新納拙斎書状
(慶長十二年)正月十五日 / 冊子 106頁
新納拙斎(忠元)が、安満(安満加)の元服を翌月四日の丁酉に行い、出立日は二十九日が吉日であると伝え、肥後仲右衛門尉・当木将右衛門尉へも知らせるよう求めた書状。銀子の拠出期限や調達・立替えについて相談し、先に出立した際の内方に関する用件への返答を求める。追而書では、火の用心や馬の飼育などについて指示する。
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(慶長十二年)正月十五日 / 冊子 106頁
新納拙斎(忠元)が、安満(安満加)の元服を翌月四日の丁酉に行い、出立日は二十九日が吉日であると伝え、肥後仲右衛門尉・当木将右衛門尉へも知らせるよう求めた書状。銀子の拠出期限や調達・立替えについて相談し、先に出立した際の内方に関する用件への返答を求める。追而書では、火の用心や馬の飼育などについて指示する。
文禄3年5月26日 / 冊子 785頁
新納拙斎忠元が、久しぶりの書状と鹿皮三枚の贈答に礼を述べ、坂上紀州の旧知行に関する納入状況を日記で確認したいと求める。老中の下知に従って知行が移された場合でも、墨付を確実に受け取るべきだと手続を説く。 冒頭では原口大蔵の新しい一件を薩左衛門へ伝えるよう依頼する。知行処理を口頭伝達だけにせず、日記・墨付で裏付けようとする忠元の実務姿勢が分かる書状である。
(天正16年)10月17日 / 冊子 419~420頁
新納拙斎が、未決着の案件について先方の判断を求め、法式に背く行為や相手方の訴えを詳しく検討するよう申し入れた書状。 双方の言い分が対立するなか、命令書や証拠を踏まえて穏当な裁定を下すよう求めており、家中紛争の調停過程をうかがわせる。
慶長十一年十一月七日 / 冊子 92頁
新納拙斎が蔵代官に、正月酒用の米として蔵入米百石につき一斗七升ずつを支出し、丸田久右衛門へ渡すよう命じた切符。
慶長十一年四月吉日 / 冊子 69~70頁
新納忠元が署判した知行目録。内門二つ分の役分を含む総高百七石余を掲げ、外小屋敷三つと高九拾九石余の定役など、知行高と負担を列記する。
年月日未詳 / 冊子 701頁
矢崎の陣で拙斎が敵から島津家久の標識を奪い、丸田休右衛門に急いで城へ登るよう促されて横入りし、城を落としたという武功譚。丸田休右衛門は当時十六歳で、敵三十六人を討ち取ったと伝える。
文禄3年6月20日 / 冊子 787~788頁
島津義弘が新納武蔵入道(新納忠元)へ、先に送った書状の到着を確かめつつ、気兼ねのない相手として「一局」の記録を送り、適切な箇所に墨書で手を加えて返してほしいと頼む。 現地には相談相手がおらず、連日の窮屈を紛らわせたいと述べ、忠元との再会を待ちかねている。朝鮮在陣中の義弘の孤独と、棋譜とみられる遊興を介した忠元との親密さが伝わる私信である。
(慶長7年か)10月5日 / 冊子 70~71頁/原整理番号 62
新納忠増が拙斎へ普請人数を報告する。前年の相良新右衛門奉行時は北郷作左衛門内衆と合わせ一日三千人・25日で六万五千人、当春の竹内織部助奉行時は千人・30日で三万人と記す。両口合計は十万五千人とするが、証拠が見当たらず不審な旨を述べ、今回の普請人数も未定と伝える。記載小計と総計には不一致がある。
天正20年5月4日 / 冊子 558~559頁
島津義久が、大豆・代米の調達、高麗・名護屋・京都への見夫、軍勢の配置、夜昼の談合、耕作、造船材、反米・徳役米、返地配当など、出陣期の国元運営を列挙した袖判覚書。 案件が決着するまで拙斎・肱枕・利安・鎌雲らを帰宅させず、鹿児島に交替で三人ずつ詰めさせるなど、実務担当者の勤務体制まで具体的に定める。
年月日未詳 / 冊子 390頁/原整理番号 113
伊地知才右衛門系図に載る前田土佐守重通の記事。居所は一定せず、移串良・踊・飯野・倉岡・國分・都於郡などへ移り、隅州小濱で没したとする。大将新納拙斎に従って牛根と下大隅の城攻めで功績を挙げ、その褒賞として田畠を与えられたという。前田肥前守重悦の子と注記する。
