慶長5年9月15日(1600年10月21日)、関ヶ原で西軍が敗れた。島津義弘は家臣に守られながら戦場を脱したが、島津勢の運命はそこで一つの線から枝分かれしていく。戦場に倒れた者、義弘を見失って京都へ逃れた者、敵将の庇護を受けた者。そして、大坂に残る家族を連れ出そうとした人々がいた。
『旧記雑録』を開くと、激戦の描写に交じって、食べ物を探した話、傷ついて歩けなくなった話、父子が再会して泣いた話、帰国後に功労を申し立てた書付が現れる。ここでは、その一つ一つをつなぎ、退却戦から薩摩帰還までをたどる。本文の月日は、特に断らない限り当時の日本の暦による。地名は史料の表記を尊重し、現在地の比定と日付の異同は付表に示す。
1 関ヶ原にいた島津義弘
義弘の参戦を、伏見城に入れてもらえなかったため西軍に回った、という一場面だけで説明するのは難しい。島津家は朝鮮出兵からの帰還と庄内の内乱を経たばかりで、国元に義久と忠恒、上方に義弘がいる状況だった。家康は庄内問題の仲介に関わっており、義弘はその政治的なつながりの中にいた。
伏見城への在番の話には同時代の根拠がある。五月五日付の義弘書状は、少将忠恒に対し、家康の奥州出張に際して伏見城番を命じられる旨を伝え、留守番衆を整えるよう求めている。七月十二日夜の条書案にも、本丸・西丸の間の在番を二度申し入れたが受け入れられなかった、とある。当時の案文から、入番の申し出が退けられたことまでは確認できる。ただし、鳥居元忠との劇的な応酬や拒否の心理まで、この条書は記さない(後編3-No.1105・後編3-No.1132)。[1]
一方、七月十五日の上杉景勝宛書状案で、義弘は毛利輝元・宇喜多秀家・大坂の老衆の行動を秀頼のためと位置づけ、自分も同意すると表明した。七月二十九日の書状でも家康の出兵を太閤の置目に背くものと述べ、秀頼への忠節のため増援を急がせている。「やむを得なかった」という戦後の説明と、挙兵時に自ら示した政治的な意思は、双方を読む必要がある(後編3-No.1126・後編3-No.1142)。[2]
兵力も一つの数字に固定しにくい。広く語られる千五百人前後という数と、個別の書状・覚書に出る人数は、数えた時点や対象が違う。たとえば『山田晏斎覚書』は九月十四日、大垣で茅の葉を取らせて数えた人数を三百八十人とする。この計数だけで、関ヶ原での島津方総兵力を三百八十人と確定することはできず、広く知られる千五百人という数字だけで、異なる時点の人数を説明することも難しい(後編3-No.1306)。[3]
2 九月十五日、西軍崩壊
十四日の夜、大垣を発った島津勢は、雨の中を関ヶ原へ移動した。翌朝は霧が深く、周囲の戦況を見通せなかったと、複数の回想が語る。現在示される陣跡や整然とした布陣図は見学の手がかりになるが、そこから当日の一人一人の位置まで読み取ることはできない。布陣情報そのものにも、近世の軍記、明治期の考証、現地の標柱整備を通じて定着した歴史がある。[4]
「島津隊は戦闘を傍観した」という理解にも注意が要る。『山田晏斎覚書』には、他隊の求めで鉄砲衆を送ったこと、石田方から攻撃の要請があったこと、敵を引き付けて射撃し、その後は敵味方が入り交じる接戦になったことが記される。待機や出撃をめぐる意思の不一致と、戦闘への不参加は同じではない。使者への応答を一度の侮辱や口論に集約して、以後何もしなかったと説明するのは、史料の複数の場面を狭めてしまう(後編3-No.1311・後編3-No.1312・後編3-No.1314)。[3]
関ヶ原での三成と島津勢の関係も、一度の応答だけでは捉えにくい。『神戸久五郎覚書』は、決戦に先立つ洲俣方面での出来事として、日没後の帰路に三成が「ただ一人」、騎馬の供を伴わず義弘を見舞ったと伝える。義弘の辛労を聞いて来たという。翌早朝にも三成は訪れ、前日に敵を討った押川郷兵衛の首級と本人を確かめ、手柄を称えて大判一枚を与えたと記す(後編3-No.1323)。また、『山田晏斎覚書』には、決戦当日、使者のあとに三成本人も来訪し、島津勢へ攻撃を求めた記事がある(後編3-No.1312)。いずれも後の回想ではあるが、少なくとも決戦に至るまで、両者の間には接触と働きかけが続いていたことを伝えている。[5]
大谷・宇喜多・石田らの陣が崩れ、敵が島津の陣へ迫る。『山田晏斎覚書』などの回想からは、退却決定の正確な時刻までは分からない。少人数となった義弘の周囲へ家臣が集まり、豊久の所在を探す者もいた。残った人数も、回想には五十人ほど、三十人ほどなどの表現があり、同じ瞬間を数えた数字ではない(後編3-No.1315)。[6]
3 敵中突破――戦場の外へ出るまで
突破の過程では、進む先をその都度選び直していた。『山田晏斎覚書』には、追撃する敵の間を抜けること、大垣へ戻る案を捨てること、伊勢路を目指すことが語られる。大垣の城内で内応が起こることを懸念し、伊勢路へ向かうと「御議定」したという。覚書はこの判断を一人の発案に帰しておらず、最初の撤退決定から帰国までを、ただ一人の計画で説明することはできない。[6]
途中には、戦闘を避ける交渉もあった。長束正家・長宗我部の勢と接した際、伊勢平左衛門が使者に立ち、島津が先に通る約束を取り付けたと山田の覚書は語る。長束からは、一夜の道案内に騎馬一人も付けられた。追撃する東軍と、退却中の元西軍の勢を見分けることが、道を開く助けになった(後編3-No.1351~後編3-No.1353)。[7]
後方を守る働きも、場所と段階に応じて変わった。『黒木左近兵衛申分』では、駒野近くで桂太郎兵衛と山田有栄が殿を争い、大野弥三郎が引き受けると申し出る。桂はその後義弘の側へ戻り、山田は引き続き後方を守った。翌日からは、山田と桂が先導と殿を交替したという。後方に残って敵を食い止める行動は語られるが、全員を最初から死ぬ役として配置したこととは区別すべきである。「捨て奸」という有名な説明だけでは、この柔軟な役割分担は見えてこない(後編3-No.1341)。[8]
