← コラム本文に戻る

SUPPLEMENTARY TABLES

関ヶ原敗戦後の島津氏――史料付表

本文で参照した経路・人物・史料の性格を公開向けに整理した付表です。確認度は出来事の確度と地点・日時・人物同定の精度を分けてお読みください。

付表Bの42行には生還・捕縛・負傷・推定死も含まれ、同一人物の異伝は一行にまとめています。行数を関ヶ原の戦死者数として扱うことはできません。

調査日:2026年9月14日。月日は原則として当時の日本の暦。慶長5年9月15日=1600年10月21日。

確認度:A=同時代文書などからほぼ確実(写・案の伝来は別注)、B=複数史料から有力、C=当事者の後年回想・家譜・近世による、D=後世の地域伝承。Cは「誤り」という意味ではない。出来事の確認度と、地点・日時・人物同定の精度は別に読む。

A 義弘撤退ルート時系列表

関ヶ原から大坂湾岸まで

日付は旧暦。確認度は移動・出来事に対するものと、現在地比定の確度を分けて読む。表の各行を結ぶことは、当時の道筋全体を確定する意味ではない。異説の行は別系列とし、順番にすべて訪れたと扱わない。

日付当時地名現在地出来事主な同行者典拠確認度
慶長5年9/15(1600/10/21)美濃関ケ原岐阜県不破郡関ケ原町周辺。陣の一点は留保交戦して撤退。後の感状が粉骨と帰国までの奉公を確認義弘、頴娃弥市郎ほか後3-No.1211、591頁A(戦闘・帰国供奉)。精密布陣は別問題
9/15、時刻未確定関ケ原の義弘・豊久の備え関ケ原町域内、位置未確定豊久先行、山田が義弘へ合流。敵勢が敗走者を追う間を通る義弘、豊久(先行)、山田晏斎後3-No.1314–1315、626頁C
9/15とする関ケ原宿口関ケ原町内の宿口。近世宿場との同定留保血のついた豊久の馬を山田・赤崎が見るという別説。本隊の確定通過点ではない山田弥九郎、赤崎丹後後3-No.1385、663頁C(或説)。豊久戦死地点は未確定
9/15の退却段階四国陣南宮山方面からの退路上。地点未確定伊勢平左衛門が長束・長宗我部に使者、島津が先に通過義弘、伊勢平左衛門、長束・長宗我部勢後3-No.1351、646頁C。交渉による通過
9/15駒野・駒野越岐阜県海津市南濃町駒野周辺。峠の一点は別途考証大垣籠城案を退け伊勢路へ。服装・鞍を替える。殿の交替義弘、山田、桂、大野、伊勢平左衛門、矢野主膳後3-No.1315、626頁/1341、644–645頁/1352、646–647頁/1401、685頁B(駒野を通る骨格)。服装・時刻・具体峠はC
9/15以後、各日未確定伊勢→近江→伊賀→大和→河内→和泉三重県、滋賀県、伊賀地方、奈良県、大阪府にまたがる広域帰国路として当事者感状に国名を列記義弘、頴娃弥市郎ほか感状受給者後3-No.1211、591頁A(国々を経る骨格)。細道・宿泊点を保証しない
9/16とする伊勢路区間未特定須田傳吉が負傷、南郷覚右衛門が奉行として処置義弘、桐野掃部助、須田傳吉、南郷覚右衛門後3-No.1401、685頁C
9/15–17に係る叙述伊勢国土山滋賀県甲賀市土山が候補だが原文国名と不整合夜昼三日進むとする義弘、桐野掃部助ほか後3-No.1401、685頁C、地名比定留保
9/17夜とする伊勢之内森山未比定。守山市への自動補訂不可米の調達。土山から五里と記す桐野掃部助、帖佐彦左衛門(証人)後3-No.1401、685頁C、地点未詳
9/18とする伊賀国之内川ばた伊賀地方の川端という地名候補。未比定義弘へ供奉義弘、桐野掃部助後3-No.1401、685頁C、地点未詳
9/19とする和城之国かきか越山城・笠置方面の候補があるが、原文表記・道順を未解決のまま保持山道を越えるとする義弘、桐野掃部助後3-No.1401、685頁C、現在地未確定
9/19夜とする飯森同名地が複数。大阪府の飯盛山方面を候補にする場合も注が必要宿泊、住吉の道誉へ使者を送る義弘、桐野掃部助。迎え依頼先棚邊屋道誉後3-No.1401、685頁C、地点未比定
9/19夕方とする(別系列)堺の浦大阪府堺市沿岸案内人と堺へ到着、銀を与えて別れる義弘、帖佐宗辰、文右衛門(又右衛門異読)後3-No.1373、658頁C。1401の日付と異なる
9/20とする住吉→堺→大坂御屋形大阪市住吉地域、堺市、大坂市内の島津屋敷(各一点未確定)桐野が見聞に行き、本田源右衛門との連絡を経て大坂屋敷へ入る桐野掃部助、本田源右衛門。義弘と連絡使者の動線は分ける後3-No.1401、685頁C。本人の移動を全て義弘本隊の移動にしない
9/21とする御舟(乗船地明記なし)前後から大坂・堺方面。港の一点未確定桐野が乗船し帖佐まで供奉したと述べる義弘、桐野掃部助後3-No.1401、685頁C。9/22出帆説との異同は大坂帰還表で扱う

