島津伯囿貴久書状
(永禄十一年)九月十二日 / 冊子 202頁
島津貴久が蒲生清貞の前年以来変わらぬ境目警固を比類ないものと賞し、近頃の変事については屋形と相談して判断すると伝えた書状。当面の行動は延期するよう分別を求め、詳細は馬越からの使者が申し伝えるとしている。
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(永禄十一年)九月十二日 / 冊子 202頁
島津貴久が蒲生清貞の前年以来変わらぬ境目警固を比類ないものと賞し、近頃の変事については屋形と相談して判断すると伝えた書状。当面の行動は延期するよう分別を求め、詳細は馬越からの使者が申し伝えるとしている。
年月日未詳 / 冊子 856頁
朝鮮出陣にあたり、地域・番立ごとの人数を書き上げた「朝鮮出陣賦」。一番立の大村衆五十五人、山野衆四十人、三番立の高山衆百十人、一番立の馬越衆三十五人などを列記する。 地域別の動員数と隊編成を数値で確認できる短い賦役表。一部は「本文無之」とされ、底本だけでは内容を完全に復元できない。
(慶長五年)十二月廿四日 / 冊子 726頁
新納忠元が馬越の市日を加増として拝領したことを知らせ、十二月二十六日の開市に向け、加藤武部左衛門らと相談して各地の商人を集め、市の振興と商人の定着を図るよう依頼した書状。
正平12年10月5日(1357、同文参照)~永和3年10月28日(1377)の記事 / 冊子 431頁/原整理番号 13-3
冒頭は『諸家系図文書』10の5号文書と同一のため、正平十二年十月五日付島津師久書状を省略する。参照先は加治木合戦中の師久が牛屎左近将監へ援軍を求めた書状である。続いて康安元年九月二十六日、牛屎左近将監高元が一族、和泉下司諸太郎兵衛尉政保、隅州馬越藤四郎行家、肥州芦北七浦等の一族と同心し、官領武州の合戦に関して肥後路で約三年間戦った軍歴を記す。永和三年十月二十八日には将軍家方として四十五人が一味同心の一揆契約を結び、そのうち当家一門七人として高元、羽月石見守元豊、山野左衛門尉元詮、牛屎河内守元息、太田沙弥元清、青木沙弥元生、鳥越隼人佑義元を列挙する。系線は元息(法名祖英)から元勝(同彦太郎・法名聖元)へ続く。
正和元年六月十日 / 冊子 433頁
比志嶋孫太郎忠範が提出した請文。正和元年三月一日付御教書案に従い、馬越田・河田両地頭屋敷の事について、当時の所持・訴訟状況を申し開いたもの。
天正十二年六月一日~八月二十九日 / 冊子 900~921頁
天正十二年六月一日から八月二十九日までの長編日記。覚兼は諸地頭招集、栗野八幡造営、法華千部・高城施餓鬼、甲斐宗運との和睦使節などを処理し、鹿児島で有馬・肥後出兵の軍労や八代支配を協議した。帰国後は祭礼・普請・交際を記し、八月には再度の肥後出勢が決まり、諸勢へ隈本集結を命じた。家久父子の佐土原帰着を祝い、二十九日に馬越の軍議へ向かった。
天正十二年八月下旬~九月四日 / 冊子 923頁
肥前・筑前・筑後・肥後でなお従属しない勢力を平定するため、病中の義久は八月下旬、弟義弘を元帥として薩摩・大隅・日向三州の軍勢を肥後へ派遣した。諸将は九月一日に馬越へ集まって進路を評議し、四日に八代へ到着した。以後の陣中記事は義弘譜に譲る。
天正十二年八月二十九日 / 冊子 924頁
