某覚書
年月日未詳 / 冊子 632-633頁
慶長五年九月十四日晩、石田三成ら西軍が大垣城に籠もって家康の上洛を阻もうとしたが、家康本隊が京都方面へ直進するとの報を受けた。城に守備兵を残し、義弘ら西軍は夜中に大垣を発って南宮山麓を通り関ヶ原へ出陣した。終夜の大雨で鎧も手足も凍え、夜明けに火で暖を取った。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 632-633頁
慶長五年九月十四日晩、石田三成ら西軍が大垣城に籠もって家康の上洛を阻もうとしたが、家康本隊が京都方面へ直進するとの報を受けた。城に守備兵を残し、義弘ら西軍は夜中に大垣を発って南宮山麓を通り関ヶ原へ出陣した。終夜の大雨で鎧も手足も凍え、夜明けに火で暖を取った。
第一通知三月19日、第二は辰三月(日不記)、第二は去る3月9日の戦勝を叙述 / 冊子 538~539頁/原整理番号 697/整理ID 697
第一通知は、甲州勝沼駅と武州羽丹生村で賊徒が砲銃をもって要地に拠り官軍に抗したが掃撃され、初戦が軍の気鋒を高め、その事情が天聴に達して満足されたと述べる。因州・土州・薩州・長州・大垣の名書を掲げ、さらに忠誠を尽くして早く平定するよう戦士に伝えることを求める。三月十九日、薩藩下候隊川村與十郎その他兵士への表示があり、羽丹生には羽生の注がある。第二通知は、去る三月九日に武州梁田駅で官軍が勝利し征東初度の戦で諸士が尽力したとして、さらに忠勤を励むよう一同へ伝える。武州には野州カの注があり、辰三月の東山道惣督府参謀の表示で結ぶ。戦況・賊徒の評価と褒賞は各通知の叙述として記す。
三月19日、御感状四通の内の所収一通 / 冊子 546頁/原整理番号 706/整理ID 706
「御感状四通ノ内」として一通を収める。因州・土州・薩州・長州・大垣を掲げ、甲州勝沼駅と武州羽丹生村で賊徒が砲銃をもって要地に拠り官軍に抗したが掃撃され、初戦が軍の気鋒を高めたことが天聴に達して満足されたと述べる。なお忠誠を尽くし早く賊巣を平定して御心を安んじるよう戦士に伝えることを求める。末は三月十九日。戦況・賊徒と褒賞の評価は感状の叙述として記す。
医官派遣通知五月2日、慰労書付は五月(日不記) / 冊子 561~562頁/原整理番号 726/整理ID 726
五月二日、戦闘で負傷し病を患う者の苦痛を慰労する趣旨で、医官前田杏齋と軍曹山縣小太郎を東山道で戦う藩々へ向けて出立させる通知を収める。続く五月の戦士慰労書付は、東山道先鋒の薩州・長州・因州・彦根・土州・大垣と、東海道先鋒の薩州・長州・大村を名書する。慶喜降伏後も抵抗する者があると述べ、小山・宇都宮等の苦戦や進撃、東海道での勇戦を褒め、さらに忠勤を尽くして平定の功を奏し戦士に伝えるよう求める。海軍薩州への書付は総州姉ヶ崎辺の戦闘を記した後、以下前同文として略す。他藩への各通も略し、穗波三位殿が勅使として東海・東山道総督府の本陣へ向かい書付を渡すと末に記す。戦況と褒賞評価は通知の叙述として記す。
出典江城日誌五月6日条、戦闘本月朔日・閏四月28日到着(正文) / 冊子 565~566頁/原整理番号 736/整理ID 736
江城日誌五月六日条から、薩藩池上四郎左衛門の帰府言上の大略を収める。閏四月二十八日に奥州白坂駅(川カ注)まで着き、二十九日の白川城攻撃予定が延期され、本月朔日未明から三方に手配し、五番隊まで黒川村から原街道へ進んだとする。台場を築いて防御する相手へ進撃し各所を崩し、長州・薩州・大垣が城口へ攻め入って多数を討ち首級等を分捕ったと報じる。五六百位という概数も述べ、十分好都合で遺策がなかったとの評価を示し、詳細は本営から届けるとする。自藩の戦死・負傷人名を示す見出しを置くが、その列名は略す。戦況と数量評価は言上の報告として記す。
