島津義虎書状
天正十二年正月十一日 / 冊子 840~841頁
島津義虎が伊集院忠棟・平田光宗・村田経平・上井覚兼へ、新年の大慶と例年以上の満足を祝い、慶書と五明を贈り、今後も互いの吉兆を伝え合いたいと述べた年賀書状。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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天正十二年正月十一日 / 冊子 840~841頁
島津義虎が伊集院忠棟・平田光宗・村田経平・上井覚兼へ、新年の大慶と例年以上の満足を祝い、慶書と五明を贈り、今後も互いの吉兆を伝え合いたいと述べた年賀書状。
天正13年6月16日 / 冊子 58頁
島津忠平(義弘)が上井覚兼に対し、家督相続をめぐって結んだ親交を子孫の代まで変えず、覚兼の奉公を粗略に扱わないと神文で誓った起請文。境目での軍事奉公についても、覚兼の事情を踏まえて取り扱うことを約束する。No.49の覚兼側の誓約に対応し、主君側も親類・子孫を含む関係維持と公正な処遇を保証した相互誓約である。
(天正14年)4月13日 / 冊子 162頁
古川宗心が上井覚兼へ、今回受けた厚い懇遇への礼を述べ、飯野に二十日余り滞在し、新納忠元からも格別の厚意を受けたことを報告した書状。十分に礼を申し尽くせないと恐縮し、詳しい事情は対面の際に伝えるとしている。上井・新納両氏による使者接待と、重臣間の人的交流をうかがえる私信である。
天正15年6月12日 / 冊子 342頁
島津義久が上井覚兼へ、日向知行の際に境目を塞ぎ、豊後での防戦にも働いた功績を将来忘れないと伝えた書状。当時伊集院に在宅して難儀している事情を察し、分領地を添えるため配慮すると約しており、九州征伐後の家臣処遇を示す。
年月日未詳 / 冊子 342頁
安国寺恵瓊が上井覚兼へ、宮崎の件を福智三河守長通と相談するため、早々に一人を派遣するよう求めた書状。過分の下地に関わるため相応の礼儀を整える必要があるとし、詳細は使者に託して、所領処分の交渉を促している。
天正15年6月19日 / 冊子 348頁
桑山重晴・福智長通が上井覚兼へ、先日の丁重な書状への礼を述べ、安国寺恵瓊からの意向も承知したと返した連署状。両人は同日豊後まで供奉して間もなく帰る予定を伝え、諸事の連絡を求める。末尾に「唐犬」の語が見えるが、前後の係り受けと具体的な用件は判然としない。
天正15年7月17日 / 冊子 351頁
重頼・野村良綱が上井覚兼へ、秀吉の下向後、大隅国が島津義弘へ与えられたため、末吉・財部も大隅の内として義弘から改めて給付されると伝えた連署状。その安堵の保証として北郷忠虎を人質に上洛させ、公役として在京させるよう関白の朱印が出たこと、上井村は当地で保護することを知らせる。
(天正16年)3月6日 / 冊子 382頁
福智長通が上井覚兼から届いた書状と太刀一腰・馬一疋に礼を述べ、当国の御蔵入・代官および所領に関する申し越しを了承した書状。伊集院右衛門大夫が赴く際に相談し、どのような処置にも疎意なく応じると約す。上方での用務にも協力し、義久・義珍にも意向を伝えるとして、家中と中央を結ぶ連絡役を引き受けている。
(天正16年)4月14日 / 冊子 384頁