八月二十九日、義弘は義久の命で三州軍を率いて飯野を発し、馬越で軍議を開いた。龍造寺政家が秋月種実を介して和睦を求めたが、肥後・筑後の領地を差し出さない和睦は謀略の疑いがあるとして、八代の使者二人を留め、残る二人を島津方使僧と秋月へ戻して再回答を待つことにした。
天正十二年九月一日~晦日 / 冊子 930~938頁
天正十二年九月一日から晦日までの肥後従軍日記。馬越で龍造寺政家との和睦を審議し、佐敷・八代を経て隈本・吉松へ進軍した。山鹿・隈部・合志・宇土・小代などの帰属、質人、領知条件を交渉し、肥後高札へ加判した。秋月使者と往復して龍造寺から肥後領返還と血判誓紙を得、九月末には境界の軍事行動を抑えつつ和睦条件を詰めた。
永禄十年十一月廿四日ほか / 冊子 170~171頁
永禄十年十一月二十四日の馬越城攻めを中心に、同月二十五日・二十九日などの戦闘で戦死・負傷した将兵を列挙する交名抄。辻大蔵左衛門尉、有馬軍弥左衛門尉、村田右衛門尉、町田忠継、市来家利、伊集院久慶らの名と戦死・負傷等の注記を載せる。
永禄十年十一月廿三日~廿四日 / 冊子 171頁
永禄十年十一月二十三日からの馬越城攻めに従軍した将兵を、義弘・歳久の指揮下に分けて列挙した交名。戦功を挙げた者に加え、辻大蔵左衛門尉、村田右衛門尉、町田忠継、新納九郎らには戦死の注記を付す。
明治2年十月10日知政所(年は朱書) / 冊子 705頁/原整理番号 922の3/整理ID 922-3
薩州伊佐郡内の大口・羽月・山野を合郷して牛山郷、隅州菱刈郡内の本城・曾木を合郷して太良郷、同郡の馬越・湯之尾を合郷して菱刈郷と称するよう定める。原「菱刈七ヶ郷」が小郷であること、兵隊編制・治事上の理由を挙げ、旧名の由緒によって合郷と名称を命じ、地頭と関係先へ通知する。朱明治二巳十月十日、知政所。伊佐郡と菱刈郡の原区分、三組の合郷対応を保持し、七郷全てを菱刈郡へ移し替えず、人口・兵員数・現代自治体との一致や実施完了は補わない。
年月日未詳 / 冊子 375~376頁/原整理番号 85
馬越黒坂寺の由来として、僧盛良の生涯と菱刈・大口攻めでの仲介を記す。使僧が傷つけられて往来が絶えたため、盛良が代わって交渉した。忠元が捕らえた子供を預かり、鎧を持たせて城へ遣わして信用を得ると、自身も城へ入り、大将の意向を穏やかに伝えた。やがて和平が成立し、忠元が大口地頭となり、盛良の居た黒坂寺に田を与えた。寺の繁栄と帰依した人々を記して結ぶ。
巻二/冊子 19~20頁
永禄七年に貴久が陸奥守、義久が修理大夫へ任じられた宣旨と、貴久の剃髪を掲げた後、真幸院・菱刈方面の戦いを記す。伊東氏が三山に要害を築いて飯野の忠平を圧迫し、島津方はいったん攻略に失敗して戦死者を出した。続いて菱刈氏が恩に背き相良氏と結んだため、貴久・義久父子は栗野へ出陣し、忠平は飯野から馬越へ進む。稲荷神の瑞火を吉兆として攻撃を開始し、忠平や新納忠元らの奮戦で馬越城を落とした。菱刈方は大口城へ退き、相良の援軍も入ったため、市山・羽月・曾木などに守兵を配置する。官位と宗教的権威を示しつつ、大口攻略へ向かう軍事的足場を築いた記事である。
年月日未詳 / 冊子 412頁/原整理番号 152
鎌田寛栖が忠元と謀り、肥後進出に先立って出水の義虎と密議し、志岐・上津浦・天草氏を招いた。天正八年には軍勢と多くの兵船を出水へ集め、天草島を経由して進んだ。矢崎城、次いで網田城を陥れ、筑前・筑後などへの進出に迫ったという。義虎と忠元の動きが大守の武勇を四方に広めたと評価する。右嫡家の系図にも見えると注記する。