年月日未詳 / 冊子 335頁/原整理番号 19
忠清の申状が、伯囿の伊集院在城時、八月七日の夜に神殿から郡山城へ忍び入り攻めたと記す。敵が強く城戸で抵抗する中、南郷・市来・拙斎らが先に走り込み、城戸を破って内城へ迫った。伯囿が火矢を用いて攻めた後、川上・阿弥・野村らと拙斎が心を合わせて戦い、拙斎は山口という者を刀で切り合って討ち、その首を伯囿へ見せたという。
(天正16年)8月晦日 / 冊子 409頁
普請での働きぶりを高く評価し、技能のある者として今後も怠りなく勤めるよう新納忠元が励ます。 普請の負担を察して人夫二十人を追加すると伝え、参加人数と作業状況を日記に記して報告するよう求めた実務的な書状。
年月日未詳 / 冊子 797-800頁
新納忠元の勲功に関する長文記録。関ヶ原合戦後、家康の伏見出立、島津領周辺の軍勢・諸城の動向、加藤清正方などへの警戒、国境・城郭の守備と兵員配置、和睦交渉や使者往来、忠元らによる家中統制・訴訟処理・知行措置などを列挙し、領国防衛と島津家存続に向けた働きを記す。
年月日未詳 / 冊子 671頁
新納忠元が大永六年某月三日に生まれ、幼名を安萬丸、次郎四郎、中務刑部大輔、のち武蔵守と称したこと、母が袮寝周防守久友の娘であったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 825頁
新納忠元の合戦記事。本文はNo.2500の記事と同文のため省略されている。
年月日未詳 / 冊子 825頁
新納忠元の合戦記事。本文はNo.2501の記事と同文のため省略されている。
年月日未詳 / 冊子 826頁
天文十四年、入来院石見守重朝の攻勢に対し、新納忠元が伊牟田左衛門・春山越中守・川上十郎左衛門らと蔵城へ入った合戦記事。少数の兵で守備を組織し、城兵を指揮して敵の攻撃を防ぎ、城を守り抜いた忠元の判断と戦功を記す。
年月日未詳 / 冊子 826頁
伊集院方が夜襲を仕掛け、伯囿らが城内で迎え撃った戦況を記す弓箭覚書。新納忠元・川上十郎左衛門らの配置と交戦、混乱する城内での応戦、負傷者・討死者の発生を挙げ、夜間の急襲に対する守備側の働きと損害を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 826~827頁
伊集院方が伯囿らを夜襲した際、新納忠元が城内で応戦し、敵を退けた軍労を申告した文書。川上十郎左衛門らとともに守備を続け、危急時の忠節と戦功を具体的に述べる。No.2495-2は同文のため本文を省略すると注記される。
年月日未詳 / 冊子 827頁
天文十四年八月、入来院重朝の攻撃に対して新納忠元らが城を守り、難儀しながらも奮戦した勲功を記す。
年月日未詳 / 冊子 876頁
天文十八年三月から四月、清水方面で諸将が敵方と戦い、新納忠元が大刀を携えて先鋒を務めたことなどを記す。
年月日未詳 / 冊子 876頁
新納忠元譜の項目だが、本文は「全」との表示のみで、具体的な記事本文は掲載されていない。
年月日未詳 / 冊子 877頁
天文十八年、島津貴久が清水に布陣した際、新納忠元が諸将とともに城攻めと防戦に加わり、武功を挙げた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 896頁
新納忠元が二十七歳の時に七言詩を作り、老年の詠歌と取り違えられた逸話や、忠元の作と伝わる詩歌について記す。
年月日未詳 / 冊子 919頁
『新納忠元譜』が、天文二十三年九月に新納忠元が貴久方として加治木・岩剣方面へ出陣したことを記す。城兵の出撃に対して先陣で敵陣へ攻め入り、味方諸隊とともに押し返した働きが、忠元の軍功として後世に伝えられた。
年月日未詳 / 冊子 919~920頁
