島津義久(龍伯)書状
(慶長五年)八月五日 / 冊子 562頁
島津義久(龍伯)が吉田美作守へ、奥方に奉公する者たちへこの時節は力を尽くすよう申し聞かせてほしいと頼む。使者を上らせたところ京都が騒乱になったと聞いたため、島津義久(龍伯)の息女の傍に確かに付き添うよう求め、存松が病気で用に立てないなか、時節柄とくに心を添えるべきだと伝える書状。
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(慶長五年)八月五日 / 冊子 562頁
島津義久(龍伯)が吉田美作守へ、奥方に奉公する者たちへこの時節は力を尽くすよう申し聞かせてほしいと頼む。使者を上らせたところ京都が騒乱になったと聞いたため、島津義久(龍伯)の息女の傍に確かに付き添うよう求め、存松が病気で用に立てないなか、時節柄とくに心を添えるべきだと伝える書状。
(慶長五年)八月廿一日 / 冊子 568頁
島津義弘(惟新)が吉田美作守へ、島津忠恒(又八郎・家久)の書状により奥方側の置目を吉田へ任せるとの意向を承知し、念入りに処理するよう求める。存松の下向について増田長盛へ出した書状の写しを渡し、口頭でも説明するよう依頼する。美濃垂井の陣は敵と五、六里の近さで戦闘が迫るのに手勢が乏しく、長宗我部勢が五千を率いる一方、薩摩から援軍が一人も来ないと嘆き、留守中の規定も緩みなく整えるよう命じる書状。
(慶長十二年)九月廿二日 / 冊子 130頁
慶長十二年九月二十二日、島津義久が吉田美作守へ、前日の茶湯が誠に祝着で、老体ながら一段と面白く過ごしたと礼を述べた書状。
(天正20年)2月21日 / 冊子 531頁
唐入りに伴う役務について四名が肝煎りしていることを「誠に大切」と評価し、国家のための重大な時節なので、なお一層油断なく尽力するよう励ました書状。本文の「徳役」の具体的内容は断定せず、渡海準備を担う在国実務者への督励として整理する。
(文禄元年)4月1日 / 冊子 540~541頁
島津義弘が、渡唐に必要な米・船・人員などの処置を示し、国元の重臣四名に相談のうえ速やかに実行するよう求めた書状。軍船・兵粮・人員の調達遅延が出陣と家中の体面に関わるとして、各所への催促と役割分担を厳しく督促する。
(天正20年)4月2日 / 冊子 541頁
落合重次が、長く書状を送らなかったことを詫び、鷹之巣の件で朱印を受けたものの、椎葉山に以前からの主張があるため下向を延引していると伝える。先に使者を遣わして根拠を調べ、前年に置いた鳩もこの便で渡してほしいと頼み、朱印を持参したので受け取るよう四名へ求めた。
(文禄2年)7月12日 / 冊子 715頁
義弘から「もくそ城」落城の注進が届き、秀吉が大いに感賞したと伝える。 自身の渡海も急に命じられたが心配は不要とし、毛利壱岐守との協力を評価しながら、今後も当地の用務を遠慮なく申し付けてほしいと応じた書状。
文禄3年7月28日 / 冊子 801~802頁
福崎能安が御広間・台所門の造営で材木調達を任されても、職人から金銀・米銭などの礼物を一切受け取らないと誓う。国元で受け取る米と売却代金、名護屋への替米、薩摩・大隅・日向から上った米にも私的流用がないと明記する。 摂津国能勢郡の代官所でも朱印高を守り、増徴や着服をしないと神仏へ誓約する。建築資材・兵粮米・代官経営にまたがる収賄と横領防止の起請文。
文禄4年6月17日 / 冊子 890~891頁
