島津貴久感状
応永廿九年八月四日 / 冊子 322頁
島津貴久が、山門退治への出陣と軍忠を賞し、今後も戦功に励むよう西俣出羽守へ命じた感状。
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応永廿九年八月四日 / 冊子 322頁
島津貴久が、山門退治への出陣と軍忠を賞し、今後も戦功に励むよう西俣出羽守へ命じた感状。
天正19年7月晦日 / 冊子 511頁
島津忠辰が町田出羽守へ、前年に安芸法印の使者が下向し、田畠・浦浜の坪付調査を詳しく済ませたと聞いたことを述べる。指出を添えて進上すべきところ、自身の知行分は安芸法印がすでに提出しているため重ねては出せないと説明し、今回の事情は二人の使者から申し上げるとした書状案。検地・指出提出の実務を伝える。
天正20年12月1日 / 冊子 616頁
日州志布志のうち、志布志名の三反二畝余を町田出羽守へ領知させた目録。 島津義久の袖判を伴い、志布志における小規模な知行給付と受給者を明確にする。
(文禄2年)6月26日 / 冊子 711~712頁
島津竜伯が長寿院・町田出羽守・鎌田出雲守へ、鹿児島留守番のうち、奥の管理は納戸衆を中心とし、外城番衆への用件も納戸衆から申し付けるよう指示する。 田代入道は老齢のため夜番から外し、奥向きの女性一人だけに番を負わせないよう求める。川上日向が表方へ出た際は代役二人を選び、備後入道と相談して外城番衆の交替を明確にするなど、城内警固を油断なく整えるよう命じた書状である。
天明四年閏正月十六日 / 冊子 731~732頁/原整理番号 2063/整理ID 2063
公方と大納言が機嫌よく過ごしていることを喜ぶ。宿次奉書により御鷹の鶴を拝領したため、御礼を申し上げる使者として平田平太左衛門位就を江戸へ差し上せ、これに伴って目録どおりの品を献上すると知らせる。天明四年閏正月十六日、島津重豪から水野出羽守へ宛てた書状で、宛所に朱書で「御老中格」と注記する。
四月17日 / 冊子 557頁/原整理番号 719の6/整理ID 719-6
堀田出羽守の謹慎を免じる旨を、四月十七日に伝える。太政官から伝えられた旨の問合が届いたと末に記す。
(天正19年)8月5日 / 冊子 512~513頁
島津義弘が、前年に石田三成・細川幽斎・竜伯らの談合で定められた薩摩・大隅の指出提出が遅れていることを問題視する。村数・屋敷・田畠、家臣の知行、米・大豆などの収納を国枡で明確にし、京へ帳面を提出して軍役人数の基礎とするよう重臣四名へ命じた。遅延や隠田・隠人を厳しく戒め、領国把握と軍役編成を連動させる統治文書。
年月日未詳 / 冊子 47頁
『山田氏系図』が、前掲譲状の虎王丸を山田氏六代久興とし、四郎・右京亮・出羽守、入道名玄威の異名と、延文四年九月廿六日に鹿児島宮地で誕生したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 535頁
町田氏の系図として、町田出羽守高久と左京亮頼本の名および系線を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 27頁
弘治二年正月の日記。朔日に吉田勢が蒲生方面で敵と火矢を射合い、五日に松山口の野へ放火、十一日には新城野頸に来た敵約六十人を吉田衆が追って戦い、出羽守の殿原一人が戦死した。二十九・三十日には吉田足軽が久木瀬口・蒲生面大渡で各一人を討ち、御中間弥八兵衛が高名を立てた。
天正九年八月 / 冊子 695~696頁
天正九年八月の水俣攻めで戦死した島津方将士を掲げる殉国者記事。宮原狩野介景明、切通左馬允、島津出羽守らの名を記す。
天正九年八月上旬 / 冊子 697~698頁
