鎌田某父子起請文前書写
年月日未詳 / 冊子 730頁
鎌田某父子が家久・忠元への奉公に別儀がないこと、江戸で幡摩守夫婦が悪心を企てていないこと、不忠の企てに同心せず親子兄弟や縁者であっても容認しないことなどを神仏に誓った起請文前書の写し。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
448 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 9
年月日未詳 / 冊子 730頁
鎌田某父子が家久・忠元への奉公に別儀がないこと、江戸で幡摩守夫婦が悪心を企てていないこと、不忠の企てに同心せず親子兄弟や縁者であっても容認しないことなどを神仏に誓った起請文前書の写し。
辰二月28日、別包の勅令写 / 冊子 549頁/原整理番号 707の4/整理ID 707-4
別包の「御書附」として勅令写を収める。積年の王事勤労が今日の王政復古・皇運挽回に至ったのは、偏に両藩父子の尽力によるとして叡感を示し、さらに勉励して王室を輔佐するよう求める。末は辰二月二十八日、右一通と表示する。両藩父子の実名や、別史料に記される賜与品はこの正文に列記されていない。
年月日未詳 / 冊子 19~20頁
祁答院方の松坂城攻略を詳述する。天文二十四年十一月十八日、雪中に守兵が市へ出た留守を突き、梅北宮内左衛門尉が先登して城戸を破った。十八歳の島津忠平は矢五、六本が具足を貫いても負傷せず、大太刀で敵を斬り、味方は城主中村父子三人以下数十人を討って落城させた。忠平の小城権現への祈願と神助、周辺諸勢の反島津連携も記す。
年月日未詳 / 冊子 21頁
弘治二年の島津氏関係事績を編年で記す。三月、貴久は蒲生本城が険固なため先に松坂塁を攻めるが落とせず、八月十七日には島津忠親が大崎で肝付兼続を破り三百余人を討つ。十月十九日に松坂塁を落として中原父子以下百余人を討ち、十一~十二月に蒲生城へ向け七曲・馬立・蒲生新城に陣した。菱刈氏の援軍、琉球王尚元の即位も記す。
年月日未詳 / 冊子 28頁
弘治二年二月の日記。吉田衆が蒲生荒平口の塁を破って番屋を焼き、岩上で敵一人を討つ一方、帖佐足軽は蒲生浦で三人、山田勢は松坂の柵で三人を討った。十七日、濱田善三郎らが案内者を伴い敵地へ忍び入り十四、五軒を焼く。二十三日には吉田衆が番衆四人を討って番屋に放火し、二十四日の横尾口戦に伴い貴久父子が吉野原まで進んだ。
年月日未詳 / 冊子 30~31頁
蒲生城攻略に先立ち松坂要害を落とす作戦を詳述する。島津貴久父子と諸将約五千余騎が出陣し、忠平の提案で三千人をもって松坂を攻撃。梅北宮内左衛門の先登に続いて忠平らが攻め込み、忠平は敵将を斬り、鎧に矢五、六本を受けながら無傷で、二十二歳にして初の分捕を得た。中村父子以下を討って落城させ、市来内藤助を地頭に置いた。後の横尾口戦で勝部主殿助が戦死したことも記す。
(天正20年)5月24日 / 冊子 563頁
島津忠恒が、出陣以来便りがないことを案じ、近日中に引陣するとの情報が確かなら、武庫様父子の動静を直ちに知らせてほしいと抽斎へ求める。 帰陣をめぐる不確かな情報のなかで、父子の安否と軍の動向を急いで確認しようとする短い陣中書状である。
年月日未詳 / 冊子 283頁
『新納久宣譜』の記事。新納久宣が島津義弘に従って朝鮮へ渡り、三年間軍務に従事したことや、太守父子の出動時に遅れず随行した十七人の一人であったことを記す。帰朝時の海戦で南海島に約五百人が孤立した際、敵船を恐れて救援船が退くなか、久宣だけが先に島へ到着し、後続船を導いて全員の帰帆を実現した功績を称える。
(慶長四年)十月十五日 / 冊子 460頁
奈須祐実が伊勢兵部少輔に、同名の惣番父子が高橋殿から成敗された件について書状を受け、名字を同じくするため途中まで出向いたものの、非道な関与はなかったと弁明し、従来の薩摩家への奉公と忠平の認知を述べる。追書では、伊集院源二郎の籠城を京都からの和平方針に沿って早く鎮めるよう求め、遠方のため出仕できない代わりに鷹の羽一息を進上する。