現地届五月26・18日、転送届はいずれも七月2日 / 冊子 566~567頁/原整理番号 737/整理ID 737
太政官日誌中の薩州藩届写二件を収める。五月二十六日の届は、昨二十五日に二番・四番半隊と大垣・長州各二十人を大田川宿へ探索に出し、仙台側約百人を撃退して再屯集を防ぐため焼き払い、夕七時に白川へ引き取ったと報じる。二番隊東郷助之丞の戦死、四番隊堅山荘八の深手を記し、七月二日に新納嘉藤二が現地からの別紙を転送する。もう一件は五月十八日、島津式部の届で、昨十七日三字頃から大谷地村方面で二番・四番・足軽隊と大垣・土州が攻め、五字過ぎに相手が退き六字過ぎに引き揚げたとする。白川の要所を焼き払い、大谷地村の戦で十五六人位の死骸、ほかの山中の戦で四斤半大砲一挺と弾薬を分捕り、敵千人ほどがいたとの報を記す。浅手の西吉左衛門・美坂彦八、深手の松崎寛次を掲げ、これも七月二日に新納が届ける。戦況・死傷・概数は各届の報告として示す。
七月13日御沙汰書、末七月 / 冊子 588頁/原整理番号 764/整理ID 764
雑録中・鎮台日誌抄の七月十三日沙汰。奥州白川口で戦い死傷した者を深く哀れみ、香花料と保養料として下賜する旨を伝える。但書は死亡・重創の者へ金十両ずつ、薄手負には五両ずつとする。藩別には薩州八百五十五両、長州四百五十両、大垣二百八十両、土州八十両、忍十五両を掲げる。末は七月。金額と対象区分の沙汰として記し、実人数や実支払完了は補わない。
年月日未詳 / 冊子 51頁/原整理番号 71
志布志東下町太兵衛の名字付願書に見える記事。平田藤右衛門宗則が島原へ出陣した際、大垣太郎右衛門も十八歳で旧例により供をしたが、島原落城の報を受けて一行が中途から引き返したため、ともに帰ったという。
書付七月、首尾辰七月6日、外包慶応4辰八月11日保管記 / 冊子 586~587頁/原整理番号 762/整理ID 762
白木御文書十一番箱中四十四番の薩州重役宛書付。積年の王事勤労と当春以来の出兵を褒め、藩主の精忠と重役の朝命奉戴・士気振作が行き届いたと評価し、賜品を与え今後も藩主を輔翼し忠節を尽くすよう求める。七月の書付一通と晒一疋の品目を掲げる。辰七月六日の新納の報告は、重役用務の呼出に代理出頭し、他の九藩も同様に小御所下之間へ召され、四卿列座のもとで書付を読み上げ渡されたと記す。礼は岩倉右衛門督・勘解由小路左中辨を通じ二卿へ述べると承知し、後に太守の承知を得て飛札で礼をする意向を主殿へ伝える。外包は慶応四辰八月十一日に内膳が町田孫大夫へ当座の格護を命じた旨を承知し、白木十一番箱へ納め置くと記す。評価と受渡は各書付・首尾の叙述として示す。
明治元年三月起頭、四月・閏月を経て五月20日までの履歴 / 冊子 549~552頁/原整理番号 708/整理ID 708
「御系図・忠義公」から、明治元年三月から五月までの朝廷勤仕と軍事記事を収める。三月九日の野州築田駅(梁カ注)の戦闘、十四日の国是の誓いと誓文・宸翰写受領、十七日の加州・阿州との京都留守守護を記す。二十日には先の十万石返献願に対し、出兵費が多いので今の分地返献を要せず他日命ずるとの応答を記す。奥羽派遣、寒河江戦、江戸城で慶喜の死罪免・水戸蟄居と兵器軍艦収用を伝えた記事、修理大夫の勤労を褒める四月十四日の伝詔を続ける。薩藩の各小隊・遊撃隊・砲兵等について、宇都宮・岩井・結城・五井・鯨波・白川・上野山内・長岡などの戦況を日付と部隊別に記し、京師警衛への天盃・御末廣・錦織の賞賜も記す。五月二十日の詔は、忠義の従来の功業を褒めつつ東国の残敵を理由に東行・鎮定を命じ、関東では議定職をもって政事を担うとする。忠義の承知、御学問所での侍座、駿馬の叡覧と菓子・包物の賞賜、帰邸で結ぶ。戦況・処分・功業の評価は履歴と引用詔の叙述として記す。