正保二年一月十日 / 冊子 1頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0001
新納忠清が、金山外垣の縄結いと朽木の取り替えを二十日までに修理するよう各地の役人へ命じた廻状。定番衆の指図に従い、普請衆が欠けないよう主人を付けて堅固に施工し、鹿児島からの検分にも備えるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 82頁
『島津氏譜』の記事。建久五年正月十二日、重妙が菱刈郡太良院に居を定め、本城・馬越・湯尾・曽木・大口・入山・羽月・平泉・山野などを領し、菱刈を氏とした由緒を記す。重妙を宇治悪左府頼長の曾孫とする系譜を付す。
年月日未詳 / 冊子 11頁
町田氏庶流の系図記事。町田三郎五郎が弘治元年四月朔日、隅州帖佐岩剣城の戦いで十九歳にして戦死したこと、兄の死後に新左衛門忠継が家を継ぎ、永禄十年の馬越城合戦で二十九歳にして戦死したことを記す。
永禄十年 / 冊子 160~161頁
永禄十年の菱刈氏征討を中心に記す。七月に義久が樺山幸久と盟約し、冬には貴久・義久・義弘らが各方面の軍勢を率いて馬越・湯尾・横川などへ進撃、十一月二十四日に義弘が馬越城を攻略したため周辺諸城が相次いで退去した。大口城には相良方の球磨・八代勢が入り、各城へ島津方守兵を配した後、市山城への攻撃を受けて新納忠元を守将とした経過も載せる。
永禄十年十一月七日・廿四日 / 冊子 167頁
永禄十年十一月七日夜に福昌寺の直歳寮だけが焼けたことを記す。同月二十四日、伯囿貴久・義久が出陣して菱刈氏の馬越城を攻め落とすと、翌日に本城以下八箇所が放棄され、横川も数日後に島津方へ渡された。
永禄十年十一月廿三日~廿五日 / 冊子 167~169頁
菱刈氏が島津氏の旧臣でありながら相良氏と結んだため、永禄十年十一月二十三日、貴久・義久父子が栗野から湯尾へ、義弘が飯野から馬越へ進んだ征討を詳述する。進軍中に烽火を認めて敵の謀略を警戒したのち、翌二十四日に総攻撃し、義弘らが城門・城壁を破って井手籠父子を討ち、二百余級を得て馬越城を陥落させた。周辺八城と横川が退去・降伏した一方、菱刈隆秋は大口城に籠り、相良氏の球磨・八代援軍が入城した。
永禄十年十一月廿三日~廿五日 / 冊子 169頁
菱刈氏が島津家に背き相良氏と結んだため、永禄十年十一月二十三日、貴久・義久が栗野から湯尾へ、義弘が飯野から馬越へ向かったことを記す。翌朝、義久が諏訪山に旗を掲げて総攻撃し、井手籠氏父子以下二百余級を討って馬越城を陥落させたため、周辺八城と横川が退去・献上された。
永禄十年十一月廿二日~廿四日 / 冊子 169~170頁
永禄十年十一月の馬越城攻めを義弘の働きを中心に記す。城壁を越えようとした辻・有馬・久富の三人が井手籠氏父子に討たれると、義弘が自ら太刀を取って強敵を斬り、諸将も門壁を破って井手籠父子以下多数を討った。勝利後、菱刈の諸城は大口城へ退き、隆秋は相良氏の援軍を得て同城を守った。
永禄十年十一月~永禄十一年正月十八日 / 冊子 170頁
永禄十年十一月、義久・義弘が菱刈院へ進み馬越城を陥落させたため、周辺諸城が大口城へ退いた経過を記す。相良方の球磨・葦北勢が大口城へ入る一方、家久は樺山玄佐・忠知らと平泉城を守り、のち横川城を与えられて飯野警衛を命じられ、翌年正月に長陣を終えた。
永禄十年十一月~永禄十一年十一月 / 冊子 170頁
