朝鮮国節度使伝令書案
(慶長三年)五月七日 / 冊子 204~205頁
朝鮮国節度使が、日本軍のもとに留まる晋州・泗川方面の朝鮮人らに帰順を促した伝令書案。黄允祥を使者として安全な帰還と居住を保証し、敵情・地勢・道路を報告して官軍を導けば軍官・戦士・牙兵等に任じて賞すること、李石の帰順・登用例を示す。さらに蔚山で加藤清正を取り逃がしたことに明帝が憤り、大軍が三路から来攻すると説いて、機を失わず離脱するよう迫る。
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(慶長三年)五月七日 / 冊子 204~205頁
朝鮮国節度使が、日本軍のもとに留まる晋州・泗川方面の朝鮮人らに帰順を促した伝令書案。黄允祥を使者として安全な帰還と居住を保証し、敵情・地勢・道路を報告して官軍を導けば軍官・戦士・牙兵等に任じて賞すること、李石の帰順・登用例を示す。さらに蔚山で加藤清正を取り逃がしたことに明帝が憤り、大軍が三路から来攻すると説いて、機を失わず離脱するよう迫る。
(慶長三年)正月六日 / 冊子 184~185頁
島津義弘が、前年十二月二十一日に唐人が加藤主計頭の蔚山新城を攻め、同二十六日に急報が届いたことを伝える書状案。泗川普請に当たる垣見和泉守らも救援へ動くなか、城主は受け持ちの泗川を守るべきだとの指示を踏まえ、義弘父子の一人を留守居に、一人を東方の蔚山救援・見分に向かわせたいと述べる。さらに晋州・固城方面の唐人の動きと、物見・追撃の状況を報告する。
正月九日 / 冊子 185~186頁
島津義弘が河上三河入道へ、前年十二月二十一日の蔚山新城攻撃と同二十六日の報知、その後の救援準備を知らせた書状。泗川の受持城を空けられないため、義弘父子の一人が城を守り、もう一人が諸将とともに蔚山方面へ赴く案を述べる。あわせて晋州・固城・泗川周辺の敵情、物見の報告、在陣衆の動向を伝え、城の守備と東方救援を両立させようとする。
(慶長三年)十月晦日 / 冊子 268~269頁
島津義弘・小西行長・立花宗茂・宗義智が(慶長三年)十月晦日付で作成した連署覚書。東目の軍勢撤収後に順天・南海・泗川・固城の四方面から唐島まで退く日程を協議し、順天・泗川双方の和平成立と人質受領を条件に、先手から順次引き揚げると定める。泗川・固城の船を順天へ回し、泗川船は南海まで、固城船は唐島瀬戸まで送る輸送手順も規定する。
年月日未詳 / 冊子 637頁
泗川で用いられた鑓の毛付について、紫おどしや紺糸などの意匠があり、新納弥太右衛門尉の所用であったことを記す。 短文ながら、戦場で用いられた武具の装飾・識別方法と所用者を具体的に確認できる記録。
慶長二年十二月一日~十二月廿九日 / 冊子 167~173頁
慶長二年十二月一日から二十九日までの泗川古城を中心とする在陣日記。毎日の天候、諸将・使者の出仕と宿直、書状・礼物・兵粮の受け渡し、古城・新城間の移動、軍勢の召集や警固を記録する。月末には漢南方面から蔚山へ明の大軍が来襲したとの報を受け、諸将への援軍要請、泗川城の備え、明側との接触に関する使者派遣までを記す。
慶長三年十月一日 / 冊子 250頁
慶長三年十月一日の泗川表における討捕首数を部隊別に記した注文。鹿島・帖佐・富隈の各方衆と、伊集院源次郎・北郷作左衛門の手勢による首数を列挙し、合計を三万八千七百十七とする。これとは別に、戦場で切り捨てた者の数は不明であると付記する。