『新納忠元譜』が、岩剣の陣で城方が出撃した際、新納忠元が前線で応戦したことを記す。忠元は敵兵と接戦しながら陣を崩さず、貴久方の諸隊が態勢を整えるまで攻撃を支え、激戦で示した働きを個人の軍功として特記する。
年月日未詳 / 冊子 920頁
『新納忠元勲功記』が、天文二十三年の肝付兼演方との戦いで忠元が加治木・岩剣方面を転戦した経過を記す。敵の出撃や伏兵に応じて先陣・追撃を務め、味方の劣勢時にも踏みとどまって敵を退けた複数の働きを勲功としてまとめる。
年月日未詳 / 冊子 2~3頁
弘治元年正月、範清・良重らが北村勢と謀って降参を装い、島津貴久・貴明を誘い出した。敗退時に貴明が危難に陥ると新納忠元が駆けつけ、敵を退けて無事に退却させ、感賞を受けたと記す。
年月日未詳 / 冊子 3頁
弘治元年正月、蒲生範清・祁答院良重らが北村勢に偽降させ、島津貴久父子を誘い出した。敗退時に新納忠元が御太刀を持って貴久に従い、さらに危急の世子を救うため殿軍を務めて奮戦し、感賞を受けたと記す。
年月日未詳 / 冊子 79頁
永禄三年、足利義輝が伊勢貞運を派遣して島津・伊東両氏の和平を図った際、新納忠元が樺山幸久・肝付兼寛らと末吉で応接し、調停に功績を挙げたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 81~82頁
永禄三年十月、将軍足利義輝の命で伊勢貞運が島津・伊東両氏の和談を調停した際、島津貴久が末吉で会見し、新納忠元・樺山幸久・肝付兼寛に応答を任せたことを功績として記す。
年月日未詳 / 冊子 113頁
真幸院主北原兼守の死後、横川城に拠って島津方へ背いた北原兼正を討つため、永禄五年六月三日に義弘らが出陣した。新納忠元は伊集院久春と先登し、城門で槍を振るって負傷しながら城を陥落させた。
年月日未詳 / 冊子 113頁
横川城を攻め崩した際、新納忠元が伊集院玄集とともに内城の城戸口へ攻め入り、合戦で負傷したことを本人の奉公申上の形で記す短い記事。
年月日未詳 / 冊子 113頁
横川城攻略時に新納忠元が伊集院玄集と同心して城戸口へ詰め、槍を取って戦ったことを記す。貴久が溝辺に滞在中、両人が派遣された際の戦功として述べる。
年月日未詳 / 冊子 113頁
真幸院主北原兼守の死後、北原兼正が横川城に立て籠もったため、永禄五年六月に島津方が攻撃した。歳久を大将とする軍勢の中で、新納忠元は伊集院久春と先登し、城戸で槍を合わせて城を攻め落とした戦功を記す。
永禄十年十一月~十二月廿九日 / 冊子 171~172頁
菱刈重猛が伊東方へ内通したため三之山攻めが失敗し、重猛死後の降参交渉も老臣らの反対でまとまらなかった経緯を述べる。永禄十年十一月の馬越城奇襲で新納忠元が度々奮戦して矢傷を負い、周辺八城が大口城へ退いた後は各城に守兵が置かれた。十二月二十九日に市山守将の市来家利・伊集院久慶らが戦死すると、忠元が市山城守備を命じられ、蒲生の蔵入地などを与えられた。
永禄十年十一月 / 冊子 172~173頁
菱刈重猛が三之山攻めを伊東方へ漏らし、死後も一族の帰服がまとまらなかったため、永禄十年十一月に馬越城を攻めた経過を記す。新納忠元は新納武久・伊集院久宣・有馬純秀らと先登して井手籠父子以下二百余級を討ち、城を陥落させたが矢傷を負った。菱刈隆秋は八城を捨て大口城へ籠り、相良義陽の援兵を得た。
永禄十年十一月 / 冊子 173頁
馬越城攻めで新納忠元が四度の槍合わせをしたことを記す。最初は新納武久、次は伊集院久宣、さらに有馬純秀とは二度ともに戦い、その際に村田右衛門尉・町田新左衛門尉らが戦死し、忠元自身も脇に矢傷を負ったとする。
永禄十年十二月廿九日 / 冊子 177頁
永禄十年十二月二十九日、市山城将の市来家利・伊集院久慶らが西原で菱刈隆秋方と戦って戦死したため、馬越城にいた新納忠元が市山城守備を命じられたことを記す。忠元には蒲生の采邑が与えられ、大口城を落とした際には地頭とする旨も伝えられた。
永禄十年十二月廿九日以後 / 冊子 177頁
