島津義弘譜
年月日未詳 / 冊子 138~139頁
『島津義弘譜』から、毛利秀元・黒田長政らが全義館から王城方面へ進み、黒田勢が明・朝鮮側の解生、楊登山、牛伯英らと遭遇して激戦を交えた記事。栗山備後守・後藤文兵衛の五十騎による突撃、援軍到着後の再戦、日没による追撃中止までを記す。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
98 件 (全巻)/ 1–50件を表示
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年月日未詳 / 冊子 138~139頁
『島津義弘譜』から、毛利秀元・黒田長政らが全義館から王城方面へ進み、黒田勢が明・朝鮮側の解生、楊登山、牛伯英らと遭遇して激戦を交えた記事。栗山備後守・後藤文兵衛の五十騎による突撃、援軍到着後の再戦、日没による追撃中止までを記す。
(元和八年)五月二日 / 冊子 779頁
徳川家光が島津家久へ、端午の祝儀として帷子五領・内単物三領を贈られたことに謝意を示し、詳しくは酒井備後守・青山伯耆守が述べるとした直書。
(寛永十年)五月廿三日 / 冊子 366頁
徳川家光が島津家久へ、音信として贈られた沈香五斤を喜んで受け取り、詳細は酒井備後守・青山伯耆守から伝えるとした御内書。
(永禄三年)六月二日 / 冊子 221頁
近衛植家が島津修理大夫に、日向方との争いは不適当なので和睦すべき旨の御内書が発給され、使者として伊勢備後守が派遣されたと伝えた書状。是非をいったん置いて受諾することを求める。
五月十五日 / 冊子 442頁
同族の酒井備後守に嫡子が誕生した祝儀として、魚三種と諸白二樽を目録どおり贈られたことへ礼を述べた酒井忠勝書状。
七月廿日 / 冊子 442頁
酒井備後守の嫡子誕生に際し、遠路から三種二荷の祝儀を贈られたことへ謝意を示した酒井忠勝書状。
延享二年三月十八日 / 冊子 801頁/整理ID 2101
継豊は召し仕える女二人を国元から江戸へ差し越すにあたり、関所で手形を見届けて通すよう牧野備後守方へ依頼した。関所での取扱いと通行後の報告にも触れる。女の人数、移動方向、関所通行のための文書であることを本文から確認できる。
辰2月7日内田報告、通知は去月11日の神戸事件を述べる(日不記) / 冊子 485頁/原整理番号 654の1/整理ID 654-1
備前家老日置帯刀が去月十一日に神戸を通行した際、外国公使へ発砲したことについて、朝廷が公法による処置として、発砲を号令した士官を死罪、帯刀を勤慎に付すと通知する文言を収める。太政官代からの廻達が久留嶋伊豫守方から到来したため、原本を内藤備後守方へ順達し、写を添えて届けると辰二月七日に内田仲之助が報告する。処置の通知と順達・写添付を区別し、刑の執行や責任の実証はこの文書だけから確定しない。
二月十日 / 冊子 115頁/原整理番号 182
川上久国・三原重庸が伊集院備後守へ、薩州様が上之関から有馬へ直行するとの知らせを祝い、兵具衆を早く派遣し、その他の人数は指示次第召し立てるよう伝える。自身の出陣希望については松平伊豆守信綱に伺い、有馬の加勢人数や上境目の事情を踏まえて判断するよう回答する。
年月日未詳 / 冊子 256頁
島津久豊が伊地知縫殿助を碇山へ派遣し、久世忠朝方との和睦を進めた経過を記す義天譜。市来備後守家親も提携を歓迎し、久豊・久世・市来方は伊集院頼久を共通の敵として軍勢を統合した。碇山・市来・吉田周辺で交戦して敵を退け、島津一族間の和解を反伊集院連合へ発展させた。
天明七年十二月二十七日(年は朱書) / 冊子 1005頁/原整理番号 2707/整理ID 2707
歳暮の祝儀として小袖一重が到来したことを喜び、詳しいことは牧野備後守が述べると伝える。十二月二十七日付、家斉の墨印を据えた松平上総介宛の御内書である。
天正二年正月~十二月 / 冊子 327~328頁
