島津竜伯条目
天正17年5月15日 / 冊子 447~448頁
島津義久(龍伯)が島津又七郎(豊久)へ、福島に滞留する秋月殿に関して家中の意見を一致させ、私的な争論を禁じるよう命じた条目。 逃散者の取締り、科人の隠匿禁止、虚説・中傷の相互究明、他方の動静の報告を定め、違反時は諸神の罰を受けると誓わせる。移封後の領内秩序を豊久に担わせた史料である。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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天正17年5月15日 / 冊子 447~448頁
島津義久(龍伯)が島津又七郎(豊久)へ、福島に滞留する秋月殿に関して家中の意見を一致させ、私的な争論を禁じるよう命じた条目。 逃散者の取締り、科人の隠匿禁止、虚説・中傷の相互究明、他方の動静の報告を定め、違反時は諸神の罰を受けると誓わせる。移封後の領内秩序を豊久に担わせた史料である。
(慶長元年)二月九日 / 冊子 8頁
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、浅野弾正少弼の派遣に伴い、船が揃い次第渡海するよう命じた。高麗にある船だけでなく領内各地からも船を集めて名護屋で引き渡し、一艘でも多く確保すること、部隊編成を整えること、兵糧の所持量を偽らず請目に記して供出することを指示し、渡海後の仕置は浅野が伝えるとした朱印状。
(慶長元年)十一月四日 / 冊子 51~52頁
豊臣秀吉が島津豊久(又七郎)へ、在番地に残って勤務を続ける辛労を察し、現地が静謐であるとの報告をもっともとした朱印状。特段の用件はないが使者を派遣し、詳細は追って伝えるとする。
慶長二年二月廿一日 / 冊子 84頁
豊臣秀吉が島津豊久に示した高麗再出勢の法度。先手の行動は加藤清正・小西行長以下が相談して定め、軍勢運用を統制するよう命じる。一般的な出勢規定とは別に、宛所が「嶋津又七郎とのへ」と明記される。
(慶長三年)十二月十六日 / 冊子 152頁
豊臣秀吉が島津豊久(又七郎)へ、従来どおり毛利壱岐守と相談し、一手となって行動するよう命じた朱印状。来春三月に秀吉自身が渡海して成敗・仕置を行う予定なので、それまでは陣所を動かさず、兵粮を城に堅固に備えて渡海を待つよう指示し、詳細は長束正家・木下吉隆から伝えるとする。
(慶長三年)十二月廿七日 / 冊子 153頁
豊臣秀吉が島津豊久(又七郎)へ、歳暮の祝儀として秀吉と北政所に呉服各一重が届いたことを喜び、詳細は長束大蔵大輔正家から伝えるとした礼状形式の朱印状。
(慶長三年)正月十七日 / 冊子 187~188頁
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、明軍が蔚山へ攻め寄せたため後巻として諸将を出動させようとしたが、敵が退いたので派遣に間が生じたと告げた朱印状。受持ちの諸城の普請をいっそう堅固にし、兵粮・玉薬を十分に籠めて不安のないよう備えること、帰朝する者も敵情を確かめ、普請を申し付けたうえで帰ることを命じる。追而書では寒中の労をねぎらい、小袖一領・道服一領を贈った。
年月日未詳 / 冊子 298頁
豊臣氏奉行衆が伊東民部大輔・相良宮内大輔・高橋九郎・秋月三郎・島津又七郎(島津豊久)の九州諸将へ、明軍・番船の出現を受けて藤堂高虎を派遣したことを通知した連署状。敵が在陣中なら船手衆と相談して応戦し、退散後は諸城を釜山浦へ集めて帰朝し、藤堂の指揮に従うよう命じる。
(文禄2年)5月朔日 / 冊子 688頁
豊臣秀吉が島津豊久の長期在陣の辛労をねぎらい、帷子を下賜して今後も精勤するよう命じ、仕置について別書を遣わした朱印状。
文禄2年8月23日 / 冊子 726頁
島津豊久から鹿皮三十枚が届いたことを喜び、遠路からの厚意と長期在番の苦労をねぎらう。 近く帰朝を命じる予定なので、それまでは引き続き在城に励むよう求め、詳細は長束大蔵大輔正家から伝えるとした朱印状。
文禄3年正月16日 / 冊子 761頁
豊臣秀吉が長期在番の辛労をねぎらい、島津豊久へ小袖一重を下賜した朱印状。毛利豊前守・平野新八からも詳細を伝えるとしている。
