慶長十年国府衆中交名
年月日未詳 / 冊子 45~51頁
慶長十年の国府衆中を家ごとに列記した大規模な交名。町田縫殿助(後の駿河守)をはじめ、各家の当主・子・兄弟・養子・婿・被官らの姓名、入道名、役職、親子・養子関係、居所・移住先、出仕・死亡などの注記を収める。
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年月日未詳 / 冊子 45~51頁
慶長十年の国府衆中を家ごとに列記した大規模な交名。町田縫殿助(後の駿河守)をはじめ、各家の当主・子・兄弟・養子・婿・被官らの姓名、入道名、役職、親子・養子関係、居所・移住先、出仕・死亡などの注記を収める。
年月日未詳 / 冊子 596頁
久千は、子のなかった吉田美作守清孝の猶子となり、清次と改名した。慶長十年四月十七日に二十七歳で死去したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 822頁
時任義高の系譜記事。初名・法号、生年を記し、高原城攻めや大友軍との戦いで軍功を立てたこと、慶長十年に六十八歳で没したことと法名を掲げる。
〔慶長十年四月〕朔日 / 冊子 847頁
近衛信尹が、近所にいながら対面できていないことを残念に思い、祝儀として羅衣二襲を贈った書状。
〔慶長十年〕三月十九日 / 冊子 359頁/原整理番号 12
島津忠恒が、関東への質人として藤次郎の妹を上国させることに礼を述べ、その忠節を認め、領地の件も内々に取り計らうと伝える三月十九日付の書状。
四月二日 / 冊子 11頁
本田氏に伝わる慶長九年・十年の公用出物を、日付ごとに銭・米・石高などの数量で記録した控。慶長九年八月から十年三月までの個別支出と、二年分の銭五貫百九十二匁などの合計を掲げ、石高に応じた負担額も算出している。
年月日未詳 / 冊子 36~37頁
島津常久の公宅警衛の番替と帰国航海を記した記事。十一月四日に川田大膳正、同月二十日に伊集院肥前入道元巣が常久に代わる警衛として上京した。常久は同月二十六日に伏見を発ち、十二月五日に大坂から福島へ、同月八日に伝法から播州室津へ進んだが、逆風のため航海が滞った。同月十九日に筑前唐泊へ繋船して船中で越年し、慶長十一年正月八日未刻に薩摩へ帰着した。
慶長十年乙巳三月廿四日 / 冊子 6~7頁
慶長十年三月二十四日、徳川家康・秀忠父子が伏見へ上洛した際、島津忠恒(家久)の参覲が遅れ、樺山久高が憂慮して奔走したが、到着後は遅参の咎めなく家康・秀忠から厚遇されたことを記す譜記事。その後、忠恒は大御所への御目見と四月二十五日の参内供奉を済ませ、帰国命令を受け難波から船出した。久高も国分・帖佐まで供奉し、堅利で父の樺山紹劍と二年ぶりに再会したのち、鹿児島へ参候した。
(慶長十年)二月廿七日 / 冊子 7頁
文書二十一通、別の文書三十二通、巻物六つを列挙し、慶長十年二月二十七日に町田勝兵衛尉が鹿児島へ持参したことを記した覚書。
慶長十年乙巳卯月二十日 / 冊子 14頁
本出源右衛門親商の家臣である神田藤兵衛が、主人親商の死後、その跡を慕って慶長十年四月二十日に殉死したことを記す記事。
慶長十年九月廿七日 / 冊子 34~35頁
島津義久譜の記事。慶長十年九月二十七日、島津忠恒(太守)が清水岡寺(岳寺)に遊び、車を留めて和歌一首を詠んだことを記す。その後、御歌を拝覧した松堂が、境内と菊花を詠んだ御歌の韻を用い、花亭で七言絶句を賦して唱和した。唱和詩は、山に囲まれた小蓬莱に太守の車が留まったこと、荒れた菊園の野趣と和歌の芳意を詠む。和韻の正文は清水岡寺にあるとの注記を伴う。
慶長十年十一月十一日 / 冊子 40頁
慶長十年十一月十一日に飯野白鳥権現の宝殿一宇を造立した棟札。祭神の本地・垂迹を述べ、大檀那として島津忠恒・義久・義弘を掲げ、座主・木屋奉行・大工・塗師・鍛冶など造営関係者を列記する。
年月日未詳 / 冊子 1頁
慶長十年正月、島津忠恒が年頭の祝儀として徳川家康へ太刀一腰と馬代黄金二枚を使者に託して献上し、本多正純を通じて受納されたことを記す。使者の姓名は伝わらず、豊臣秀頼への使者を務めた町田久幸と同人であった可能性を注記する譜記事。
