島津勝久書下
享禄四年三月八日 / 冊子 711頁
島津勝久が快瑜法印に、満家院東俣大平木場を平等王院へ寄附した先例を認め、沙汰するよう命じた書下。
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享禄四年三月八日 / 冊子 711頁
島津勝久が快瑜法印に、満家院東俣大平木場を平等王院へ寄附した先例を認め、沙汰するよう命じた書下。
享禄四年三月八日 / 冊子 711頁
島津勝久が快瑜法印に、満家院東俣大平木場の寺領境界と歴代の寄進を確認し、従前どおり執務するよう命じた書下。
永禄十年十月吉日 / 冊子 167頁
島津義久が、龍厳寺門徒の一乗院頼忠法印と舜寛房典称に関わる寄進・買得について、今後相違があってはならないと保証した書下。
(天正五年)正月八日 / 冊子 508頁
島津義弘が一乗院法印に年始を祝い、米菊丸が年を重ねてますます健固なのは懇祈のおかげと謝す。引き続き繁栄の祈念と厚い交誼を求め、詳細は諸吉永春から伝えるとした書状。
(天正五年)三月十九日 / 冊子 516~517頁
島津義弘が一乗院法印に、米菊丸が十八日巳刻から体調を崩し、咳気なども判然としない状態だと急報する。病中につき時を移さず懇ろな祈念を行うよう強く依頼した書状。
(天正五年)九月六日 / 冊子 521頁
島津義弘が一乗院法印に、遠方ながら米菊丸の祈念を朝夕怠らず、節々に知らせを受けることへ礼を述べる。周囲は子の危難を案じるが、法印の祈祷を頼む以上、勇健は疑いないと信じ、引き続き加護を求めた書状。
(天正九年)三月十九日 / 冊子 687頁
島津義弘が一乗院法印らへ、米菊丸が前日十八日巳刻ごろから通常の咳とは異なる病状となったため、直ちに懇切な祈祷を行うよう依頼した書状。追而書で、まだ効験がないので引き続き祈念するよう重ねて求める。
天正十年正月八日 / 冊子 707~708頁
島津忠平が一乗院法印へ年頭を祝い、米菊丸が年々いっそう健固なのは懇ろな祈祷のおかげだと礼を述べ、引き続き繁栄を祈るよう頼んだ書状。詳細は永春が伝える。
天正十年五月十日 / 冊子 711頁
島津忠平が一乗院法印へ、米菊丸のため不動護摩供と薬師法を修し、配札・護符を送られた礼を述べた書状。米菊丸が息災堅固であることを喜び、遠方まで人を遣わした厚意に感謝して、引き続き懇ろな祈祷を頼む。
天正十年九月六日 / 冊子 717頁
島津忠平が一乗院法印へ、遠隔のため無音となったことを詫び、米菊丸のため朝夕怠らず祈祷しているとの知らせを喜んだ書状。周囲が米菊丸の命を危ぶむため心配しているが、法印の祈祷を頼む以上は健固になると信じ、引き続き厚意を求める。
天正十一年十一月十八日 / 冊子 799~800頁
島津義久が上醍醐寺の使僧として下向した宝寿坊法印へ、領国内の戦乱が激しく十分な応接ができず本意に背いたが、今後は必ず微志を尽くすと伝えた書下。
(慶長九年)五月七日 / 冊子 932-933頁
飛鳥井雅庸が龍伯法印島津義久へ示した和歌作法の条書。短冊・懐紙の清書、題と実名の配置、折り方、墨付け、字配り、連歌・和歌の書式や提出方法など、歌書作成時の細かな作法を項目別に説明する。
二月十三日 / 冊子 57頁
島津義久が祐乗法印に、前年からの療養と調薬への礼を述べた書状案。薬の服用後に気分が改善し、膝痛や嘔吐などの症状も落ち着きつつあることを報告し、今後の薬と診療を引き続き頼む。
(慶長十一年)十月十六日 / 冊子 91~92頁
