島津龍伯書状
(慶長七年)八月十日 / 冊子 835頁
島津龍伯が島津忠恒(又八郎)へ、出立の際に贈るつもりで細工屋へ仕立てを命じた長刀が遅れて完成したため、改めて一腰を贈ると伝えた書状。原典には「家久公御譜中」とある。
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(慶長七年)八月十日 / 冊子 835頁
島津龍伯が島津忠恒(又八郎)へ、出立の際に贈るつもりで細工屋へ仕立てを命じた長刀が遅れて完成したため、改めて一腰を贈ると伝えた書状。原典には「家久公御譜中」とある。
八月十日 / 冊子 835頁
島津龍伯が島津忠恒(又八郎)へ、六月以来の病気療養で上洛が延引したことを詫び、養生を尽くして翌月には必ず上洛する覚悟であると述べる。事情説明のため飛脚を差し上せたので披露するよう頼んだ書状。
文禄3年10月28日 / 冊子 822頁
豊臣秀吉は島津忠恒に、以前から五か城に残してある兵糧をそれぞれ新しい米に入れ替え、再び各城に備蓄するよう命じる。 翌年には軍勢を渡海させ、情勢次第では秀吉自身の出動もあり得るとし、油断のない準備を命じた。五か城の米備蓄と翌年の再出兵構想を示す重要な朱印状。
(慶長三年)七月九日 / 冊子 222~223頁
伊集院幸侃が島津忠恒に、石田治部少輔と竜伯から示された軍役人数・兵糧・船・城番の扱いについて申し送った書状。知行高に応じた人数を不足なく出すこと、諸城の守備を維持すること、船不足への対応、薩摩から上せる米や大坂蔵の蔵米を無断で流用せず、自然に減耗した分は調査して補うことなどを指示する。
慶長四年正月九日 / 冊子 347~350頁
五奉行が泗川での戦功に対する新恩として、島津忠恒へ与える知行を村ごとの石高で列記した目録。薩摩国出水郡をはじめ各郡の多数の村、御蔵入分・給人分などを区分して掲げ、五奉行が連署して所領配分の内容を確定する。
(慶長四年)七月九日 / 冊子 400頁
寺沢正成が薩少将(島津忠恒)の側近へ、原文に『ばはん』と記される行為は以前から御法度で、前年春にも奉行衆・年寄衆が触状を出したと伝える。呂宋で『ばはん』をしたとの知らせを受け、内府徳川家康が厳重に糺明して成敗するよう命じたため、到着する唐船を堅く改め、様子を報告するよう求めた。同旨は兵庫殿にも伝えており、兵庫殿からも連絡があるだろうとする。
(慶長五年)二月四日 / 冊子 505~506頁
島津義弘(惟新)が島津忠恒に、北国・奥州などの軍備や兵粮調達の風聞を挙げて備えを促す。庄内処理では山口勘兵衛尉や若衆の主張に流されず慎重に談合すること、知行配分が諸人の不満を招かぬよう注意すること、島津家に尽力する寺沢正成へ竜伯・忠恒から書状を送り連絡を密にすることなどを詳しく諭す。
(慶長五年)八月朔日 / 冊子 561~562頁
毛利輝元・宇喜多秀家が島津忠恒(家久・少将)へ、天下の情勢については古暦から推察すべきであるとし、国中の人数を残らず召し連れて急ぎ上洛するよう求める。玉薬・兵粮は公儀から支給するので、人数のある限り馳走することが肝要であり、詳しくは対面時に述べるとする連署状。
(慶長六年)五月二十三日 / 冊子 761頁
加藤清正が島津忠恒に、徳川家康へ提出した陳謝の処置や境目の衆への指示、水俣申越の停滞を問い、疑念を解いて返答するよう求めた書状。
(慶長七年)正月十九日 / 冊子 804-805頁
本多正信が島津忠恒の書状に答え、前年に鎌田政近へ伝えた内容から事情は変わらないと述べる。内府が正月十九日に上洛し、正純も供奉するため用向きを命じてよいこと、図書頭の件は近日申し入れることを伝えた。
(慶長七年)四月廿五日 / 冊子 810-811頁