天正二年の軍事日程を記し、正月三日の茶園尾着陣、十九日の伊東・肝付勢による禰寝攻撃、二十日の牛根城開城、廻・市成両城の接収、伊地知氏の帰順、八月の宝繁寺を介した肝付氏との矢留め、十二月の平松陣撤収と役人交名を載せる。
慶長十四年三月五日 / 冊子 209~210頁
慶長十四年三月五日、伊東某が、朝鮮出兵以来の軍役、兵船・武具・鉄砲等の調達、京都での勤仕と不足銀の借用などを列挙し、長年の奉公と窮状を訴えて処遇を願った軍忠状の抄録。
寛政元年二月二十九日(年次朱書) / 冊子 1031頁/原整理番号 2790/整理ID 2790
御台への自分と同氏上総介の年中献上物について、以後は別紙のとおり表向きから献上し、そのほかは内証から献上する扱いにしたいので指図を求める。二月二十九日付、松平豊後守。朱書の附札は、表向き献上も同意とし、内証からの品は大奥の老女へ申し合わせるよう指示する。続く朱注によれば、当日婚礼御用掛牧野備後守へ提出し、同時に用人から切紙が届いたため橋口與三次が出向いたところ、平野からこの附札のとおり言い渡されたという。
寛政元年六月三日(年次朱書) / 冊子 1038頁/原整理番号 2805/整理ID 2805
妹と島津淡路守の婚姻が整ったため、名代をもって礼を述べる際の献上品・贈物について、松平豊後守が指図を求める。豊後守からは公方へ肴物十、御台へ白銀五枚、蓮光院へ白銀三枚、同氏上総介からは公方へ肴物五、御台へ白銀三枚を献じたいとする。付札は記載どおりの献上を認める一方、贈物には及ばないと指示する。六月三日に橋口與三次を介して用番牧野備後守へ伺い、付紙のとおり申し渡されたと朱記する。
天明七年十月十五日(年は朱書) / 冊子 1002頁/原整理番号 2697/整理ID 2697
公方の機嫌がよいことを喜ぶと述べ、御縁女を近衛右大臣の養女とする願いがそのとおり認められたことを、松平豊後守から聞いてありがたく思うと伝える。この謝意を豊後守からの使札で申し上げている。折を見て御前でも適切に執り成してほしいと依頼して結ぶ。十月十五日付、松平越中守ら六名の老中へ宛てた書状である。
天明七年十月晦日(年は朱書) / 冊子 1003頁/原整理番号 2699/整理ID 2699
翌朔日五時に登城して参府の御礼を申し上げるよう命じられたことを承知したと答える。十月晦日付、松平上総介から松平越中守ら六名への請書である。ここには命令の受領と了解を記し、実際に登城したかどうかは述べていない。
「寛永十七年」六月十日 / 冊子 119~120頁
北郷久加・山田有栄・伊勢貞昌が国元の重臣らへ、島津大和久章が先月に暇を得て五月朔日に京都三条へ着き、十七日まで逗留したものの、各所へ出歩き、供の者にも居所が分からない状態であったと報じた連署書状。予想外の行動に薩州様も驚いたことを伝え、当時の詳しい事情は市来備後守から口上で申し上げるとしている。
寛永二十年五月十四日 / 冊子 238~239頁
島津光久が留守中の奥向きと台所運営を定めた条書。奥方へ来る町人の女房らへの過度な振舞いを禁じ、隠岐守・備後守方への年中の音信や節供品の回数・内容を定める。女客の接待、魚・野菜などの購入、膳所・台所の支出を吟味し、品物や費用を適正に管理するよう納殿衆へ命じている。
「寛永廿年」十二月廿三日 / 冊子 266~267頁
島津久通・新納久詮が川上久国へ、阿部忠秋当番中の登城・談合の経過や、酒井備後守の暇、鎌倉での鷹狩・箱根湯治、進物の取次ぎなど江戸での諸動向を報告した連署書状。関係老中への書状・相談を速やかに進めるよう求めている。
(元禄二年)九月十五日 / 冊子 841頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2232
島津綱貴が大久保忠朝へ、琉球蒔絵の火鉢を献上し、牧野備後守の取り次ぎで内々に披露が済んだ旨を承知したことと、返答が遅れた事情を述べた書状。
