百五十石を圓德院殿の菩提のため寄付するとし、御霊前の諸用を怠りなく行うよう命ずる。末尾は安永四年三月九日、福昌寺宛、袖に御判の表示がある。圓德院殿には島津重年の注、正文は福昌寺とする。差出人は目録の重豪袖判寄進状に対応する。
七月(本文末)、包紙は安永四年未七月十日渡・同十三日納置 / 冊子 468頁/原整理番号 1282/整理ID 1282
先祖の仏餉高について江戸へ伺ったところ、別紙の通り返答があったとする。五代目に当たる先祖の仏餉高を百五十石ずつ付す扱いとし、浄國院・有邦院・慈德院・圓德院にそれぞれ百五十石ずつ、都合六百石を御判物により寄付したと記す。法号には吉貴・継豊・宗信・重年の注がある。他方、かつて中納言に三百石を付していた分は銀三百枚に替え、寛陽院・大玄院に百五十石ずつ付していた分は銀百五十枚ずつに替え、泰清院の百石は銀百枚に替えるとする。中納言・寛陽・大玄・泰清には家久・光久・綱貴・綱久の注がある。以後もこの扱いに準じ、六代目となった時は高を銀に替える手順を整えるよう述べる。六百石は万々年まで済むよう仰せ出され、別紙の趣旨を帳面に詳しく記し、六代目になる時には家老中から間違いなく申し出るよう命じる。末尾は七月、主馬・帯刀・伊織・市正・仲の五名連署と各人名注。包紙には朱の七十七、安永四年未七月十日に主馬から渡されたこと、同十三日に白木御文書五番箱へ一条原善兵衛が納めたことを記す。原の有邦を宥邦へ改めない。新たな四法号の高と、別の旧高を銀へ切り替える額を分け、石と枚を同じ数量として合算しない。将来の六代目の手順を当日の銀切替完了へ移さず、渡日・納置日と本文の発給日も区別する。
天明五年十二月二十八日 / 冊子 844~845頁/原整理番号 2326/整理ID 2326
内用向の勤めにより、蒲生白男村・伊集院下神殿村・蒲生漆村永作浮免の内から知行五十石を渋谷五郎右衛門に与える。名寄帳は別冊とし、宮主膳ら五名が連署する。
天明五年十二月二十八日 / 冊子 846頁/原整理番号 2329/整理ID 2329
内用向の勤めにより、市来養母村と鹿児島郡吉田本城村などの内から知行五十石を市田勘解由に与える。名寄帳は別冊。続く注記は同日の四通の知行目録が渡された経緯を説明する。
正月(本文年・日不記);包紙:安政7年申正月廿三日 / 冊子 227頁/原整理番号 309/整理ID 309
筑後から渡された書付の写。順聖院が寄附し御物計から毎年福昌寺へ渡していた御高百五十石を、大慈院の寄附高と同前に扱うとする。近日御判物・御書附を大目付の使者によって寺へ渡し、家老中の添書は新番をもって渡す予定で、福昌寺への申渡は先例どおり取り扱うよう寺社奉行へ命じ、御記録奉行その他の関係者にも知らせる。実施日限は追って申し渡すとする。本文正月、筑後の名。包紙には安政七年申正月廿三日とある。白木御文書十番箱中・百七番。
10月(本文年・日不記);包紙:万延元年申10月3日 / 冊子 229頁/原整理番号 314/整理ID 314
伯耆から渡された書付の写。金剛定院斉興が寄附し御物計から毎年福昌寺へ渡していた御高百五十石を、大慈院の寄附高と同前に扱うとする。近日御判物・御書附を大目付使者によって寺へ渡し、家老中の添書は新番をもって渡す予定で、福昌寺への申渡は先例どおり取り扱うよう寺社奉行へ命じ、御記録奉行その他の関係者にも知らせる。日限は追って申し渡す。本文十月、伯耆の名。包紙には万延元年申十月三日、岩下佐次右衛門から春山弥兵衛へ渡され白木御文書十番箱へ収納したと記す。
文久2年4月廿三日 / 冊子 251頁/原整理番号 349の1/整理ID 349