昭高院道澄が島津忠恒へ、太刀・銀子の贈答に礼を述べ、都鄙和与の成立を祝う。今後も関東へ働きかけること、惟新らへの書状を託すこと、旅庵の急な下向のため詳述できないことを伝えた書状。
五月一日 / 冊子 814-815頁
山口直友が島津忠恒へ、図書頭忠長が上洛し本多正純と協議していることを伝える。内府が関東へ下向すれば対談が難しくなるため、在洛中に急ぎ上洛して懇談するよう促し、太刀・馬・硫黄・砂糖の進上披露も報じた。
(慶長七年)五月廿二日 / 冊子 817-818頁
福島正則が島津忠恒を迎える書状を送り、上洛があまりに遅いため心配していること、山口直友とも度々話していることを述べ、急いで上洛するよう促した。
(慶長七年)五月七日 / 冊子 818頁
徳川家康が島津忠恒から年頭の祝儀として太刀一腰と馬一疋を受け取り、喜悦の意を示した御内書。
(慶長八年)正月十四日 / 冊子 876頁
飛鳥井雅庸が島津忠恒へ、伏見で諸家の御礼が延引したため今晩に鞠を張行したいと誘い、あわせて燻鰹一顆を進覧すると伝え、対面を期した書状。
(慶長八年)十月晦日 / 冊子 915頁
山口直友が島津忠恒へ、佐土原城を島津以久へ引き渡す決定と、そのため使者を以久に同行させたことを報じる。また又四郎を伏見へ在府させる方針を伝え、早々に上洛させるよう求めた。
(慶長八年)十二月廿日 / 冊子 919頁
山口直友が島津忠恒へ、向島から贈られた蜜柑を受け取り関東へ進上したことを報じ、内地産の蜜柑も献上してよいと喜入摂津守へ伝えたと述べる。徳川家康の鷹狩りと江戸方面の動向に触れ、翌春早々の上洛を待つと伝えた。
(慶長九年)正月晦日 / 冊子 925頁
山口直友が島津忠恒へ、前年に関東へ送った音信と進物が本多父子の取次で徳川家康に披露され、機嫌よく受け取られたと報じる。家康が翌月末ごろ上洛する見込みを伝え、忠恒の上洛と面会を待つと述べた。
(慶長十年)正月三日 / 冊子 1頁
本多正純が島津忠恒へ、徳川家康に進上した年頭祝儀の太刀一腰と馬代黄金二枚が披露され、首尾よく受納されたので安心するよう伝えた書状。馬代については上意のとおり、奏者番衆が裏判を加えた折紙を添えて送付している。
(慶長十年)二月廿日 / 冊子 5頁
福島正則が島津忠恒へ、前年の使者に会えなかったことを詫び、新年の祝意を伝えた書状。徳川家康が二月十九日に上洛し、徳川秀忠も十八日に江戸を出発したことを知らせ、上方で用向きがあれば遠慮なく申し越すよう述べている。
(慶長十年)二月廿一日 / 冊子 5~6頁
片桐且元が島津忠恒へ、町田久幸を通じて豊臣秀頼へ献上された太刀・馬代銀子・段子を披露し、秀頼が殊に喜んだことを報告した書状。自分にも贈られた太刀と段子への謝意を述べ、徳川家康が翌月十日以前に上洛する予定であることを知らせている。
(慶長十年)二月廿一日 / 冊子 6頁
片桐貞隆が島津忠恒へ、年頭祝儀として豊臣秀頼へ献上された太刀・馬・段子を片桐且元と相談して披露し、秀頼が喜んで町田少兵衛に対面し黒印を渡したことを報告した書状。貞隆自身への太刀・馬・段子の贈答にも謝意を示し、忠恒の上洛後に面会したいと述べる。
三月廿三日 / 冊子 8~9頁
島津義久(龍伯)が島津忠恒へ、先に送った犬追物の聞書には不備があるので直して改めて送ると伝えた書状。病状は前日より軽くなったことを知らせ、忠恒の出船は順風なら急ぐよう勧め、前日に命じられた事柄が慰めになるだろうと述べている。
(慶長十年)三月廿七日 / 冊子 10頁
飛鳥井雅庸が島津忠恒へ、忠恒から申し入れられた兄弟の契約について、忠恒の特別な執心を受けて認めたことを伝えた書状。弟にとっても名誉ある先例となるので、契約を軽く考えるなら神明に背くことになると述べ、誠意を誓っている。
(慶長十年)三月廿八日 / 冊子 10頁
