重豪、徳川吉宗二十五年忌に香奠銀十枚を献納
是歳夏六月、二十一日の献納(安永四年の文脈) / 冊子 466頁/原整理番号 1276/整理ID 1276
この年夏六月、大家が東叡山で有徳院の二十五年忌の法事を営んだと記す。有徳院には徳川吉宗の注がある。その際、二十一日に重豪は組頭兼用人比志嶋要人範章を遣わし、香奠銀十枚を献納して拝礼したとする。出典は重豪公御譜中。
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是歳夏六月、二十一日の献納(安永四年の文脈) / 冊子 466頁/原整理番号 1276/整理ID 1276
この年夏六月、大家が東叡山で有徳院の二十五年忌の法事を営んだと記す。有徳院には徳川吉宗の注がある。その際、二十一日に重豪は組頭兼用人比志嶋要人範章を遣わし、香奠銀十枚を献納して拝礼したとする。出典は重豪公御譜中。
〈寛延四年〉七月朔日 / 冊子 311頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0915
東叡山で有徳院殿の中陰法事を営むため、継豊が使者を送り、当年七月朔日に香奠白銀三枚を献納した記事。有徳院殿には吉宗の割注がある。献納者は継豊で、使者名は本文に記されない。
〈寛延四年〉七月朔日 / 冊子 312頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0919
東叡山で有徳院殿の中陰喪儀を修するため、当年七月朔日、重年が家臣北郷八右衛門資矩を使者として、香奠三十枚を霊前へ献納した記事。品名は香奠、数量は三十枚で、本文に銀の字は記されない。
〈寛延四年〉八月二十六日 / 冊子 324頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0953
寛延四年八月二十六日、老中松平右近将監武元が、有徳院吉宗の尊前へ銅燈籠を献じる命を伝えた記事。継豊は国元におり、当家から人を遣わしていなかったため、何基献じるべきかを知らなかった。継豊は将軍家の姻家で、他家とは親疎が異なるとして、先例がなくても家統に応じて二基を献じることを願った。重年が同年十月六日にこの事情を武元へ伝えて許可を受け、使者を遣わして二基を献じた。翌宝暦二年五月十三日に完成して奉献したと記し、銘文を掲げる旨で記事を結ぶ。
〈寛延四年〉八月 / 冊子 324~325頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0955
八月付の指図は、松平大隅守継豊へ、東叡山有徳院御霊前に銅燈籠を奉献するよう伝える。寸法は常憲院の御佛殿へ献じたものに合わせ、来年二月上旬に出来るよう求める。継豊公御譜中・正文在文庫の注を持ち、日付は八月だけで日を記さず、在口裏の朱注と松平大隅守宛の表示を伴う。本文に差出人署名や基数はなく、目録は幕府指図書とする。後のNo.961は同文の重年宛指図で、宛先が異なる。制作目標日は、No.953の翌五月奉献記事とは異なる。
〈寛延四年〉八月 / 冊子 326頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0961
八月付の指図は松平薩摩守重年へ、東叡山有徳院御霊前に銅燈籠を奉献するよう伝える。寸法は常憲院御佛殿へ献じたものに合わせ、来年二月上旬に出来るよう求める。全上として継豊宛No.955と同文を受けるが、本書は重年宛で、在口裏(重年)という注を持つ。日付に日はなく、差出人署名や基数も本文にはない。目録は幕府指図書とする。No.962の実際の完成日は二月十日、奉献日は五月十三日で、本書に記す二月上旬は制作目標である。
〈寛延四年〉八月二十六日 / 冊子 326頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0962
八月二十六日、用番老中松平右近将監武元が江戸留守居役山澤小左衛門盛福を自邸に呼び、有徳院吉宗の尊前へ銅燈籠を献じる命を伝えた記事。薩摩にいた重年はその命を奉じ、翌宝暦二年二月十日に製作が完了し、同年五月十三日に銅燈籠二基を備えて奉献した。記事末は、その銘文を掲げる旨を記す。
〈宝暦二年〉六月 / 冊子 363~364頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1090