菱刈方が大口城一城を保持し相良勢が入って堅固に守っていた時、新納忠元が市山城の番を命じられたことを記す。忠元は当時小身であったが貴久の直命を受け、蒲生の蔵入地を与えられて馬越から市山へ移り、守備を勤めた。
永禄十年十一月以後 / 冊子 177~178頁
新納忠元が馬越城で四度の槍合わせを行い、狩俣で負傷したことを回想する。馬越城陥落後も大口城が球磨勢の加勢で持ちこたえたため、市山城の守備を貴久から命じられ、蒲生の知行を与えられた。大口が島津方へ入った後は地頭に任じられ、長年その職を勤めたとする。
永禄十一年二月廿八日~三月廿三日 / 冊子 192~193頁
永禄十一年二月二十八日、小苗代原で敵が不意に出た際、新納忠元が薬師堂の板に詩句を書き終えるまで動かず、家臣久保勝八に引き退かされた直後、竹添丹後守の鑓で左脇を突かれた逸話を載せる。忠元はなお敵三人を討ち、自身も六箇所の傷を負ったため、貴久から使者を通じて感賞と見舞いを受けた。三月二十三日の曽木・市山攻撃では、未平癒ながら出陣し白坂と永福寺口の守備を指揮した。
永禄十二年十二月廿日 / 冊子 193頁
菱刈四郎が曽木を差し上げ、現地の知行がまだ落ち着かない状況を受け、島津氏老臣三名が新納忠元の以前からの奉公を上聞に達したと伝える連署状。その忠節への褒賞として花北一所をまず与える旨を早々に申し渡し、追加扶持も上意によるとして疎略のないよう求める。
永禄十二年三月~元亀元年六月 / 冊子 214~215頁
羽月城救援後、新納忠元・肝付兼寛が島津家久と相談し、永禄十二年五月六日に戸神尾・稲荷山・白木河内へ伏兵を置いた。家久が兵糧輸送を装って敵を誘い、前後から挟撃して百三十六首を得た。八月の大口包囲と九月の降伏後、忠元は大口地頭・菱刈両院惣押となった。さらに喜入季久の家存続を願う伊勢・愛宕への立願、忠元のもとへ飛来した鎌を祀る飛諏訪大明神、菱刈両院の地理・名称由来も記す。
永禄十二年十二月廿日 / 冊子 229~230頁
菱刈四郎が曽木を差し上げ、当面の在所が定まらない状況について上聞に達したことを、新納忠元へ伝えた老臣連署状。忠元が以前から尽くした奉公への賞として、まず花北一所を与えるよう上意があり、追って加扶持も行うので速やかに伝達するよう命じる。
永禄十二年十二月廿日 / 冊子 241頁
本文はNo.531と同文のため省略される老臣連署状。菱刈四郎が曽木を差し出した後の処遇と、新納忠元の奉公への賞として花北一所および追って加扶持を与える上意を伝える内容である。
元亀三年五月四日 / 冊子 266頁
元亀三年五月の木崎原合戦で、新納忠元が大口から兵を直ちに差し立てて島津義弘を援けたとする。後日、飯野城移徒の祝席へ向かう途中で盗賊を討ったため遅参した忠元に対し、義弘は事情を聞いて賞賛した。また祝いの席で火に通じる名を避けた刀を用いた心配りから、武事に限らず万事に配慮する人物と重ねて褒めたという逸話を載せる。
天正元年二月~三月 / 冊子 299頁
肝付兼続と禰寝重長が長年島津氏に敵対するなか、島津義久が宝持院に八木昌信を添えて密かに禰寝へ送り、重長に肝付方から離れるよう説かせた。続いて天正元年二月、新納忠元・伊集院久治・上原尚常も渡海して説得し、二十一日に三使が、二十六日に義久と家老衆が誓紙を渡した。重長は三月に降参し、島津軍とともに肝付氏を攻めた。
天正元年二月廿一日~廿六日 / 冊子 299頁
天正元年、島津義久が宝持院・八木昌信を密使として禰寝重長を説得し、二月には新納忠元・伊集院久治・上原尚常を重ねて派遣した。忠元らは肝付方を離れて島津氏へ降ることが後栄になると説き、重長は応じて二十一日に三使と、二十六日に義久と盟約し、領地を挙げて降参した。
(元亀四年)九月廿五日 / 冊子 316頁
新納忠元が相手の使者高橋氏に十分な応対をできなかったことを詫び、肝付方から寄せられた懇切への謝意を述べる。自身の落馬事故を心配する問い合わせに対し、不思議に命は助かり、まだ本調子ではないが次第に快方へ向かっているので、必ず面会したいと伝える。