天正九年八月、相良義照の度重なる敵対を理由に島津義久が芦北出兵を決め、義虎を先陣として水俣城へ迫った経緯を記す。城下で出水衆が反撃を受け、島津出羽守・切通左馬允を失うが、義久が三州の大軍を率いて着陣し、相良方の主要将士が籠城した。
年月日未詳 / 冊子 50頁
天正十三年四月二十四日、島津義久は町田出羽守・伊地知伯耆守を使者とし、上井伊勢守・鎌田出雲守・山田新介らを介して忠平へ命令を伝えた。前年春から忠平を義久の名代として八代へ移し、国政裁判を担わせようとしていたが、忠平は固辞を続けていたため、二十六日に重臣五名へ書状を託して再度説得させる。肥後支配を担う人事が、忠平の辞退と家臣団の仲介を経て進められたことが分かる。
(天正19年)10月 / 冊子 518頁
義久譜中に案文として収載された書状。名護屋普請のため舟本へ赴き、順風を待つ間に虫気を発したこと、兵庫頭が不意に上洛して自身の遅参が本意に背くことを述べ、詳細を町田出羽守に託す。本文範囲内に差出人署名・義久の実名はなく、義久比定は収載位置に依存する。
慶長三年二月廿一日~同年夏 / 冊子 173~174頁
『新納忠元勲功記』から、慶長三年二月二十一日に松齢様が久見崎から乗船する際、新納忠元が見送り、大嶋出羽守忠泰を供に付けて二首の別れの歌を贈った記事。同月二十八日に五十余艘で出船し、四月十九日に朝鮮加徳島へ着陣したこと、同年夏に忠元が清敷から飯野の地頭へ替えられて移住したことも記す。
(記事) / 冊子 151頁
入来院八代重長を起点とする一流の系図。重長の法名に関する注記を付し、出羽守・越前守・山城守・左馬助・宮内少輔などへ続く子孫・一族関係を系線で示す。入来院氏の支流と家臣層の系譜を伝える記事である。
年月日未詳 / 冊子 513頁
文明十六年十二月廿二日、敵勢二千余騎が陣へ押し寄せたため合戦となり、伯耆守豊久ら守備側が戦死者を出しながら防ぎ、翌日敵が退散した経過を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 867頁
天文十七年十一月五日夜、伊東勢が飫肥新山城へ忍び寄って火箭を放ち、北郷・豊州方の家臣が戦死者を出しながら防戦したことを記す。
(寛永三年)正月三日 / 冊子 1頁
松平直政が島津家久へ、前日に殿中で面会でき、家久の礼も首尾よく済んだことを喜ぶ書状。前年冬に万千代を伴って登城したため返書が遅れたことを詫び、来る十八日朝の出仕予定を承知したとして、詳しくは面会時に述べると伝える。
明和二年四月十日 / 冊子 81頁/原整理番号 181の51/整理ID 181-51
大目付が四月十日、来る十七日の紅葉山御宮参詣に際して予参を勤めるかどうか知らせるよう、各家の留守居へ廻状を送る。その旨の書付を明後十二日までに稲垣出羽守方へ差し越すよう求める。廻状は順達し、最後の受取人から出羽守方へ返すよう指示する。宛先は「御名」の家に加え、松平出羽守、松平土佐守、有馬中務大輔、上杉大炊頭、松平安芸守で、まとめて右留守居と記す。予参の意向報告と書付の期限、廻状の順達・返却経路を示す。
明和二年四月十二日(目録) / 冊子 83頁/原整理番号 181の62/整理ID 181-62
朱書の「書付一通」として、来る十七日の紅葉山御宮で予参を勤めることに関する書付を示す。宛先は大御目付稲垣出羽守様と記す。目録は四月十二日付の有川真厚首尾書とするが、この箇所には独立した日付・署名や長い報告本文はなく、書付一通の内容と宛先を記録する形で載る。前の予参意向届と書付持参の首尾報告に対応する添付書付として、記されている。
明和二年四月十六日 / 冊子 83~84頁/原整理番号 181の64/整理ID 181-64
