細川忠興譜
年月日未詳 / 冊子 723頁
元和六年、徳川秀忠が播磨国大坂城の築造を進めた際、細川忠興に本営の石垣築造を命じたことを記す譜記事。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 723頁
元和六年、徳川秀忠が播磨国大坂城の築造を進めた際、細川忠興に本営の石垣築造を命じたことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 772頁
島津家久が六月二十七日に大坂へ着岸し、将軍の命によって翌二十八日早朝に大坂を発って江戸へ向かったこと、関西諸侯が大坂城修築を命じられる一方、薩摩国はその役に加わらなかったことを記す系譜記事。
〈寛延四年〉十月四日〔目録:九月二十八日〕 / 冊子 332~337頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0983
平田靭負正輔・市来左中政方が六家老へ、太守・隅州の有徳院遺物拝領後の御礼について、江戸での相談と書状・使札の提出経過を報告する。加賀守から名代御礼についての照会がないため、留守居を通じて御用番酒井左衛門尉へ申し上げ、山澤小左衛門を取次に遣わした。国元在住の拝領者には名代御礼の例がなく、上使の差図もないまま、有徳院の隠居祝いの拝領例だけで処理するのは不足があるとして、堀田相模守へ内談した。留守居が御用人浅井八兵衛から、御用番の出勤を待って礼使札を差し出す扱いを聞き、赤松甚右衛門にも申し合わせた。甚右衛門は病気で参上できず、小左衛門が佐久間源太夫へ事情を伝え、先月十五日に相模守へ内談する手はずを整えたが、浅井八兵衛の内用のため進まなかった。そこで倉次甚太夫にも相談し、十七日付の手紙と十九日の来訪を経て、御用番の差図どおり名代で勤めることになったと報告する。 名代が登城して御礼するのか、廻勤で済むのかについても堀田側と相談した。隅州が病中のため、在府の加賀守が両丸へ登城し、老中へ廻勤する扱いとし、似寄りの例書を添えるよう八兵衛から伝えられた。当分出勤しない酒井左衛門尉・秋元但馬守への御礼は差し控え、出勤後に改めて勤める。大納言への御礼も御用番へ申し上げて済ませるという。有徳院遺物の両殿への拝領について本多伯耆守へ提出した書付一通と例書一通、隅州から大納言への御礼についての書付一通と付紙の扱いを挙げる。加賀守父子の名代については先に願い、御用人を通じて登城を要しない廻勤の差図を受けた。先月二十五日の書状提出、翌二十六日の加賀守の老中・上使側への廻勤、若年寄への菱刈孫兵衛の使者、側衆への表方・隠居方それぞれの使者を記す。 太守・菊姫の遺物拝領に隅州から謝礼する連署書状一通について、本多への提出と受け取り、秋元宛書状が西丸用務のため登城しなかったこと、西尾隠岐守宛書状の提出、元で整えた連署書状と御右筆の案文を挙げる。太守・菊姫の拝領に対する奉書一通、隅州から大納言への謝礼に関する同一通、本丸の老女五人から隅州への返事六通も報告する。隅州の公方・大納言への御内証の御礼は名代使札で決めにくく、国元で文面を整えるよう伝えられた。八月二十一日付の御文と御案文、御礼文の八月九日・九日付、使札の八月二十一日付に相違があるため、御文を案文として扱い、双方を相談して調え直した。先月二十六日に御守殿から提出した御文はその日に返事が下り、女使の口上と春井の取次を経た。