木食応其が上井覚兼へ、遠国のため音信が途絶えたことを詫び、以前からの厚意を忘れていないと伝えた書状。覚兼から贈られた『大師行状記』十巻が無事に到着したことを喜び、由緒ある書物として大切に受け取った。今後上洛する際には訪ねてほしいと述べ、旧交の継続を願っている。
天正二年八月~十二月 / 冊子 349~350頁
上井覚兼日記の天正二年八月から十二月までの各月の範囲と花押を示し、覚兼が当時三十歳であったことを注記する。覚兼は天文十四年生まれ、天正四年から家老役、天正十七年に伊集院で四十五歳で没し妙円寺に葬られたこと、日記は天正二年八月から天正十四年十月まで十四冊あることを記す。
天正二年八月~十二月 / 冊子 350~391頁
天正二年八月から十二月までの上井覚兼の日記。年始太刀献上の席次問題、入来院重豊の所領献上・所替えと血判、肝付・庄内の和平交渉、菱刈氏への譴責、江月斎の饗応、伊地知氏の移住・所領願、琉球・天草・志岐・義虎との外交、犬追物稽古、寺社争論と所領配当、福昌寺での犯人斬殺と代賢和尚慰留など、政務・軍事・儀礼・寺社・日常を日次で詳述する。
天正三年正月~十二月 / 冊子 395~428頁
天正三年正月から十二月までの上井覚兼日記抜書。年始儀礼・椀飯、重要政務五箇条、下大隅・菱刈の移衆と所替え、三月の犬追物、琉球紋船使節との先規違背・進物をめぐる交渉、寺社・地頭職・所領配当、肝付氏の後継と伊東氏との断交、近衛前久の来薩準備、歳末の福昌寺事件など、家中政務と儀礼・外交を日次で詳述する。
天正四年八月十六日~九月 / 冊子 493~496頁
上井覚兼が高原城攻めの出陣・陣立・交渉を日記体で記す。覚兼は城方の肥田木河内守から断水による降伏意向を聞き、喜入季久らと人質交換を調整した。開城後は三山での勝鬨や諸将の太刀進上を記し、北郷時久へ田野城攻略の可否を問い、霧島で神慮を伺う方針をまとめた。
天正四年(六年か)七月九日 / 冊子 545頁
上井覚兼・伊集院忠棟が宮原筑前守へ、石城口でその子が奮戦したことを認め、子を早く帰らせる代わりに本人が急ぎ出陣するよう命じた。伊集院肥州・頴娃氏・吉田若狭守が負傷して帰ったため陣が手薄であり、時を移さないことが肝要と念を押す。本文の年次注記は天正四年を六年と訂する。
(天正九年)六月四日 / 冊子 689頁
上井覚兼が伊勢貞知へ、島津義久の書状を受領し、豊後・薩摩両国の和平を取り計らったことに礼を述べる。義久自身が意向を直接申し述べたとし、扇十本の礼として沈香五十両を贈り、披露を頼んだ書状案。
天正十年十一月四日~十二月二十五日 / 冊子 730~745頁
天正十年十一月四日に宮崎を発して八代へ向かった上井覚兼が、道中、着陣後の連日の軍議・使節往来・酒宴を詳細に記した日記。肥後国内の経略、有馬への渡海、田尻城救援、甲斐宗運との和平と人質、隈部攻撃、日比良城攻略、諸城の番衆・兵船・補給、各将の配置を協議し、三船・隈荘の誓約や年末の帰陣方針に至るまでを日次で載せる。
天正十一年五月二十四日 / 冊子 755頁
天正十一年五月二十四日、上井覚兼が出仕すると、島津義久から忠平を八代へ移して名代とし国政を裁判させる構想について意見を求められた日記。老中・使衆・地頭衆を必要に応じ八代へ移す案を協議し、あわせて宇久純玄の使者貞方右衛門佐が書状・太刀・織物を持参したことを記す。
天正十一年正月元日~三月十七日 / 冊子 765~791頁
