橋口與一郎の参政任命を関係先と佐土原・中山王へ周知する
正月(日不記)知政所(年は目録明治3年) / 冊子 733頁/原整理番号 953の1/整理ID 952-1
通達留。橋口與一郎を参政とした旨を関係先へ伝え、原「御裏其外様」に申し上げ、佐土原へ知らせ中山王も承知するよう、裏役頭・佐土原假屋守・琉球館聞役へ伝達を命じる。末正月知政所、年は目録明治三年。役職・本人と伝達経路を区分し、官等・給与・具体就任日や周知完了は補わない。Aを原印字・目録953の1へ訂正し、旧ID952-1と行を保持する。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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正月(日不記)知政所(年は目録明治3年) / 冊子 733頁/原整理番号 953の1/整理ID 952-1
通達留。橋口與一郎を参政とした旨を関係先へ伝え、原「御裏其外様」に申し上げ、佐土原へ知らせ中山王も承知するよう、裏役頭・佐土原假屋守・琉球館聞役へ伝達を命じる。末正月知政所、年は目録明治三年。役職・本人と伝達経路を区分し、官等・給与・具体就任日や周知完了は補わない。Aを原印字・目録953の1へ訂正し、旧ID952-1と行を保持する。
年月日未詳 / 冊子 882-883頁
樺山紹剣の自記。京都で越年した忠恒の慶長八年二月の帰国を祝い、前年からの山口直友との取次、鎌田政近らの動き、佐土原通過をめぐる交渉と龍伯の裁定により事態が収まった経緯を記す。
十月十三日 / 冊子 299~300頁
十月十三日、山口直友が河上六郎兵衛に、佐土原をめぐる訴訟は本多上野介らの取り成しでほぼ決着し、翌春に右馬頭が領地を受け取る予定だと報じた書状。それまで在城衆と地下人の争いを防ぎ、又四郎に治安維持を命じるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 763頁
元和七年正月十四日に島津家久の江戸屋敷で火災が起き、家久が佐土原島津家の屋敷へ移った際に忠朗も従い、将軍家から忠朗へ褒衣十領・道服三領が贈られたことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 123頁
高知尾へ派遣された宮崎衆の田中筑前が帰還し、入田氏の薩摩方帰属は確実だと報告した島津義久譜の記事。これを受け、十一月二十四日に豊後方と対峙し、梅口・佐伯口から同時に薩摩軍を進発させる計画を記す。入田氏の帰属判断が豊後方面への二正面作戦へ直結したことが分かる。
三月十八日 / 冊子 173頁
長倉祐省ら四名が、以前から願い出られていた梁瀬屋敷の件を披露し、早々に移って奉公するようとの意向を伝えた連署書状。小原の百姓に関する訴えや質・免・貢免、舎弟の奉公、新恩としての扶持についても経緯を記し、後日のため詳細を書き付ける。
辰六月(日不記)、来る24日引越予定 / 冊子 582頁/原整理番号 754/整理ID 754
典姫と嶋津備後の縁組を命じ、来る二十四日に引越す予定なので、その日からお典殿と呼び、諸書付にもこの文字を用いるよう伝える。内用頼御用人を通じ向々に知らせ、大奥等と二丸御子様には広敷御用人・附小納戸から伝え、中山王にも承知させ佐土原仮屋守にも伝達するよう求める。辰六月、龍衛の署。縁組の命と引越予定・呼称の指定として記す。
明治3年2月/同月15日(第一通知は日不記) / 冊子 741~742頁/原整理番号 962の1/整理ID 962-1
