島津元久宛行状
応永六年十二月廿七日 / 冊子 187頁
島津元久が得丸但馬守へ、島津庄大隅方姶良庄内の得丸名一円を給分として宛行い、先例どおり領知することを認めた宛行状。
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応永六年十二月廿七日 / 冊子 187頁
島津元久が得丸但馬守へ、島津庄大隅方姶良庄内の得丸名一円を給分として宛行い、先例どおり領知することを認めた宛行状。
(天文十五年)八月廿九日 / 冊子 838頁
半松斎宗養が阿多但馬守に、新詠の送付を喜び、春成兵庫助下国の際の贈物を謝し、今後も詠歌を送るよう求めた書状。
永禄六年二月廿八日 / 冊子 122頁
日向国櫛間湊の天神丸船頭・日高但馬守が琉球へ渡海することを島津貴久が認め、朱印を据えた航海許可状。
八月廿九日 / 冊子 323頁
半松斎宗養が阿多但馬守に、当年の新詠を送ってほしいと求める。春成兵庫助の下国時に書状を託して返書を得たこと、新作の詠歌を都で写し留め後世の教訓としたことを述べ、奥書への礼として贈られた沈香三斤および別に受領した二斤に謝意を表し、詳事は春成兵庫助に託した書状。
(文禄元年)6月18日 / 冊子 571頁
豊臣秀吉が、朝鮮渡海の遅れに不満を抱いた梅北国兼が佐敷辺で一揆を起こしたため、義久からの報告と首を討つ旨の命令を受け、現地諸将へ即時の成敗を指示した朱印状。 島津兵庫頭の不安を除くよう申し聞かせることも命じ、梅北一揆を島津家だけでなく豊臣政権の軍事命令として鎮圧したことを示す。
天正五年十二月 / 冊子 524~525頁
伊東義祐の暴政に反発した福永丹波守・野村但馬守らが蜂起し、民家への放火を合図に島津方へ内応したため、義祐が豊後へ逃れた経緯を叙述する。上原尚近が報告すると、正八幡宮参詣中の義弘は直ちに野尻へ進み、評議後に本城へ迫って日向諸城へ番兵を置いた。
年月日未詳 / 冊子 571頁
義弘父子の朝鮮渡海途上、平戸に滞在した梅北国兼・田尻但馬守父子らが変心して一揆を起こし、国兼が佐敷城へ入り、田尻父子が松波瀬で放火した経過を記す。 松浦筑前らが田尻但馬・荒次郎・荒五郎以下百余人を討ち、国兼の一党も赤松太郎や球磨・彦北の兵に殲滅されたとして、梅北一揆の発生から鎮圧までを島津義弘譜にまとめる。
年月日未詳 / 冊子 583~585頁
島津義弘・久保に従って朝鮮へ渡る途中だった梅北国兼・田尻但馬守らが平戸付近で変心し、佐敷城を占拠して八代方面へ兵を出した梅北一揆の全経過を詳述する。田尻勢の放火、松浦筑前らによる迎撃、赤松太郎や球磨・彦北勢の追討、国兼の妻子・一族の捕縛と処刑、諸将からの報告と秀吉方の処置までを収める。一揆発生から鎮圧後の残党処分までを島津義久譜から通覧でき、朝鮮出兵に伴う家中統制の崩れと豊臣政権の介入を示す重要記事である。
文明十三年六月一日 / 冊子 497頁
木場但馬守重著が、志への謝意として私領の小原内の水田などを種田圖書へ譲り、今後も奉公に励むよう述べた譲状。
享保十四年十一月十七日 / 冊子 958頁/整理ID 2415
島津但馬守が竹姫入輿後の祝儀と親類の儀礼について、御広敷への参上や祝儀物の差上げを伝える。
元文六年正月二十五日 / 冊子 632頁/整理ID 1603
島津但馬守は、自領への唐船漂着を別紙で届け出る。参勤が迫るため、漂着船への対応を松平大隅守継豊の国元家老に頼み、以後の届出を継豊から行う旨を知らせる。継豊側が二月二十三日に提出した写しを収録する。
延享二年七月廿八日以降 / 冊子 817頁/整理ID 2154
七月二十八日以降、上使の興津帯刀を通じて継豊が拝領を受けた。継豊は病気であったため、島津但馬守忠就が代わって執政らの邸を訪れ、謝礼を述べたと記す。
延享三年四月十九日 / 冊子 911頁/整理ID 2445
島津但馬守が、先祖以来、用事の節には松平大隅守が国元にいるときに参上してきた慣例を述べる。自身はまだ同じ取扱いを許されていないため、今後用事があって国元へ参る際にも従前のように仕えたいと願う。御代替に際してその希望を申し上げた四月十九日付の覚。病気による登城辞退の届ではない。
延享三年四月十九日 / 冊子 911頁/整理ID 2446