明治元年六月2日起頭、六月・七月の詔・帰国・援兵戦況記事 / 冊子 577~579頁/原整理番号 750/整理ID 750
御系図・忠義公から、明治元年六月二日の東海道探索・裁断委任、五日の軍装参朝・軍列叡覧と賜品を記す。親征を衆議で猶予する宸翰と先鋒への依頼、衣二領・金三万両の賜与を収め、急報により本人を見合わせ兵を仙台近海へ送る指示、八日の帰国率兵海路東行命を続ける。翌九日京都発・十一日大坂乗艦・十五日鹿児島帰着とする。援兵の十二番・私領一二番小隊等が六月十六日に常州平潟へ着いたこと、二十四日棚倉攻略、二十八日の十二番等の泉城方面進撃を部隊別に記す。七月の平潟集合、新庄・庄内方面の四番遊撃隊と長州の戦闘、秋田等の帰順で官軍勢が強まったとの記事、二十四日長岡方面の攻防、二十五日の長岡回復と新発田降伏、二十六日の三春方面進撃、二十九日の長岡・若松方面進出と二本松城攻略を収める。各部隊番号、私領・外城の別を保ち、戦況と地域政治評価は系図の叙述として記す。
八月4日~九月27日、帰還の回顧は十月初旬・6日も含む / 冊子 595~597頁/原整理番号 778/整理ID 778
忠義公の御系図。八月四日の村松城攻略、十日の忠義急上京召命、十一日の村上城攻略を記す。二十日から会津攻撃の軍議・玉井村等への進出を掲げ、二十一日の母成嶺、二十二日の猪苗代、二十三日の若松城攻撃、二十四日の外郭への退兵と持久攻撃を叙述する。羽州方面の戦況も記し、二十八日に忠義が上京の詔を受け、この時に主上東幸中の京都留守・参政・警衛を命じられたとする。同日の米沢藩降伏と上杉斉憲、二十九日の春日艦久保田港到着と庄内攻撃を記す。九月は五日の若松方面応援、十二日の関川寨、十五日の刈和野・十六日の羽州戦闘等、十八日の容保請降と二十二日の父子出降・九番小隊半隊護送を述べる。二十四日の各隊の凱旋を記し、一部の十月六日帰還や十月初旬の動きにも触れる。九月二十七日の庄内藩主酒井忠篤降伏、薩州諸隊の入城と凱旋で終わる。戦果・降伏経過と敵対語は系図側の叙述として示し、他報告との重複集計はしない。
(慶長五年)七月廿九日 / 冊子 557頁
島津義弘(惟新)が少将殿へ、上方の急変はたびたび使者で知らせたが、関東へ下った味方の様子が分からず吉凶の見通しが立たないと報じる。石田治部少輔が伏見に到着し、その書状を同封したこと、人数を早急に差し上せるよう重ねて求める。追而書では、上方の人数不足、秀頼の無事、石田治部少輔の大垣下向と秀頼への目見得の予定も知らせる。
年月日未詳 / 冊子 560~561頁
大重平六の覚書。七月十九日に伏見城攻撃が始まり、八月朔日に落城したのち島津勢が美濃へ向かい、大垣近くの奥窪・六之渡付近に陣した経過を記す。岐阜城陥落と石田勢の敗戦を受け、洲俣の人数をまとめ、新納弥太右衛門・川上久右衛門らが石田治部少輔の馬口を取り、島津豊久らと大垣城へ籠ったこと、家康が赤坂に陣し義弘が大垣に滞留したことを述べる。
(慶長五年)九月七日 / 冊子 574~575頁
島津義弘(惟新)が少将殿へ、美濃大垣城にいること、八月二十三日に敵が岐阜城を落として近江への通路を遮断したが、薩摩勢の迂回により通信が回復したことを報じる。薩摩から二百八十七人が到着したことを知らせ、隣国からの誘いに軽率に応じず龍伯と相談すること、老中二人を差し上せることを求める。さらに大坂の奥方側の主取を吉田美作守に任せ、担当者同士が対立しないよう命じる書状。
