伊地知季直季通添書
年月日未詳 / 冊子 42頁
『右軍記』と題する蒲生士松下源五左衛門家伝来本について、宝永八年書写の古本であり、世にいう『山本日記』は虫損で前後が乱れ信用し難い箇所が多いが、この本は欠落のない全本とみられると評する。弘化三年四月、蒲生士長谷場某に命じて書写させた旨を平季直が記す添書。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 42頁
『右軍記』と題する蒲生士松下源五左衛門家伝来本について、宝永八年書写の古本であり、世にいう『山本日記』は虫損で前後が乱れ信用し難い箇所が多いが、この本は欠落のない全本とみられると評する。弘化三年四月、蒲生士長谷場某に命じて書写させた旨を平季直が記す添書。
永禄十二年正月三日~十一月廿七日 / 冊子 210頁
永禄十二年に島津方で戦死・討死した者を月日別に列挙する。正月三日から十一月二十七日まで、三月十八日の蒲池越中守ら、五月二十三日・二十五日の伊地知重次、貴島源五郎ら、多数の家臣・従者の名と一部の戦場・討死事情を記す。
三月十八日 / 冊子 269~270頁
島津立久が、刀を遣わしたこと、源五郎らとの談合、五郎太郎の意向、木脇や鳥取孫左衛門に関わる人員・所領の処置を述べ、関係者への申し入れと便宜を頼んだ書状。
永正十三年三月十三日 / 冊子 609頁
永正十三年三月十三日の犬追物について、各組の射手と射数を列記した手組。
天文九年十一月十四日 / 冊子 792頁
三郎左衛門尉・相模守入道らを左右に配置し、射数を定めた犬追物の手組。
慶長五年十二月十八日 / 冊子 724頁
入来院恒吉(弓市)が、慶長四年十二月から慶長五年十一月までの使者往来と魚塩荷物の通過を条々に記した覚書。大童仁兵衛らの使者、魚塩七十荷・七荷の輸送、加久藤衆などの動きを記し、鹿児島へ提出したうえ湯尾に控えを置いた。
12月29日 / 冊子 239~240頁/原整理番号 182
覚。貴理師旦宗改衆日記を細々見届け、居候半右衛門道具改、不審者の沙汰、他の必要条書を指示する市来八左衛門尉覚。木上殿への報告と不審者の内証聞合せを命じ、十二月二十九日、市来八左衛門尉から源五左衛門殿・彦兵衛尉殿宛で結ぶ。
11月18日 / 冊子 359~360頁/原整理番号 336
町田久則が、白輪村庄屋満尾弥八左衛門に天草出立が命じられたことを山口源五左衛門尉・酒匂彦兵衛尉へ伝えた書状である。庄屋派遣に必要な手配を促し、天草一乱対応で村役人まで動員された状況を示す。
二月十二日 / 冊子 126頁/原整理番号 200
市来宗友が松下源五左衛門・酒匂彦兵衛へ、熊野元志摩之助を通じた知らせを披見したと伝え、帰陣を待つ。仮屋用の畳を急いで出すよう求め、殿様の陣屋用や鹿児島御道具持に必要な分を差し引いた上で、残りを調達・差替えするよう指示する。
永禄十二年五月廿五日~七月十四日 / 冊子 221頁
永禄十二年五月二十五日、祁答院長野城を攻め、守兵の激しい抵抗を受けた。比志島氏・鎌田政年らが奮戦し、仲俊坊・貴島源五郎・税所宮内少輔ら多数が戦死したが、各隊が死を顧みず攻めて勝利した。蒲生境でも敵数十人を討ったため伊東方は恐れ、七月十四日に飯野桶比良陣を捨てて退却した。
(天正元年十一月中旬) / 冊子 320頁
牛根平床の合戦で敵六人を討ち、そのうち一人の首を取った奉公を記す。証人として小口郷右衛門・徳永源五左衛門を挙げる。
(慶長三年)十月六日 / 冊子 256頁
竹内実吉が(慶長三年)十月六日付で池田六左衛門尉らへ出した書状。敵首三万人を揃え、ほかに切り捨てた者は数知れないと戦果を報じ、治介が七人、島津義弘(武庫)が五人を討ったことを伝える。出陣時の厚意に謝し、源五や伊福小内記・町田仲左衛門らにもこの内容を知らせるよう求める。