雑集中の印刷の1。鈴木勇右衛門・鈴木昌之助・森岡善助・奈良原喜八郎・道嶋五郎兵衛・大山格之助・江夏仲左衛門・山口金之進の八人を年齢付きで列記し、勇右衛門には深手、五郎兵衛には即死の注を付す。今日伏見で身命を投げ出して比類ない働きと誠忠を示したことを喜び、各人に切米十石ずつを宛行い精勤を求める同文を載せる。文久二年四月廿三日、御名乗御判とするが発給者の実名は記さない。八人と八通の発給を同一視しない。
文化7年正月26日(前記事の同月) / 冊子 349頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1081
先に大父公が千眼寺を再建し、金若干を付したものの資用が足りなかった。そこで本月26日、斉興がさらに田禄150石を付して寺費に充てたと記し、大父公の意向によると説明する。上段の見出しと不足事情を下段の追加田禄・日付・意向へ連結する。金若干の金額は不記載で補わない。1082重豪御譜にも同月26日・田禄150石を掲げるが、独立した別の150石追加と断定しない。
文化7年正月(朱年注。具体の日なし) / 冊子 349~350頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1083
全上、扣正文在家老座。高150石、千眼寺。従来付け置かれた御銀では年々の入料に足りず寺務等が難渋するため、今回取揚高の内から右の高を付けると記す。従来の御銀利足に加え、今後継続できるよう計らうこと、これ以上の上訴や訴えがましい申出は取り上げないことを指示する。高の所務は壽国寺続料の所務を渡す仕向と同様に、年々代官方から渡すよう寺社奉行へ申渡し、御勝手方にも伝える。文化7年正月、信濃(頴娃久喬注)署。前1081・1082の田禄追加記事と対応する給付書付だが、本件署日へ26日を補わず、所務・利足・受渡経路を保持する。
明治2年十月12日知政所(年は朱書) / 冊子 705頁/原整理番号 922の4/整理ID 922-4
諸郷軍役高は百石限としていたが、常備兵の設置に際し無高の者も少なくないため再吟味したと述べ、諸郷の土着を踏まえて、以後諸郷一同を五十石限と定める。過上高のある者は一石二百貫文の直成で、それぞれの郷内で相対売買を混雑なく扱うよう地頭へ命じ、会計局等へ周知する。但し当秋収納を済ませてから本文の通り取り計らう。朱明治二巳十月十二日、知政所。限度・売買単価・郷内・収納後の条件を区分し、実売買総高・収益や即時施行完了は補わない。
嘉暦三年七月日 / 冊子 555~556頁
比志島彦太郎義範が、満家院河田右衛門太郎による米十石四斗・銭三百文の負累を訴えた申状。扶持人・同領内百姓らを召し、御成敗負累請文などを調べ、弁済と裁許を命じるよう求める。
応永廿三年十二月十四日 / 冊子 296頁
島津存忠が米十石を借用し、翌年霜月中に利分を含めて返済できない場合は水田一町を渡すと定めた質入証文。不慮の事態には御所圓丸を質として差し置く旨も記す。
永正十年八月廿一日 / 冊子 602~603頁
島津一瓢が、田布施野崎名内の十石園門などの田地を代銭二十貫文で坊津の智徳院へ永代に売り渡し、後日の違乱を禁じた沽券。
永正十年八月廿一日 / 冊子 603頁
智徳院頼真が、田布施内十石園門の代物二十貫文を関係者へ渡したことを証明した渡状。
元亀元年七月十四日以前 / 冊子 232~233頁
広済寺の由緒として、同寺が泰定山南禅寺派で寺領三十石を有したこと、七代雪辱和尚が義久の時代に琉球使僧として渡海し、七月十四日に出帆したことを記す。使節を忠実に勤めた賞として、旧来の末寺を寄附された置文が伝わるとする。
(天正16年)8月23日 / 冊子 408頁
思いがけず在京が長引くなか、前年以来の忠棟の厚意に報いるため、龍伯が摂津・播磨で与えられた一万石から毎年米四十石を贈ると約束する。 知行を保持している間は贈与を変えないと証文同様に保証し、義久と忠棟の緊密な主従関係を示した証状。