二十七日には春井から添文付きの御文六通を提出したという。 太守の御頂戴がまだ済んでいないため、七月十日の拝領として差し出す御礼文の扱いを佐々木に尋ね、差し支えないとの返答を得た。隅州の御礼文は御右筆が提出し、国元の御案文も添える。日付の異なる案文と調え直した文面を送って、国元の心得とする。京都諸司代・大坂城代への通知は、隠居祝いの拝領時の例に従って調えるよう使番へ申し渡したが、先例が見当たらないため、近衛その他への通知とあわせて相談する。日光宮・御三家・御一門への通知は、太守の御礼が済んだ時に使番へ申し渡すよう求める。隅州の御礼が済んだことも伝え、別紙九通を送るとして結ぶ。末尾に十月四日の朱記と、平田靭負・市来左中の名義、六家老宛名を掲げる。
天明七年十二月十四日(年は朱書) / 冊子 1004・1005頁/原整理番号 2704/整理ID 2704
先月十五日の月次御礼は前日に大目付へ書面で命じられ、当日太守が登城して御礼を済ませた後、目付から桜の間で松平伊予守とともに呼ばれ、老中が出席し、御用番に代わって水野出羽守から御縁女の件を伝えられたと報告する。近衛家の養女を命じられ、結納は来春、婚礼は来々年の酉年中とすること、御縁女を姫君様と称することが通知された。太守は喜んで退座し、後に老中・若年寄・留守居・側衆へ表方の使者で祝意を伝えた。京都所司代・大坂城代には御書を送り、中将からも御用番に留守居を遣わして祝儀を伝えた。また同じ内証・確認の上、両殿からの文言をもって姫君に祝意を伝えること、将軍の書状に種姫への祝意が書き入れられたこと、関係者が出仕して大奥ほかへも伝えたため当面改めて祝い知らせる必要はないことを報じる。これらを承知して女中へも伝え、通達等を適切に取り計らうよう求める。水野出羽守が通知した趣旨を留守居が書き取って提出したため、見合として別紙を送るという。
天明三年十二月十八日 / 冊子 714頁/原整理番号 2022/整理ID 2022
鳥居忠意が松平薩摩守に宛て、公方様・大納言様の御勇健を伝える。十月十一日夜、大坂城の追手大御門と御多門が雷火で焼失したことを聞いて御機嫌を伺った書面に対し、御安全なので安心するよう答える。書面の趣旨は言上したと記す。天明三年十二月十八日付、鳥居丹波守忠意判。重豪公御譜所収、正文は文庫にあるとの注記を伴う。
天明三年十二月十八日 / 冊子 714~715頁/原整理番号 2025/整理ID 2025
松平康福が松平薩摩守に宛て、公方様・大納言様の御勇健を伝える。十月十一日夜、大坂城の追手大御門と御多門が雷火で焼失したことを聞いて御機嫌を伺った件に対し、御安全なので安心するよう答える。書面の趣旨は各申談のうえ上聞に達したと報じる。天明三年十二月十八日付、松平周防守康福判。前掲と同じ出典の独立した書状。
年月日未詳 / 冊子 40頁/原整理番号 133/整理ID 133
中山王の信使読谷山が儀礼を終え、尾張宗睦・紀伊宗将・水戸宗翰・徳川宗武・宗尹・重好、台老、京都所司代、大坂城代、若年寄以下の諸官から、それぞれ謝礼への贈物を受けた。十二月十一日に琉使が江府を発ち、川田伊織国福・島津登久運・関山新左衛門金郷・本田六左衛門親相を護送に付けた。東海道・美濃路を通り、閏十二月四日に大坂へ到着、九日に大坂を発って舟で西海へ向かった。翌年正月廿八日に薩州久見崎港へ入港し、二月四日に薩府へ着いた。その後、琉人は順風を待ち、舟で南帰した。琉球への到着日は記さない。目録は記事、出典は全御譜中。