大坂・堺から日向・薩摩へ

日付(当時の暦)当時地名現在地・比定範囲出来事主な同行者・関係者典拠確認度・留保
9月19日夕・夜とする堺浦/大坂川口大阪府堺市/大阪市の旧河口域義弘到着と夫人方出船の連絡帖佐宗辰、仙秀坊、立花飛騨守後3-No.1373・1374、658–659頁C。回想の日付。22日説と並記
9月22日暁とする和泉堺浦堺市沿岸義弘出船義弘と御供衆後3-No.1200、588–589頁C。伊地知季安の後世の考証
出船後。22日頃とする記事あり西宮沖/兵庫沖西宮市~神戸市沿岸。一点未確定大坂を出た夫人方と義弘の船が合流宰相殿、御上様、屋敷の家臣・家族後3-No.1200、588頁、No.1384、662–663頁。No.1389、665頁は合流B、日時・位置C。西宮と兵庫を同じ座標に置かない
9月26日説あり日向泊未確定立花宗茂と再会したとする説義弘・宗茂『惟新公関原御合戦記』に結びつける二次紹介D/原文未確認。安芸・周防の比定が混在し、今回の確定経路には採用しない
9月27日とする芸州之一浦広島県沿岸のいずれか。港未詳西へ出船。離れた船の遭難情報が続く義弘船団後3-No.1212、591–592頁C。日向泊と自動同一視しない
9月27日深更~28日とする記事/回想は日付不記豊前・豊後沖、森江口大分県杵築市森江湾周辺を候補黒田如水方番船との交戦、戦死者・船の損失有川助兵衛ら、夫人船団の一部後3-No.1212、591–592頁、No.1390、665–666頁C。前者は風説と明記。双方の船数・死者数を統合しない
9月29日とする日州細島宮崎県日向市細島上陸義弘、宰相殿・御上様ら後3-No.1200、588頁、No.1212、591頁。No.1181、584頁はB~C。原文記載を確認したが、同時代の到着通知原本は未確保
細島上陸後、日付未詳日州八代日向国の八代。宮崎県国富町方面を候補、通過点未確定海戦で乗物を失った御上様が松岡家の母の乗物を借り、八代で返す御上様、松岡家の父母後3-No.1391、666頁C。熊本県八代市へ比定しない
各日付未記細島→佐土原→八代→大窪→富隈宮崎県から鹿児島県へ。村・宿の精密比定は保留八代・大窪で一宿し、富隈から船へ義弘、大重平六ら後3-No.1361末尾、654頁/No.1408末尾、707頁C、該当箇所。大久保村と大窪を原文のまま別記
10月3日大久保村→富隈大久保村未比定/鹿児島県霧島市隼人町住吉義弘が義久に面会し、無事を喜ばれる義弘、義久後3-No.1196、587頁C。「大窪」への改字・比定は保留
10月3日に続く記述富隈→帖佐霧島市→姶良市富隈から船で帖佐へ帰城義弘後3-No.1196、587頁C。同日帰着かは幅を残す
10月2日説/3日説帖佐鹿児島県姶良市義弘の帰着大重平六ほか後3-No.1361、652–654頁/No.1408、705–707頁(各末尾の原)C。同系覚書の異文。細島上陸日と分ける。異同未解消