天正十一年正月元日から三月十七日までの上井覚兼日記。鹿児島・八代・宮崎を往来しながら年頭礼、酒宴、諸将の会合、合志・阿蘇・隈本・田尻・有馬への使節と軍議、八代守備、義久の病気祈祷、南蛮僧追放、近衛家・幕府使者への応接を日次で記す。三月には秋月・龍造寺との和平、八代移転、田尻兵船などを忠平と評議した。
天正十一年三月十七日~五月二十四日 / 冊子 791~799頁
天正十一年三月十七日から五月二十四日までの上井覚兼日記。野村民部少輔殺害事件に関する村田経平らへの内密な処分と弁明、相良忠房の出頭、義久の病気と祈祷、八代の守将選定、日向帰国後の社寺参詣・普請・茶湯・狩猟を詳記する。田尻・有馬からの戦況報告、深江・安徳への援兵、十五町につき一人の軍役賦課も記す。
天正十一年五月二十五日~十一月三十日 / 冊子 800~839頁
天正十一年五月二十五日から十一月三十日までの上井覚兼日記。病気療養と社寺祈祷、宮崎・佐土原での普請・狩猟・茶湯・弓会などの日常と並行し、有馬救援の軍役賦課、深江・安徳の戦況、田尻への兵船、八代警固、義久の病気、諸将・使僧との往来を詳記する。秋以降は肥後出陣と八代での評議、合志・阿蘇・隈本・内空閑への対応、相良忠房の連歌祈願などを載せる。
天正十二年正月~三月二十九日 / 冊子 847~863頁
天正十二年正月から三月二十九日までの上井覚兼日記。宮崎での年頭行事と病気、鹿児島での吉書・酒宴・連歌・人事評議を経て、肥後出陣に従い佐敷へ赴いた。家久・忠長らの有馬渡海、龍造寺隆信軍の接近と三月二十四日の大勝、隆信首の到来・実検、八代移動、島原での施餓鬼計画までを日次で詳記する。
年月日未詳 / 冊子 7~21頁
上井覚兼が天正十三年正月朔日から二十八日まで、年始の礼式と日々の政務・交際を克明に記した日記。寺社参詣、家中や僧侶・使者の来訪、連日の酒宴、太刀・馬・酒肴などの贈答、狩猟、書状の往来を日付順に追える。単なる儀礼記録にとどまらず、家臣同士の相談、役人・医師・芸能者との接触、検地帳や公役関係文書の閲覧、向島の境界問題をめぐる協議など、島津領国の日常統治も具体的に記す。二十六日以降には本田刑部少輔らとの境論、伊集院・山田・稲富・長谷場らの来訪と談合、荒神への参詣も現れ、戦国大名家の正月が信仰・饗応・行政実務の重なる場であったことを示す。
年月日未詳 / 冊子 22~37頁
上井覚兼が天正十三年三月のほぼ一か月を日次で記した日記。寺社参詣や勤行、島津義久への出仕、家臣・僧侶・使者の来訪、書状と贈物の往来に加え、所領・境界争論の聴取、訴訟関係者の召喚、家中の談合など行政実務を詳しく伝える。一方で茶湯、連歌・酒宴、花や香を取り出して優劣を論じる遊興、酔客の振る舞い、病人への薬や医師の対応までが同じ日々の中に記される。月後半にも来客の饗応、武州・吉利殿らとの会談、荒神参詣、贈答が続き、覚兼が政務・信仰・情報収集・人的交際を絶えず調整していた実像が見える。戦国期島津家中の日常生活と裁許の双方を追える貴重な記録。
年月日未詳 / 冊子 37~46頁
上井覚兼が天正十三年五月朔日から二十五日までを中心に記した日記。養子・相続をめぐる訴訟や刑罰の相談、家臣間の申次、書状・使者の往来を扱う一方、柳沢殿や毛利方使僧の来着、肥後・筑前方面の情報、兵船・武庫・軍記に関する話題も記録する。伊集院・新納・本田・平田ら家中諸氏との談合、島津義久への出仕、寺社参詣、病気見舞い、贈答、茶湯・酒宴が連日交錯する。月末には武庫で白彦に御内儀を申し、戦記を読ませたこと、勝軍地蔵の着経、普請や材木の差配なども現れ、北部九州への軍事対応と領国内の裁許・宗教・生活実務が一体で進む様子を示す。