公御譜中の記事は、前年八月廿二日に重年が先例に従って有徳院殿の霊牌を薩府南泉院へ仮安置し、廿三~廿五日に四十九日と百箇日の忌の儀礼を行ったと記す。有徳院は朱記に徳川吉宗、霊牌彫刻には上野住の親章(姓の字形未確定)の注がある。当年六月十四日に改めて南泉院へ奉安、十六日に遷座、十七日に供養し、この日重年は島津備中貴儔を使者に香奠白銀十枚子を霊前へ献じた。継豊も島津内記久興を使者に白銀二枚を献じた。さらに将軍家が東叡山で六月十七~十九日に一回忌を行い、重年は廿二日に番頭の堀堀右衛門貞紀を使者に白銀十枚子を献じたと記す。
〈宝暦二年〉六月二十二日 / 冊子 364頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1091
東叡山で有徳院殿の一回忌法事を営むため、継豊が当年六月二十二日に使者を遣わし、御香奠白銀二枚を献納した記事。使者の固有名は記されない。
〈宝暦三年〉六月二十二日 / 冊子 409頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1255
東叡山で有徳院殿三回忌の法事を営むため、継豊が使者を遣わし、宝暦三年六月二十二日に御香奠白銀二枚を献納した記事。有徳院殿に吉宗との元注が付く。使者の固有名は記されない。出典は継豊公御譜。
〈宝暦三年〉六月十七~二十二日 / 冊子 409頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1256
宝暦三年六月十七日から十九日まで、将軍家が東叡山で有徳院殿三回忌の梵儀を営んだ記事。二十二日、重年が用人諏訪甚兵衛兼方を番頭として遣わし、尊霊前へ御香奠白銀十枚を献納した。元注は、同日、継豊の使物頭町田孫七實純が香奠白銀二枚を献納し、夫人の使者目附上村藤之丞は行中であったため代納殿役人が白銀一枚を献納したことを記す。菊姫の使者として御守殿添御用達梅田甚兵衛を掲げ、薩摩の香奠白銀一枚の記載も付す。出典は重年公御譜。
安永四年七月二十日(年は朱) / 冊子 469頁/原整理番号 1284/整理ID 1284
有徳院の二十五回御忌の法事が営まれることについて、使者をもって香奠を献じられ、東叡山へ奉納した旨を上に申し上げたと返答する。末尾は七月二十日、松平周防守康福判、松平薩摩守殿宛。年は朱の安永四年。出典は仝上・正文在文庫。香奠の具体的な品・額・単位はこの書状自体には記されず、関連する六月の御譜記事の銀十枚を本文の記載として補い入れない。使者の奉納と披露を述べる返書であり、重豪本人の参詣、幕府からの下賜、香奠を二回納めた事実にはしない。六月の記事の日付と七月二十日の返書日付はそれぞれ保持する。
安永四年八月十二日(年は朱)、本文は六月二十日の東叡山参詣に言及 / 冊子 471頁/原整理番号 1292/整理ID 1292
書札を披見したと述べ、公方はますます機嫌よくしていると伝える。有徳院の二十五回御忌の法事が東叡山で執行済みとなり、六月二十日に御霊前へ参詣した件を聞いて喜ぶ旨は尤もとする。書面の趣旨は各々申し談じて上聞したと返答する。末尾は八月十二日、松平周防守康福判、松平薩摩守殿宛、年は朱に安永四年。
天明三年七月廿日 / 冊子 699頁/原整理番号 1967/整理ID 1967
水野忠友が松平薩摩守に宛て、有徳院の三十三回忌法事に際して使者により献上された香奠を東叡山に奉納した件を言上したと伝える書状。天明三年七月廿日付、水野出羽守忠友判。
〈寛延四年〉六月二十日以降 / 冊子 307~308頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0902
重年公御譜は、前大樹吉宗が四月下旬から不豫となり、翌月も癒えず、六月二十日に江戸西城で六十八歳で薨じたと記す。閏六月十日夜に東叡山へ葬り、有徳院殿と諡し正一位太政大臣を贈った。薩摩へ訃報が届くと、重年は番頭肝付弾正兼昌、継豊は物頭鎌田一藤太政苗を使者とし、閏六月十一日に両使が鹿府を発つ。西海・山陽・東海道を経て七月七日に江戸芝邸へ着き、八日に酒井忠寄・秋元凉朝らの宅を訪ね、重年・継豊の弔書を届けた。追記は重年が兄宗信の封を襲い、継豊から当家伝来の家系・文献・宝器を譲られたことを記す。閏六月二日に府城対面所でそれらを拝覧し、記録官川上平右衛門親央が諸品と枢機書を持って進席し、その由来を説いたという。
〈寛延四年〉七月十六日 / 冊子 316~319頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0938