慶長三年十月一日 / 冊子 254~255頁
『御譜雑抄』に収められた慶長三年十月一日付の泗川表討捕首注文。本冊では本文がNo.489の文書と同文であるため省略されており、部隊別の討捕首数と合計三万八千七百十七を記す同注文を参照する。
慶長三年十月一日 / 冊子 255頁
慶長三年十月一日の泗川表における討捕首数を部隊別に記した注文の異本。鹿児島・帖佐・富隈の各方衆と、伊集院源次郎・北郷作左衛門の手勢による首数を列挙し、合計を三万八百十七とする。首数が他本より少ないものの、参考のため収載したと注記する。
慶長三年十月一日 / 冊子 255頁
慶長三年十月一日付の泗川表討捕首注文。本冊では本文がNo.489の文書と同文であるため省略されており、鹿島・帖佐・富隈の各方衆などによる討捕首数と合計三万八千七百十七を記す同注文を参照する。
慶長三年十月朔日 / 冊子 272頁
慶長三年十月朔日の泗川表における討捕首数を隊別に記した注文。鹿児島方一万百八、帖佐方九千五百二十、富隈方八千三百六十、伊集院源次郎手六千五百六十、北郷作左衛門手四千百四十六とし、合計欄には三万八千七百十七、ほかに切捨は数知れずと記す。なお、記載された内訳の算術合計は三万八千六百九十四となる。
巻五/冊子 77~79頁
慶長三年の泗川の戦いを記す。明軍は降伏を勧める書状を送り、朝鮮侵攻による疲弊や退路遮断を説くが、義弘は勝敗は戦って決すべきだとして拒絶する。明軍が晋州から泗川旧館を攻め、相良玄蕃助ら百余人が戦死すると、島津軍は新城へ退いて門を閉ざし、敵の攻撃を待った。十月朔日、明軍が大砲・鼓を用いて攻め寄せた際、城内から白狐・赤狐が敵陣へ走り、その後敵陣で火災と混乱が起きたため、義弘・忠恒父子が出撃して崩す。忠恒自身も敵を討ち、島津忠長・寺山四郎左衛門らが追撃し、敵を晋州川へ追い込んだ。記事は敵三万八千七百余を討ったとの首注文を掲げ、島津方の損害はごく少数だったとする。この大勝を稲荷大明神の加護と位置づけ、明軍将が和睦を求め質を差し出したとも記す。五大老は義弘父子の戦功を「無比類」と賞し、秀吉死後の情勢を踏まえて諸城を釜山浦へ引き取り帰朝するよう伝えた。島津家伝における泗川大捷の中心記事である。
年月日未詳 / 冊子 533~534頁
豊臣秀吉の命で島津義弘・久保父子が朝鮮へ渡ったため、北郷忠虎も家臣を島津軍に付け、自ら再渡海して従軍した経緯を記す。のちに大明軍が攻めた泗川新城の戦いでは強敵一人を討ち取り、忠虎の具体的戦功を伝える。
年月日未詳 / 冊子 680頁
島津忠倍が朝鮮で島津忠長とともに軍務を続け、慶長元年冬にいったん帰国したのち、翌年二月に再渡海した経歴を記す。 慶長二年八月の南原城攻略では強敵を斬り、その後は泗川城に在陣したといい、忠倍の朝鮮役での戦歴をまとめた家譜記事。
年月日未詳 / 冊子 124~125頁
『朝鮮日々記』から、諸将が南原周辺に二十日ほど逗留した後、担当の道筋ごとに分かれて内陸へ進軍した経過を記す記事。薩摩衆は泗川方面へ向かい、川を渡って村々や宿所を進み、現地の米を上納させるなどした。
年月日未詳 / 冊子 125頁
『朝鮮日々記』から、島津勢が赤国方面から泗川の古館へ着き、泗川新城へ移った経過を記す。古城・新城の位置と警固人数、又八郎の入城、夜間警戒、諸将への守備割当てなど、泗川防備の形成を具体的に述べる。
