三原重庸書下
寛永四年正月廿五日 / 冊子 29~30頁
三原重庸が、検分済みの仕明地の石高をそれぞれ領主の持高へ加えるよう命じる。老中も差出書を閲覧しており、後日の境界・権利争いはこの文書を証拠として裁定するよう定める。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
248 件 (全巻)/ 1–50件を表示
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寛永四年正月廿五日 / 冊子 29~30頁
三原重庸が、検分済みの仕明地の石高をそれぞれ領主の持高へ加えるよう命じる。老中も差出書を閲覧しており、後日の境界・権利争いはこの文書を証拠として裁定するよう定める。
三月廿五日 / 冊子 450頁
先刻の見舞いに礼を述べ、久しぶりに対面でき、相手が元気で達者なのを喜び、後日落ち着いて話したいと伝えた島津光久書状。
十一月十八日 / 冊子 440頁
使者と琉球酒一壺への礼を述べ、将軍は機嫌よく、最近も数寄の催しで細川三斎・松平肥前守・立花立斎・酒井忠勝に茶を下されたので安心するよう報告した永井監物書状。
年月日未詳 / 冊子 127~128頁/原整理番号 202
喜入摂津守の地頭所・加世田衆中に属する小川監物の日記。十三日、殿様が有馬へ直行したと聞き、加世田衆十五人が召し列ねられ、同道して七ツ時に有馬へ着船し、諸大名の陣屋と敵城を見物したと記す。以下は十四日条へ続く。
年月日未詳 / 冊子 130~131頁/原整理番号 210
小川監物日記。十四日朝に殿様の船が着き、直ちに上使の陣へ見舞って暇を得て船へ戻った。摂州様も帰国に供奉することとなり、十五日から船々が順次出航したこと、豊州様らへ落着を尋ね、二十一日に仁礼佐渡守が三分の一の帰衆を率いて出船したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 140頁/原整理番号 234
小川監物日記。摂州様も帰国に供奉することとなり、十五日に上津浦を出船したと記す。目録年月日欄は空欄。
(永禄二年)三月三日 / 冊子 69頁
琉球国三司官が島津氏老臣に、唐商人来航に備え、貴国商船が来航した際には従来どおり武具・腰刀を那覇で預かり、出船時に返すこと、印判のない船を受け入れないことを求めた書状。織物九端を添える。
年月日未詳 / 冊子 305頁
得能氏記録。越後堀家で堀忠俊と家臣堀直寄・堀監物らの間に権威争いと讒言が生じ、家中統制が崩れた経緯を記す。幕府の裁定、改易・追放、関係者の処分や後日の消息を詳述し、家臣の忠節と主家統治を論じる。
年月日未詳 / 冊子 207頁
四月二十三日、大御所秀忠が御鷹で捕らえた水鳥を永井監物を使者として光久に下賜し、光久が登営して拝謝したことを記す。
(寛永十二年)十一月七日 / 冊子 506頁
西監物純政・林田図書助重正・堀斎助純俊が島津弾正へ、十月二十七日付の書状を十一月二日昼に受け取ったと報じ、キリシタン改め中の往来管理を回答した連署書状。島津領から往来する奉公人・町人には島津弾正の印判を持たせ、百姓は各地の衆の手形で通行させること、別紙に記された六名を境目の者へ申し付けることを伝える。本文日付は寛永十二年十一月二日で、索引の十一月七日とは相違する。
年月日未詳 / 冊子 190頁
二月、秀忠が隅田川辺で鳥銃により得た白鳥を内藤外記を介して家久へ与え、家久が登城して謝したこと、二十一日に山里の数寄屋で家久が正客を務めたこと、二十二日に駿河蜜柑一箱を拝領したことを記す家久譜の記事。
文化13年7月26日(本書・年は蓋紙)/8月18日(到来) / 冊子 496頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1510