島津義久が祐乗法印に、桑山幸晴を介して得た虫薬が発作時には効いたものの完治には至らず、五月以来の症状に苦しんでいると述べ、使者を立てて追加の薬を求めた書状案。
(慶長十五年)正月 / 冊子 265頁
慶長十五年正月、島津義久が祐乗法印に尾張名古屋城普請に伴う人員差し出しと奉行の進発について知らせ、古今の切紙や墨跡の照会・借覧を依頼し、使者に詳細を託した書状案。
(慶長十八年)八月八日 / 冊子 407頁
慶長十八年八月八日、島津家久が松浦法印・肥前守へ、年頭の祝意と贈答に謝し、太刀一腰・馬代二千疋を贈り、船や港に関する取次を頼んだ書状案。
(天正五年)五月十日 / 冊子 517頁
島津義弘が、米菊丸の祈念のため不動護摩供・薬師法を修し、祈祷札を送られたことに礼を述べる。子が息災堅固となった喜びを伝え、遠方からの使者派遣にも謝し、今後も懇祈を頼んだ書状。
六月三日 / 冊子 378~379頁
祈願のため良慶坊を派遣し、大護摩一座を修して島津家の長久を祈祷するよう依頼し、詳しくは使僧が説明するとした島津家久書状。
天文廿一年七月十八日 / 冊子 900頁
法印日承が古市長門守に、家門に関する願いとその取り次ぎ、青蓮院宮への働きかけなどについて伝えた書状。
十月十六日 / 冊子 167頁
頼忠法印が、高崇寺に関わる肝付良兼に対し、根来寺に住山していた折に法流の相承を約束したことを述べ、自身が老齢であるため速やかに来訪して法流を受け継ぐよう求めた書状。
(天正四年)八月吉日 / 冊子 482~483頁
彦山般若坊法印豪継が、日向表への出陣が神恵によって勝利したことを祝し、今後の武運長久を祈る目録二通を島津義久へ進上するので披露してほしいと伊集院右衛門大夫に依頼した書状。
(天正六年)八月吉日 / 冊子 547頁
本文はNo.860と同文につき省略されている。彦山般若坊法印豪継が日向出陣の勝利を祝い、今後の武運長久を祈る目録二通を島津義久へ進上するので披露してほしいと依頼した書状。
(天正16年)10月21日 / 冊子 420~421頁
祐乗房法印が島津義久へ、前年以来の懇切、とりわけ養生への配慮に深く礼を述べる。義久の下向時に取り紛れて十分に閑談できなかったことを惜しみ、十月十四日の帰国を喜び、蜜壺を進上して今後も薬種などを用意すると申し出た書状。 「義久公御譜中、石田殿宛御案文の次に入る」という収録位置の注記と、考按が「十四日帰国」を義久の鹿児島帰着と照合している点から、義久宛と判断できる。
(天正17年)12月26日 / 冊子 455~456頁
安芸法印休松が島津義弘へ、帰国後しばらく便りがなく恋しく思っていたこと、無事に下向した満足を推し量ることを伝える。上様から懇ろな言葉があったことや、義弘の翌春の上洛予定にも触れる。 さらに三月朔日の東国出馬に供奉するとの知らせを受け、無事帰陣した後に詳しく聞きたいと述べ、珍しい唐墨一丁を贈られた礼を記す。休松が日頃御前に伺候し、義弘の用件を取り次ぐので安心するよう伝えた年末の消息書状である。
八月十九日 / 冊子 228頁
大蔵卿法印宗久が島津義久に、油蠟製造のため唐人が召し上げられ、製造が成就したことを豊臣秀吉が殊のほか喜び、朱印を発したと伝えた書状。義久にも事情を心得て、さらに申し上げるよう求める。
(慶長四年)三月廿九日 / 冊子 363頁
祐乗坊法印出仙が、久しく連絡せず本意ではなかったと詫び、少将殿の御上が病気であるため上るよう承知したので、翌日に上り、直接会って報告すると兵庫入道へ伝える。