年月日未詳 / 冊子 145頁
『島津家久譜』から、南原落城を知った全州住民が倉庫を焼いて逃散し、明将陳愚衷も城を捨てたことを記す。日本軍が全州から海南へ進み、義弘・忠恒父子が大河を北郷三久・伊集院忠員の前後陣で渡って忠清道へ入り、箭川を経て十月二十八日に慶尚道泗川古城へ退いた経過を叙述する。
年月日未詳 / 冊子 146頁
『征韓偉略』から、十月十日に義弘・忠恒父子が海南城へ入り、賦税を点検して忠清道を経略した記事。朝鮮側の城兵が戦わず逃れたため全羅道へ戻って泗川に駐屯し、日本軍の沿海諸城が兵站と相互救援のため連なること、泗川の呼称についても記す。
十月六日 / 冊子 147頁
島津義弘が、全羅道での戦いが終わって諸軍が陣を払い、奉行衆から赤国との境に近い慶尚道泗川の番所を命じられ、築城準備を進めていると報じた書状。庄内御料人の懐胎を聞き、特に祈念を尽くすよう求める。
年月日未詳 / 冊子 147頁
「御系図」として、日本諸将が慶尚道泗川の海辺に城を築いて新塞と号し、島津義弘父子を守将としたため、慶長二年冬に新塞へ移ったことを記す。泗川新城への配置を系図中の記事として伝える短文である。
(慶長二年)十一月三日 / 冊子 148頁
福原長堯が島津忠恒へ、前月十四日に海南を発ち、道中の兵粮を整えて二十八日に泗川へ帰着したと聞いた旨を伝えた書状。鍋島信州も南原まで同道したとし、余裕ができれば訪問して直接話したいと述べる。
慶長二年七月廿八日~十一月十九日 / 冊子 153~167頁
慶長二年七月二十八日から十一月十九日までの唐島追渡・朝鮮在陣日記。固川・南原・全州・海南・羅州・淳昌・泗川新城などを往来する島津勢と諸将の動きを、日々の天候、出発・到着時刻、行程、陣替え、使者・書状・贈答、兵粮や会食とともに記す。住民の拘束、城や在郷の状況、戦闘・討死の報、明軍来襲への対応までを連日の実務記録として残す。
年月日未詳 / 冊子 175~182頁
「殉国名数抄」として、慶長の役で戦死・病死した島津家の家臣、諸士、従者らを列挙した戦没者名簿。氏名だけでなく、所属地・役職、親子・兄弟・孫などの家系関係、戦没地や年月日、蔚山・泗川・南原などでの戦死、船中・陣中での病死といった事情を小字で付記する。無姓氏の兵や朝鮮陣没者を含む、多数の犠牲者を家ごとに記録した史料である。
年月日未詳 / 冊子 184頁
『征韓偉略』から、慶長三年正月五日頃、朝鮮諸城を守る日本軍を三道に分け、東路の蔚山に加藤清正、西路の順天に小西行長、中路の泗川に島津義弘父子を置いた記事。水軍は交替で往来し、駅伝のように連絡したと記す。
年月日未詳 / 冊子 188頁
『島津豊久譜』から、明軍が蔚山城の外郭を破り本城を危機に陥れたため、島津豊久が泗川から船で救援に向かい、三日で蔚山へ着いた記事。到着時には敵が退いていたが城兵はまだ知らず、豊久は単騎で諸軍に先駆け、敵首二級を得て鞍輪に結び付けた。左耳の下に傷を負っても退かず、その後に加藤左馬頭・黒田甲斐守・鍋島信濃守らが到着し、豊久は先駆けの働きを浅野左京大夫・加藤主計頭から賞賛された。
(慶長三年)正月廿六日 / 冊子 190~192頁