直政が傷を負ったこと自体は、同年九月二十五日付の結城秀康書状写でも確かめられる。ただし、この書状は射手も鉄砲も記さない。[9]
井伊直政を撃った人物については、とりわけ証言の語尾が大切になる。『平山九郎左衛門申状』は、川上四郎兵衛の配下の源藤という者が撃ったと伝えながら、語り手自身は確実には知らないと留保する。『川上忠兄譜』では柏田源藤(『本藩人物誌』では柏木源藤)が先頭の将を撃ち、後にそれが直政だったと聞いたという筋になる。射手名を伴う家伝が存在することと、当日の目撃者が射手・被弾者双方を確認したことは、証拠の強さが異なる(後編3-No.1349・後編3-No.1176)。[10]
福島正則・その子の攻撃や、松平忠吉・井伊直政による島津勢への攻撃は、『伊地知増也覚書』に記される。同書は、島津勢との交戦で松平忠吉が負傷して落馬し、井伊直政が忠吉を馬に乗せ、その際に直政も負傷したと伝える。ただし、この箇所は二人の負傷の原因や攻撃者を明記していない。また、同じ記事には、実際には生還した義弘が自害したという叙述もあり、数値や戦況をそのまま採用できない。本多忠勝に当たる「本多中務太輔」は、大谷勢への攻撃を述べる箇所に現れる。島津勢との交戦では忠勝は名指されておらず、これらの記事から四将による一続きの追撃場面を復元することは難しい。交戦相手ごとの史料は付表Dに掲げる(後編3-No.1328)。[7]
4 豊久と長寿院盛淳
島津豊久は義弘の弟家久の子、義弘にとって甥であり、佐土原を領した一族の武将だった。『本藩人物誌』は、十五歳での島原出陣、朝鮮の海戦、蔚山で耳の下に傷を負ったこと、庄内山田城攻めなどを伝える。関ヶ原で失われたのは、すでに多くの戦場を経験した武将だった。[11]
関ヶ原では義弘とは別の備えを率い、撤退の際に失われた。人物誌は、義弘に帰国を勧め、中村源助・上原貞右衛門・富山庄太夫らと敵中へ入り戦死したとする。ただし、これは近世の人物伝が伝える最期であり、人数や討取者までを同時代の記録で確定したものではない。『旧記雑録』の名簿は九月十五日の死を記す一方、具体的な最後の場所には、後世の土地の伝承が重なっている(後編3-No.1303)。[12][11]
上石津には、烏頭坂で重傷を負った豊久が多良へ落ち延び、白拍子谷で自刃したとする伝承がある。上多良の島津塚と、鹿児島の永吉に伝わる墓・供養も、それぞれの地域で最期を記憶する手がかりである。墓や供養の場所があることは、その直下で亡くなったことや、遺体が確実にそこへ運ばれたことを自動的に意味しない。負傷して移動したのか、その場で討ち死にしたのか、遺体がどう扱われたのかは確定できない。『旧記雑録』には、関ヶ原宿口で血の付いた豊久の馬を見たという「或説」もあるが、これも遺体を見た証言ではない。墓や顕彰碑の所在地、近世史料に残る伝聞、戦死場所の推定は、それぞれ異なる根拠を持つ(後編3-No.1385)。[13]
長寿院盛淳は、僧としての学問と武士としての奉公を重ねた人物だった。『本藩人物誌』は、幼くして出家し、根来や高野で学んだのち、安養院の住持となり、義久の家老や上京使者を務めたと記す。小田原・朝鮮・庄内の軍歴もあり、関ヶ原の一場面だけでは捉えられない経歴を持っていた。[14]
関ヶ原では義弘のもとへ増援を率いて上った。「義弘の身代わり」という話にも史料の段階がある。盛淳に従軍した井上主膳の覚書は、盛淳が義弘の名代として羽織を着けて後方に残り、敵へ向かったと語る。一方、主膳自身は負傷し、盛淳の最期を直接は見届けていない。この制約を落とすと、回想が最期まで連続した目撃記録に変わってしまう(後編3-No.1407)。[15]
この覚書は、盛淳が義弘を名乗って突入したという話も伝える。ただし、その部分は主膳が後で蒲生衆から聞いた話である。羽織と名代をめぐる本人の記憶、負傷後の伝聞、さらに後世の再話を区別して読む必要がある。また、盛淳の戦死地点を牧田上野・琳光寺付近とする伝承は、この覚書に同じ地名が明記されているわけではない。行動の記憶と、後に伝えられた場所を重ねるときにも注意が要る。[13]
5 関ヶ原に倒れた家臣たち
『殉国名薮』の関ヶ原関係記事には、豊久や盛淳だけでなく、一族の家臣、従者、小者らの名が並ぶ。『本藩人物誌』を横断すると、それらの名前に前後の経歴を重ねられる。ただし、人物伝はしばしば父・子・兄弟の事績を一つの記事に収める。見出しの人物に、本文中の戦死者をすべて帰属させてはならない。[12]
その一人が、平山作右衛門尉忠続(一忠房・一忠坊)である。『旧記雑録』後編2-No.1218の系図は俗名を忠続、山伏となってからの名を「一忠房」と記す。後編2-No.1225の久保公御譜中の記事と『本藩人物誌』にも、その足跡が残る。「一忠房・一忠坊」は修験の名であり、俗名の忠続とは区別される。[16]
忠続は島津久保に奉公し、『本藩人物誌』によれば小田原陣の騎馬十六騎の一人として従い、朝鮮へも渡った。久保が没すると、その遺骸に供奉して帰国する。系図は、山伏となった彼が位牌を首に掛け、十二人の同行者と日本六十六州を巡り、各国に経を納めて主君の菩提を弔ったと伝える。帰国後には供養のための塚と塔婆を建てたという。
その長い記事を閉じるのが、「慶長五年九月十五日、於關ケ原戰死」という一行である。死んだ場所を烏頭坂などに細かく比定する記述はない。しかし、主君を失い、位牌を護って諸国を歩いた家臣が、後に関ヶ原で命を落としたという一生は見えてくる。巡礼からの帰国年などには史料間の異同があり、旅の日程は確定できない。それでも、忠続が主君の追善に捧げた年月は、短い戦死記事の背後に一人の家臣の生涯があることを伝えている。[16]