(慶長三年)八月廿五日 / 冊子 230~231頁
豊臣秀吉が島津豊久に、朝鮮在番の見廻りとして徳永寿昌・宮木豊盛を派遣したことを伝え、長期在番の苦労をねぎらって道服と袷を与えた朱印状。詳しくは奉行衆・年寄衆から申し伝えるとする。
天明三年十月廿二日 / 冊子 706頁/原整理番号 1990/整理ID 1990
島津重豪が島津三十郎の加冠に際し、仮名を又七郎とするよう定めた書出。天明三年卯十月廿二日付、御判。正文は島津主殿にあるとの保管注記を伴う。
(慶長三年)十一月廿五日 / 冊子 297~298頁
豊臣政権の五大老が九州諸将へ、朝鮮に明軍と番船が現れたため藤堂高虎を派遣したと通知する。敵が在陣していれば現地の船手衆が相談して応戦し、報告に応じ九州に待機させた船手・兵員を急派するとする。敵が退散した場合は徳永寿昌・宮木長次への先命どおり諸城を引き払い、釜山浦へ集結して帰朝し、全般を藤堂の指図に従うよう命じる。
〔慶長三年〕十一月廿五日 / 冊子 299頁
豊臣氏奉行衆が九州諸将の陣所へ、明軍・番船の出現を受けて藤堂高虎を派遣したと通知する。敵が在陣中なら船手衆と相談して応戦し、報告に応じ九州から船手・兵員を送るとし、退散後は諸城を釜山浦へ引き取って帰朝するよう命じる。No.595と同じ撤収方針を、島津忠豊ら九州諸将へ伝えた文書である。
年月日未詳 / 冊子 149~150頁
応永元年、今川貞兼が都城方面を攻めたため、島津元久が北郷讃久方を救援した経過を記す国史記事。梶山・三俣・野々美谷・高城などで和田・高木氏らと交戦し、北郷久秀・忠通らが戦死した。伊地知又七郎や山田聖栄の記録も踏まえ、攻略後の城・領地処置までを追う。
天正15年6月10日 / 冊子 341頁
豊臣秀長が、島津中務少輔家久の突然の死を受けた島津又七郎(豊久)へ、生死は世の習いなので分別を失わぬよう慰めた書状。藤堂某を派遣して諸事を相談させ、豊久の覚悟次第で今後取り立てると約しており、父を失った若い豊久の後見と処遇を示す。
天正16年8月4日 / 冊子 406頁
秀吉が島津又七郎(豊久)に対し、日向国内の知行地合計九百七十九町を、別紙目録のとおり領有するよう認めた判物。 九州平定後に豊久の所領を豊臣政権が正式に確定した文書で、前掲No.498の地域別目録と対をなす。
(文禄元年)7月19日 / 冊子 580頁
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、炎天下での朝鮮渡海の辛労をねぎらい、現地での働きについて情勢を見極めて精を入れ、油断なく指揮するよう命じた朱印状。詳しい指示は松井藤九郎と侍中貞右衛門尉から伝えるとしている。文禄元年七月十九日付で、朝鮮出兵中の豊久に対する秀吉の直接命令を示す。
(文禄元年)11月10日 / 冊子 613頁
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、長期在陣と寒天の苦労をねぎらい、小袖二重を与えた朱印状。翌春に自ら渡海して一気に平定すると告げ、それまでは性急な軍事行動を避け、城々を堅固に守り、兵糧を十分に集積するよう命じている。No.989の島津義弘宛と同日付だが、豊久に対しては城郭守備と軽率な出撃の抑制を重点的に指示した点が特徴。
文禄2年11月4日 / 冊子 752頁
豊臣秀吉が嶋津又七郎(島津豊久)へ、朝鮮現地に在番として残り、長く苦労を重ねていることを察するとねぎらい、近頃はいよいよ静謐になったとの報告を喜んだ朱印状。特別な用件はないが使者を派遣し、詳しい指示は追って伝えるとしている。戦況報告や命令だけでなく、長期在陣中の豊久への気遣いが読み取れる短い文書。
文禄2年12月26日 / 冊子 757頁
豊臣秀吉が嶋津又七郎(島津豊久)へ、縫工一人を進上したことを喜び、手配に力を尽くして送り届けた働きを「神妙」と評価した朱印状。詳細は長束大蔵大輔(長束正家)から伝えるとしており、朝鮮出兵期に技術を持つ職人そのものが贈答・人員供給の対象となっていたことを示す珍しい史料。
文禄2年12月27日 / 冊子 757頁
豊臣秀吉が嶋津又七郎(島津豊久)へ、歳暮の祝儀として秀吉用の呉服一重と北政所用の呉服一重が届いたことを喜び、受領を伝えた朱印状。詳しい返答は長束大蔵大輔(長束正家)に託しており、豊久が秀吉夫妻へ同時に歳暮を贈った、豊臣政権下の贈答関係を具体的に示す文書。
