田原鎮忠書状
(天正七年)七月十日 / 冊子 638頁
田原鎮忠が町田忠房へ、土持氏旧領の処置や門川に滞在する土持次郎九郎、同地へ送った女中親子について尋ねる。高城で大友方の将兵が戦死し再戦を求める声が強いため豊薩両家の永代静謐が難しくなるとして、島津以久とも相談し和談を調達するよう求めた。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
58 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 2
(天正七年)七月十日 / 冊子 638頁
田原鎮忠が町田忠房へ、土持氏旧領の処置や門川に滞在する土持次郎九郎、同地へ送った女中親子について尋ねる。高城で大友方の将兵が戦死し再戦を求める声が強いため豊薩両家の永代静謐が難しくなるとして、島津以久とも相談し和談を調達するよう求めた。
天正九年十二月十二日 / 冊子 706頁
島津義久が相良忠房へ、芦北着陣時に前非を改めて幕下に属した願いを受け入れたこと、阿蘇家との戦いで粉骨し、父義陽も名誉の戦死を遂げたことを賞した感状。この忠節を永く忘れず、変わらぬ関係を約す。
年月日未詳 / 冊子 802頁
天文十一年、梅岳君貴久が生別府から帰還した後の領内の動向と、喜入忠房の奉公・進退を記す。伊集院方との関係や谷山方面への移動にも触れる。
天正四年三月 日 / 冊子 472頁
大隅国清水内の一か所を田中縫殿助に示した坪付。近衛前久の花押を据え、島津以久家老町田忠房家に伝来した文書である。
天正十年三月十六日 / 冊子 710頁
相良忠房が島津義弘へ、球磨一郡の安堵と以前からの尽力に礼を述べた書状。祝礼として太刀一腰と青黒毛の馬一疋を贈り、今後の厚誼を望み、詳細は南立坊に託す。
天正十年三月二十日 / 冊子 711頁
相良忠房が伊集院忠棟へ、球磨一郡の安堵に礼を述べ、金覆輪の太刀一腰と鹿毛の馬一疋を進上し、詳細は南立坊から伝えるので披露を頼んだ書状。
三月廿日 / 冊子 308~309頁
翌晩の家久の来訪を喜び、本来なら参上して礼を述べるべきところ、まず書状で謝意を伝えた高力忠房書状。
年月日未詳 / 冊子 515頁
島津師久が築いた高江峯城を山田忠房らが守備したが、入来院重門に攻め落とされ、忠房が城内で戦死したことを記す山田氏支流系譜。
三月廿日 / 冊子 52頁
球磨一郡の安堵が認められたことを喜び、以前から島津義弘が尽力した厚情に謝して、祝儀として太刀一腰と青黒毛の馬一疋を贈り、今後も末永い親交を望んだ書状。
年月日未詳 / 冊子 60頁
今川了俊が島津親忠・忠房、渋谷重門らに峰城攻撃を命じた戦役を記す。島津・渋谷勢と高城・東郷勢の交戦、定山公方の築城と籠城、相良氏らの救援・進退を追い、城の争奪を通じて九州探題方と在地諸氏の軍事関係が変化した経過を示す。
年月日未詳 / 冊子 61~62頁
文中元年六月二十三日に渋谷重門が高江峰城で戦死したことと、同じ戦闘で山田式部三郎忠房・宮里三郎太郎・酒勾筑前守らが戦死したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 694頁
相良義陽の人質を受け取った島津義久が、九月二十日に比志島国貞へ水俣城を受け取らせ、籠城衆七百余人を八代方面へ送還した記事。二十六日には義陽が佐敷で津奈木・佐敷・湯浦・日名子・久田美・高田などを献じて謝罪し、息子兄弟を人質とした。長子には島津家の通字を許して忠房と名乗らせ、義陽は阿蘇氏攻撃を申し出た。