安宅秀安は、取次役の決定、老中役の免除、家中の訴訟や処分、京都と国元の連絡方法などを箇条書きで定める。 竜伯への奉公や三成との関係にも触れ、讒言・私的対立を避けて法度を堅固に運用し、家中の秩序を保つよう求めた政務覚書。
年月日未詳 / 冊子 327頁
油津周辺で伊東方の守備と輸送を遮断するため、島津久豊方が船団・騎兵を動員した戦闘記事。平田重宗・伊地知久安・大寺美作守らが海路と陸上の陣地を分担し、宮崎・油津間の船運を押さえながら敵の補給と援軍を妨げようとした攻防を記す。
享徳元年六月十二日 / 冊子 427頁
島津忠国が北郷持久へ、豊州飲肥福嶋への移動に伴って召し移された美作守の本地日置八十町に代え、宮之浦ほか九十五町を合わせた百十町の替地を申請して受けるよう命じた宛行状。
(明応四年)六月廿九日 / 冊子 568頁
島津忠昌が肝付次郎左衛門尉に、加治木方が帖佐城へ攻め寄せたとの報を伝え、社家衆・本田氏・日置美作守らとともに防戦へ加わるよう求めた書状。
「享禄二年」六月八日 / 冊子 701頁
隈江匡久が本田因幡守に、祢寝氏を介した交渉や大寺美作介の派遣について述べ、今後の取り計らいを求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 796頁
天文十年、島津忠広の臣日置美作守が伊東義祐勢との戦いで討死したことを記す。日付を九月三日または三月三日とする異説や、同族新納氏の戦死者も挙げる。
年月日未詳 / 冊子 93頁
永禄四年七月、島津忠将が戦死した竹原山合戦で、その後も戦場に踏みとどまって防戦し、敵を討ち取った従軍者として瀧聞美作守・梅北刑部左衛門を挙げる交名。
年月日未詳 / 冊子 95~97頁
島津方が大牟礼・馬立・竹原山から廻城を包囲し、降伏をめぐる評議ののち、七月十二日に肝付勢の攻撃を受けた経過を詳述する。竹原山・馬立で忠将以下が戦死した一方、大寺大炊助・瀧聞美作守・梅北刑部左衛門らが奮戦し、敵を恒吉方面へ退けた。
年月日未詳 / 冊子 107頁
永禄五年六月三日の横川城攻防に参加した島津方の従軍者と働きを列記する交名。箕匂舎人佐・村田雅楽助・瀧聞美作守・本田刑部丞らを挙げ、濱田民部左衛門が敵七人を切り捨てたことなどを記す。
天正元年九月廿七日~十一月中旬 / 冊子 317頁
天正元年九月二十七日の早崎・咲花平着陣と小浜城攻略を詳述する。島津方は激戦の末に城柵を破り、伊地知美作守を退去させたが、伊集院久春が重傷、肥後平三郎らが戦死した。牛根城包囲中の野戦では白胴服の武者が単騎で敵首を挙げ、周囲を叱咤した逸話を載せる。肝付領の通路を遮断するため、十一月中旬に歳久・以久を大将として平床へ陣を進めた。
天正元年 / 冊子 318~319頁
天正元年九月二十七日の小浜城攻略から牛根城包囲、早崎陣夜襲までを記す。小浜では敵百余人を討ち伊地知美作守を退けたが島津方にも戦死者が出た。諏訪神事で主力が帰還した隙に肝付勢が山道から陣へ侵入すると、留守将島津家久は少数を励まし、島津忠良の教訓歌を唱えて敵中へ斬り込み、河南安房守らを討って敵を牛根へ退けた。
(天正元年九月廿七日) / 冊子 319頁
伊地知重興・肝付省釣方との戦いで、島津軍が早崎野から敵兵を城へ追い込み、城地頭伊地知美作守が逃亡したため城を攻め取ったことを記す。大将は島津家久であったとする。
天正二年八月八日 / 冊子 342頁
入来院重豊の陰謀が露見したが、義久は直ちに討伐せず、先非を改め忠節を尽くせば赦免すると諭した。重豊は八月八日、家臣山口筑前守・東郷美作守を遣わして降伏と所領献上を申し出る。義久は所領を欲するのではなく旧領のままでは衆人の疑いが残るとして、所領替えと誓紙提出を求めた。