白木御文書八番箱中十三番。蓋紙は文化十三年子八月、御記録所宛で、順姫誕生月日と閑姫生母の仰出の問い合わせを標題とする。朱書は「順姫様御誕生月日・閑姫様御生母被仰出付而之事」、八月十八日到来、肝付孫兵衛ほか二人便と記す。本書では順姫の誕生日を文化十年酉十二月十二日と掲げ、但し御内実は同年十月十二日と区別する。閑姫の生母は佐藤氏女と記す。この通り以後間違いのないよう帳面に記し置くよう仰せ出され、承知するよう申渡し、御記録奉行へも申渡したことを伝える。智姫様・お八百の御方に申し上げ、その元でも申し渡す件を取り計らうよう求める。七月廿六日、新納内蔵から川上右近・町田監物・嶋津安房・鎌田典膳へ。右二通を一冊とする末注がある。順姫の記録上の生日と内実日を統合せず、既読1310・1322の母系記載との違いも留保する。
文政元年(目録。本文に月日なし) / 冊子 536頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1625
重豪公御譜中の記事。斉興が在国しているこの年、江戸藩邸の諸司に酒宴・奢侈やひそかな閑微行をする者があった。隠居して高輪邸にいた重豪はこれを聞いて悪み、自ら筆を執って奢りを禁じ法を守ることを書き、守邸家老町田監物久視に命じて邸中を警めたと記す。末尾は「如左」として次の諭達へ続く前置であり、具体的な条項本文は1626に収める。文政元年は目録による。記事自体には月日や処分実施の記載がない。
文政元年7月(年は朱書。8月17日は引渡・収納注記) / 冊子 536~537頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1626
正文は文庫にあるとする。重豪は監物に、従来の沙汰を忘れず屋敷取締を行き届かせ、万事を弛めないよう命じる。格別の省略に伴い着服も質素にし、近来の華美を戒め、特に重役は慎み、無益・遊興を抑え、客の取扱も手軽にする。日夜用向を取調べる時節なのに、他出が度々あり、内外の打寄り酒宴や屋敷内への婦人の入込みを聞くとして、殊に留守中に役を弁えない行為を戒める。程度が過ぎて緩み不慎となっているが、今回は用捨し、今後は入念に守り、一統へ申渡し、目付役にも取締と念押しを命じる。側役の用務外出は人少なくても差留めず、承届けの上で差し出し、用済み後は遅滞なく帰宅させる。留守居は諸家の家風を考慮しつつ、年限中の取締・質素と省略の事情を思慮する。家中一統も年限中は格外の倹約を行い、着服等に事欠かないよう細かく手当する。奉行頭人は自ら支配下へ伝え、書役・小役人まで洩れなく差図する。一統が取違えないよう念押しし、近くの出府に備え供人の末々まで周知する。末尾は朱書文政元年、七月、監物に。包紙は大御隠居様御筆仰出とする。右注の八月十七日は、右近殿が得能正助へ渡し、白木御文書八番箱二十三番に収納した日付である。年限の具体的長さは本文から確定しない。
文政元年7月(年は目録・前後記事) / 冊子 537頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1627
斉興公御譜中の記事。この年七月、斉興は在国しており、江府藩邸の諸有司には酒宴を行い、ひそかに閑微行をして遊惰の風を作す者があった。高輪邸にいた祖父重豪はこれを聞き、自ら筆を執って禁令を出し、守邸家老町田監物久視に命じて邸中を警めたと記す。その文は大父公譜に載せるとする。1625が重豪公御譜側の前置、1626が諭達本文であるのに対し、本記事は斉興公御譜から同じ禁令の事情を記している。日や個別の処分実施は記さない。
文政2年(目録・関連文書。本文に月日なし) / 冊子 551頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1666