天正21年正月4日 / 冊子 663頁
安藤二介に関する算用として、三十石を勝田源左衛門尉へ遣わすことを入来院重時が認める。 百石・屋敷用土地の宛行状と同日に出された一通で、受給者と石高の違いを比較できる。
天正21年正月23日 / 冊子 666~667頁
白下・赤下・上之原・田島山畑などに散在する田畠・屋敷を、地目ごとの面積とともに列挙して東郷助左衛門尉へ与える。 合計は二町一反二畝一分、米高二十石二斗五升三合三夕二才と算定されており、入来院重時家中の知行を面積と収穫高の両面から確認できる目録。
文禄2年2月7日 / 冊子 668~669頁
薩州隈城内の城岡之門をはじめ、屋敷・田畠・山畑などの所在と面積を列挙して長谷場越前守へ与えた領知目録。 新知三十石に九石一斗を加え、先知行と合わせて六十石の役を勤める条件で付与したことを明記する。三奉行が連署し、給付地の内訳と軍役負担を結び付けた家臣知行文書。
(文禄2年)3月13日 / 冊子 678頁
しばらく音信がなかったことを詫び、当地に異変はないと島津義弘へ伝える。前日に「かせんはしま」方面へ物見を出したが唐人は確認されず、ひとまず安心してよいと報告する。 義弘から馬大豆十石の援助を受けたことに深く感謝し、必要があれば「ふさんかい」方面でも用務を引き受けると申し出た、偵察報告と兵站支援への礼状。
文禄3年8月19日 / 冊子 807頁
増田長盛は、義弘方の城米を受け取る奉行を派遣し、船で三百八十石を送るので受領書を出すよう求める。勘定は後日精算するとし、義弘方の蔵米が用意できていないため、以後は八木を船で送らないと通知する。 釜山浦で受け取って保管している米は自方の蔵へ入れ、順次取り寄せるよう指示する。朝鮮在陣中の米輸送・受領・算用の手順が具体的に分かる兵站文書。
文禄五年八月九日 / 冊子 38頁
伊集院右衛門入道幸侃が、隅州桑原郡吉松の般若寺領のうち、般若寺村内の右田島屋敷分について、米高百三十石余を記して与えた署判領知目録。
慶長二年二月廿九日 / 冊子 91頁
伊集院抱節と比志島国貞が、海上交通が困難ななか自船で渡海して参陣した者の忠節を賞し、知行十石を充行う旨を証した連署状。
慶長二年二月廿九日 / 冊子 92頁
伊集院抱節と比志島国貞が、困難な渡海を果たして参陣した忠節を賞し、知行十石を充行う旨を伊集院九郎に証した連署状。
慶長二年二月廿九日 / 冊子 92頁
伊集院抱節と比志島国貞が、兵船での渡海が難しいなか自力で参陣した者の働きを賞し、知行十石を充行う旨を証した連署状。
慶長二年二月廿九日 / 冊子 92頁
伊集院抱節と比志島国貞が、兵船の渡海が困難ななか自力で参陣した高城左京亮の働きを賞し、知行十石を充行う旨を証した連署状。
(慶長三年)三月廿二日 / 冊子 200~201頁
新納為舟忠元が上井神五郎へ、上洛したと聞いて書き送った書状。吉田の内にある冨森九介・嶋田弥五右衛門尉の各三百石余の役口について、そのうち一口の取成しと知行方の配当を頼み、国境へ移るには少数でも役立つ人衆を伴わなければ困難だと訴える。また返地として上申した蔵野の内約五百五十石について、岡松が未検地なので検地後に帳面を提出するとし、岡松から京都・高麗へ夫丸を立てる件の差止めと、孫の二郎兵衛尉を上洛させる際の支援も依頼する。
元禄十四年八月廿三日 / 冊子 300~301頁
児玉利昌の孫・児玉利言が、祖父の朝鮮役での奉公を申し立てる。文禄元年、義弘の渡海時に自費で船を用意して朝鮮へ渡り、雑兵を多数討ち取ったため、帰朝後に褒美として知行三十石を与えられたと記す。本文は複数条のうち一条のみを掲げ、ほかは省略されている。
年月日未詳 / 冊子 301頁