永禄十年十一月、貴久が馬越城を陥落させ、菱刈諸城の兵が大口城へ退いた後、樺山玄佐が家久・忠知・鹿島光明寺らと平泉城へ入ったことを記す。家久・忠知らが若年であったため玄佐も警固を命じられ、翌年まで守備し、のち病床の日新を見舞って曽木警固へ移った。
永禄十年十一月 / 冊子 171頁
菱刈氏が島津家に背いたため、永禄十年に貴久・義久が出陣して馬越城を攻め、横川城主菱刈中務少輔が同地を島津方へ献じて退去したことを記す。途中の詳細は省略される譜中記事。
永禄十年十一月~十二月廿九日 / 冊子 171~172頁
菱刈重猛が伊東方へ内通したため三之山攻めが失敗し、重猛死後の降参交渉も老臣らの反対でまとまらなかった経緯を述べる。永禄十年十一月の馬越城奇襲で新納忠元が度々奮戦して矢傷を負い、周辺八城が大口城へ退いた後は各城に守兵が置かれた。十二月二十九日に市山守将の市来家利・伊集院久慶らが戦死すると、忠元が市山城守備を命じられ、蒲生の蔵入地などを与えられた。
永禄十年十一月廿四日~永禄十二年五月 / 冊子 172頁
永禄十年十一月二十四日、義弘が般若寺越から馬越城へ押し寄せ、城兵を多数討って攻略した結果、横川・本城・曽木・湯尾・羽月・平和泉・青木・市山が同日に島津方へ入ったとする覚書。大口城は球磨の援軍を得て永禄十二年五月まで抗戦したが、援軍が引き揚げて開城し、新納忠元が地頭となったこと、各地から住民が移されたことも記す。
永禄十年十一月 / 冊子 172~173頁
菱刈重猛が三之山攻めを伊東方へ漏らし、死後も一族の帰服がまとまらなかったため、永禄十年十一月に馬越城を攻めた経過を記す。新納忠元は新納武久・伊集院久宣・有馬純秀らと先登して井手籠父子以下二百余級を討ち、城を陥落させたが矢傷を負った。菱刈隆秋は八城を捨て大口城へ籠り、相良義陽の援兵を得た。
永禄十年十一月 / 冊子 173頁
馬越城攻めで新納忠元が四度の槍合わせをしたことを記す。最初は新納武久、次は伊集院久宣、さらに有馬純秀とは二度ともに戦い、その際に村田右衛門尉・町田新左衛門尉らが戦死し、忠元自身も脇に矢傷を負ったとする。
永禄十年十一月廿三日~廿五日 / 冊子 173~174頁
島津方が小林出勢を装って軍路を転じ、永禄十年十一月二十三日夜に般若寺越・構子木越から馬越城へ奇襲した経過を詳述する。義久・貴久が高地に陣し、義弘らが攻め上って井手籠父子以下多数を討ち、翌夜には周辺八城が放棄された。島津方は各城へ守兵を入れ、菱刈方は大口城へ集結して球磨の援軍を待った。
永禄十年八月~十一月廿五日 / 冊子 174~175頁
菱刈方の野心を察した島津方が、小林出勢と披露して軍勢を横川へ通しながら、実際には軍路を変えて永禄十年十一月二十四日早朝に馬越城を急襲した経過を記す。義弘らが井手籠父子を討って城を落とすと九城が一日で退去し、菱刈方は大口城へ籠った。相良頼房は球磨・八代・葦北勢を動員して大口城へ援軍を入れた。
永禄十年八月~永禄十一年十一月 / 冊子 175~176頁
菱刈家の幼主を立て新恩地を返上して帰服する案を樺山玄佐が仲介したものの、菱刈老臣らが三之山方と通じて破談となった経過を記す。玄佐は内談に関与したため島津諸将から疑われながら馬越攻めに従い、落城後は平泉城の警固を命じられた。羽月・平泉・山野の守備配置が大口城への通路を十分遮断できず、同城を強固にしたとの見方も述べる。