松平大隅守が、島津但馬守の先祖以来、用事があるときに大隅守の国元へ参上した先例を説明する。但馬守から、御代替後も同様の手続を取りたいとの願いがあったため、今後も従前どおり参上を許したい旨を申し上げる。No.2445の但馬守自身の願書と対になる四月十九日付の覚。
延享三年五月朔日 / 冊子 916頁/整理ID 2456
島津但馬守が従来どおり大隅守の国元へ用事の際に参上できるかについて、御代替後の取扱いを報告する。以前の先例と先月十九日に差し出した書付を引き、相手方から受けた連絡を整理して、今後の使者・取次の方法を島津左衛門へ五月朔日付で知らせる。No.2445・2446の願いに続く文書で、献上馬の取次ではない。
天明七年正月十八日(年は朱書) / 冊子 921頁/原整理番号 2530/整理ID 2530
島津但馬守は持病の疝積と足痛により去々巳年五月に隠居を命じられたが、今も病状が快方に向かわないと述べる。島津淡路守が願い出たとおり、但馬守を在所へ遣わして保養させることを許可してほしいと願う。正月十八日付で、署名位置は「御名」と記す。
年月日未詳 / 冊子 291頁
給黎を領する伊集院頼久を討つため、島津久豊が吉田・蒲生以下の軍勢を率いて陣営を構え、伊集院方の救援・反撃と交戦した記事。伊作・川邊勢の働き、本田・税所・吉田・加治屋らの戦死、城兵の夜間退去を記す。
元文五年十二月九日 / 冊子 18頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0052(の10)
比志嶋隼人が十二月九日、島津但馬守へ、源氏へ復したいとの意向を樺山典膳からの連絡と本人の書状で承知し、使者によって願う旨も承知したと伝える。当座は記録方へ伝えてあるので、願いを出す時節について、但馬守から先に指図してほしいと頼む。
元文五年十二月二十五日 / 冊子 18~19頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0052(の11)
比志嶋隼人が十二月二十五日、島津但馬守へ、源氏復姓願の時節を記録方に伝え、別紙の申し出を受けたと知らせる。姓の変更は勅命によらなければならず、現在これを願う機会は見当たらないため、萬壽丸の初官の際に口宣の姓を正すよう願うのがよいと述べる。家の姓について林大学頭から問い合わせがあれば別紙の通り江戸の家老へ伝えるが、今すぐ願う内意はなく、家督側の家老も使者による願いは不要としたことを伝える。将来に関わる事柄なので、別紙一通を参考として差し上げると結ぶ。
宝暦九年四月二十七日 / 冊子 723~724頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2183
継豊の四月二十七日付書状控は、公方と大納言の健勝を喜び、自身の病気がなお回復しないため、薩摩守重豪を通じて当年から巳年まで三年間、国元で養生したいと願った旨を述べる。願いのとおり許可されたとの申し渡しを承知し、ありがたく思うと謝意を伝える。老中五人の人々御中と、大納言御方の秋元但馬守の人々に宛てる。
宝暦十一年十二月二十一日 / 冊子 891頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2619
重豪が十二月二十一日、酒井左衛門尉・松平右近将監・秋元但馬守・井上河内守へ、公方の健勝を喜び、領知判物拝領の礼を述べる。十月二十二日に名代の嶋津淡路守が御前へ召し出され、上意により判物を賜り、早速国許へ届いて頂戴したことをありがたく思うと伝える。礼使として種子嶋蔵人を差し立て、詳しくは口上で申し上げるとする。松平右京大夫への書状では、種子嶋蔵人が御礼を申し上げる旨の文面とし、側御用人板倉佐渡守へも同案とする。
宝暦十三年四月二十二日 / 冊子 980頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2794
重豪が四月二十二日、帰国の暇を得たが男子がいないため、在国中に不測のことが起きた場合は、国元にいる島津杢(久峯、当年三十二歳)へ相続させ、跡職を変わりなく認めてほしいと願う。酒井左衛門尉・松平右近将監・秋元但馬守・松平右京大夫の四名に差し出す。包紙の注は、連名の書付と奉書を折綱で付けた封の取扱いを記し、本文の四月二十二日と別に、二十一日に御用番酒井へ留守居を通じて差し出した旨を記す。