天正六年十月十九日以後 / 冊子 596~597頁
大友宗麟・義統の大軍が高城を包囲し、家久・山田有信らが籠城した状況を記す。義久が救援出馬を急ぐと、老将滝聞美作入道は千兵は求めやすいが一将は得難いとして、まず紙屋城で境目の報告を待つよう諫めた。義久は他国の大将と決戦することは前代未聞と出馬し、佐土原到着夜に『立田の河の紅葉哉』の夢想を得て『打つ敵は』と補った。
天正六年十月 / 冊子 598頁
大友軍が高城へ迫り、家久・山田有信らが籠城したため、救援か後詰かをめぐり評議が割れた。滝聞美作入道は義久の身を第一として紙屋城で境目の報告を待つよう諫めたが、義久はその忠言を認めつつ老功の者に任せて決戦を選び、耳川で大勝したと記す。
(文禄五年)九月十七日 / 冊子 47頁
石田三成が島津義弘へ、帰国の報を喜び、吉田美作・白浜次郎左衛門・福崎新兵衛尉の加増は竜伯と相談して扶助するのがもっともだと伝えた書状。長寿院盛淳への讒訴に注意して糺明すること、朝鮮在陣や度々の上洛で辛労した奉公人にも加増することを求める。
(慶長四年)十二月廿一日 / 冊子 478~479頁
太田一吉が羽少将の側近へ、前日二十日に内府徳川家康へ拝謁し、少将の軍功について格別に懇ろな言葉を得たので安心するよう伝える。勘兵衛が道中でも丁重に扱われた事情を語り、山口勘兵衛が家康の意向を少将へ伝えるはずなので、山口と親しく相談して適切に返答するよう求める。寺沢・兵庫にも相談し、源二郎へ家康から命じた件を早急に協議して、その返事を山口と謀り合わせて上申するよう促す。返書は美作を介して臼杵まで早船で届ければ、滞りなく取り次ぐと約する。
八月八日 / 冊子 562頁
近衛信尹が島津義久(龍伯)へ、先日の美作を介した音信への返事を送り、すでに届いたであろうと述べる。今回の伏見の仕合は誠に不思議千万で言語に尽くせず、詳しい様子は島津義弘(惟新)から注進があるはずなので書き尽くさず、特段の用事はないが使者の便に一筆したと伝える書状。
(慶長五年)八月十六日 / 冊子 563~564頁
島津義弘(惟新)が少将殿へ、小傳次兄弟・母や幸侃妻子の下国について、自分は当初暇を与えておらず、徳川家康側の強い勧めを受けて帰した経緯を詳述する。三郎五郎・千次の下向は承知していなかったとも述べる。自身は佐保山から美濃垂井方面へ陣替えするが兵が少なく、春松が病むため、島津義久(龍伯)の使者吉田美作守を留めて留守中の用を任せ、奥方の傍に仕える者を急ぎ上らせるよう求める書状。
(慶長五年)九月七日 / 冊子 574~575頁
島津義弘(惟新)が少将殿へ、美濃大垣城にいること、八月二十三日に敵が岐阜城を落として近江への通路を遮断したが、薩摩勢の迂回により通信が回復したことを報じる。薩摩から二百八十七人が到着したことを知らせ、隣国からの誘いに軽率に応じず龍伯と相談すること、老中二人を差し上せることを求める。さらに大坂の奥方側の主取を吉田美作守に任せ、担当者同士が対立しないよう命じる書状。
年月日未詳 / 冊子 592頁
関ヶ原敗戦後、小西美作守が島津方へ、旧小西領の肥後国宇土・八代を加藤方が奪おうとしているとして援兵を求めた。太守の島津忠恒(家久)はこれを許し、島津忠倍を肥後国葦北郡水俣へ派遣した。
年月日未詳 / 冊子 596頁
久千は、子のなかった吉田美作守清孝の猶子となり、清次と改名した。慶長十年四月十七日に二十七歳で死去したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 600-601頁