飛鳥井雅庸が島津忠恒へ、懇書を受け取った礼を述べ、前日の訪問で親しく意見を交わせたことを喜んだ書状。適切な時期に蹴鞠を催すので、忠恒が来訪すれば本望であるとして再会を願っている。
(慶長十年)三月廿七日 / 冊子 10頁
No.30の飛鳥井雅庸書状と同文であるため、本文では省略されている。島津忠恒との兄弟の契約を認め、契約への誠意を神明に誓う内容。
(慶長十年)四月朔日 / 冊子 11頁
近衛信尹が島津忠恒へ、近くにいながらまだ対面できていないことを残念に思うと伝え、軽少ながら羅衣二襲を当日の祝儀として贈った書状。
慶長十年卯月十七日 / 冊子 14頁
西洞院時直が島津忠恒へ、使者と見事な唐巻物を贈られたことに感謝した書状。忠恒の疲労を考えて訪問を控えたこと、薬五色を見せたこと、うち『しゅてんとうし』は今はなく秋頃がよいことを伝える。老父の西洞院時慶が上洛した折に、道正を通じて進上することなどを述べている。
(慶長十年)四月廿七日 / 冊子 15頁
伊藤左馬頭某が島津忠恒へ、参内供奉を祝い、豊臣秀頼は小さな唐犬の女犬を所持しているが男犬がいないため、忠恒が所持していると聞いた男犬を秀頼へ進上するよう勧めた書状。追伸では、忠恒が唐犬を三、四匹所持すると聞き、他へ遣る予定がなければ自身にも一匹譲ってほしいと求める。
(慶長十年)四月廿八日 / 冊子 15頁
飛鳥井雅庸が島津忠恒へ、忠恒の格別な熱意に応じて、装束等の着用を許可したことを伝えた書状。着用することはとりわけ名誉ある先例になると述べている。
(慶長十年)五月二日 / 冊子 16頁
山口直友が島津忠恒に、在京の大名衆へ上意として仰せ出された条目の写し一通を送って閲覧を求め、今後詳しい沙汰があれば追って報告すると述べた書状。
(慶長十年)五月四日 / 冊子 16~17頁
島津義弘(惟新)が島津忠恒(家久・陸奥守)に、下向の道筋を早急に知らせるよう求めた書状。平左衛門尉からの先月二十日付書状が五月二日に到着し、将軍・右大将への御目見が済み、腰物・脇指に関する拝領もあったことを祝う。船中を急がせた肝煎りにも満足を示し、右大将が下向する際には忠恒らも関東へ供奉するため、ほどなく下向できるだろうと見込む。また、鹿児島をはじめ分国内が無事で、島津義久(龍伯)の病状も悪化していないこと、療養に当たる祐乗坊がまだ到着していないことを伝える。
(慶長十年)五月八日 / 冊子 17頁
徳川秀康が島津忠恒からの書状と太刀一腰・馬一疋・段子十巻・鉄炮などの贈物に礼を述べた書状。病気のため自由が利かず、印判を用いて返書したと付記する。
(慶長十年)五月十四日 / 冊子 18頁
徳川秀忠が島津忠恒から端午の祝儀として帷子・単物十領が届いたことを喜び、詳しくは本多佐渡守正信から伝えるとした御内書。
(慶長十年)五月十八日 / 冊子 18~19頁
山口直友が島津忠恒に、翌日に上様から茶を賜るとの上意を本多正純の書状で知らせ、和久甚兵衛尉に届けさせた書状。あわせて上様から巣鷹の児鷹を賜ったため、それも持参させたと伝える。本文単独では上様の実名は確定しない。
(慶長十年)六月一日 / 冊子 19~20頁
島津惟新(義弘)が陸奥守(島津忠恒)へ、五月五日付書状の到着を報じ、忠恒の御前での仕合を喜び、鹿児島・国分の無事を知らせたうえ、公方の下向に伴う忠恒の帰国を待望した書状。さらに、人質の上洛が準備不調で延期されたものの、六月十一日に出立し、京泊から出船する予定であると伝える。
(慶長十年)六月十九日 / 冊子 20頁
島津竜伯が島津忠恒に、自身の体調と上京の遅延について報じた書状。祐乗法印の養生で気分はやや軽くなったが膝痛と疲労が増したこと、出立を急がせていること、高野山千日籠りの立願に関する事情などを述べる。
(慶長十年)七月十九日 / 冊子 24~25頁