通達留の三通知を収める。第一は従四位様・寧姫様の婚姻が来る十五日に整う予定であると、関係向々へ通達する。第二は寧姫様の婚姻が今十五日に済んだため、嶋津珍彦殿一列と二等官以上は翌々十七日四ツ時に登城し、従四位様・従三位様へ祝儀を申し上げるよう伝える。外略とあり、この通知の朱記は明治三午二月十五日。第三は婚姻当日から寧姫様を御前様と称し、誕生日を御祝日の休日として定める。御正日は十月晦日、小月は廿九日とする。中山王にも知らせるため琉球館聞役へ、佐土原には假屋守へ、諸島にも生産奉行を通じて伝達する。第三は明治三年二月知政所。
年月日未詳 / 冊子 748頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1970
佐土原藩で家老松木左門が藩政を専断して家中の対立と財政難を招いたため、家臣らが薩摩の国老へ訴え、江戸の島津光久が左門の召喚・処置、後任配置、関係者への賞罰などを命じた騒動記事。
明和六年七月(日無記載) / 冊子 219頁/原整理番号 574/整理ID 574
同年初秋七月、日州佐土原城主島津淡路守久柄の胞弟大和が新しく家を立てようとして、島津の称号・諱名・家紋を願い、重豪が許したことを記す。あわせて庶子の称号・諱名なども定め、その詳細を以下に載せるとする。大和は本文では久柄の胞弟と記され、許可内容の具体的な家格・座席・諱字・紋所は後続文書で示される。
軍令慶応4辰五月16日、薩摩藩届も五月16日(去る朔日の戦を報告) / 冊子 565頁/原整理番号 735/整理ID 735
慶応四年辰五月十六日の軍令として、薩州・長州・因州・佐土原に府内の潜伏する残賊を警戒して市街を巡邏するよう命じる。みだりな捕縛・打捨を禁じ、見つけた場合は取締って申し出れば指揮する旨を伝える。人数は五十員から二十員までとし、それ以下の少人数を禁じる。続く五月十六日の薩摩藩届は、去る朔日の白川城攻略で討ち取った敵兵死骸を順次調べたところ合計六百八十二人になったと、現地出張の同藩からの報に基づいて届ける。人数と戦果は届書の報告として記す。
六月廿九日 / 冊子 378頁/原整理番号 132-2
曽木権之助の書付。佐土原用人の町田弥次右衛門に頼み、前掲の勝久関係の記録を当地の寺社方から写し取った経緯を記す。寛政八年二月付。
慶応3年卯11月9日、太守発駕前に佐土原侯から差上写の注 / 冊子 424~425頁/原整理番号 601の2/整理ID 601-1
祖宗以来の高恩に報いたいとして、幕府が従来の失態を悔い政権を朝廷へ返すのは国体一新の基を開く幸であり、中将の忠誠と尽力を称え、太守も早く上京してほしいと願う建言写。王制復古の公議は万代の基礎となるので、和漢古今の明君・儒師などの道理を考え、古典を通じ才能ある者を用い、諸藩の応接や広い善言を聞いて政務を至公に行うよう求める。君臣の善言採用と国の安危を論じ、千載の機会として恐れながら言上する。末注は慶応三年卯十一月九日、太守の発駕前に佐土原侯から差し上げた写とする。目録の島津忠義建言書の標題と、正文の無署名・写の差上者を区分し、忠誠や政治的称賛は本文の主張として示す。
(貞享三年)六月廿九日 / 冊子 759~760頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1995
島津家老衆が伊集院宮内へ、佐土原騒動の処理について、家老・家臣への尋問、密談・風説の究明、関係者の召喚・留置、島津久寿・久也間の調整などの存寄を条々に示した書。
正徳三年六月十六日 / 冊子 98頁/整理ID 237
吉貴の申渡しとして、佐土原島津家の庶流・家臣の家号を列挙し、家中居住者や別家に属する者の家号・名乗りを区別して改めるよう伝える。
正徳三年 / 冊子 106~107頁/整理ID 249
佐土原島津家の家臣について、鹿児島側の家筋との対応や改める名乗りを家別に列挙する。島津家の名字・名乗り改定に向けた調査一覧。