重豪公御譜中の記事。重豪は江戸高輪邸にいて国政を助けていたが、費用が多く、近年の朝覲を憂慮したとする。側用人向井十郎太夫友益と側役堀殿衛愛衆を国元へ遣わし、費用を省き財を生ずることを命じ、手ずからその趣を書いた。家老町田監物久視に命じて斉興へその内容を伝え、久視が斉興へ報告した。斉興は、老年の重豪が政務に心を労していることを痛み、自ら筆を執って家老中へ命じたとし、末尾は「如左」とする。御譜の前置記事であり、費用節減の具体的実績や金額を記すものではない。文政二年は目録・関連文書による。
文政2年3月(朱書。閏4月7日は引渡注記) / 冊子 551頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1667
正文は文庫にあるとする。所帯向が難渋しているため、向井十郎太夫・堀殿衛を大坂および国元へ差し下すことは軽くない時節の事であり、既に勤向に差し支えるほどの事情なので、格外の仕向を申付け越すと記す。去年来の趣意はまだ治定していないが、その通りに取り扱い、精細に勤弁し、繰合が整うよう国元の同席中で相談して取り計らうことを命じる。若年寄・大目付には、そちらから委細を申し越すよう求める。末尾は朱書文政二年、三月、監物に。書誌注記には、白木御文書八番箱中二十七番にあり、文政二年卯閏四月七日に内蔵殿から川上五後右衛門へ渡した記録があるとする。三月の本文と閏四月七日の引渡日を区別する。難渋への指示・伝達文書であり、未治定の趣意や繰合が実際に整ったとまでは記さない。
文政2年3月(年は目録・関連文書) / 冊子 551頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1668
斉興公御譜中の記事。この年三月、祖父重豪は江府高輪邸にいて国政を助けていたが、内外の費用が甚だ多く、参覲往来の費用を憂慮していたとする。側用人向井十郎太夫友益と側役堀殿衛愛衆を国元へ遣わし、費用を省き財を生ずることを命じ、さらにその内容を親書にした。家老町田監物久視に命じて斉興へ知らせ、久視が報告した。斉興は、祖父が老年にあって政務に心を労していることを痛み、自ら筆を執って副書を作り、家老中へ命じたと記す。末尾は「如左」とする。1666の重豪公御譜側の記事と同じ伝達経過を、斉興公御譜側から記した前置であり、具体的な節減実績や金額は示さない。
文政2年11月9日(年は目録。添状11月3日、到来12月14日) / 冊子 568~569頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1710
白木御文書八番箱中三十一。口裏朱書は左近の実名に付の事とし、十二月十四日に急飛脚便で到来した旨を記す。左近には重豪の男子との傍注があり、実名久亮にアキラの読みを付す。先年こちらにいた間は久亮と称し、有馬家への養子入り後は一純と称したが、事情が変わった後は先年通り久亮の実名を用いると知らせ、記録奉行へ申し渡しておくよう求める。別紙を添えて送り、その他の取扱いは考え次第とする。記録奉行への従前の申渡しを付記する。十一月九日、町田監物署、川上美濃・嶋津安房・市田長門・新納内蔵宛。添状は十一月三日、有馬糺から町田監物へ。同じ名の経緯を述べ、事情変更後は本の通り久亮を用いるので記録奉行へ申し渡すよう求める。年と久視の実名は目録による。町田書状・有馬添状・急飛脚到来の三つの日付を区別し、養子入りそのものを十一月の出来事とはしない。
文政5年10月14日書状/前日13日の供奉・退出報告 / 冊子 634~635頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1876
