今川了俊書下
永和二年六月九日 / 冊子 98頁
今川了俊が島津美濃守に、味方として忠節を尽くせば本領を安堵し、特別の軍功があれば恩賞を与えると約した書下。
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永和二年六月九日 / 冊子 98頁
今川了俊が島津美濃守に、味方として忠節を尽くせば本領を安堵し、特別の軍功があれば恩賞を与えると約した書下。
永和二年六月九日 / 冊子 98頁
今川了俊が島津美濃守に、味方として忠節を尽くせば本領を安堵し、特別の軍功があれば恩賞を与えると約した書下。別系統の家譜に載る同文の重出。
明徳五年四月廿五日 / 冊子 154頁
今川了俊が清色美濃守に、前月五日の山門城で自ら太刀を振るい凶徒を討ち取った働きを賞し、上洛後にその功を報告すると伝えた感状。
応永四年五月十三日 / 冊子 174頁
渋川満頼が、島津元久から注進された島津美濃守の忠節を神妙と評価し、今後も忠功を尽くすよう命じた感状。
応永七年三月二日 / 冊子 193頁
島津元久が島津美濃守へ、日向国臼杵院内の左馬助跡と、同国宮崎郡内の戸次丹後守跡について、御下文の旨に任せて領知するよう命じた書下。
応永七年八月三日 / 冊子 196頁
島津元久が鹿屋美濃守へ、島津庄日向方大田郷内十町を給分として宛行い、先例どおり領知するよう命じた書下。
天正13年10月20日 / 冊子 114頁
島津義久が羽柴美濃守へ、伊集院忠棟・本田親貞宛の伝書を披見したことに謝し、関白就任によって天下が静謐となったことを祝う書状案。前年夏の厚意への返礼が遅れたと詫び、礼の使節を上洛させて幽斎にも申し入れたと述べ、取り成しを依頼する。生糸十斤を贈り、秀吉政権成立後も中央人脈との関係維持を図る外交文書である。
(天正14年)9月27日 / 冊子 235頁
島津義久が羽柴美濃守へ、前年春に鎌田刑部左衛門尉を通じて申し入れた後、連絡が途絶えた事情を述べる。肥後・筑前方面への軍事対応で返書が遅れたが、関白の命令に従う意向を示し、取次を改めて依頼した。軽い贈物として生糸三十斤を送っており、軍事的緊張のなかで中央との外交関係をつなぎ直そうとした書状案である。
六月五日 / 冊子 140頁
今川了俊が澁谷美濃守に、音信を祝し、前年にも申し伝えた一揆の件を再び聞いたため案文一通を送った書状。後日に内容が変われば双方にとって不都合であるとして、案文の趣旨をよく理解して対応するよう求める。
(嘉吉元年)四月十三日 / 冊子 395~396頁
足利義教が樺山孝久へ、大覚寺義昭事件で粉骨して働いた忠節を賞し、殊に神妙であるとして太刀一腰を与えた御内書。
四月十三日 / 冊子 400頁
樺山源三郎久清所蔵で、本文はNo.1245と同文のため省略される足利義教御内書。大覚寺事件での忠節を賞し、樺山孝久へ太刀一腰を与えた文書に当たる。
永禄二年三月三日 / 冊子 69頁
財部筑前守が清水谷口方の扱いについて末吉で町田加賀守と相談済みであることを伝え、神前の宮代官任命や門川からの請取りを時機を見て進めるよう求める書状。
(天正14年)9月27日 / 冊子 235頁
No.188と同文のため、本文を省略して掲げた島津義久書状案。鎌田政近を介した上洛交渉、肥後・筑前方面の軍務による返答遅延、関白への取次依頼、生糸三十斤の贈答を内容とする。同内容が別の文書群にも伝わったことを示す異本・伝来資料である。
十一月廿八日 / 冊子 424頁
志岐麟泉経諸が島津方の重臣へ、上意を受けた公私の厚遇に謝し、遠方の知行回復や天草大夫義虎との和融について方策を求める。薩州・天草境の弓箭や訴訟を静謐に導くよう励み、事情の上聞を頼んだ書状。
寛永九年六月廿一日 / 冊子 286頁