元禄三年五月十四日 / 冊子 856頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2286
阿部正武が松平大隅守へ、公方の機嫌を伝え、二月十日の山王参詣からの還御時に牧野備後守邸へ御成になった件を喜ぶ旨を承知したと返答する。紙面どおり各人で相談して上聞に達したと述べる。
元禄三年十月十四日 / 冊子 864頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2321
島津綱貴が幕府老中へ、将軍が勇健で、先月六日に牧野備後守邸へ赴き機嫌よく還御したと承知した喜びを飛札で申し上げた書状。
元禄十六年四月二十七日 / 冊子 424頁/整理ID 1443
阿部豊後守正武が松平修理大夫吉貴へ、将軍が機嫌よく先頃牧野備後守成貞の館へ御成となったことを喜ぶ旨を承知し、書面の趣旨は同僚と相談して上聞に達したと答える。四月二十七日付。
享保六年正月二十六日 / 冊子 455頁/整理ID 1220
島津吉貴が、鳥居丹波守家と牧野備後守家に関係する女性を養女とする件について、事情と願意を述べた口上覚。
〔天保九年〕二月十九日(年は目録による) / 冊子 15頁/原整理番号 22の5/整理ID 22-5
幕府大目付が松平大隅守の留守居へ、太田備後守から渡された書付の写し一通を送った添状。内容を承知し、嫡子にも通達するよう求め、返答は土屋紀伊守方へ伝えるよう指示する。二月十九日付。
〔天保九年〕十二月六日(本文戌年、年は目録による) / 冊子 24頁/原整理番号 34の1/整理ID 34-1
猪飼央(目録は尚敏)が島津但馬・伊勢、菱刈安房へ、斉興の転任に伴う達しの内容を伝えた書状。白書院の縁頬に老中が列座し、用番太田備後守から伝えられた書取写しを添え、別紙の内容を役人へ申し渡すよう沙汰されたと知らせる。国元での申渡は宛先側で取り計らうよう求め、御記録奉行には別に伝えてあると付す。戌年十二月六日付。
〔天保九年〕十二月廿九日(本文戌年、年は目録による) / 冊子 26~27頁/原整理番号 35の4/整理ID 35-4
猪飼央(目録は尚敏)が島津但馬・伊勢、菱刈安房へ、斉興の転任後の祝儀・勤向について太田備後守から受けた指図を伝えた書状。例書を添えて伺ったところ、朱書のとおり書取で申し渡されたとし、年頭・五節句・八朔・月次の式向も別紙写し三通のとおり伝えられたと知らせる。内容を承知して取り計らうよう求め、御記録奉行にも伝えてあることを付す。戌年十二月二十九日付。
天保九年十二月五日 / 冊子 29~30頁/原整理番号 39の2/整理ID 39-2
島津斉興が宰相に任じられた登城の経過を記す首尾書。十二月五日朝五時早めに供が揃い、服紗小袖を着て登城し、大廊下下の部屋で待った。留守居半田嘉藤次が御坊主組頭を介して目付佐々木三蔵へ到着を知らせ、目付大津主馬が寄せを申し上げた後、小笠原相模守の案内で御座之間へ通った。徳川家慶に目見して宰相任官の上意を受け、請礼を述べて退出し、黒鷺杉戸際で大老井伊掃部頭・老中の列座する所へ進み、用番太田備後守から次の書付を渡されたと記す。記録者は目録により碇山久徳とされる。
〔天保十年〕正月三日(本文亥年、年は蓋紙・目録による) / 冊子 33頁/原整理番号 40の2/整理ID 40-2
猪飼央が島津但馬・伊勢、菱刈安房へ、斉興の白綾着用についての指図を伝えた書状。転任に伴って白綾を用いたいと内意で伺ったところ、用番太田備後守が前年十二月二十九日に、別紙写しの朱書のとおり着用して差し支えないと書取で伝えたと知らせる。承知して取り計らい、御記録奉行などへも伝えるよう求める。亥年正月三日付。
天保十一年十二月四日 / 冊子 42頁/原整理番号 58/整理ID 58
天保十一年十二月四日、斉興が斉宣の名代として登城した記事。白書院の縁頬に老中が列座し、太田備後守が命を伝えて、由緒による特別の扱いで斉宣を正四位上に叙すると告げたことを記す。
