島津義弘感状
文禄4年2月22日 / 冊子 866頁
本田六右衛門尉が神前で示した深い決意を、島津家と義弘父子に対する忠節として高く評価した感状。春日・八幡・天満大自在天神を証人に挙げる。 今後は忠恒に特に心を添えて忠節を尽くすよう頼み、義弘から次代への主従関係を固めようとする内容である。
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文禄4年2月22日 / 冊子 866頁
本田六右衛門尉が神前で示した深い決意を、島津家と義弘父子に対する忠節として高く評価した感状。春日・八幡・天満大自在天神を証人に挙げる。 今後は忠恒に特に心を添えて忠節を尽くすよう頼み、義弘から次代への主従関係を固めようとする内容である。
文禄4年9月3日 / 冊子 910頁
薩摩国河辺郡野崎名の土地について、惣高九百四拾石余の内訳と返地分を示し、京の石田三成との相談どおり本田六右衛門尉へ給与する。 今後加増があれば両名の判断で配分する旨も記した、検地後の知行再編を数量で追える連署証状。
(慶長元年)十一月廿四日 / 冊子 54頁
島津忠恒が本田六右衛門尉・相良新右衛門尉へ、鎌田出雲守(鎌雲)の談合所への出席を控えさせつつ、支配・配当の件は内談を尽くすよう命じた。支配は奉公の実績に基づき衆人のためとなるよう行い、配当衆・使者・筆者を分別して任命し、公儀を軽んじる者が出ないよう両人から各人へ申し聞かせることを求めた書状。
文禄五年十二月廿三日 / 冊子 63頁
島津忠長が本田六右衛門尉に、川辺郡崎村・高橋村・谷山平川村などの土地を、村別の石高を示して充行った領知目録。
十二月廿三日 / 冊子 63頁
島津忠長が本田六右衛門尉に、川辺野崎村・高橋村・谷山平川村・松田渡り村の土地を石高別に充行った領知目録。
十月十日 / 冊子 257~258頁
島津忠恒が十月十日付で本田六右衛門・鎌田出雲・比志島紀伊・山田越前・新納武蔵・平田太郎左衛門・町田出羽入道へ出した書状。本冊では本文がNo.537の文書と同文であるため省略されている。別本に七名の宛名があり、廿二日付の書状とも同案であると注記する。
慶長四年三月七日 / 冊子 356頁
島津忠長が本田六右衛門尉に、川辺宮下村二百八十七石余と柏原内中別府村四百十二石余、合計七百石を宛行う。このうち五百石は加増、二百石は先年の配当時に知行不足のため上地した分の返地とする。
(慶長四年)九月十一日 / 冊子 435頁
島津忠恒が本田六右衛門尉に、長く在京している辛労をねぎらい、奥方のことを引き続き油断なく取り扱うよう求める。庄内情勢はなお変わらず心配だが、兵を出して戦っているので近日中に決着するだろうと述べ、以後も逐次報告するとする。また存松を急いで上らせるので、交替して下向するよう命じる。
八月廿日 / 冊子 566~567頁
島津義弘(惟新)が本田六右衛門尉へ、国境の出水には在国衆を在番させ、家中の統制を保つよう命じる。他国では長宗我部勢が二千の軍役に対して五千、立花勢が千三百に対して四千を率いて参陣したのに、薩摩勢は千人足らずで面目を失うと厳しく指摘する。山水・帖佐の役人から人数が到着しないことを不審とし、秀頼への奉公に必要な軍勢動員を促す書状。
(慶長五年)十月十九日 / 冊子 598-599頁
島津義弘(惟新)が本田六右衛門尉へ、現地で長く辛労していることをねぎらい、島津忠長の出水在番を少将こと島津忠恒(家久)が頼んできたと知らせる。従前の相談どおり本田は持ち場にとどまり、現地の諸事を適切に取り計らうよう求める。
(慶長七年)八月廿四日 / 冊子 841頁
島津惟新が本田六右衛門尉へ、忠恒の出船後に音信がなく案じていたが、三原諸右衛門尉から無事を聞き、二度の大風にも遭わず到着したことを喜ぶ。供奉衆に油断なく奉公させ、忠恒へ伝言するとともに、旅先の様子を詳しく知らせるよう求めた。
(慶長八年)七月□「朔」日 / 冊子 900頁