年月日未詳 / 冊子 576~581頁
島津義弘(惟新)の関ヶ原合戦譜。九月十三日に大垣城外で石田三成・島津豊久らと軍議し、赤崎丹後の勇名を語ったことから、十四日の赤坂方面の戦闘、夜雨中の関ヶ原移陣、十五日の布陣と鉄砲戦を時系列で記す。西軍敗走後は義弘勢が敵中を突破し、豊久らの戦死を経て伊勢・近江方面へ退き、農家への潜伏、追撃回避、渡海、堺・大坂への帰着を重ねる。道中の戦闘・飢渇・船便の確保、従軍者名を交え、帰国に至る苦難を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 583頁
新納久无は八月中旬に薩州から伏見へ向かう途中、島津義弘(惟新)が石田三成方に加わったと聞き、九月に大垣で義弘へ謁した。十五日の関ヶ原合戦に従軍して多くの家臣を失い、敗走時には伊吹山から近江路を経て京都へ到着した。喜入忠政・川上助七らと平道正庵宗古の宅に潜伏し、近衛信尹の厚意と宝刀を受け、翌年三月に帰国した経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 624頁
山田晏斎が慶長五年九月十一日に出立し、浜之市衆約三十人を伴って十三日に大垣へ着いたことを記す。国元から来た乗馬衆・指物本鉄砲衆・小指物衆について、従来どおりの道具を調え、道中の備えとして参陣した。
年月日未詳 / 冊子 624頁
島津義弘(惟新)・豊久が大垣城外の陣屋にいる際、石田三成が来訪して同席していた。参着した者たちが順に目見えし、赤崎丹後について義弘が国元で武功を立てた者だと紹介すると、石田三成は十分に働いて討死せよと激励した。
年月日未詳 / 冊子 626頁
島津豊久が先行したため、山田晏斎は義弘の所在を探して合流し、わずかな供人数で従った。敗走する味方を追う敵勢の間を抜け、徳川家康本陣が進路へ向いた危険な状況も通過し、駒野へ出た後、大垣城籠城を避けて伊勢路へ向かう方針を定めた。
年月日未詳 / 冊子 627頁
鳥居元忠を攻め滅ぼした後、石田三成は家康の帰還を見越して美濃へ進み、大垣に布陣した。島津義弘(惟新)も陣を置いたが、偵察兵から家康軍が野山を埋める大軍だとの報告を受け、西軍敗北を予測する。十四日夜、大垣に少人数と火縄・竹を残して大軍に見せかけ、関ヶ原へ退いて陣を取った。
年月日未詳 / 冊子 630頁
伏見城落城後、島津義弘(惟新)一行は大津から船で佐和山へ向かったが大風で八幡山に宿泊し、翌日佐和山、続いて垂井を経て大垣へ入った。曽根を先手とし、河渡の守備兵が東軍に破られて大垣へ追い込まれ、岡山にも東軍が陣取ったため、味方が後手にならぬよう関ヶ原へ出て一戦する方針を定めた。
年月日未詳 / 冊子 633頁
九月十四日夜、西軍諸大名が大垣を発って関ヶ原へ向かった。大垣城には福原右馬助をはじめ、相良左兵衛・長井和泉・秋月長門・高橋左近・熊谷内蔵丞の六名を守備として残し、夜のうちに関ヶ原へ到着して陣を取った。
年月日未詳 / 冊子 638頁
九月十四日夜に大垣を発し関ヶ原へ着陣したのち、小早川秀秋勢の横撃で大谷吉継勢が壊滅し、宇喜多秀家・石田三成両陣も崩れた経過を記す。島津義弘(惟新)は押し寄せる敵の中央を突破し、大垣へ戻ろうとしたが本丸の火を見て断念し、南宮山から駒野坂、近江・伊賀・大和・河内・和泉を経て帰国した。
年月日未詳 / 冊子 639-641頁
大垣出陣から関ヶ原の敗戦、島津義弘(惟新)勢の敵中突破と退却を詳述する。義弘勢は約五十人に減り、具足の装飾や馬印を捨てて敵騎馬隊を正面突破し、大垣城の火を見て帰城を断念した。南宮山の長宗我部陣へ伊勢平左衛門を使者として送り、その後は駒野坂・土山・伊勢関・信楽方面を経て退いたこと、後醍院喜兵衛が大黒の向きから伊勢路を進言したことも記す。