天明四年十二月十三日・辰正月十二日(本文追記、時系列留保) / 冊子 771~772頁/原整理番号 2162/整理ID 2162
伊奈半左衛門の代官所西葛西領海辺新田にある三万三千三百八十七坪の抱屋敷で、長屋四十坪五合の建築を四月に願い、そのうち十三坪を家作し二十七坪五合は当年建て終えたため、国許からの申付けを踏まえて届出と後続の作事を取り計らうよう説明する。辰正月十二日の追記は、堀田相模守家来西淳甫の敷地隣接地での長屋と門の建直しについて、先の許可と内申、見分依頼、御願不要とされた経緯、残坪数の建築後に再度取り計らう必要を述べる。
元禄十四年六月 / 冊子 316頁/整理ID 1035
勝部源五郎・宇野磯右衛門が、国絵図調進の命を受け、幕府領と肥後国との境を調査し、地面に相違のない境涯絵図を作成して差し出したと届けた連署届書。
元禄十四年六月 / 冊子 316頁/整理ID 1036
勝部源五郎・宇野磯右衛門が、国絵図調進の命を受け、幕府領と肥後国との境を調査し、地面に相違のない境涯絵図を作成して差し出したと届けた連署届書。No.1035と同文の別紙である。
年月日未詳 / 冊子 146頁/原整理番号 256
蒲生衆の松下源五左衛門書留。二月十六日に有馬へ向けて出立し、十七日に米之津へ着いて同行衆を待ち、二十二日に出船、翌二十三日に有馬へ着いたと記す。また敵が二十二日夜に切り出し、二百七十人を討ったとする。伊地知季安は地頭を市来八左衛門宗友と注記する。
年月日未詳 / 冊子 176頁/原整理番号 296
蒲生の松下源五左衛門書留。地頭市来宗友が二十一日に出船し、二十二日に有馬へ着いたこと、同夜に敵が切り出して二百七十人を討ったことを記す。また、有馬で福崎内蔵丞・赤塚源太左衛門が十日分の飯米を新納佐左衛門尉から受け取ったが送手形が出ず、指出して江津浦で決済するよう命じられたとする。
二月廿七日 / 冊子 213頁/原整理番号 325
市来宗友の従兵・松下源五左衛門の書留。二月二十七日八時に城へ火が掛かり、諸軍が続いた。二十七日に二の丸を攻め落とし、二十八日未明から本丸を攻め、同日九つ時には薩摩衆も槍を交えたという。二十九日まで城詰めを続け、同日晩に落城したと記す。
三月十一日 / 冊子 350頁/原整理番号 385
松下源五左衛門の書留から上下を略した借銀覚。二月二十八日の城攻めの時、酒一升の代一匁、酒五合の代五分を六左衛門から借銀したことを、三月十一日付で記す。
年月日未詳 / 冊子 367頁/原整理番号 436
松下源五左衛門の書留は、三月五日に十日分の御上米を受け取り、七日に有馬を陣払いし、八日に出船したことを記す。八左様は十日に上津浦へ着き、蒲生衆も同様に到着した。
年月日未詳 / 冊子 368頁/原整理番号 445
松下源五左衛門の書留は、三月七日に有馬を陣払したが順風が悪く、八日朝に乗船し、その日は柳の瀬戸に掛かったと記す。
明暦四年六月十九日 / 冊子 134~135頁/原整理番号 47
東郷源五右衛門の算法書は、御上下や諸奉公人の宿送・夫役の負担が地域で偏るため、高一石につき真米一升一合の賦米を百姓一律に納め、実際に宿送等を勤めた者へ賃米として下すと説明する。給地分は領主が取納米から御蔵へ上納する。続けて出米の年ごとの差、八升一合の定式、江戸・上方奉公人の扶持米などの使途を考える。
永禄十二年五月廿五日~九月廿日 / 冊子 222頁
五月二十五日の祁答院長野城攻めで下城を破ったが、島津方にも多数の戦死者が出た。桶比良の伊東陣撤退後、八月十八日から大口城を包囲し、諸将自ら秋作を刈って兵糧を断った。相良・菱刈方は度重なる敗戦で和睦を願い、九月中旬に球磨兵が撤退した。大口城で太平の祝宴を行い、菱刈氏に平城を残し、他城へ地頭を配置して貴久・義久が凱旋した。