B 関ヶ原関係島津家臣一覧

人物誌・覚書・名簿の対照(42行)

人物身分・所属と前歴関ヶ原での行動その後・最期/地点生死典拠確認度
島津豊久家久嫡子、佐土原領主。15歳島原初陣、小田原・朝鮮・庄内従軍。蔚山で負傷義弘に帰国を求め13騎で敵中へ入ると本伝9/15戦死。細地点不明。永吉天昌寺石塔戦死本藩11-205-01/旧記後3-1303C/13騎・発言は本伝叙述
長寿院盛淳義久家老・蒲生地頭。大乗院・根来・高野で修学、京都使者、小田原・朝鮮・庄内義弘の羽織を受け名代として殿に残る9/15戦死、53歳。細地点不明戦死本藩04-057-01・12-231-21/後3-1407・1303C/1407最期は伝聞
平山作右衛門尉忠続(一忠房・一忠坊)久保家臣。小田原騎馬16騎の1人、朝鮮で久保遺骸供奉、山伏となり巡礼関ヶ原出陣。細部不明関ヶ原戦死、細地点不明戦死後2-1218・1225/本藩12-225-11/後3-1303C/忠房と別人に数えない
毛利覚右衛門尉元房元宮部善祥坊臣、三千石。慶長4年義弘を慕い召抱え、百人扶持・千石家来80人と出陣と本伝9/15戦死、細地点不明戦死本藩12-228-18/後3-1303C
池田治助貞盛貞秀嫡子。朝鮮・泗川で敵7人を討ったと本伝行動細部不明9/15列、関ヶ原戦死、細地点不明戦死本藩01-020-01/後3-1303C
野村弥次郎教綱嫡子。国元後続勢、曽根方面で鉄砲を拾い戻った逸話9/15の合戦に出陣戦死。弟与兵衛重綱が相続戦死本藩07-117-12/後3-1303C
長崎年人所属・前歴の詳細なし盛淳の馬脇につき未練ないと応答盛淳とともに戦死と伝記。細地点不明戦死本藩06-107-13/後3-1407C/井上は途中まで目撃
肝付兼道・兼輔(兼亮)兼続三男、良兼の婿養子。旧領返上・阿多移住後所領を失う行動細部不明関ヶ原戦死、細地点不明戦死本藩09-170-01・13-241-02/後3-1303C/9巻。同人異伝として1行
伊地知弥右衛門重高備後守重康二男行動細部不明関ヶ原戦死。法号他参宗賢居士戦死本藩01-007-04/後3-1303C/人物誌、
恒吉次兵衛豊久家臣行動細部不明関ヶ原戦死。佐土原天昌寺墓と伝える戦死本藩06-104-02/後3-1303C/名簿は次郎兵衛
三原藤二飛弾守重長二男。父は家久の佐土原家老行動細部不明関ヶ原戦死、法名傑心英俊上座戦死本藩09-176-06-04内、HP-0590C/父重長の後年没と区別
三原与三左衛門子市右衛門・孫舎人の事績を併記行動細部不明関ヶ原戦死、細地点不明戦死本藩09-176-06-06/後3-1303C/子孫の役職を本人にしない
四本八兵衛半九郎養子、鹿島七右衛門二男、母四元一忠女軍忠により40石加増とする関ヶ原戦死、細地点不明戦死本藩06-094-12/後3-1303C
川原長左衛門親豊田原鎮忠の弟兄と同じく出陣関ヶ原戦死、細地点不明戦死本藩06-099-18C
川上弥四郎久準筑前守忠真二男行動細部不明関ヶ原戦死、25歳戦死本藩05-076-05/後3-1303C/名簿「久惟」と異同留保
相良新吉長泰(閑栖斎)の子島津勢として出陣関ヶ原戦死、細地点不明戦死本藩09-159-03C
相良甚兵衛長継長信養子、後に次男扱い、二百石余。朝鮮・庄内従軍主従3人で出陣関ヶ原戦死、35歳、法名玄通要律居士戦死本藩09-160-03/後3-1303C
平田狩野介宗応宗徳子。日向本城地頭、八代・豊後・上洛供奉行動細部不明9/15関ヶ原戦死、45歳戦死本藩12-220-07/後3-1303C
平田万兵衛宗次越後守宗清二男行動細部不明関ヶ原戦死、細地点不明戦死本藩12-221-06/後3-1303C
堀新助忠金父忠親は松齢公に仕え頴娃から小林へ。本人伏見城攻めで功関ヶ原出陣関ヶ原戦死、細地点不明戦死本藩03-051-09/後3-1303C
和田秀存坊正信嫡子14歳で出陣関ヶ原戦死。弟の継嗣記事が続く戦死本藩04-068-03・05C/名簿異名との比定は留保