加藤忠広父子の改易・配謫と肥後引継ぎに関する覚書。加藤右馬頭の早打、忠広父子への処分申渡し、忠広の出羽庄内・豊後守の飛騨への移送、幕府上使・目付衆の江戸出立、熊本・八代等の城番や案内役の配置を列記し、細川忠利が署判して喜入摂津守・樺山美濃守へ送ったもの。
八月十八日 / 冊子 377頁
新造の御曹子が下向することを殿が喜んでおり、樺山美濃守が祝儀を申し上げたことにも謝意を示し、贈られた魚を受納したと伝えた町田久充・児玉利昌連署書状。
嘉吉元年十二月十二日 / 冊子 402~403頁
右京大夫持之が将軍家の命を奉じ、島津持久・高木孫三郎・市来太郎以下を治罰するため、樺山孝久に島津忠国へ合力して忠節を尽くすよう命じた御教書。
文安三年九月廿九日 / 冊子 415頁
島津忠国が樺山孝久へ、天下が変転しても同心し、和談や凶事には時宜に従って協力し、今後は理非に任せて二心なく頼み合うと神々に誓った契状。
三月十四日 / 冊子 114-115頁
彦山の福寿坊堯秀ら四人が、従来国中各地へ下向して年二季の祈祷を行ってきたところ、年一度のみとする命令が出たため、従前どおり二度の下向を認めるよう求めた連署書状。新寄進が整っても御分裁判が確定しないことを訴える。
応永六年二月廿九日 / 冊子 181頁
島津元久が八代殿へ、探題方から河尻への合力を求められたため田代刑部少輔に軍勢を添えて派遣したこと、球磨郡をめぐる相良三郎の動向に対して親類美濃守と軍勢を差し向けたことを伝え、扶持・同心を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 685頁
戦後に美濃守が出家し、新納・本田・北原らの所領や正宮社家の処置が進められたものの、諸家の境界がなお不通であったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 908頁
天文二十二年十一月朔日、比志島美濃守義任が郡山城で戦死し、享年七十二歳であったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 110頁
北原家中の宗論と離反により白坂美濃守らが島津方へ付き、栗野・吉田・馬関田・吉松へ番兵を求めた経過を記す。横川城の北原伊勢守・新介を攻めて数百人を討ち、城を落としたのち、貴久・義久は忠勤への恩賞として横川を菱刈氏へ与えた。
(永禄十一年)二月十六日 / 冊子 191頁
島津義久が樺山玄佐へ新春の賀意を伝え、平和泉に長く滞在する老齢の玄佐の苦労をねぎらった書状。往還が不通で互いに気遣わしい状況であるため、この意向を新納殿・兵部太輔殿・比志島美濃守ほか各所の人衆にも伝えるよう求める。
元亀二年秋(十一月廿日) / 冊子 249頁
元亀二年秋、伊地知重興・伊東・肝付・禰寝の連合軍が鹿児島内海へ侵入した際、瀧ケ水で戦功を挙げた者の交名。平田美濃守、鉄砲上手の勝部与左衛門、平田藤九郎、南雲壱岐守・新次郎、指宿四郎二郎ら八、九人を掲げ、平田美濃守の実名に関する編者の考証を付す。
元亀二年~四年 / 冊子 303頁
中山主計介・中山綱幸・中山源次綱吉・湯前対馬守・橋口半七郎・四藤清右衛門・米良美濃守・肥田木三郎兵衛らが、野心なく二心を持たず島津氏へ奉公すると誓った同文の起請文群。元亀二年から四年にかけての日付と各人の署名・判を列記し、違反時の神罰を誓う。
天正元年三月下旬~四月 / 冊子 304頁
天正元年、禰寝方が肝付氏から離反し、高洲を破って日向の警固船などを奪ったことを記す。三月下旬には野頸の米良美濃守・肥田木三郎兵衛・中山主計が野心を企て、召喚に応じると偽って途中から薩摩へ逃亡した。四月には野頸城を廃して城ヶ尾へ移し、関係者と足軽約四十人が飯野へ逃れた。