平田靭負正輔が七月十六日、主殿久柄・伊勢兵部貞起・義岡相馬久中・主鈴久郷・鎌田典膳政昌・河野八郎左衛門通興へ、有徳院の遺物拝領と謝礼について報告し、国元の指示を求める。十日に上使小出信濃守から、太守・隅州へ脇差各一腰、菊姫へ御手鑑一帖が授けられ、同日の飛脚で知らせた。刀の外箱を整え、御馬廻川上喜藤太、新番荒武蔵右衛門、御歩行五代喜左衛門、愛甲嘉兵衛、足軽八人を付け、護送に差し立てた。川々の渡しを慎重に扱い、佐屋経由では日数を定めず油断なく参着するよう申し合わせた。 両殿は在国のため、取次の小左衛門・長澤牛兵衛を通じ、加賀守忠雅の名代御礼と上使への礼使札を相談した。十日に小左衛門が参上し、上使の書状を受け取り、両殿の謝礼使者について加賀守が承知したと伝えたが、牛兵衛の説明に食い違いもあり、翌朝七時ごろに改めて確かめた。遠国在住の両殿へ上使が遺物を授ける例は家中になく、謝礼は今後の家格に関わるため、御一門から名代を頼み、老中・若年寄などへは名代が廻勤し、側衆・物頭へは使者で御礼すること、国元でも先に定めた名代御礼の筋を通すことを求める。留守居と星野久務に内談し、平田半之丞・赤松甚右衛門の連絡も挙げ、上使への挨拶で誤解を生じないよう相談する。 さらに、両殿の名代御礼の節に京都諸司代・大坂城代へ通知するか、長崎へ留守居の使者と書状を送るかを尋ねる。十一日に小左衛門を通じ、御用番酒井左衛門尉から太守・菊姫・隅州の御礼を記した御付紙を渡す旨を聞き、御付紙の銘と書付二通、留守居の首尾書一通、佐々木の案文二通を送る。菊姫の表立った謝礼は御用番へは不要とされたが、御留守居から申し出た扱いと松平右近将監・上使への謝礼を照会し、深姫にも言及する。日光宮・御三家・御一門その他へ拝領を知らせるため、使者を通じた通知と隣国への伝達を相談する。末尾に印鑑一枚と別紙五通を送ると記す。
〈宝暦二年〉八月二十六日 / 冊子 370頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1115
松平右近将監武元が八月廿六日、松平薩摩守へ送った返書。相手の書状を披見し、公方がますます御機嫌よく過ごしていること、有徳院の一回忌法事が東叡山で執行され、六月廿日に御霊前へ参詣したとの知らせを相手が喜んだことを承知する。紙面の趣は各人で相談して上聞に達したと伝える。 冒頭に「重年公御譜中」「正文在文庫」、末尾に八月廿六日、松平右近将監武元の判、松平薩摩守殿の宛名がある。宝暦二年は朱注による。法事の執行と六月廿日の参詣への喜びを扱う返書で、返書の日付と参詣の日付は区別される。
〈宝暦三年〉八月二十八日 / 冊子 418頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1287
西尾隠岐守忠尚が宝暦三年八月廿八日、松平薩摩守重年へ返答する。公方の機嫌がよいこと、有徳院三回忌の法事が東叡山で済み、六月廿日に御霊前へ参詣したことへの重年の祝意を承知する。そのため重年が使者を遣わした件を了解し、書面の趣旨は各々申し談じて上聞に達したと通知する。重年公御譜中・正文在文庫の注を持つ。参詣者は公方である。参詣日は六月廿日、返書日は八月廿八日である。
宝暦十三年六月(本文は二十日・二十一日。目録日付欄空欄) / 冊子 982頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2805
六月二十日、東叡山で有徳院(徳川吉宗)の十三回忌法事が営まれた。翌二十一日、重豪は表用人で当時番頭役を務める島津登久連を遣わし、香奠銀十枚を献じて拝礼させた。
宝暦十三年七月二十日 / 冊子 984頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2810
秋元但馬守凉朝が七月二十日、松平薩摩守重豪へ、有徳院の十三回忌法事に際し、使者を通じて献じた香奠が東叡山に奉納されたことを言上したと伝える。
宝暦十三年八月二十五日 / 冊子 987頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2819
酒井左衛門尉忠寄が八月二十五日、松平薩摩守重豪への返書で、公方が健勝で、有徳院(徳川吉宗)の十三回忌法事が東叡山で済み、六月二十日に公方が御霊前へ参詣したことに対する重豪の祝意を承知したと伝える。書面の趣旨を申し談じて言上したと述べる。