黒木周八忠次黒木讃岐守養子、伊集院忠昭二男行動細部不明関ヶ原戦死、21歳戦死本藩06-104-05-02C/名簿黒葛原勝八忠次と同定候補
佐多勝左衛門久江加賀守久於子島津勢として出陣濃州の戦場で討死戦死本藩09-158-03-02/後3-1303C/異名注あり
田原兵庫頭鎮忠(山鹿越右衛門)元肥後山鹿城主、島津家中へ行動細部不明関ヶ原戦死、細地点不明戦死本藩06-099-17/後3-1303C
野村与右衛門元上原織部介、久田野村氏養子。兵具奉行・朝鮮従軍行動細部不明関ヶ原戦死、細地点不明戦死本藩07-118-02/後3-1303C
村岡豊前豊久家臣本条には合戦名の明記なし豊久に殉死、46歳。法号月舟守心居士殉死・関ヶ原関連と推定本藩07-113-01-02C/9/15戦闘死と断定しない
入来院又六重時島津以久二男。平佐城援軍、朝鮮渡海、伏見仕寄惣奉行残兵30余人で包囲突破と本伝9/23近江水口・勢田辺で主従7人戦死、28歳帰途戦死本藩01-012-03/後3-1303C/9/15と区別
北野郷右衛門(父)前歴未詳。同名の子への書状で判明義弘の備えを離れ関東勢へ突入、鑓で突かれる関ヶ原戦死、細地点不明戦死後3-1397C/目撃証言、敵井伊隊は推測
長野勘左衛門祐円借銀して武具を整え、8月15日阿久根から中馬らと出船国元から来援、義弘帰国優先を同僚へ託す関ヶ原戦死、50歳(名簿)戦死後3-1402・1303C
大田平兵衛忠基初め土佐介(名簿)本戦行動細部不明9/18、帰途の近江大津坂本で戦死帰途戦死後3-1303C
前原孫左衛門浜之市衆、豊久所属亀井武蔵守へ鉄砲衆加勢として派遣「必定戦死なるべし」推定戦死本藩08-132-01C/断定不可
前原源六福山衆、山田有栄所属亀井武蔵へ鉄砲加勢、到着時すでに裏切ったと本伝「戦死疑なし」と本文が推定推定戦死本藩08-132-02C/目撃とは記さない
城井三郎兵衛浜之市衆、豊久所属亀井武州へ鉄砲衆加勢「戦死なるべし」推定戦死本藩09-175-01-03C
島井与八郎惟貞義弘小姓、朝鮮渡海関ヶ原出陣自体に異伝朝鮮番船破損時戦死/関ヶ原戦死の両説没地・時期異説本藩03-056-05C/確定名簿に算入しない
谷山次郎右衛門谷山紀伊介子とする条に平佐城防備の働き関ヶ原戦死記事が続く同名別人の可能性を本文注記人物同定留保本藩06-099-13/後3-1303C/前歴結合に留保
井上主膳盛淳家来、当時19歳。70人の上洛勢に同行盛淳の側で戦い鑓傷・深手地下人→京都→南都→伊賀、後に帰国負傷・生還後3-1407/本藩01-021-07C/覚書全。人物誌の人地名は差異あり
北原掃部介前歴・所属細部不明、天吹の名手と伝える関ヶ原で生捕りになったと伝記刑の前に天吹を吹き助命、楽器は「助命器」と伝承捕縛・助命伝承本藩09-174-03C/相手・捕縛地不明
禰寝安芸守重張吉利領主、朝鮮出兵、伏見先登義弘を見失い近江へ逃れ、家臣頼実と捕縛大坂投獄後釈放、慶長6年正月15日帰国捕縛・生還本藩06-105-01C/離散担当との統合対象
松岡勝兵衛元伊勢木造氏婿養子、子千熊の召抱えを縁に島津へ伏見城松丸口で重傷、大坂留置のため本戦不参加義弘夫人帰国に妻子と同行、知行・屋敷前戦負傷・生還本藩08-133-07C/人物誌は。父子再会等の関連覚書を別途
川上久右衛門久智忠智三男。戸次川後に元親へ信親戦死を伝える使者、朝鮮で射撃軍功「小返し五本鑓」の1人と伝記帰国後病没、没年月不明生還後病没本藩05-073-06-02C/戦傷死とは書かれていない
本田源右衛門尉親商義弘家老・使者役、蒲生地頭。朝鮮7年、近衛帰洛供奉危急に身代わりとなる覚悟で剃髪と伝記生還、慶長10年加治木病死生還・後年病没本藩03-049-07C/盛淳の身代わり死と混同しない
木脇刑部左衛門祐秀朝鮮海戦で銃撃落水・救助。のち長刀拝領長刀を振るい後殿、義弘を狙った伊賀の者を捕えると伝記帰国、元和5年義弘に殉死、43歳生還・後年殉死本藩09-173-06C/関ヶ原戦死に入れない