元亀二年十一月廿日 / 冊子 308~310頁
伊地知重興が肝付・禰寝・伊東方と結び、三百余艘で鹿児島湾へ侵入した海戦を詳述する。鹿児島では伊集院善左衛門が鉄砲で戦死したが、帖佐地頭平田美濃守ら約五十人が瀧水の要害を守り、勝部与左衛門が鉄砲で馬場玄蕃・田上助左衛門らを倒した。敵は上陸を断念し、島津家久の指揮する瀬戸村も避けて下大隅へ退却した。
元亀二年十一月廿日以後 / 冊子 310頁
瀧水合戦後、平田美濃守が従軍者を伴って鹿児島へ参上し、島津義久から異例の武運を賞賛された。伊地知方使僧の証言により、白檀磨きの鎧武者は老臣伊地知伊賀守、戦死者は馬場玄蕃・田上助左衛門と判明した。勝部与左衛門の鉄砲技量や田上兄弟の武名、のち禰寝重武が帰順して逃走者の姿を証言したことも記す。
天正13年7月18日 / 冊子 69~70頁
伊集院忠棟・平田親貞・美濃守光宗が琉球国三司官へ、琉球の安泰を祝い、近隣諸国が島津の支配下に入った状況と、永続的な和通への期待を連署して伝える。 琉球からの蚕糸・太平布に謝し、島津方から白麻を返贈しており、義久の中山王宛書状を重臣側から補完する外交文書である。
寛永二年四月十二日 / 冊子 824~825頁
島津久元と比志島国隆が樺山美濃守へ、感応寺修理のため、出水野田村長谷山にある風倒木の松三本を、記載された長さ・太さの手形と相違がなければ引き渡すよう命じた連署手形。
(寛永五年)四月十六日 / 冊子 60~61頁
出水を預かる椛山美濃守の休息、亀山家の次男・三男と藤野への知行給付、種子島にいる人物と比志島国隆との接触禁止、平田太郎左衛門の子の所在調査、七島、高岡の御蔵入、水引城付村の扱いなどを列挙した行政覚書。
二月廿九日 / 冊子 289頁
島津元久が新春の祝意を述べ、河尻への合力要請に応じて田代刑部少輔を添えた軍勢を派遣したこと、球磨郡では相良三郎の動向を受け親類美濃守と軍勢を差し向けたことを八代殿へ伝え、協力を求めた書状。
応永廿三年二月廿八日 / 冊子 295頁
応永二十三年二月二十八日に行われた犬追物の手組を、殿方・射手方などの組別に列記した記録。島津・蒲生・吉田・平田・安楽・柏原・市来ら参加者の配置と人数を示す。
永享十一年二月十八日 / 冊子 385~386頁
慧燈院に伝わる複数の寄進状・寺領関係文書について、鹿児島郡花棚村琵琶田・西田村・住吉・谷山福本などの所領と寄進者・証判を列挙し、島津持久(用久)が袖判を据えて証明した文書。前惣持中翁老衲が記録した。
天正四年 / 冊子 471~472頁
天正四年、高原・小林の守備配置と境目の治安維持を記す。上野隼人佐が小林、のち吉田へ移され、内山出雲守・木嶋玄蕃らと野心ある者を討ち、求麻から来た牢人も白坂右近将監とともに討ち取った。
十一月六日 / 冊子 425頁
天草鎮尚が島津方重臣へ、言上に対する懇切な上意と見事な馬の下賜に謝意を述べる。薩州との和談について異見を受けたことを承知し、細目は新納武蔵守と相談するとして、今後も助言と取次を求めた書状。
前年12月幕府照会、享和元年5月旧記提出(本文) / 冊子 191頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0618
前年12月、幕府大目付井上美濃守が、島津家に伝わる犬追物の台覧故事について記録があれば写して呈するよう命を伝えた。寛陽公の世、正保中に武州王子村で行った顛末が諸譜牒・簿籍に載っていたため写し、享和元年5月に留守居附役を介して美濃守宅へ提出した。底本は記録館に残し後日の考証に備えた。出典は斉宣公御譜中。照会時点・古い故事の時代・現在の写提出と底本保存を分ける。