年月日未詳 / 冊子 652-654頁
九月十四日の大垣出陣から関ヶ原合戦、島津義弘(惟新)勢の敵中突破と帰国までを詳述する。大谷吉継勢の崩壊後に東軍を切り抜け、大垣の火災を見て伊勢路へ向かい、横山久内が義弘の鎧を着て運んだ。信楽・平野・住吉を経て船に乗り、豊後沖では黒田方の兵船と戦って死傷者を出したが、細島・佐土原などを経て十月二日に帖佐へ帰着した。
年月日未詳 / 冊子 654頁
島津義弘(惟新)の鎧を横山久内が大垣まで着けて運び、その後、京都の愛宕へ祈願のため奉納したことを記す。
〈宝暦四年〉五月十一日~七月二十八日 / 冊子 478~479頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1457
重年が島津備中貴儔の娘との間にもうけた善次郎久方を、亡き兵庫久季の家統を継ぐ者として国元に置いていたところ、参勤に伴って江戸へ連れて行こうとし、老中松平右近将監武元へ相談して了承を得た記事。久方には前年十二月十五日に児服を改め兵庫と号したとの元注があり、重年との続柄について異なる記録があるが、実子であるため善次郎と復称したという注を付す。宝暦四年五月十一日、重年は久方を伴って出国し、家老伊勢兵部貞起・新納内蔵久品、側用人二階堂林左衛門行通・福山平太夫安都・河野安之右衛門通古、近習役迫水善左衛門久芳らが従った。二十四日に豊前大里へ着いて乗船し、六月十九日に播州坂越へ着船した。播磨路を陸行して二十四日に大坂、二十六日に川をさかのぼり二十八日に伏見へ着いた。七月二日に伏見を発って美濃へ向かい、四日に大垣へ泊まった。濃・勢・尾三州で前年から役人が治水に従事しており、台許を受けて五日に大垣を発ち、その場所を巡覧した。郡代青木次郎九郎・代官吉田久左衛門が来て用務を執った。遠州金谷では連雨で大井川が増水し、六日間足止めされた。二十二日に江戸芝邸へ到着し、久方は芝邸東門から入り中奥へ入ったとの元注がある。二十五日に上使西尾隠岐守忠尚が芝邸へ来て参勤を労い、重年は同日老中各邸へ謝礼した。二十八日に登営して家重・家治に拝謁し、先例どおり品物を献上、老中各邸で謝礼し、西城でも謝礼した。随行家老伊勢貞起・新納久品も両公に拝謁し、それぞれ家重へ太刀・銀馬代一枚・紗綾二巻、家治へ太刀・銀馬代一枚を献じた。出典は重年公御譜。
〈宝暦四年〉五月十一日~八月朔日 / 冊子 479頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1458
宝暦四年、重年が久方を伴って江戸へ赴こうとし、あらかじめ老中松平右近将監武元に相談した記事。久方には島津重豪との元注が付く。五月十一日、重年が府城を発ち、久方も従った。久方は府城の虎之間高欄を出て桜門橋を通り、駕に乗ったと注す。九州を経て豊前大里から播州坂越へ航行し、播磨路、大坂、川をさかのぼって城州伏見、美濃路を進み、美濃大垣では前年から重年側の役人が治水に従事する場所を巡覧した。七月二十二日に江戸芝邸へ到着し、芝邸東門から中奥へ入ったとの元注がある。二十七日に読書を始め、川上平右衛門親央を侍読とした。親央には久徳・記録奉行の元注が付く。八月一日に習書を始め、小倉仲之丞知興を相手とし、知興には筆者との元注が付く。出典は重豪公御譜。
文化11年甲戌8月6日生・明治18年5月17日卒(系譜) / 冊子 442頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1377