国分氏伝が、朝鮮出陣前に「自力で五百石相当の軍役を勤めれば、帰朝時に高五百石を与える」と諸士へ約束されたことを記す。国分左京は自力でその軍役を負担して渡海し、出陣前に二百五十石を受けた。帰国後に残額を願い出たが、国分氏が夫満宮の社領八町を領して社領を失わせていることを理由に、既給分の石高で相当と裁定された。
年月日未詳 / 冊子 353~354頁
上原氏二代目の源右衛門は国分で島津義久に近侍し、平田狩野らと兵具方を勤めたため、他の者が高麗へ出陣して加増を受けた際にも義久のそばに留め置かれた。忠恒への代替わりに際して墨色の「あめの御旗」を持つ使者を務め、その加増として五十石を与えられ、義久は本来百石を与える意向であったと伝える。
慶長四年五月十七日 / 冊子 383~384頁
島津義久が留守次郎三郎に、大隅国宮内浦山田村のうち高五十石と屋敷一つを正八幡領として新たに寄進する。近年、諸社領を減らしてきたが、同人が以前から島津家の祈願を担っているため、従来どおり元日の大節供を神前に備え、怠りなく祈祷に励むよう命じる。
慶長四年五月十七日 / 冊子 384頁
島津義久が、従来の諸神領が京儀によって減らされたものの、島津家長久の守護を誓願するため、霧嶋領として高五十石(うち嶋方十石)を新たに寄進する。少地を付して早々に神の感応を仰ぐ趣旨を記す。
慶長四年五月十七日 / 冊子 384頁
島津義久が、大隅国郡田口村のうち高五十二石(うち嶋方十石)を霧嶋社領として寄進する。旧来の諸神領が京儀により減らされたが、島津家長久の守護を誓願するため別に少地を付し、早々に神の感応を仰ぐとする。
(慶長四年)五月廿一日 / 冊子 385頁
本村半右衛門尉が高城左京亮に、高四十石の指出として、慶長元年十一月廿日に主従二人で出立し、慶長三年二月に御供から帰朝した経歴を記す。その間、所から六か月分の御盛を受け、残る十八か月分は自ら堪忍したと申告する。
(慶長四年) / 冊子 400頁
島津義久が前田久右衛門尉に、旧主肝付弾正忠の武勇は広く知られており、その家跡を取り立てるべきだと述べる。前田家が代々重ねた比類ない戦功と忠節を評価して召し出し、高四十石を宛行う。
慶長四年九月二日 / 冊子 433頁
島津忠恒が、日向国真幸院吉田村の知行高三百九十六石のうち五十石を寄進した寄進状である。先年に立願したことを受け、今回正式に寄進すると定める。
慶長四年九月十四日 / 冊子 436頁
島津忠恒が留主次郎三郎に、吉田佐多之浦村のうち高五十石を知行として寄進する。先年の立願が成就したため当家の祈願人である留主に付し、十月十五日の大放生会と中節供を旧規どおり神前に供えて、怠りなく祈祷に励むよう命じる。
慶長四年十月廿八日 / 冊子 465頁
島津忠恒が執印吉左衛門尉に対し、薩州郡隈城西手村の屋敷一か所と、高七十石一斗六升八合五夕のうち五十石を寄進する。当家繁栄・武運長久のため、神前で祈祷するよう命じる。
(慶長四年十二月十六日) / 冊子 476頁
島津義弘が、年始の留守居衆・諸寺への祝言、出水城普請、江南馬、ばはん船の荷物とろそん船の壺改め、武具・兵具の上納、在京衆、飫嶋での唐船遠見、番所の茶四十石、蔵の御物、上方で請け取る八木二千四百石のうち約四百石の未進、夫丸替、魚塩、出水からの上納、浮土貢、仕上米について処理事項を列挙した覚書。
慶長四年十二月廿日 / 冊子 478頁
種子島久時と山田利安が安楽大炊助に、日向国諸県郡大崎の岡別符内十五石五斗二升二合と、大隅国肝付郡柏原村内四石四斗七升八合、合計二十石を加増として配当することを定めた連署目録。
慶長五年五月四日 / 冊子 540頁
島津忠長と平田増宗が連署し、加増高二千七百三十石のうち、庄内下川路有水の高千石を北郷作左衛門尉に与えることを示した加増目録。