宇喜多秀家以下十三名が、蔚山での明・朝鮮勢の攻撃を踏まえ、朝鮮在陣諸城の配置と普請方針を再検討して奉行衆へ言上した連署状。蔚山は突出し川越えの難所もあるため、西生浦に加藤主計頭を置き、安芸宰相勢五千を残して普請させる案を示す。順天は大河と遠い干潟のため海陸から救援しにくいとして、小西勢を島津の泗川城へ、島津勢を固城へ移す案を提示するが、小西摂津守・対馬守は同意しなかった。順天・蔚山の普請は下知まで見合わせ、梁山を加徳へ替えて安芸宰相に普請、黒田甲斐守に在番させ、毛利壱岐守を固城在番とし、城主の半役を普請に充てるよう提案する。
(慶長三年)正月廿六日 / 冊子 192頁
本文はNo.367と同文であるため本冊では省略されている。No.367は、蔚山戦後の城配置を見直し、西生浦への加藤勢配置、小西勢の泗川移動と島津勢の固城移動、梁山から加徳への城所変更、黒田甲斐守・毛利壱岐守の在番、城主半役による普請などを提案した十三名連署言上状。旧写と文意に少し異同があるため、改めて写して参照に供したとの注記がある。
年月日未詳 / 冊子 204頁
慶長三年五月、島津義弘が朝鮮国泗川の新寨を警衛していた際、島津軍の旗下に属する朝鮮人に対し、朝鮮国の節度使から白書の伝令が送られたため、その文面を次に収録したと記す。
年月日未詳 / 冊子 206~208頁
慶長三年四月五日、泗川新城の普請中に敵騎兵の動きを知った島津勢が出撃した経過を記す。伊集院源二郎・北郷作左衛門らが鉄砲隊と伏兵を分け、雨で火縄が働きにくいなか敵を誘い込んで射撃し、騎馬・徒歩の諸隊が追撃した。敵の反撃で混戦となった後も、原野や伏草へ陣を移しながら交戦し、多数を討ち取って日暮れに帰城したとする。
年月日未詳 / 冊子 209頁
慶長三年四月中旬、敵方の唐人龍海が和平使として晋州の番所へ来たため、島津義弘・忠恒が面会して饗応した。しかし敵方が和平の約を翻して大軍を出すとの報により、晋州・猿羽見の番衆を泗川新城へ引き入れた。また小西行長との内談のため鎌田蔵人・敷根藤左衛門を夜船で順天へ遣わしたところ、船が瀬に乗り上げて両名は死亡し、船頭らは新城へ帰還したと記す。
慶長三年八月 / 冊子 228~229頁
『島津義弘譜』が、麻貴ら明軍が蔚山の加藤清正と対峙し、島津義弘・忠恒が一万の兵で泗川・新寨周辺の諸塁を守り、近隣諸邑へ軍事行動を行った状況を記す記事。豊臣秀吉は伏見城で没する際、死を当面秘し、浅野長政・石田三成を筑紫へ急派して朝鮮在陣諸将を帰国させ、撤兵が難しければ徳川家康・前田利家の遠慮により十万の兵を異国の枯骨としないよう遺言したとする。
慶長三年九月廿八日 / 冊子 239~240頁
『島津家久譜』が、董一元配下が内応者郭国安を用いて望津の兵糧を焼き、明軍が望津・永春の砦を破って新寨へ迫った経緯を記す記事。董一元は金印を示して和親を求めたが島津義弘は拒絶し、九月廿八日の撤兵時に明軍が泗川を急襲して相良玄番ら約百五十人が戦死、川上忠実も多数の矢を受けながら退却した。忠恒は反撃を望んだが、義弘は敵数不明のため城門を閉じ、旗や鉄砲で応じず静観させた結果、明軍は退いたとする。
慶長三年九月廿八日~十月朔日 / 冊子 241~242頁
『島津義弘譜』が、董一元・茅国器らが内応者郭国安を用いて望津の兵糧を焼き、望津・永春・昆陽の三砦を攻略した後、泗川・新寨へ迫った経過を詳述する記事。島津義弘は金印を示す和親案を拒み、九月廿八日の撤収時には相良玄番ら約百五十人が戦死し、川上忠実は鎧に三十六本の矢を受けながら退却した。忠恒が反撃を望む一方、義弘は敵数不明として城門を閉じて応戦を控えさせ、明軍を退かせた。翌廿九日には明側が新寨より固城を先に攻める策を論じ、明兵が十月朔日の新寨攻撃を予告する標木を立てたとする。