明和四年六月十二~十六日・二十~二十一日(同年配列) / 冊子 163頁/原整理番号 383/整理ID 383
同年六月十六日、福昌寺で圓徳院殿の十三年忌法事を修したと記し、十二日から十六日までとの日注がある。圓徳院には重年の小字注がある。十二日は島津播磨久敦、十四日は島津杢久峯を代参とし、同夜の頓写は島津玄蕃貴澄が代わり、十六日は島津大學久尚を代参とする。満散寄合の式もあり、久敦を「余」の代としたという。続いて六月二十日、大家が東叡山で有徳院殿の十七回忌法事を修したため、二十一日、重豪は用人佐久間九右衛門盛邦を遣わし、香奠銀十枚を献納して拝礼させた。有徳院には徳川吉宗の注がある。
明和四年七月廿日 / 冊子 166頁/原整理番号 396/整理ID 396
松平輝高が松平薩摩守へ、有徳院様十七回忌法事の執行に付して使者で献上した香奠が東叡山へ奉納されたこと、その趣旨を言上したことを知らせる。七月廿日付、年は明和四年の朱注。松平右京大夫輝高の判と松平薩摩守殿宛を備え、有徳院には徳川吉宗の小字注がある。正文は文庫にあるとする。
明和四年八月廿七日 / 冊子 169頁/原整理番号 407/整理ID 407
阿部正右が書札を披見し、公方は機嫌よく、有徳院様十七回忌法事を東叡山で執行し終え、六月廿日に霊前へ参詣したことを聞いて恐悦するとの趣旨をもっともとする。紙面の趣旨は各々と相談し上聞に達したと報じる。八月廿七日付、年は明和四年の朱注。正右の判と松平薩摩守殿宛を備える。
明和八年六月二十日・二十一日(編年記事所載日) / 冊子 291頁/原整理番号 768/整理ID 768
この年夏六月二十日、大家が東叡山で有徳院殿(徳川吉宗)の二十一回忌法事を営んだため、二十一日に重豪が番頭兼用人菱刈孫兵衛實祐を遣わし、香奠銀十枚を献納して拝礼した記事。出典は重豪公御譜中。
明和八年七月九日 / 冊子 292頁/原整理番号 773/整理ID 773
御札を披見し、有徳院の二十一回忌法事に際し、松平薩摩守の妻女の香奠献上について伺ったところ、伺いのとおりになったことをありがたいとする意向を理解したと述べる。紙面の趣旨は各々一覧したと知らせる。七月九日付、年は明和八年の朱注、板倉佐渡守勝清の判と松平薩摩守殿宛を備える。正文は文庫にある。
明和八年七月十一日 / 冊子 292頁/原整理番号 774/整理ID 774
御札を披見し、有徳院の二十一回忌法事に際し、松平薩摩守の妻女の香奠献上について伺ったところ、伺いのとおりになったことをありがたいとする意向を理解したと述べる。紙面の趣旨を承知したと知らせる。七月十一日付、年は明和八年の朱注、田沼主殿頭意次の判と松平薩摩守殿宛を備える。
明和八年七月二十日 / 冊子 292頁/原整理番号 775/整理ID 775
有徳院の二十一回忌法事の執行に際し、使者をもって香奠を献上した件は東叡山へ奉納したと伝え、その趣旨を言上したと知らせる。七月二十日付、年は明和八年の朱注、板倉佐渡守勝清の判と松平薩摩守殿宛を備える。正文は文庫にある。
明和八年七月二十二日 / 冊子 292頁/原整理番号 776/整理ID 776
御札を披見し、公方はますます御機嫌よいと伝える。有徳院の二十一回忌法事が東叡山で済み、去月二十日に公方が霊前へ参詣したことを聞いて恐悦とする意向はもっともであると述べる。紙面の趣旨を各々申し談じて上聞したと知らせる。七月二十二日付、年は明和八年の朱注、板倉佐渡守勝清の判と松平薩摩守殿宛を備える。
明和八年七月二十五日 / 冊子 293頁/原整理番号 777/整理ID 777
御札を披見し、公方はますます御機嫌よいと伝える。有徳院の二十一回忌法事が東叡山で済み、去月二十日に公方が霊前へ参詣したことを聞いて恐悦とする意向はもっともであると述べる。紙面の趣旨を承知したと知らせる。七月二十五日付、年は明和八年の朱注、田沼主殿頭意次の判と松平薩摩守殿宛を備える。正文は文庫にある。
安永五年六月十一日(年は朱)、去る九日・昨日十日から当日までの折衝 / 冊子 501~502~503頁/原整理番号 1391/整理ID 1391