天正九年八月十八日~九月二十日 / 冊子 698~699頁
五万三千余騎とする島津軍が八景尾・銭亀尾・熊牟礼・軽石尾などに布陣し、水俣城を昼夜包囲した長文記事。矢文連歌の応酬とその故事を記し、相良義照が水俣・津奈木・湯浦・佐敷・市之瀬を差し出して和議を求めると義久が許し、嫡子に島津家の通字を与えて四郎太郎忠房と名乗らせたとする。
年月日未詳 / 冊子 705~706頁
相良義照の弟大膳亮が上球磨へ侵入して郡中を乱したため、島津忠平がこれを召し戻した記事。八代老衆の要請を受け、義久は八代を島津領とし、相良忠房兄弟を球磨へ移した。忠平が八代領有を辞退した後、平田光宗、次いで伊集院忠棟を地頭とし、花山に新城を築いて木脇刑部左衛門尉を城衆頭に任じた。
天正十年正月 / 冊子 707頁
天正十年正月、島津義久が球磨一郡を相良四郎太郎忠房に安堵して相良家を存続させ、相良氏の旧領のうち残余を島津忠平へ与えた記事。
天正十年正月以後 / 冊子 710~711頁
相良家が弱体化したため、八代老衆が八代を島津領とするよう請願した経緯を記す。義久は義陽戦死後の領地取得を辞退したが、他勢力に奪われれば相良・薩摩双方に害があるとの強請を受け、自八代両城から関・谷山・高塚・豊福までを領し、球磨一郡を忠房に安堵して相良家を存続させ、残る旧領を忠平へ与えた。
天正十一年三月五日~二十六日 / 冊子 751頁
天正十一年三月の島津義久の政務記事。鹿児島で居所を得た南蛮僧を父・貴久以来の禁制により追放させ、八代では秋月・龍造寺の和平、田尻への兵船、八代への移転、大矢野氏の処置、出勢時期を評議した。さらに相良忠房の来訪・献上、八代を守護領として城門・郡郷を諸将へ配分する命令、忠房の起請文提出と饗応を記す。
天正十一年三月 / 冊子 752頁
島津義久が相良忠房へ、神裁をもって示した覚悟と永く忠節を尽くすとの誓約を受け入れ、戦死者の跡を相続した以上、今後も疎略なく連綿と遇すると誓った起請文前書。
天正十一年三月二十六日 / 冊子 753頁
天正十一年三月二十六日、相良四郎太郎忠房が島津義久へ起請文を提出したことを記す譜中記事。
天正十一年三月十七日~五月二十四日 / 冊子 791~799頁
天正十一年三月十七日から五月二十四日までの上井覚兼日記。野村民部少輔殺害事件に関する村田経平らへの内密な処分と弁明、相良忠房の出頭、義久の病気と祈祷、八代の守将選定、日向帰国後の社寺参詣・普請・茶湯・狩猟を詳記する。田尻・有馬からの戦況報告、深江・安徳への援兵、十五町につき一人の軍役賦課も記す。
天正十一年十一月十八日~二十日 / 冊子 800頁
島津義久の病気を重病と恐れた相良忠房が、一万句連歌の興行を立願し、天正十一年十一月十八日に成就した記事。深水宗方が八代の上井覚兼に頼み、懐紙の発句を作らせた。同二十日には北郷忠虎から、内空閑下野守を島津旗下へ誘ったとの報告があり、島津方は途中で再度真偽を確認するよう答えた。
天正十一年五月二十五日~十一月三十日 / 冊子 800~839頁
天正十一年五月二十五日から十一月三十日までの上井覚兼日記。病気療養と社寺祈祷、宮崎・佐土原での普請・狩猟・茶湯・弓会などの日常と並行し、有馬救援の軍役賦課、深江・安徳の戦況、田尻への兵船、八代警固、義久の病気、諸将・使僧との往来を詳記する。秋以降は肥後出陣と八代での評議、合志・阿蘇・隈本・内空閑への対応、相良忠房の連歌祈願などを載せる。
年月日未詳 / 冊子 748~749頁