十月廿五日 / 冊子 464頁
奈須祐実が伊勢兵部少輔に、同名の惣番父子が高橋殿から成敗された件について、自身に非道な関与はなく従来から薩摩家へ奉公してきたと弁明する。追書では、伊集院源二郎の籠城を京都からの和平方針に沿って早く鎮めるよう求め、遠方のため出仕できない代わりに贈物を進上する。本文はNo.937と同文として省略されている。
慶長十二年六月廿四日 / 冊子 123頁
慶長十二年六月二十四日、島津義久が道正休甫へ送った書状案。久々の書状と仮名注を付した『二十四孝』一冊を受け取ったことを喜び、谷与兵衛尉の子らの能を称賛し、常安父子の謡を懐かしむ。近年は病気で腰が立たず、長座もできず、歯もほとんど欠けて発語が不自由になったと述べながら、再度上洛して将軍の厚恩に礼を申し上げ、彼らの能や謡を聴きたいとの望みを伝える。さらに五郎助らの芸や道味の舞を評し、黒糸一端を贈る。
(慶長十八年)十月十五日 / 冊子 420~421頁
慶長十八年十月十五日、奈須祐金が伊勢兵部少輔へ、高橋同名玄蕃父子が討ち果たされた件と遠路からの見舞いに触れ、紀州・日向境の山を守ってきた経緯を述べ、今後の憐愍と取成しを求めた書状。
(寛永十年)九月十九日 / 冊子 383~386頁
伊勢貞昌が家久の意を受けて国元の家老へ、矢野主膳父子と関係者への告発について、南蛮宗との関係、証人供述、召喚・拘禁・探索、寺社への照会などを指示し、詮議の経過を詳しく伝えた書状。
正月十二日 / 冊子 16頁
津興が、前年夏の上洛後に音信が途絶えていたことを詫び、国中の静謐を尋ねた書状。長年の大望に関わる用事が多いため帰国を延ばし、来春から夏ごろの下向を見込むと伝える。御屋形様父子・典厩様への取り成しと、寺家の修理・諸役・公事を怠りなく処理し、老齢の報忍寺にも配慮するよう求める。
六月十六日 / 冊子 23頁
細川忠興が、加藤肥後父子の国が召し上げられ、江戸から上使が派遣された情勢を知らせた書状。必要なら黒田殿・鍋島殿らと兵を出せるよう準備し、熊本城も命令に従って城を渡すため掃除を進めていると報じ、近隣の相手方の状況を尋ねる。
五月廿八日 / 冊子 99頁
伊集院忠朗が二乗院の同宿衆に宛てた書状。重信の身上については大興寺と相談する意向を示す一方、本田幡守父子が他出中のため、当地での処理には多少時間がかかる見込みであると伝え、その旨の披露を求めている。
七月四日 / 冊子 346~347頁
島津忠良が右馬頭へ、安父子の調停を頼もしいと評価し、加治木境の争乱への対処を論じた返書。若衆とも密かに相談し、一途に判断すること、先方へ事情を申し渡すことを求め、正興寺・大年寺を介した働きかけにも触れる。
七月廿五日 / 冊子 422頁
島津勝久が相模守へ、相手の意向を踏まえて荘厳寺で北原方と談合したこと、肝要な事情は使節に申し含めたことを伝える。父子を憐れみ、荘厳寺の仲裁では処理できない点について申し入れを求めた書状。
三月五日 / 冊子 429頁
近衛前久が島津修理大夫へ、堀池父子が下国するので、その被官を懇ろに取り扱うよう頼む。詳細は貞知・宗固から申し越すとした短い書状。
九月九日 / 冊子 25頁
朝鮮からの便りが届いたと聞き、在陣中の島津義弘父子の様子を知りたいので、石田治部少輔に届いた詳しい報告を知らせるよう依頼した書状。
八月廿六日 / 冊子 739頁
江戸桜田屋敷付近の火災を船中で聞いた北郷久直が飛脚を送った配慮に謝し、光久の近辺から出火して家財をほとんど運び出せず、正宗父子や馬廻衆も類焼したが、上下に死傷がなかったことを喜んだ島津光久書状。
年月日未詳 / 冊子 599頁
宮崎城主権藤とその子二人の首級を、小杉丹後守が山伏の一学坊を使者とし、検使の宮川を同船させて、筑後国水田に置かれた黒田如水(円清)の陣所まで届けさせたことを記す。続いて如水の返書を掲げる導入記事である。