正徳三年 / 冊子 107~108頁/整理ID 250
佐土原島津家の家臣を家筋別に列挙し、本家が把握していない家、分家、預かり家などの由来と名乗りの改定案を整理する。
正徳三年 / 冊子 108~109頁/整理ID 251
島津惟久が重臣らに、吉貴からの家号・名乗り改定の申渡しを受け、佐土原家中の家筋や称号をどう扱うか伺う。別紙の家筋書付を添え、例外的な家号や名乗りについて指示を求める。
正徳三年八月五日 / 冊子 109頁/整理ID 252
島津惟久が島津帯刀に、佐土原家臣の称号・名乗りの改定案を示し、例外となる家筋についての判断を求める。
正徳三年十月十五日 / 冊子 117~118頁/整理ID 278
家老四名が佐土原島津家中の家号・通称・字の用い方について、家筋を示して申渡す。嫡家と庶流の家号、同じ字の重複や他家との紛らわしさを避ける規則を示し、知られていない家号や改名希望は申し出るよう命じる。
正徳三年十一月三日 / 冊子 119頁/整理ID 284
島津久當が佐土原家中の家号・名乗りの扱いについて達する。太左衛門家の字の継承、家筋を示す字や紛らわしい同字を避けることなどを述べ、伝達した内容に異議があれば申し出るよう求める。
正徳三年十一月三日 / 冊子 119~120頁/整理ID 285
島津久當が佐土原家中の名乗りと家号について、久之御字や御称号との重複を避け、先祖の実名・名字を用いる場合も家筋を確かめて申請するよう達する。紛らわしい仮名や由緒のない遠慮のない名乗りを戒める。
正徳三年十一月廿一日 / 冊子 122頁/整理ID 292
島津惟久が佐土原家中の家号・名乗り改定について、先祖の実名や字を用いる場合は由緒を調べ、本家との重複や紛らわしい名乗りを避けて申請するよう伝える。
〈寛延二年〉九月五日(年は目録の文脈による) / 冊子 201頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0558
島津宗信の訃報が日州佐土原に届いたため、佐土原城主島津加賀守忠雅と嫡男又四郎久柄が使者を薩府へ遣わしたと記す記事。使者は私邸に「信宿」し、九月五日に福昌寺へ登って弔銀と祭文を奉献した。弔銀は忠雅から五枚、久柄から三枚であり、それぞれの名が割注で示される。祭文については、忠雅は献じ、久柄は献じなかったとの注がある。実際に薩府へ来て奉献したのは父子が遣わした使者で、忠雅・久柄自身の参詣とは記していない。末尾に「文見于左」とあり、後続の祭文へつながる。
明和元年 閏十二月九日(本文に月日、年は目録) / 冊子 38頁/原整理番号 129/整理ID 129
No.128の書状への御返答。女中方へ伝えて御聴き届けと御礼について先例を調べ、卯日付の役人限りの祝儀や六日付の浄岸院・重豪・御前様・真含院への御目付兼帯役人の祝儀、御一門・大身分と本人独礼を、従来の通達どおり取り扱うと述べる。女中方から祝儀を当人へ伝える先例も同日付で届いたので、その通り留守居へ指示し、御礼をしたことを佐土原へ先例通り知らせる。近隣国への通知跡が見当たらないため今回は知らせていないとする。長崎奉行宛の書状・祝物は追って問い合わせ次第手配し、女中方へ御礼の処置がよかったと伝えるとして結ぶ。末尾に御目付以上の役人は三田御奥にも祝儀を述べるという但書がある。閏十二月九日付。朱注は本文書がNo.128の行間朱書であるとする。目録は島津久定外三名の家老連署返書、明和元年閏十二月九日とする。
安永七年九月十五日・十九日・二十三日、十月朔日・十八日 / 冊子 556頁/原整理番号 1563/整理ID 1563