上意を受けた時に直接御請を申し上げる先例は御家の先代からある一方、惇信院の代から御前では御隙取なしとされ、その後直御請を申し上げていなかったため、陸奥守と同様の取扱いを相談した首尾を詳しく報告する。陸奥守がその趣旨を内々に承知し、取次からも以後は陸奥守の仕向の通りにするよう話があったので、九日に陸奥守方へ口上を送り、承知の返答を得た。旧記では有徳院の代には直御請があり、惇信院の代に御辞舌が明らかでないため一時中絶したと説明する。先年の日光社参還御にも直御請の上意があり、当時の筆頭右近将監へ留守居を介して確かめ、以後の社参還御は先例通りとする御達を受けた経緯を記す。参還と御暇御礼で直接御請を述べるのは別の懇意のためではないことを、留守居から家来へ伝えようとしたが、陸奥守の同様の取扱いと直接申し上げたい願いを改めて右近将監へ伝え、宮川古仲太との内談も経て書付を提出した。昨日十日には右近将監方で古仲太に会い、公用人佐々木丑蔵を介して先例を問い合わせ、例書を添えて渡した。途中、その日の不快・不登城のため書付と例書が渡し切れない事情を聞き、丑蔵を周防守方へ向かわせ、例書は差出不要との話も受けた。高濱直右衛門を介した書付の請取と挨拶の見通しを聞いた後、周防守方で朝の書付を聞かれ、用人が不在なら林良蔵に会うよう案内された。朝に提出した書付は受け取られたが、別段の挨拶があるかを念のため尋ね、同役とも評議したうえで、変わったことがあれば殿中で伝え、なければ書付の通り心得ると承知した。参勤御礼の直前、周防守の同朋頭原田順阿から太守へ、直御請の筋を心得るよう御達があり、そのことを殿中で直接確認したと結ぶ。周防守へ差し出した書付の写と例書を添えて送る。末尾は六月十一日、有川勇馬から仲様宛。先例、内談、書付提出・請取、別段挨拶の有無、当日の御達を分ける。
安永六年(朱、月日記載なし) / 冊子 522頁/原整理番号 1439/整理ID 1439
上々様がますます機嫌よくおられることを喜び、一筆申し上げるとする。常憲院と有徳院の霊前へ参拝したいと眞含院から願い出たところ、願い通りに命じられ、昨日拝礼したとの報せを受け、自分としてもありがたく思うと述べる。このことを申し上げたいので、折を見て御前へよろしく取り成すよう六宛に頼む。前の追而書にも、何ほどもよろしく取り計らいを頼むと添える。安永六年の朱表示と、公方様御方計という送達先の範囲の注がある。眞含院には継豊の女・菊姫、常憲院には綱吉、有徳院には吉宗の原注がある。
寛政12年6月21日献銀(本文。同年6月の法事) / 冊子 179頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0576
同年6月、大家が東叡山で有徳廟の五十年忌法事を修した。21日に重豪が使者を遣わし、香奠銀2枚を献じ拝礼させた。有徳廟には徳川吉宗の人物注。出典は重豪公御譜中。法事の月と献銀日、使者を介した拝礼と数量を分ける。
〈寛延四年〉六月二十日 / 冊子 324頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0954
継豊が武州東叡山の有徳院殿尊前へ奉献する銅燈籠二基の銘文を掲げる。銘記日は寛延四年辛未六月二十日で、奉献者を薩摩大隅日向三國主兼領琉球國、致仕従四位上行左近衛中将兼大隅守、源朝臣継豊と記す。本文に「兩基」と明記する。前のNo.953が奉献の命令・許可・製作経緯を記すのに対し、本書は銘文そのものを掲げる。銘記の六月二十日は、No.953の製作完成・奉献日とは異なる。
〈寛延四年〉六月二十日 / 冊子 326頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0963
重年が武州東叡山の有徳院殿尊前へ奉献する銅燈籠の銘文を掲げる。銘記日は寛延四年辛未六月二十日で、奉献者を薩摩大隅日向三國主兼領琉球國、従四位下行左近衛少将兼薩摩守、源朝臣重年と記す。前のNo.962は二基の制作・奉献記事だが、銘文自体に基数の記載はない。継豊のNo.954にある致仕・従四位上・中将・大隅守の官位名乗りとは異なる。銘記日はNo.962の実際の製作完成・奉献日とは異なる。
〈宝暦三年〉七月二十日 / 冊子 412頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1269
酒井左衛門尉忠寄が宝暦三年七月廿日、松平大隅守継豊へ返答する。有徳院の三回忌法事が執行されたことに伴い、継豊が使者を通じて香奠を東叡山へ献納した件について、その趣旨は言上に達したと通知する。継豊公御譜中の注を持つ。七月廿日は返書日で、献納日自体の記載はない。献納額と使者名は本書に記されない。
〈宝暦三年〉七月二十日 / 冊子 412頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1270