全御譜中・扣の正文在家老座の所在注を持つ、早川千竃(兼備の小注)から監物への書状。十月十四日付、文政五年は朱注。前日十三日に大御隠居が六時に供を揃え吹上御庭へ向かい、坂下・冠木門で下乗したと報告する。早川自身と刀番三人、草履取一人・草履持一人が供をし、挟箱一つを携え、御徒目付・御小人目付に案内されて紅葉山下の番所で休息する。須田與左衛門が本人を案内し、供は小人目付の差添えで矢来門を通って半蔵門番所の勝手へ回る。使番馬場長次郎の連絡を受け、早川と刀番二人は籠で吹上役所へ控える。御小人目付伊丹分次郎から退出時刻との知らせがあり、供揃えの指示を受け、新御門で待つ。本人は須田の案内で、門外から駒寄・窪を御徒目付の先導で進み、暮時前に退出した。料理、鷹羽合、拝領もあったという。追而には、退出途中に水野出羽守へ内々の使者を命じられ、直に同人の勝手で用人山田應助と会ったことを記す。口上は、当日の見物・料理・鷹羽合・拝領への謝意と、御礼は翌日に申し上げたいことを伝える内容である。用人は、その意向を受け、返答は取り継ぐと述べたという。供奉者自身の報告と口上の引用を区別し、翌日の御礼を実施済みとは扱わない。入力の千蔵・兼綱を原本の千竃・兼備へ、須田興左衛門を與左衛門へ訂正する。
文政5年11月19日本書/12月18日朱返答(年は朱注) / 冊子 637頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1884
町田監物が、大御隠居による吹上御庭拝見後の恩赦取扱いについて、川上美濃・嶋津安房・新納内蔵へ先例を照会する。料理を頂戴し、鷹の羽合を命じられ、品々を拝領するなど一連の行事が滞りなく済んだことを述べ、これまで同様の例がなく格別の慶事なので恩赦を行うべきか、前年卯年に公方・右大将が御目見した際の取扱いを調べるよう求められたと伝える。隠居が先例に応じた取扱いを望むため、調査して知らせるよう依頼し、十一月十九日付で結ぶ。朱返答には、本文を承知し、前年の御目見を先例として来る二月十五日までに調査結果を出すよう大日付へ伝えた旨がある。本書の署名に「上」、川上美濃ら三名の前に「下」、その前に十二月十八日の朱日付があり、目録も同日の家老連署返書として立項する。主書と朱返答の日時・署名を分け、恩赦の実施済みを意味する記事とはしない。
文政7年4月3日(本書)・5月2日(返答層) / 冊子 704~705頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1996
上野帯刀が川上美濃守らへ、御臺様の神田橋屋敷立寄りに際する重豪の伺候と拝領、斉興らの礼勤について問い合わせた書状。先月十六日の老中からの呼出し、二十七日の来邸、九鬼長門守が重豪の名代を務めたこと、御精進日・大奥への祝儀、翌二十八日の礼勤、鯛や反物などの献上を記す。末尾は四月三日付上野帯刀署、川上美濃・町田監物・新納内蔵宛。五月二日付の返答層では、前年の同様の例を基に内証への祝儀を相談し、御留守居の首尾書等を添えて返す。
元禄十三年十二月十八日 / 冊子 234~236頁/原整理番号 11
吉利治部忠名が猿渡監物へ与えた古系図写に関する証文。猿渡藤三郎信元から二十代喜右衛門までの系図は吉岡宮内太輔久喜の自筆写で、原本焼失後に返却したため後代まで大切に保管するよう述べる。市来源右衛門家年の証文や、田中国明・隈元太市左衛門を介した系図・旧記照合の経緯を付載する。
寛文二年十一月 / 冊子 449頁
上意により川辺山関係の支配を永く拝領させることを、原左衛門・町田監物の印判をもって認めた寛文二年十一月の島津光久朱印状。
「寛永十八年」四月廿七日 / 冊子 152~153頁
長岡興長・阿茶監物が島津家重臣へ、出水近海に流着した無人船の調査と沿岸警戒について報じた連署書状。船内外に生貝・生蠣が付着して長期間漂流した形跡があり、長崎へ向かう唐の釣舟で、付着した貝も高砂辺のものとする見立てを伝える。島津光久の命で出水周辺や領内の島々・浦々を警戒し、山田民部少輔有栄が出水へ赴いたこと、肥後側でも水俣に近い芦北郡や領内の津々浦々・山中を厳重に捜索したことを記している。