年月日未詳 / 冊子 7頁
樺山久高が、慶長十年の将軍上洛時に島津忠恒の京都到着が遅れたため奔走したこと、到着後に大御所への御目見が無事済み、四月二十五日の参内供奉にも加わったことを記した自記。忠恒が京都で高い評価を受けて帰国し、久高も鹿児島・国分・帖佐へ供奉したのち、前年以来の労苦を終えて帰郷した経過を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 9頁
徳川秀忠の官位昇進を翌日に控え、島津忠恒が出仕したいものの正式な装束を持参していないため、長袴で出仕しても礼を失わないか山口直友を通じて本多正純へ問い合わせたことを記す譜記事。編年について、付紙や義弘書状を根拠に慶長十年の記事として収めた旨の注記がある。
年月日未詳 / 冊子 13頁
徳川家康が慶長十年四月七日に将軍職を辞して徳川秀忠へ譲り、同月十五日に秀忠が征夷大将軍に任じられ、牛車で参内したことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 22頁
慶長十年七月、児玉実相が島津忠恒の伏見からの帰国に随行したことを記す記事。船中で島津義久の重病を知り、正八幡と霧島神に平癒を祈って、回復後には馬・刀を奉納すると誓願した。
年月日未詳 / 冊子 40~41頁
島津竜伯の詠草。神垣の榊は冬にも青葉を保つという趣を詠み、慶長十年十二月の作と注記される。
永禄9年10月26日、慶長5年9月15日、慶長10年4月20日 / 冊子 21~23頁/原整理番号 7
本田氏十二代兼親の三男・親賢(源二郎、兵部少輔)を祖とし、肥駄隼人介の後嗣となった系統。親豊が肥駄氏を去って本田氏に復したこと、親次が永禄九年十月二十六日に三之山で戦死したことを記す。親商は惟新公の加治木在城時の家老で、関ヶ原退去の際に忠志を尽くし、蒲生地頭を務め、慶長十年四月二十日に没した。ほか、親昌(初名親信、実は比志島源右衛門国家)の慶長五年九月十五日関ヶ原戦死、上井・宇宿・友野・木脇・川畑諸氏との婚姻、養子・早世・法名を収める。
文禄5年12月2日 / 冊子 77頁/原整理番号 17-3
文禄五年十二月二日、伊集院右衛門入道幸侃が松崎采女正へ与えた領知目録。薩摩国伊佐郡大口のうち北柿原村五十石、栗野稲葉崎村九石、曽於郡姫城村一石、合計六十石を記し、このうち五十九石を加増とする。続く経歴記事は、松崎采女正が慶長二年に島津義久の上洛へ供奉して伏見で眼鏡を拝領し、慶長十年の国分移居に伴って国分へ移され、慶長十六年の義久死去時に剃髪して宗泉と号し、同年十一月に鹿児島へ移されたことを記す。
天文六年八月七日~慶長十七年四月二十六日(系譜中主要記事) / 冊子 483~487頁/原整理番号 20
桓武天皇―葛原親王―高望王から貞盛・維衡・正度・忠盛・清盛を経て、小松内大臣重盛の後裔を平田氏諸流へつなぐ庶流系図。平田安房助悦山を加世田龍徳院に葬ったこと、谷山吉幸城主・平田民部少輔宗秀が隅州平松の岩剣合戦で戦死したことを記し、宗貞・宗祐・宗位・宗如らの官途・没年・法名へ続く。宗清は天文六年八月七日に阿多宮崎本地河原で戦死し、宗張は天正十五年三月十五日に豊後坂梨で戦死、平田新七光宗は実父を宗秀とし、慶長十年十二月二十六日に七十七歳で没した。さらに妙谷寺・福昌寺住持となった宗徳、増宗まで続く家老役、宗次の野尻での被討、行宗の筑前航海中の船破損に際する切腹、宗親・宗朋・宗房らの没年と葬地を載せる。村田雅楽頭経宣の三男・宗敏は子のない宗房の猶子となり、九歳で義久の近習、十三歳で家久の幕下に奉仕し、十四歳の慶長四年には伊集院源次郎の庄内一揆に従軍したところまで記す。
五月朔日 / 冊子 224~225頁/原整理番号 162
慶長十年五月一日頃の書状抜書。御馬追を相手の下向まで待つようにとの意向に対し、時期が過ぎるため、まず諸所の馬追を行うよう申し付けると述べる。捕えた駒は数疋を残し、後日相手が鹿児島へ来た際に見せる考えを伝える。
十月十八日 / 冊子 360~362頁/原整理番号 122