同年九月、日州佐土原城主島津但馬守久柄が同族島津左京久武と家老澁谷主税久命を伴い、本府へ来たと記す。久武には久柄と同母の兄弟、新樹家者との原注を付す。久柄は足疾があり温泉で浴したいと重豪に願い、領内に温泉が多いため、重豪は州南揖宿郡摺之濱の温泉を許した。九月十五日に佐土原を発ち、十九日に鹿児島へ到着した。重豪はそのとき江戸にいたので、家老山岡市正久澄と諸有司に出迎えと慰労を命じ、客舎へ泊めて饗した。二十三日、久柄は登城して起居を問い、土産数品を贈った。重豪も使者を遣わして久柄に馬一疋と物数品を与え、久武・久命から用人等にも各々差を付けて品を与えた。その後の朝陵等の事件に触れ、久柄は麑府に十二日逗留したとする。十月朔日に麑府を発って摺之濱へ向かい、重豪は人を遣わして様子を問い贈品を届け、意を尽くして待遇した。十余日滞在したのち、十八日に摺之濱から船で隅州小根占へ渡り、隅・日二州の諸邑を経て佐土原へ帰った。重豪はさらに数人に送らせた。
天保4年4月16日(年次親項目、月日本文) / 冊子 980頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0144
No.2704の附属資料「の14」、佐土原藩主島津筑後守忠徹の代香についての記事。四月十六日、太安寺和尚仙長ら上下十人が来て、福昌寺中陰の法筵に参列し、水軒に宿したと記す。忠徹の弔使島津又七郎久典は香奠銀三枚を献じて焼香し、祭文を上げて稽首再拝した。仙長は従来の例により側で読経した。厚い弔意を示すため、島津萬之進の弔使として記す酒勾仁之助景明、富田藤吉通純もそれぞれ香奠銀を献じて代拝したと述べる。久典に忠徹男、景明に忠徹女との本文注を伴う。献祭文と代香、僧の読経、各弔使の銀の供えを分け、数量が記されない後続の香奠を三枚と一括しない。後続「の15」の忠徹祭文は別行として整理する。
文化6年9月27日。忌10日・9月26日~10月5日、服30日・9月26日~10月15日(原記載) / 冊子 332頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1038
同氏榮翁の母方叔母で、島津淡路守の母が死去したため忌服を届ける覚。淡路守には忠持・佐土原城主の注。忌10日、9月26日から10月5日まで、服30日、9月26日から10月15日までと記す。9月27日、松平豊後守、文化6年朱注、重豪公御譜中・扣正文在家老座。本文・忌期間と次段の服期間・届出署日を連結する。死去者を榮翁の実母とせず、榮翁母方叔母かつ淡路守母との関係を保持する。服30日の数字と記載期間は一致しないため、日数・終期を推測で直さず併記して留保する。月内日付は局所拡大で廿六・廿七と再確認し、目録9月27日と一致する。
文政2年7月13日(朱注。本文は6月13日、経過は5~6月) / 冊子 561~563頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1696
出典は重豪公御譜中、扣正文は家老座にあるとする。先月十六日の水野出羽守の内意、十九日の阿部備中守による御目見願・前日通知の取扱いに続き、六月六日に翌七日四時の登城を命じられたと記す。七日の行列は以前の近衛旅館の見舞い時の例とし、中小姓七人を列ね、染帷子・十徳で登城した。家斉・家慶へ御目見し、青山下野守が披露、着座を許され懇命を受け、休息所へ戻り黒鷲杉戸際で老中に御礼を述べた。西丸への御礼は脇坂中務大輔が名代となった。親類・京都・大坂役場・両近衛家への通知、内輪の取替え、太守の勤向を使番や留守居で取り計らうことも記す。大奥勤向は両御隠居の礼文、御簾中・姫君への毎年の書人、太守の返事・側用人による取次を挙げる。月次の三殿・若殿への祝儀、精進帳、大奥・佐土原・中山王・隣国への取扱いを相談する。末尾は願書・案文・留守居首尾書を送る旨と六月十三日、上町田監物・下川上右近、朱七月十三日、三名殿の記載。朱書返答も併載され、各通の日付署宛対応は1695とともに留保する。実施済みの御目見と、各方面へ取計う指示・相談を区別する。