長野勘左衛門の由来書にも、最後の突撃以前の人生と判断がある。彼は上方の急変を聞き、借銀までして武具を整え、中馬大蔵らと阿久根から船出した。合戦前夜、大蔵に託したのは、首を取ることよりも、川や難所を越えて義弘を国元へ送り届けることだったという。由来書は子の立場で父の事績を残し、大蔵から聞いた話を伝えている。これは当日の会話の逐語記録ではない。それでも、戦って死ぬことと主君を生かして帰すことの間で、家臣が何を奉公と考えたかを知る手がかりになる(後編3-No.1402)。[17]
生まれながらの薩摩武士ばかりでもない。毛利覚右衛門元房は、人物誌によればもと宮部氏の家臣で、義弘を慕って慶長四年に島津家へ移った。翌年、家来を伴って関ヶ原へ出陣し、そこで命を落としたとされる。仕官から最期までの短さは、豊臣政権下で武士が主家を移り、新しい奉公先で敗戦を迎えた一例として目を引く。[18]
入来院又六重時が亡くなったのは、九月十五日の本戦を脱した後だった。人物誌は、病気のため初回の朝鮮出兵を見合わせ、回復後に渡海した経緯や、伏見城攻めの奉公まで記す。関ヶ原を脱したのち、九月二十三日、近江の水口・勢田辺で討ち死にしたという。撤退戦の損失は、本戦が終わった瞬間で止まったわけではなかった。[19]
付表Bには、戦場・退却路・海上での死と、負傷・捕縛・消息不明の記事を区別して掲げる。史料が単に「関ヶ原戦死」と記す人物については、細かな部隊配置や最期の場所まで分からない場合がある。
6 散り散りになった者たち
義弘とともに帰らなかった者の存在は、後世の人物伝だけに依存しない。十一月十四日の義弘書状には、山田の衆が美濃で離れ、肥後方面を逃れ、出水へ着いたという報告がある。彼らは帰国後、佐敷・水俣の敵情を伝えている。敗走者の経験が、そのまま国境防衛の情報にもなったのである(後編3-No.1286)。[20]
忠恒の五月六日付書状も、前年の美濃敗軍で散った家臣への世話に礼を述べ、特に「御家門様」が五、六人を保護したと記す。年は慶長六年に比定されるが、保護された全員の名や「御家門様」が誰かまでは、本文だけでは決められない(附録2-No.378)。[21]
別の人物伝に目を向けると、離散者の帰路はさらに具体的になる。『本藩人物誌』の町田久則伝は、義弘を見失った十人が京都で近衛家を頼り、三輪山の僧から銀一貫目を借りて帰国したと記す。新納近江守久元の譜は、伊吹山から近江路を経て京都に入り、道正庵宗古宅に潜伏したのち、近衛信尹に保護され、翌年三月に京都を辞して帰ったとする(後編3-No.1179)。個々の帰国には、戦場の武勇とは別の人脈と資金が必要だった。[21]
北郷久永の譜は、十六歳の久永が義弘に追い付けず、足が腫れて歩けなくなったため、従者の四位主水に背負われて加藤嘉明の陣へ入ったと語る。自分の首を取るよう求めた久永を、嘉明は助けたという。家譜では、久永は三年間留め置かれ、幾度も帰国を願って、ようやく戻ったとされる。義弘の退路とは別の生存経路であり、久永に記された期間を、そのまま主水の抑留・帰国日程に当てはめることはできない(後編3-No.1178)。[22]
『瀬戸口休五郎覚書』が伝える大坂での父子の再会も印象深い。大坂の屋敷へ戻った休五郎は、自分を見つめる人が父ではないかと気づく。父も息子の名を呼び掛け、互いに確かめ合うと、手を取り合って長屋の二階へ上がった。家族は泣いて再会を喜んだという。ここに描かれるのは、誰が生きているかも分からない中で、家族を探し当てた経験である(後編3-No.1386)。[23]
7 義弘はどこを通ったのか
移動の大枠を押さえる史料として、帰国直後の感状が役に立つ。慶長五年十月十日、義弘は頴娃弥市郎に、関ヶ原で働き、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経て、帰国まで側を離れなかったことを賞している。細かい宿泊地は書かないが、この国々を通ったことは、当事者が帰国直後に発した文書で確かめられる(後編3-No.1211)。[24]
ところが、日付を伴う細部に入ると史料が食い違う。『桐野掃部覚書抜書』は、十五日の駒野越え、十六日の伊勢路、十八日の伊賀、十九日の「和城之国かきか越」、二十日の住吉方面での連絡、二十一日の乗船を記す。一方、『帖佐宗辰覚書』は十九日夕方の堺到着と、その夜の出船準備を語る。さらに早い堺到着日を記す編纂記事もある(後編3-No.1401・後編3-No.1373・後編3-No.1374)。[25]
これらを平均して一つの到着日にすることはできない。先に着いた連絡役と本隊が混同された可能性、記憶や書写の誤りなどは考えられるが、どれが原因かを確定する根拠は足りない。「土山」「信楽」などの地名も、記録中の国名と現在の比定がきれいに一致しない場合がある。
退却の実務として繰り返し語られるのは、衣服を替えて身分を隠すこと、村で食べ物を求めること、道案内を得ることである。『山田晏斎覚書』では、駒野で義弘の服装と鞍を替え、伊勢平左衛門を主将のように先へ立てたという。『帖佐宗辰覚書』には、文右衛門という案内人が一行を堺へ導いた話がある。地図には道を一本引けても、その線を実際に進めたのは、食料・案内・宿・身分隠しの積み重ねだった。付表Aに、各地の比定根拠と日付の異同を示す。[25]
ただ、道案内や食料の助けを得られるばかりではなかった。『伊地知増也覚書』は、伊賀の上野を過ぎた義弘一行が「里人共」から弓・鉄砲などで攻撃され、島津側も反撃して相手を討ち取り、生け捕りにしたと記す。ただし、後年に伝えられた記事で、襲撃の詳しい場所や人数までは確定できない(後編3-No.1378)。[25]