平山氏の系譜と平山忠房の経歴を記す。忠房は朝鮮で死去した島津久保の遺骸に付き添って帰国し、葬礼後には久保の菩提を弔うため牌を首に掛け、同行十二人と日本六十六州を巡歴した。 長年の回国修行と各地での供養を終えたのち、慶長五年の関ヶ原合戦で戦死したと伝える、家臣の追善活動を具体的に示す系図記事。
年月日未詳 / 冊子 751頁
平山作右衛門忠続が、朝鮮で死去した島津久保の遺骸に付き添って帰国し、葬送を終えたのち忠房と改名して久保の位牌を背負い、日本六十六州を巡った経歴を記す。 同行十二人と各国へ法華経を奉納して菩提を弔ったといい、家臣による大規模な追善巡礼を久保の譜に位置づけた記事。
10月11日忠房/朱注:慶応3年卯 / 冊子 422~423頁/原整理番号 598/整理ID 598
書棚を国製一筥、純子を唐物一筥・百有余年の品と掲げ、今度皇上へ献上し今日滞りなく伝献を済ませたと知らせる。純子の品柄を深く満足し、廻棚付きの書棚も叡慮にかなって早く玉体のそばに置かれ慰みとなったので、その旨を詳しく伝えるよう大典侍局・勾當掌侍局から言われたという。十月十一日忠房の嶋津中将宛書状で、忠房には近衛の注、年に慶応三年卯の朱注があり、包紙にも忠房と宛名を記す。献上と反応は書状の報告として、原単位一筥と百有余年という表示を保持し、現物の真正や年代を独立に保証しない。
「寛永十七年」七月十二日 / 冊子 130~131頁
高力摂津守忠房が島津家の重臣らへ、相良壹岐守家中で起きた騒動を報じた書状。江戸からの使者神瀬外記が犬童孫太郎の旧職復帰を申し渡そうとしたところ、犬童牛兵衛側が使者を捕らえて成敗し、清兵衛屋敷へ一門・与力が走り込んで楯籠ったことを伝える。関係者が薩摩へ逃げ込んだ場合は直ちに捕縛し、相良方へ引き渡すよう求めている。
慶安三年十月十五日 / 冊子 180頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0341
高力忠房が長崎の平穏と、自身の長病・忠庵薬による腹中の回復を伝え、鰹節一箱三百入の贈物に謝す。夏の大雨で破損した居城石垣の修理許可を喜び、当年の大雨・風・虫による領地被害と九州中の損亡、光久領でもとりわけ損害が大きいと聞いたことに触れる。公方の西丸移徙、江戸からの飛脚と両上様の御機嫌も報じる。
(延宝四年)七月廿一日 / 冊子 671頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1690
松平忠房が島津光久へ、光久の息女の縁組が首尾よく仰せ付けられたことを目出度いと祝った書状。
安政6年9月12日死去・9月17日葬;10月15日問病記録・17日香奠 / 冊子 217~218頁/原整理番号 297/整理ID 297
斉興公御譜の記事。安政六年九月十二日に本府玉里館で病歿し、享年六十九、法号明覚亮忍大居士金剛定院殿、十七日に福昌寺へ葬ったと記す。脇に九月十七日を忌日とする注がある。按語は病中の医薬と死後の葬祭を先公の例に従ったとしつつ、その詳細を徴する文献がないと述べ、大慈公以来の大故の礼などの記録不足に触れる。御譜は、家茂が病勢を聞き十月十五日に療養を厚くするよう命じ問病の魚を賜った記録と、死を聞き十七日に松平掃部守忠恕を遣わし香奠銀五十枚を賜った記録を続ける。近衛大納言忠房は親写の心経一巻を霊前へ納め、福昌寺に永く保存させたとする。問病・死聞の叙述と死去葬日は原表記を保持する。
12月(本文年・日不記);外包:安政6年12月18日 / 冊子 223頁/原整理番号 305/整理ID 305