(貞享三年)八月四日 / 冊子 777~778頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2021
宮城監物が木脇刑部左衛門へ、大隅守領内の西長目に漂着した安南船の唐人五十八人が警固付きで廻送され、人数に相違なく受け取り、警固役を帰したこと、唐人差出帳面も受領したことを報告した書状。
(貞享三年)八月十七日 / 冊子 779頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2028
宮城監物が島津図書・中務・大学・新納又左衛門へ、去る六日に家来方へ届いた使札を拝見したと返答する。佐土原の島津式部少輔家来を討ち果たした際の手負・死人の人数書付を送り、一見し、市来治左具に伝えて念を入れたという旨を承知したと述べる。
文政2年5月28日(本文日付。6月26日の朱注を併記) / 冊子 558頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1684
重豪公御譜中、扣正文は家老座にあるとする。この見出しに続く御目見願の一件には、朱書で、案文を御右筆頭へ渡し、快復したうえで御目見願を差し出すよう仰せがあり、恐悦・同意すると伝える本文が採録されている。通常文字の本文は、水野出羽守の留守居呼出、重豪の快復を受けた御目見願、願書の内見・受取を報告する。末尾に文政二年五月二十八日、上の町田監物、下の川上右近、六月二十六日の朱注、嶋津安房・市田長門・新納内蔵の三名殿を記す。町田久視は目録による。1684の出典見出しと1685の本文は原本上で続き、各通を独立に切り離せないため、同じ範囲を文脈付きで参照する。上下の署名・日付と三名殿の対応は留保し、同一の書状が二通あると断定しない。
文政2年6月13日(本文日付。7月13日の朱注を併記) / 冊子 561~563頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1695
重豪公御譜中、扣正文は家老座にあるとする。出典見出し1695に続く長文1696と朱書返答は、重豪の快復・御目見願・登城・御礼の経過、親類や京都・大坂への通知、太守と大奥の勤向、月次御礼などを収める。朱書の本文致承知達には、御目見・御礼の報告を承知し、案文や御使の取扱い、祝詞と女中方への差図、薩摩守への祝儀、琉球館聞役・佐土原への通知などを伝える内容がある。末尾に御目見済みを恐悦・同意する旨と、願書・案文・留守居首尾書を送ると記す。文政二年六月十三日、上町田監物、下川上右近、朱七月十三日、嶋津安房・市田長門・新納内蔵殿を掲げる。町田久視は目録による。出典見出しと同じ範囲を文脈付きで参照し、上下の各通の日付署宛対応を留保する。通常文字の報告と朱書返答を単一の発給本文に統一しない。
文政3年11月(年は包紙朱書。本文は「十一月」) / 冊子 589~590頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1770
白木御文書八番箱中三十九号にある、監物から渡された御書付の写。珍之助の死去に付き、公辺へ忌服の届を申し上げた際の続柄を記す。珍之助には斉興男の注、普之進には久光の注がある。内実は五男で、普之進の舎弟に当たるが、普之進にはまだ公辺への届などがないため、別段の思召によって四男として届けた旨が申し来たとする。この経緯を記録奉行へ伝えるよう、然るべき向へ申し渡す。本文は十一月、監物と記し、監物には町田久視の注がある。包紙の朱書三十九号にも、珍之助の忌服書を普之進の兄の続柄で届けた件として、この書付の通りと記す。さらに文政三年辰11月8日、高橋峠からの申付を木場源七が承知し、白木御文書八番箱へ納置したことを記す。本文の月と包紙の納置日を区別し、実際の五男という記載と届出上の四男という扱いをともに保持する。本文の「舎弟」と包紙の「御兄」は異なる記載として保持し、続柄の対応は留保する。