(天正13年)6月16日 / 冊子 58頁
上井覚兼が武庫様(島津義弘)に対し、家督相続後も子孫に至るまで変わらず崇敬し、世情が変転しても忠誠を守ると誓った起請文前書案。讒言によって訴えられた場合には、直ちに処断せず本人の弁明を聞いたうえで裁断すること、子孫・親類との関係も損なわないことを求める。家臣側の忠誠誓約とともに、公正な聴聞を主君へ条件として示した点が重要である。
年月日未詳 / 冊子 59~69頁
上井覚兼が天正十三年六月十四日頃から七月二十八日まで、約一か月半の日々を記した日記。来客・使者・書状の往来、島津家当主・重臣への出仕、寺社参詣、連歌、酒宴、狩猟を記す一方、八城・肥後方面から届く軍報、城番や境目への人員配置、使者の派遣と返書の作成を詳しく追う。大雨・洪水、病気、馬や薬の手配、宿所での談合や酔客の振る舞いなど生活上の出来事も多い。紫波洲城への参会、八城への急使、軍事情報の聴取などが連続し、覚兼が戦時下の情報・裁許・人的交際を日常的に調整した実態を示す。
年月日未詳 / 冊子 75~85頁
天正十三年八月、上井覚兼が肥後戦線から届く書状・使者の報告を連日記録した長大な日記区間。花山・堅志田・隈庄・八代方面の戦況、戦死者、城番・兵員配置、兵糧や鉄砲の手配、敵方の帰順・人質処置をめぐり、島津義久・義弘、伊集院忠棟らと協議して返書を作成する。寺社参詣、連歌、酒宴、病気見舞い、贈答も併記され、戦場情報を集約しながら軍事・儀礼・家中の日常を同時に運営する覚兼の実務が具体的に分かる。
年月日未詳 / 冊子 88~94頁
天正十三年閏八月、上井覚兼が肥後戦線と島津家中の動きを連日記録した長大な日記区間。八代・隈庄・堅志田方面の城番、普請、兵員・武具・兵糧の配置、敵方の帰順、捕虜・人質の処置をめぐり、島津家中の当主・重臣らと書状・使者を往復させる。軍事協議の一方で寺社参詣、連歌、酒宴、贈答、病気見舞い、家臣の訴訟処理も詳しく、占領地維持と家中の日常実務が同時に進む様子を伝える。
年月日未詳 / 冊子 103~112頁
天正十三年九月、上井覚兼が戦勝後の肥後支配と島津家中の実務を連日記録した長大な日記区間。阿蘇・隈部・高知尾方面の使者や書状を受け、降参者・人質、城番、所領、城の修築、兵糧・武具の配置を協議する。密書や謀議、家臣間の訴訟を処理し、島津家中の当主・重臣らへの報告・返書を作成する一方、寺社参詣、連歌、酒宴、贈答、病気見舞いも続く。軍事占領、外交、裁判、儀礼を調整する覚兼の戦後統治が具体的に見える。
年月日未詳 / 冊子 114~121頁
天正十三年十月、上井覚兼が豊後・肥後の軍事情勢と羽柴秀吉の九州介入への対応を連日記録した長大な日記区間。入田氏救援、城番・兵船・宿所・人質・帰服者の処置を協議し、島津家中の重臣らと秘密書状や京都使節の取次ぎを進める。秀吉の停戦・国分要求をめぐる情報、阿蘇・豊後方との折衝、諸将への返書が続く一方、寺社参詣、連歌、茶・酒宴、贈答、病気見舞いも詳しい。九州戦局と中央政局へ同時対応する島津家の緊張した実務を示す。
年月日未詳 / 冊子 123~135頁