文政5年閏正月19日(壬午) / 冊子 612頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1835
重豪公御譜の記事。文政五年壬午閏正月十九日、大家(将軍)が使番の稲生七郎右衛門正興を芝邸へ遣わし、重豪に御鷹の鶴を賜った。島津筑後守忠徹が重豪に代わって受け取ったと記し、忠徹には佐土原藩主の注を添える。使番・芝邸・鶴の下賜・忠徹による代理受領の順序を保持する。本文に鶴の羽数は記されず、入力概要の「一羽」は除く。No.1810の雲雀拝領記事とは鳥名・年月日・使者を分けた独立記事として整理する。
3月4日~4月9日(行程、年不記) / 冊子 287頁/原整理番号 401/整理ID 401
雑集中の間書。三郎は三月四日に前の浜から出帆して山川へ着き、五日に外之浦へ、六~八日は滞泊、九日に出帆した。十日、伊予御手洗の手前で佐土原侯の船に行き会い、呼ばれて半時ほど話した。十一日兵庫、十二日山崎通の陸路を経て一泊、十三日に伏見を通って京都へ着き、知恩院へ宿泊。十四日に宮様から示された趣旨で近衛邸へ参殿し、一橋様・松平容堂や諸所を廻り、十七日に上書した。十八日出京して川を下るが夜に呼返しの使者が到来し、すでに乗船していたとする。十九日は大坂に滞在して申し切り、二十日以降帰途へ。二十二日細嶋着、しばらく滞泊して四月三日に出立、九日に帰着したと記し、末尾は「城之筆也」。年・宮様の姓名と城の名称は補わず、本文の時刻は現代時計へ換算しない。
戦闘記事五月15日、届書七月2日薩摩少将内新納嘉藤二 / 冊子 563頁/原整理番号 729/整理ID 729
太政官日誌中にある薩州藩届書写。五月十五日未明に大下馬へ集まり、西郷吉之助の指揮で命を待ち、六ツ時過ぎに湯島へ進んだと記す。小倉壮九郎の一番遊撃半隊・川路正之進らの足軽隊八十人ほどが上野正面へ、飯牟禮喜之助の大砲隊が砲五門で黒門口御徒町へ進み、鈴木武五郎・篠原冬一郎らの小銃隊等も戦ったと報じる。黒門の台場は堅く、本郷側の長州・肥前・肥後・久留米の戦闘と火箭・町家の火災を述べ、不忍池の堤側から突入した藤堂・因州勢と薩藩鈴木隊の山内戦を記す。本郷側の長州・大村・佐土原等は根岸辺でも戦い、朝六字頃から五字頃まで続き、戦死・負傷も相応あったとの江戸からの報を受けたとして、七月二日に新納嘉藤二が届ける。戦況・火災原因・死傷は届書の報告に帰属させる。
辰正月12日沙汰・参内、正月13日留守居報の付記 / 冊子 457頁/原整理番号 626/整理ID 626
薩摩少将へ積年の勤王と朝議の実行・周旋、三日以降の伏見防禦・連戦追撃を賞し、慶喜が浪華城を去ったとの報を受けた感激を述べ、剣を賜う沙汰を収める。続けて藩士の殉国戦死を憐れみ、忠魂を九原の下に慰め、遺族を厚く遇して葬礼を整えるよう命じ、金五百両を藩主へ賜って忠魂の祭祀に充てるとする。辰正月十二日の太守の参内、剣拝領・再拝・戦死人に関する再拝と夜九ツの帰殿を記す。十三日の留守居御用の報として朝廷から松平の称号を止める件、大坂鎮臺を命じられた趣、長州以下の恩賞関係の藩名を付記する。沙汰の評価、賜金目的、参内記事と取伝の付記を区別する。
三月十八日 / 冊子 120頁/原整理番号 454
長倉能登守祐省ら四名が野辺讃岐守に、先に申し出のあった梁瀬屋敷の件を披露したとして、早々に移って奉公するよう伝えた連署書状。小原の百姓に関する扱いや御舎弟の御用との関係にも触れ、前年以来沙汰のなかった件を新恩として扶持する旨を後日のため書き付けた。三月十八日付。