四月8日、京都三区域取締の三通 / 冊子 555頁/原整理番号 717の3/整理ID 717-3
四月八日付の京都取締に関する三通を収める。紀伊中納言と眞田信濃守には下京中の取締を命じ、蜂須賀阿波守と引き合わせて十分行き届くよう勤めることを求める。南部美濃守と藤堂佐渡守には中京中の取締を命じ、加賀中納言と引き合わせて勤めるよう求める。稲葉右京亮と京極佐渡守には上京中の取締を命じ、島津修理大夫と引き合わせて勤めるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 688~690頁
享禄元年以後の伊東・新納・北郷・島津諸勢の戦争を年代順に詳述する。北郷忠相・樺山美濃守・新納忠勝らの出陣、各城の攻防と諸将の戦死を追い、島津勝久の鹿児島復帰、忠良方との対立・和睦を経て領国内の勢力関係が変化した経過を示す。
永禄十一年八月八日~廿四日 / 冊子 199頁
永禄十一年八月、島津忠親が北郷氏と肝付氏の和睦を進めた経過を記す。八月八日、北郷右衛門尉・土持美濃守と忠親の使者餅原越後守入道が末吉へ赴き、肝付一族らと会談して和議を成立させた。二十日に肝付刑部少輔が都城へ祝賀に来訪し、二十四日には北郷久臓が串良へ返礼に赴いた。
7月23日御所命令;7月24日内田報告/8月12日上田軍六下着注 / 冊子 371~372頁/原整理番号 533の2/整理ID 533-2
松平大膳太夫が福原越後らを使って歎願を名目に強訴し、国司信濃・益田右衛門介らを続いて派遣し、禁闕へ砲撃して罪が重く、父子の黒印の軍令を国司が出したことから全軍謀叛だとして、長防へ人数を寄せて追討し、軍勢を伊勢に集め指示を待つよう命じる七月廿三日の書付。続く通知は、稲葉美濃守・永井主水正・目付戸川鉾三郎から、乾御門の堅所で稲葉の御書附一通を拝見するよう伝えられ、目付二人と重役が協議した旨を記す。七月廿四日内田仲之助から帯刀へ送る書付で、八月十二日に上田軍六が下着し、攻口・攻掛の時日は今後の協議で伝えるとの注もある。長州側への罪責・謀叛の評価は命令書の叙述とし、追討命令と協議・到着を別に示す。
延文二年正月廿日 / 冊子 1頁
渋谷重勝が、清色北方馬渡瀬竹下にある名四郎作一段と手作二段を寿昌寺方丈へ寄進し、今後の違乱・妨げを禁じた寄進状。
年月日未詳 / 冊子 300頁
応永二十四年九月十一日の松尾城・鹿児島方面の戦闘で死亡・負傷した家臣を列挙する記事。山本孫五郎らの戦死、和泉氏・蒲生氏・田代氏らの討死・負傷と、従軍者の人数を記す。
年月日未詳 / 冊子 304~305頁
松尾城・谷山方面の戦いで、籠城軍救援の是非をめぐる軍議と出陣を記す。久豊方が存忠らの援軍を得て城外へ進み、伊集院方と交戦しながら城門・渡河点を確保しようとした。多くの戦死者を出した後の撤退・再集結と和睦論も述べる。
応永卅二年六月一日 / 冊子 334頁
蒲生忠清が薩摩国鹿児島郡武村内宮丸崎五段と谷山郡和田内井尻五段を福昌寺へ寄進し、島津忠国が加判した文書。
応永卅二年六月一日 / 冊子 334頁
蒲生忠清が父道語の菩提料として、宮丸崎・井尻の田地を福昌寺へ寄進し、源貴久の加判を得た文書。No.1044と同日・同対象を記す別掲文書。
文安三年九月十七日 / 冊子 415頁
樺山孝久が新納忠治・祢寝重清・肝付兼忠らへ、天下が変転しても一味同心に奥州方へ奉仕し、合戦・和談・凶事の際は心底を隠さず相談して協力すると神々に誓った契状の案文。
宝徳四年五月十四日 / 冊子 426~427頁
宝徳四年五月十四日の犬追物について、島津氏・鹿屋氏らの参加者を組別に配し、各人の定数を記した手組。
享徳三年九月廿日 / 冊子 429頁
享徳三年九月二十日の犬追物について、島津氏・肝付氏・餅原氏らの参加者を組別に配した手組。