帰国航海中の戦死者――No.1390の7項目

全員を9月15日の関ヶ原当日戦死者に含めない。後3-No.1390の7項目は一つの回想に記された名前であり、海戦の死者総数ではない。

人物身分・所属/確認できた前歴関ヶ原・退却との関係その後・戦死地点典拠確認度
有川助兵衛直春大炊左衛門貞春の子。慶長4年より義弘に供奉し伏見に在り、大坂上屋敷の奥方用務を担ったとする夫人方帰国の奉公豊後海上で黒田如水方番船と交戦し戦死後3-No.1390、665–666頁/本藩巻8、145頁「有川助兵衛直春」・原人物ID 08-145-07C、双方。本藩の同船38人を他条28人と合算しない
伊集院左京この条では実名・前歴未詳夫人方船団の海上戦闘森江の船合戦で戦死後3-No.1390、665–666頁C、
伊集院半五郎忠次若狭守忠次の子。同諱の父とは別人。朝鮮従軍も記す関ヶ原と帰国に供奉豊後沖で戦死、人物誌では19歳、28人の内とする後3-No.1390/本藩巻1、4頁「伊集院若狭守忠次」内の子の記事・01-004-02C、双方。同じ段の慶長5年10月10日感状・100石を生還の証拠にしない
池上宮内左衛門前歴未確認同上森江の船合戦で戦死後3-No.1390C、
宅間与八左衛門「御臺所上乗」。船に乗り込み用務を扱う役割を記す台所関係船の上乗同上後3-No.1390C、。「詫摩」等に無注記で統一しない
市作中間。姓を記さない船団に随行同上後3-No.1390C、
中馬権左衛門の兄諱・通称未詳船団に随行同上後3-No.1390「中馬権左衛門殿兄」C、。権左衛門本人を死者にしない