朱書の「書付壱通」は、明十七日の紅葉山御宮で予参を行う予定であったが、御暇を賜り、昨日御礼を済ませたため、明日は予参を勤めないと届ける書付の内容を示す。宛先は大御目付稲垣出羽守様。続く首尾報告には、佐久間新左衛門がこれを持参して差し出したところ、出羽守は登城中で、退城の際に申し上げる旨を用人から承ったとある。用人は曾根原新次郎と記す。四月十六日、佐久間は今朝自分が勤めた首尾を左中様へ報告する。添付書付の用件・宛先と、持参時の用人の応答、本人による首尾報告を分けて示す。
天明五年六月二日 / 冊子 812頁/原整理番号 2224/整理ID 2224
重豪は国元への帰国の暇を得たが、体調不良で出発できず、養生しても全快しないため、歩行を試すべく下屋敷へ移ることを願う。六月二日付の願書は留守居本城源七郎から御用番水野出羽守へ提出され、同日呼び出しのうえ、付札で願いの通り許された。
文政5年9月11日内意/9月12日口達注 / 冊子 621~622頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1869
重豪公御譜中・扣の正文在右筆所の所在注を持つ、松平豊後守の書状。榮翁が今回吹上御庭の拝見を許されたことをありがたく思う一方、老年で当時とりわけ歩行が不自由であり、小用も頻繁なので、何かと心配していると述べ、この事情を取り計らってほしいと内々に願う。九月十一日付で、文政五年は朱注。朱注には書面の趣を承り置いたもので口達であると記す。当日、水野出羽守の勝手へ留守居早川千竃を介して内意を申し込んだところ、翌十二日に留守居が呼ばれ、御勝手から水野出羽守の用人の口達で右のとおり伝えられたとの末注を持つ。入力の松平豊後守宛は署名との取り違えとして訂正し、依頼先と取次人を記す。歩行・小用の事情を原文の範囲で保持し、病名、具体的な設備や配慮の実施内容は補わない。
年月日未詳 / 冊子 421頁
『殉国名薮』から、町田家十一世の石谷出羽守高久が伊集院熙久に攻められて妙圓寺前で戦死したことと、村田美河守経近が薩摩出水で戦死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 708~709頁
大島出羽守有久を起点に、忠福・忠明ら大島氏の系譜と、太守忠国に仕えた由緒、所領・戦歴を記す。
天正十二年閏二月十五日 / 冊子 870頁
義弘のため小野出羽守相模坊が志布志の飛龍権現へ参詣して祈願したところ、天狗から一巻を直接授けられたと伝える。日付は天正十二年閏二月十五日。
年月日未詳 / 冊子 50頁
天正十三年四月、島津義久が忠平を守護代に任じ、肥後八代へ移って国政を裁判するよう、島津図書頭忠長・町田出羽守久倍・伊地知伯耆守を通じて命じた記事。忠平は重任に耐えないとして再三辞退したが、義久は受諾を強く求め、忠平は八代へ赴任した。肥後の警衛を絶やさぬため役務を分担させ、田賦を定めたことにも触れ、守護代任命と現地統治の制度化を伝える。
天正19年12月2日 / 冊子 519~520頁
石田三成が島津家に対し、京都に置く人質の番組と交替方法を定めた書状。島津一門や北郷・新納・肝付・種子島・入来院・根占・喜入などの親類・年寄の子を三組に分け、本田下野入道・町田出羽守・平田左近将監も加えて一組四人ずつ在京させる。義久・義弘・久保が在国する場合の補充、交替期限、私的な相談による勝手な交替の禁止まで規定し、豊臣政権下で島津家臣団を組織的に人質管理した実態を示す。
年月日未詳 / 冊子 285頁
町田氏の忠良から直久・成久・高久・庸久らへ続く系図を掲げ、法名・官途・子孫と、応永二十年十二月七日に伊集院頼久軍に従って鹿児島小野で戦死した者などを注記する。