8 大坂で待っていたもう一つの危機
義弘が戦場を離れても、大坂にいた家族が自由に帰れるとは限らなかった。屋敷と出入りを管理される状況で、帰国には人質退去の許可と船の手配が必要だった。史料に現れる「宰相殿」は、この場面では義弘の妻を指す。「国分様」は義久の娘で忠恒の妻である亀寿に当たり、同じ女性ではない(後編3-No.1200・後編3-No.1356)。[26]
『瀬戸口休五郎覚書』は、僧の仙秀坊が大坂城へ入り、義弘は秀頼のため戦って死んだと申し立て、家族の帰国許可を求めたと記す。これは義弘が実際に死亡したという報告ではなく、脱出交渉のための説明として語られている。手形が出るまで城に詰めたという話からは、使僧が交渉を担ったことが分かる。ただし、救出時の具体的な問答を伝える典拠は、後年に記された覚書である。手形の文面に基づく復元とは区別する必要がある(後編3-No.1387)。[27]
山田晏斎の覚書には、女房のお松を国分様と見せ、家臣を付けて屋敷に残す策も記される。『本藩人物誌』が大田忠秀の娘「於松」とする女性である。『大田氏系図』は、最後には別策によって夫人とともに帰国し、三百石を与えられたと伝える。「身代わりに残った」という途中の役割から、彼女が犠牲となって死んだと結んではならない(後編3-No.1216)。[28]
残留する家臣の配置を決めたのは、山田の覚書では平田太郎左衛門だった。相良日向、吉田美作入道、新納孫右衛門、上原右衛門佐がお松に付けられ、のちに船で兵庫へ追い付いたという。『帖佐宗辰覚書』には、立花飛騨守も夫人方を送ると申し出て、川口まで同行したとある。[27][28]
海へ出る準備には、商人の田辺屋道与らが関わった。『今井松関願書』は、住吉付近にいた義弘を迎え、堺の塩屋孫右衛門宅にかくまい、川口の通行手形と船を手配して、義弘と夫人方の船を沖で合流させたと主張する。功績と褒賞を求める願書であるため、自家の働きを強調する性格も合わせて読む必要がある(後編3-No.1384)。[29]
救出劇の舞台は、大坂城だけでも島津屋敷だけでもない。城で許可を求める者、夫人の残留を装う者、住吉や堺で義弘を支える者、川口から船を出す者が動いていた。この複数の場所での協力が、敗戦後の島津家をつないだ。
9 薩摩へ――船に乗ってからも続いた危機
乗船した時点を、生還の完了と考えることもできない。大坂・堺から出た人々は海上で合流し、瀬戸内を西へ向かったが、豊後側で再び犠牲を出した。『瀬戸口休五郎覚書』は森江に関係する戦闘について、有川助兵衛、伊集院左京、伊集院半五郎、池上宮内左衛門、宅間与八左衛門、中間の市作、中馬権左衛門の兄らの死を記している(後編3-No.1390)。[30]
この中には、帰国を支える役目を担った家臣もいた。『本藩人物誌』によれば、有川助兵衛直春は慶長四年から伏見で義弘に仕え、大坂の夫人方の用務に関わった。帰国に従いながら、豊後の海で命を落としたのである。伊集院半五郎忠次も、朝鮮へ渡り、関ヶ原で義弘の側を離れず供奉したが、海戦で亡くなったと同書は記す。没年齢は十九歳という。[30]
人物伝の「伊集院若狭守忠次」条には、その子半五郎忠次の戦死と、同年十月十日の感状・百石の恩賞が続けて記される。父子で共通するのは「忠次」という諱である。感状に名があることだけから、帰国後も生存していたとは決められない。海戦の死者数にも二十八人・三十八人などの記録差があり、同じ範囲を数えた数字か検討が必要だ。[30]
日向への到着と、義弘の帖佐帰着も別の出来事である。義弘の譜は九月二十九日の細島上陸を記す。一方、帖佐帰着には十月二日・三日という異なる記録がある。帰着記事の一つは、十月三日に富隈で義久と会い、互いの無事を喜んだのち、船で帖佐へ帰ったとする。これらの記事が示す帰還時期は、九月末の日向上陸、十月初めの帖佐帰着である(後編3-No.1212・後編3-No.1196・後編3-No.1361・後編3-No.1408)。[31]
海上の損失は、上陸後の旅にも影を落とした。御上様の乗物は森江の船で焼け、細島では代わりがなかった。松岡家の母の乗物を借りて日州八代(日向国八代、現在の宮崎県国富町八代地区方面とみられる)まで行き、母には代わりの馬が与えられた、と覚書は語る。身近な道具と家族の助けも、夫人方の帰還を支えたのである(後編3-No.1391)。[31]
また、義弘と同じ船で帰った者だけが生存者ではない。京都で庇護を受けて翌年に帰る者、敵方に留め置かれ数年後に戻る者、肥後を経て遅れて到着する集団もいた。義弘の直近に残った人数を、島津勢全体の生還者数として示すことはできない。
10 なぜ島津家は生き残ったのか
戦後、国元にいた義久、敗軍を率いて帰った義弘、継承者の忠恒は、それぞれ異なる立場にあった。義久の判断と家中の防備、義弘の処遇、忠恒の上洛と家督が、徳川側との交渉で絡み合う。国元の不和も、島津家が最初から一枚岩だったと描かないために重要である。
仲介を担った井伊直政の十月十日付書状は、忠恒方へ早期の出仕を勧め、以前から家康への取次を務めてきたので尽力すると述べる。直政が島津の武勇を称賛したため所領が守られた、という説明は、この書状からは導けない。少なくともこの書状には、従来の政治的な関係を使って交渉を進めようとする姿がある。福島正則も、三月二十四日付の書状で井伊の奔走に触れ、義弘への協力を申し出ている。戦場で敵となった大名との関係も、戦後には交渉の回路になった(後編3-No.1217・後編3-No.1482)。[32]
慶長七年四月十一日付に比定される家康の起請文案は、従来領有していた薩摩・大隅・諸県の領地、少将忠恒への家督、兵庫頭義弘の扱いについて保証する。翌慶長八年二月の義久書状も、前年の忠恒の上京と公儀への交渉を国家の繁栄の基と評価した。所領維持は、一度の戦場での働きへの褒美ではなく、家中の調整と、複数の仲介者を通じた交渉を背景にした政治的な決着として理解するのが妥当である(後編3-No.1615・附録2-No.50)。[33]