年月日未詳 / 冊子 556頁
朝鮮出兵中に死亡した島津家臣について、年月日・姓名・所属や死因の注記を列挙した戦没者記録。 尾崎新兵衛正義、持永右馬允盛政、野々村伝右衛門、伊集院関係者などを挙げ、島津軍の人的損失を個人単位で追える。
十月二日 / 冊子 256頁
竹内実吉が十月二日付で池田六左衛門尉らへ出した書状。本冊では本文がNo.509の文書と同文であるため省略されており、敵首三万人や治介・島津義弘の討取を報じる同書状を参照する。No.509とは日付を異にして掲げられている。
十月六日 / 冊子 257頁
竹内実吉が十月六日付で池田六左衛門尉らへ出した書状。本冊では本文がNo.509の文書と同文であるため省略されており、敵首三万人と治介・島津義弘の討取を報告する同書状を参照する。
年月日未詳 / 冊子 628-629頁
国元から島津義弘(惟新)の陣へ後詰衆が多数到着した際、河田源兵衛と野村弥次郎が曽根の先手で敵を誘い出して交戦し、源兵衛が目立つ騎馬武者を鉄砲で射落とした。本田伊賀守も加勢し、翌朝、石田三成は若年の源兵衛の手柄を賞して腰物を与え、義弘も本田伊賀守へ腰物を与えた。
明和二年三月十五日 / 冊子 70頁/原整理番号 181の29/整理ID 181-29
留守居付の橋口与三次が三月十五日、東郷源五へ、来月の日光山法会に際して自分が日光へ差し遣わされることとなったため、外足軽二人を召し付けてほしいと願う。願いの趣旨を申し上げて取り計らうよう求める。
12月10日 / 冊子 469頁/原整理番号 458の5
市来宗友が松下源五左衛門尉・酒匂彦兵衛尉へ送った書状。山奉行衆の書物を持参したことを報じ、水鳥越を通る渡海の可否、鳥ノ儀を被仰越候との事情、天草・島原方面の動静と人数を尋ね、指示を求める。
正月廿日 / 冊子 439~441頁/原整理番号 551-1
有馬・島原出陣衆の人数・日数と兵糧米不足を精算する。人躰は第一組百四十人に市来八左衛門与力の貴島小左衛門一人を加えた百四十一人、第二組九十人で、合計二百三十一人。下人は第一組百二十五人、貴島分二人、第二組六十二人で合計百八十九人。支給不足は真米二十三石七升五合、赤米二十石八升とする。市来八左衛門保管の受取証文が火災で焼失したが、軍役の事実に相違がないため算用を認めるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 222~223頁/原整理番号 158
『上井覚兼日記』天正十三年春の御馬追記事。向島や吉野などでの馬追に出向き、御桟敷で儀礼を行った後、捕えた駒を見分して分配・進上した。参加者への酒食や使者の往来も記し、御馬追の催しの様子を伝える。
宝暦十一年十月十四日 / 冊子 866頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2566
同年十月十四日、増上寺で文昭廟家宣の五十回忌法事が営まれる。重豪は翌日、三原源五左衛門直郷を遣わして白銀十枚を献じ、参拝させたと記し、直郷には表用人の代わりに番頭が行く旨の注を付す。
年月日未詳 / 冊子 26頁/原整理番号 95/整理ID 95
同年八月三日、将軍家治が使番遠藤源五郎常住を遣わし、御鷹所で捕えた雲雀を下賜したことを記す。重豪は先格の通り、その恩旨を拝した。出典は重豪公御譜中。本文は「同年」で、目録は記事として年月日欄を空欄とする。目録表題は鶴の拝領とするが、本文は雲雀と記す。
明和二年 二月十九日(年は朱注) / 冊子 51頁/原整理番号 162/整理ID 162