年月日未詳 / 冊子 353~354頁
永享三・四年頃の島津忠国をめぐる動向をまとめた国史記事。廻氏との盟約、阿多某への書状、伊作庄大野などをめぐる阿多方との対立・攻撃を記し、伊作鶴丸、好久、樺山次郎、山田忠尚ら家臣への所領宛行と盟書によって味方を組織した過程を示す。
年月日未詳 / 冊子 369頁
永享七年、島津忠国・好久が伊地知・田代・山田・禰寝諸氏へ各地の所領を給与した国史記事。樺山孝久との盟約では安房君の保護・処遇を託し、秋冬にも諸家との盟書作成と家臣配置を進めた。山田忠尚・禰寝直清らへの具体的な給付を通じ、忠国方が同盟網と奉公体制を整えたことを示す。
年月日未詳 / 冊子 434頁
大島有久の出自と所領を記し、島津久豊の四男で伊集院頼久の娘を母とすること、日向庄内梅北・大隅姫城・帖佐田中門などを領し、長禄三年七月三日の三俣合戦で戦死したことを述べる。
年月日未詳 / 冊子 528頁
文明十七年六月十二日、島津忠昌が鹿島を発して敷根へ着き、翌日末吉、さらに都城方面へ進んだ経過を記す島津氏家譜記事。薩摩守重久・修理亮忠廉・北郷讃岐守ら諸将を率い、伊東方との合戦に臨んだ。鹿児島から日向国境へ至る進軍日程と軍勢編成を示す。
年月日未詳 / 冊子 708頁
享禄三年の諸合戦で、山口重昌・北郷忠眞・井上半左衛門らが戦死し、島津忠明が大口城攻めで戦死したことを月日別に記す。
永禄十一年八月九日 / 冊子 200頁
永禄十一年八月、伊東氏が相良氏と結び桶比良に陣を置いたため、島津義弘が飯野の守備を固めた。皆越六郎左衛門から伊東・相良両氏の加久藤・飯野攻略計画が遠矢下総守へ密告され、島津方は大明司へ虚報を流して対抗した。貴久は長雨のため桶比良攻撃を断念し、義弘は皆越夫妻を河原口で迎えて大川平を与え、九郎の後嗣として左近将監と改名させた。
天明七年二月十八日(年は朱書。朱注の処理日は同月二十七日) / 冊子 946頁/原整理番号 2576/整理ID 2576
同氏上総介が願いによって隠居を許された後も持病がすぐれず登城が難しいため、国元に病状に合う温泉があるので入湯させ、領国の仕置等の助けにもなるよう、およそ一年の暇を与えてほしいと願う。許可されれば三月中に体調次第で当地を発ち、ゆっくり道中を進ませたいとし、快方に向かえば暇の期間内でも参府させたいと申し出る。二月十八日付、松平豊後守の名を記し、島津斉宣の傍注がある。朱注によれば、この書付は同日、御用御頼御先手の土方宇源太を通じて御用番水野出羽守へ提出され、同月二十七日に次の書付が出羽守から直接渡された。
天明六年四月十四日 / 冊子 859頁/原整理番号 2368/整理ID 2368
重豪は、幸橋御門内の自邸西側にある表長屋が当日焼失したため、差控の要否を伺った。留守居の渋谷五郎右衛門が御用番水野忠友へ提出し、差控には及ばない旨が、同夜に御用人五十川武左衛門を通じて口頭で伝えられた。
天明六年四月二十七日 / 冊子 860頁/原整理番号 2373/整理ID 2373
重豪は、二月に参勤時期となったが疝積・気痛が快癒せず、なお出勤できないため、参勤の御礼と献上物を使者に託し、先規どおり家来二人を登城させて献上させてよいか伺う。幕府は使者による献上を認め、前日の届出や家来の献上物の納戸納入方法を指示した。
天明七年正月十八日(年は朱書) / 冊子 921頁/原整理番号 2532/整理ID 2532
持病の疝積に加えて脚痛が近年いっそう堪えがたくなり、療養のため在府し、相州塔ノ沢で入湯したものの効験がなく、引き続き勤めることが難しいと述べる。このため自分の隠居と同氏豊後守への家督継承を願う。事情により由緒ある役目を命じられ、無理を押して勤めてきたが、病状のため思うに任せないとしつつ、国政については病中も補佐する意向を添える。正月十八日付で松平薩摩守から老中四名へ宛てる。