ただし、ここに挙げた交渉史料から、家康の内心を「恐れた」「根負けした」と一語で決めることはできない。島津側の免責説明には自家の立場が反映されており、中立的な判定とは区別する必要がある。交渉の全過程と上洛の条件は、別稿で扱うべき問題である。
11 史料から見た退き口と後世の伝説
『旧記雑録』という一つの史料集の中にも、当時の書状、数十年後の当事者の回想、子孫の由来書、編纂者が集めた伝説が並ぶ。収録されていることだけを理由に、すべてを同じ重さの一次証拠にはできない。『本藩人物誌』も、そこに取り込まれた家譜や覚書までたどることで、初めて他史料との独立性を検討できる。
史料から確実に確認できること
当時の書状・感状からは、義弘が秀頼への奉公を掲げて増援を求めたこと、関ヶ原から伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経た帰国者が褒賞されたこと、離散した家臣の保護と別路帰国、井伊らとの戦後交渉、所領と家督についての保証が確認できる。ただし、年次が後世の比定による文書や、写・案として伝わる文書も含まれる。
有力だが確定できないこと
義弘一行が戦場を抜け、村落や商人・案内人の助けを得ながら大坂湾岸へ達し、家族と合流した大筋は複数の叙述が支える。ただし、宿泊日、正確な峠道、細かな合流地点、突破時の人数、帰着日には異同がある。別番号に分かれた同一覚書や、その転載は独立した複数証言には数えない。
近世の回想・家譜に伝わること
盛淳の羽織と名代、柏田源藤の銃撃、平山忠続の巡礼、北郷久永と四位主水の苦難、お松を国分様と見せる策など、ここに挙げた逸話の典拠は回想・家譜・編纂史料である。当日の行動記録とは性格が異なり、当事者や家の記憶を伝えている。
後世の伝承と考えられること
戦死地点の細かな固定、最期の台詞や心理の再現、墓所から逆算した遺体移送の物語、画一的に実施された「捨て奸」の作戦図には、近世以後の物語化や現代の整理が重なる。大黒や白狐、海上の火を神仏の加護とする記事は、超自然的な出来事の実証ではなく、経験に意味を与えた信仰と記憶として扱う。
12 結論
島津の退き口を追うと、義弘を守った戦いと同時に、島津家を支えた人々のつながりが見えてくる。戦場で離れた従者、国境を越えて戻った集団、家族を救うため城へ入った僧、潜伏先と船を用意した商人。そして、戦死の記事より前に、主君を悼む長い旅を残した平山忠続がいる。
『旧記雑録』『本藩人物誌』を人名・地名・日付で引き直す意義は、有名な撤退路に細い線を足すことだけではない。誰と誰が同じ道を歩き、どこで別れ、どこで再会したのかを、分かる範囲と分からない範囲に分けて描くことにある。敗戦後の島津氏の歴史は、その枝分かれした多くの生涯から成り立っている。
主な参照史料
主な参照史料
- 後編2-No.1218「平山氏系図」・後編2-No.1225「久保公御譜中」
- 後編3-No.1323「神戸久五郎覚書」・後編3-No.119「石田三成書状」(関ヶ原以前の関係)
- 後編3-No.1105「島津義弘書状」・後編3-No.1132「条書案」
- 後編3-No.1126「島津義弘書状案」・後編3-No.1142「島津義弘書状」
- 後編3-No.1196・後編3-No.1212「義弘公御譜中」
- 後編3-No.1211「島津義弘感状」・後編3-No.1286「島津義弘書状」
- 後編3-No.1303「殉国名薮」
- 後編3-No.1306・後編3-No.1311・後編3-No.1312・後編3-No.1314・後編3-No.1315・後編3-No.1351・後編3-No.1352・後編3-No.1353・後編3-No.1356「山田晏斎覚書」
- 後編3-No.1328「伊地知増也覚書」・後編3-No.1341「黒木左近兵衛申分」
- 後編3-No.1349「平山九郎左衛門申状」・後編3-No.1176「川上忠兄譜」
- 後編3-No.1373・後編3-No.1374「帖佐宗辰覚書」・後編3-No.1401「桐野掃部覚書抜書」
- 後編3-No.1386・後編3-No.1387・後編3-No.1390・後編3-No.1391「瀬戸口休五郎覚書」
- 後編3-No.1361・後編3-No.1408「大重平六覚書」
- 後編3-No.1402「長野勘左衛門由来書覚書抜」・後編3-No.1407「井上主膳覚書」
- 後編3-No.1178「北郷久永譜」・後編3-No.1179「新納近江守久元譜」
- 後編3-No.1200「伊地知季安副状」・後編3-No.1216「薩州庶子大田氏系図」
- 後編3-No.1384「今井市兵衛入道松関願書」
- 後編3-No.1217「井伊直政書状」・後編3-No.1482「福島正則書状」・後編3-No.1615「徳川家康起請文案」
- 附録2-No.378「島津忠恒書状」・附録2-No.50「島津義久書状」
- 『本藩人物誌』、鹿児島県立図書館編『鹿児島県史料集』第13集、1973年。巻1「入来院又六重時」「井上主膳」「伊集院若狭守忠次」、巻4・巻12「長寿院盛淳」、巻8「町田久則」「有川助兵衛直春」、巻11「島津中務大輔豊久」、巻12「平山作右衛門尉忠続」「毛利覚右衛門尉元房」「大田氏女」など。鹿児島県立図書館・公開一覧・国立国会図書館・書誌。
脚注・出典(33件)
注・出典
引用・出典表示は刊行された活字翻刻による。頁数は書籍本文の頁であり、PDFの通し頁とは異なる。文書番号のリンク先は旧記雑録ガイドの概要ページ、各注の「原資料」は鹿児島県などの公開PDF・公開資料である。