永禄十年十一月以後 / 冊子 177~178頁
新納忠元が馬越城で四度の槍合わせを行い、狩俣で負傷したことを回想する。馬越城陥落後も大口城が球磨勢の加勢で持ちこたえたため、市山城の守備を貴久から命じられ、蒲生の知行を与えられた。大口が島津方へ入った後は地頭に任じられ、長年その職を勤めたとする。
(永禄十年十一月廿四日) / 冊子 191頁
菱刈馬越城攻めの際、友野元真が敵四人と斬り合い、そのうち一人を討ち取ったことを記す奉公覚書。証人として四本越中守を挙げる。
永禄十一年八月十九日~十二月十三日 / 冊子 203頁
大口方の勢力が増すなか日新が重病となり、義久が馬越城で諸所を警戒し、貴久は十一月に菱刈から加世田へ移って看病した。その隙に敵が川上丹後守・堀内某を討ち、救援した是枝大膳坊も戦死した。相良・菱刈両氏は感応寺を介して和睦を求めたが成立前の十二月十三日に日新が七十七歳で没した。貴久は日々供養し、翌年の四七日忌に梅花と追悼歌を献じた。
永禄十一年十一月~十二月十三日 / 冊子 206頁
日新の病状が重いなか、弓箭が一時静まったので樺山玄佐が馬越へ赴き、霧島法印に曽於郡預進後の御礼や小窪名寄進などを約した。その後加世田へ戻って文宗の番を勤めている間、永禄十一年十二月十三日に日新が死去したこと、貴久は看病のため十一月から加世田に滞在していたことを記す。
永禄十二年正月廿四日 / 冊子 212~213頁
永禄十二年正月二十四日、馬越で島津・相良双方の重臣が会合し、和談成立を祝った。島津方が「東西南北の敵を安く平らぐ」と弓謡を歌うと相良方が不快感を示したため、鎌田尾張守が座興で収めた。しかしほどなく深水頼兼が手切れの証拠を示し、和議は破綻したと記す。
天正二年十月二日~五日 / 冊子 345~346頁
天正二年十月二日、大乗院法印に法華経一千部を百十人の僧と十日間で読誦させたことを記す。続いて五日、菱刈氏の使者へ、蒲生救援、横川城・三山城・馬越城をめぐる過去の背反や義弘暗殺未遂を列挙して責め、再度の叛逆なら滅亡は免れないとして居所を替えるよう求めた。
慶長六年正月十九日 / 冊子 743-744頁
本田助允(元親)が自身の知行を整理した覚書。永吉村・入来裏名村・帖佐舟津村・蒲生久徳村・馬越徳満村など計百八十石の内訳と、勝次郎の次男分としての新地、京都への領国安堵使節を重ねた功による加増二百石の約束などを記す。
年月日未詳 / 冊子 220頁
島津久元譜の記事。慶長十四年、久元が菱刈院馬越の地頭職を与えられて同地へ移り、無人の荒地であったため荊棘・竹木を刈って屋敷を営み、のち永村の返地を受けたことを記す。
慶長十四年五月十日 / 冊子 220~221頁
慶長十四年五月十日、馬越内の重富村・馬庭之門・上原田之門などの知行を各石高とともに列記し、合計高を示して比志島国貞へ返地した連署知行目録。
年月日未詳 / 冊子 279頁
島津久元譜の記事。慶長十五年六月に馬越から宮城へ移り、翌慶長十六年十月には鹿島へ移住したことを記す。
(寛永八年)九月四日 / 冊子 230~231頁
薩摩・大隅・日向三州内の十三か村を島津又八郎忠平の新知として宛行う。加治木の日木山・西別府・高井田、帖佐の三拾町・豊留、蒲生の深村、清水の重久、大姶良の西俣、水引の大小路、東郷の山田、飯野の前田・杉水流、馬越の前目を列挙し、合計一万石の知行を保障した家久の目録。
十二月廿四日 / 冊子 123頁