天明七年十月十五日(年は朱書) / 冊子 1002頁/原整理番号 2697/整理ID 2697
公方の機嫌がよいことを喜ぶと述べ、御縁女を近衛右大臣の養女とする願いがそのとおり認められたことを、松平豊後守から聞いてありがたく思うと伝える。この謝意を豊後守からの使札で申し上げている。折を見て御前でも適切に執り成してほしいと依頼して結ぶ。十月十五日付、松平越中守ら六名の老中へ宛てた書状である。
天明七年十月晦日(年は朱書) / 冊子 1003頁/原整理番号 2699/整理ID 2699
翌朔日五時に登城して参府の御礼を申し上げるよう命じられたことを承知したと答える。十月晦日付、松平上総介から松平越中守ら六名への請書である。ここには命令の受領と了解を記し、実際に登城したかどうかは述べていない。
年月日未詳 / 冊子 135~136頁
松平石見守・生駒壱岐守の家中で切腹を命じられた者を列挙した書立。伊木野伊織以下の家臣を、相馬大膳・仙石越前守・丹羽左京・真田伊豆・京極丹後守・松平出羽守・森内記らの預け先ごとに掲げ、切腹者のほか追放・仕置に関わる者も記している。張紙・墨書で『此名書ハ御譜中ナシ』との注記があり、本文135頁から136頁上段まで続く。
「寛永十九年」五月七日 / 冊子 195~196頁
島津光久が無事に参府して将軍への拝謁を済ませたことを述べ、国元の火災と放火の可能性、家老衆による穿鑿の進み具合、若者たちの振る舞い、弾正の養生、出羽守の訴訟の決着などを安芸守へ問い、逐次注進するよう求めた書状。
「寛永十九年」十一月三日 / 冊子 217頁
島津光久が病中の島津弾正大弼へ、寒中のため養生を第一にするよう勧めた書状。町田出羽守との入組をめぐり使者が来た件について、書物に見える申立ては事実ではなく、発端は明らかなので心配は不要だと保証する。帰国時に相談することとし、使者への返答は公儀老中から送られると伝えている。
「寛永十九年」十一月廿一日 / 冊子 217頁
島津光久が島津弾正大弼へ、町田出羽守との入組をめぐる件について再度伝えた書状。弾正大弼の申分は家老衆から聞き届け、こちらで相談した処置の筋は変えないとする。ただし現地でもう一度申断を行うべき事情があるため、光久の帰国時に早々に決着させるとして心得を求めている。
(元禄八年)四月十二日 / 冊子 929頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2522
柳沢保明・松平輝貞が、将軍綱吉の息災を伝え、先頃の出羽守亭への御成りに関する綱貴の書面を承知した旨を知らせた連署書状。
元禄十三年五月九日 / 冊子 216頁/整理ID 737
柳沢出羽守保明・松平右京大夫輝貞が松平修理大夫島津吉貴へ、日光山で大猷院徳川家光の五十回忌法要が首尾よく済んだと承知して吉貴が喜んだ旨をもっともとし、書面の趣旨を了承した連署書状。同件の阿部正武書状にある使者・相談・高聞には触れない。
元禄十三年六月十六日 / 冊子 218頁/整理ID 750
柳沢出羽守保明・松平右京大夫輝貞が松平薩摩守島津綱貴へ、土用中の将軍の機嫌を尋ねた綱貴の書状を披見し、将軍はますます健勝なので安心するよう答え、書面の趣旨を了承した連署書状。
元禄十三年七月十一日 / 冊子 221頁/整理ID 758
柳沢出羽守保明・松平右京大夫輝貞が松平修理大夫島津吉貴へ、厳有院徳川家綱の遠忌法要が首尾よく済み、五月八日に東叡山へ参詣したと吉貴が聞いて喜んだ旨をもっともとし、二通の書面の趣旨を了承した連署書状。