年月日未詳 / 冊子 243~245頁
『征韓偉略』が、日本・明・朝鮮側の諸記録を引きながら泗川・新寨の戦闘と撤兵までをまとめた記事。明軍の諸将が泗川へ進み、董一元軍が新寨を包囲したものの、火器の爆発と島津義弘・忠恒らの反撃で大敗した経過、敵味方の戦死、城外への追撃、明軍の退却を記す。さらに寺沢正成らとの帰国・渡海をめぐる協議、朝鮮側の報告、講和使節や諸将の帰陣記事を収め、同戦を複数史料から構成する。
慶長三年十月朔日 / 冊子 248~250頁
『島津義弘譜』が、慶長三年十月朔日の泗川・新寨決戦を詳述する記事。董一元ら率いる明軍が新寨を包囲すると、島津義弘は敵が城壁へ近づくまで鉄炮を撃たせず、白狐一疋と赤狐二疋の出現を稲荷明神の加護と信じて、大鉄炮の一斉射撃と開門突撃に転じた。義弘・忠恒父子や忠長らが敵を北へ追い、晋州川付近まで潰走させた後、首実検と勝利の儀礼を行い、翌二日に敵首三万八千七百十七級と算したとする。
年月日未詳 / 冊子 252~253頁
『図書頭忠長譜』が、明軍の泗川攻撃に対する島津忠長の迎撃を記す記事。明側から降伏を促す書状が届くと、義弘は勝敗は戦って決すべきだと退けた。九月十九日に明軍二十万が進み、忠長は九月廿八日の戦闘で自ら敵へ向かい、野添帯刀長・本田與兵衛尉と合力して数人を討つ。義弘が忠長の危急を見て数百騎を救援に送り、寺山四郎左衛門尉の働きもあって明軍を敗走させ、晋州川まで追撃したとする。
年月日未詳 / 冊子 253頁
『川上久辰譜』が、泗川・新寨決戦での川上久辰の働きを記す記事。董一元らの大軍に対し、義弘・忠恒が七千余の兵を率いて反撃し、忠長も小勢で紅巾の兵を支えた。諸将が追撃に出て義弘の周囲が手薄になると、久辰がその側へ進み、義弘は祖先川上久朗が菱刈で両君のため命を懸けた故事になぞらえて称えた。寺山久兼の鉄炮隊による後陣攻撃で敵を崩し、茅国器側が弟を人質として講和を請うたとする。
年月日未詳 / 冊子 253~254頁
『寺山久兼譜』が、慶長三年十月朔日の泗川・新寨決戦での寺山久兼の戦功を記す記事。義弘・忠恒父子が開門して明軍へ突入した際、島津忠長と対峙する敵将が現れると、久兼は兵を横隊にしてその後軍を攻めさせた。これにより前軍も崩れ、島津勢が敵首を斬獲する契機となったとする。末尾に久兼が慶長十六年十月晦日、四十五歳で没したことを付記する。
慶長三年十月朔日 / 冊子 254頁
『樺山久高譜』が、慶長三年十月朔日の泗川新城で樺山久高が敵兵と一騎討ちした経過を記す記事。伏兵の中から現れた身長六尺ほどの江南の強敵と組み合い、久高は負傷して力尽きかけた。危急の際、郎従田實三之丞が槍で敵の頸を突いたため、久高は勇気を取り戻してその首を斬獲したとする。
慶長三年十月朔日 / 冊子 254頁
『平山氏系図・平山久清譜』が、慶長三年十月朔日の泗川新城攻防での平山久清の戦功を記す記事。明軍数十万騎が新城を囲むと、義弘・忠恒父子が城門を開いて大軍へ突入し、敵を崩した。この戦闘で久清も敵首五級を斬ったとし、同年十二月に日本の諸将が帰陣したことを付記する。
年月日未詳 / 冊子 254頁
『御譜雑抄』に収められた記事。本冊では本文がNo.488の記事の一部と同文であるため省略されており、島津義弘譜に記された慶長三年十月朔日の泗川・新寨決戦記事を参照する構成となっている。