辰2月8日内田仲之助署、当日の触次通知・御用首尾 / 冊子 486~487頁/原整理番号 655の2/整理ID 655-2
内藤備後守とほか四藩の触次に関する御書付一通を掲げ、内藤・伊東・秋月・嶋津・宗の称号を列記する。今日太政官代でこれらの触次を命じた旨を非藏人松尾伯耆から口頭で聞き、御請を申し出て置いたと記す。自分たちは差支えがあり留守居付役遠武橘二が御用を勤めたため、別紙を添えて辰二月八日に内田仲之助が報告する。追記は五藩へ本文の趣旨をもって廻達する予定を知らせる。通知・御請と代理御用、今後の廻達を分ける。
巻二/冊子 15~18頁
島津忠国の弟季久の子忠廉が文明十八年から日向飫肥に居住した由緒と、永禄三年の将軍上使伊勢備後守による島津・伊東間和平交渉を詳録する。上使は飫肥を公領として和睦させようとするが、樺山善久ら島津方は、飫肥が頼朝以来の島津領であり伊東領ではないと反論し、伊東が飫肥へ手を出さないことや大友氏との協調を条件として確認する。続いて貴久は忠廉の孫忠廣の継子として忠平(のち義弘)を飫肥へ送る。忠平は一年後に薩摩へ戻り、その隙に伊東勢が飫肥を囲むと救援を望むが、貴久・義久に止められ、養父忠廣との関係に苦悩する。後半では肝付兼続が貴久への礼を欠き、廻城を奪って伊地知重興・禰寝重長と結び反乱したため、島津軍が竹原山・廻城で戦う。忠将は制止を聞かず敵中へ突入して戦死し、町田忠林ら七十余人も討死した。肝付方は敗れて恒吉へ退く。忠平は忠廣の勧めで薩摩へ帰り、忠廣は北郷八代系の忠親を養子とする。忠親はいったん飫肥城を伊東氏へ渡すが、同年九月に策を用いて再入城した。和平外交、忠平の養子関係、肝付反乱、忠将戦死、飫肥家継承を結ぶ記事である。
天明五年三月四日 / 冊子 796~798頁/原整理番号 2195の9/整理ID 2195-9
将軍転任祝儀の招請人名を63件列記する。三月四日・御次第不同とし、大書院・表書院御取持・勝手之間・居間書院・居間・勝手の区分と各人の断注を記す。掲載数は出席人数を表さない。
宝暦十一年六月十五日(目録、本文に十三日を含む) / 冊子 851~853頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2531-6
六月十三日の機嫌伺いの総出仕に際し、老中が寺社奉行太田摂津守・毛利讃岐守、大目付筒井大和守、勘定奉行石井備後守、作事奉行安藤弾正少弼、大目付大田三郎兵衛・曲淵勝次郎・松平庄九郎へ、家重の出棺・葬送・法事の用を命じ、若年寄が侍座した。十五日の総出仕では小姓組の松平左太夫と書院番の京都使者を掲げ、贈位・院号の用命を但馬守が右筆部屋で、暇と拝領物を摂津守が申し渡したと記す。金二枚の記載と、勘定組頭・代官・漆奉行・勘定・大工頭・作事奉行・支配勘定らの名簿を載せる。増上寺での葬送・法事の用は、酒井左衛門尉が右筆部屋で申し渡し、信濃守が侍座し、村山長右が差し出したと記す。
明和六年四月二十七日~二十八日 / 冊子 212~213頁/原整理番号 559/整理ID 559
四月二十七日、家治公が阿部伊豫守正右を芝邸へ遣わして重豪に帰国の暇を与え、縮緬三十巻・白銀百枚を賜ったことを記す。同日、儲君家基公も板倉佐渡守勝清を芝邸へ遣わし、紗綾二十巻を賜り、これは先例とする。重豪は即日、老中各位の宅へ赴いて拝謝した。翌二十八日には登城し、黒書院で家治公に拝謁して暇を賜ったことを謝し、懇厚な台命を受け、先蹤に従って駿馬一匹も賜り、重ねて拝謝した。続いて西丸へ赴き、奏者松平能登守乘蘊を介して前件を謝した。芝邸留守家老桂織部久中も随従して登城し、太刀一腰・馬代白銀一枚・紗綾二巻を献じ、太田備後守資愛を奏者として拝謁した。その後西丸で松平乘蘊を介し、太刀一腰・馬代白銀一枚を家基公に献じて拝謁の恩を謝し、退出した。