豊後の居城にいた太田飛騨守・美作守が関東方諸将の先陣に迫られたとの報を受け、島津忠恒(家久)が野村符野介と本田新介に数十人の歩卒を付けて派遣した。両名は太田氏らの往還を安全にし、復命するとともに太田父子の返書を持ち帰った。
年月日未詳 / 冊子 378頁
島津忠清一流の系図。忠清の弟忠栄の子孫として久基・鎌菊・弥市郎・美作守・民部少輔らの名と出生・母・養子関係を記す。
(寛永六年)三月廿三日 / 冊子 93頁
島津家久が、上洛後は天候が続いて順調に到着しただろうと述べ、美作守が突然病気になり、医師理心の薬で養生していると報告する。家久も二度見舞い、脈は良いので回復を期待し、追って経過を知らせるとする書状。
(寛永十二年)三月廿三日 / 冊子 476頁
島津家久が本田伊賀守へ、上洛後は好天が続いたので無事に到着しただろうと述べ、美作守が急病となり医師理心の薬で養生していること、自身も二度見舞い、脈は良いため回復を期待して続報を送ることを伝えた書状。
(寛永十二年)四月三日 / 冊子 477頁
島津家久が江戸から国元の家老へ、帰国や暇の見通し、城中での能・踊り、自身の無事を知らせ、美作守の死去を悼む一方、別人の快復を喜び、祈念を頼み、詳しくは使者が伝えるとした仮名書状。
七月五日 / 冊子 307頁
島津忠昌が、村田肥前守が多年自分たちに緩怠であったことを述べ、肝付氏に境目のことを頼み入れ、美作守も同意向であるとして、委細は使者から聞くよう求めた書状。本文の宛所は肝付三郎左衛門尉、上包は肝付二郎左衛門尉と記す。
元亀三年九月廿六日~廿七日 / 冊子 292~293頁
元亀三年九月二十六日、島津義久が弟歳久を大将として下大隅へ派遣した。軍は樫島に船を繋ぎ、翌日瀬戸を渡って早崎高峰に陣し、伊地知重興領の小浜古城を攻めた。義久も古江浜へ船を進めて士気を高め、同日落城させた。島津方の戦死は肥後平次郎ら三人、伊集院久春が負傷し、小浜を前陣と改称して越年した。
天正九年八月 / 冊子 696~697頁
相良義陽が北原・菱刈との戦いや耳川出陣時に敵対したため、島津義久が三州の大軍で水俣城を攻め、新納忠元も談合衆として先陣の家久勢に加わった経緯を記す。矢文連歌を交わしたのち、義陽が水俣・津奈木・湯浦・佐敷・市之瀬と息子兄弟を差し出して和降を願い、囲みが解かれた。
年月日未詳 / 冊子 285頁
島津義久らが三重城に到着し、城内の人員・兵糧・武具を確認したうえで、翌十七日に進発したことを記す。豊後撤退の途中で一夜を過ごし、態勢を立て直して移動を再開した短い記事である。
建治三年九月十三日 / 冊子 298頁
美作国河会郷内十町村河北の所領について、平氏の字竹鶴が知行すべき旨を下知し、関係者に沙汰を命じた文書。
建武二年五月七日 / 冊子 635頁
美作国林野保内平野村一分地頭平氏女の色田一町について、相違人の濫妨を停止し、子細があれば注進させたうえで本来の知行を回復するよう命じた雑訴決断所牒。
元禄十三年九月十四日 / 冊子 232–233頁/整理ID 798
進藤筑後守長房ら近衛家諸大夫が新納美作久珍へ、中将島津綱貴が亀姫と近衛家久の縁組を了承し、蓮光院から委細を聞いて近衛基熙・家熙父子が大いに喜んだと伝えた連署状。陽和院の意向も了承したが、公儀へ願い出る前なので正式な返書は遠慮し、蓮光院との対面で口上を伝えたため、その趣旨を心得るよう求める。