文政5年10月17日(主日付)/11月22日(朱注・目録。関係留保) / 冊子 635~636頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1880
町田監物から川上美濃・嶋津安房・新納内蔵への書状で、本文各所に朱書の応答注を持つ。水野出羽守が十一日に留守居を呼び出し、明後十三日の吹上見物は登城せず直に吹上へ来るよう伝えた経緯から、御庭見物・料理・鷹羽合・拝領が滞りなく済み、暮方に退いたことを述べる。両御丸老中へは九鬼靭負が名代として御礼に回り、太守は翌十四日に老中へ御礼、若年寄へは留守居、側衆へは表方使者を通じて礼をしたという。近親への知らせは使番が取り計らい、在府中の京都所司代・大坂城代へは留守居使者で済ませ、近衛ほかへの通知は今日便の使番から留守居へ問い合わせたと記す。卯年の御目見例による三殿・若殿・諸士・奥向の祝儀取扱いを相談し、佐土原への通知、中山王の承知、隣国への知らせの相談にも触れる。達の本書を右筆へ渡し、写と留守居首尾書等を送り、内輪の祝詞等は使番が取り計らうと結ぶ。主日付は朱文政五年十月十七日、町田署には「上」、日付前に十一月二十二日、三名宛前に「下」の朱注がある。目録は十一月二十二日・三家老連署返書としており、本書と朱応答注・返書との関係は留保する。
年月日未詳 / 冊子 350頁/原整理番号 319
十一月十五日、地頭から島原で戦が起きたとの書状が届き、衆中を召集して立衆が御仮屋で談合したことを小川監物祐政が記す。記事は十七日条へ続く。
年月日未詳 / 冊子 356頁/原整理番号 327
十一月十七日、再度の命令で衆中を追い立て、出水方面へ追い付くよう指示されたことを小川監物が記す。島原への渡海や城主三宅藤兵衛に関する情報も付す。
年月日未詳 / 冊子 504頁/原整理番号 512
『加世田小川監物日記』二十三日の記事。殿役蔵の諸出物改めのため寺師与左衛門が召し回され、十左衛門方へ宿泊させたこと、御条書を写し置き、納物を差し出すよう申し渡したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 554頁/原整理番号 561
加世田士小川監物の日記。加子おのが有馬勤番のため出立し、平山七兵衛宅で宿送りを受けたこと、殿役方から宿送りの申し付けがあったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 560~561頁/原整理番号 571
『小川監物日記』五日条。有馬城攻めで板倉重昌が討死したとの伝聞を記し、加世田衆が十日の出立に向け、人馬・船などの支度を進めるよう命じられたことを述べる。
年月日未詳 / 冊子 566頁/原整理番号 584
『小川監物日記』六日条。殿役方日記等を携えて京亮殿へ渡り、出陣の談合を行ったこと、門出として福寿権現へ参詣したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 585頁/原整理番号 625
『加世田小川監物日記』。九日に百五十人を打ち立て、江口・市来・串木野を経て米之津へ向かい、山田民部の指示で人数を差し出して兵糧を受領した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 746頁/原整理番号 777
小川監物が天草久玉に在陣した時の日記から、十八日以降は残山に登る関係の賦であり、加世田衆四十人と記す。短文中の原表記は「残山くゝヲ嶋のほりせき廻之賦なり」で、具体的な役務名の解釈は断定しない。
年月日未詳 / 冊子 771頁/原整理番号 830
二十二日、から爾という在所へ皆が陣を移したと記す短い日記記事。典拠は忠政従士小川監物の日記で、上文は十八日にあると注記する。