島津惟新が陸奥守へ宛てた書状。上洛・登城や江戸への渡海をめぐり、人員と船の手配、使者の伝達、米・物資の確保などを詳しく指示する。慶長十年五月朔日付。
(慶長十年)正月三日 / 冊子 1頁
本多正純が島津忠恒へ、徳川家康に進上した年頭祝儀の太刀一腰と馬代黄金二枚が披露され、首尾よく受納されたので安心するよう伝えた書状。馬代については上意のとおり、奏者番衆が裏判を加えた折紙を添えて送付している。
(慶長十年)正月八日 / 冊子 1頁
昭高院如雪道澄が島津義久へ、新年を祝し、年頭祈祷の護摩を結願して巻数と守りを送った書状。義久の上洛予定を喜び、徳川家康が近日江戸を発ち、徳川秀忠も二月頃に出発して将軍宣下を受ける見込みであることを知らせている。
慶長十年正月十日 / 冊子 1~2頁
薩摩国出水郡知識庄村内の白山神領について、川端の上田一段三畦十八歩を牧助九郎、同所九畦二十四歩のうち上田六畦十四分を染川甚左衛門尉の名請として掲げ、それぞれの石高と合計三石一升を記した知行目録。
(慶長十年)正月十日 / 冊子 2頁
島津義久(龍伯)が樺山権左衛門尉へ、新年を祝い、自身は三月頃の上洛を予定していると伝えた書状。島津義弘(惟新)の身上について何らかの取り沙汰がないかを尋ね、その事情が自らの上京にも関わるため、現地の様子を密かに聞き合わせて詳しく報告するよう求めている。
(慶長十年)正月十日 / 冊子 2頁
島津義弘(惟新)が樺山久高へ、久高が望んだ肩衝について、山口殿の内覧前なので直ちに他所へ出せず、下向時に相談すると回答した書状。在京衆の普請での辛労をねぎらうよう頼み、山口殿宛書状を添えて適任者に太刀を持参させること、詳細は伊勢平左衛門尉が伝えることを述べる。
(慶長十年)正月十一日 / 冊子 2頁
徳川家康が島津義久から音信として唐墨二挺と唐折敷二十枚を贈られたことを喜び、受領の礼を述べた御内書。
(慶長十年)正月十一日 / 冊子 3頁
飛鳥井雅庸が島津義弘へ、新春を祝い、前年冬の書状と緞子五巻の贈答に感謝した書状。義弘が上洛するなら蹴鞠をたびたび催したいと述べ、一軸と元日の自詠を送り、義弘の歌を拝見したいと希望している。
(慶長十年)正月十四日 / 冊子 3~4頁
近衛前久(龍山)が島津義弘へ、東山辺を遊行しているとの風聞を退け、禁裏から古今伝受に関する下問を受けて出京している事情を説明した書状。鷹・馬や鷹狩の話題、薩摩で心安く暮らしたいとの希望を述べ、以前義弘から得た黒犬が死んだため、よく働く犬二疋を所望している。
(慶長十年)二月十三日 / 冊子 4頁
山口直友が島津義弘へ、改年を祝い、太刀一腰と馬一疋の贈答を受けたことに礼を述べた書状。徳川家康への披露と御礼を約し、義弘から依頼された件は大将へ申し入れて実現するよう努めること、上洛後に面会して詳しく相談したいことを伝える。
(慶長十年)二月廿日 / 冊子 5頁
福島正則が島津忠恒へ、前年の使者に会えなかったことを詫び、新年の祝意を伝えた書状。徳川家康が二月十九日に上洛し、徳川秀忠も十八日に江戸を出発したことを知らせ、上方で用向きがあれば遠慮なく申し越すよう述べている。
(慶長十年)二月廿一日 / 冊子 5~6頁
片桐且元が島津忠恒へ、町田久幸を通じて豊臣秀頼へ献上された太刀・馬代銀子・段子を披露し、秀頼が殊に喜んだことを報告した書状。自分にも贈られた太刀と段子への謝意を述べ、徳川家康が翌月十日以前に上洛する予定であることを知らせている。
(慶長十年)二月廿一日 / 冊子 6頁
片桐貞隆が島津忠恒へ、年頭祝儀として豊臣秀頼へ献上された太刀・馬・段子を片桐且元と相談して披露し、秀頼が喜んで町田少兵衛に対面し黒印を渡したことを報告した書状。貞隆自身への太刀・馬・段子の贈答にも謝意を示し、忠恒の上洛後に面会したいと述べる。
(慶長十年)二月廿二日 / 冊子 6頁
山口直友が島津義久(龍伯)へ、新年の祝意を述べ、徳川家康が翌月十日以前に上洛する予定なので安心するよう知らせた書状。前年に比志紀へ事情を申し入れたことに触れ、今年は義久自身が上洛するのが望ましいと勧め、申し入れが少ないことを疎遠のためと思わず、家康・義久との関係は深いと述べている。
(慶長十年)三月五日 / 冊子 7~8頁