慶応4年三月24日、桂右衛門、取次御側御用人細瀧権八 / 冊子 545~546頁/原整理番号 705/整理ID 705
京都の事情と太守の心中を聞いた時姫が力を添えたいと願うが、書付は「御女子様之御事」として直接の助力はでき兼ねると説明し、身廻りその他を至極質素にし、召し遣う者を減らす沙汰を伝える。諸士が御両殿への奉公で身命を忘れて伏見で戦い、太守に喜ばれたことを述べる一方、戦死者への深い憐れみを表し、せめて水・茶でも手向けたいので名前を認めて差し出すよう求める。戦死人数・姓名書を提出し、時姫の沙汰と謝意を父子兄弟、地頭・領主にも知らせるよう命じる。慶応四年三月二十四日に桂右衛門が伝え、取次は御側御用人細瀧権八と表示する。
応永十七年六月 / 冊子 238~239頁
島津元久が六月三日に上京し、同十一日に将軍家へ参会した際の進上物注文。御所・新御所をはじめ幕府要人と関係者ごとに、太刀、銭、馬、金銀、香料、衣類などの品目と数量を列記する。献上先別の贈答構成から、将軍家父子への礼遇、随行者の負担、上洛外交の規模を確認できる。
年月日未詳 / 冊子 520頁
文明十七年二月廿六日、東郷勢が高尾野で勝利し、穂北合人佐父子を討ち取ったことを記す短い譜記事。
年月日未詳 / 冊子 523頁
文明十七年閏三月一日、修理亮忠廉が菱刈へ越山し、牛屎方面へ進んだ経過を記す島津忠昌譜。道秀父子と相良二郎五郎長輔・相良為續の内通を背景に、忠廉と長輔らが対面した。薩摩守方・北郷・樺山の三勢力が和議を整え、長期抗争を収束させようとした交渉過程を示す。
年月日未詳 / 冊子 523頁
文明十七年閏三月朔日以降、匠作が菱刈へ入り、道秀父子・相良長輔・次郎五郎らと交渉した経過を記す。伊東・北郷・樺山・東郷・鹿児島衆の内談を重ね、敵対していた三国の和与を進めた。交渉成立後、匠作が四月二日に和泉へ到着するまでを日次で追う和平交渉記事。
年月日未詳 / 冊子 678頁
伊地知周防介父子らの謀叛企図を受け、島津忠良が大永七年五月に加治木へ進発し、関係者を誅した経過を記す『貴久記』。島津勝久方は忠良を伊作から誘い出して勢力を弱めようとし、加治木・帖佐・鹿児島方面で両陣営の攻防が続いた。家臣処罰を契機に守護家対立が軍事化したことを示す。
年月日未詳 / 冊子 680頁
帖佐城没落後、日新(忠良)が遁世の身でありながら加治木城主伊地知周防介父子の謀叛を知り、大永七年五月六日にその地へ向かったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 681~682頁
大永七年、伊地知周防介父子の謀叛から始まる島津忠良方と勝久方の攻防を記す。加治木・帖佐・伊集院方面で諸勢が交戦し、忠良方が鹿児島へ進攻すると勝久方が退避した。城と街道をめぐる軍勢移動、諸将の帰属・離反を追う。
年月日未詳 / 冊子 697頁
大永七年の記録や系譜を引き、伊地知父子が帖佐・加治木周辺で戦った時期と、新城地頭職・伊地知氏の由緒を考証する。
年月日未詳 / 冊子 729頁
天文元年二月から同三年十二月までの北郷忠相方の行動を日付順に記した日記。北郷信濃守父子、山内豊前守、北原・新納・島津諸氏との使者往来・会合・饗応、神事への参列、軍勢移動、城郭の攻略・守備を連続して記し、軍事と日常政務の実態を示す。
「天文五年」七月廿五日 / 冊子 749頁
島津勝久が肝付方に、庄厳寺を介した相談と北原方との談合について述べ、条件が整えば父子を帰還させ、整わなければ別の措置を取る旨を伝えた書状。
天正十一年二月廿日 / 冊子 749~750頁
近衛前久が島津義久へ、本能寺の変後に明智方への加担を疑われて醍醐山へ退いた事情と、織田信孝・羽柴秀吉をめぐる内紛、徳川家康の助力による上洛・弁明の見通しを詳述した書状。疑いが晴れなければ島津を頼って下向する意向を示し、忠節を尽くした持明院・安養坊や堀池父子への厚遇、領知問題の取次を依頼する。