天正十三年十一月から十二月、上井覚兼が入田氏の帰属交渉、高知尾・豊後方面への使者派遣、軍勢進発、人質・神文の授受を連日記録した長大な日記区間。押収船と積荷の処分、城番・兵糧・宿所の手配、京都や諸国から届く書状の回覧、豊後攻めをめぐる重臣協議が続く。蒲池氏や周辺勢力の去就を見極め、情報不足や返書遅延に覚兼が苛立つ場面もある一方、寺社参詣・祈祷、酒宴、贈答も詳しい。使者・書状・会尺・起請文を積み重ねて島津家の意思決定が形成される過程を示す。
年月日未詳 / 冊子 139~142頁
天正十四年正月、上井覚兼が新年儀礼と豊後戦線への対応を連日記録した日記区間。新納忠元らによる諸城攻略、人質・城郭の処置、高知尾・入田氏との交渉、使者・書状の往来を報告し、軍勢・兵糧・宿所を調整する。羽柴秀吉からの停戦要求や中央情勢も意識される一方、年始の参会、祈祷、寺社参詣、酒宴、連歌、贈答が続く。正月の華やかな儀礼と豊後侵攻の緊張が同じ日程に重なる島津家中の戦時の日常を示す。
年月日未詳 / 冊子 143~146頁
天正十四年二月十八日から同月末まで、上井覚兼が参会・贈答・酒宴・連歌・寺社参詣と、豊後・肥後方面の軍事情報や秘密書状の取次を記した日記区間。二十三日条では、関白となった豊臣秀吉から九州の停戦と国境裁定の受諾を求める書状が、細川玄旨・宗易の副状とともに届いた件を終日協議する。義久は秀吉を「無由来仁」と評し、頼朝以来の由緒を持つ島津家と対比して低く見るとともに、その関白への返書を「笑止之由共候」と評した。一方で勅命を伴う停戦要求には従う姿勢を示し、細川玄旨を介して返書を整える。九州征伐直前の島津側の秀吉観と、反発しつつ現実的に外交対応する姿勢を伝える著名な記事。
年月日未詳 / 冊子 147~153頁
天正十四年二月から三月にかけて、上井覚兼が島津家中の参会・贈答・酒宴・連歌・祈祷と、豊後・肥後方面の軍事・外交を日々記録した長大な日記区間。羽柴秀吉の停戦命令への返答、細川・近衛家や京都との書状往来、諸将の出陣・帰陣、城郭・人質・兵糧の処置を協議する。入田氏、高知尾、志賀道益らをめぐる豊後情勢を追い、日向・肥後口の作戦も調整した。年始から春の儀礼生活と九州征伐前夜の政治的緊張が同時進行する島津家中の実像を伝える。
年月日未詳 / 冊子 155~161頁
天正十四年三月上旬から四月初旬、上井覚兼が狩猟・花見・寺社参詣・酒宴・連歌・贈答を続けながら、豊後・肥後・日向・筑紫方面の使者往来と軍事相談を連日記録した日記区間。羽柴秀吉や近衛家からの書状、九州停戦命令への返答、入田氏・高知尾衆との交渉、諸将の出陣と城郭・兵糧の処置を協議する。返書の遅延や情報不足への焦燥も記され、儀礼的な家中生活の裏で中央政権への対応と豊後戦線の判断が絶えず迫られていたことを伝える。
年月日未詳 / 冊子 164~168頁
天正十四年四月から五月にかけて、上井覚兼が豊後方面への出陣準備、入田氏・志賀氏・高知尾衆との連絡、軍勢・兵糧・船・使者の手配を記録した長大な日記区間。近衛家・京都からの書状や羽柴秀吉方への返答をめぐる相談が続き、使者の遅延、情報不足、家中の意見の食い違いに覚兼が苛立つ場面も見える。寺社参詣、法華経講、狩猟、酒宴、贈答、病気見舞いなどの日常と、九州停戦令への外交対応・豊後侵攻の実務が同時進行する。
年月日未詳 / 冊子 170~174頁