新納忠元が丸田久右衛門尉に宛てた書状。馬越之前目を加増として拝領したことを伝え、明後日二十六日を吉日として、加増地に関する段取り、槍兵への指示、大隅殿への案内と番衆一人の派遣などを命じている。前段には丸田久右衛門尉について、天正五年以来の合戦歴、十六歳以来三十八人を討ち取ったこと、加藤式部左衛門尉を案内者として雇う案などを記した覚が付されている。
年月日未詳 / 冊子 716頁
川上忠興の子忠智を祖とする支流系図。忠智が栗野・馬越・蒲生地頭と家老を務め島津義弘に従軍したこと、忠堅が島原で龍造寺隆信を討つ軍功後に鷹取城で戦死したこと、忠兄が朝鮮役で功を立て父に代わり家老となったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 755頁
島津忠明の子忠次の後嗣忠泰を祖とする大島氏系図。大口内の大島を領して大島を称し、断絶した忠次家を妹の子忠泰が継いだこと、馬越・山野地頭、肥後・豊後征伐と朝鮮出兵、忠盈による再興を記す。
永正13年、天文11年、永禄10年11月23日、天正2年、慶長元年、慶長8年、元和8年8月10日、寛永元年12月1日、寛永2年2月20日、寛永11年1月3日、寛永20年5月8日、慶安3年7月16日、明暦2年3月、寛永3年6月9日、寛文6年7月2日 / 冊子 29~30頁/原整理番号 9-1
鎌田政真の槿花の奇瑞に伴う朝顔二首の和歌を掲げ、鎌田家系を続記する。政春(治部左衛門尉)の系では、大炊助が島津義久の菱刈院馬越攻略に従い、永禄十年十一月二十三日に軍功を立てて戦死した。政在は嗣子のない大炊助の養子で、実は佐多久越後守の弟とされ、薩摩・大隅・日向三州および肥後・筑後・豊後六州の軍場に従い、向島地頭を長年務めた。後裔の政貞は鶴田地頭、政栄は平松・吉松・野田・小根占・大姶良・田代・田布施の地頭を歴任して明暦二年に御使役となり、国治は比志島義之の養子となった。各人の出生・死没・法名、婚姻、早世記事も収める。
〔天正14年〕9月17日ほか / 冊子 341~343頁/原整理番号 130-30
〔天正十四年〕九月十七日の上井覚兼日記。覚兼が瀬戸山大蔵丞宅に泊まった夜、山田越前守の使者から、五日前に美々津から来た者が四国の兵船の豊後渡海と京衆下向の確実さを伝え、市来川上省伴・家村隼人佑の出家した二子が持参した書状にも同趣旨が記されていたと聞く。御家中に策動へ加わる者が多いとの風聞を受け、油断すれば重大だとの警告を了承したと記す。付随系譜では、忠家が菱刈合戦の馬越取合で永禄十年正月二十四日に戦死したこと、十二代包家が天文五年生まれで永禄十二年の渋谷一揆時に祁答院長野口で三十四歳にて戦死したことと多数の子女・僧を列記する。十三代忠宅は永禄七年生まれ、母を貴島氏女とし、大蔵姓から源姓川上へ改め、豊州撤退の夜戦で深手を負ったが本田淡路守親存に救助された。のち市来地頭本田氏との争論で伊集院忠棟(幸侃入道)の権威に押され十三年間牢浪したが、比志島紀州の上聞により赦免され、慶長年間の日州高岡外城取立時に移住して三十二石八斗を加増され、内山之城本丸に居住し与頭役を務め、正保三年正月十八日に八十三歳で没したとする。
年月日未詳 / 冊子 33頁/原整理番号 250
末吉衆中宮里家の由緒を記す根元記の抄録。宮里善兵衛尉の弟助太郎と父隠岐守の来歴を述べ、馬越で伊東清右衛門に奉公したのち、帖佐・本城・曽木を経て慶長六年に末吉へ移り、村田雅楽助に仕えた経緯を記す。