[1] 後編3-No.1105、541–542頁(5月5日義弘書状)、後編3-No.1132、555頁(7月12日夜の条書案)。五月書状の宛先は少将忠恒であり、義弘個人に城番の全権を委ねた文書とはいえない。七月条書は入番の申し入れと拒否を記すが、鳥居元忠の発言全文を伝えるものではない。 原資料:鹿児島県公開PDF・後編三(4)。本文へ戻る:1
[2] 後編3-No.1126、552頁(7月15日景勝方への義弘書状案)、後編3-No.1142、557–558頁(7月29日書状)。後者の宛所は本田六右衛門尉〔正親〕・伊勢平左衛門尉〔貞成〕。両人には国元で動員を整えるよう求めている。 原資料:後編三(4)。本文へ戻る:1
[3] 後編3-No.1304~後編3-No.1314、624–626頁「山田晏斎覚書」。三百八十人は後編3-No.1306にある9月14日の計数。後編3-No.1311の鉄砲衆派遣、後編3-No.1312の石田方使者および三成本人の来訪、後編3-No.1314の射撃と接戦は、それぞれ別の場面である。現代の上石津ガイドマップ2頁は義弘750人・豊久750人を示すが、同図自身に兵数は諸説との注記がある。回想中の敵方の意図や裏切りの説明には、後から聞いた話も含まれる。 原資料:後編三(5)。本文へ戻る:12
[4] 小池絵千花「近世・近代における関ヶ原合戦の布陣認識」『WASEDA RILAS JOURNAL』13号、321–346頁。早稲田大学公開論文。序論・第1章冒頭・第3章・結論は、近世の布陣叙述の変遷と、明治期の考証・標柱・出版による定着を論じる。本文へ戻る:1
[5] 後編3-No.1323、632頁「神戸久五郎覚書」、後編3-No.1312、625–626頁「山田晏斎覚書」。前者の原文は「石田治部殿只壱人、供衆乗馬壱人茂付不申候」。日没後の見舞い、当夜の押川郷兵衛による首級披露、翌早朝の三成の再訪・首と本人の確認・大判一枚という順序を記す。洲俣方面での出来事であり、条文に月日の明記はない。騎馬の供についての記述で、徒歩の供まで完全に不在だったかは確定できない。褒賞の相手は押川であり、鉄砲衆全体への褒賞とは記さない。後者は決戦当日、八十嶋助左衛門の使いに続いて三成本人も来訪したとする。いずれも覚書として伝わる回想で、発言すべてを語り手が直接聞いたと保証するものではない。原資料:後編三(5)。なお、後編3-No.119、47頁「石田三成書状」は、(文禄5年)9月17日に比定され、島津家臣の加増や長寿院への讒訴の糺明に言及する。関ヶ原以前の接点を示す補助資料であり、決戦当日の記事ではない。原資料:後編三(1)。本文へ戻る:1
[6] 後編3-No.1315、626頁「山田晏斎覚書」。撤退決定の発言者・人数・進路は付表Aに掲げる。同一回想が複数の番号に分かれている場合、各番号は独立した証言ではない。 原資料:後編三(5)。本文へ戻る:12
[7] 後編3-No.1328、634–637頁「伊地知増也覚書」、後編3-No.1351・後編3-No.1352・後編3-No.1353、646–647頁「山田晏斎覚書」。前者には義弘自害という事実と異なる叙述が含まれる。635–636頁の「本多中務太輔」は大谷方への攻撃の記事に現れる。636頁で負傷して馬から落ちたと記されるのは松平忠吉で、井伊直政が忠吉を馬に乗せ、その際に直政も負傷したとする。二人の負傷原因や攻撃者は明記されない。後者の長束・長宗我部との交渉は、東軍との交戦とは別の局面である。 原資料:後編三(5)。本文へ戻る:12
[8] 後編3-No.1341、644–645頁「黒木左近兵衛申分」。大野弥三郎の申し出、桂が義弘の側へ戻ること、山田が後方を守ること、翌日以降の交替を記す。「殿」という役目を一つの固定的な戦法とみなすことは難しい。 原資料:後編三(5)。本文へ戻る:1
[9] 白峰旬「関ヶ原の戦い関連の鍋島家関係文書についての考察」『史学論叢』49号(2019)、73–74頁・第37節所掲、慶長5年9月25日付結城秀康書状写。別府大学公開論文。負傷記事の典拠は同論文所掲の翻刻である。底本は『井伊直政文書集』65–66頁を介した写で、原本の所在には留保がある。直政への負傷見舞いを記すが、射手・鉄砲・負傷部位には触れない。冒頭日付の「十二日」には誤写の可能性も指摘されている。本文へ戻る:1
[10] 後編3-No.1349、646頁「平山九郎左衛門申状」、後編3-No.1176、582–583頁「川上忠兄譜」。前者は「源藤」とだけ記し、姓を記さない。語り手自身が確実には知らないと留保する。後者の刊本は「柏田源藤」。一方、『本藩人物誌』巻5、74頁「川上忠兄」および89頁「柏木源藤」では「柏木源藤」と記す。両史料の表記差として区別する。射手名を記す家伝の存在と、射手・被弾者双方を同時代史料で確認できることとは異なる。 原資料:後編三(5)。 『本藩人物誌』原資料:その2・巻5の74頁、89頁。本文へ戻る:1
[11] 『本藩人物誌』巻11、205–209頁「島津中務大輔豊久」。県立図書館公開一覧。209頁に13騎での戦死、討取者に関する後世の家伝、永吉天昌寺の墓を記す。別記された佐土原天昌寺過去帳写は家臣の記録の出典であり、永吉の墓所とは別である。前歴の年齢・負傷も、同人物伝に記された内容である。本文へ戻る:12
[12] 後編3-No.1303、621–624頁「殉国名薮」。9月15日以後の死亡記事も含まれ、年月日の見出し、身分・従属先、殉死と討死の区別がある。名簿全体の人数を関ヶ原当日の戦死者数とみなすことはできない。対応する人物誌の記事は付表Bに示す。 原資料:後編三(5)。本文へ戻る:12