明和七年五月十一日 / 冊子 253~254~255頁/原整理番号 682/整理ID 682
太守様の再縁願書を松前主馬が御用番板倉佐渡守へ差し出し、滞りなく受け取られた件は三月二十八日の桂織部・嶋津仲の便のとおりとする。今日、佐渡守から主馬が呼ばれ、別紙書付写のとおり命じられて太守様が承知したため、老中と田沼主殿頭へ礼に回る予定だったが、脚痛のため名代の島津式部から伝えた。若年寄へは左中を、側衆へは物頭を使者として礼を伝えたという。内証からは女使をもって公方様・大納言様・御臺様へ礼を申し上げ、民部卿様・日光御門主様・御三家その他、知らせるべき人々へも使者で伝えた。京都諸司代・大坂城代等へは京都・大坂留守居の使者で知らせ、今日の便で使番へ伝え、江戸に当分いる長崎奉行へは使者、在勤の奉行へは付人からの使者を出すよう命じた旨を、同役へ知らせるよう求める。浄岸院様には太守様から側用人を使者として願いのとおり命じられたことを伝え、将来は浄岸院様から甘露寺家へ知らせ、太守様の表向きの報知と同様、京都留守居の使者で伝えるという。礼の献上物の控書は先例に従って添付し、追って知らせるとする。於綾の大坂出立についても佐渡守から命令があり、今日京都へ伝えた。大坂へはまだ知らせが届かず、甘露寺家の取計らいの返答時期は計りがたいが、相手方へ伝達後、その報知を承知して大坂を発つ予定で、京都留守居から先に申し伝えるよう求める。於綾の名と字等は別紙のとおり「御順様」と命じられたので国元にも伝える。役人・諸士は即日祝儀を申し上げ、残る者は明後十三日に行う予定で、国元の祝儀はその後の使便で報告し、御守殿その他への祝儀も先例に従って相談・通達するよう求める。於綾が江戸へ着く日は着到の一通の祝いとし、結納・婚姻は軽い式で行うとの意向で、婚姻日は来月二十一日の吉日とする。その前の精進日間までに到着する予定を御女中様方へ伝え、広め方と隣国への報知も先例に従って整えるよう求め、到着当日と婚姻次第書、祝物の取替えは追って知らせるという。本日の飛脚は大坂まで極急、そこからも急いで送るよう命じた。仰渡書付写一通・通達写三通を添え、五月十一日付、樺山左京・島津左中の二署と喜入主馬殿・小松帯刀殿・川田伊織殿宛を備える。
天明六年十月(触書十月二十四日・添状十月二十五日) / 冊子 900~901頁/原整理番号 2469の29/整理ID 2469-29
中陰明けに当たり、松平加賀守・溜詰・松平越前守・国持大名と庶流・四品・十万石以上・所司代・大坂城代に、在江戸・在国・在所を問わず二十八日に肴一折ずつ献上させる。鳴物は所作をする者も含め二十八日から許し、同日に総出仕を命じる。大目付が水野出羽守の書付写三通を松平薩摩守留守居へ送り、回答等は松平対馬守へ伝えるよう付記する。
天明七年三月二日(年は朱書。前月二十七日の許可を報告) / 冊子 950~951頁/原整理番号 2588/整理ID 2588
中将が隠居後も持病がすぐれず、国許の温泉での入湯と仕置の補佐のため、およそ一年の暇を願い、許可されれば三月中に体調次第で出立したいとの願書を太守が差し出した件は前便で知らせたと述べ、その後を報告する。前月二十七日、用件があるため四時に登城するよう命じる老中連名の奉書が前日に到来し、請けを伝えた。当日五半時に太守が登城し、奏者と会って儀礼の手順を習った後、白書院縁頬の鯉の杉戸に寄り、井伊掃部頭と老中列席のもと、御用番水野出羽守から中将の国許への暇を願いどおり許す旨と拝領物の伝達を受けた。