明和三年八月二日 / 冊子 137頁/原整理番号 321/整理ID 321
今日、上使安部平吉を通じ、公方から松平薩摩守が御鷹の雲雀を拝領してありがたく思うが、薩摩守は積気のため、名代の島津又吉郎が御礼を申し上げる口上書。八月二日付で、年は朱注の明和三年。老中四人へは墨書のとおり、西丸老中秋元但馬守へは朱書のとおりとする注がある。朱追記では、上使来訪時には太守自身が出迎えて頂戴したが、その後積気となったため、両御丸老中への礼に又吉郎が廻勤したとする。新番二階堂千太夫が付き従い、滞りなく名代の廻勤が済んだ旨を帰って申し出たことを、御使番が報告したと記す。
元文六年正月二十五日 / 冊子 633頁/整理ID 1604
島津但馬守は、日向国那珂郡徳之淵浦沖へ漂着した唐船の経過を詳報する。正月二十日から荒天で接近できず、二十一日に乗組員四十四人、二十三日に二十人を救助して小屋で介抱・警護した。通事を呼んで六十四人乗りの船が暴風で帆を失ったと確認し、長崎奉行へ知らせた。
宝暦八年五月廿一日 / 冊子 684頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2038
秋元但馬守凉朝が五月二十一日、松平大隅守継豊へ、公方と大納言の機嫌がよいことを伝える。三月十八日、竹姫君が西丸へ入る際に初めて召し連れた菊が、大納言と御簾中への御目見を許され、拝領物もあったことについて、継豊の感謝を受け止める。書面の趣旨を承知したと返答する。
宝暦八年六月二十二日 / 冊子 694~695頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2069
秋元但馬守凉朝が六月二十二日、松平大隅守継豊へ、酷暑の折に公方・大納言の機嫌を尋ねた書状を受け、両者は安泰なので安心するよう伝える。献上された鰹節一箱を披露し、一段の御仕合であると知らせる。
宝暦八年六月二十二日 / 冊子 695頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2071
秋元但馬守凉朝が六月二十二日、松平薩摩守重豪へ、今朝献上した琉球布一箱、砂糖漬天門冬一器、赤貝塩辛一器、琉球泡盛酒二壺を披露したと伝える。一段の御仕合であると知らせる。
宝暦八年八月四日 / 冊子 699頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2088
秋元但馬守凉朝が八月四日、松平薩摩守重豪へ、八朔の祝儀として使者を通じて献上された太刀一腰と御馬代黄金十両を披露したと伝える。一段の御仕合であると知らせる。
宝暦八年九月十三日 / 冊子 702頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2101
秋元但馬守凉朝が九月十三日、松平大隅守継豊へ、公方・大納言の機嫌を尋ねた礼状を受け、両者は健勝なので安心するよう伝える。献上された干鯛一箱を披露したと知らせる。一段の御仕合であると伝える。
元禄十三年六月十四日 / 冊子 218頁/整理ID 747
秋元但馬守喬朝が松平薩摩守島津綱貴へ、綱貴が献上した琉球布・砂糖漬天門冬・泡盛酒・御肴を首尾よく披露したと報告した書状。
元禄十三年十月十四日 / 冊子 244頁/整理ID 828
秋元但馬守・小笠原佐渡守・土屋相模守・阿部豊後守が松平薩摩守へ、翌十五日は例月の御礼がないため登城に及ばないと通知した連署状。署名は役名のみで、本条に諱の記載はない。
元禄十三年十一月十七日 / 冊子 249頁/整理ID 844
秋元但馬守喬朝が松平薩摩守島津綱貴へ、重陽の御内書を渡すため、翌日五半時に家来を江戸城へ差し出すよう命じた書状。
元禄十四年二月二十六日 / 冊子 272–273頁/整理ID 906
秋元但馬守喬朝が松平修理大夫島津吉貴へ、将軍が健勝で、去月八日に東叡山御堂へ参詣したことを吉貴が喜ぶ書状を読み、その趣旨をもっともとした返書。同僚と相談して将軍へ言上したと伝える。
元禄十四年二月二十六日 / 冊子 273頁/整理ID 908
秋元但馬守喬朝が松平修理大夫島津吉貴へ、将軍が機嫌よく年始の規式を終えたことを吉貴が喜ぶ書状を読み、その趣旨をもっともとした返書。同僚と相談して将軍へ言上したと伝える。