年月日未詳 / 冊子 73頁
天正十三年閏八月二十六日、田代宗典父子以下五人が島津義弘を訪ね、翌二十七日には矢部の居所から五人が来て太刀・馬を持参した。二十九日には島津家久の使者三原宮内少輔が田代直経を介して矢部・山中方面の動きを報告し、高知尾の三田井氏にも触れる。在地勢力の出仕・贈答と情報連絡をまとめた譜記事。
年月日未詳 / 冊子 164頁
天正十四年四月六日、肥後の伊集院忠棟が、隈部親泰父子に反抗の動きが明白で軍勢派遣を急ぐべきだと注進した島津義弘譜の記事。義弘は上井覚兼を介して日向勢の出動を促したが、十二日の評議で意見が割れ、進発は遅延した。志賀氏・入田氏を支援するため高知尾へ兵を増し、日向勢を警衛に充てようとした経緯から、肥後・豊後・日向をまたぐ作戦調整の難しさが分かる。
年月日未詳 / 冊子 305頁
豊臣秀吉の大軍下向によって九州諸勢が豊臣方へ属し、島津義久が日向から都於郡へ退いた後、重臣らが今後の方針を協議した記事。北郷一雲斎・伊集院下野入道・鎌田出雲守・本田下野入道・喜入氏父子らが談合し、北郷一雲斎は義久を庄内へ迎えて最後の一戦を行い、島津家の運を開くべきだと強く主張した。降伏か抗戦継続かをめぐる家中の緊張が分かる。
(天正15年)5月21日 / 冊子 336頁
島津義久(龍伯)が鹿児島老中へ、飫肥を伊東氏へ引き渡すよう度々命じたのに、なお処理されていないことを厳しく指摘する。遅延に細川幽斎・石田治部少輔が強く立腹し、飫肥で軍勢が集結したとの報告もあるため、長門父子の立場も危ういと警告。これ以上難渋すれば島津家のためにならないとして、長門入道へ即時引き渡しを命じるよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 571頁
義弘父子の朝鮮渡海途上、平戸に滞在した梅北国兼・田尻但馬守父子らが変心して一揆を起こし、国兼が佐敷城へ入り、田尻父子が松波瀬で放火した経過を記す。 松浦筑前らが田尻但馬・荒次郎・荒五郎以下百余人を討ち、国兼の一党も赤松太郎や球磨・彦北の兵に殲滅されたとして、梅北一揆の発生から鎮圧までを島津義弘譜にまとめる。
(文禄元年)6月21日 / 冊子 572~573頁
麻植長通が、梅北国兼・田尻荒兵衛の逆意と佐敷での鎮圧を報じ、妻子の成敗のため龍伯と細川幽斎が薩摩へ向かうことを伊勢雅楽入道へ知らせる。 一揆が朝鮮渡海軍の遅参を招いたことを嘆き、義久・義弘・久保ら島津父子の高麗渡海を急ぐよう求めており、梅北一揆と出兵動員の直結を示す書状である。
(文禄2年)7月 / 冊子 713頁
文禄二年七月、晋州城陥落と講和の動きを受け、豊臣秀吉が諸将を朝鮮沿海の諸城へ配置して休兵を命じる。宇喜多秀家・毛利秀元らを帰国させ、小西行長を金海、加藤清正を梁山、鍋島直茂を竹島、黒田長政を機張に置き、島津義弘父子も在陣した。 一方、明軍は劉綎の指揮下で大丘に集結し、月餉五万両、累計軍費百余万に達したという。明臣が国内を空にして外征を支えるのは長策でないと批判し、兵糧負担を朝鮮側へ求めた事情まで記す、沿岸再編と戦争財政を併せて示す記事である。
(慶長十七年)十二月廿二日 / 冊子 387頁
慶長十七年十二月二十二日、山口直友が島津家久の側近へ、本田新介の上着と佐渡守父子への申越し、蜜柑の進上を報じ、船中の草花が傷んだため翌年改めて送るよう求めた書状。
(元和七年)六月十三日 / 冊子 771頁
細川忠興が島津家久へ、山田民部を介した書状・使者に答え、徳川和子の入内と供奉衆、入内進物の扱い、板倉父子への相談、琉球酒・塩硝・竹への礼を述べた。また大坂普請の巨石運搬と費用、家久から進上された材木、江戸にいる忠利への用命などを伝えた書状。
寛永九年八月十四日 / 冊子 303頁
喜入忠続が琉球三司官へ示した条書。家久の江戸在府と将軍家での首尾、前年に新納・最上を介して行った唐交易交渉、借銀返済のための銀子送付、返済不調時の知行召上げ、冠船渡海、鹿二十頭の送付、加藤忠広父子の改易・流罪を伝えた。