有章院家継五十回忌法事につき、妻から香奠を献上させたいとして伺う。二月十九日付、御名、年は朱注明和二年。行間の御付紙は白銀壱枚を差し上げるよう指示する。右朱書のとおり酉二月廿八日に法事係老中松平周防守が留守居を呼んで付紙を申し渡したとの注がある。留守居東郷源五が持参し、取次小田五左衛門へ渡して差し出すと受領され、追って挨拶する旨を同人から承知した。出典注は重豪公御譜中・扣正文在右筆所。
三月(目録。年の記載なし。朱書三月二十七日) / 冊子 60頁/原整理番号 181の5/整理ID 181-5
日光法会の使者派遣について正徳期の先例を示し、旧記の吟味と御内談による合議を求める。本文は、正徳五年の使者が四月十一日に江戸を出立し、十四日に日光へ到着、十七日の八時に本坊へ詰めて献納を済ませ、翌十八日に出立し二十一日に帰府した日程を記す。これに付す朱書は、当地の使者が家老役を勤めたこと、日光での献納などでは刀持と手替の計二人が上下着用し、その他の駕籠脇は羽織袴、副使の刀持は上下不要で羽織袴とする点を補う。別箇所には正徳期の四月十二日江戸出立・十七日太刀奉納・十八日日光出立・二十一日帰府の記述もあり、旧記を吟味して知らせるよう求める。さらに朱書は正徳二年の四月二十五日江戸出立・五月四日日光着・七日太刀奉納・八日日光出立・十四日帰府を挙げる。副使の中途幕を用いない筋への相談と、当地には先格があり幕が旅宿の目印にもなるため断りのうえ拵え使用してきたとの注記を載せ、他の心得や先例相違があれば付札で隠さず知らせてほしいとする。末尾は正月・三月の表記に江副金兵衛・東郷源五・笹生彦五郎を並記し、朱書には三月廿七日の寄合で年番へ断り置いたとある。先例日程、照会、朱書の申断記録と月・書者の異なる記載を分けて示す。
明和二年二月十八日 / 冊子 63頁/原整理番号 181の18/整理ID 181-18
東郷源五が二月十八日、此面に、筒井大和守からの廻状と書付写一通が、上杉大炊頭家と松平内蔵頭家の衆の添廻状を伴って到来したため、写を差し上げると報告する。二家の留守居による伝達を経て薩摩側が書類を受領し、その写を送付したことを記す。
明和二年三月十八日 / 冊子 70頁/原整理番号 181の30/整理ID 181-30
東郷源五が三月十八日、外足軽二人を召し付けてほしいとの願いに返答する。正徳の時にも外足軽二人を召し付けた先例があるので、今回も願い出どおり召し付けて差し遣わすよう命じられた旨を伝える。前の橋口与三次の願に対応する返書である。
明和二年四月一日 / 冊子 77頁/原整理番号 181の42/整理ID 181-42
日光へ使者を差し遣わすに当たり、小判金百両を現地の出入用に備える用心金として持参させる扱いを記す。留守居東郷源五は、御献納物宰領人に護持して持ち越させ、指図を得て支出するよう命じてほしいと申し出た。そのとおり取次岩下佐次右衛門が申し渡した。編録の注記では、この本文は一八一の三七号文書の行間朱書とされている。百両は用心金としての備えであり、献納物そのものの金額とは記されていない。
明和二年四月三日 / 冊子 78頁/原整理番号 181の44/整理ID 181-44
島津左中が、日光へ差し遣わされるに当たり、来る十一日に籠立する予定を申し出たことを、酉四月三日付で記す。近習役を通じて口達で申し上げ、左中、留守居東郷源五、そのほか差し遣わす役々へ、十一日に差し立てる旨を口達で申し渡した。四月四日付の朱書は、日光までの道中日数四日、日光滞在三日、帰宅時の道中三日を掲げる。道中の賦の件について、左中から岩下佐次右衛門へ書付を渡したことも記す。正文の出立予定と口達、翌日の道中日数・書付授受を分けて記録する。