大信公御子。種姫(シナ)・親姫・善親院と掲げ、文化11年甲戌8月6日生、母は関金蔵有富の女で族籍不詳と注する。戸田左門氏正の夫人で、氏正に濃州大垣城主の注がある。明治18年5月17日卒、法号善親院光譽延壽大姉と記す。重豪女という対応は目録による。出生と卒日・母の父名と不詳の族籍を分け、1378にある高輪出生、文政12年婚姻、天保3年改名を本抄自体の記載として移さない。
文化11年甲戌8月6日生・文政12年2月9日婚・天保3年11月改名(系譜) / 冊子 442頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1378
近秘野抄・重豪公御子女子。種姫(シナ)・親姫(チカ)を掲げ、戸田伊賀守氏正夫人とし、氏正に濃州大垣城主10万石・采女正氏庸嫡子の注がある。文化11年甲戌8月6日に高輪で生まれ、母は関金蔵有富の女とする。下段へ続き、文政12年己丑2月9日に戸田氏へ嫁し、天保3年壬辰11月に親姫へ改名したと記す。上段の人物・出生記事と下段の婚姻・改名を一件に連結する。1377の明治18年卒・法号とは記載の範囲を分け、本書にはない卒日を補わない。
(慶長八年)二月十九日 / 冊子 19頁
秀頼への奉公と関ヶ原前後の大垣出陣・敗走を振り返り、島津家久が上京して公儀と交渉し下向を実現した才覚を、国と家の繁栄の基として称賛した書状。
年月日未詳 / 冊子 314頁/原整理番号 341
『旧伝集』所載の逸話。島原で山鹿越右衛門が高所にいた敵五、六人を一人で突き散らしたが、負傷して鑓下の首を取れずにいたところ、永井信濃守家来の侍が敵を追って首を取り、山鹿へ渡した。後年、山鹿が江戸詰めから下る途中に濃州大垣でその侍と再会し、島原での働きを互いに確認した。さらに後の通行時には侍が山鹿を歓待し、酒を酌み交わして器を贈ったとする。
年月日未詳 / 冊子 153頁/原整理番号 37
佐近・頼安以下の相良氏系図と、清兵衛頼兄・喜平次父子を中心とする家伝。清兵衛は永禄十一年に球磨で生まれ、相良の本姓へ復した。慶長五年、福原右馬助が主取となる濃州大垣城に熊谷内蔵之助・木村宗右衛門・垣見和泉守・相良宮内頼房・高橋右近・秋月長門守らと籠城したが、秋月・高橋・相良は関東方へ赦免時の返忠を申し入れ、城内で五将を討って降参した。この策が清兵衛の謀によるとして徳川家康から感状を受け、近習に取り立てられ、肥後葦北郡を与えるとの申し渡しを辞退した後も御目見・近習同前とされた。球磨城主相良壱岐守の仕置を清兵衛が担った際の専横をめぐり江戸へ召され、清兵衛・喜平次の不仕合の風聞から一揆・内乱が起こり、清兵衛は津軽へ預けられた。頼安の妻を島津中書家久の娘とし、その子喜平次(内蔵丞)は元和三年に加治木へ赴き島津義弘の加冠を受けた。寛永十七年の球磨仕置処分時には薩摩屋敷へ遣わされ、その後公儀の構いを解かれ、薩州の臣として二千石を与えられたと記す。
年月日未詳 / 冊子 508~509頁/原整理番号 24-2
阿智王子から高貴王・春実・種弘へ続く祖系を掲げ、春実に対馬守・太宰大監の官職を注記した高橋氏系図。種弘以下を六つの系統に分け、種賢―種生―種直―種雄の系には長門守および『筑前秋月城へ遷居』、種宗―種春―種信―種恒の系には『大垣城に籠る』と記す。ほかに種幸―種家―種頼―種資、種貞―種高―種顕―種道、種忠―種氏―種照―種朝、種方―清種(或いは文種)―種実―種長の各系を列記する。末尾に本系図が家系書からの抄録である旨を付記する。
宝永七年庚寅三月 / 冊子 516~521頁/原整理番号 90