(慶長十三年)十一月十日 / 冊子 197頁
十一月十日、青厳寺法印政遍が島津惟新に、旧来の願所を弟子に再興させるため新地を得て造営を進めていること、成正院の建院も希有の善縁であることを述べ、今後の寺役や登山時の対応を約した書状。
慶長十四年七月九日 / 冊子 227~228頁
慶長十四年七月九日、宝性院法印政遍が島津家久に、高野山蓮金院は源頼朝草創と伝わる金剛峯寺の別院で、義弘・家久の連署した再興記が永代の証文になると述べ、学業を修めた住持を置いて島津氏の護持寺とするよう願った書状。
(慶長十四年)七月九日 / 冊子 228頁
七月九日、青巌寺法印政遍が島津家久に、蓮金院寄附記の到来を受け、成正院の尽力で蓮金院が比類なく美しく完成したことを報告し、上洛時の見学を願うとともに琉球を早速平定した武名を祝った書状。
十二月□ / 冊子 228~229頁
十二月、青巌寺法印政遍が島津家久に、源頼朝の願所と伝える蓮金院を弟子が再興し、学問所・茶の間などの院家が完成したことを報告して造営援助に謝し、翌春に使僧を遣わす予定と油煙・筆の贈答を伝えた書状。
慶長十四年七月九日 / 冊子 229頁
慶長十四年七月九日付の宝性院法印政遍書状。本文はNo.597と同文であるため、本巻では重複を避けて省略した旨のみを記す。
十月廿四日 / 冊子 17頁
法印頼金が、使僧を遣わし、判物と福寿院への取り成しに謝意を述べた書状。一瓢様の意向で平原之門と十穀園之門を替えて与えられたため、後日の証文として十穀園五十貫の員数を記し、金吾様の判を添えて交付してほしいと頼む。
六月十六日 / 冊子 34~35頁
青巌寺法印政遍が、少将の勘気を受けて流浪していた矢野主膳について、川上四郎兵衛尉・本田源右衛門尉へ取り成しを依頼した書状。矢野主膳を青巌寺に招いて勤めさせているが、俗人の寺住まいは不相応であるため、少将への赦免の働き掛けと惟新への伝達を求める。
神無月十六日 / 冊子 99頁
頼忠法印が肝付三郎に宛てた書状。肝付氏が帰依する高崇寺について、根来寺住山中に法流相承の約束をしていたことを述べ、自身が老齢であるため急ぎ来訪し、法流を正式に継承するよう求めている。
八月五日 / 冊子 107頁
法印棟清が、新田宮神王面の修復・清祓について、宣旨・大府宣を受けた以上は疑義がないと主張し、請文や府官への照会、目代の費用負担などを論じ、先例に従った下知を求めた申状。
(慶長三年)八月十九日 / 冊子 372~373頁
大蔵卿法印宗久が島津修理大夫入道の側近に、油蝋の件は唐人を召し上げて成就し、朱印も発給されたので心得るよう伝えた副状。
八月八日 / 冊子 305頁
恒例により当峯で大護摩祈祷を吉日に執行し、札と巻数を進上するとともに、領国・家中の安全、武運長久、息災延命、諸願成就を祈った法印良盛書状。
(慶長十年)七月廿八日 / 冊子 27頁
本多正純が松浦法印に、漂着した琉球船への対応を指示した書状案。唐人に書状を与えて琉球へ送り返し、航海中の扶持を支給すること、前年の漂着者送還への礼がない旨を琉球へ伝えること、積荷を小笠原一庵へ渡して相談することを命じる。
永禄九年十月十九日 / 冊子 156~157頁
永禄九年十月十九日、島津貴久の使者伊集院下野守が、高原所領を霧島六所大権現へ寄進する旨と祈念を伝えたことを記す私覚。高原は神代以来の神地であるとし、証跡として太刀を座主に渡した後、頼継が日数を置いて返進したこと、使者の子が冠嶽和光院の僧となったことも書き留める。