書付を直接受け、礼を述べ、羽織三領を頂戴し、重ねて礼をして退城した。直ちに桜田屋敷に入り、大老方へ回勤して中将の謝礼口上を伝え、若年寄へは留守居を、御側衆へは両殿から表方の使者を遣わして礼を伝えた。一橋・御三家をはじめ一門へ通知し、京都所司代・大坂城代へは太守から当日の便で書状を送り、近衛その他への通知は留守居へ申し付けた。内証からは御縁女へ太守・中将それぞれの文で謝礼し、種姫へは上様への文の中に内書を入れて礼を述べた。中将から明姫へは側役の文で通知し、鏡松院・於千万へも文を送った。長崎奉行・隣国・佐土原への知らせは先例どおり扱うとする。当日の月次礼に列した面々は席上で両殿へ祝儀を述べ、従来大奥へ祝儀を申し上げる者は通常どおり申し上げた。国元の祝詞も相談して取り計らい、明姫方の女中衆へも知らせるよう求める。願いどおりの許可と拝領を重ねて喜び、自分たちの祝詞は後の使便で述べるとして、交付書付の写し二通と留守居書付一通を添える。三月二日、島津登・市田勘解由・島津伊賀が連署し、国元の五名へ送る。
(天正16年)4月26日~8月 / 冊子 388頁
島津義弘が四月二十六日に領国を発ち、五月二十三日に泉州へ着岸、六月四日に大坂城で豊臣秀吉へ謁見した経過に続け、八月に帰国を許された龍伯と在京の娘との別離を記す。龍伯は親子の別れを和歌に詠み、細川幽斎が返歌した。幽斎がその歌を秀吉に披露すると、秀吉は涙して娘にも帰国を許したため、龍伯が歓喜して謝礼したという。上洛・人質・和歌が政治的帰結を動かした劇的な譜記事。
年月日未詳 / 冊子 398頁
天正十六年六月十四日、都城を発って上洛した北郷忠虎が大坂城で秀吉に拝謁し、義弘・細川幽斎・筑紫広門らとともに湯漬の饗応を受けた。 秀吉は東山に造営中の大仏殿へ巨大な柱二本を献上するよう命じ、忠虎に帰国を許した。九州大名・国衆が上方政権の造営事業へ動員されたことを示す記事。
年月日未詳 / 冊子 399頁
天正十六年六月四日、義弘が大坂城で秀吉に拝謁し、侍従への任官を命じられた後、湯漬の饗膳を賜った。 宴席の座順を記すほか、秀吉が東山に造営中の大仏殿へ巨大な柱二本を献上するよう命じ、義弘を帰国させた経緯を伝える。
年月日未詳 / 冊子 374頁
島津家久が暇を賜って帰国するにあたり、本田六右衛門尉を大坂城へ使者として立てたことを記す。出船後に帰国の旨が秀頼へ伝えられると、秀頼は大いに喜び、さらに駿馬と鯨毛を贈ったとし、委細は続く義弘の書状に記されるとする。
(慶長五年)七月二日 / 冊子 549頁
島津惟新が少将殿に、内府の使者山口直友の命で小伝次兄弟三人と伏見で面会したことを報じる。源二郎母と子供三人が帰国を望み、源二郎も同意していると聞いたが、母が大坂城へたびたび推参して内府へ直訴したため早急な帰国を命じられたと説明する。帰国後に国人を惑わせ源二郎の心変わりを招く懸念はあるものの、上方に置けばさらに問題が深まるとし、兄弟の一人を当地に留めたい意向を伝える。
年月日未詳 / 冊子 663-664頁
島津方の人質を退去させる手形がないため、使僧を大坂城へ遣わした。仙秀坊は島津義弘(兵庫頭・惟新)が豊臣秀頼のため関ヶ原で戦死したと申し立て、人質を国元へ下すよう求め、返答が出るまで一日一夜城に詰めて手形を得た。出立時には後に残る者が必要となり、山田弥九郎が残留を申し出た。
(慶長十九年)九月廿三日 / 冊子 550頁