文禄3年9月23日 / 冊子 810頁
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、居城の普請をいっそう入念に進め、頑丈に整備するよう命じた朱印状。大明との和議を真の「無事」とは見なさず、九州勢に現地の城々を在番させた上で、再び諸勢を渡海させて「赤国」を攻め、大明が詫びを申し出るまで油断しないよう指示している。No.1381の島津義弘宛と同日・同趣旨で、島津軍の有力者に再出兵方針を並行して伝えたことが分かる。
文禄3年11月17日 / 冊子 828頁
豊臣秀吉が嶋津又七郎(島津豊久)へ、献上された弟鷹一羽が届き、念を入れて運んだため尾羽に損傷がないことを「無類」と高く評価して、格別に喜んだ朱印状。あわせて、寒い時期まで長く在陣している豊久の苦労をねぎらい、詳細は長束大蔵大輔(長束正家)から伝えるとしている。鷹献上の品質評価と在陣慰労が一通に収められた特徴的な史料。
文禄3年12月26日 / 冊子 831頁
豊臣秀吉が嶋津又七郎(島津豊久)へ、歳暮の祝儀として秀吉用の呉服一重と北政所用の一重が届いたことを喜び、受領を伝えた朱印状。詳細は長束大蔵大輔(長束正家)から申し伝えるとしている。前年のNo.1246と同様、豊久が秀吉夫妻へ継続して歳暮を贈っていたことが分かり、豊臣政権下の年中贈答関係を示す文書。
文禄4年正月15日 / 冊子 858頁
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、年頭の祝儀として白鳥一羽が届いたことを喜び、受領の謝意を伝えた朱印状。詳しい返答は長束大蔵大輔(正家)から伝えさせるとしており、文禄四年正月の豊久と秀吉の贈答関係を示す。
文禄4年12月20日 / 冊子 928頁
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、長期の在番と城普請の勤務を評価し、冬季は養生して健康を保つよう気遣った朱印状。大勢の部隊は三分の一、小勢は半数を現地に残し、下々は交代で帰国させて国元の用務に当たらせるよう命じている。さらに、秀吉が北の名護屋まで出馬し、筑前中納言・備前中納言を渡海させる将来構想を告げ、その際の奮戦と翌春の兵糧米輸送を指示する。在陣部隊の交代原則と再出兵計画を同時に示す重要史料。
永正十三年五月廿八日 / 冊子 610頁
永正十三年五月二十八日の犬追物について、各組の射手と射数を列記した手組。
永正十三年六月一日 / 冊子 611頁
永正十三年六月一日の犬追物について、初日一番の射手と射数を列記した手組。
永正十三年六月七日 / 冊子 612頁
永正十三年六月七日の犬追物について、御代初の手組として射手と射数を列記した文書。
(慶長三年)八月廿五日 / 冊子 230頁
豊臣秀吉の朱印状。本文はNo.456の文書と同文のため省略されている。
年月日未詳 / 冊子 285頁
『島津家久譜』の記事。釜山浦の諸将が吉日を選んで一斉に帰朝する約束を結んだ後、島津義弘・忠恒父子は救出した将兵とともに十一月廿一日夜半に巨済を発し、昌原・安骨浦・加徳島を経て釜山へ向かったとする。到着すると諸将は約束を破ってすでに帰国しており、明・朝鮮の大船団を恐れず待っていた島津豊久だけが父子を迎えた。父子は廿四日に釜山浦を出帆した。
(天正16年)7月5日 / 冊子 401頁
「御前帳」に関する使者が到着し、豊久が注意深く対応したことを義弘が評価する。 あわせて諸県地方のことにも引き続き心を配るよう求め、細かな指示は使者に言い含めたと伝えた書状。
天正16年8月5日 / 冊子 406頁
豊久に与えられた日向国内の知行について、都於郡院・三納・佐土原・那賀・広原・新名爪など各地の町数を列挙する目録。 天正十六年八月五日付で、翌行のNo.499判物に関係する所領明細として、豊臣政権下で豊久領が地域別に編成された具体像を示す。
(天正16年)12月19日 / 冊子 424頁
豊臣秀吉が、歳暮の祝儀として島津豊久から小袖一重が届いたことを喜び、受領を伝えた朱印状。 詳しい返答は長束大蔵大輔(正家)から申し伝えるとしており、在京中の豊久と秀吉の贈答関係を示す。