海戦関係の追加列名と異同

No.1390の7項目のほか、No.1303の9月28日条や大重平六覚書にも死者名がある。次の行は追加の列名であり、通称・実名の対応や他行との重複が未解決のものを含む。名簿総数へ単純加算しない。前歴未確認の者について、その空白を推測で補っていない。

人物・原表記身分・前歴最期・地点典拠確認度・同定上の注意
伊集院左京亮久朝前歴未確認9月28日、豊後森江海戦条に列名後3-No.1303、621–624頁C。No.1390「伊集院左京」との対応候補、別人として加算しない
下嶽下七蔵前歴未確認同海戦条に列名同上C、初回の列名回収
鈴木金右衛門前歴未確認同上同上C
有川助兵衛貞春同名・諱に異同同上同上C。本藩の有川直春伝は父を貞春とする。直春と別の死者に数えない
有川三右衛門前歴未確認同上同上C
比志島源右衛門国家前歴未確認海戦死を覚書も記す後3-No.1303・1361末尾・1408末尾C。比志嶋の字体も保持
助十郎小者9月28日海戦条に列名後3-No.1303C、姓を補わない
比志島左馬助義興前歴未確認同上同上C
大重主馬允前歴未確認同上同上C。他の大重氏通称と対応未確定
大重五郎左衛門久実前歴未確認同上同上C
八木民部左衛門信元前歴未確認同上同上C
池之上宮内左衛門前歴未確認同上同上C。No.1390「池上宮内左衛門」との対応候補
家村清八前歴未確認同上同上C
迫本市兵衛前歴未確認同上同上C
久富但馬前歴未確認同上同上C
宮内次郎左衛門入道宗繁前歴未確認同上同上C
横山平次郎前歴未確認同上同上C。9月15日列にも同名があり、重出・別人の判定保留
善四郎身分・前歴未確認同上同上C、短名の人物同定保留
大重次郎右衛門帖佐御臺所船主取とする海戦死として列挙後3-No.1408末尾、706–707頁C。No.1361の同系記事との通称・役割の異文に注意

No.1303では伊集院半五郎忠次に9月17日という異日注もあり、9月28日を全関連史料共通の日としてはいない。宅間与八左衛門の台所船の所属も、No.1361では帖佐、No.1408では鹿児島となる。これらは同じ覚書系統にも表記差がある実例である。