大仏供養をめぐって徳川家康の機嫌が悪化し、大坂城明け渡しなどの条件が持ち出された情勢を伝える。片桐且元が駿河へ使者として派遣されたことを述べ、家久にも使者を差し向けて協議し、急ぎ対応するよう求める秀頼書状。
(慶長十九年)九月廿三日 / 冊子 550~551頁
秀頼の書状を高屋七郎兵衛に持たせたことを知らせ、大坂城をめぐる急迫した交渉について家久の判断と援助を求める大野治長の添状。使者から詳しく聞くよう伝える。
慶長廿年六月十一日 / 冊子 588~591頁
大坂夏の陣の戦況を記した文書。五月六日に後藤又兵衛らが討死し、伊達勢と眞田左衛門(真田信繁・幸村)が戦ったこと、翌七日に大坂城が落ち、秀頼・淀殿らが自害したことなどを詳述する。なかでも眞田を『眞田日本一之兵、いにしえよりの物語にも無之由』と評し、古今に例のない勇将として高く評価している。戦後の城内・首級・捕虜の状況、諸将の動向や恩賞・処置についても記す。
年月日未詳 / 冊子 591頁
大坂城を中心に東西南北の諸口と徳川方・豊臣方諸将の陣所・攻撃方向を配置した、大坂夏の陣の城攻め絵図。
寛文五年二月六日 / 冊子 500頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1104
阿部忠秋が島津光久へ、先月二日に大坂城天守が落雷で焼失したと聞き驚いたが、御殿・櫓などには別条がないことを承知した旨を伝えた書状。
〈寛延四年〉七月十六日 / 冊子 316~319頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0938
平田靭負正輔が七月十六日、主殿久柄・伊勢兵部貞起・義岡相馬久中・主鈴久郷・鎌田典膳政昌・河野八郎左衛門通興へ、有徳院の遺物拝領と謝礼について報告し、国元の指示を求める。十日に上使小出信濃守から、太守・隅州へ脇差各一腰、菊姫へ御手鑑一帖が授けられ、同日の飛脚で知らせた。刀の外箱を整え、御馬廻川上喜藤太、新番荒武蔵右衛門、御歩行五代喜左衛門、愛甲嘉兵衛、足軽八人を付け、護送に差し立てた。川々の渡しを慎重に扱い、佐屋経由では日数を定めず油断なく参着するよう申し合わせた。 両殿は在国のため、取次の小左衛門・長澤牛兵衛を通じ、加賀守忠雅の名代御礼と上使への礼使札を相談した。十日に小左衛門が参上し、上使の書状を受け取り、両殿の謝礼使者について加賀守が承知したと伝えたが、牛兵衛の説明に食い違いもあり、翌朝七時ごろに改めて確かめた。遠国在住の両殿へ上使が遺物を授ける例は家中になく、謝礼は今後の家格に関わるため、御一門から名代を頼み、老中・若年寄などへは名代が廻勤し、側衆・物頭へは使者で御礼すること、国元でも先に定めた名代御礼の筋を通すことを求める。留守居と星野久務に内談し、平田半之丞・赤松甚右衛門の連絡も挙げ、上使への挨拶で誤解を生じないよう相談する。 さらに、両殿の名代御礼の節に京都諸司代・大坂城代へ通知するか、長崎へ留守居の使者と書状を送るかを尋ねる。十一日に小左衛門を通じ、御用番酒井左衛門尉から太守・菊姫・隅州の御礼を記した御付紙を渡す旨を聞き、御付紙の銘と書付二通、留守居の首尾書一通、佐々木の案文二通を送る。菊姫の表立った謝礼は御用番へは不要とされたが、御留守居から申し出た扱いと松平右近将監・上使への謝礼を照会し、深姫にも言及する。日光宮・御三家・御一門その他へ拝領を知らせるため、使者を通じた通知と隣国への伝達を相談する。末尾に印鑑一枚と別紙五通を送ると記す。