近衛大納言忠房の御書写心経一巻を福昌寺へ渡す申渡書。金剛定院斉興に対する格別な思召により、官家では養方の忌服をしないと聞くものの、別段に定式の忌服を請け、さらに心経を霊前へ供えたと述べる。禁中や公達にもこのような例はないとし、篤い思召による供養として、後年に麁末な取扱にならぬよう格護を命じる。本文十二月、筑後の名。外包は安政六年十二月十八日、御用人から春山弥兵衛へ渡し白木御文書十番箱に収納した記録。
文久元年酉12月11日(目録の拝戴日注);歌の詠作日不記 / 冊子 238頁/原整理番号 333の1/整理ID 333-1
旧御番所御文書一番箱中の、近衛忠房の詠筆懸物「大海も」。祝歌として「大海も風おさまりてなミたゝぬ 此君か代そ久しかるへき」を載せ、忠房と記す。目録注には文久元年酉十二月十一日、主上から忠義公・久光公が拝戴した御文書とある。歌の詠作日と拝戴日注を区別する。
文久2年戌5月11日(口裏朱書注) / 冊子 259頁/原整理番号 356/整理ID 356
玉里へ現書を引き譲った中の近衛忠房の口述。忠左衛門を招いたのは、久光の呼名が和泉で関東老中にも水野和泉守がいるため、差し当たりどうかと思い改名してはどうかと申し入れるためだと述べる。特に三郎と改めればなおよいとして、忠左衛門へ伝達を頼む。署名忠房、本文は日付を記さず口裏の朱書に文久二年戌五月十一日とある。包紙には嶋津和泉宛忠房、白木十番箱百二十七番の表示。改称を勧める発言と改称の完了を分ける。
亥5月12日仰出注(御額・和歌の個別作成年月日不記) / 冊子 298頁/原整理番号 418/整理ID 418
雑集中。正陽・昭徳の御額二面は近衛前関白忠煕の御筆で照国社へ掛けるものと記す。続く従一位忠煕の歌は国を照らす光と人物の誠を後世へ伝える趣旨を詠み、左近衛大将忠房は斉彬の国忠を深く感じて詠んだ歌として、国を照らす志を表す。末注は順聖公の神号を照国大明神と称する旨を亥五月十二日に仰せ出たとする。御額二面と和歌二首、末注の神号指示を別区分にし、歌の「島根」を現代の島根県に置換しない。
天正十二年正月~三月二十九日 / 冊子 847~863頁
天正十二年正月から三月二十九日までの上井覚兼日記。宮崎での年頭行事と病気、鹿児島での吉書・酒宴・連歌・人事評議を経て、肥後出陣に従い佐敷へ赴いた。家久・忠長らの有馬渡海、龍造寺隆信軍の接近と三月二十四日の大勝、隆信首の到来・実検、八代移動、島原での施餓鬼計画までを日次で詳記する。
天正十二年三月九日~二十四日 / 冊子 868~870頁
島津義久が薩摩・大隅・日向の軍勢を率いて三月九日に出陣し、十六日に佐敷へ着陣した。義弘・歳久や相良氏と会合後、家久を大将として豊久・彰久・忠直ら薩摩勢千五百を有馬勢千五百と合流させ、深江・安徳を経て島原へ進軍させた。三月二十四日、龍造寺隆信の大軍を迎え、家久の決死の督励のもと川上忠堅らが隆信を討ち取り、敵首三千余を得た。義久は佐敷で戦勝報告を待った。
(寛永八年)十二月十九日 / 冊子 253頁
江戸から国元への連絡覚書。上洛時の供衆は騎馬二十~三十騎ほどとし、追加の駄乗馬衆を後から召し寄せる準備を指示する。牧野内匠の照会に対し、江戸に詰める夫婦・父子の証人衆と知行高を書き上げた経緯、高力摂津守の所望品、薩州から黄門様・兄弟への年頭の樽と肴、美々津への船配置ができないこと、能の際に縁へ敷く幅広の毛氈の送付を伝える。
正保三年四月二十七日 / 冊子 42頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0074
出水付近へ流れ着いた船について、近辺の浦々・木陰まで探索し、乗員・荷物を保全して通報するよう求めた書状。