C 離散した人物・群と、大坂の別行動者

「離散」は、戦場での分離、負傷後の逃避、保護・拘束、大坂での残留を区別した。地名が並ぶだけの伝を日ごとの旅程に変換していない。

人物・群分離の場所・理由その後の経路・保護者生死・再会・帰国典拠確認度・留保
山田の衆中(個人名不記)美濃で義弘らと離れる肥後方面→出水11月14日の義弘書状で帰着が報告される。佐敷・水俣の情報をもたらす後3-No.1286、614–615頁A、当時書状の翻刻全頁確認。正確な帰着日は不明
忠恒家臣5、6人(個人名不記)前年の濃州敗軍で散る宛先人物・「御家門」の庇護保護後に下向したことを忠恒が謝す附2-No.378、166頁、5月6日付A、書状。慶長6年の比定。宛名「道正宗固」読みに留保。個人伝の集団と自動同定しない
町田伊賀守久則(石心)義弘を見失う京都→近衛家を頼る。三輪山大先達前官から銀1貫目を借りる同行10人とも帰国とする本藩巻8、130頁、08-130-02C、。「川上久則」と混同しない
長谷場織部上記町田一行京都で近衛家に頼る一行10人に含まれ帰国同上C、通称のみを保持
川上休右衛門同上同上同上同上C、「久右衛門」への字形統一は保留
伊集院弥平左衛門同上同上同上同上C、通称のみ
本田主水佐同上同上同上同上C、通称のみ
三原七左衛門同上同上同上同上C、通称のみ
白浜三四郎同上同上同上同上C、通称のみ
新納旅庵同上同上同上同上C、新納久元伝との人物対応・同行者差は留保
喜入摂津守同上同上同上同上C、喜入忠続/忠政の名乗りの照合を要する
新納新八郎同上同上同上同上C、新納旅庵と別に列名
新納近江守久元関ヶ原で敗走伊吹山→近江路→数日後京都。道正庵宗古宅→近衛信尹邸の保護翌年3月京都を辞し帰国。薩摩着日不記後3-No.1179、583頁C、。久无から久元へ訂正。旅庵との同定は明文なし。町田一行と人数を足さない
北郷久永・四位主水義弘に追い付けず、久永の足が腫れて歩行不能主水が久永を背負い加藤嘉明陣へ救命され、家譜では3年間留め置かれたのち帰国後3-No.1178、583頁C、。16歳・3年は久永の家譜記事。主水も同じ期間抑留されたとは明記しない
井上主膳盛淳に従軍し、負傷・離散旧記覚書では京都→南都→円明坊の紹介で伊賀の中野与左衛門に奉公し2、3年。のち正興寺文之和尚と帰国生還。盛淳の最期を直接見届けたとはしない後3-No.1407、701–704頁/本藩巻1、21頁、01-021-07C、両。人物誌の「南部」「市野興左衛門」と覚書の「南都」「中野与左衛門」に異同あり。回想成立年は帰国年ではない
本田勝吉親明父親貞の帰国時に人質として残る山口氏のもと3年間とする。慶長10年12月11日、23歳没本藩巻3、50頁、03-050-06C/関ヶ原当日戦死・即時処刑にしない
大坂で再会した父子合戦・退却によって家族と別れる大坂の屋敷に戻った語り手が、自分を見ている父に気づき再会父子と家族が涙を流すとする後3-No.1386、663頁C、。甲冑・大枝を父の姿とした検索概要は訂正。後の通称・改姓は留保
相良日向・吉田美作入道・新納孫右衛門・上原右衛門佐大坂屋敷で国分様に見せたお松に付き添う配置屋敷から脱出し船で兵庫に追い付く帰国に合流後3-No.1356、647頁C、原文全頁確認。戦場離散者ではなく大坂残留者
お松(大田氏女)夫人亀寿の名代として大坂屋敷に残ると申し出る別策で屋敷の人々と脱出両夫人と無事帰国。300石の褒賞。後3家譜は寛永21年没を記す後3-No.1216、593頁/本藩巻12、235頁、12-235-03C、。生年・年齢に異同あり、本文では年齢を断定しない