天明六年二月 / 冊子 853~854頁/原整理番号 2352/整理ID 2352
重豪は、大老井伊掃部頭、老中、所司代・大坂城代、若年寄、御側衆への金馬代と、両御丸女中への別段の贈物は従来どおりとし、そのほかの幕府役人への贈物を相応に減らしたいと伺う。
文政5年10月17日(主日付)/11月22日(朱注・目録。関係留保) / 冊子 635~636頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1880
町田監物から川上美濃・嶋津安房・新納内蔵への書状で、本文各所に朱書の応答注を持つ。水野出羽守が十一日に留守居を呼び出し、明後十三日の吹上見物は登城せず直に吹上へ来るよう伝えた経緯から、御庭見物・料理・鷹羽合・拝領が滞りなく済み、暮方に退いたことを述べる。両御丸老中へは九鬼靭負が名代として御礼に回り、太守は翌十四日に老中へ御礼、若年寄へは留守居、側衆へは表方使者を通じて礼をしたという。近親への知らせは使番が取り計らい、在府中の京都所司代・大坂城代へは留守居使者で済ませ、近衛ほかへの通知は今日便の使番から留守居へ問い合わせたと記す。卯年の御目見例による三殿・若殿・諸士・奥向の祝儀取扱いを相談し、佐土原への通知、中山王の承知、隣国への知らせの相談にも触れる。達の本書を右筆へ渡し、写と留守居首尾書等を送り、内輪の祝詞等は使番が取り計らうと結ぶ。主日付は朱文政五年十月十七日、町田署には「上」、日付前に十一月二十二日、三名宛前に「下」の朱注がある。目録は十一月二十二日・三家老連署返書としており、本書と朱応答注・返書との関係は留保する。
5月/5月16日通知/6月4日伝達/亥6月6日取次 / 冊子 298~299頁/原整理番号 419/整理ID 419
四内容の雑集。第一は尾張前大納言を、公方の京都滞在中の政事補翼に叡慮によって命じたとする五月の通知。第二の覚は、将軍が去月十一日に大坂へ赴き摂海岸等を巡覧し、十一日暁九ツ半の供揃で大坂城を出て陸路二条城へ暮六時前に還御したとの注進を載せる五月十六日通知。第三は公義の別紙貳通を組中・支配中・諸郷へ漏れなく伝える六月四日の家老座印・御勝手方の通知。第四は同旨を支配中へ伝える亥六月六日勝手方印・向井新兵衛取次注。尾張の任務・将軍行程・領内伝達を分け、原時刻や去月の記載を推定で書き換えない。
慶応3年10~12月の家譜記事/12月9日任命・12日慶喜移動 / 冊子 423頁/原整理番号 600/整理ID 600
島津氏家譜の記事。慶応三年十月に慶喜が政権奉還を上書し、その意は「上ヲ要スル」にあると評価する。朝廷が許して急に茂久を京師へ召し、十一月には茂久が大兵を率いて京都へ赴き不虞に備え、十二月九日に議定となり諸藩と九門警衛を命じられたとする。政権が朝廷へ帰って大きな改革があり、摂関・幕府・議奏・武家傳奏・守護職・所司代等を廃し、総裁・議定・参与の三職で諸政を扱い、言路を開いて人材登用を急いだが、変革が多端で物情が混然としていたと記す。十二日夜に慶喜が二条城を出て大兵を率い大坂城へ入ったと結ぶ。動きと制度改革、慶喜の意図や社会の評価はいずれも家譜の叙述として示し、他の履歴の十四日夜の表記に合せて日付を統一しない。
二月六日 / 冊子 484頁
先月二日に大坂城天守が落雷によって焼失したとの報に島津光久が驚いたことを受け、御殿や櫓には異状がないと伝え、その入念な見舞いを披露すると返答した阿部忠秋書状。