正保四年六月二十四日 / 冊子 74頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0145
南蛮の黒船が長崎へ入港したことを知らせ、島津方の船と人数の派遣を求め、交替の要否を含め対応を指示した書状。
正保四年六月二十六日 / 冊子 74頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0146
薩摩守の留守中に黒船が長崎へ入港したため、飛脚で急報し、先例に従って速やかに人数を長崎へ送るよう求めた書状。
正保四年八月三日 / 冊子 84頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0160
長崎へ着岸した南蛮黒船二艘が近く帰帆したいと申し出たため、高力摂津守・日根野織部正・馬場三郎左衛門・山崎権八郎が警戒を指示する。風によって岸近くへ来ても船員を上陸させず、日本人が黒船と通用しないよう、浦々・島々へ厳重に申し付ける。政所長尾左太夫を通じて仰せ出されたという。
正保四年六月二十九日 / 冊子 75頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0148
高力摂津守・日根野織部正・馬場三郎左衛門が松平薩摩守と家老中へ、南蛮国から黒船二艘が御礼のためと称して長崎へ来航し、今のところ異状はないと伝える。ただし人の入込みなどもあり得るため、隣国から人数を少し差し越すよう連絡しており、薩摩側も関係先と相談し、まず近辺での不慮に備えるよう求める。
明治元年戊辰12月5日(添書);回想:文久元年11月9日・11月廿六日・12月11~14日 / 冊子 239頁/原整理番号 333の3/整理ID 333-3
御震筆御製に付した茂久の添書。異国船が各所に来て天下が穏やかでなく帝も悩んでいるため、文久元年十一月九日に中山實善を介し思うところを詳しく申し、近衛忠熈を通して父君の書状も奉奏したと回想する。十一月廿六日には御文を受け、大納言忠房にも対面し、父君の文も承知されたという。なお心配が去らないまま、正親町三條實愛を介して帯刀を奉献し、父君を召して幕府の掟が許せばすぐに召せるとの仰せを聞いたと記す。父君と自分に御歌を下そうとの思召により十二月十一日の夜、中山實善と大納言同席で賜り、翌十二日に都を出て同月十四日に帰着したとする。後世へ長く伝えるため保管する旨を述べる。添書の署名は左近衛少将源朝臣茂久、明治元年戊辰十二月五日。回想中の日付と添書作成日を分ける。
文久2年壬戌9月(追擬の記事) / 冊子 272頁/原整理番号 380/整理ID 380
斉彬の御子を記す御系図の男女八人・女子の表示に続く貞姫の記事。貞君・光蘭、近衛内大臣忠房公の簾中とし、文久二年壬戌九月に斉彬の養女へ追擬したこと、実は久光の義子であるとの文を載せる。本文の養女・義子という関係表示を区別し、実父母や出生年月日を補わない。男女八人の表示から貞姫を第八女とはしない。
元治元年子12月19日桂右衛門/外包:元治2年丑2月朔日 / 冊子 394~395頁/原整理番号 559/整理ID 559