酒井左衛門尉忠寄が宝暦三年七月廿日、松平薩摩守重年へ返答する。有徳院の三回忌法事が執行されたことに伴い、重年が使者を通じて香奠を東叡山へ献納した件について、その趣旨は言上に達したと通知する。重年公御譜中・正文在文庫の注を持つ。七月廿日は返書日であり、本書には献納額や使者名を記さない。No.1269は同件の継豊宛返書で、本書とは宛先が異なる。
〈寛延四年〉七月十日以降 / 冊子 313頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0925
寛延四年七月十日、上使若年寄小出信濃守英智が江戸芝邸へ来て、有徳院吉宗の遺物脇刀を継豊と重年へ各一腰賜った記事。継豊には尻懸則長作、長八寸三分半、護摩梵字、銘なし、代金二十枚、重年には信國作、長八寸七分半、剣・三鈷・梵字などの装飾、代金二十枚という元注が付く。両者は薩摩にいたため、島津加賀守忠雅が代わって上使を迎え、大書院で上旨を承り、薩摩で二刀を拝戴して謝恩する旨を上使へ述べた。忠雅は馬廻川上喜藤太親毗、新番荒武蔵右衛門祐壽、軽士・歩卒を遣わして刀を護送させ、一行は七月十六日に江戸を発ち、八月十三日に薩府へ着いた。二十一日に継豊が恩賜の宝刀を謹んで拝戴した。拝戴の日が延びたのは、継豊の女子が同月十一日に死去したためという注がある。九月二十六日にその報告が江戸へ届き、忠雅が継豊に代わって執政各位と上使英智の邸で謝礼し、番頭菱刈孫兵衛實詮も若年寄各位の邸で謝礼した。
〈寛延四年〉七月十日以降 / 冊子 313~314頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0926
七月十日、上使若年寄小出信濃守英智が芝邸へ来て、有徳院吉宗の遺物脇刀一腰を重年へ賜った記事。信國作、長八寸七分半、剣・三鈷・梵字などの装飾、代金二十枚の元注が付く。継豊には尻懸則長作、長八寸三分半、護摩梵字、銘なし、代金二十枚の脇刀一腰と九十賀和歌御手鑑一帖、菊姫には同じ手鑑一帖を賜った。島津加賀守忠雅が重年・継豊に代わって上使を接待し、大書院で上旨を承った。馬廻川上喜藤太親毗、新番荒武蔵右衛門祐壽、歩士・軽卒を遣わして刀を護送させ、一行は七月十六日に江戸を発ち、東海・山陽・西海路を経て八月十三日に薩府へ着いた。九月二日に重年が恩賜の宝刀を拝戴した。延期の理由は継豊の女子が八月十一日に死去したためと注記する。江戸では忠雅が重年に代わり、十月四日に執政各位と上使英智の邸で謝礼し、同日、家老市来左中政方も若年寄各位の邸で謝礼した。
〈寛延四年〉十月四日〔目録:九月二十八日〕 / 冊子 332~337頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0983
平田靭負正輔・市来左中政方が六家老へ、太守・隅州の有徳院遺物拝領後の御礼について、江戸での相談と書状・使札の提出経過を報告する。加賀守から名代御礼についての照会がないため、留守居を通じて御用番酒井左衛門尉へ申し上げ、山澤小左衛門を取次に遣わした。国元在住の拝領者には名代御礼の例がなく、上使の差図もないまま、有徳院の隠居祝いの拝領例だけで処理するのは不足があるとして、堀田相模守へ内談した。留守居が御用人浅井八兵衛から、御用番の出勤を待って礼使札を差し出す扱いを聞き、赤松甚右衛門にも申し合わせた。甚右衛門は病気で参上できず、小左衛門が佐久間源太夫へ事情を伝え、先月十五日に相模守へ内談する手はずを整えたが、浅井八兵衛の内用のため進まなかった。そこで倉次甚太夫にも相談し、十七日付の手紙と十九日の来訪を経て、御用番の差図どおり名代で勤めることになったと報告する。 名代が登城して御礼するのか、廻勤で済むのかについても堀田側と相談した。隅州が病中のため、在府の加賀守が両丸へ登城し、老中へ廻勤する扱いとし、似寄りの例書を添えるよう八兵衛から伝えられた。当分出勤しない酒井左衛門尉・秋元但馬守への御礼は差し控え、出勤後に改めて勤める。大納言への御礼も御用番へ申し上げて済ませるという。有徳院遺物の両殿への拝領について本多伯耆守へ提出した書付一通と例書一通、隅州から大納言への御礼についての書付一通と付紙の扱いを挙げる。加賀守父子の名代については先に願い、御用人を通じて登城を要しない廻勤の差図を受けた。先月二十五日の書状提出、翌二十六日の加賀守の老中・上使側への廻勤、若年寄への菱刈孫兵衛の使者、側衆への表方・隠居方それぞれの使者を記す。 