明和九年の編年記事(前年冬の下賜から同年六月晦日復命まで) / 冊子 312~313頁/原整理番号 855/整理ID 855
重豪が在国していた前年冬、家治が独り鷹狩りをして得た鶴一隻を国へ賜った経緯を記す。十二月二十七日、松平輝高が留守居樺山助之進資孫を召して鶴・奉書・駅券を授け、資孫は拝奉して芝邸へ帰った。その夜、川上八郎左衛門親方・米良弥平次則房を宰とし、歩行士二人・足軽六人で国へ護送した。正月二十二日、藩城へ到着し、重豪は対面所に親しく出て拝受した。同日、島津太郎次郎久容を謝恩使として東都へ送り、堂千太夫行撰・阿多源蔵實親を伴わせ、駅券と連署を付した。西海・山陽・東海を経て二月十六日東都へ到着し康福の邸を訪ね、二十七日に連署と駅券を返した。久容は同月二十四日、西丸の阿部正允の邸にも格書を届け、他の執政・若年寄へも例どおり書を送った。三月十五日に登営し、家治公へ二種一荷、家基公へも同品を献じて拝謁し、土岐美濃守定経が奏者となった。続いて久容自身は太刀一腰・馬代銀一枚・紗綾二巻を献じ、太田備後守資愛が奏者となった。同日西丸にも登り、自身で太刀と馬代銀一枚を献じ、小出伊勢守英常が奏者となった。十八日にも登営し、板倉勝清から奉書を授けられ、紗綾二巻を賜った。三月二十四日東都を発ち、六月晦日に鹿府へ帰って復命した。出典は御譜中。
明和九年の編年記事(四月十五日・十八日、原「同年」) / 冊子 324頁/原整理番号 891/整理ID 891
同年四月十五日、大樹は老中板倉佐渡守勝清を芝邸へ遣わし、重豪の参府を労った。十八日、重豪は登営し、黒書院で大樹家治公に拝謁して先格どおり献品した。小出伊勢守英常が奏し、懇旨を受けたという。続いて西営へ登り、奏者太田備後守資愛を通して拝謁し、献品も同じように行った。以前に記したとおり老中各第へ礼謝し、この日に従った家老島津左中久金・山岡齋宮久澄が贄を執って謁見したことも例のとおりであったと記す。
文化12年亥10月(本文)/12月25日(朱書の下付・帳留) / 冊子 483~484頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0101
1462の2、周防守(水野忠実注)の続書。養父は壱岐守、養母はその奥方。叔父欄に水野内記・書院番頭水野遠江守・交代寄合溝口摂津守・内田近江守を掲げる。従弟欄は長五郎の惣領小濱徳太郎、内記の惣領藤五郎、その男安五郎、従弟女は同娘お喜代。養母方は伯母に南部伊勢入道(左衛門尉の養父)の内室、叔母に池田山城守の内室、和泉守の兄藤堂主殿頭の内室、山内遠江守の内室。従弟欄は南部左衛門尉、山城守嫡子池田帯刀、溝口古永之進惣領常太郎とその男鐵之丞。従弟女欄は松平飛彈守の内室、備後守の養母峻光院、縫殿頭の内室、古永之進娘お悦。実方欄に「御甥・実御兄・松平大膳太夫」と記す配置があり、単純な甥の氏名とは断定せず原欄を留保し、従弟松平淡路守を記す。亥十月で結ぶ。末朱書は、右二通を文化12年亥十二月廿五日に安房から受け、記録所で帳留すべき旨を本田休七が承知し、白木御文書八番箱へ入れたと記す。「右一冊トナレリ」の注もある。養家・養母方・実方の関係を混ぜず、本文十月と保管十二月を区別する。
天明七年三月二十六日 / 冊子 962頁/原整理番号 2603の1/整理ID 2603-1
備前清真の脇差一腰を掲げ、拵書は別紙にあるとする。この脇差は浚明院の遺物として、天明六年十月二十六日に上使の太田備後守を通して重豪が拝領したものである。御納戸へ渡しておくので、いささかも怠慢・疎漏なく納め置くよう命じる。天明七年三月二十六日付で宮之原通直・二階堂行旦・嶋津久健・川上久品・菱刈實祐・喜入久福・嶋津久邦の七名が連署し、御納戸奉行に宛てる。
天明七年十月晦日(年は朱書) / 冊子 1003頁/原整理番号 2701/整理ID 2701
翌朔日五時に登城して参府の御礼を申し上げるよう命じる。十月晦日付、阿部伊勢守・鳥居丹波守・水野出羽守・牧野備後守・松平周防守・松平越中守の六名が連署して松平上総介へ伝えた書状である。翌朔日は十一月朔日に当たる。