[13] 後編3-No.1385、663頁の「或説」。山田・赤崎が豊久の馬の血を見たという伝聞で、遺体の確認ではない。烏頭坂・白拍子谷・島津塚等の伝承分布は大垣市掲載ガイド、岐阜県観光公式・島津塚、永吉の墓は『本藩人物誌』巻11、209頁と日置市・天昌寺跡に記載される。現地の伝承を紹介する解説と、戦死地点を裏付ける史料とは区別する必要がある。 原資料:後編三(5)。本文へ戻る:12
[14] 『本藩人物誌』巻4、57–58頁「長寿院盛淳」、巻12、231頁の道釈伝の同人記事。俗姓には高畠山/畠山という表記があり、義久の国老・安養院住持という前歴を伝える。「阿多」を俗姓として固定するには、通称・地縁等との関係を検討する必要がある。両伝は同一人物の記事である。県立図書館公開一覧。本文へ戻る:1
[15] 後編3-No.1407、701–704頁「井上主膳覚書」。『本藩人物誌』巻1、21頁「井上主膳」も参照。覚書末尾は明暦3年(1657)9月10日で、合戦の57年後に当たる。主膳は合戦時19歳。自身の負傷・離散を記す一方、盛淳の最期は見届けていない。最期の名乗りも覚書にあるが、後で蒲生衆から聞いた伝聞部分である。 原資料:後編三(6)。本文へ戻る:1
[16] 後編2-No.1218、748–749頁「平山氏系図」(踊士作太夫系図中)、後編2-No.1225、751頁「久保公御譜中」。『本藩人物誌』巻12、225–226頁「平山作右衛門尉忠続」(鹿児島県立図書館・第13集公開一覧)。俗名は忠續/忠続、修験名は一忠房/一忠坊。系図は文禄3年出発・4年帰国、人物誌は慶長元年7月29日帰国とし、巡礼からの帰国年に異同がある。小田原・朝鮮従軍の記事は人物誌に由来し、平山氏系図にすべてが記されるわけではない。 原資料:後編二(7)。本文へ戻る:12
[17] 後編3-No.1402、685–687頁「長野勘左衛門由来書覚書抜」。借銀・武具調達・8月15日阿久根出船を記し、中馬大蔵からの伝聞を含む。出水は奉公地、阿久根は船出の場所として現れる。子孫が父祖の奉公を説明する史料であり、会話は同時代の逐語記録ではない。 原資料:後編三(6)。本文へ戻る:1
[18] 『本藩人物誌』巻12、228頁「毛利覚右衛門尉元房」。旧主を宮部善祥坊とし、慶長4年の仕官、増田和泉守を介した召出し、家来80人での関ヶ原出陣、戦死を記す。人数・動機の典拠はこの人物伝である。後編3-No.1303の名簿にも列名する。一方、後編3-No.1348、646頁「平山九郎左衛門申状」は、覚右衛門が小岡を越えて駆け込むところを見たうえで、ほどなく討死したであろうと推定する。死亡場面を直接目撃した記述とは異なる。県立図書館公開一覧。 原資料:後編三(5)。本文へ戻る:1
[19] 『本藩人物誌』巻1、12–13頁「入来院又六重時」、後編3-No.1303、621–624頁。人物誌は病気による渡海延期、慶長元年の渡海、関ヶ原離脱、9月23日の戦死を記す。戦死地点は江州水口・勢田辺とされ、具体的な一点は確定できない。名簿の「主従凡七人」と後続の多数の従兵名は、同一範囲の人数とは限らない。県立図書館公開一覧。本文へ戻る:1
[20] 後編3-No.1286、614–615頁、11月14日義弘書状。11月14日は山田衆の帰着を報告した日であり、全員が同日出水へ着いたという意味ではない。敵勢の数については帰還者からの情報である。 原資料:後編三(5)。本文へ戻る:1
[21] 附録2-No.378、166頁、5月6日忠恒書状。年記はなく、「去年濃州敗軍」の内証から慶長6年が有力。宛所「道正宗固」には字形上の留保がある。保護された五、六人が町田一行などと同じ集団か、「御家門」が誰かは、この書状だけでは確定できない。町田久則の京都避難と三輪山からの借財は『本藩人物誌』巻8、130頁。後編3-No.1179、583頁の「新納近江守久元譜」は、保護者として近衛信尹を記すが、久元と旅庵という号の関係はこの条に明記されない。翌年3月は京都を辞した時期であり、薩摩到着日を示すものではない。 原資料:附録二(1)。 原資料(新納近江守久元譜):後編三(5)。本文へ戻る:12
[22] 後編3-No.1178、583頁「北郷久永譜」。久永の経歴を伝える家譜である。「三年」は久永についての記述であり、四位主水の同期間抑留・同日帰国を直接示すものではない。 原資料:後編三(5)。本文へ戻る:1
[23] 後編3-No.1386、663頁「瀬戸口休五郎覚書」。黒甲冑を着て大枝を突き、門へ戻った「我等」を父が見ている構文である。この条だけでは、父子の後の通称・改姓までは確定できない。 原資料:後編三(5)。本文へ戻る:1
[24] 後編3-No.1211、591頁、慶長5年10月10日義弘感状、頴娃弥市郎〔入来院重高〕宛。伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経た供奉を記す。末尾の同文異石高感状の宛名一覧には死亡記事に現れる名も含まれ、帰国生存者だけの名簿とは限らない。 原資料:後編三(5)。本文へ戻る:1
[25] 後編3-No.1401、685頁「桐野掃部覚書抜書」、後編3-No.1373、658頁・後編3-No.1374、658–659頁「帖佐宗辰覚書」、後編3-No.1378、660–661頁「伊地知増也覚書」。宿泊地・日付の異同は付表Aに示す。桐野の覚書は慶長19年7月6日の加増願いであり、「和城之国かきか越」、棚邊屋道誉、土山・森山等の表記がある。後編3-No.1352、646–647頁は変装・先導配置を記す。「一夜」は、駒野から住吉までの全行程の所要時間ではない。 襲撃記事は660頁の「上野を過るに里人共四五百人」に続く箇所で、人数は同記事の記載による。後編3-No.1383末尾(661頁)の出典注は、元禄6年(1693)に伊地知増也が「関ヶ原一乱ノ記」を抜書きし、三原九兵衛へ送った一巻に収める記事であることを示す。元の記録の成立時期はこの注だけでは確定せず、事件の目撃記録とも断定できない。 原資料:後編三(6)/後編三(5)。本文へ戻る:123