六月十二日 / 冊子 159頁
伊勢貞昌が本田源右衛門に、使者普賢院が九日に到着し、惟新様の書状を受け取ったと伝えた書状。奥州様の上洛延期をめぐり、本多佐州父子や山口殿らが心配していること、駿府・江戸や鹿児島との連絡、御座間敷の整備や進物の沙汰などについて報告する。
2月27日(申渡・拝見);去11日二条城の伝達に言及 / 冊子 347~348頁/原整理番号 496の1/整理ID 496-1
松平修理大夫への通知。松平大膳太夫父子へ詰問し、万一承服しなければ征伐するため、討手の人数を出す準備をするよう内意を伝える。阿波徳島、因州鳥取、芸州広島、肥後熊本、豊後小倉、備後福山、播州龍野、備前岡山、出羽松江の諸侯と石高を列記し、紀州和歌山の紀伊中納言を御名代、奥州会津を副将と記す。松平肥後守と有馬遠江守には諸事を受けて尽力する役割を示す。続いて、去十一日二条城に留まるよう召された太守が、老中水野和泉守・酒井雅楽頭・有馬遠江守・土井備中守らの列座する場で、長州詰問と不服時の征伐を伝えられたとの報告を収める。別紙と準備指示を承知するよう命じ、二月廿七日七ツ後の夜に、諸士一統が御対面所で拝聞した注を持つ。条件付きの計画で、各諸侯の石高を出兵数・実支出に換算しない。豊後小倉は本文表記とする。
勅文正文日不記、順達廻状:二月28日申下刻(末・辰二月28日の記述) / 冊子 527~528頁/原整理番号 687/整理ID 687
勅書写では、天位を継ぎ天下一新の運に当たるとして文武一途の親裁を述べ、国威と民の安否を自らの天職に関わるものと語る。先帝の遺意を継いで列藩万姓を撫安し海外へ国威を及ぼすことを望み、徳川慶喜の不軌と天下の騒擾・民の塗炭を理由として親征を決めたと説明する。外国交際と将来の処置、天下の巡幸・民の苦の救済を述べ、列藩に協力を求める。続く勅命写は、王事への積年の勤労と復古・皇運挽回が両藩父子の尽力によると褒め、なお王室を輔けるよう勧める。白木御文書十一番箱四十番からの写との表示がある。二十八日申下刻の淺野安藝守留守居三宅萬大夫の廻状は、別紙二通を渡され順達していることを知らせ、御名様留守居中へ趣旨の承知を求める。
朱明治元辰十月、先月22謝罪・23出城・24城受取と部隊差立の報告 / 冊子 613頁/原整理番号 788の3/整理ID 788-3
官軍が会津城へ押し詰めて連日攻撃し、城主肥後父子らが先月二十二日に別紙の通り謝罪状を差し出し、翌二十三日に出城して剣を脱ぎ降伏したとの知らせを伝える。近辺の妙国寺で謹慎を命じ、残る者は猪苗代で謹慎し、兵器を差し出して二十四日に城を受け取ったとする。米沢も降伏したとの知らせがあったため、向々・諸郷・私領へ早く周知し、地頭・領主へ伝えるよう求める。但書は一番~六番隊、一番遊撃隊、一二番大砲隊、白川口の臼砲隊打手を国許へ帰陣させるとし、先月二十四日に会津を差し立てたと記す。朱明治元辰十月、備後ほか五人略。経過・敵対語は通達の報告に帰属させ、帰陣先への実到着は補わない。
年月日未詳 / 冊子 237~238頁
樺山教宗譜が、島津元久の上京と将軍足利義持・義量への拝謁・饗応を記す。随行した一族・旧臣十八人は太刀と銭を献じ、教宗は将軍家から恩賜を受けて安藝守に任ぜられた。随行者、進献品、任官を通じて島津家と室町幕府の儀礼的関係を示す。
(慶長三年)正月十七日 / 冊子 187~188頁
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、明軍が蔚山へ攻め寄せたため後巻として諸将を出動させようとしたが、敵が退いたので派遣に間が生じたと告げた朱印状。受持ちの諸城の普請をいっそう堅固にし、兵粮・玉薬を十分に籠めて不安のないよう備えること、帰朝する者も敵情を確かめ、普請を申し付けたうえで帰ることを命じる。追而書では寒中の労をねぎらい、小袖一領・道服一領を贈った。