林次長が本田六右衛門へ、秀頼の祝言が七月二十八日に決まり、忠恒の上洛は将軍から不要とされたと知らせる。忠恒に事情を伝えて上洛を見合わせ、翌春の上洛に備えるよう求めた書状。欠損箇所が多い。
(天正20年)10月 / 冊子 610頁
島津義久(竜伯)が、朝鮮への軍勢・兵糧輸送を優先するため上洛を延期したと伝え、船がないことを理由に渡海を遅らせれば処罰対象になると厳しく警告する。 船を購入してでも、まず千五百人ほどを早急に渡海させ、番衆と兵糧も確実に送るよう命じる。島津領内における兵員・船舶・食糧調達を具体的な人数付きで督促した軍役書状である。
文禄3年4月 / 冊子 779~780頁
忠恒が、野添帯刀の帰朝時に聖門様への祈祷願いを友林斎が奏上し、了承された経過を伝える。聖門様から向庵への書状や取次事項を確実に届け、帰国後は詳しく報告するよう求める。 家中の使者と公家・寺社関係者を介し、祈祷と書状を往復させた上方交渉の実務を示す。
(慶長五年)十一月八日 / 冊子 611頁
島津義弘(惟新)が、肥後方の先勢が水俣まで進出したとの注進を伝え、在番衆・移衆を励ますよう命じる。伊勢平左衛門尉を急ぎ呼び寄せ、境目を相談して整え、不審な地下人から人質を取り、奉公人を募り、敵方使者の内場通行を防ぐよう指示する。
正月十七日 / 冊子 742-743頁
島津義久(龍伯)が年頭を祝し、当地の情勢を尋ねるとともに、上方の金蔵坊へ伝えられた「矢を射る看経」を自らも習いたいとして、参上時に書物を持参し、当地で稽古するよう依頼した書状。
慶長十一年十二月廿四日 / 冊子 102頁
慶長十一年十二月二十四日、入津した南蛮船の生糸について、京都・大坂の商人を呼び寄せ、割付後に残った糸も商人へ売るよう島津家久が命じた判物。価格の相談と売却に油断のないよう両名に指示する。
七月十七日 / 冊子 21頁
箭入用の矢の製作法について尋ねた件への詳しい回答を喜び、当地の普請の進み具合を問い、今後も親密に連絡するよう求めた書状。
八月十九日 / 冊子 21頁
寺院での祈念を急がせ、八畳敷ほどもある巨大な空洞木と上人の健康状態を報告し、又五郎に小さな木二本を求め、材木搬出の労をねぎらった秘密書状。
十月十日 / 冊子 21~22頁
長年の辛労と書状を賞し、伏見で石田治部少輔と家臣らの忠誠を確認した経緯を伝え、大峯祈念の成就と中原坊・般若院の下向予定について述べた書状。
十二月十日 / 冊子 22頁
二官・四官という人物を平戸・名護屋・長崎方面で捜索するよう指示し、朝鮮からの撤収・帰国準備にも油断しないよう命じた書状。
七月十三日 / 冊子 109頁
長期在陣をねぎらい、当初は龍伯に供奉して下国する予定だったが、国元軍勢の配置替えに伴う公儀の指示で義弘一人が先に帰ることとなったので、龍伯に供奉し、在番・普請を油断なく務めるよう命じた書状。
慶長六年カ二月十六日 / 冊子 115~116頁
境目の変化を問い、城北目の守備と城普請を厳命し、怠慢な夫役衆を毎日記録して報告させ、立花左近の使者到着を伝え、調停成立までは領内から夫役を徴発しないよう指示した書状。
慶長六年カ三月廿五日 / 冊子 116頁
出水境目を引き続き厳重に守り、番衆と普請を油断なく勤めさせ、帖佐の伊勢平左衛門尉と熟談して出水・帖佐双方の守備を隔心なく進めるよう求めた書状。
九月十一日 / 冊子 163頁
長期在京の辛労をねぎらい、奥方のため引き続き油断なく尽力するよう求めた。庄内の情勢は変わらず心配だが軍勢を出して働いているので近く決着すると見込み、存松を上京させるため交代して下向するよう命じた書状。
十一月廿四日 / 冊子 164~165頁
奥入りに伴う知行支配について国書頭・鎌田出雲守と熟談し、長年忠勤した者や衆人の利益となるよう配分することを求めた。公儀を軽んずる者には後日申し開きできないと配当担当者へ厳告し、鎌田との内談を重ねるよう命じた書状。
五月五日 / 冊子 167頁