飛鳥井雅胤が島津忠恒に、もっとゆっくり滞在すると思っていたのに急に帰国したため残念であると述べた書状。蹴鞠一巻を整えて進上するとし、当地で用事があれば申し付けるよう伝える。
(慶長十年)七月廿一日 / 冊子 25頁
山口直友が島津忠恒に、前日に和久甚兵衛を遣わしたこと、豊臣秀頼への礼が無事済んだだろうと推察していることを伝えた書状。出船の様子を知りたいが当番中のため書状で問い合わせ、無事の帰国報を待つと述べる。
(慶長十年)七月廿二日 / 冊子 25~26頁
島津惟新が島津忠恒に、下向を喜び、積もる相談事を一庵と協議するよう求めた長文書状。翌年の江戸普請と忠恒の江戸出府、役務・銀子・船の準備、海上の風波などに触れ、上方や領国で必要な用事があれば知らせるよう述べる。
(慶長十年)八月一日 / 冊子 27~28頁
福島正則が島津忠恒に、伏見で暇乞いできなかったことを詫び、馬・太刀・沈香、塩硝三百斤・伽羅五両などの贈答に礼を述べた書状。忠恒の名馬拝領と島津義久の回復を祝い、江戸普請用の石船三百艘や船材木の準備を急ぎ、翌年三月中に上せるよう勧めている。
(慶長十年)八月八日 / 冊子 28~29頁
本多正信(佐渡守)が島津忠恒(羽柴陸奥守)に、当将軍の春の上洛に際して忠恒も上着し、首尾よく務めたことを祝した書状。先に鎌田出雲守と申し合わせた筋目について、双方が相違なく協議を続けることを喜ぶ。江戸御証人衆が当地へ下ることに伴う宿所などの準備について、大久保相模守・土肥大炊頭と相談するよう伝え、本多上野介との懇意に謝して引き続き力添えを求める。太刀一腰・馬代金子一枚の贈答にも礼を述べる。追而書では、伏見滞在中の造作の辛労を気遣い、来年の下向に先立つ諸準備を面談したいとする。
九月三日 / 冊子 30頁
徳川秀忠が島津忠恒の昇進を祝い、使者と太刀一腰・馬代黄金十両が届いたことを喜び、詳しくは本多正信から伝えるとした御内書。
(慶長十年)九月五日 / 冊子 31頁
本多正純が島津忠恒に、重陽の祝儀として大御所へ進上した御服五領を披露し、無事受納されたので安心するよう伝えた書状。大御所の御内書は後日整えて送るとする。
(慶長十年)九月十三日 / 冊子 31頁
徳川秀忠が島津忠恒から重陽の祝儀として小袖五領が届いたことを喜び、詳しくは本多正信から伝えるとした御内書。
(慶長十年)九月十三日 / 冊子 31~32頁
本多正信が島津忠恒に、重陽の祝儀として呉服五領を進上したことを披露し、徳川秀忠の御内書と目録写しを送った書状。自分にも小袖三領が贈られたことへ深く礼を述べ、当地の様子は使者から伝えるとする。
(慶長十年)九月十五日 / 冊子 33頁
山口直友が島津忠恒に、徳川家康が九月十五日に無事関東へ下向し、自身は伏見留守居を務めると伝えた書状。石船の建造を遅らせないよう強く求め、呉国向けの朱印三通を送り、和久甚兵衛の口上をよく聞いて船を遣わすよう依頼する。
慶長十年九月十七日 / 冊子 33~34頁
本多正信が島津忠恒へ、重陽の祝儀として将軍徳川秀忠に呉服五領を進上した件が披露され、秀忠が喜んで御内書を送ったので承知するよう伝えた書状。進上品の目録に正信が裏判して送り、正信自身に贈られた小袖三領(染鹿子・白綾・亀屋嶋)にも礼を述べ、詳しくは使者が伝えるとしている。
(慶長十年)九月廿五日 / 冊子 34頁
大久保忠隣と本多正信が島津忠恒に、領内の五百石積み以上の船は商船も含め残らず上せるよう命じた連署状。大御所が江戸へ到着したことを知らせ、来春の上洛時に詳しく会談すると伝える。
(慶長十年)九月晦日 / 冊子 35頁
板倉勝重と米津親勝が島津忠恒に、先に申し入れた大船献上について江戸年寄衆から再度書状が来たため転送し、領内の商船も調査して同様に上せるよう命じた連署状。