天保十五年正月廿一日 / 冊子 510~511頁
大坂城内の襖に貼られていた島津家久筆の豊臣秀頼宛返書が、張替え時に長州留守居へ渡り、のち大坂留守居高崎金之進を経て島津斉興へ献上された来歴を記す。表装後に国元へ持ち帰った重宝を御記録所で保存するよう命じた書下。
慶長19年9月23日 / 冊子 169頁/原整理番号 84の3
大坂城・屋敷や市正・駿府との折衝状況を問い、事態が不調なら急ぎ返事し、道中を急ぐよう求める豊臣秀頼書状。高屋の口上を介して事情を伝え、慶長19年9月23日付の秀頼黒印で薩摩少将に宛てる。
慶長五年八月十六日 / 冊子 251~252頁/原整理番号 4
島津義弘が、幸侃の妻が大坂城で島津領内の事情を悪く語っていると報じ、上方から早く差し戻すべきだと述べる書状を引く。季安は幸侃の家族の動きとして前後の記録と照らす。
巻六/冊子 95~100頁
大坂の陣に際し、豊臣秀頼が家久へ援軍を求めたのに対し、島津家が徳川方への忠節を選んだ経過を記す。慶長十九年、大仏供養をめぐる家康との対立から、秀頼・大野治長らは家久に上洛を促し、重代の正宗脇指まで贈って加勢を求めた。義弘は、秀吉によって九州の所領を削られた過去と、関ヶ原後に家康が島津領を安堵した恩を比較し、家康へ従うべきだと説く。家久はその意見を受け、豊臣家への旧恩を認めつつも徳川への多年の恩義に背けないとして脇指を返した。冬の陣では出兵準備中に大坂と徳川方が和睦し帰国する。翌慶長二十年、再戦の報を受けて家久は一万三千余を率いて上洛を急ぐが、途中で大坂城落城、秀頼・淀殿・大野らの自害を知らされる。家久は尼崎から伏見へ赴いて家康に謁見し、参陣の遅れにもかかわらず労われ、馬を賜った。大坂浪人が秀頼生存を称して加治木へ来た事件では、義弘が警固を付けて京都へ送る。元和二年の家康死去までを記し、島津家の徳川政権への最終的な帰属を示す記事である。
年月日未詳 / 冊子 921-923頁
得能氏記録は、慶長八年の年頭に諸大名が伏見・大坂で徳川家康と豊臣秀頼へ賀礼したことや、島津家への加増を記す。さらに関ヶ原後に薩摩へ潜伏した宇喜多秀家の発見・出頭、島津忠恒による助命嘆願、駿府移送を経た八丈島配流の経緯を詳述する。
(慶長五年)九月朔日 / 冊子 572~573頁
長井利貢が伊地知勝左衛門尉らへ、大坂では諸大名屋敷の門番が厳しく、人の出入りや帰国用の船・帆道具にも支障があると報じる。七月晦日夜から八月朔日にかけて松之丸や石田屋敷へ内応者が入り、本丸が落ちたこと、伏見城を守った鳥居・内藤・松平の三名、石田方の動き、伊勢方面の城と大坂城内の騒ぎなどを伝える書状。
年月日未詳 / 冊子 567頁
家久から義弘への十二月十五日付書状の抜書。大坂城内では米一石が銀百二十目となり、籠城した町人・百姓らが困窮して後悔しているとの情報を伝える。
年月日未詳 / 冊子 614頁
大坂城の逆徒が琉球へ逃亡した場合は、速やかに捕縛して日本側へ引き渡すよう、中山王に命じた島津家久譜の記事。
〈宝暦四年〉正月十五日 / 冊子 432~436頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1337
国元の伊勢貞起ら六名から島津主鈴・主殿への返書。原本はNo.1336の長文に行間の朱書として返答を収め、末尾に正月十五日の朱日付がある。国元六名から島津主鈴・主殿への返答として、惣奉行・添奉行等の派遣準備、京都所司代・大坂城代及び長崎・近隣への通知、京都・大坂での借入と国元の出金を承知した旨を記す。中馬源兵衛の派遣を記す返答もあり、借入を急ぐ指示への対応が読み取れる。最後に命令書写三通・問合書一通・首尾書六通を受領し、照会・打合せを急ぐと返す。