明和二年四月十一日(目録は四月十日) / 冊子 80~81頁/原整理番号 181の50/整理ID 181-50
酉四月十一日付で、日光へ差し立てる留守居・献納物宰領と随行人数を記す。留守居東郷源五は上下十二人、御献納物宰領津留五右衛門は上下三人とし、続けて足軽二人を掲げる。末尾は、右の者を今日差し立て、日光へ差し遣わすと記す。正文の月日は四月十一日であるが、目録では四月十日とされ、日付が一致していない。
明和二年四月二十一日 / 冊子 85頁/原整理番号 181の68/整理ID 181-68
東郷源五が四月二十一日、左中様へ首尾を報告する。四月十五日に日光の旅館へ、御使者此面の案内によって参上し、昨晩到着した旨を届けた。松平右近将監への取次を務める川井左傳から、追って申し上げる旨を承ったと記す。到着の案内を本人が勤めた経過と取次の応答を示す。四月十五日の参上・届出と、二十一日の首尾報告を分け、昨晩は到着届の時点の前夜として扱う。
明和二年四月二十一日 / 冊子 85頁/原整理番号 181の69/整理ID 181-69
東郷源五が四月二十一日、左中様へ首尾を報告する。四月十六日に日光の旅館へ参上し、先に指示された明十七日の御太刀献納の刻限を伺った。松平右近将監への取次川田喜内から、御目付より通達があるので御触を待つようにとの回答を承ったと記す。十六日の刻限照会、十七日の献納予定、二十一日の報告を区別し、献納の実施済みを意味する報告としては扱わない。
明和二年四月十六日 / 冊子 85頁/原整理番号 181の70/整理ID 181-70
四月十六日、大目付筒井大和守と御目付新庄織部・夏目藤四郎・松平縫殿頭・松平庄九郎の五名が連署し、各家留守居へ廻達する。明十七日に本坊で御太刀・馬代を献納するため、晝八時に本坊玄関へ揃うよう通知する。追啓では、隠居の者も献上物がある場合は同様に心得るよう申し添える。廻状は順に廻達し、末尾から松平庄九郎の旅宿へ返すよう求める。朱書には、日光山から来た廻状を写し取り、本書を細川越中守の家衆へ順達した旨を、四月二十一日に東郷源五が申し出たとある。発給日十六日、集合・献納予定十七日、朱書の取扱報告二十一日を区別する。
明和二年四月二十一日 / 冊子 86頁/原整理番号 181の71/整理ID 181-71
東照宮百五拾回御神忌法会に際し、日光山へ使者高橋此面を派遣して、御太刀一腰と御馬代黄金拾両を献納した首尾を記す。四月十七日、東郷源五が日光の本坊へ使者を案内した。御門主は御書院に出座し、老中松平右近将監、寺社奉行土岐美濃守・酒井飛弾守、大御目付筒井大和守、勘定奉行小野日向守、御目付松平庄九郎・松平縫殿頭・夏目藤四郎・新庄織部が出席した。別紙の御順書のとおり、使者が御太刀目録を持参して御書院の敷居内に備え、敷居外で平伏して退去し、奏者は東叡山執当であった。献納を済ませ、本人が案内した首尾を四月二十一日に左中様へ報告し、御順書一通を添付して差し上げる旨を申し添える。
明和二年四月二十一日 / 冊子 87~88頁/原整理番号 181の73/整理ID 181-73
日光山で御太刀献納のため本坊に揃った際、御門主から使者と副使へ御菓子・御茶を頂戴する旨が仰せ付けられたことを報告する。退散時には、立帰りの御礼を取次の者へ前もって申し置き、御主人様方が承知したうえで御礼を行うことになるため、江戸で一統が相談し、年番から廻状で通達する旨も申し合わせてあると記す。正徳の時には頂戴物等がなかったという注を付す。四月二十一日、東郷源五が左中様へ報告し、日光での拝領の仰付けと江戸帰着後の御礼手続きを区別する。
明和二年五月十日 / 冊子 93~94頁/原整理番号 181の84/整理ID 181-84