天明八年二月二十六日 / 冊子 1009頁/原整理番号 2721/整理ID 2721
牧野備後守が松平上総介へ、歳暮の御内書を渡すので、翌日五半時に家来を御城へ差し出すよう求めた書状。二月二十六日付で、天明八年の年次は朱書による。
天明八年十二月五日(記事) / 冊子 1024頁/原整理番号 2770/整理ID 2770
翌春二月に大家と茂姫の婚儀が行われることになり、親戚の侯伯があらかじめ命を受けて婚礼調度を献じたと記す。戊申十二月五日、斉宣は食籠五荷、重豪は重一組を、それぞれ留守居を本丸へ登らせ、老中牧野備後守貞長・奏者土屋能登守泰直を介して茂姫へ献じた。また斉宣は綢紗五巻、重豪は綢紗十巻を女使によって宮中へ献じたという。
天明八年十二月二十五日(年次朱書) / 冊子 1024・1025頁/原整理番号 2771/整理ID 2771
姫君の婚礼に際して重一組を献上されたことについて、各々相談して上聞に達した旨を、牧野備後守貞長が松平上総介へ伝える。十二月二十五日付、貞長判。
天明九年正月七日(年次朱書) / 冊子 1026頁/原整理番号 2776/整理ID 2776
若菜の祝儀として鯛一折を献上されたので披露したところ、一段の御仕合であった旨を、牧野備後守貞長が松平上総介へ伝える。正月七日付、貞長判。
天明九年正月十一日(年次朱書) / 冊子 1027頁/原整理番号 2778/整理ID 2778
年頭の祝儀として使者により太刀一腰・馬代黄金十両を献上されたので披露したところ、一段の御仕合であった旨を、牧野備後守貞長が松平上総介へ伝える。正月十一日付、貞長判。
己酉二月(見出し)、十二月五日(記事中の献上日) / 冊子 1028頁/原整理番号 2783/整理ID 2783
己酉二月の見出しに続き、幕府が茂姫の婚儀を調えようとして親戚の侯伯に婚礼調度の献上を命じたと記す。十二月五日、斉宣は留守居を本丸へ登らせ、老中牧野備後守貞長・奏者土屋能登守泰直を介して茂姫へ食籠一荷を献じ、女使によって茂姫の閨閤へ綢紗五巻を献じたという。
二月(本文)、三月九日(指示の朱注。配列上、寛政元年) / 冊子 1031・1032頁/原整理番号 2790の2/整理ID 2790-2
御台が姫君であった時から内証で献上してきた品のうち、今回表向きの献上とした分を除いた残りの品を列記する。余寒には鯛一折、上巳には一種五百疋、暑気前には嶋織越後五端と干肴一籠、誕生日には鯛一折、七夕と八朔には各一種五百疋、八月十五日の月見には水菓子二籠、九月十三日の月見には水菓子一籠、初雪には糟漬鯛一桶、寒中には羽二重五疋と干鯛一箱を掲げる。二月、松平上総介。朱注は、牧野備後守から内証献上について大奥へ申し合わせるよう指示され、その結果、三月九日に従来どおり内証から献上するよう申し渡されたことを記す。
天保九年二月廿一日 / 冊子 12頁/原整理番号 21/整理ID 21
徳川家斉が家慶へ将軍職を譲ったため、例に従い武家諸法度を下したことを記す記事。天保九年二月二十一日、島津斉彬が召しに応じて登城し、諸侯とともに大広間に列した。家慶が臨席し、老中太田備後守が法令を下す旨を告げ、将軍と諸侯はいったん退いた。斉彬らは再び大広間へ出て林大学頭の法令朗読を聞いた。礼式の詳細は留守居の首尾書にあるとする。
〔天保九年〕二月廿二日(年は目録による) / 冊子 13~14頁/原整理番号 22の2/整理ID 22-2
松平三河守斉民の使者が、御条目の写し一通に添えた口上書。二月二十二日に太田備後守から家来へ写しが渡され、大広間四品以上の人々へ順達するよう命じられたため、使者で送り、各家から備後守へ承知の届を出すよう求める。順達後は写しを返却し、回覧先は別紙に添えるとする。同じ写しを松平加賀守にも渡して残る同席の人々へ回す手筈であり、加賀守の順達先も早く届く予定と伝える。