神戸五兵衛の談話を野村勘兵衛が伝えた覚書。慶長五年九月の大垣城・関ヶ原前後における島津義弘勢の動向と退却、追撃・戦闘、その後の諸事件や家臣の行動を記す。宝永七年三月に赤塚源太左衛門所蔵本から書写した旨と伊地知季安蔵の注記を付す。
年月日未詳 / 冊子 624-625頁
翌十四日、島津義弘(惟新)・豊久らが空き屋敷の材木を利用して梁に足場を設け、上から赤坂方面の陣容を見物した。自軍の人数を確認するため各人に茅一葉ずつ取らせて数えたところ、三百八十人であったと記す。
正応元年(1288)~貞享2年(1685)の記事 / 冊子 390~398頁/原整理番号 4
後醍醐天皇を後宇多天皇の第二皇子として掲げ、護良・成良・恒良・尊良・宗良・懐良ら諸親王、後村上・長慶・後亀山の南朝皇統と諸王・法親王の系線を示す長大な正統系図。懐良親王については征西将軍として肥後菊池氏に迎えられ、菊池武光・武政らと大友・少弐勢を破り、大宰府を約九年間掌握したこと、明の返簡で『日本国王良懐』と記されたこと、今川了俊の九州下向後に退勢となり八代郡小野郷で没したことを詳記する。系図はさらに懐良親王の後裔とされる肥後系へ続き、相良義陽のもとで佐敷・八代方面に軍功を重ねた宗重、佐々成政の肥後統治と国人一揆、島津方への帰属、庄内合戦への出陣、慶長五年の濃州関ヶ原出陣と敗走・帰国などを、首級数・負傷・恩賞・居所とともに記録する。宗恒・頼浜・義信以下の子孫についても、肥後・薩摩での奉公、寺社への安置・葬地、出生・没年・養子関係・役職を貞享年間まで記す。末尾は村里の旧記や家伝、伊地知重英・良政の書中などを参照した旨を述べ、後醍醐天皇・皇后・征西将軍宮の霊牌と懐良親王の花押を臨写して備考とする。
年月日未詳 / 冊子 630-631頁
島津義弘(惟新)は大垣在陣中、石田三成から洲俣渡口の警備を求められ、渡河して一泊した。岐阜城方面の砲声と火災を確認後、石田との談合に少人数で出向くが敵が近く、後続も義弘を追った。黒具足の武者が迫るなか矢野主膳の退避連絡を受け、木脇休作らは舟で洲俣を渡って義弘のもとへ急行した。
年月日未詳 / 冊子 632頁
洲俣対岸の桑木の中が敵で占められるなか、後続の舟が沈んで二人が死亡した。乗馬衆は前日に義弘が竹で示した徒渉線を渡り、押川郷兵衛が対岸を偵察して敵を討ち取る。翌朝、石田三成はこれを大垣での太刀初めの手柄として賞し、大判一枚を与えた。
〈宝暦四年〉七月十七日(主本文) / 冊子 486~487頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1488
伊勢兵部・新納内蔵が七月十七日、義岡相馬・鎌田典膳へ、重年の普請場見分と難場・工費・工期を報告する。重年は四日に大垣へ泊まり、五日に青木・吉田らと挨拶して現場を見分し、八月末の役人引取、九月初めの水行普請着工、年内完成の指示を受けたと記す。難場六か所を挙げ、油嶋新田から松之木間の築留・切り、千九拾間余の蛇籠・堤、無動寺村崩所や大榑川切りの施工・外請を説明し、総入用は概ね十万両とも聞くが、堀割中止と難場への変更、春工事費との差引は相談中で、春の残金三万両余と幕府の一万両給付・追加給付の見込みを伝える。大野鉄兵衛から工法・人数・工費を現場で検討する意向を聞いた一方、見掛けのよい工事や役人の権柄による不勝手を問題とし、人足などの下知は知らないこと、ほかに聞いた事柄は書かず差し控える旨で結ぶ。
正保二年十月四日 / 冊子 240頁/原整理番号 173-10
十月四日付の廻状。沢原野の大垣の修理について急いで相談するよう求める。狼による馬への被害を防ぐため、破損した垣を直し、状況を確認して油断なく対応するよう伝える。