大目付大井伊勢守から廻状一通と書付の写し一通を受け、越中守・大膳大夫へ申し聞かせたところ、同席の各家の担当者から通達するよう命じられたため、写しを順に廻す。個別の返答・挨拶は不要とし、通達が済んだ後、担当者側から伊勢守へ届ける予定である。廻状を確認して返すよう求め、嫡子のいる家は御付の家衆へも知らせるよう追記する。五月十日、毛利家の吉田半兵衛・都野彌右衛門・有福庄右衛門と、細川家の内山又助・中川唯之丞・中川郡兵衛の連署に続き、順不同の宛名を載せる。御名の欄には薩摩守旅中へ、信濃守の欄には信濃守旅中へ内容を申し越すよう注記する。朱書は、両家衆から添廻状付きで到来した原廻状と書付の写しを書写して差し上げる旨を、同日に東郷源五が左中様へ申し出た記録である。
明和二年五月十二日 / 冊子 94~95頁/原整理番号 181の86/整理ID 181-86
大目付池田筑後守から廻状一通を受けて越中守・阿波守へ申し聞かせたところ、同席の各家の担当者から通達するよう命じられたため、写しを順に廻す。個別の返答・挨拶は不要とし、通達が済んだ後、担当者側から筑後守へ届ける予定である。廻状を確認して返すよう求め、嫡子がいる家は御付の家衆へも知らせるよう追記する。五月十二日、阿波守内の市原甫蔵・小川夷左衛門・前田助左衛門と、細川家の内山又助・中川唯之丞・中川郡兵衛の記載に続き、順不同の宛名を載せる。御名の欄には薩摩守旅中へ内容を申し越すよう注記する。朱書には、両家衆から添廻状付きで原廻状が到来したため書写して差し上げる旨を、同日に東郷源五が左中様へ申し出たとある。
天明五年二月二十七日 / 冊子 793頁/原整理番号 2195の7/整理ID 2195-7
二月二十七日の能組。翁・三番叟に続き、弓八幡を観世太夫、羽衣を宝生太夫、祝言岩松を十太夫と記す。御跡として末廣かりを彌太夫、是界を金剛太夫、祝言金札を源五郎とする曲目を列記する。各曲の下に配役・囃子方の名を併記する。
天明五年三月四日 / 冊子 800~801頁/原整理番号 2195の11/整理ID 2195-11
三月四日の能組。翁・三番叟、佐保山(金春太夫)、知章(左織)、江口(金剛太夫)、飛雲(源五郎)、祝言養老(源之進)を列記する。続く狂言は文相撲を八十治、素袍落を八右衛門、井杭を武右衛門・直右衛門と記す。各曲の配役・囃子方の名を併記する。
3月廿一日(本文、文化5年記事群) / 冊子 296~297頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0078
添付内訳として書付1通と例書2通を掲げる。書付は当地留守の市田出雲退役により代わりの家老を差し越すための御目見と、公方様・大納言様への自分献上物に関するもの。例書2通の内1通はその御目見時の献上物品書、もう1通は正徳年中に家老を代わりとして当地へ遣わした先例である。伊豆守用人關屋斧右衛門の切紙で今日中に1人出頭するよう命じられ、仲太夫が出たところ、願いのほかに後例がないため御目見不許可と聞き、差し出した書付をすべて返された。これを櫻田詰中小姓に託して送る。さらに西丸老中安藤對馬守の取次野田源五左衛門へ参上し、市田退役後の家老御代差越しと大納言様への自分献上物の先例も、ほかの例がないため御目見不許可として返されたことを伝えた。今夕の御用番からの申し渡しと同じであることを取次が確認し、追って説明するとした。追書は牧野備前守へ願いの趣旨を内見してもらうため勝手へ出て用人槙十右衛門に渡したが、御用番と会って説明したところ追って伝えるとの返事を受けたと記す。3月廿一日、桑山仲太夫、安房宛。添付物は願書案2通ではなく書付1通・例書2通として訂正し、返却・御用番と西丸双方の不許可・内見再照会を分ける。