宝暦十二年二月二十三日 / 冊子 906~907頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2664
高橋縫殿と菱刈藤馬が二月二十三日、道中の島津左中・主鈴へ、前夜に秋元但馬守から留守居の出頭を命じられ、佐久間源太夫が、翌日は重豪の名代として一類の一人を登城させる旨の書付を受けたと報告する。名代の島津淡路守は本丸白書院で、御守殿・居宅の類焼を受けて金二万両を貸し、返納は勘定奉行と相談するとの申渡しを受け、受領の手続きも勘定奉行へ照会するよう伝えられた。名代による礼は不要とされたが、重豪の礼、淨岸院への礼、内證からの礼、京都所司代・大坂城代等への通知を相談し、重豪からの使者と文面を求める。御守殿から溜池・三田にも知らせるよう指図があり、他家にも例のない貸金であり、表立って願い出たものではなく御縁による恩恵として喜び、家老・江戸詰からの祝儀は後に申し上げるとして、付書二通・届書一通・留守居の首尾書四通を添える。
正文年月不記/去る3日・今日7日の戦闘経過への言及 / 冊子 423~424頁/原整理番号 601の1/整理ID 600-1
慶喜の大政返上・将軍職辞退を朝議で受け入れたが、名義だけでは朝廷が土地人民を保って聖業を立てられないため、尾越二藩から実効を問うたとする沙汰。慶喜は畏れ入っても麾下と会桑が従わず乱の恐れがあると述べ、大坂城へ引き取って寛大な処置を命じた後、三日に会桑を先鋒として朝廷へ反した兵端を開いたと非難し、早い鎮定を求める。仁和寺宮の将軍任命を記し、従った者にも悔悟・忠誠があれば許容の道を示す一方、賊と通謀したり立場を曖昧にする者は朝敵同様に扱うと命じる。但書は征東大将軍の任命と今日七日の敗走報を伝え、各藩が方向を定め天下へ奉公するよう求める。非難・罪責判断と戦況は沙汰の叙述として示し、処分の実施済件数へ読み替えない。
系図記事:明治元年戊辰正月3~29日 / 冊子 455~456頁/原整理番号 625/整理ID 625
忠義公系図の記事として、明治元年戊辰正月三日の鳥羽・伏見での戦闘に至る慶喜の辞職、会津・桑名等の下坂と奉行所滞在、諸藩警衛を記す。当藩の小隊・大砲隊・遊撃隊について鳥羽と伏見の配置、増援、四日の進撃、五・六日の追撃と淀・橋本方面の動き、七日の楠葉進出と諸隊の大坂下り・京都帰還を日ごとに列挙する。慶喜の江戸逃走、九日の大坂城火災、十日の仁和寺宮入坂を続ける。十二日に茂久が召されて参朝し、引用勅書で軍功を賞され、剣一口と陣亡者への金五百圓などを賜ったと記す。十五日の天皇元服とその翌日の茂久の参賀、太刀一腰・御馬代銀二十枚の献上、十八日の海陸軍務惣督任命と辞任、十九日の姫路征伐・二十一日の明石到着と姫路降伏、二十二日の帰還、二十五日の金二万両、二十九日の松平姓から本氏島津への復姓と忠義への改名を収める。評価と勝利叙述は記事に帰属し、隊番号・隊数・賜物の対象と原単位を分ける。
年月日未詳 / 冊子 317頁/原整理番号 286の1
京都所司代板倉重宗・大坂城代阿部正次らが島原一揆の飛報を受けた伊地知季安の記事。四国・中国・九州の守相への廻状、街道・港の警戒と巡回、上使下向時の備えを記す。