本田正親が大井右京亮へ、今回の知行配当では先祖以来の由緒を訴える取次が法度によりできないが、後日適切な時期に申し出れば尽力すると答えた書状。以前、水俣に肥後勢がいた際、大井が黒渡の船などを手配して長島への交通を確保した功績を忘れておらず、将来披露すると約している。
(慶長十年)三月十一日 / 冊子 8頁
本多正純が島津忠恒・島津義弘へ、両名から示された「山敷」に関する内意と一つ書を詳しく承知したと答えた書状。山口直友と相談して徳川家康へ上聞に達しており、さらに上意を得たうえで改めて状況を知らせると述べ、詳細は山口直友と使者の口上に委ねている。
(慶長十年)三月十九日 / 冊子 8頁
島津忠恒が藤次郎へ、妹を関東への質人として上国させた忠節を賞し、その恩賞として阿多のうちに知行地を宛行い、確実に領知するよう命じた書状。
(慶長十年)三月廿六日 / 冊子 9頁
本多正純が山口直友へ、徳川秀忠の官位昇進に伴う島津忠恒の出仕について、正式な装束がなくても長袴で出仕するのがもっともであるとの上意を伝えた書状。
(慶長十年)三月廿七日 / 冊子 9~10頁
島津忠恒(家久)が島津義弘(惟新)へ、安芸国高崎で三原諸右衛門尉に会い、順風に恵まれて予想より早く上洛できそうだと報じた書状。鹿児島の留守中の処置、とりわけ唐船への注意を求め、前年に秋月殿領へ漂着した唐船が江戸で問題となったことを踏まえ、各浦の唐船奉行へ指示を出したと述べる。唐人の訴えは通事だけに任せず書状を取り、大龍寺で老中衆と直接相談して解決するよう命じ、詳しくは三原の口上に委ねている。
(慶長十年)三月廿七日 / 冊子 10頁
飛鳥井雅庸が島津忠恒へ、忠恒から申し入れられた兄弟の契約について、忠恒の特別な執心を受けて認めたことを伝えた書状。弟にとっても名誉ある先例となるので、契約を軽く考えるなら神明に背くことになると述べ、誠意を誓っている。
(慶長十年)三月廿八日 / 冊子 10頁
飛鳥井雅庸が島津忠恒へ、懇書を受け取った礼を述べ、前日の訪問で親しく意見を交わせたことを喜んだ書状。適切な時期に蹴鞠を催すので、忠恒が来訪すれば本望であるとして再会を願っている。
(慶長十年)三月廿七日 / 冊子 10頁
No.30の飛鳥井雅庸書状と同文であるため、本文では省略されている。島津忠恒との兄弟の契約を認め、契約への誠意を神明に誓う内容。
(慶長十年)三月 / 冊子 10~11頁
島津義久(龍伯)が、春に上洛する予定だったが再び病気となり、養生しても効き目がなく延期せざるを得ない事情を述べた書状案。あわせて歌題の読み仮名や題数、季題・無季題の扱いを問い、飛鳥井家の年頭歌会で用いる祝意の題についても注記と教示を求めている。
(慶長十年)四月朔日 / 冊子 11頁
近衛信尹が島津忠恒へ、近くにいながらまだ対面できていないことを残念に思うと伝え、軽少ながら羅衣二襲を当日の祝儀として贈った書状。
(慶長十年)四月三日 / 冊子 12頁
島津義弘(惟新)が東郷藤兵衛尉へ、島津忠恒に供奉して辛労したことをねぎらい、龍伯の意向により肩衝茶入の蓋二つを作らせるので調達を頼むと伝えた書状。茶湯への参加や河野伊右衛門尉の辛労にも触れている。
(慶長十年)四月 / 冊子 12~13頁
島津義久(龍伯)が山口直友へ、上洛を望んでいたが病気と老衰で実現できず、世間から仮病と見られることを深く憂えた書状案。神仏に偽りがないことを誓い、今後は島津忠恒に配慮してほしいこと、自身も徳川家に異心がないことを取り次ぐよう求めている。
(慶長十年)四月十二日・十四日 / 冊子 13~14頁
島津忠恒の上洛に供奉した又吉常久が、四月十二日に海路で摂津大坂へ着き、十四日に忠恒と川舟で淀川を上って伏見へ到着した経過を記す譜記事。忠恒の旅館へ到着を祝ったのち、樺山久高の旅宿へ招かれ、盛膳と酒でもてなされた。
慶長十年卯月十七日 / 冊子 14頁
西洞院時直が島津忠恒へ、使者と見事な唐巻物を贈られたことに感謝した書状。忠恒の疲労を考えて訪問を控えたこと、薬五色を見せたこと、うち『しゅてんとうし』は今はなく秋頃がよいことを伝える。老父の西洞院時慶が上洛した折に、道正を通じて進上することなどを述べている。