三月十八日 / 冊子 129頁/原整理番号 475
長倉能登守祐省ら四名の連署書状。本文は『諸家系図文書』四五四号文書と同一のため省略されている。参照先No.454では、野辺讃岐守に、先に申し出のあった梁瀬屋敷の件を披露したとして早々に移って奉公するよう伝え、小原の百姓や御舎弟の御用との関係にも触れ、前年以来沙汰のなかった件を新恩として扶持する旨を書き付ける。三月十八日付。
年月日未詳 / 冊子 571頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1358
寛文十年初冬、久英が光久へ、叔父久富は厳親久雄の代から鹿児島で奉仕しており謝意を尽くせないと述べ、久英自身の助力となるよう佐土原へ戻すことを願う。光久は十月十六日に願いを許し、久富は翌寛文十一年初夏に鹿児島を辞して佐土原へ帰る。
年月日未詳 / 冊子 758頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1993
佐土原で松木左門の余党がなお治まらず、村上三太夫らが徒党を組んで家政を批判したため、光久が使者を派遣した。捕縛時に三太夫らが松木三郎五郎宅へ籠もり放火・抵抗して死傷者が出たので、光久が幕府老中へ使者を送り経緯を報告した騒動記事。
年月日未詳 / 冊子 844頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2240
佐土原城主島津忠高の死後、惟久が幼少であったため、祖父島津光久の願いにより再従兄弟の島津久寿が成長まで家督代を務めることを幕府が許した経緯と、久寿家老松木左門らの家中騒動に触れた記事。
元禄十二年四月十五日 / 冊子 112頁/整理ID 398
元禄12年4月15日、島津惟久が登営して帰郷の暇を賜った際、老中列座の別席で小笠原長重から、佐土原は古来の城地であるため今後一城主と認める旨を伝えられ、惟久が謝した記事。佐土原は近年城地の名を失っていたが、島津綱貴がその由緒を将軍へ訴えた結果であると記す。
十一月十八日~二十二日 / 冊子 759–760頁/整理ID 2565
島津惟久が十一月十八日に鹿児島城へ登って吉貴に帰城の暇を願い、吉貴はこれを許した。吉貴は相良清兵衛頼庸を宿所へ遣わし、白銀三百枚と白縮緬三十巻を贈った。惟久は二十二日に鹿児島を発ち、帖佐・加治木を経て佐土原へ帰った。
正徳元年十月四日 / 冊子 975–976頁/整理ID 3136
日州佐土原城主島津淡路守惟久が宗家を訪れ、鹿児島城中の宿と諸寺院を見聞した。吉貴は城内に客屋を用意し、滞在中に諸寺院へ参詣させた。惟久は二十日ほど滞在して暇を願い、鹿児島から帰郷したと記す。
正徳三年六月 / 冊子 93頁/整理ID 230
吉貴が藩臣の称号・諱字の格式を定め、佐土原城主島津惟久の家士にもそれに準じさせたことを記す。具体的な往復文書は後続のNo.231以降に収められる。
享保二年十月四日 / 冊子 332頁/整理ID 864
十月四日、佐土原城主島津惟久が宗家を訪ね、吉貴に拝謁したことと、供の人数やその後の旅程を記す記事。
元文六年二月二十三日 / 冊子 632頁/整理ID 1602
継豊は、佐土原城主島津但馬守の領内に唐船が漂着したことを届ける。但馬守は参勤の時期に当たるため、漂着船への対応を継豊の国元家老に依頼した。継豊が今後の届出を引き受ける旨を伝え、同日に御用番松平乗邑へ提出した経緯も付記する。
寛保二年十月二日~十一月十四日 / 冊子 720頁/整理ID 1842
佐土原城主島津忠就は、宗家と吉貴を訪ねるため十月二日に佐土原を発ち、福山を経て七日に鹿児島へ着いた。九日に府城で継豊、続いて磯館で吉貴に面会し、白麻・煙草・鴨・酒などを贈った。継豊から銀三百枚、宗信から重箱、吉貴から饗膳・琉球織物などを受け、十八日に帰路へ出発。薩摩各地の寺社・旧跡を巡り十一月十四日に佐土原へ戻った。