D 東軍諸隊との接触――どの局面の証拠か

相手確認できた史料と記事確認度本文に書ける範囲・留保
福島正則・子息刑部少輔後3-No.1328、634頁。初期の攻撃先に島津らを含むC戦闘参加を述べる後年叙述あり。福島本隊を正面から貫いたという局面の確定、豊久首取人の確定は別史料が必要
徳川家康の備え後3-No.1315、626頁。進路へ向く備えを通過C覚書では近接通過を述べる。家康本人に別れの使者を送ったとの逸話は本条にない
井伊直政9/25結城秀康書状写。後編3-No.1176 ↗・後編3-No.1349 ↗。後編3-No.1328 ↗、636頁は忠吉を馬に乗せ、その際に直政も負傷したと記すA(負傷、写の伝来留保)/C(射手・局面)負傷の同時代根拠と源藤家伝を分離。No.1328は負傷原因・攻撃者を明記せず、命中箇所・銃撃地点を確定しない
松平忠吉9/25結城秀康書状写で高名、直政付き添い。後編3-No.1328 ↗、636頁で島津への攻撃、負傷・落馬、直政が忠吉を馬に乗せたことを記すA(参戦・高名、写)/C(島津接触と負傷・落馬)同時代書状は忠吉の負傷までは記さない。No.1328も負傷原因・攻撃者を明記せず、直政と同一地点で同時被弾とはしない
本多忠勝後編3-No.1328 ↗、635–636頁。大谷方への攻撃に「本多中務太輔」と記すC同条の島津勢との交戦場面では名指されない。落馬が記されるのは松平忠吉であり、忠勝の島津追撃・落馬の根拠にはできない
長宗我部・長束後3-No.1351–53、646–647頁。伊勢平左衛門の使者、通過の約束、案内一騎C(複数叙述で骨格は有力)初め敵味方を測りかねた元西軍との交渉。東軍の追撃者に混ぜない

井伊負傷の書状写は白峰旬「関ヶ原の戦い関連の鍋島家関係文書についての考察」73–74頁の翻刻で確認(別府大学公開論文 ↗)。原本写真を確認したものではない。書状写の伝来・日付の留保は掲載用コラムの注に記した。

E 伝承と顕彰の地点

地点現所在地・案内資料記載伝承内容掲載上の区分
烏頭坂大垣市上石津町牧田豊久が追撃隊と戦い重傷を負う。顕彰碑があるD。戦死したとする説と、負傷後移動説の両方を区別
牧田上野・琳光寺大垣市上石津町牧田盛淳の身代わりと戦死。宝暦治水時の供養塔等D(地点)。名代行動自体はNo.1407のC史料がある
勝地峠大垣市上石津町下多良豊久隊の殿と源藤狙撃D。No.1176・1349には地点名がない
白拍子谷大垣市上石津町上多良豊久が力尽き自刃D。原史料系統は三輪家の後代書付をさらに照合すべき
瑠璃光寺・島津塚大垣市上石津町上多良豊久の遺骨・位牌・供養の伝承墓・供養の存在と遺体同定を分ける。伝来の厳密な年代校合は未了
時山・五僧峠(島津越)大垣市上石津町時山付近から滋賀県多賀町側小林新六郎の案内で義弘が通過したというD。この峠をNo.1211の近江通過の唯一の入り口にしない

上表の所在地・伝承は、大垣観光協会発行・上石津まちづくり協議会歴史文化プロジェクト編集のガイド2頁から。史料・伝承中心の構成であるとの資料自身の但し書きも掲載時に残す。

上石津ガイドマップ・伝承と史跡の案内 ↗。墓域の位置は岐阜県観光公式・島津塚 ↗も参照。

F 検索結果の読み方と集計の限界

『本藩人物誌』は調査時の現用版で2,120統合人物・2,127原記事。関ヶ原・関原・濃州・敗軍・美濃等の表記を横断し、統合人物268件・原記事261件がヒットした。美濃守の官名、他時代、子孫の記事、旧OCRの隣接混入も含む。これは参戦者数・戦死者数ではない。

表Bの42行には死者、推定死、捕縛、負傷、生還後の病死・殉死が混在する。海戦表や表Cとの重複もあるため、表の行数を足して人数を出してはならない。前歴を本文で紹介した主要人物は原へ戻り、参戦・最期だけの短い記事やにとどめた人物は、表の確認欄に区別して残した。

史料の公開先

鹿児島県『旧記雑録』公開PDF一覧 ↗/後編三(5) 572–683頁 ↗/後編三(6) 684–843頁 ↗/後編二(7) ↗/附録二(1) ↗/鹿児島県立図書館『本藩人物誌』公開一覧 ↗。

『殉国名薮』の列名照合資料は未校訂の調査資料であり、列名数を関ヶ原の確定戦死者数として扱うことはできません。