天正十四年五月から六月、上井覚兼が雨天の軍議、豊後・筑前への使者派遣、志賀道益・入田氏・高知尾衆との書状往来を連日記録した日記区間。近衛家・京都からの返書や羽柴秀吉方への対応を協議し、諸将の出陣、軍勢・船・兵糧の準備、祈祷や調伏の実施を進める。一方で連歌・酒宴・贈答・寺社参詣が続き、覚兼自身の病気や疲労、使者遅延への苛立ちも記される。筑前・豊後作戦が本格化する直前の兵站・情報連絡と家中の日常を同時に追える。
年月日未詳 / 冊子 175~183頁
天正十四年六月一日から七月二十九日まで、上井覚兼が筑前・筑紫方面への出陣準備と軍中の日々を記した長大な日記。鹿児島・肥後・豊後・京都との使者や書状の往復、船・兵糧・武具の手配、諸将の参陣、軍議と進発日程を逐日追う。宗麟・志賀氏への対応や秀吉・近衛家をめぐる交渉も軍事行動と並行し、祈祷・連歌・酒宴・射礼、病気見舞いなど陣中の日常まで詳しい。筑前侵攻と岩屋城攻めを目前にした島津軍の意思決定、情報伝達の遅れや諸将間の調整を、当事者の視点から復元できる重要な日記史料である。
年月日未詳 / 冊子 199~209頁
上井覚兼が七月朔日から二十九日までの軍務を日ごとに記した長大な陣中日記。筑紫表への出陣準備、諸将との軍議、日州・薩州各衆の配置、使者・書状の往復、兵糧・酒・船・鉄砲の調達を追う。岩屋城では包囲・総攻撃、城兵の抵抗、味方の負傷・戦死と高橋紹運の最期、落城後の捕虜・人質・戦功確認を記録する。さらに秋月氏・立花城などとの交渉、寺社参詣や帰陣までを含み、九州征伐期の作戦決定と兵站・情報伝達を一体的に示す第一級の現場史料である。
年月日未詳 / 冊子 215~224頁
上井覚兼が八月朔日から晦日までを記した長大な日記。岩屋城攻めで負傷した覚兼は帰路と療養の様子を記しつつ、立花・宝満・筑紫方面の処置、豊後出兵をめぐる評定、諸将・使僧・寺社との面会を続ける。書状や使者の往復、降伏者・人質・知行の扱い、兵糧・酒・贈物、医師の治療や負傷者への見舞いまで日々記録する。北部九州攻略後の占領統治と次の豊後侵攻準備が、覚兼自身の傷の痛みや日常生活と並行して進む様子を伝える陣中・軍政日記である。
年月日未詳 / 冊子 224~233頁
上井覚兼が九月朔日から月末までの動静を記した長大な日記。療養を続けながら出仕・宿所移動・帰陣を重ね、立花・筑紫・秋月方面の処置と豊後侵攻の進発計画を諸将・使者と協議する。書状・起請文・使僧の往復、船・兵糧・武具の手配、降参者・人質・知行をめぐる判断、戦死者遺族や負傷者への対応を日々記録する。茶・酒・贈答、寺社参詣、病状など私的生活も併記され、北部九州攻略後の軍政と次期作戦を支えた情報伝達・家中調整の実態が分かる。
天正十二年四月一日~晦日 / 冊子 875~884頁
天正十二年四月一日から晦日までの有馬方面従軍日記。覚兼らが海路で三江・島原へ入り、神代・井福・森山の降伏と質人提出を取りまとめ、諸将会議で温泉山再興・神領、諫早攻略、諸城の警固を協議した。五ヶ浦・竹崎への水軍攻撃と放火、島原・三会への薩摩番衆配置、各地の質人を八代へ送る準備、諸勢帰帆の調整などを詳記する。
天正十二年五月一日~二十一日 / 冊子 885~890頁