螺鈿太刀一振を、備州國分寺住助國・嘉暦月日の在銘として掲げ、金無垢の十文字御紋・松皮苔の細工、分銅形の鍔、鮫白の柄・菊鋲八ツ、紫革緒と露金具四ツ、目釘、梨子地鳳凰高蒔絵の鞘、紅錦織の袋と箱などを記す。続けて近衛忠熙の詠筆で国を表す懐紙の掛物一幅、近衛忠房の詠筆による「いさをしを」の書き出しの懐紙の掛物一幅を、それぞれの表装・箱とともに列挙する。太刀は照國大明神社へ奉納するので御宝殿で護り、後年紛敷くならぬよう扱うとの元治元年子十二月十九日桂右衛門久武の通知を、井上信濃守宛に付す。外包には元治二年丑二月朔日に護置の旨を仁禮新左衛門が承知して白木御文書十一番箱へ納めたとの注がある。在銘の記録から製作者・制作年の真偽を確定せず、奉納通知と後日の収納注を分ける。
明治2年六月23日知政所/別達六月日不記、願受理6日・祝儀明24日予定 / 冊子 680頁/原整理番号 884/整理ID 884
通達留。寧姫が近衛前左府の養女となる願いが認められたため、一門・大身・任職者は明二十四日に登城して伝事に相付き、原「御両様」に祝儀を述べるよう求める。明治二年己六月廿三日、知政所、外略とする。別の達は、養女願いが去る六日に認められ、寧姫の御順を宰相の次とし、諸書付でもこの通り文字を用いるよう定め、地頭・領主等へ伝える。明治二己六月、知政所。原注は寧姫を斉彬女・忠義後室、前左府を忠房とするが、これを婚姻日には転用しない。願受理・祝儀予定・御順と書付の扱いを区分し、御両様の名、養女の具体手続や祝儀実施完了は補わない。
年月日未詳 / 冊子 398頁/原整理番号 507
『寛明日記』は十二月六日、高力摂津守忠房が遠州浜松三万石から肥前島原四万石へ転封されたと記す。
年月日未詳 / 冊子 398頁/原整理番号 508
『元寛日記』は同六日、高力摂津守忠房が遠州浜松城三万石から肥前島原四万石へ転封されたと記す。
長禄3年8月21日 / 冊子 298~299頁/原整理番号 116
平清盛・重盛・維盛から資盛・清経・有盛・師盛・忠房・宗実らへ分かれる平氏系譜と、宗平・盛平・貞盛・盛行・盛綱、久盛・盛忠・政式・泰盛・盛久・盛在を経て野辺刑部大輔盛仁へ至る系線を示す。盛仁の名の『仁』字は斟酌を要したため、一条殿が改めて『良』字を与え、三位顕卿がその旨を書いたとする改名由緒を付す。長禄三年八月二十一日、野辺刑部大輔盛仁(法名覚柔)が一流系図を加えて披見を終えた旨と一条兼良の花押を載せる。本文書は『家わけ七』野辺文書二号文書と同一文書である可能性が高いとの編者注記がある。
年月日未詳 / 冊子 422頁/原整理番号 167
水俣城を囲んで昼夜攻め、城内の人々を籠中の鳥・網中の魚にたとえる。城の攻防と島津の大軍を見た義照が、籠城衆を救うため和談した。水俣・津奈木・湯浦・佐敷・一野の五ヶ所を譲り、従前の罪を許してほしいと願って和議となった。義照は嫡子佐敷を差し出し、義久が加冠して忠房と名付けた。忠は家久の一字を望んだもので、のち宮内少輔となったと記す。
嘉永七年二月十九日・二十日等(巻の年月による) / 冊子 149~151頁/原整理番号 215の1/整理ID 215-2
印刷「の1~の2」を収める縁組使の記録と問合控。虎寿丸と近衛右大臣忠熙の女子信君の縁組を整えるため、国許から上京して相手方の用人等と掛け合い、二月十九日の勤めに支障がない旨を田尻次兵衛から得たと記す。十八日に大坂を発ち伏見へ着き、十九日に錦御屋敷・竹之間で右府・大納言・信君への時候口上と手扣書を伝え、虎寿丸が当六歳であるとして縁組と御許容を願う。翌二十日には返答書と中川讃岐守の奉札、面会や料理・茶、御太刀等の拝領、用人間の調整を記す。紗綾三巻・真綿五把、右府の色紙五枚、大納言から八丈縞二端の授受も記し、使者の御礼と早い帰参に備え、留守居を通じた相談や諸太夫・用人への酒料金子五千疋を贈ったことを述べる。末尾の「の2」は右府御方との問合書で、使者の勤務状況を江戸へ知らせる控とする。