記事 / 冊子 236~237頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0663
重年公御譜が、佐土原城主島津加賀守忠雅の復源姓の経緯を記す。延享四年、忠雅は藤原姓を固有の源姓に戻すことを先君宗信へ願ったが、許可に至らなかった。宗信は又四郎久柄が叙爵する際に源姓へ改める旨を忠雅に告げていた。今年の暮れに久柄が叙爵して復源姓となることを受け、忠雅も復源姓を請い、家老伊勢兵部貞起を通じて許可を得た。記事は寛延二年十二月十八日の久柄の叙爵・復源姓を記し、詳しくは宗信公の譜に見えるとする。No.661の申渡書は同月二十一日付である。
〈宝暦二年〉七月二十五日~八月二十六日 / 冊子 368頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1108
退休後の継豊が病気のため寛延二年以来たびたび幕府へ願い出て、温泉療養のため薩府四配館に留まっているなか、前年、日州佐土原城主島津加賀守忠雅が薩府へ来て継豊の起居を問うことを願い、許された記事。当年七月二十五日に忠雅が居城を発ち、高岡・高城・都之城を経て二十七日に福山、二十八日に船で薩府へ入り客舎に宿した。八月二日に登城し、家老・用人らの出迎えを受け、虎之間・対面所を経て書院で重年に色杉原紙五束・塩鴨五羽・美酒一樽を献じ、四配館で継豊にも同品を献じた。六日には重年が府城座之間で忠雅を饗応し、太平布十四を与えて書院で琉球人の座楽を見物させた。十八日に忠雅が登城して帰郷の暇を願い、重年から饗応を受け、四配館でも継豊に挨拶した。重年は白銀百枚を客舎へ贈り、継豊は細上布三端・島紬二端を贈った。さらに忠雅の求めに応じて恵人参五両、牧馬、狆犬、鹿府立野焼陶器多数を贈り、元注は牧馬一匹・五匹の内訳と十月の送付、狆犬牡三匹の八月の佐土原への送付を記す。滞在中、南泉院に参詣し、大権現御宮へ太刀一腰・白銀一枚、台徳院殿以下有徳院殿までの霊前へ白銀一枚ずつを献じた。福昌寺・慈眼廟・南林寺・大中廟へ金子各百疋、慈眼廟・祖先廟・淨光明寺へ白銀各一枚を奉納し、郡山花尾権現社・谷山慈眼寺・観音などにも参詣した。八月十九日に薩府を辞し、重富・帖佐・加治木・溝辺・横川・踊・西霧島・曽於郡・清水・日当山・国分・敷根・福山・財部・都之城・高城・高岡・穆佐・倉岡を経て二十六日に佐土原へ戻った。
天明六年四月 / 冊子 859~860頁/原整理番号 2372/整理ID 2372
島津忠持は、佐土原島津家が薩摩国へ往来する際の先例として、宝暦四年に但馬守久柄が家督した際、西尾隠岐守から先格どおりとの付札を受けたこと、宝暦十年の代替わりにも松平右近将監から従前どおりとの付札を受けたことを示す。
(貞享二年)十一月十二日 / 冊子 744~745頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1958
光久公御譜中の覚に、佐土原黒貫寺隠居雲海法印が退院し、伊集院宮内の許から天正寺へ滞在した経緯を示す。式部少輔方へ出奔することや他所への自由な移動は不宜とし、内輪でゆるりと滞在させるのがよいとの上意を伝える。雲海に用向きがある場合は宮内へ参ることも可能とし、西霧嶋辺での滞在について内談し、佐土原家老へも知らせるよう指示する。
正徳三年十一月三日 / 冊子 120頁/整理ID 286
島津久當が佐土原家中の家号・名乗りについて、新納・町田・伊集院などの名字を例に、先祖の実名や字を用いる際の由緒確認と別紙名書の提出を求める。改字や家号の申立ては本家へ知らせるよう命じる。