(文禄元年)4月28日 / 冊子 553~554頁
秀吉が島津豊久へ、名護屋に三十日ほど滞在する間に先勢を渡海させ、その後に本隊を進める構想を伝えた朱印状。各自の船を慎奉行とともに名護屋へ差し上げ、兵力をまとめて一方面二万人ほどで高麗へ進み、準備や軍勢の状況を注進するよう命じ、拙速な渡海を戒めている。
文禄2年8月27日 / 冊子 732頁
見舞いの使者を派遣し、朝鮮の現地が静穏であるかを島津豊久へ尋ねる。 長年の在番による苦労をねぎらい、さらに状況を知らせるよう求めた、義弘宛のNo.1187と対になる秀吉朱印状。
年月日未詳 / 冊子 666頁
大永六年十一月七日前後の帖佐方面の戦いで、鎌田政辰や島津安久・又七郎らが戦死した経緯と、邊川方への援軍・戦闘を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 751頁
天文六年、伊集院又七郎忠次らが城攻めで戦死した記事をはじめ、松崎蔵之助、北郷氏家臣、向井友茂、平田宗清らの戦死を月日順に記す。
年月日未詳 / 冊子 153頁
殉国者の記事として、明徳五年二月十七日の北郷忠通と三月七日の北郷久秀の戦死を掲げ、今川貞兼方による梶山城攻撃との関係や異説を注記する。
文明四年二月五日 / 冊子 474~475頁
犬追物の手組として、島津氏一族・蒲生氏・長野氏・伊地知氏・平田氏らを組別に配し、参加者名を列挙したもの。
年月日未詳 / 冊子 299頁
島津家久譜が朝鮮からの帰航経過を記す。十一月二十五日に牧島を出帆し、島津忠豊と同じ航路で対馬の鰐浦・細泊・白賀を経て鴨瀬へ着いたが、逆風により足止めされた。さらに十一月十八日の順天海口・南海島付近の戦闘で戦死・負傷者が出て、帝都へ向かう者と帰国する者について朝鮮で定めた上下の人員編成が大きく欠けたため、島津忠長ら老臣が現地の家屋を借りて協議し、欠員を補充・再編するため鴨瀬浦に滞留したとする。
年月日未詳 / 冊子 300頁
島津義弘譜が、十一月二十五日に牧島を出帆し、島津忠豊とともに対馬の鰐浦・細泊・白賀を経て鴨瀬へ着き、逆風で停船した帰航経過を記す。義弘父子が帝都へ赴く一方で帰国する士卒もおり、十一月十八日の順天海口・南海島付近の戦闘による戦死・負傷で当初の人員編成が大きく欠けたため、島津忠長ら老臣が現地で協議し、欠員を再補充するため鴨瀬浦に滞留したとする。
(天正16年)5月4日 / 冊子 387頁
端午の祝儀として生衣・帷子三領が届いたことを喜び、受領の意を伝える。 秀吉が島津豊久の季節の贈答に応え、詳細は長束大蔵大輔(正家)から申し伝えるとした朱印状。
(文禄2年)2月28日 / 冊子 675頁
在番交代として福島正則を派遣するため、城普請を丈夫に仕上げ、小勢でも籠城できる態勢を整えるよう島津豊久へ命じる。兵粮は春中に追加輸送するとし、長期在番の労をねぎらう。 No.1072と同趣旨だが、宛先が島津義弘ではなく豊久で、年次も文禄二年と記された朱印状。
(文禄2年)5月朔日 / 冊子 688頁
泉又太郎が島津豊久の与力に命じられながら、仮病を装って船に留まり、軍役に加わらなかったことを秀吉が「前代未聞」の違反と断じる。 本来は成敗すべきところ命は助け、知行を没収して小西行長に預けるよう命じた、朝鮮在陣中の軍役忌避に対する具体的な処分状。
(文禄2年)5月3日 / 冊子 691頁
朝鮮在陣の奉公人が勝手に帰国した場合は成敗し、匿う者や処分を妨げる者も報告して厳罰に処すよう島津豊久へ命じる。 No.1113と同趣旨ながら、島津豊久の配下に対して軍紀維持の責任を負わせた宛先違いの朱印状。
(文禄2年)5月3日 / 冊子 691~692頁
朝鮮在陣者の無断帰国を禁じ、違反者と庇護者を厳罰に処すよう島津豊久へ命じた朱印状。 永吉邸蔵本に伝わる同内容の別写であり、同一軍令が複数系統の史料に残されたことを確認できる。
(文禄2年)5月19日 / 冊子 695頁
帰朝使者から在陣地の様子を聞いた秀吉が、島津豊久に家中の番替、知行支配、兵粮の継続確保を命じる。 御蔵米を勝手に消費せず、古米は入れ替えながら帳簿上の員数を守るよう求めた、No.1122と同趣旨の宛先違いの朱印状。