年月日未詳 / 冊子 254頁
『御譜雑抄』に収められた記事。本冊では本文がNo.488の記事の一部と同文であるため省略されている。同じ参照先を持つNo.499とは別番号で掲げられ、泗川・新寨決戦記事の一部分に対応する。
慶長三年十月朔日 / 冊子 255頁
『北郷三久譜』が、慶長三年十月朔日の泗川新寨攻防で北郷三久が危地を脱した経過を記す記事。三久は明兵と組み合って両者の馬の間に落ち、死にかけたところへ島津忠恒が駆けつけ、相手の明兵を斬って救った。その後、三久は忠恒とともに明兵を追撃して多くを討ち、名誉を得たとする。
慶長三年十月朔日 / 冊子 255頁
『樺山忠征譜』が、慶長三年十月朔日の泗川新城攻防での樺山忠征の騎馬戦を記す記事。明軍が敗れて原野に数万の伏兵を残し、二百五六十騎が敗軍の殿を務めると、忠征は馬を走らせて退路を遮り、敵騎を深谷へ追い落として一人も逃さなかったとする。その働きを卓越した御馬術の例として称える。
年月日未詳 / 冊子 257頁
『佐多民部左衛門覚書』が、順天・泗川方面の瀬戸口で行われた水戦と帰陣を記す記録。兵船を揃えた翌朝に明の兵船が攻めかかり、双方で多数の船を焼失した。樺山權左衛門らが島へ追い上げられたものの、潮時を得て釜山浦へ退き、日本帰陣のため諸手が合流した。島津の船団は全軍の殿を務めたとする。
慶長三年九月廿七日 / 冊子 257頁
『佐多民部左衛門覚書』が、慶長三年九月廿七日に明兵・朝鮮兵が晋州方面から泗川へ攻め寄せた際の戦闘を記す記録。島津勢が防戦する中で、相良玄番が戦死したことを簡潔に記す。
慶長三年十月 / 冊子 257頁
『佐多民部左衛門覚書』が、十月の泗川城奪回と追撃を記す記録。明軍が鉄炮と石火矢を備えて城へ攻めかかると、義弘・忠恒父子の軍勢が城から打って出て敵を崩し、晋州川まで追い詰め、多数を討ちまたは溺死させた。さらに敵の兵糧蔵を焼き、帰城後には討ち取った者の塚を築いて松を植えたとする。
(慶長三年)十月十四日 / 冊子 258~259頁
島津義弘が(慶長三年)十月十四日付で石田治部少輔らへ出した書状。泗川で明軍を討ち大勝した後は敵が現れず、順天の番船や蔚山方面の敵も退いたこと、又八郎忠恒が数万騎を討った手柄を報告する。忠恒の帰国と自身の上洛、上洛時に率いる人数について指示を求め、明側使者龍淵と寺沢正成・小西行長による和平交渉の状況も伝える。
慶長三年十月十八日 / 冊子 265~266頁
長崎六郎右衛門が慶長三年十月十八日付で安楽大炊助らへ出した書状。泗川城へ唐人二十万ほどが攻め寄せたが、島津勢が城から突撃して四方へ追い崩し、晋州まで広範囲に討ち取った前代未聞の勝利を詳報する。寺沢正成らの到着、唐人側からの和平書状と質人提出の予定にも触れ、兵士や小者が得た銀子などの戦利品、自身の主従が略取しなかったこと、辻助兵の死去なども伝える。
十月廿二日 / 冊子 267~268頁
島津忠恒が十月廿二日付で薩摩の重臣らへ出した書状。明の大軍が蔚山・順天・泗川の三道へ分かれ、泗川城を数十万騎で包囲したため、長期籠城を避けて出撃し数万を討ち取ったと詳報する。白狐・赤狐が戦場を走ったことを神仏の加護として記し、順天の敵船焼討ち、再開された和平交渉、帰朝の見込みを伝え、留守居衆に油断なく相談するよう命じる。