[26] 後編3-No.1200、588–589頁「伊地知季安副状」、後編3-No.1356、647頁「山田晏斎覚書」。前者に義弘夫人=宰相様、忠恒夫人=御上様という明文がある。この対応は大坂脱出場面のもので、他の時代・文脈の「宰相」という呼称にそのまま当てはまるとは限らない。義弘が大坂屋敷の危険を最初に知った日時は、この史料群からは特定できない。住吉・堺での連絡と救出手配が記される。 原資料:後編三(5)。本文へ戻る:1
[27] 後編3-No.1387、663–664頁「瀬戸口休五郎覚書」、後編3-No.1374、658–659頁「帖佐宗辰覚書」。仙秀坊/専秀坊等の表記差がある。許可を求めた相手は大坂の奉行方として描かれ、この場面を徳川方による人質解放命令とする根拠はない。 原資料:後編三(5)。本文へ戻る:12
[28] 後編3-No.1356、647頁、後編3-No.1216、593頁「薩州庶子大田氏系図」。『本藩人物誌』巻12、235頁「大田氏女」も同人の伝である。父は大田筑前守忠秀。系図冒頭の「母種田氏女」は母方の系統を示す。天正7年出生・関ヶ原時20歳・寛永21年没67歳という各記述には不整合があり、この系図の記載だけでは年齢を一つに定められない。 原資料:後編三(5)。本文へ戻る:12
[29] 後編3-No.1384、662–663頁「今井市兵衛入道松関願書」。松関の養父今井道与と、塩屋孫右衛門は別人である。千石・無役の約束を訴える自家の功績申立であり、中立的な公務日誌とは性格が異なる。 原資料:後編三(5)。本文へ戻る:1
[30] 後編3-No.1390、665–666頁「瀬戸口休五郎覚書」、後編3-No.1212、591–592頁「義弘公御譜中」。後者は海戦について風説と明記する。『本藩人物誌』巻8、145頁「有川助兵衛直春」、巻1、4頁「伊集院若狭守忠次」条に続く子半五郎の記事も関連する。死者数の38人/28人、船数、女子の上陸/捕縛などに異同がある。原文の「中馬権左衛門殿兄」は権左衛門本人ではない。 原資料:後編三(5)。本文へ戻る:123
[31] 後編3-No.1200、588頁、後編3-No.1212、591–592頁(9月29日細島)、後編3-No.1196、587頁(10月3日大久保村から富隈、義久との面会、帖佐帰城)、後編3-No.1391、666頁「瀬戸口休五郎覚書」(御上様が細島から「日州八代」まで乗物を借りる)。日州は日向国を意味する。ここでの八代は熊本県八代市ではなく、現在の宮崎県国富町八代地区方面に比定される。国富町には八代南俣・八代北俣の地名が残るが、慶長5年の到着地点を一点に確定するものではない(国富町「町の概要」、『日本歴史地名大系』「八代南俣村」)。大重平六覚書の帰着日は、後編3-No.1361末尾、654頁が「十月二日」、後編3-No.1408末尾、707頁が「十月三日」と記す。双方に後編3-No.1405の一部と同文かという編者注があるため、同系覚書の異文として読む必要がある。この二つの覚書では、途中の細島・佐土原・八代・大窪・富隈の順序は共通するが、各地点の通過日は記さない。 原資料:後編三(5)/後編三(6)。本文へ戻る:12
[32] 後編3-No.1217、593頁、10月10日井伊直政書状。以前からの取次関係を記す。後編3-No.1482、752–753頁、3月24日福島正則書状も、井伊の奔走と義弘への協力に言及する。後者を慶長6年とする年次は編纂位置からの比定であり、書状自体の年記とは区別される。直政の称賛のみで所領安堵の因果を説明することはできない。 原資料:後編三(5)/後編三(6)。本文へ戻る:1
[33] 後編3-No.1615、807–808頁、(慶長7年)4月11日家康起請文案。年次は朱書の比定による。本文に欠字があり、「諸県」は日向諸県郡に関わるため、日向国全体の領有保証ではない。附録2-No.50、19頁、(慶長8年)2月19日義久書状は前年上京と公儀折衝を評価する。交渉史料群の所在は、東京大学史料編纂所『大日本古文書 家わけ第16 島津家文書之五』刊行説明にも示される。これらの文書だけでは、家康側の動機を単一要因に絞ることはできない。 原資料:後編三(6)/附録二(1)。本文へ戻る:1
AIによる調査・作成について
AIへのコラム作成依頼
『旧記雑録』『本藩人物誌』などの史料・整理済みデータを横断検索し、関ヶ原での島津義弘の退却、戦死・負傷・離散した家臣、大坂における宰相殿らの救出、薩摩帰還、所領安堵までを、人物・地理・時系列の三方向から検討するよう依頼された。同時代史料、当事者の回想、近世の編纂物、後世の伝承、現代の推測を区別し、経路表と人物表を付すこと、戦死者の前歴・人物像も調べ、後編2-No.1218の平山氏系図を精読することを条件とした。
使用したAI
使用AI:GPT-6 Astra(Codex)。思考設定:ウルトラ。同じモデルを継承した複数の担当が史料調査を分担し、本文の照合・構成・執筆を行った。
文書・人物の整理データは史料を探す手がかりとして用い、重要箇所は刊行された活字翻刻の画像と照合した。画像確認の範囲、概要のみを参照した項目、原画像を取得できなかった文献、表記の訂正経緯は、別途の調査・校合記録に残している。原写本の筆跡・料紙の調査や、全関連史料の網羅的な校訂を行ったものではない。