天正十二年五月一日から二十一日までの日記。覚兼は荒廃した温泉山を巡拝し、大村・長崎・南蛮僧側からの使者や質人問題に対応した。島原・三会の番衆配置、有馬方諸城の警固、神代氏の質人を八代へ送ることを調整し、五月十七日に有馬を出帆、佐敷・大口・飯野を経て宮崎へ帰着した。帰国後は馬追・参詣・饗応を記す。確定版標題は『土井覚兼日記』だが、本文標柱は『上井日記』である。
天正十二年六月一日~八月二十九日 / 冊子 900~921頁
天正十二年六月一日から八月二十九日までの長編日記。覚兼は諸地頭招集、栗野八幡造営、法華千部・高城施餓鬼、甲斐宗運との和睦使節などを処理し、鹿児島で有馬・肥後出兵の軍労や八代支配を協議した。帰国後は祭礼・普請・交際を記し、八月には再度の肥後出勢が決まり、諸勢へ隈本集結を命じた。家久父子の佐土原帰着を祝い、二十九日に馬越の軍議へ向かった。
天正十二年十月一日~晦日 / 冊子 942~951頁
天正十二年十月一日から月末までの日記。小代・隈部・辺春らの降伏と所領・質人を処理し、宇土・合志の諸将を饗応した。龍造寺・秋月との和睦と大友陣への対応を協議し、黒木援軍要請に対して使者による撤兵要求を選んだ。和睦成立後、諸軍は高瀬から八代へ移り、覚兼は佐敷・飯野を経て宮崎へ帰国し、各地で帰陣祝賀を受けた。
天正十二年五月二十二日~二十九日 / 冊子 894~897頁
天正十二年五月二十二日から二十九日までの日記。折宇迫湊口の普請後に宮崎へ帰り、吉野牧の駒を拝領した。秋月種実から龍造寺との和睦仲介に関する弁明書状を受け、返書を作成したほか、築地上屋普請のため諸地頭を招集する命令、御頭役、山伏の護摩・入峯をめぐる紛議、上洛者の通行依頼などを記す。
天正十二年九月一日~晦日 / 冊子 930~938頁
天正十二年九月一日から晦日までの肥後従軍日記。馬越で龍造寺政家との和睦を審議し、佐敷・八代を経て隈本・吉松へ進軍した。山鹿・隈部・合志・宇土・小代などの帰属、質人、領知条件を交渉し、肥後高札へ加判した。秋月使者と往復して龍造寺から肥後領返還と血判誓紙を得、九月末には境界の軍事行動を抑えつつ和睦条件を詰めた。
天正十二年十一月一日~晦日 / 冊子 951~956頁
天正十二年十一月一日から晦日までの日記。宮崎帰着後、名護八幡・瓜生野八幡・海江田伊勢の延引した祭礼、狩猟、参詣、茶湯や連歌を記した。豊後勢が十月二十八日に撤陣すると約したとの帰国僧の報告、鹿児島での談合や諸役徴収にも触れる。月末に鹿児島へ赴いて島津義久・義弘・歳久らの饗応に列し、有馬から届いた水鳥二十羽と南蛮犬を進上した。
天正十二年十二月一日~晦日 / 冊子 959~968頁
天正十二年十二月一日から晦日までの日記。義久・義弘・歳久らの鷹狩、秋月・龍造寺・彦山の使者と蔭涼軒の正式な拝謁・饗応、肥後諸氏の使者の進物を詳記する。中旬には新田宮再興、御船・隈庄方面の戦況、豊後勢の在陣を協議し、琉球渡海船へ印判を与えた。下旬は村田経定の赦免、年頭連歌、所領・鷹をめぐる相談を経て、加治木・宮内・財部を通り宮崎へ戻る年末の動向を記す。
年月日未詳 / 冊子 243~248頁
十月一日から十五日までの日記。祈念・参詣、来客との酒宴、贈答、使者と書状の往復を日ごとに記す一方、豊後出兵の評定、兵船・兵糧・人員の準備、京都や各地から届く情報への対応も収める。家中の談合、領内の訴訟や配置、病人・負傷者への見舞いと医師の診療、連歌・能などの日常も交錯し、戦争準備を担う家老層の実務と生活を具体的に伝える。