年月日未詳 / 冊子 15~16頁/原整理番号 15
加世田士小川監物の日記。正月二十七日、巣元・嶋子から来た百姓に天草の在所数を尋ね、全三十八か所のうち十一村はキリシタンで一揆勢に加わり有馬城へ籠もり、残りには住民がいて総高はおよそ一万石だと聞き取る。仁礼右京亮・愛徳四郎兵衛を曖衆代、本民部右・市伴介・鮫民部左・小川を諸事賦衆と定め、人数の増減が激しいなか、毎日の番衆と飯米の配賦に苦慮したことも記す。
年月日未詳 / 冊子 54頁/原整理番号 78
小川監物日記の二日条。殿様が江戸から下向し、有馬へ直行するとも国元へ着いてから向かうとも聞いたと記す。外城軍衆の三分の一を帰すとのことで無足衆を分けて出立させたが、ほどなく再び留められた。
年月日未詳 / 冊子 175頁/原整理番号 294
『小川監物日記』。二十二日暁、有馬城方面に火の手が見えた。城から敵約三百人が出て柵を破り陣中へ放火したが、筑前衆・唐津衆・肥前衆が応戦し、敵を一人残らず討取または生捕にしたとする。一方、寄手側にも多数の戦死者が出たと記す。
年月日未詳 / 冊子 214頁/原整理番号 327
喜入摂津守忠政の従兵・小川監物祐政の日記。二月二十七日七つ時過ぎ、有馬城の方に火が見え、一同は落城したのではないかと話した。二十九日に詳報を聞き、敵方は一人も残らず、味方にも多くの損害があり、鍋島殿衆が先陣だったという。また城の大将は「有馬四郎」といい、肥後の百姓の子で若輩であると聞いたと記す。いずれも現地で直接確認した事実ではなく伝聞である。
年月日未詳 / 冊子 396頁/原整理番号 502
『小川監物日記』は十月十六日、次郎兵衛の商売船が小松原へ着いた際、本人が元キリシタンであることから、御衆の命により窪田壱岐・大山与七兵衛が同行して即時出船させたと記す。次郎兵衛は町の伊勢千代の父で、その子らは船に乗って面会した。
年月日未詳 / 冊子 406頁/原整理番号 523
加世田小川監物日記は、天下からのキリシタン禁制高札と当家老衆の高札を新納次郎四郎・阿蘇主殿助が持参し、弓場で披露した後、町へ立てたと記す。本文には十四日の見出しがあり、この年九月の記事として確認できるが、目録年月日は空欄のためB列へ補入しない。編者は本記事が文書521-3の行間にあると注記する。
年月日未詳 / 冊子 411~412頁/原整理番号 528
加世田小川監物日記は、この年六月十九日、前年に再渡航すれば処刑すると命じられていた天川船が長崎へ来航し、客衆・中乗衆は処刑、船衆だけは残され、南蛮へ帰して永代往来停止を伝えさせたと記す。幸力摂津守と江戸からの奉行二名が長崎へ赴き、当国でも警固が強化されたという。さらに三原左衛門佐に当所衆中二十人を付けて出立させた記事と、後日の風聞として、相良半兵衛が約二十人と城内の臥草で待ち伏せ、放火後に乱入した寄手を多数討ち取ったという戦闘記事を載せる。目録年月日は空欄のため本文日付はB列へ補入しない。
寛永十七年六月小廿九日 / 冊子 86頁/原整理番号 36
小川監物日記の寛永十七年六月二十九日条。大和守久章が江戸から下向して京都に長く留まり、その後行方不明となったこと、やがて高野山にいると判明して迎えが上り、熊之嶽へ入ったと聞いたことを記す。
正保二年酉霜月大朔日己卯 / 冊子 87~88頁/原整理番号 41
小川監物日記から、島津大和守久章が熊之嶽の門前に数年留め置かれ、遠島命令を受けて谷山清泉寺に宿した際、警固の谷山衆と争い、従者を含む死傷者が出たと記す記事を抜く。
(寛永五年)五月六日 / 冊子 61~62頁
比志島国隆に近侍して不正を助長したとされる折田四郎右衛門・家村四郎左衛門について、高岡の者も責任を訴えているとして、死罪ではなく流罪とする方針を伝える。国隆に殉死すると称した者や種子島へ従わなかった者の扱いも含め、山田土佐守らと協議するよう求める。