元禄十四年二月二十八日 / 冊子 276頁/整理ID 920
秋元但馬守喬朝が松平修理大夫島津吉貴へ、将軍が機嫌よく、先頃山王社へ参詣したことを吉貴が喜ぶ書状を読み、その趣旨をもっともとした返書。同僚と相談して将軍へ言上したと伝える。
元禄十四年二月二十九日 / 冊子 276–277頁/整理ID 923
稲葉丹後守・秋元但馬守・小笠原佐渡守・土屋相模守・阿部豊後守の五名が松平薩摩守へ、翌朔日は例月の御礼がないため登城に及ばないと通知した連署状。
元禄十四年二月二十九日 / 冊子 277頁/整理ID 924
秋元但馬守喬朝が松平修理大夫島津吉貴へ、将軍が機嫌よく、去月二十四日に増上寺御仏殿へ参詣したことを吉貴が喜ぶ書状を読み、その趣旨をもっともとした返書。同僚と相談して将軍へ言上したと伝える。
元禄十四年三月朔日 / 冊子 277頁/整理ID 926
秋元但馬守喬朝が松平修理大夫島津吉貴へ、鶴姫の疱瘡が快癒し、酒湯を済ませたとの知らせを喜んだ返書。その内容を同僚と相談し、将軍へ言上したと伝える。
元禄十四年三月朔日 / 冊子 278頁/整理ID 928
秋元但馬守喬朝が松平修理大夫島津吉貴へ、将軍が機嫌よく、先頃護持院へ御成りになったことを吉貴が喜ぶ書状を読み、その趣旨をもっともとした返書。同僚と相談して将軍へ言上したと伝える。
元禄十六年正月十五日 / 冊子 410頁/整理ID 1388
秋元但馬守喬朝が松平薩摩守へ、書状を拝見し、去年の冬に当地で大地震があった際、一位様(桂昌院と傍注)がますます機嫌よく過ごしていることを喜ぶ旨を、念入りに書面で伝えられたことを承知したと答える。正月十五日付。
元禄十六年二月十二日 / 冊子 415頁/整理ID 1411
秋元但馬守喬朝が松平修理大夫吉貴へ、書状を拝見し、将軍がますます機嫌よく年始の規式が済む予定であることを喜ぶ旨を了承する。使者を通じ肴一種を献上された件は、同僚と相談して首尾よく披露したと伝える。二月十二日付。
元禄十六年五月十四日 / 冊子 427頁/整理ID 1454
稲葉丹後守・秋元但馬守・小笠原佐渡守・土屋相模守・阿部豊後守の五名が松平修理大夫吉貴へ、明十五日五半時に登城し、参府の御礼を申し上げるよう命じる。五月十四日付。
元禄十六年五月二十七日 / 冊子 427頁/整理ID 1455
稲葉丹後守・秋元但馬守・小笠原佐渡守・土屋相模守の四名が松平薩摩守綱貴へ、家来の嶋津助之丞(忠守と傍注)を、明二十八日五半時に登城させるよう命じる。五月二十七日付。
元禄十六年九月二十七日 / 冊子 437頁/整理ID 1496
秋元但馬守喬朝が松平薩摩守へ、書状を拝見し、自身が変わりなく過ごしていることを喜ぶ旨に礼を述べる。将軍の機嫌伺いに使者を差し上げる件、入念な書面と串鮑一箱を贈られたことをありがたく思うと伝える。九月二十七日付。
元禄十六年十二月十一日 / 冊子 450頁/整理ID 1544
秋元但馬守喬朝が松平薩摩守へ、寒気の時節にも相手が堅固であると聞き喜び、入念な書面と目録記載品を贈られたことに謝意を述べる。
九月七日 / 冊子 793頁/整理ID 2694
徳川綱吉が九月七日、薩摩少将吉貴へ、重陽祝儀として小袖五が届いたことを喜び、詳しくは秋元但馬守が述べると伝える。綱吉公墨印を伴う御内書。
宝永六年五月十三日 / 冊子 842頁/整理ID 2802
井上河内守・大久保加賀守・本多伯耆守・秋元但馬守・小笠原佐渡守・土屋相模守が五月十三日、吉貴へ、本日の西丸への登城は不要と伝える。祝儀の能を明後十五日に行うため見物し、長袴を着て五ツ時に本丸へ登城するよう指示する。
宝永七年十一月十五日 / 冊子 924–925頁/整理ID 3005
井上河内守・大久保加賀守・本多伯耆守・秋元但馬守が十一月十五日、吉貴へ、御用があるため翌十六日四時に登城するよう命じる。
宝永七年十二月七日 / 冊子 945頁/整理ID 3036
秋元但馬守喬知が十二月七日、吉貴へ、蜜柑二箱・肴一種の献上を披露し、好結果であったと返す。
正徳元年六月十二日 / 冊子 958–959頁/整理ID 3086
秋元但馬守喬知が島津吉貴へ、琉球布十巻・砂糖漬天門冬一器・琉球泡盛二壺・御肴一種を献上したことを披露し、御仕合せであると返答する。