現地の情勢について不穏な報告がなく不審に思っていたところ、念入りな書状が度々届いて事情を把握したと述べた。今後も油断なく奉公し、内意を得るべき事柄は直ちに注進すれば、将来の身上も適切に処置すると伝えた書状。
(慶長六年比カ)八月五日 / 冊子 167~168頁
急用のため三原合人佐を派遣して事情を口上に託し、富隈と帖佐の留守衆へ相談して油断なく対応するよう命じた書状。
慶長七年十月吉日 / 冊子 856頁
大山六右衛門尉が、伝授された十八か条のうち手綱に関する事項を他言せず、直子がある場合に限り一人へ相伝すると誓った起請文。違反時には梵天・帝釈以下の諸神の罰を受けるとする。
(慶長二年)五月十一日 / 冊子 101頁
島津忠恒が、赤国方面の軍役と朱印による人数割当てを受け、家中の人員・馬・兵糧・船を点検して渡海準備を整えるよう三名に命じた書状。海上での遅滞を避け、現地の必要に応じて配分することも指示する。
萬暦廿五(慶長二)年五月廿七日 / 冊子 103頁
中山王尚寧が三名に、これまで音信がなかったものの、朝鮮在番から無事帰朝したと聞いて喜び、今後は親しく交誼を結びたいと伝えた書状。琉球の産物を別紙のとおり贈る。
慶長三年十一月廿三日 / 冊子 288~291頁
石田三成が島津三殿の蔵入支配を総合的に定めた覚書。台所飯米等を除く米の払い出しを止め、旧来の納入実績が低い代官は所領物成を押さえて交代対象とし、納入実績に応じ口米・勘米を与える。人身売買の禁止と売られた者の返還、奉行・代官の職務と算用の徹底、京都借銀の米による返済と借状回収、上様蔵入・浮知・三殿物成の別蔵・封印を命じる。さらに破損船と他国商船の扱い、銭の唐国流出禁止、大豆販売、諸夫割付、用木伐採の許可制まで規定する。
(慶長三年)十一月廿四日 / 冊子 291頁
八十島助左衛門佐が旅庵の来訪に礼を述べ、算用・免合について石田三成へ詳しく申し入れ、条書を送ったので関係者へ伝えるよう依頼する。朝鮮では帰国船出発予定の十・十一日ごろ、小西行長の居城が敵船約五百艘に包囲されたため、島津義弘が播州飾磨の古城を引き払い、十七・十八日に後詰へ向かい、諸将も救援したと報じる。結果は未詳ながら勝利を期待し、続報を約す。
五月廿三日 / 冊子 164頁
奥入りが決定したため兵員・馬を早く渡海させるよう八木民部左衛門尉らに命じ、伊集院忠棟が上洛した場合は三人で事情を聞いて尽力するよう求めた。少しでも油断すれば国家滅亡に至ると強く警告した書状。
五月十一日 / 冊子 164頁
朝鮮在陣の大名へ秀吉朱印状が出され、島津勢の軍役を千人とする命令を受けたため増員を求めた。浜市・帖佐・鹿児島から兵員と馬を集め、七月中に必ず参陣させ、軍勢を整えても遅参すれば無意味なので直ちに出船させるよう三人へ厳命した書状。
天正八年八月十九日 / 冊子 675頁
肥後合志合戦で伊集院久治が大津源左衛門尉を討った際、その弟六右衛門が駆けつけて久治を危地に陥れたが、伊集院新介が六右衛門を討ち久治を救ったという記事。新納忠元・島津忠長がその働きを上聞に達し、別紙で褒美を与えた。
天正八年八月二十二日 / 冊子 675頁
島津忠長・新納忠元が伊集院新介へ、肥後合志で伊集院久治と大津源左衛門尉が戦い、大勢の敵を追い払ったうえ、襲いかかった大津六右衛門尉を新介が討って久治の命を救ったことを賞する。上聞に達して別紙の褒美が出されたと伝えた連署状。
年月日未詳 / 冊子 811~812頁
九月二十五日夜、箕刈治部右衛門尉が朝鮮から忠恒のもとへ帰参したと記す。箕刈は同月二日に名護屋から朝鮮へ渡っており、義弘は島丸六右衛門尉を使者に立て、忠恒の到着を祝った。 さらに迎え船二艘を与え、白浜次郎五郎がその一艘に乗って来着したことも記す。忠恒の朝鮮渡海を前に、父義弘との連絡・迎船・使者の往来が整えられた経過を示す家譜記事。
文禄4年6月10日 / 冊子 889頁
根占重虎は、本田六右衛門尉に一件の筋目を託したので、相違なく取り計らうよう鎌田政近へ依頼する。 根占家への厚い配慮に礼を述べ、久四郎の件も申し請けたいとして、今後も変わらぬ取り成しを重ねて求める。