天正20年8月14日 / 冊子 600頁
豊臣秀吉が、義久・島津侍従の蔵入分から近年売却された田畑を調べて元の蔵入へ戻し、寺社領を検地して当年の年貢を義久蔵入とするよう命じる。 あわせて島津家中の諸代官の算用を改め、異議を唱える者は成敗すると定める。島津領国の財政・土地管理を豊臣政権が直接再編しようとした命令書である。
天正20年8月14日 / 冊子 600頁
豊臣秀吉が細川幽斎へ、邪答院氏の成敗と首級到着を賞し、梅北一揆残党の妻子まで捜し出して名護屋へ送り処刑するよう指示する。薩摩・出水・日向諸県郡の検地についても、名護屋帰陣後に処置するとした。 義久知行の売却地回収、蔵入・代官算用の精査、寺社領の内検地など六項目を列挙し、反乱処罰と領国支配の再編を一体で進める命令である。
慶長六年閏十一月廿四日 / 冊子 789頁
島津龍伯が、先年在洛中に因幡堂で頼真房の灌頂が行われた際、自身が証人となって成就したことを証する。門流外・他国での灌頂を認めない旧例に対し、前代未聞の先例として有効だと確認した証状。
三月十日 / 冊子 189頁
新調された太元明王像三幅の開眼供養を済ませて進上し、祈念に精誠を尽くした守り二つも送ったことを披露するよう頼んだ密厳院亮政書状。
天文20年8月26日 / 冊子 601頁
前加賀法眼東尊が執印越前守へ、大隅国正八幡宮の執印職に紀越後儀景が補任されたことを通知する。 石清水八幡宮善法寺法印掌清の命を受けた執達文で、任命を承知し、儀景が神事に専念できるよう取り計らうことを求める。中世の大隅正八幡宮と石清水八幡宮の人事関係を示す史料である。
(応永九年)九月十一日 / 冊子 206頁
島津元久が、鹿児島城の蔵に置く料足・銀・唐物・武具類について、自身に不慮の事態があった場合は、蔵を預かる北原新左衛門尉・福崎太郎次郎が法印実賢の誓文をもって福昌寺へ引き渡すよう命じた書状。両人に支障があるときは、その跡を相続する者が引き渡すことも定める。
年月日未詳 / 冊子 525~526頁
文明十七年春、伊東方の山東・飫肥方面への進発と長雨・兵粮難、薩摩守重久・修理亮忠廉らによる都城方面の軍勢催促を記し、さらに竹田法印昭慶の医療と出陣をめぐる忠昌・伊東祐国・伊作式部太輔らの応酬を載せる長文譜記事。
年月日未詳 / 冊子 526~528頁
伊東方の飫肥進発と長雨・兵粮難、竹田法印昭慶の医療をめぐるやり取りを詳述する『文明記』記事。薩摩守重久・修理亮忠廉ら薩摩方が進軍して合戦を重ね、島津忠昌は鹿児島から船で出発し敷根へ着陣した。軍勢移動、補給、医療を含む長期戦の実態を示す。
年月日未詳 / 冊子 543頁
長享元年二月晦日、竹田法印昭慶が船出して京都へ帰ったことを島津忠昌の譜中に記す。
年月日未詳 / 冊子 19頁
天文二十四年、島津忠良が日秀上人に坊津一乗院で多宝塔を建立させ、五仏を安置した。十月十二日、現住頼忠法印に仏像心柱の銘を書かせ、五仏のうち阿閦仏一体は島津尚久が檀那となったことを記す。
永禄十一年十一月~十二月十三日 / 冊子 206頁
日新の病状が重いなか、弓箭が一時静まったので樺山玄佐が馬越へ赴き、霧島法印に曽於郡預進後の御礼や小窪名寄進などを約した。その後加世田へ戻って文宗の番を勤めている間、永禄十一年十二月十三日に日新が死去したこと、貴久は看病のため十一月から加世田に滞在していたことを記す。