天保5年11月28日 / 冊子 1005~1006頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2737
白木御文書九番箱中四十番の知行目録。市田美作義宜に高五百石を与えるもので、蒲生漆村、帖佐豊留村、市来大里村、鹿児島郡吉田本城村、志布志原田村・月野村、山之口村、諸県郡高城穂満坊村、勝岡蓼池村、飯野今西村・池島村・原田村、東郷田海村、山崎久富木村、阿多宮崎村・白川村、樋脇市比野村、鰐田柏原村、薩摩郡山田村、伊集院春山村・麦生田村、水引五代村、河辺浦之名村、串良細山田村、小林細野村、高原水流村、郡山村、谷山山田村などの本高・庄屋浮免・作職浮免・屋敷から合計五百石を宛て、名寄帳は別冊にあるとする。御台様の由緒により厚い内沙汰があり、市田が城代を命じられて役料高を受けるところ、さらに別段の思召しで前年四月に拝領を命じられた知行である。天保五年十一月二十八日、島津但馬久風・菱刈安房隆観・諏訪治部武敬連署。
建徳二年六月二十七日 / 冊子 271頁/原整理番号 55
島津武久が酒匂美作守へ、野州跡の譲りを拝領しているものの和泉庄地頭職について御免がある以上、静球と一族の知行分は故殿の定めどおり相違させないよう示した書下。永吉内の給分と杉・朝岳・井口三人分についても違変のないよう定め、相手に申し伝えるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 314~315頁
応永二十八年、島津久豊が兵を徴し、伊集院頼久方の隈城を攻めさせた経過を記す。羽島新三郎・奈良美作らが出兵・攻城し、克久・忠朝ら一族も軍事・所領処置に関与した。落城後の所領給与と反乱勢力の鎮圧を通じて山門院支配を再編した。
元亀三年九月廿六日~廿七日 / 冊子 293頁
肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興が廻城を奪って島津氏に敵対したため、元亀三年九月二十六日、島津歳久を大将とする下大隅征討軍に忠長も従軍した。翌日、早崎高峰に陣して伊地知重興領の小浜古城を攻め、義久も古江浜へ進船して軍勢を励まし、守将伊地知美作守の城を落として前陣と改称した。
文禄4年3月7日 / 冊子 868頁
島津義弘が書状と贈物の到来を喜び、在京する供衆の苦労にも配慮するよう三名へ頼んだ書状。明から新たな来訪がないため、朝鮮での在陣は長期化すると見込んでいる。 吉美作・喜大炊・平豊前らから届いた音信や樽への返礼ができない事情を伝え、後日あらためて連絡するとする。長期在陣中の国元連絡と贈答実務が分かる。
(慶長五年)十月廿七日 / 冊子 603-604頁
島津義弘(惟新)が忠恒へ、図書頭を出水の在番に留めて境目の警備を徹底し、川内・八代間の舟運と京泊の通行を監視するよう指示する。さらに小西美作守の人質確保や伊集院源次の弟の処遇について念を押す。
年月日未詳 / 冊子 646-647頁
駒野で島津義弘(惟新)が花色の木綿衣を着け、同色の手拭で髪を包み、矢野主膳が用いた鞍に敷き替えて馬に乗ったことを記す。伊勢平左衛門が先導し、山間の道を夜通し進んで住吉へ至った。大坂屋敷にいた相良日向・吉田美作入道・新納孫右衛門・上原右衛門佐らも船で兵庫へ追い付き合流した。
七月廿九日 / 冊子 63頁
喜入忠政(のち忠続)が、薩州様の息災、黄門様の江戸在府、若君様の成長、美作守の快気を喜び、帖佐長右衛門尉に薩州様への取次を頼んだ書状。本文は「喜入摂津守忠政」署名、巻末目録は改名後の「喜入忠続」名で掲げており、同一人物の改名前後名として整理した。