年月日未詳 / 冊子 374頁
島津家久が暇を賜って帰国するにあたり、本田六右衛門尉を大坂城へ使者として立てたことを記す。出船後に帰国の旨が秀頼へ伝えられると、秀頼は大いに喜び、さらに駿馬と鯨毛を贈ったとし、委細は続く義弘の書状に記されるとする。
(慶長四年)四月十四日 / 冊子 374頁
島津義弘が忠恒に、秀頼から拝領した馬が見事であると祝う。相良新右衛門尉から龍伯の意向と国元の様子を聞き、庄内問題が未解決で忠真の弟らもなお兄に加担していると伝える。また本田六右衛門尉の大坂派遣に際し、秀頼が忠恒へ特に念を入れて月毛の馬を与えたため、追って送ると知らせる。
(慶長四年) / 冊子 380~381頁
島津義弘の覚書で、内府から借りた黄金二百枚による借銀利分の返済と国元での本銀皆済、出水移衆への支配、金子百枚の返弁を記す。さらに渡唐の仕立て、納戸の品と船荷の売却奉行、南林寺・日新寺・雪窓院への年頭礼、太田六右衛門尉と前田新三の知行、路地の植栽や『源氏』一部の進上など、具体的な処置を列挙する。
(慶長四年)八月廿六日 / 冊子 430~431頁
島津義弘が少将島津忠恒に、自身の長期在京を見越して国元の財政・算用体制を固めるよう求める。金銀米銭の管理には計算能力だけでなく誠実さが必要で、近年は役人の不適切な処理により大きな損失が生じたと指摘する。帖佐にも適任者がいないため、本田六右衛門尉を一時自分のもとへ異動させて役人に充てたいと内密に相談し、忠恒から直接命じてほしいと頼む。
(慶長四年)九月三日 / 冊子 433頁
島津義弘が少将島津忠恒に、その身を心配して本田六右衛門尉とも相談し、愛宕へ大百味を奉納したと伝える。ほかの立願や祈念も怠っておらず、忠恒にも今こそ精いっぱい信心するよう促し、詳しい用件は使者二人に申し含めたとする。
(慶長五年)二月十四日 / 冊子 512~513頁
島津義弘(惟新)が島津忠恒に、庄内の談合や若者を京都へ上らせ内府に奉公させる件、京都へ戻った本田六右衛門尉らの動向を報じる。北原・堀を庄内へ派遣し、山口勘兵衛尉や奉行衆の処置に疑念を示しつつ、伊東祐兵とも相談して慎重に対応するよう求める。
(慶長五年)八月十九日 / 冊子 565~566頁
島津義弘(惟新)が少将殿へ、徳川家康から預かった鷹を返し、帖佐衆を他所の人数に遅れず急ぎ上洛させるよう伊勢平左衛門・本田六右衛門に督促させることを求める。七月二十九日付書状を垂井で受け、龍伯の上洛は今は不要とし、従来の動員要請に明確な返事がなく一人も差し上せられないことを厳しく問いただす。秀頼と家のため命を捨てる覚悟で美濃に在陣し、伏見戦の損害で人手が乏しく、東国勢が清洲へ到着して戦闘が迫るため、身分を問わず帖佐衆を上らせるよう重ねて命じる書状。
年月日未詳 / 冊子 587~588頁
船着の知らせを受けて安堵したことを述べ、弥六右衛門が下ったかを尋ねる。今回の神変は自分一人の働きではなく、先に死んだ者たちの心によるものだとして、一同が心を合わせるよう求める。左衛門尉らの同行にも触れるが、仮名書きのため一部の語句は判読困難である。
(慶長六年)八月廿六日 / 冊子 779頁
島津惟新が、肥後勢の芦北進出との風聞を受けて本田六右衛門らを派遣し、忠恒のため祈念札を用意したことを伝える。芦北・出水や日向方面の風聞について、現地の様子を詳しく報告するよう求めた。
七月六日 / 冊子 823頁
島津義弘が忠恒へ、寺沢志摩守への使者が阿久根境の西方という場所に留め置かれていると、本田六右衛門尉から報告があったことを伝える。事情を確認し、舟を手配して対応するよう求めた書状。
(慶長八年)五月廿六日 / 冊子 895頁
昭高院如雪が本田六右衛門親政の伏見での働きと無事帰国を祝い、忠恒の来秋上洛を待つ。先に贈られた茶壺が宇治で称賛されたことを述べ、祈祷の巻数・扇箱を送り、花種の提供も頼んだ。