太守・菊姫の遺物拝領に隅州から謝礼する連署書状一通について、本多への提出と受け取り、秋元宛書状が西丸用務のため登城しなかったこと、西尾隠岐守宛書状の提出、元で整えた連署書状と御右筆の案文を挙げる。太守・菊姫の拝領に対する奉書一通、隅州から大納言への謝礼に関する同一通、本丸の老女五人から隅州への返事六通も報告する。隅州の公方・大納言への御内証の御礼は名代使札で決めにくく、国元で文面を整えるよう伝えられた。八月二十一日付の御文と御案文、御礼文の八月九日・九日付、使札の八月二十一日付に相違があるため、御文を案文として扱い、双方を相談して調え直した。先月二十六日に御守殿から提出した御文はその日に返事が下り、女使の口上と春井の取次を経た。二十七日には春井から添文付きの御文六通を提出したという。 太守の御頂戴がまだ済んでいないため、七月十日の拝領として差し出す御礼文の扱いを佐々木に尋ね、差し支えないとの返答を得た。隅州の御礼文は御右筆が提出し、国元の御案文も添える。日付の異なる案文と調え直した文面を送って、国元の心得とする。京都諸司代・大坂城代への通知は、隠居祝いの拝領時の例に従って調えるよう使番へ申し渡したが、先例が見当たらないため、近衛その他への通知とあわせて相談する。日光宮・御三家・御一門への通知は、太守の御礼が済んだ時に使番へ申し渡すよう求める。隅州の御礼が済んだことも伝え、別紙九通を送るとして結ぶ。末尾に十月四日の朱記と、平田靭負・市来左中の名義、六家老宛名を掲げる。
〈宝暦二年〉七月二十五日~八月二十六日 / 冊子 368頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1108
退休後の継豊が病気のため寛延二年以来たびたび幕府へ願い出て、温泉療養のため薩府四配館に留まっているなか、前年、日州佐土原城主島津加賀守忠雅が薩府へ来て継豊の起居を問うことを願い、許された記事。当年七月二十五日に忠雅が居城を発ち、高岡・高城・都之城を経て二十七日に福山、二十八日に船で薩府へ入り客舎に宿した。八月二日に登城し、家老・用人らの出迎えを受け、虎之間・対面所を経て書院で重年に色杉原紙五束・塩鴨五羽・美酒一樽を献じ、四配館で継豊にも同品を献じた。六日には重年が府城座之間で忠雅を饗応し、太平布十四を与えて書院で琉球人の座楽を見物させた。十八日に忠雅が登城して帰郷の暇を願い、重年から饗応を受け、四配館でも継豊に挨拶した。重年は白銀百枚を客舎へ贈り、継豊は細上布三端・島紬二端を贈った。さらに忠雅の求めに応じて恵人参五両、牧馬、狆犬、鹿府立野焼陶器多数を贈り、元注は牧馬一匹・五匹の内訳と十月の送付、狆犬牡三匹の八月の佐土原への送付を記す。滞在中、南泉院に参詣し、大権現御宮へ太刀一腰・白銀一枚、台徳院殿以下有徳院殿までの霊前へ白銀一枚ずつを献じた。福昌寺・慈眼廟・南林寺・大中廟へ金子各百疋、慈眼廟・祖先廟・淨光明寺へ白銀各一枚を奉納し、郡山花尾権現社・谷山慈眼寺・観音などにも参詣した。八月十九日に薩府を辞し、重富・帖佐・加治木・溝辺・横川・踊・西霧島・曽於郡・清水・日当山・国分・敷根・福山・財部・都之城・高城・高岡・穆佐・倉岡を経て二十六日に佐土原へ戻った。
明和元年 閏十二月廿三日(年は朱注) / 冊子 43~45頁/原整理番号 144/整理ID 144
太守の官位昇進に伴う社寺・霊牌等への献納と代参の申渡書。大雄山御宮へ白銀二枚、台徳院以下大猷院・厳有院・常憲院・文昭院・有章院・有徳院・惇信院の位牌殿へ各一枚を南泉院に納め、花尾山の忠良、加世田日新寺の慈眼院・寛陽院・泰清院・大玄院・有邦院・慈徳院の各位牌、福昌寺の円徳院位牌、浄光明寺の浄国院位牌へも各一枚を献じる。諏方・稲荷・祇園・若宮・春日・福ケ迫諏訪、尾畔三社と御休息所御看経所には青銅百疋ずつを記す。尾畔三社等の代参は近習役を勤めさせ、護摩所不動・表御看経所には進納物がなくても近習役が代参するよう、使番から伝達する。末尾は、明後廿五日に代参して献納・寺納し、御手当を如例申し渡すこと、代参人柄の指示と取次の注、日新寺には来る廿七日に代参があることを記す。閏十二月廿三日、樺山左京の署、久智の人物注。朱注の申聞は十二月廿三日。出典注は重豪公御譜中・扣正文在家老座。目録の表題・年月日と対応する。
天明七年三月(年は表紙) / 冊子 958~959頁/原整理番号 2600の1/整理ID 2600-1
大雄山・御宮への参詣を、四月十七日、年頭、発駕前と着城時、年忌に行うと定める。台徳院・大猷院・厳有院・常憲院・文昭院・有章院・有徳院・惇信院・浚明院の九霊について、正忌日には家老が代参するとする。惇信院は中将が一字を賜った方なので、中将の代には正忌日に参詣し月次の忌日に家老の代参を命じていたが、今後はその扱いを要しないとする。浚明院は近い代の霊であるものの、太守が一字を賜った方ではないので、九霊すべてを同様に参詣・代参の規定へ組み入れる。家督の際に一度、官位昇進の際、年忌には参詣し、清揚院の正忌日には家老が代参する。以上を太守の参詣・代参として定め、参詣すべきものも在府中は従来どおり代参させるため、そのように扱うよう命じる。三月付、安房から若年寄衆への書付である。
享保十七年三月十六日 / 冊子 170頁/整理ID 389
祖先の威徳と神仏への報恩、国家安寧・子孫繁栄を祈る疏文。
年月日未詳 / 冊子 45頁/原整理番号 145/整理ID 145
先の官位昇進により、この冬閏十二月二十五日、島津肥前忠紀を大雄山の神祖廟へ遣わして白銀二枚を献じ、島津播磨久敦を通じて台徳公から惇信公まで八代の霊牌へ各一枚を献じた。同日、島津図書久濃を花尾権現社へ、番頭島津内記久澄を福昌寺の慈眼院・寛陽院・泰清院・大玄院・有邦院・慈徳院・円徳院の尊牌へ遣わして、各一枚を献じた。新納五郎右衛門久起は浄光明寺の浄国院尊牌へ一枚を、島津直衛久中は諏方・稲荷・祇園・若宮・春日・福ケ迫諏訪へ同品をそれぞれ一枚献じた。近習役によって御休息所の看経所と尾畔三社へ青蚨百疋を献じ、護摩所不動と表御看経所では献物を設けず、拝礼のみをさせた。二十七日には使番頭種子島左内久芳を加世田日新寺の梅岳公島津忠良の尊牌へ遣わし、白銀一枚を献じて恭賀の意を述べさせた。出典は重豪公御譜中。目録は記事で年月日欄を空欄とする。
年月日未詳 / 冊子 337頁/原整理番号 26
貴久が清水にいた時の吉田城合戦を漢文で記す。諸城主が背反したため、忠元・三原・山田・宮原・長野らを吉田攻めに出した。三月十七日に敵兵を退け、四月八日には興慶寺前で大戦となり、忠元は大刀を持って敵を攻め、上原長門らと敵将を追った。馬場某も奮戦して功を争ったが、忠元は大刀を持つ者が先鋒だったと述べたという。
〈寛延四年〉九月二十八日 / 冊子 331頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0980
鎌田典膳政昌・島津主鈴久郷・義岡相馬久中・伊勢兵部貞起・島津主殿久柄が九月廿八日、重年拝領の有徳院遺物である信國の脇差一腰を、怠りなく御納戸方へ納め置くよう命じる。七月十日に上使小出信濃守から授けられたことを記し、拵の説明は別紙にあるとする。重年公御譜中・正文在納戸方の注と五署名を持つ、拝領刀の収納指図である。No.982の継豊拝領刀は尻懸則長で作者が異なる。
〈寛延四年〉九月二十八日 / 冊子 332頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0982
鎌田典膳政昌・島津主鈴久郷・義岡相馬久中・伊勢兵部貞起・島津主殿久柄が九月廿八日、御納戸奉行へ、継豊が拝領した有徳院遺物の尻懸則長脇差一腰を、怠りなく御納戸方へ納め置くよう命じる。七月十日に上使小出信濃守から授けられたことと、拵書が別紙にある旨を記す。継豊公御譜中・正文在納戸方の注、五署名と御納戸奉行宛名を持つ。No.980の重年拝領信國刀とは、作者・拝領者が異なる。
〈寛延四年〉 / 冊子 338頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0988
梅その・松しま・うら尾・たきつ・さえたの五名が松平薩摩守重年へ返答する。九月二日付の書状を受け、七月十日に上使堀田相模守を通じ有徳院遺物が竹姫へ贈られ、重年がありがたく思い、その御礼を大納言へ申し上げたいと述べたことを承ったと記す。よろしく伝えると結び、五名と重年宛名を持つ。九月二日は受信書状の日付で、返書自体の日付は記されない。
〈寛延四年〉 / 冊子 338頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0989
梅その・松嶋・うら尾・たきつ・さえたの五名が松平薩摩守重年へ、九月二日付の書状に返答する。七月十日、上使小出信濃守を通じ同氏大隅守継豊と菊姫が有徳院遺物を拝領したことへの謝意と、大納言へ御礼を申し上げたいとの希望を承ったと述べる。その件を御表からも申し上げたと聞き、なお重年の書状からも伝えると結ぶ。五名の署名と重年宛名を持つ連署消息である。署名は「松嶋」と記され、受信書状は九月二日付だが、返書自体の日付はない。